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Title 高度成長期における北海道拓殖銀行の都市銀行化過程 : 北海道

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Title 高度成長期における北海道拓殖銀行の都市銀行化過程 : 北海道
Title
Author(s)
高度成長期における北海道拓殖銀行の都市銀行化過程 :
北海道開発・本州進出とビジネス・モデルの変容
白鳥, 圭志
Citation
Issue Date
Type
2007-09
Technical Report
Text Version publisher
URL
http://hdl.handle.net/10086/16064
Right
Hitotsubashi University Repository
高度成長期における北海道拓殖銀行の都市銀行化過程
―北海道開発・本州進出とビジネス・モデルの変容―
白鳥 圭志
(東北学院大学経済学部)
Sep 2007
No.59
1
高度成長期における北海道拓殖銀行の都市銀行化過程
―北海道開発・本州進出とビジネス・モデルの変容―
白鳥圭志
課題と視角
本稿は、1950 年代前半の普通銀行転換以降、1970 年代半ばまでに至る北海道拓殖銀行(以
下、拓銀と略記)の経営動向を、その都市銀行化に伴うビジネス・モデル構築の変遷との
関係から考察することを課題とする。本稿の狙いは時期的には高度成長期を中心にして、
拓銀のビジネス・モデル 1 構築の歴史的変化の特徴を跡付け、各時期別の特徴を明らかにす
ることを通じて、変化の過程を貫く行動様式の特質を析出することである。
本稿の主張の具体的内容は次のとおりである。1950 年代においては資源供給地としての
北海道と本州との関係を踏まえて、北海道地域の開発を促進するビジネス・モデルを構築
した。しかし、50 年代半ば以降における都市銀行化の選択、資源供給地としての北海道地
域の斜陽化の過程において、預金量の増強を中心に規模拡大を図る一方で、他方では、と
りわけ 60 年代半ば以降、本州地域に活路を見出す形で、大企業との取引関係を中心にする
都市銀行型のビジネス・モデルの構築を目指した。しかし、50 年代に既に他の都市銀行が
融資系列を確保する中で、同じ時期に北海道開発に取り組まなければならなかったが故に、
融資系列形成への取組みが遅延したためにその実現を果たすことができず、結局は中小企
業取引を中心とするビジネス・モデルを構築せざるを得なくなった。さらに、70 年代半ば
以降になると、このモデルに基づく貸出先の拡大も都市銀行化に伴う規模拡大策に起因す
る、他の都市銀行を遥かに上回る巨額な遊金の発生という限界に直面した。このことが 1980
年代、バブル期の投機行動、ひいては同行破綻の歴史的前提になる。以上のような一連の
※本稿の作成にあたり、史料収集面で北海道開拓記念館、北海道立図書館、北海道大学付
属図書館、服部泰彦先生(立命館大学経営学部)、伊丹敬之先生(一橋大学大学院商学研究
科 COE 拠点リーダー)、
一橋大学日本企業研究センターから史料収集上の御配慮を賜った。
さらに、鈴木良隆先生をはじめとする「ヒトを中核とする企業システムの形成」
(一橋大学
大学院商学研究科 21 世紀 COE プログラム)の参加者、金融ビジネス・モデルの変遷を巡
る地方金融史研究会における共同研究参加の諸先生からは重要な教示を得た。記して厚く
御礼を申し上げる次第である。本稿は 2005~2007 年度一橋大学大学院商学研究科 21 世紀
COE プログラムからの助成資金による研究成果の一部である。
1 ここでは、さしあたり、収益をもたらす中心的基盤となる取引の構造と定義しておく。な
お、ビジネス・モデルに関する実証研究として、戦前期であるが小川功「有価証券割賦販
売業者のビジネス・モデルとリスク管理の欠落」、
『彦根論叢』
(滋賀大学)第 362 号、2006
年 9 月がある。本稿の作成にあたり、その分析手法などを参考にした。
2
ビジネス・モデルの歴史的変化の過程、あるいは同時に生じた経営環境の変化への不適応
の増幅の過程を貫いていたのは、①都市銀行化過程で組織に定着した都市銀行最下位クラ
スを脱そうとする強迫観念的なまでの上昇志向と、②都市銀行化以降、次第に強まってい
った脱北海道志向であった。本稿ではこれらの諸点の明確化を具体的な課題とする。
研究史を回顧すると、戦後日本の大銀行についての経済史・経営史的研究は、メインバ
ンク・システムや企業集団・融資系列の形成と変容を中心的な論点にして、規制と都市銀
行の環境変化への「適応の限界」を論じる見解も含めて、いわゆる六大企業集団の中核銀
行にもっぱら焦点を当てる形で行なわれてきた 2 。それゆえ、本稿の検討対象である北海道
拓殖銀行をはじめ、都市銀行の中でも周辺部に位置する下位行については殆ど研究がされ
てこなかった。このような中で、戦後の北海道拓殖銀行についての研究としては、同行が
刊行した年史が存在する 3 。しかし、そこでの記述は事実網羅的なものに過ぎず、同行のビ
ジネス・モデル構築は自覚的に検討されていはいない。このほか、1997 年の拓銀破綻の背
景を検討した研究もある。しかしながら、そこでは本州進出戦略について若干の言及があ
るものの、基本的にはバブル期以降の経営戦略についての検討が中心である 4 。経営史的観
点に立つとするならば、バブル期にその後の破綻に至る過剰融資に走らざるを得なかった、
その歴史的前提こそが問われなければならない。このほかの研究として拓銀も含む戦後北
海道開発金融についての検討もある 5 。しかし、そこでの主要検討対象は政策金融であり、
拓銀については 50 年代前半の普通銀行への転換問題が検討されているに過ぎない。
以上のように、これまでの研究では本稿の検討課題の明確化は図られていない。周知の
2
とりあえず、法政大学産業情報センター・橋本寿朗・武田晴人編『日本経済の発展と企業
集団』東京大学出版会、1992 年;岡崎哲二「戦後日本の金融システム」、森川英正・米倉誠
一郎編『日本経営史 5 高度成長を超えて』岩波書店、1995 年;橘川武郎・加藤健太「戦
後日本の企業集団と系列融資」、『社会科学研究』(東京大学)第 49 巻 1 号、1996 年 7 月;
日高千景「銀行:規制下の環境適応の限界」、橘川武郎ほか編『日本の企業間競争』有斐閣、
2000 年など日高氏の一連の諸研究:Masahiko Aoki and Hue Patrick The Japanese Main
Bank system Oxford University 1994 : Takeo Hoshi and Anil Kashyap Corporate
financing and Governance in Japan : the road to the future The MIT Press 2001 を挙げ
ておく。
3 『北海道拓殖銀行史』
、同行、1971 年。
4 北海道新聞社編『拓銀はなぜ消滅したか』
、同社、1999 年。なお、服部泰彦「拓銀の経営
破綻とコーポレートガバナンス」、
『立命館経済学』第 41 巻 5 号、2003 年 1 月も高度経済
成長期の動向も含めて、拓銀の経営破綻について検討している。しかし、同論文の主たる
検討対象はバブル期以降の動向であり、高度成長期についての記述は『北海道拓殖銀行史』
にほぼ全面的に依拠しており、史料を踏まえた経営史的な考察には至っていない。
5 小磯修二『戦後北海道開発金融システムの形成過程』
、財団法人北海道開発協会、2005 年
12 月。
3
ように、拓銀破綻が戦後日本経済史上の最重要事件のひとつであることを想起したとき、
拓銀が破綻への道を選択せざるを得なかった歴史的前提条件を明らかにすることは、それ
なりの意義があると思われる。さらに、このような視点からの検討は、近年、歴史学にお
いて重要視される植民地・開拓地といった周辺からの歴史把握を通じた 6 、中央中心の歴史
把握の相対化の作業にも聊かながらも資するところがあろう。これが本稿における課題設
定の理由である。次に本稿で用いる史料についてである。北海道拓殖銀行の内部史料は、
現在、拓銀の清算法人、および整理回収機構(RCC)に移管されたものと、北海道開拓記
念館に寄贈されたものとに分かれる。本稿では、外部公開史料である『有価証券報告書』、
各種新聞記載の回顧談、ならびに内部史料では歴代頭取関係資料と名づけられたファイル
に合綴された通牒・通達類のほか、第 1 次長期経営計画関連の各店舗に関する業績調査、
各営業期の『行内計表旬報』を用いた。これ以外の内部史料中 7 、拓銀の清算法人、RCC移
管のものは現時点では非公開である。北海道開拓記念館寄贈史料のうち、上記のものを除
く内部史料は、寄贈者である拓銀との契約上、同記念館への寄贈(1998 年)以降、40 年間
非公開とされている。この関係から、本稿でもこれら史料の利用は断念せざるを得なかっ
た。このような厳しい史料利用上の制約に基づき、本稿における分析も制約があることを
お断りしておく。
1. 1950 年代における北海道の資源供給地化と拓銀の経営戦略
(1)1950 年代初頭における資源供給地としての北海道の重要性
ここでは既存の研究に依拠して 8 、1950 年代前半における拓銀のビジネス・モデル形成に
関する分析の前提として、当該期における北海道の資源供給地化について概観する。
敗戦に伴い多くの植民地などを喪失した日本が、経済復興に必要な資源供給地として北
海道に寄せる期待は大きかった。このような中で北海道、ならびに関連各省庁を中心に北
海道の資源開発計画の立案が進められた。その結果、1951 年 10 月に「北海道総合開発計
画及び第一次五カ年計画」が決定された。そこでは、52 年から 56 年の 5 ヵ年間に、1300
代表的見解として大江志乃夫ほか編『岩波講座 近代日本と植民地』第 1 巻、岩波書店、
1992 年の「まえがき」;中西聡『近世・近代日本の市場構造』東京大学出版会、1998 年を
挙げておく。
7 この点については、北海道開拓記念館編『北海道拓殖銀行資料目録・1』
、同記念館、2000
年 3 月、73~77 頁を参照。
8 以下、北海道編『新北海道史』第 6 巻通説 5、北海道、1977 年、327~386 頁。
6
4
億円を投じて、農業、林業、石炭、電力などの主要産業の生産拡大のほか、道路、住宅、
都市計画、港湾、河川、砂防、水産、水道などインフラ整備を図ることが目的とされた。
生産拡大について耕地、乳牛、主食、水産、電力、人口といった主要な開発目標を見ると、
この 5 年間をかけて 51 年度の 128%から 217%にまで引き上げることが謳われていた。
しかし、開発資金投入実績額が 707 億円と計画額の 6 割にも満たなかった結果、計画を
達成ないし超過達成したのは、火力発電の 192%(計画額は 126%)、乳業の 234%(同 217%)
と台風 15 号による倒木の影響で計画を無視して生産拡大をせざるを得なかった用材の
5793%(同 155%)くらいなものであった。この点には留意する必要はある。もっとも、
52 年を基準とする 56 年度の公共事業費の伸びを見ると、全国平均 126 に対して北海道は
162 と大幅に上回っていることに見られるように、この資源供給地としての北海道に対する
期待は極めて大きかったのである。
(2)拓銀のビジネス・モデル
同時期に普通銀行への転換を果たした拓銀もまた、このような時代状況を踏まえた新た
なビジネス・モデルの構築を模索する。この時期の拓銀のビジネス・モデルは次のような
ものであった。まず、第一の特徴は、北海道開発が重要な国策となったことに対応して、
本州に本社をもつ北海道進出企業向けの融資、あるいは北海道からの物資の移出入に対応
するために、本州、とりわけ東京進出を図ることであった。第二の特徴は、本州進出に伴
い相対的に資金取引の供給が疎かになる道内への対策として、一部店舗を新設の地方銀行
である北海道銀行に譲渡・育成することで、この問題を補完することであった。具体的に
は、54 年 1 月から 3 月にかけて福島、松前、木古内、栗沢、由仁、早来、奈井江、当別の
郡部所在 9 支店を、さらに同年 8 月から 9 月にかけて瀬棚、今金、寿都、狩太、虻田、中
頓別、天塩、鬼脇、鷲泊、香深、広尾、足寄、芽室の 13 店舗を北海道銀行に譲渡した 9 。
この点について、1953 年 10 月 16 日付けで出された通牒には次のような記載がある 10 。
第一の点については、次のような記述がされている。道内金融問題は「終戦後わが国にお
ける本道の重要性が加重した現在、本道を本州から切り離して考えることのできない段階
に達していることを思うとき、本州北海道間の物資、資金供給の交流を助長し、経済循環
9
『北海道拓殖銀行史』、320 頁。
以下、注記のない引用と議論は、「企甲第 175 号」経理部長宛 頭取広瀬経一発、1953
年 10 月 16 日。北海道開拓記念館所蔵、拓銀旧蔵文書、『広瀬経一頭取時代』に合綴。
10
5
を促進することにより、道内資金量の増大と需要の円滑化を図るため、国民経済的観点か
ら本道経済の進展に寄与するという立場を加味しなければならない」(中略)「本道金融体
制の確立を期するため上記の基本的立場に立って考えるとき、当行が先般以来実施してい
る本州支店増設の意義も明確になるのである」(中略)「これによつて当行としては、道内
業者の本州業者との取引に当たつても、為替関係等直接的便宜を与えることは勿論、相手
業者の信用状態の判断にも多大の便益を供しうるものと考えている次第であつて、資金量
の拡大的導入と併せ、当行が北海道産業を主体とした立場から講じている道外対策に外な
らないことを十分に御諒承願いたい」。この引用に見られるように、道内業者の本州方面と
の金融取引に便宜を図ること、取引相手としての本州業者の選別に必要な情報を提供を図
ること、これらを通じて資源供給地として重要性を増してきた北海道と本州の「物資、資
金供給の交流を助長」し、北海道開発の進展に寄与することが目的であった。
現に、表 1 によれば、拓銀は 50 年代前半において、本州、とりわけ、東京方面の店舗数
を増加させている。後に広瀬頭取は「二十四年八月、拓銀は三番目の都内支店を築地市場
内に開設した。前例のない公聴会を開けというGHQの命令で、やむなく付近の人々に集ま
ってもらったが、『北海道の銀行が築地に店を出すことはなかろう』と反対する人もいた。
私は『築地市場に入荷する魚の半分以上は北海道から送られたもの。支店開設の正当な理
由はここにある』と反論、やっとできた」と回顧している 11 。このほか、永田元頭取(1947
年 4 月まで在任)も石炭会社に対する大口運転資金融資は本社に貸していたのかとの質問
について、これを肯定した上で「今もそうでしょうね。金融は大体東京です」と回答して
いる 12 。これらの引用から、本州店舗は道内進出企業向け融資、ならびに道内からの移出物
資に関わる金融取引が目的であったことが確認される。このほか、貸出総額に占める道内
貸出の比率に見られるように、この時期には道内での貸出を軽視していなかったことも確
認される(表 1)。さらに、表 2 によれば、この時期の同行の貸出先は、石炭、鉄鋼、林業、
水産関係など道内の主要産業が中心であった。特に、表の原史料には、道内企業、ないし
東京に本店をもつ、道内進出企業に資金融通をしているとある。このことは、上記の永田
元頭取の発言とも整合性を持つ。
第二の点については、上記通牒には次のような記述がある。「次に更に道内における資金
広瀬経一「私の履歴書⑨」、日本経済新聞社編『私の履歴書 経済人 11』日本経済新聞
社、1980 年、272 頁。
12 「永田元頭取座談会記録 テーマ 歴代頭取の経営理念」
、1968 年 9 月 18・19 日、No.
3、拓銀旧蔵文書、
『永田昌卓頭取時代』に合綴。在任期間は『北海道拓殖銀行史』、473 頁。
11
6
需給の円滑化を図るために道内対策として必要なことは道内地元金融機関との提携を密に
し、道内金融の疎通になからしめるとともに、更にこれを助長することである」
(中略)
「道
内金融の円滑化を図るため、地元金融機関は相互にその分野を担当し、提携し、有機的一
体化の体制を整えることが必要である」(中略)「(北海道銀行は―引用者)は昭和 26 年 3
月設立せられて以来、特に道内中小企業金融の疎流を図るために店舗網の整理に努力し、
現在漸く本支店 41 カ店舗を有するに至つたが、当行と緊密な関係を保ち、相互補完して道
内金融の充実に寄与するためには、なお店舗数少なく、初期の成果を挙げるには、なお不
十分な体制におかれている現状である/ここにおいて、当行としては、上記の如き基本的
考え方から地元金融機関の育成には、できる限り協力しなければならないものと考えてい
るので、道内における当行及び道銀両行店舗の合理的配置と営業分野の調整を図るために、
下記のとおり、当行の一部店舗を道銀に委譲し、本道金融体制の確立に寄与せん」とある。
つまり、拓銀が北海道・本州間取引を重視する一方で、道内、とりわけ道内郡部の地方金
融業者向けの融資業務の一部を道銀に委譲することで「営業分野の調整を図」り、相互補
完関係を構築することで、より効率的な金融体制を構築することが目的であったことが確
認されよう 13 。
以上、この時期の北海道拓殖銀行のビジネス・モデルの特徴を次のように総括すること
ができるであろう。資源供給地としての北海道の重要性の増大に対応して、道内-本州間
取引を重視した本州、とりわけ東京方面の店舗増大を図りつつ、道内取引については店舗
譲渡を通じて北海道銀行を育成することで資金供給力の強化を図る。このモデルに基づき、
拓銀は自行ならびに北海道経済の発展を図ろうとしたのである。
2. 北海道開発の変容と拓銀の都市銀行化・本州進出
(1)エネルギー革命と資源供給地としての北海道の地位低下
1950 年代後半になると、とりわけエネルギー革命の影響を強く受けて、資源供給地とし
て北海道の地位は低下する 14 。このことは、1960 年から実施された第 2 次北海道開発計画
の中に見出すことができる。とりわけ、第 1 次 5 ヵ年計画との対比でみると、資源開発が
後景に退き、それに代わって資源を活用する工業立地が中心になった。これに関連する形
13
この点は、
「当行が店舗を譲渡したのは」
(中略)
「当行には道外へ進出できる余力が生ま
れ、創立後日の浅い北海道銀行にとっては、業容の拡大に寄与するであろうと判断された
からである」との『北海道拓殖銀行史』、319 頁の記述からも確認される。
14 『新編北海道史』第 6 巻通説編 5、386~453 頁。
7
で、インフラ整備も農業部門に重点があったものが、道路・港湾などの産業立地条件の整
備が中心に代わった。
もちろん、第 2 次計画でも石炭を中心とする鉱業(計画値 12.0%増)、林業・漁業生産(同
じく農林水産で 5.1%増)の拡大は謳われてはいた。実績も石炭の 12.5%増、農林水産で
9.4%と、総人口(計画 1.5%、実績 0.3%)、第二次産業(同じく 10.5%、10.0%)を除き、
金額面では計画を上回った。しかし、周知のエネルギー革命の影響を受ける形で、石炭に
関しては道内での利用拡大が前提とされていた。このほか生産量を見ると、基準年次(60
年)の生産量 10 百万トンに対して、70 年の実績は 20 百万トンに止まった。この結果、石
炭業は斜陽化が進み、当初計画では雇用者数は 60 年の 111 千人から 70 年には 87 千人への
減少を見込んでいたものが、実績は 53 千人にまで落ち込んだ。林業も同様である。木材生
産高は基準年の 1040 万㎥から 1410 万㎥への増加計画に対して、実績は 1260 万㎥と計画
値を大幅に下回った。雇用者数も 59 千人から 64 千人への増加の計画に対して、実績は 40
千人にまで落ち込んだ。このほか、計画ではその振興が重点化されていた第 2 次産業はセ
メント、用紙を除き生産量は計画を下回った。このようなごく簡単な概観からも、石炭、
農林水産といった中心産業は斜陽化がはじまり、なおかつ本州への資源供給という面での
北海道の位置づけが大きく低下したことが確認されよう。
(2)ビジネス・モデルの変容の開始―都市銀行化の開始と道内経済の変容への対応
時期を同じくして、拓銀のビジネス・モデルも変化を開始する。まず、拓銀が着手した
のは地方銀行協会を脱会して、都市銀行化への道を選択することであった 15 。この選択にあ
たり行内宛に出した文書には「今後、純商業銀行として充実発展を図らんとすれば、どう
しても業務全般に亘つて、全国的な視野と規模を必要とすることは当然であ」ることが述
べられている。もっとも、別な部分には前述のような北海道-本州間の経済循環を促進す
るための都市銀行化であること、それゆえに「全国的規模をもつということは、地域的特
殊性から足を抜くことではない」ことが述べられている。現に、表 1 によれば、道内貸出
の比率は微減に止まる。このほか、表 2 によれば 1960 年まで同行の貸出構成は変わってい
ない。ここから、少なくとも、本文書が出された時点では、北海道から「足を抜」かない
という方針は、そのとおりであったと判断される。
「企甲第 108 号 当行が地方銀行協会を脱会し都市銀行となることについて」、1955 年
11 月 16 日、頭取広瀬経一発、行内宛、拓銀旧蔵史料『広瀬経一頭取時代』に合綴による。
15
8
しかしながら、これに伴い都市銀行として相応しい経営規模の確保が重要な経営課題と
なった。このことは、行内報に掲載された「とりわけ今回達成した『一、〇〇〇億円預金
残、早急実質化と、より一層の増進』が、本年の中心的課題であると考えます。/諸般の
事情から本年こそは、将来に亘つて、銀行間の決定的な経営格差を形成する重大岐路にあ
るものと考えます。一昨年進んで都市銀行入りをした当行の使命は、今後その経営を充実
発展を遂げるには、凡ゆるめんに多大の努力を要するのは元よりでありますが、この重大
なときに当たり、われわれの持つべき心構えは、昨年初頭に制定した行是(上記二重鍵括
弧―引用者)の趣旨に尽きるものと思うのであります」(1958 年 1 月 15 日)、経営規模の
面で「都市銀行末尾に甘んじていることは到底堪え得ない」
(1959 年 1 月 15 日)との広瀬
頭取の行員向け文章からも確認される 16 。都市銀行化を積極的に推進する過程で、北海道-
本州間の経済循環の促進は後景に退き、経営規模の拡大がより一層強調された。
1960 年になると拓銀発の長期経営計画が実行に着手される。その第一の主要目標は、都
市銀行平均預金残高、ペーヘッド預金残高に近づけるべく、その拡大を図ることであった。
内部文書によれば 17 、55・59 の両年について拓銀の対都市銀行預金占有率を見ると、3.56%
から 3.33%に逓減していた。同じくパーヘッド預金残高を見ると、拓銀のそれは都市銀行
平均の 70.7%、74.7%に過ぎなかった。
「此の頽勢を挽回し当行の安定成長を達成するには、
経営全般に亘る長期総合計画をもつて之に対処しなければならない」という表現に典型的
に都市銀行としての上昇志向の強さが確認される。
なお、この時期以降、拓銀が育成対象にした北海道銀行も預金量の増強に取り組む 18 。同
行は島本頭取のもとで 61 年下期末の預金量 48,692 百万円を 62 年上期以降の 3 ヵ年で
100,000 百万円にまで増強する計画を打ち出した。この計画は 64 年下期末に 90,501 百万
円とほぼ達成された。さらに、これ以後も 71 年 3 月末の預金量を 300,000 百万円にする計
画を打ち出し、同年 11 月末に 341,700 百万円とやや遅れて目標を達成するに至った。詳細
は省くが、このような預金増強の動きは 70 年代に入っても継続する。この結果、55 年末、
60 年末、65 年末、70 年末の道内における北海道銀行の預金市場占有率は、それぞれ 10.9%、
16
17
拓銀旧蔵史料『広瀬経一頭取時代』合綴文書による。
「企甲第 118 号
長期 5 ヵ年計画の策定について」、1960 年 11 月 14 日、検査部長宛、
東条猛猪頭取発、拓銀旧蔵史料、『東条猛猪頭取時代』に合綴。
18
以下、道内金融市場における各種金融機関の競争激化も含めて、北海道銀行『北海道銀
行 30 年史』同行、1983 年、78~82・102~108・166~167・177~181 頁。ただし、預金
占有率については、北海道財務局『北海道金融月報』各号より算出。
9
14.6%、20.1%、22.8%と一貫して上昇した。これに対して、同じ時期の拓銀の占有率を示
すと、それぞれ 53.1%、50.8%、48.2%、48.8%と過半数を割るに至る。この時期、道内
の預金市場は拓銀、道銀のみならず、各種業態の金融機関の出店増加を背景に、最大の市
場である札幌圏を中心に預金獲得競争が激化していた。このような中で、道銀がシェアを
伸ばすことで市場において無視できない存在になった一方で、他方では拓銀の道内でのプ
レゼンスは低下した。このことは、拓銀にとって育成対象であった北海道銀行が、預金増
強を図る拓銀にとって重要な競争相手に転化したことを意味する。
第二の主要目標は、既存の貸出ビジネス・モデルを前提とする漸進主義に基づく貸出拡
大である。この点は「(道内支店)/融資は漸進主義に基づき、既往融資先との安定的取引
を継続しつつ、その余力をもつて、新規取引を開拓してゆく方針は従来同様である。但し、
中小企業取引の分野はやや劣勢であつたように見受けられるから、今期はこの面の取引を
多少拡大してゆく可きかと考えている」「(本州支店)/融資は漸進主義に基き、既往取引
先との安定的取引を維持しつつ、その余力をもつて新規開拓をしてゆく方針は従来同様で
ある。また、貸出増加額はかねて御承知の地区別配分を基準としつつ且つ預貸率の改善に
向つて貴店貸出計画を策定すること」との指示内容からも確認される 19 。しかし、このよう
な漸進主義的方針は、円滑には進展しなかった。むしろ、本計画が実行過程に入る中で、
既存の貸出に関する拓銀のビジネス・モデルの変容はより明確になる。つまり、エネルギ
ー転換の影響を受けて、主たる貸出先である石炭、林業、水産といった諸産業の斜陽化が
明確化した。1962 年下期の史料によれば 20 、漁業関連、製材業関連、石炭関連の道内主要
三業種で延滞債権総額 413 百万円の約半分 198 百万円を占めた。地域別に見ると、道内の
金額と比率は 256 百万円・62.1%、札幌、小樽、旭川、函館の主要 4 都市を除く道内の金
額と比率は 188 百万円・45.6%にも達していた。ここからも、既存の貸出ビジネス・モデ
ルが曲がり角に来ていたことが確認される。
もっとも、拓銀のこれら産業への貸付は 62 年 3 月期までは、総貸出残高の比率は食品工
業が 6.5%、木材・木製品工業が 6.4%、鉱業が 6.1%という比率に見られるように、60 年
19
「企甲第 263 号」1960 年 2 月 22 日、検査部長宛、東条猛猪副頭取発、拓銀旧蔵史料、
『東条孟猪頭取時代』に合綴。
20
北海道拓殖銀行『営業店成績概括表
り算出。
昭和 37 年下期』に合綴の「38.3 月末延滞調」よ
10
とほぼ同様の水準を維持していた 21 。その理由について、東条猛猪頭取(当時)は次のよう
に回顧している。「頭取になって間もなくだったねえ。今は立派な会社になったんだけど、
相当に由緒のある会社が非常に困った事態に陥ってね。しかも、うちだけではなく北海道
東北開発公庫とある長期信用銀行とうちの三社がメーンとなってね、三社の首脳部が相談
したことがありましたよ」(中略)
「しかしね、
“エネルギー革命”というのは、当時として
は何とも動かしがたいすう勢よねえ。」(中略)
「私のところのお取引先にも、廃山に追い込
まれたところがありましたよ。それはね、銀行屋がそれに対して、どうこうする、という
ようなオーダー(次元)の問題ではないわけね。だから、銀行としても廃山やむを得ない
ならばできるだけ円滑に、閉山できるように運んでいく」(中略)「やっぱり、道内の地元
の炭鉱というものについて、地元銀行としての立場としてあまり縁の薄い本州系の銀行の
ようなマネはできなかったね」。つまり、北海道の地元銀行として、地域経済に配慮する必
要性があったことがその理由であった。しかしながら、道内産業の再編成の結果、表 1・2
に見られるように、道内における貸出比率、あるいは道内産業関連貸出は減少した。この
ため、道経済との関連を薄める形で本州での貸出を増加させることになった。
さらに、この時期には、本州、とりわけ東京進出を強化していた(表 1)。東条頭取によ
れば、これら配置店舗の狙いは次のようなものであったという 22 。「歴史的に北海道の開発
とともにあることにはゆるぎはないけれども、北海道と本州との物資の交流、それに伴う
.......................
資金の交流というものを見ますとね、貿易では年々大きな移入超過ですわね。従って貿易
........................................
資金に関する限り非常に大きな資金の支払い超過でしょう。サービス面でもそうですわね
.................................
え。しれを結果的に埋めているのが、開発資金その他の財政資金でしょう。しかも、物資
.................
の移出入先を物資の移出入先を見ると東京を中心とする関東が第一ですよ。そして関西が
......................
二番目くらいじゃないですか」(中略)「銀行は資金の流れなんだからこの資金の交流を追
...........................
っかけていくには、まず、関東地区に店を増やす必要がある」(傍点は引用者)。この発言
では、関東地区からの移入超過、開発資金などの財政資金の流入という資金循環構造を踏
まえて、これら資金の決裁を仲介することが強調されている。とりわけ、関東地区からの
21
『北海道拓殖銀行史』、2-3-14 表、422 頁。なお、以下の時期も含めて服部「拓銀の
経営破綻」5~8 頁も本表を用いて、拓銀の貸出構成について同様の指摘をしているが、ビ
ジネス・モデルのあり方や長期経営計画との関係からの分析はされていない。直後の引用
は東条「頭取十五年」、
『北海道新聞』1978 年 1 月 10 日付け。
22 以下、東京進出や外為業務に関する引用と議論は、東条「頭取十五年
3」、
『北海道新聞』
1978 年 1 月 8 日。
11
移入超過を重視している点は、北海道が本州への物資供給地として重要な位置づけを与え
られていた 50 年代との歴史的状況の相違を踏まえた戦略を採ったことを意味している。
史料の制約上、港湾を通じた数量ベースの移出入のみになったが、1953 年と 1965 年の
それを比較する 23 。1953 年は移入・移出はそれぞれ 5,018 千トン、12,111 千トンであった。
同じく 1965 年は 12,870 千トン、26,005 千トン、70 年は 24,763 千トン、29,474 千トンで
あった。65 年の数値は 53 年のそれに対して移出で 2.56 倍、移出で 2.14 倍、同じく 70 年
は 65 年に対して移出 1.13 倍、移入 1.88 倍であった。上記の回顧は 1970 年代半ばのもの
であり、なおかつ、統計数値は数量ベースのものであるから、北海道・本州間の交易は移
入超過であるとの議論は充分には裏付けられていない。しかし、それでも、本州からの移
入の伸びが北海道からの移出の伸びを上回っていること、それゆえ北海道→本州という物
資の流れの重要性が相対的に低下していることは確認される。東京進出の強化は、このよ
うな物流の変化に伴う資金循環の変化に対応したものであった。これが第一の狙いである。
さらに拓銀の狙いはこれのみには止まらない。
「それ(東京進出の強化―引用者)は、一方
で預金の増強につながるわけですね。店が出来れば、店の周辺のお客さんとの取引も開拓
して、親交を深めていくこともあたり前で、関東地区の店を増やすことを考えた」との東
条頭取の発言に見られるように、預金増強も重要な目的であった。とりわけ、既述のよう
に、当時、拓銀は都市銀行他行に追いつくべく、預金量増強を重要な経営課題にしていた。
東京進出の強化は、この課題に応えるものでもあった。これが東京進出強化の第二の狙い
である。
このほか、本州進出の理由とは必ずしも言えないが、この時期になって拓銀が重視しは
じめたのは、外国為替業務の強化である。この点については、東条頭取は「当行の国際化
というのはながい道程があったんだけど、(昭和―引用者)三十七年十二月にね、東京銀行
海外支店とコルレス契約(原文にある説明は省略―同)をしたんですよ」(中略)「日本と
いうものはね、貿易によって立っていく国柄でしょ。同時に日本の一部である北海道とし
てもこれから海外との物資や貿易外のいろいろの交流をするとき本道の地元銀行として
『やっぱり国際業務について一人前の銀行である』という事実が是非必要なんだというこ
とで、それが柱だったのですよ」と回顧している。周知のように、1960 年代に入ると貿易
北海道『第 62 回北海道統計書』第 2 巻、1958 年 3 月:同『第 75 回(昭和 41 年版)北
海道統計書』
、1968 年 3 月、同『79 回(昭和 45 年版)北海道統計書』による。
23
12
為替自由化が進められ、関係業務の重大性が増大しており、拓銀側もこれを認めていた 24 。
そのために、乙種為替銀行としての制約を早期に脱却する必要性が生じており、60 年 8 月
の時点で当局に業務制限の緩和を要求していた。これに加えて、1956 年から 1969 年まで
に外為取扱店として認可を受けた 15 店舗中、道内店舗は僅かに釧路、苫小牧の 2 店舗に過
ぎなかった 25 。この意味で、東京を中心とする本州進出は、外為取引の拡大を睨んだもので
もあった。これらの諸点を踏まえたとき、北海道経済との関係での外為業務進出を強調す
る東条頭取の発言には留保が必要であり、道経済との関連というよりは貿易為替自由化を
睨んだビジネス・チャンスの拡大策という側面の方がより強かったと判断すべきであろう。
このような取り組みの結果、拓銀の外国為替取扱高は 1960 年の 1 億ドルから 65 年には 3
億ドルまでに増加した。
東京進出の狙いや外為業務の拡張動機はこのようなものであった。それでは、このよう
なビジネス・モデルの転換が図られる中で、実際の本州店舗の運営状況はどのようなもの
だったのであろうか。これらの店舗の運営も円滑には進んでいなかったようである。この
点について、史料の制約もあり、1961 年下期の店舗別経営成績に関する史料を用いて示そ
う 26 。まず、当期限界預貸率 100%以上の店舗 24 カ店中の本州店舗は、東京(預金〇)、神
戸(預金減少)、北浜(900.0%)、丸の内(317.4%)、大阪(314.6%)、名古屋(117.4%)、
京都(111.6%)、新宿(392.9%)、築地(296.7%)、難波(209.5%)、名古屋駅前(115.1%)
の 11 カ店を占めていた。これら店舗のうち、対前期預金増加率下位 20 位以下のものを示
すと、神戸(-2.8%)、北浜(0.8%)、丸の内(2.8%)、東京(0%)
、築地(3.1%)、難波(3.4%)
の 6 店舗がこれに該当した。さらに、対前期預金増加率劣勢店 76 店舗のなかには東京
(1.5%)、丸の内(-6.6%)、築地(-3.3%)、虎ノ門(0.2%)、新宿(3.1%)
、横浜(7.1%)、
難波(3.2%)、北浜(1.5%)、神戸(0.3%)の本州 9 店舗が含まれていた。ここから、当
期限界預貸率の高さは、主として預金吸収力の弱さに起因していたと言える。次に 500 万
円以上の延滞を抱える店舗 14 カ店、延滞額 445 百万円中、東京支店のみで 187 百万円、全
体の 42%を占めていた。第三に受入為替対前年同期増加率比マイナス 15.2%以上 20 カ店
中、本州店舗は京都(-71.9%)、浅草(-245.0%)、築地(-133.0%)、難波(-116.1%)、上
野(-39.3%)の 5 店舗が、同じく支払為替を見ると神戸(-22.2%)
、上野(-54.1%)、
24
以下、外為業務に関わる記述は、『北海道拓殖銀行史』、425~427 頁。
『北海道拓殖銀行史』、2‐3‐15 表(428 頁)。
26 北海道拓殖銀行経理部「昭和 36 年下期 業績審査基準及び資料」
、同『営業店業績概括
表』、1962 年上期に合綴による。
25
13
難波(-21.6%)の 3 店舗が入っていた。さらに、外国為替の取扱額減少店舗を見ると、丸
の内(-2.4%)、名古屋(-10.2%)、大阪(-2.6%)、北浜(-20.8%)の 4 店舗すべてが本州
店舗であった。このほか、経費率の高い店舗 39 カ店に該当する本州店舗は、京都(預金経
費率 2,43%)、神戸(2.33%)、北浜(2.01%)、大阪(数値未記載)、丸の内(数値未記載)、
浅草(2.10%)、新宿(2.37%)、築地、上野(以上、数値未記載)、名古屋(2.02%)の 10
店舗を占めていた。経費率に関連するが、純利益貢献度の劣勢な店 22 カ店中、本州店舗は
東京、大阪、京都、北浜、名古屋、浅草、新宿、馬喰町、入船町の 9 カ店が占めていた。
以上の簡単な検討と表 1 に示した本州店舗数とを併せ見たとき、本州店舗のうちかなりの
ものが、成績が思わしくなかったことが確認される。
最後に表 3 に基づき拓銀と他の都市銀行との経営拡大に関する比較を行なう。ここで
は 1955 年 3 月、60 年 3 月、65 年 3 月について示した。まず、都市銀行平均と標準偏差を
踏まえた時、何れの時期についても、経常収支比率を除く各項目で拓銀は他の都市銀行に
全く及ばないことが確認される。次に変化率を見る。最初は、55 年 3 月から 60 年 3 月の
増加率である。ここでは各項目ともに他の都市銀行に大きく水をあけられていることが確
認される。次に 60 年 3 月から 65 年 3 月までの変化率である。前時期の増加率と比較する
と、預金残高の増加率は都市銀行平均に劣るものの、かなりの改善が見られたことが確認
される。このほか、外為取引と貸出に至っては、都市銀行平均を大きく上回っている。こ
の理由は、残念ながら不明である。しかし、前述のように、拓銀には道内産業を中心に延
滞金が発生したり、あるいは炭鉱の閉山資金支援の必要性が生じていた。これに対して、
他の都市銀行は貸付金の返済が始まりつつあった時期であり 27 、貸出金を大きく伸張させる
余地は乏しかった。このことが、他の都市銀行と拓銀の貸出動向との相違をもたらした重
要な要因であると推測される。外国為替業務に関しては、50 年代において殆ど〇であった
ものが、貿易為替自由化に伴いビジネス・チャンスが急に開けた関係から若干の残高を生
じたことが要因である。残高面では他の都市銀行には遠く及ばないし、65 年 3 月決算時で
外国為替売買益は 118 百万円と、損益計算書上の粗利益 28,955 百万円の 0.4%に過ぎない 28 。
ここから拓銀のビジネス=収益の基盤としては取るに足りなかった。このような意味で、
拓銀の外為取引の増加には留保が必要である。
27
白鳥圭志『復興金融から成長促進型資金供給制度へ』、一橋大学大学院商学研究科日本企
業研究センター・ディスカッション・ペーパーNo. 5 を参照。
28 『北海道拓殖銀行史』付録の損益計算書より算出。
14
以上、炭鉱支援や林業・漁業関連の延滞金の発生などにより資金回収が遅延したために、
貸出基盤の転換が遅延した点には注意が必要であるものの、1950 年代前半に形成された拓
銀のビジネス・モデルは根本的な変化を迫られることになった。そのため、物流の変化へ
の対応を重視して本州、とりわけ東京進出を強化した。さらには、貿易為替自由化を睨ん
だビジネス・チャンスの拡大を図るべく、外為業務の充実にも取り組んだ。しかしながら、
拓銀の店舗の中で本州店舗は必ずしも好業績を挙げているわけではなかった。この意味で、
東京を中心とする本州進出は必ずしも順調なものではなかった。新たなビジネスである外
為業務の収益基盤には到底なりえなかった。それでは、拓銀はどのようにしてこれらの問
題の解決を図ろうとしたのであろうか。この点の検討は節を変えて行なう。
3.1960 年代中盤以降における業容拡大と中小企業金融機関化の進展
拓銀は 1965 年から第 2 次長期経営計画を実施した。その内容を 1966 年 6 月 24 日付け
で作成された関連文書を用いて検討する 29 。
まず、同文書に「本計画の目標/銀行経営の基本は、なんといつても預金を主体とした
資金量にあります。したがって、本計画においても端的にわかりやすい目標ということで
第 1 次長期計画と同様預金を目標として掲げます」とあるように、預金量の増強が最重要
課題として位置づけられていた。本計画期間中においても、預金のための勉励が常に行な
われていた。このことは、「当行の業績は昨年九月末総預金残高五千十八億円を記録し、昨
年初めに掲げました五千億円目標を突破することができましたことはご同慶にたえませ
ん」との 1968 年の東条頭取による年頭の辞、「本年の具体的な目標を次のとおりとし、皆
でこれに取組み、実現しようではありませんか。/一.総行員のパーヘッド一億一千五百
万円の早期達成を目指そう。/本年中に総預金七千億円を達成しよう(以下、略―引用者)」
との 1969 年の東条頭取による年頭の辞からも確認される 30 。
このような資金量確保の背景には、第 1 期長期経営計画と同様に、他の都市銀行に対す
る経営規模面での劣勢の挽回があったことは言うまでも無い。もっとも、資金吸収の目的
はこれのみには止まらない。別の箇所には「(3)当分持続される国債引き受けにたえる資
金量を保持すること」が記されていた。ここから、新規内国債発行による景気刺激策をビ
北海道拓殖銀行「第 2 次長期計画の概要」、1966 年 6 月 24 日、拓銀旧蔵史料、『東条孟
猪頭取時代』に合綴。
30 『東条孟猪頭取時代』合綴文書。
29
15
ジネス・チャンスとして見込んでいたことも看過すべきではなかろう。なお、関連して、
表 1 に見られるように、店舗配置の面でも東京を中心に首都圏への進出が積極的に図られ
ていた。上記のようにこれらの店舗は劣勢店が少なからずあった。別な史料には、「近年、
東京都および札幌近郊を中心に預金吸収店として新設した店舗が、本期間中本格的稼動期
にはいる」31 との記載がある。このような出店政策は、1 店舗あたりのパフォーマンスの低
さを、量で補う性格があったと推定される。
第二に重視されたのは、融資構造の改革であった 32 。まず、融資構造の改革にあたり、前
提にされたのは「計画期間中に/a 銀行の融資態度に重大な変更がなく、かつ/b 企業の
資金調達方法に重大な変化が行なわれない」ということであった。この前提を踏まえて、
「わ
が国産業の発展に即応して、昭和 45 年度末における当行と、都市銀行の融資残高がどのよ
うな差をもつかを『偏差率』によつて示し」、拓銀の融資構造を変えていくことを目指した。
拓銀の 64 年 3 月末実績(融資構成 5%以上)は製造業が 34.4%、商業が 32.3%、同じく都
市銀行全体は製造業が 49.4%、商業が 31.7%であった。これを踏まえて、拓銀は 1971 年 3
月末の予測値を計算した。これによれば、拓銀は製造業が 32~38%程度、商業が 25~32%
程度に変化するのに対して、都市銀行全体は製造業が 31~54%程度、商業 24~31%程度に
変化すると試算されていた。
この試算を踏まえて、拓銀は企業取引の拡充強化を重視する計画を打ち出した。その際、
中心とされたのは、東京を中心とする首都圏であった 33 。東京支店に出された指示を見ると、
貸出の逓減傾向を踏まえて、その挽回が求められた。具体的には、
「A 本部関係部課と密接
な連携のもとに系列企業およびこれらの資金の流れを調査のうえ、貴店および僚店を通じ
て関連取引の開拓を推進し取引網整備の主導店舗として、長期的視野に立って既存取引先
の選別深耕、新規開拓を計画的に推進すること/B 当行重点指向先およびその関連先、道
内関連先を重点考慮すること/将来当行の中核となるべき大企業およびその関連企業の開
拓にあたっては、当行の融資構造、長期計画指示平残目標との関連、将来の取引効率を検
討し、あらかじめ本部と打ち合わせのうえ推進すること」という指示が出された。本史料
に見られるように、道経済とは必ずしも関係のないものも含めて、首都圏の大口取引先関
係の資金重要を補足の上で拡大すること、大企業取引の中核化を目標に融資構造の改善を
北海道拓殖銀行「第 2 次長期計画の概要」。
北海道拓殖銀行『(昭和 40/9) 長期計画「融資構造」策定参考資料』
。
33 以下、北海道拓殖銀行「第 2 次長期計画店別指示文(本州分)
」、拓銀旧蔵史料、
『東条孟
猪頭取時代』に合綴による。
31
32
16
進めることが首都圏店舗に対する主要な指示内容であった。さらに、外為取引についても、
「(5)外国為替の増強について/A
商社については下記により取引の強化を図ること/a
三井物産(株)、三菱商事(株)については、さらに外為取引高の増高を期して積極的に取
引の深耕を検討するとともに、関連商材を主とする持込為替の内容固めにも努めること/
b その他の取引商社については業態、取引効率、当行関連度等による選別を行い取引を進
めること」との文書に見られるように、三井物産、三菱商事など大規模商社を中心に取引
高の拡充を図ることが目標にされていた。史料的に数値が確認可能な三井物産について 34 、
1966 年 9 月期から 71 年 9 月期までの変化を示せば次のとおりである。物産全体としては
この間に円貨換算(以下、同様)で 18,986 百万円から 88,162 百万円で 69,176 百万円の増
加、364.3%の増加率を記録していた。このような中で、同じく拓銀は 106 百万円から 921
百万円と 815 百万円の増加、768.8%の増加率を記録していた。さらに、拓銀のシェアを見
ると、0.55%から 1.04%に増加している。このような物産全体の増加に対する拓銀の増加
の突出ぶりから、上記のような拓銀の営業努力の効果が確認される。ただし、このような
努力に伴う業績の拡大があっても、拓銀のシェアは 1%程度に止まったという事実は、拓銀
の大手商社の外為取引への食込みの限界の大きさを示している。
このほか、京浜地方支店中、貸出特定店は東京、丸の内であり、準特定店は築地、馬喰
町、虎ノ門、神田、上野、浅草、横浜、新宿、渋谷、池袋であったが、これら店舗では軒
並み企業取引の拡充が求められていた。それ以外の特定店(名古屋、大阪、北浜)を見る
と、準特定店は名古屋駅前、難波、神戸、京都であった。そのうち、名古屋地区はトヨタ
およびその関係企業との取引深耕が、京都地区は繊維関係との取引深耕が、大阪地区は阪
神電力などとともに、地元優良中小企業との取引深耕がそれぞれ求められていた。このよ
うに、大企業ならびに優良中小企業との取引を中心に据えることが求められていた。以上
のような内容からすれば、上記のような製造業取引水準を維持ないし上昇を図るという推
計は、単なる構成比上のものではなく、本州の大企業、ないし関連する優良中小企業向け
融資を中心にするというものであったと言えよう。
これに対して 35 、道内店舗については、貸出特定店は本店営業部、函館支店、室蘭支店、
三井物産『有価証券報告書』各期より作成。なお、同社については、72 年 3 月期以降、
数値が確認できない。三菱商事に至っては、少なくとも 1960 年代以降、数値が確認できな
い。
35 以下、北海道拓殖銀行「第 2 次長期計画店別指示文(道内店)
」、拓銀旧蔵史料、
『東条孟
猪頭取時代』に合綴による。
34
17
旭川支店、帯広支店、釧路支店、準特定店は札幌東支店、札幌南支店、札幌駅前支店、函
館駅前支店、小樽第二支店、苫小牧、北見の各支店のみであるとされた。そのうえで、そ
れ以外の店舗はエネルギー転換や木材業などの不振を背景に環境改善は望み薄とされた。
エネルギー転換に伴う産業構造の変化を背景に、札幌などの主要都市以外では道内の貸出
先拡充は無理であると判断された。このような方針に基づき、本州店舗では「第 1 には、
金融機関として地域社会に積極的に奉仕することであります。銀行の進むべき道は、今後
とも地域社会のお取引先に奉仕することであります。一般市民の日常生活に常に密着しう
るような銀行機能の拡充をねらいとして生活様式、消費水準の先進国化に応じて、自動車・
宅地・住宅向けを中心に消費者金融を大幅に拡大していくこと、商工業者に対しては、長
期・短期のご要望に積極的にこたえるとともに、経営相談活動を支店所在地に広げ商店主・
主婦に対する経営講座、従業員に対する研修等の相談活動を行うこと、など幅広くかつ深
く地域社会に奉仕する所存であります」36 との文書に見られるように、地域に密着した住宅
ローンなどの消費者向け融資の拡充、主に中小企業向けと思われる経営相談機能の拡充が
謳われた。
このような方針は、預金増強面では第一次長期経営計画とほぼ同様であるが、貸出面で
は構造改善が目標にされている点において、第一次計画とは内容が大きく異なっていた。
つまり、預金増強により都市銀行としての業容拡大の礎を築く一方で、他方ではこれに基
づき本州の大企業向け融資、ないしは大企業の取引先中小企業向け融資を柱に、外為業務
と国債引受を副次的業務に据えることにより、収益を確保するビジネス・モデルの構築を
目指していた 37 。もっとも、既に明らかにされているように、この時期には、既に他の都市
銀行による融資系列化が殆ど確定しており 38 、しかも、重化学工業を中心とする資金需要も
緩みつつあった。拓銀の有価証券投資額は、都市銀行上中位行に比べると一貫して根本的
に劣っていることからも(表 2)、株式持合いを通じた融資系列形成の脆弱性が確認される。
ここから 64 年 3 月の金融経済状況を前提にして、本州の大企業を中心とする製造業貸出先
を開拓するのはかなり無理があったと判断される。
北海道拓殖銀行「第 2 次長期計画の概要」。
後に高村健二専務(破綻時)も「一次産業や北海道の基幹産業が衰退する中で、新興企
業育成や首都圏進出に活路を見いだそうとした方向は間違っていなかった」と論じている
(『拓銀はなぜ消滅したか』、23 頁)
。この回顧からも首都圏重視の姿勢が確認される。
38 1950 年代における融資系列の形成については、橘川・加藤「戦後日本の企業集団と系列
融資」を、1960 年代中盤以降の重化学工業向けを中心とする貸出需要の減少については白
鳥『復興金融から成長促進型資金供給制度へ』をそれぞれ参照。
36
37
18
そこで、次に、幾つかの経営指標を用いてこの点を確認する。まず、表 1 によれば、こ
の間の本州における貸出比率は上昇しており、この意味では本州における業務拡大の進展
ぶりが確認される。その中心は戦略どおり東京を中心とする首都圏であった 39 。次に表 3
によれば、貸出基盤面では、この間、製造業、卸・小売業のほか、新たに建設業、地方公
共団体が台頭している。製造業の内容であるが、食料品工業(5.8%)
、木材(4.1%)、紙パ
ルプ(1.9%)の 3 業種で総貸出残高の 11.8%を占めており 40 、道内の中心産業向け大半を
占める。これに対して、同じく上記三業種に関する都市銀行全体の値は、それぞれ 2.5%、
0.8%、1.4%であり、その他が 40.6%を占めていた。さらに、その増大が求められていたト
ヨタとの取引を、66 年 9 月期、70 年 9 月期、75 年 9 月期について見る 41 。長期借入につ
いてはすべての時期において取引は皆無であった。同様に短期借入も主要な取引先は東海、
三井、三和(75 年 9 月期のみ)であったが 42 、拓銀の名前はその中に見出すことはできな
い。さらに、同じく取引開拓対象であった関西電力の資金取引先についてみると、長期借
入金・短期借入金ともに拓銀との取引は皆無であった 43 。ここから、第 2 次長期経営計画期
間中に大企業向け融資面や製造業分野における貸出構造の変化が、拓銀が考えた方向には
中々進まなかったことが確認される 44 。さらに、中小企業貸出の比率を見ると、65 年 3 月
から 70 年 3 月までに中小企業向け貸出額の比率は 37.8%から 36.2%へと停滞気味に推移
しているものの、口数では 95.6%から 98.1%へとほぼ 100%近くまで上昇していることが
確認される 45 。とりわけ、総貸出口数の増加 90 千口に対して、中小企業の増加は 88 千口
にも達していた。もっとも、個人向けの貸出は数値が確認可能なもののみになるが、62 年
65 年 9 月末、70 年 9 月末、75 年 9 月末の東京地区での貸出額と本州での貸出総額に占
める比率は、それぞれ 110,493 百万円・72.8%、218,232 百万円・69.4%、633,221 百万円・
80.5%であった。しかも、65 年 9 月末から 75 年 9 月末までの本州における貸出増加額の
82%を、東京を中心とする首都圏が占めていた。これに対して、大阪は 13.8%、名古屋は
5.4%に過ぎなかった(北海道拓殖銀行『行内計表旬報』各年より算出)。
40 『北海道拓殖銀行史』2-3-14 表(422 頁)
。
41 トヨタ自動車販売『有価証券報告書』各期より確認。
42 なお、史料により短期借入中の「その他金融機関」の比率が分かる 75 年 9 月期の数値を
示すと 37.5%であった。
43 関西電力『有価証券報告書』各期より確認。
44 なお、1965 年 9 月末、70 年 9 月末、75 年 9 月末における本州の総貸出額に占める名古
屋地区の貸出額の比重は、それぞれ 10,644 百万円・7.0%、20,737 百万円・6.6%、44,820
百万円・5.7%と低減している(北海道拓殖銀行『行内計表旬報』より算出)。この間の物価
の上昇を考慮したとき、名古屋地区での貸出先開拓はそれほど進展しなかったと推定され
る。
45 以下、中小企業貸出に関する数値などは『有価証券報告書』各期より算出。
39
19
3 月期の 2.2%から 1970 年 3 月期時点で 5.6%にまで上昇していた。これらのこととともに
上述した製造業の貸出構成を併せ見たとき、消費者向け融資の開拓はそれなりに進んでい
たものの、この間の中央製造業を中心とする大口貸出先の開拓には、大きな限界があった
と考えてよかろう。
さらに重要なことは、1970 年 3 月期から 1975 年 3 月期にかけての総貸出口数の増加数
45 千口に対して、中小企業向け貸出口数の増加が 45 千口となったこと、ならびに中小企業
向け貸出比率が 40%を超えたことである。都市銀行全体の中小企業向け貸出比率を見ると、
70 年末で 25.6%、75 年末で 34.3%であった 46 。75 年の数値は「資本金 1 億円以下の法人
および個人」であるから、中小企業のみの比率よりは高めの値がでてくることには注意し
なければならない。この点を踏まえた場合、都市銀行他行に比べて拓銀の中小企業向け融
資比率が高いことが確認できる。このように 1970 年代に入ると、拓銀の製造業を中心とす
る本州の大口貸出先の開拓は明確に限界にぶつかり、中小企業金融機関としての性格を強
くした。このほか、外為業務も 1970 年 3 月期時点で 10,768 百万円に達するものの、外国
為替売買益は 286 百万円と経常収益 28,273 百万円の 1.0%に過ぎなかった。75 年 3 月期で
も外国為替売買益は 1,245 百万円、経常収益の 1.3%であったから、着実に増加しているも
のの収益基盤としては相変わらずネグリジブルであり続けたと言えよう 47 。
最後に預金量の増強について確認する。まず、第 2 次長期経営計画の目標値であるが、
残念ながら、史料の制約上、明らかにしえない。もっとも、1969 年の念頭の辞で東条頭取
は本年中の総預金 7 千億円達成を呼びかけている 48 。70 年 3 月期の預金残高は 7,258 千億
円であるから、この時期まではほぼ順調であったことが確認される。しかし、70 年下期に
は計画未達の見込みであったというから 49 、この営業期になって勢いが鈍化したと判断され
る。もっとも、パーヘッド預金、都市銀行シェアについては目標値実現の目処が立ってい
たというから、預金増強については概ね当初の目標を達成したと判断される。70 年代に入
ると預金量増大はオイル・ショックに伴うインフレなども手伝ってさらに継続し、75 年 9
月期には 71 年 3 月期の 2.13 倍にまで増加した(表 1)。
このように、1965 年以降、とりわけ 70 年代前半になると、拓銀が第 2 次長期経営計画
策定に構想したような、本州の大企業およびその関連中小企業向け貸出を基盤とするビジ
46
47
48
49
日本銀行『経済統計年報』各年より算出、引用。
『有価証券報告書』各期。
『東条孟猪頭取時代』合綴史料。70 年 3 月期の数値は『有価証券報告書』による。
『北海道拓殖銀行史』、411~412 頁。
20
ネス・モデルの構築は、預金量拡充を除いて上手く行かなかった。このことは、
「それから、
内部の話だけど、五十数店に増えた本州地区の店の中で、私がこの程度までは預金量にし
ても取引量にしても成長して欲しかったと思う程度に達していないところがある」(中略)
「これがもうちょっと当行が伸びて欲しかったが、思うところまで行きかねた原因の一つ
だと私は思っている」との 1978 年 1 月の頭取退任直後における東条会長の回顧からも確認
される 50 。その結果、預貸率、収益率、利鞘などは 1960 年代半ば以降、ほぼ同様の水準を
維持しているものの、都市銀行化の過程において業容面で膨張志向の強い行動をとった分
だけ、60 年代後半以降、再び、一時期を除いて巨額な水準の遊金(預金-貸出額-有価証
券投資額で概算)絶対額を抱えることになった(以上、表 1)。しかも、70 年代半ばにはそ
の額は、再度、増加への動きを示すようになる。遊金を巡る拓銀の状況は、都市銀行中で
も突出していた(表 3)。融資系列形成に見られる運用基盤の弱さが、このような状況をも
たらしたと言えよう。この時期には上述のように中小企業金融機関としての性格を強めて
いくことになっていたから、これら巨額の遊金の運用基盤の確保は難しかったと判断され
る。都市銀行他行との格差が拡大に向かう中で(表 3 中の変化率)、この問題の解決が 1970
年代後半から 80 年代前半にかけての経営課題となるのである 51 。
結論と展望―拓銀破綻との関係で―
敗戦後、植民地・占領地を喪失した日本にとって、資源供給地としての北海道の役割は
極めて重要であった。北海道拓殖銀行は、国家的重要性を増した北海道開発に呼応する形
で、地元での資金供給を担う地方銀行(北海道銀行)の育成も含めて、関連する資金需要
や資金流通を支えることを基盤とするビジネス・モデルを構築した。さらに、1950 年代半
ば以降になると、北海道開発に関係する本州内部での資金需要に応えるべく都市銀行化し
たうえで、東京周辺を中心に店舗を拡充した。この過程で都市銀行に相応しい経営規模が
求められ、都市銀行への上昇志向をもちつつ預金量の拡充・本州店舗の充実を強く推進し
た。
しかしながら、1950 年代後半のエネルギー革命以降、石炭・木材関係を中心とする道内
東条孟猪「頭取十五年 8」、『北海道新聞』1978 年 1 月 14 日。
このことは、拓銀が周知の磯田頭取下の住友銀行の貸出リスク管理体制の弛緩を伴う拡
大戦略に触発されて、1980 年代に遊金処分のために不動産を中心とする投機資金供給にの
めり込むことからも確認されよう(「拓銀与信調査委員会調査報告書」、1998 年 9 月 18 日、
北海道新聞社編『拓銀はなぜ消滅したか』、302~303 頁からも確認される)。
50
51
21
主要産業の斜陽化が決定的になると、新たなビジネス・モデルの構築が重要な課題となっ
た。もっとも、1960 年代前半においては、斜陽化したこれら産業の救済のためにビジネス・
モデルの転換は充分に果たされなかったが、60 年代後半、とりわけ第 2 次長期経営計画の
過程でこの点が強く意識された。具体的には、預金量を中心により一層の業容拡大が求め
られる中で、外為取引も含めて、必ずしも北海道とは関係のない本州の大企業・大商社、
およびこれらと取引関係をもつ中小企業との取引、住宅ローンなどの消費者向け融資の拡
充を図ろうとした。しかしながら、60 年代半ば以降、既に融資系列固めが終わり、重化学
工業関係の大口資金需要が減退するという状況の中では、上記のようなビジネス・モデル
を構築し、安定的な経営基盤の構築を図ろうという拓銀の方針が実現する余地は、預金量
の拡充を除けば極めて乏しかった。また、道内預金市場においても、当初、育成対象にし
て相互分業関係を構築しようとした北海道銀行が預金量の増強を図った。このため、特に
60 年代以降になると、同じく預金増強を推進した拓銀と同行との関係は、相互分業関係か
ら競合関係へと転化することにもなった。その結果、とりわけ 1970 年代以降になると本州
の中小企業向け金融機関という性格を強めることになるとともに、預金を中心に都市銀行
としての業容拡大を図ったこととも相俟って、70 年代半ばには巨額の遊金を抱え込む方向
が明確化するに至った。
以上を踏まえた時、1970 年代に上記のような拓銀のビジネス・モデルが生じた理由は、
50 年代において国家的重要性が生じた北海道開発を基盤とするビジネス・モデルを構築し
たことや、後発都市銀行として他の都市銀行に追いつくべく、次第に脱北海道化志向を強
めつつ、預金量を中心に業容拡大を第一とする方針を採ったこと、ならびに北海道開発問
題を背景に他の都市銀行とは異なり重化学工業を中心とする融資系列形成への動きが 60 年
代後半へと遅れたことに求められよう。その帰結として、十分な融資基盤が無い中で巨額
の遊金が形成されるという事態が生じた。この意味で拓銀の経営環境変化への適応は他の
都市銀行以上の困難を伴っていた 52 。このような事態に加えて、不動産を中心とする投機資
金の供給を重視する都市銀行間の競争が激化する中で、都市銀行最下位クラスからの脱却
という上昇志向を強くもつ拓銀は、融資基盤確保を目標に貸付リスク管理を犠牲にして不
動産関係の融資にのめりこむことになる 53 。つまり、バブルという経営環境に過剰適応する
52
すぐ後に述べるバブル期の経営環境への過剰適応も含めて、日高「銀行」ではこの点が
看過されている。
53 「拓銀与信調査委員会報告書」
、北海道新聞社編『拓銀はなぜ消滅したか』、302~309 頁。
22
ことになる。言うまでも無く、このことがバブル崩壊後における拓銀破綻に繋がっていく
ことを想起した時、高度成長期において上述のような北海道所在の後発都市銀行として重
化学工業を融資基盤とするビジネス・モデル形成への着手が大きく遅れたために巨額の遊
金が発生したこととともに、都市銀行化が拓銀に先発都市銀行へのキャッチ・アップを目
的とする、強迫観念的とも言うべき強い上昇志向を植えつけたことが、1980 年代以降の都
市銀行他行以上の経営乱脈化と破綻の歴史的前提条件になったと言えよう 54 。
このような意味で、高度成長期における拓銀の経営動向には、戦後日本の経済発展のあ
り方が重化学工業、大企業中心の様相を強めていく中で、50 年代後半以降、斜陽化を余儀
なくされた北海道経済のあり方、あるいは本州―北海道の関係のあり方が強く反映してい
た。このような関係性のあり方やその変化に、強い上昇志向をもった北海道拓殖銀行の都
市銀行化は著しい制約を受けたのである。
54
この点を踏まえたとき、拓銀破綻の要因として政策当局との関係を中心とする企業統治
のみを強調する服部「拓銀の経営破綻」の見解には問題があると言えよう。
23
表1
営業期 割引手
形
末
主要勘定等の推移
有価証
預貸
預金
割引手
券
率
内荷
比率 内道内 比率
形+貸
内道内
比率
為替
出
1953.9 24,173 34,778 58,951 358 1.48% 40,417 68.6%
7,673
60,183
49,573 82.4% 98.0%
1954.3 22,855 36,038 58,893 237 1.04% 39,662 67.3%
8,516
62,272
52,149 83.7% 94.6%
1954.9 23,134 36,202 59,336 166 0.72% 37,981 64.0%
8,700
65,038
52,930 81.4% 91.2%
1955.3 23,572 38,385 61,957 298 1.26% 40,716 65.7%
9,439
71,928
56,888 79.1% 86.1%
1955.9 23,940 37,792 61,732 252 1.05% 39,934 64.7% 10,335
77,271
60,156 77.9% 79.9%
1956.3 23,034 44,274 67,308 291 1.26% 43,712 64.9% 12,045
90,407
68,420 75.7% 74.4%
1956.9 26,352 49,942 76,294 242 0.92% 46,758 61.3% 13,701
95,780
76,906 80.3% 79.7%
1957.3 24,499 55,350 79,849 260 1.06% 48,259 60.4% 12,224 103,886
87,282 84.0% 76.9%
1957.9 49,816 57,352 107,168 184 0.37% 53,624 50.0% 13,358 110,494
81,256
73.5% 97.0%
1958.3 28,557 63,876 92,433 174 0.61% 59,469 64.3% 18,181 121,579
87,282 71.8% 76.0%
1958.9 32,396 68,647 101,043 154 0.48% 65,738 65.1% 20,235 130,447
93,933
72.0% 77.5%
1959.3 31,357 76,541 107,898 432 1.38% 70,003 64.9% 22,340 138,468
99,702
72.0% 77.9%
1959.9 38,229 80,071 118,300 197 0.52% 73,321 90.5% 25,235 144,973 107,056
73.8% 81.6%
1960.3 38,380 88,109 126,489 212 0.55% 79,345 62.7% 28,049 157,006 117,523
74.9% 80.6%
1960.9 44,972 90,218 135,190 226 0.50% 82,556 61.1% 29,308 168,324 123,407
73.3% 80.3%
1961.3 45,150 103,370 148,520 345 0.76% 91,691 61.7% 35,745 183,801 134,176 73.0% 80.8%
1961.9 53,821 105,811 159,632 272 0.51% 98,118 61.5% 37,984 203,536 149,895 73.6% 78.4%
1962.3 52,667 115,667 168,334 305 0.58% 104,908 62.3% 38,067 210,698 155,903
74.0% 79.9%
1962.9 58,835 120,769 179,604 265 0.45% 108,645 60.5% 45,164 232,098 168,928
72.8% 77.4%
1963.3 60,308 143,204 203,512 368 0.61% 123,396 60.6% 44,634 260,777 180,453
69.2% 78.0%
1963.9 69,933 155,137 225,070 230 0.33% 134,323 59.7% 46,465 310,349 211,388
68.1% 72.5%
1964.3 71,017 179,625 250,642 315 0.44% 149,012 59.5% 46,559 323,033 224,002
69.3% 77.6%
1964.9 82,687 185,326 268,013 297 0.36% 156,653 58.4% 61,900 347,789 233,490
67.1% 77.1%
1965.3 81,819 216,666 298,485 335 0.41% 174,276 58.4% 69,835 349,730 242,922
69.5% 85.3%
1965.9 88,534 224,678 313,212 258 0.29% 179,516 57.3% 82,804 396,199 264,135
66.7% 79.1%
1966.3 86,930 250,519 337,449 334 0.38% 195,873 58.0% 83,782 412,902 274,065
66.4% 81.7%
1966.9 99,955 256,216 356,171 363 0.36% 202,274 56.8% 90,412 436,114 299,326
68.6% 81.7%
1967.3 100,685 291,934 392,619 329 0.33% 227,383 57.9% 90,713 452,096 308,508 68.2% 86.8%
1967.9 112,907 297,783 410,690 238 0.21% 232,633 56.6% 92,661 501,877 333,300 66.4% 81.8%
1968.3 114,005 327,735 441,740 334 0.29% 251,519 56.9% 97,136 513,920 341,166 66.4% 86.0%
1968.9 125,461 329,002 454,463 307 0.24% 252,572 55.6% 107,387 549,526 364,578 66.3% 82.7%
503,651
1969.3
0 0.00% 281,720 55.9% 113,419 611,139 396,393 64.9% 82.4%
536,525
1969.9
0 0.00% 290,184 54.1% 116,695 676,250 403,815 59.7% 79.3%
593,710
1970.3
0 0.00% 325,769 54.9% 125,689 725,827 454,242 62.6% 81.8%
631,235
1970.9
0 0.00% 334,955 53.1% 127,089 798,165 482,209 60.4% 79.1%
704,865
1971.3
0 0.00% 371,147 52.7% 125,511 858,174 521,144 60.7% 82.1%
744,781
1971.9
0 0.00% 369,261 49.6% 145,047 967,793 565,975 58.5% 77.0%
873,478
1972.3
0 0.00% 434,421 49.7% 171,519 1,085,994 627,987 57.8% 80.4%
961,452
1972.9
0 0.00% 446,783 46.5% 191,328 1,212,341 674,270 55.6% 79.3%
1,123,567
1973.3
0 0.00% 514,478 45.8% 208,857 1,363,833 768,603 56.4% 82.4%
1,200,802
1973.9
0 0.00% 533,913 44.5% 216,193 1,421,204 840,253 59.1% 84.5%
1,308,904
1974.3
0 0.00% 593,469 45.3% 229,355 1,503,426 896,397 59.6% 87.1%
1,368,624
1974.9
0 0.00% 606,727 44.3% 244,501 1,631,386 939,200 57.6% 83.9%
1,453,930
1975.3
0 0.00% 664,610 45.7% 257,788 1,734,864 1,008,719 58.1% 83.8%
1,511,242
1975.9
0 0.00% 678,530 44.9% 276,352 1,830,497 1,057,508 57.8% 82.6%
出所:北海道拓殖銀行『有価証券報告書』各期、同『北海道経済統計』第27・36・37集、昭和37・39・41年版、および北海
貸出 24
表1-1
(単位:百万円)
預金・貸
本州
貸付金
預証 総店
出・有価
割引料
資本金
店舗 うち その
利息
率 舗数
証券の差
数 東 他首
額
京 都圏
12.7% 132 11
5
0
-6,441 1,479 1,933 1,251
13.7% 124 12
5
0
-5,137 1,438 1,937 1,328
13.4% 111 12
5
0
-2,998 1,398 1,989 1,252
13.1% 112 13
5
0
532 1,354 2,067 1,324
13.4% 107 13
5
0
5,204 1,309 2,124 1,327
13.3% 112 13
5
0
11,054 1,264 2,194 1,268
14.3% 112 15
5
0
5,785 2,220 2,439 1,232
11.8% 111 15
5
0
11,813 2,172 2,749 1,197
12.1% 111 15
5
0 -10,032 2,110 3,073 1,417
15.0% 112 16
5
0
10,965 2,045 3,347 1,599
15.5% 111 16
5
0
9,169 2,000 3,651 1,655
16.1% 111 16
5
0
8,230 4,000 3,808 1,622
17.4% 112 17
6
0
1,438 4,000 4,044 1,723
17.9% 112 17
8
0
2,468 4,000 4,364 1,915
17.4% 112 17
9
0
3,826 4,000 4,667 2,077
19.4% 112 17
9
0
-464 6,000 4,924 2,175
18.7% 113 18 10
0
5,920 6,000 5,361 2,375
18.1% 113 18 10
0
4,297 6,000 5,859 2,647
19.5% 115 20 12
0
7,330 6,000 6,285 2,774
17.1% 117 22 14
0
12,631 6,000 6,884 2,867
15.0% 120 23 15
0
38,814 6,000 7,469 3,123
14.4% 125 24 16
0
25,832 6,000 8,246 3,400
17.8% 130 27 19
0
17,876 12,000 9,271 3,833
20.0% 134 29 21
0 -18,590 12,000 10,110 4,060
20.9% 137 31 23
0
183 12,000 10,833 4,131
20.3% 142 33 25
1
-8,329 12,000 11,392 4,112
20.7% 146 37 29
1 -10,469 12,000 12,169 4,244
20.1% 147 38 30
1 -31,236 12,000 13,211 4,566
18.5% 147 38 30
1
-1,474 12,000 14,296 4,887
18.9% 146 38 30
1 -24,956 12,000 15,569 5,222
19.5% 148 38 31
1 -12,324 12,000 16,542 5,649
17,800
18.6% 147 39 31
1
-5,931 12,000
18,902
17.3% 146 42 32
1
23,030 12,000
18,902
17.3% 146 42 33
1
6,428 12,000
22,871
15.9% 147 44 35
1
39,841 12,000
24,730
14.6% 147 45 36
1
27,798 12,000
26,180
15.0% 148 47 36
3
77,965 12,000
28,749
15.8% 147 47 36
3
40,997 12,000
30,744
15.8% 144 50 36
6
59,561 12,000
33,321
15.3% 149 50 37
6
31,409 12,000
40,070
15.2% 150 52 37
8
4,209 20,000
51,987
15.3% 152 54 37
9 -34,833 20,000
66,153
15.0% 152 54 37
9
18,261 20,000
69,601
14.9% 152 54 37
9
23,146 20,000
69,247
15.1% 156 57 37
12
42,903 20,000
海道財務局『北海道金融月報』各号より作成。単位は百万円。
25
滞貸
当期
利益合 預金利
損失合
資本金
金償
利鞘
純利
計
息
計
利益率
却
益
4,289
4,642
4,801
5,243
5,378
5,665
6,011
6,704
7,214
8,091
8,693
9,312
9,893
10,859
11,593
12,688
13,760
15,662
15,802
17,333
18,658
20,882
26,489
28,955
30,893
33,258
35,417
38,876
41,519
44,848
49,171
23,981
25,832
28,464
30,774
33,121
35,289
38,361
41,489
45,267
53,676
69,859
87,563
92,690
96,290
1,005
1,095
1,322
1,634
1,723
1,996
2,150
2,453
2,733
3,107
3,520
3,972
4,348
4,900
5,337
5,940
5,887
6,793
6,696
7,627
8,332
9,287
10,062
10,845
11,529
12,510
13,357
14,490
15,214
16,484
17,745
10,345
11,186
12,005
13,029
14,113
15,640
17,724
19,641
20,877
24,081
28,567
38,355
41,771
44,137
44
68
65
110
165
179
100
109
163
124
140
102
111
3
5
87
5
36
4
34
34
39
49
59
58
159
89
67
31
52
440
62
12
390
103
140
32
7
78
94
171
29
19
76
112
3,929
4,312
4,373
4,812
4,950
5,252
5,532
6,085
6,584
7,450
8,037
8,611
9,184
10,130
10,846
11,936
12,903
14,779
14,857
16,352
17,639
20,215
25,809
28,084
29,919
32,252
34,402
37,841
40,453
43,757
48,056
21,767
22,756
25,413
27,141
28,738
3,186
32,208
35,506
40,211
47,687
63,401
80,037
85,129
83,793
359
329
428
431
428
413
478
619
630
640
656
701
708
729
747
752
857
883
945
980
1,018
666
680
870
974
1,006
1,014
1,035
1,065
1,090
1,114
1,144
1,382
1,721
1,897
2,397
2,486
2,512
2,683
3,057
3,371
3,409
2,803
2,983
3,623
48.5%
45.8%
61.2%
63.7%
65.4%
65.3%
43.1%
57.0%
59.7%
62.6%
65.6%
35.1%
35.4%
36.5%
37.4%
25.1%
28.6%
29.4%
31.5%
32.7%
33.9%
22.2%
11.3%
14.5%
16.2%
16.8%
16.9%
17.3%
17.8%
18.2%
18.6%
19.1%
23.0%
28.7%
31.6%
40.0%
41.4%
41.9%
44.7%
51.0%
33.7%
34.1%
28.0%
29.8%
36.2%
3.7%
3.7%
3.3%
3.0%
3.1%
2.7%
2.5%
2.5%
1.6%
2.7%
2.4%
2.1%
1.8%
1.8%
1.8%
1.5%
2.0%
1.8%
2.2%
1.9%
2.0%
1.8%
2.0%
1.6%
1.9%
1.5%
1.5%
1.3%
1.6%
1.5%
1.6%
1.8%
1.9%
1.5%
2.0%
1.8%
1.9%
1.7%
1.6%
1.4%
1.6%
2.1%
2.5%
2.4%
2.2%
表2 拓銀の貸出構成の推移 単位:百万円
1953.9
構成比
業種
金額
食料品製造
4,518 7.6%
木材及び木製品製造業
3,575 6.0%
3,164 5.3%
第一次金属製造業(鉄鋼)
石炭業
6,047 10.2%
卸売業
18,388 31.1%
その他とも合計
59,145 100.0%
1955.3
食料品製造
4,147 6.2%
木材及び木製品製造業
3,970 5.9%
3,635 5.4%
第一次金属製造業(鉄鋼)
石炭業
6,142 9.1%
卸売業
17,682 26.3%
その他とも合計
67,324 100.0%
1960.3
製造業
47,223 37.5%
商業
40,858 32.4%
鉱業
8,165 6.5%
地方公共団体
6,494 5.2%
その他とも合計
125,989 100.0%
1965.3
製造業
93,974 31.7%
卸売業・小売業
96,422 32.5%
地方公共団体
15,749 5.3%
その他とも合計
296,593 100.0%
1970.3
製造業
168,899 28.7%
卸売業・小売業
217,854 37.0%
地方公共団体
38,065 6.5%
建設業
29,114 5.0%
その他とも合計
588,226 100.0%
1975.3
製造業
357,254 25.5%
卸売業・小売業
429,346 30.7%
建設業
86,687 6.2%
サービス業
72,165 5.2%
地方公共団体
89,903 6.4%
その他とも合計
1,399,183 100.0%
出典:北海道拓殖銀行『有価証券報告書』より
作成。
注)第一次金属業は50年代後半刊行分の史料
から鉄鋼業と判断した。
26
表3-1 拓銀と都市銀行との経営拡大比較
単位は10億円
都市銀 標準偏
勘定/銀行名
拓銀
行平均
差
1955.3残高
預金残高
141
166
55
貸出計
61
134
48
外為取引計
0.08
18
22
有価証券投資
9
23
7
遊金
70
9
14
経常収支比率
77.6% 77.85%
2.22%
拓銀遊金シェア
105.8%
拓銀有証投資シェア
3.4%
拓銀預金シェア
7.0%
拓銀貸出シェア
3.70%
1960.3残高
預金残高
157
378
162
貸出計
126
611
359
外為取引計
0.2
64
92
有価証券投資
28
62
92
遊金
2
-295
233
経常収支比率
82.87% 84.17%
1.88%
拓銀遊金シェア
-0.1%
拓銀有証投資シェア
3.5%
拓銀預金シェア
3.2%
拓銀貸出シェア
1.6%
1965.3残高
預金残高
349
891
368
貸出計
298
656
405
外為取引計
7
150
150
有価証券投資
69
150
63
遊金
-18
84
200
経常収支比率
82.51% 85.74%
2.69%
拓銀遊金シェア
-1.7%
拓銀有証投資シェア
3.6%
拓銀預金シェア
3.0%
拓銀貸出シェア
3.8%
1970.3残高
預金残高
725
1,513
673
貸出計
593
1,308
576
外為取引計
42
238
243
有価証券投資
125
247
121
遊金
6
-43
60
経常収支比率
87.4%
85.92
3.61%
拓銀遊金シェア
-1.0%
拓銀預金シェア
3.2%
拓銀貸出シェア
3.0%
27
表3-2
勘定/銀行名
拓銀
単位は%
都市銀行
標準偏差
平均
1975.3残高
預金残高
1734
4151
貸出計
1453
3662
外為取引計
178
730
有価証券投資
257
617
遊金
23
-128
経常収支比率
92.3%
92.2%
拓銀遊金シェア
-1.4%
拓銀預金シェア
3.2%
拓銀貸出シェア
3.1%
貸出計
104.2
349.5
有価証券投資
211.1
169.6
外為取引計
157
291
遊金
-97.1 -337.80
経常収支比率
6.8
8.3
変化率(65.3-60.3)
預金残高
122.7
136.6
貸出計
136
13
有価証券投資
146.4
141.9
外為取引計
3,550
513
遊金
-100.00
-128.5
経常収支比率
-0.4
1.9
変化率(70.3-65.3)
預金残高
107.7
69.8
貸出計
99.0
99.3
有価証券投資
1685.7
64.7
外為取引計
500.0
58.6
遊金
-133.3
-151.2
経常収支比率
6.0
0.2
変化率(75.3-70.3)
預金残高
139.2
174.3
貸出計
145.0
179.9
有価証券投資
105.6
64.7
外為取引計
323.8
206.7
遊金
283.3
197.7
経常収支比率
5.5
-98.9
出典:『銀行局年報』各年より算出。
28
1602
1515
646
243
215
1.0%
1652
1214.3
143.9
156.4
2.2
14.9
41
-31.5
921.9
-14.2
2.7
82.9
42.2
-19.3
62
-70.0
34.2
138.0
163.0
-19.3
165.8
258.3
-72.3
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