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イタリア語の中動態について (その2)

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イタリア語の中動態について (その2)
東京外国語大学論集第 80 号(2010)
273
イタリア語の中動態について (その2)
山本 真司
はじめに
1. 用語について
2. 全体の展望
3. 統一的な名称と理論的枠組みの設定
4. 代名動詞とは予測不能の振る舞いをする動詞の事か
5. 代名動詞といわゆる使役交替について
6. 再帰動詞の (非) 統一的な扱い
7. 再帰的用法と自動詞的用法の中和
8. 少数派が代表選手
9. 「すり合わせ」の理念的な意義:非対格仮説に対して距離をおく
終わりに
はじめに
本稿および本稿に先立つ山本 (1995) [以下、
「前稿」と呼ぶことにする] の目的は、イタリア
語に関して、学校などで教育的目的に使われてきた伝統的な文法 (以下、
「伝統的な学校文法」
と呼ぶことにする) において再帰動詞と自動詞の問題として扱われてきた諸問題を、
「態」とい
う観点から動詞のパラダイムの中に位置づけることによって、
見通し良く整理することである。
その際に、非対格仮説をめぐる諸研究によって得られてきたさまざまな知見を援用するととも
に、伝統的な学校文法にできるだけ無理のない形で補足・拡張を施すことによって、非対格仮
説に関する理論的枠組みとの間に、いわば「すり合わせ」を行うことを目指す。全体の展望に
ついては、前稿に述べたので、本稿では、それに関連する諸事項に関する注釈を付け加えてい
くような作業が中心になるであろう。
もっとも、一口に「伝統的な学校文法」と言っても、実際には、教科書などを取り上げても、
細かい点については、著者・編者ごとに多少の違いがある。本稿では、坂本 (1979) や Serianni
(1988) などに主に依拠しつつ、それに、再帰動詞の解釈について優れた記述を提供する Devoto
- Oli のイタリア語辞典 (さまざまな版・刷があるが今回参照したのは 1995 のもの) の観点を
取り入れることとする。特に後者が採用している「中動態 (の自動詞) 」の概念は、本稿の目
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イタリア語の中動態について (その2):山本真司
指す、伝統的な学校文法と言語学的な理論とのすり合わせの発想の、直接のヒントとなったも
のである。そして、これらに加え、日本におけるイタリア語文法教育の一般的な状況を把握す
るために、わが国において出版され一般に普及している (と思われる) 教材を十数冊ほど
1)
参
照することにする。
また、非対格仮説の理論についても、それは1つではないが、大雑把に言って、Burzio (1986)
に代表されるような生成文法の理論の枠組みにおいて展開されたものと、Perlmutter (1989)
2)
や Rosen (イタリア語に関しては Rosen (1988) など) ― またイタリア人を挙げるとすれば、
La Fauci などが代表的な研究者であろうか ― などによって基礎を据えられた関係文法に連
なるもの、の2つに大別できるのではないかと思われる。両者の間には、依拠する理論的枠組
みはもとより、発想の違いがあると思われるが、本稿では、両者の「言葉遣い」の違いについ
ては必要に応じて触れつつも、むしろ共通点に注目して
3)
論を進めたいと思う。
また、非対格仮説の理論は、通言語的な観点から展開されてきた性格が強い (なお、そこに
は、レト=ロマンスを含む北イタリア諸語などイタリア諸方言からのデータの貢献も大きい)
が、本稿では、できるだけ論をイタリア語 (いわゆる標準イタリア語) に絞り、必要に応じて
英語への言及を最少限行なうにとどめる。これは、非対格仮説の理論に関しては英語からのア
プローチに拠る研究者が多数を占めるという我が国の状況 (我が国に限ったことではないかも
しれないが) に加え、研究者の間では、各言語 (本稿の場合にはイタリア語) の伝統的な学校
文法における用語体系の慣習を考慮せずに、それこそ「通言語的に」英文法の用語を用いるこ
とが広まりつつあるようであり、幾らかの説明なしには誤解が生じかねないという事情による
ものと御了解いただきたい。
1. 用語について
最初に本稿で用いられる重要な用語について、誤解を招きやすい点を説明をしておきたいと
思う。
(1) 「再帰動詞」と「代名動詞」
イタリア語の文法では、再帰代名詞とともに用いられた動詞の
ことを、その意味・用法にかかわらず、おしなべて「再帰動詞」 と呼び、その再帰動詞の中で、
再帰代名詞がもはや「自分自身を」
「自分自身に
4)
」と訳せるような意味を持たず、再帰代名
詞と動詞が一体となって実質上1つの語を形成しているようなものを、特に「代名動詞」と呼
ぶのが普通となっている。これは、ヨーロッパのいくつかの言語の文法用語体系における慣習
と異なるので注意を要する。
「代名動詞」は、再帰代名詞が動詞の一部となってしまっていると
いうことで、もはや動詞が直接目的語を伴っているとは言えない状態なので、
「自動詞的用法の
再帰動詞」(あるいは再帰動詞の自動詞的用法) とも呼ばれる。それに対して、再帰動詞の (と
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いうことはつまり、再帰代名詞の、とも言えるが) 用法の中で、
「自分自身を」
「自分自身に」
という意味がいまだ認められるようなものは、本稿では「狭義の再帰」
「本来の再帰」と、そし
て、そのような用法で使われている再帰動詞を従来からの名称に従って「本質的再帰動詞」呼
ぶようにする。この「本来の」というのも、再帰動詞としてしか用いられない動詞を「生来の
再帰動詞」verbi inerentemente riflessivi 5) と呼ぶのと紛らわしいかもしれないので御注意いた
だきたい。
(2) 「中動態」という訳語 態を表わす、イタリア語で medio また英語で middle という語に関
しては、記述される言語、文法の学派などによって、さまざまな訳語が当てられ、日本語とし
ては一定の訳語が無いようである。
「中相」
、
「中動態」
、
「中間態」など。筆者は、便宜的な選択
ではあるが、
「中動態」と言う語を用いることにしている。ただし、よく知られている通り、今
や、英語の文法で「中間態」と言う場合、それは本稿で言うような中動態のことではなくて、
This book sells well.「この本はよく売れる」のような擬似的な受動の構文を指すことが普通の
ようである。最近では、イタリア語の文法を語る際にも、 (生成文法の) 英語の用語を用いて
いるのを頻繁に見かけるようになったので (例えば「複合時制」の諸形のことを「完了形」と
呼ぶなど)、
上記の擬似受動態 (これに一番近いイタリア語の構文はおそらく不特定の意味の si
のそれであろうか) の意味で「イタリア語の中間態」という名称が用いられるのを見かけても
不思議ではないのかも知れないが、本稿ではそのような用語の用い方はしない。
(3) 「非対格」という訳語 本稿で「非対格」とした inaccusativo には、当初はさまざまな訳語が
充てられてきた。
「反対格」
、
「脱対格」
、
「非対格」など (これに、かって一部の研究者によって、
inaccusativo と同じ文脈で、しかし、不適切に用いられていた「能格 (的)」ergativo という語
も加えることもできようか)。筆者もかつては「脱対格」を用いていたが、現在の大勢としては、
「非対格」という語が定着しつつあるようなので、本稿でもそれに倣うこととする。なお、正
確に言うと、inaccusativo という語は、形容詞としても名詞としても用いられるので、前者の
場合には「的」
「的な」などを、また後者の場合には「構文」
「動詞」など適当な名詞を、補っ
て表わすこととする。
2. 全体の展望
前稿より本稿に至るまでにだいぶ時間が経っていることもあり、参照の便宜のため、前稿の
要点を手短に振り返っておきたい。筆者の提案の主要な点は、次の通りである (ただし、論の
展開の順序および引用した用例は、必ずも、この通りではない)。
(1) イタリア語の態として、学校文法で従来から広く認められてきた 6)、能動態、受動態、再
帰態に加えて、Devoto - Oli の辞典にならって、中動態 medio を設定する。中動態は、まず、
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イタリア語の中動態について (その2):山本真司
能動態との交替 (いわゆる「使役交替」と呼ばれるもの) によって認識・定義される。つまり、
中動態においては、対応する能動態において主語であった要素に替わって、直接目的語であっ
た名詞句 (次の例の場合では la luce) が主語となる。
1) Spegniamo la luce.
7)
「私たちは明かりを消す」[能動態]
(spegniamo 「私たちは消す」
、la 定冠詞女性単数形、luce「明かり」) 8)
2) La luce si spegne all’improvviso.「明かりが突然消える」[中動態]
(si spegne「(それは) 消える」
、all’improvviso.「突然」)
この交替は、能動態と受動態の場合のと、全く同一ではないにせよ、似ていると言える。
3) Spegniamo la luce. [能動態] (= 例文1)
4) La luce viene spenta dopo cinque minuti. [受動態]
「明かりは5分後に消される」(viene spenta「消される」
、dopo cinque minuti「5分後に」)
意味の観点から言うと、
「主語 A が直接目的語 B に何らかの作用を加えて、その B の状態を変
化させる」という意味の文 (「A +能動態の動詞+ B」) が能動態として存在し、それに対応
して、
「主語 B は状態が変化する」という意味の文 (「中動態の動詞+B」) が中動態として存
在することになる。
(2) なお、Devoto - Oli において中動態と認められたのは、再帰動詞の用法の一部 (先に述べた
「代名動詞」) であったが、再帰動詞ではない、言わば「単純な」自動詞の中にも、同様に能
動態との交替を示すものがある。このような構文も、中動態に含めることにする。
5) Cominciamo la lezione. 「私たちは授業をはじめる」[能動態]
(cominciamo「私たちははじめる」
、lezione「授業」)
6) La lezione comincia alle tre.「授業は3時にはじまる」[中動態]
(comincia ここでは「(それは) はじまる」
、alle tre「3時に」)
ここでも、能動態における直接目的語が、中動態では主語になっていることに注意。なお、こ
のような中動態の構文を構成できる自動詞の大きな特徴の1つが、複合時制を構成する際に助
動詞として動詞 essere「である」を用いる (以下、
「essere を助動詞選択する」と言うことに
する) ことであることは、非対格仮説の理論の注目するところとなる以前から、すでに伝統的
な学校文法でもしばしば指摘されてきた。
7) Abbiamo cominciato la lezione. 「私たちは授業を始めた」[能動態、助動詞は avere「持
つ」] (abbiamo cominciato「私たちは始めた」
、lezione「授業」)
8) La lezione è cominciata alle tre.「授業は3時に始まった」[中動態、助動詞は essere「で
ある」] (è cominciata「(それは) 始まった」
、alle tre.「3時に」)
(3) 中動態の構文には、
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① 分格の代名詞 ne を主語と関係して立てることができる。
② 主語の基本的な位置が動詞の後部である。
③ 過去分詞を用いて独立分詞構文を構成することができる。
④ 状態や移動を表わす。
などの特徴がある。ところで、これらの点で中動態と同じ特徴を示すのに、対応する能動態が
存在しないような構文が存在する。そこで、そのような構文も、中動態と見なすことにする (中
動態の概念の拡張
9)
)。そのような構文を構成する動詞には、再帰動詞の形をしているものも
あれば単純な自動詞の形をしているものもある (後者の場合は、対応する能動態が存在する中
動態の自動詞の場合と同じく、essere を助動詞選択する)。
9) Si pente del proprio errore「彼は自分の過ちを悔いる」[中動態、再帰動詞の形を取る]
(si pente「(彼は) 悔いる」
、del 前置詞 di「に関して」+ il 定冠詞男性単数形、proprio
「自分の」
、errore「過ち」)
10) * Lo pento del proprio errore「私は彼に自分の過ちを悔いさせる (?) 10)」
(lo「彼を」
、pento もし存在すれば si pente に対応する能動態 [直説法現在 1 人称単数]
だが、現実には存在しない)
11) È caduto per terra「彼は地面に倒れた」[中動態、再帰代名詞は付いていない]
(è caduto「(彼は) 倒れた」
、per 前置詞「に」
、terra「地」)
12) * Lo abbiamo caduto per terra. 「私たちは彼を地面に倒した (?)」
(* abbiamo caduto もし存在すれば cadere の能動形 [直説法近過去 1 人称複数] だが実
際には存在しない)
ここまで拡張すると、中動態の名のもとに、「代名動詞」の構文と「essere を助動詞選択する
自動詞」(以下「aus. essere 自動詞」と称することにする
とめられ、その概念は、非対格 (ただし受動態を除く
12)
11)
) の構文がひとつのグループにま
) のそれが指し示すものとほぼ重なる
にまでに至り、これで、一応、伝統的な学校文法と非対格仮説の「すり合わせ」の筋書きは完
成する。
このような重ね合わせは、非対格仮説の研究によって得られた知見を、伝統的な学校文法の
中に取り入れるのに役立つということは、説明するまでもないであろう。しかし、それだけで
は、新しい文法理論に、従来の伝統的な学校文法から借りてきた別名をつけて、装いだけ変え
たに過ぎないかのように響くであろう。しかし、筆者は、
「中動態」という概念を鍵に問題の展
望全体を見直してみることによって、伝統的な学校文法の「改良」のためにも、また、非対格
仮説の問題の考察にとっても、ささやかながら有益な貢献ができるものと信じる。以下でそれ
を説明していきたい。
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3. 統一的な名称と理論的枠組みの設定
まず、本稿と前稿の提案 (以下「本案」と呼ぶことにする) における「中動態」が、
「非対
格動詞」の単なる別名ではないことを、いくつかの観点から説明しておきたい。
何よりも問題なのは、
「非対格」( およびその対義語である「非能格」) という形容を用いる
時、それが付される対象は何であるかということである。しばしばなされる「非対格動詞」と
いう言い方は、
「非対格の構文を構成することを特徴とする動詞」という意味を表わしたいので
あろうが (例えば、venire「来る」は非対格動詞で camminare「歩く」は非能格動詞である、
.
のように)、
「非対格」というのをある語の特徴とすることの不適切さは以前から指摘されてい
.....
る。
「非対格的」であるのは、ある特定の動詞ではなく、その動詞の個々の用法であるからであ
る。13) 例えば、cominciare「はじめる」は、能動的、受動的
14)
など、さまざま構文を取り得
るのであり、非対格的と言えるのはそのさまざまな用法の幾つかに過ぎない (もっとも、既に
見たように、イタリア語では中動態の構文しか持たない ― ということは、非対格的な構文し
か持たない ― 動詞も確かに存在するが)。15)
さて、このようにして、語彙に付される「看板」ではなく、その語の用法の1つとして位置
づけのし直しをするべく、
「非対格」を、能動、受動、再帰、などとともに並べてみると、これ
らの用法の間の差異を「態」の差と考え、この「非対格」というあり方も態の1つとみなすこ
とは自然であろう。このように、
「非対格」を中動態と定義づけることによって、この現象が、
語彙的な特徴に属するというよりも、動詞の「態」のパラダイム中の1つの役割である (ちょ
うど「現在」や「過去」が「時制」のパラダイム中の役割であるのと同じく) ということをよ
り鮮明に浮き彫りにできるであろう。
もっとも、
「中動態」という名前も最良のものではないのは確かである。特に積極的な意味づ
けを持つわけでもなく、現実をぴったりと表わす意味構造を持っているわけでもない (それは
せいぜい能動でも受動でもどちらでもない、ということを意味するに過ぎない)。16) ただ、重
大な理論的矛盾を抱えているわけでもないので、伝統的な用語として親しみやすいという点も
考えれば、まずまずの名称ではなかろうか。いずれにせよ、重要なのは、
「中動態」の中身がき
ちんと定義されていることであり、それさえなされていれば、もし名称の代替案が出ても、そ
れによって本質的な相違がもたらされることはないであろう。
また、
「非対格」という名称のカバーする意味範囲は、
「中動態」の構文のそれよりも広いと
いうことも指摘しておきたい。直接目的語であったものが最終的に主語として (つまり対格で
はないものとして) 現れてくる、というのが非対格的な構文であるならば、受動文も非対格の
構文である。事実、Salvi / Vanelli (1992) や Renzi / Salvi (1991) などでは、
「非対格」は、まさ
に、このような、本案が中動態として定義した構文に加えて受動態をも含んだ広い現象として
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定義されている。17) つまり英語におけるように、ある種の自動詞の名称として「非対格動詞」
を用いるということはしていないのである。このような細かい点も、本案が定義し直した「中
動態」の概念を用いれば、
「受動態の文も、中動態の文も、非対格の構文の一種である」と定義・
表現することができ、舌足らずや誤解の余地をなくすことができるであろう。
さらに、本案が「中動態」と名づけたイタリア語の諸構文、また、その諸構文を実現するよ
うな動詞群には、今まで、それを統括するような名称がつけられたことがなかったことにも注
意しておきたい。伝統的な学校文法では、そもそも、代名動詞と aus. essere 自動詞が同じ構
文を取る動詞であるという認識がなかったわけであるから、この2つを統合する名称がなかっ
たことは当然であろう。しかし、いささか驚くべきことに、この2つの動詞を同じ観点から扱
うことを可能にした非対格仮説の立場からも、そのような統一的な名称を設定しようという試
みがなかったように見えるのである。したがって、いままで統一的名称のなかったものに「中
動態」という名称を設定することによって、記述上、1つの共通の枠組みの中で取り扱うこと
ができることも、本案の利点と考えられよう。
4. 代名動詞とは予測不能の振る舞いをする動詞の事か
さて、その中動態の構文を構成する動詞の中で中心となる動詞群の1つは、伝統的な学校文
法において「代名動詞」と呼ばれてきたものである。 先に見たように、これは、自動詞的に用
いられる再帰動詞であるとされる。しかし、この代名動詞の定義・特徴については、問題があ
るので、以下しばらく検討してみたい。
狭義の意味での再帰「自分自身を・自分自身に … する」 (いわゆる相互再帰もこのどちら
かに還元可能なものとして話を進めるとして) として説明できない一群の語をひとまとめにす
る、というのが代名動詞というカテゴリーを設ける意味であるが、この発想自体は間違ってい
ないと思う。
問題となるのは、これと並んでたびたび出てくる「代名動詞とは、それに対応する他動詞 (能
動態) の用法が存在しない動詞のことである」という主張である。つまり、普通の再帰動詞は、
再帰代名詞を取り除けば (あるいはその再帰代名詞を再帰でない代名詞あるいは名詞句で置き
換えれば) 普通の他動詞の用法が出来上がるが、代名動詞は再帰代名詞なしには用いられない
動詞
18)
である、ということである (例文 9 および例文 10 を参照)。
確かに、能動態としての用法が存在しない場合には、
「自分自身を・自分自身に … する」
も考えられないから、そのような動詞に再帰動詞としての用法があるならば、それは狭義の意
味での再帰ではあり得ない。ならば、それは、自動詞的用法の再帰動詞すなわち代名動詞であ
るということになる。ただ、これは、
「能動態の用法が存在しないような動詞が再帰動詞として
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イタリア語の中動態について (その2):山本真司
用いられている場合は、それは代名動詞でしかあり得ない」ということであって、逆の命題「あ
る語に代名動詞としての用法が存在する場合には能動態の用法は存在しない」が正しいかどう
かは、命題自体からは判らないはずである。
実は、
この最後の命題が正しくないことは、
使役交替を示す動詞を考えてみるとすぐわかる。
例えば、accendiamo la luce「我々はあかりを灯す」に対応する再帰動詞の用法 la luce si accende
の意味は「あかりが灯る」(自動詞的用法) であって「あかりが自分自身を灯す」(狭義の再帰
的用法) ではない。ならば、このような再帰動詞の用法も、代名動詞に分類するべきものであ
る。つまり、このような動詞の場合、代名動詞としての用法も能動態の用法も持っているので
ある。
実は、この si accende 「灯る」の類が代名動詞ではなくて、これも狭義の再帰に還元できる
ものである、という説 (誤解と言うべきか) が存在する。それを支えているのが、
「転用」とい
う説明の仕方である。例えば、Luca si sveglia 「ルーカ (人名) は目覚める」というような文
.....
の si sveglia「目覚める」を「自分自身を目覚めさせる」の転用であるというように説明するの
である。これも、本来、
「目覚めた状態になる」という自動詞的用法、つまり、代名動詞と考え
れば解決がつくものである。しかし、代名動詞は再帰代名詞なしには用いられない動詞だから
si sveglia は代名動詞とは考えてはいけない (事実、lo sveglia la mamma「お母さんが彼を起こ
す」のような他動詞的な構文は確かに存在する) という前提から出発すると、何とか狭義の再
帰的用法として説明しなければならなくなる。しかし、眠っている状態で意識的な行動ができ
ない時に、人が自分自身に何かをしようとして行動を起こすのは不可能であり、厳密な意味で
の「自分自身を目覚めさせる」というのはあり得ないから、そこから「転用された」と考える
という発想に至るのであろう。
代名動詞とはそれに対応する他動詞 (能動態) の用法が存在しない動詞のことである、とい
う誤解は、代名動詞の範囲から、使役交替を示す動詞を排除することとなる。すると、実は代
名動詞に加えられるべき動詞は、再帰的用法の仲間に分類されてしまう。これは、再帰の概念
と自動詞的用法の概念との混同をさらに悪化させることになってしまう。
.........
多くの教材・文法書においては、代名動詞については、
「再帰的用法としては説明がつかない」
ということが、端的に「説明がつかない」
「説明が困難である」ということであると誤解されて
いるふしがある。つまり、なぜそういう意味になるのかシステマティックな予測が不可能であ
ると決め付けてしまうということである。なるほど、代名動詞のうちどのような語が使役交替
を示さないのかという問いについて言えば、それはおおむね語彙的に決まっているものである
から、予測や説明は困難であるとは言えるかもしれない。しかし、それでも、その用法は「状
態や移動を示す」という中動態の一般的な傾向に沿ったものであるとは言えるし、使役交替を
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ともなった動詞であれば能動態の意味に基づいて何らかの説明が可能である。説明がつかない
ものが代名動詞である、という考えは改めるべきであろう。
5. 代名動詞といわゆる使役交替について
さて、本案の要点のもう1つは、中動態を定義するのに、まさに、この能動態と中動態との
交替、つまり、他動詞の構文と自動詞 (普通の自動詞も代名動詞も含めて) の構文の交替 (使
役交替) を、重要視し、そこを論の出発点としたことである。
このような交替に注目することは、伝統的な学校文法においても、また、非対格仮説の諸理
論においても、既に行なわれている。しかし、本案におけるその取り扱いは、イタリア語の伝
統的な学校文法のあり方を幾つかの点でひっくり返すものである。
まず、前章で見たとおり、伝統的な学校文法における代名動詞の説明・整理においては、こ
のような交替を伴った動詞は、どちらかと言うと、無視されるか隅に押しやられていた。そこ
で「主役」であったのは、むしろそのような交代がない動詞 (つまり再帰動詞の形でしか用い
られない動詞) であった。その隅に押しやられていた動詞群を、本案における中動態の概念に
おいては、中心的な位置に据えたのである。
そのような位置付けの変更は、また、説明における理解の序列を変えることをも意味する。
一般に説明においては、一般的なものを理解させたうえで、その一般例を出発点として、そこ
から幾つかの点で外れる性質を持つような特殊例を解明する、というのが普通の、そして、聞
き手に強い抵抗感を抱かせない、手順であろう。それを考えると、特殊な例 (自動詞的用法し
か持たない動詞) には注目するが、それからより普通の振る舞いをする動詞 (使役交替を持つ
動詞) には十分な注意を払わないという従来の代名動詞の説明はいささか不自然であったと言
わざるを得ない。それに対して、本案は、普通の使役交替動詞 (能動態も中動態も持っている)
を提示した上で、そのような交替を持たない (中動態しか持っていない) 動詞を説明するとい
う、より自然な説明の方法を採用したことになる。
さらに、このような説明方法の変更は、実は、説明可能性 (透明性) についての理解をも逆
転させることにもなる。つまり、伝統的な学校文法においては、代名動詞は説明が困難なもの
と誤解されがちであったのだが、本案の中動態の枠組みにおいては、同じ動詞群が、基本的に
説明可能なものと考えられている、ということである。つまり、具体的に認識可能な、主語―
直接目的語の交替 (意味の上で何かしか関連性がある2つの文があって、一方で直接目的語で
あった要素が他方では主語として現れている) という現象を出発点に据えたこと、そして、そ
こから、やはり具体的に認識可能な幾つかの現象を参照しつつ、漸進的な、無理のない概念拡
張を行なうこと、という手順を踏んでいるということである。
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イタリア語の中動態について (その2):山本真司
以上、使役交替が、本案のような、態を中心とした動詞組織の説明の再編成・再理解にとっ
て、鍵となることを見てきた。ただし、それには、それと表裏一体である自動詞的用法の現象
およびその周辺の諸現象が正確にそして厳密に理解されていることが条件である。しかし、実
際には、既に見たように、代名動詞に関するさまざまな誤解が、全体の展望についてより踏み
込んだ解釈を実現するのを妨げていたとも言えるのである。
6. 再帰動詞の (非) 統一的な扱い
本案のさらにもう中心の1つとなるのは、代名動詞の構文と aus. essere 自動詞の構文とを
1つのグループにまとめて、それを中動態として扱うという発想である。両者に共通の構造を
認めるというアイディアは、
筆者の場合は、
非対格仮説をめぐる諸理論から学んだものである。
しかし、もともと、伝統的な学校文法には、そのような扱い方を正当化するような契機がすで
に含まれていた。狭義の再帰的用法 (「自分自身を・自分自身に … する」) から代名動詞を
区別すること、また、それを自動詞的な用法と考えること、などである (代名動詞 intransitivo
...
pronominale という名前も正確に字義的に訳すと「代名自動詞」であることも、そういう意味
に解釈できるのではないか)。
また、自動詞を、avere を助動詞選択する動詞と essere を助動詞選択する動詞とに分類する
ということは伝統的な学校文法で既に行なわれており、後者に、(再帰動詞一般および受動態諸
形と並んで) 状態の変化や移動を表わす自動詞が含まれることは、分類の目安としてしばしば
指摘されてきたのである。
したがって、伝統的な学校文法においても、代名動詞の構文と aus.essere 自動詞のそれとに
同じ構造を認めるまではあと一歩のところであったはずなのである。にもかかわらず、そのよ
うな発想に至らなかった。それにはいろいろな理由が考えられる。
その1つは、再帰動詞と自動詞という形態上の形の違いに余りにもとらわれてしまった、と
いうことであろう。つまり、代名動詞をあくまでも再帰動詞の諸用法という枠内で解決しよう
とする態度から抜けることができなかった、つまり、再帰動詞という1つの形に、さまざまな
用法があり、その用法の1つとして代名動詞がある、という発想から離れることができなかっ
た、ということである (これには、もちろん、教育的配慮から、明瞭に認識可能な「形態」と
いう側面から出発する必要があるという制約もあってのことであろう)。
伝統的な学校文法が再帰動詞を一括して扱う発想から抜けられなかったもう1つの理由は、
諸用法の分類が不徹底であったことであろう。つまり、諸用法の分類の混同のゆえに、狭義の
再帰的用法とそうでないものとの区別 (ということはここでも代名動詞の問題が絡んでいる)
が、徹底されなかったということである。このような不徹底は、代名動詞を狭義の再帰動詞か
東京外国語大学論集第 80 号(2010)
283
ら切り離した扱いをすることを躊躇させる動機となり、また、ある人たちの目には、両者を統
一した扱いで説明できるというプランが有力であるように映り続けた原因でもあった
19)
ので
はなかろうか。
念のため申し上げれば、再帰動詞のさまざまな用法を、
「再帰」という意味に基づいて統一し
た基準で説明することが可能であるかどうかは、即断できない問題であろう。しかし、ある特
定のレベルにおいては、狭義の再帰と自動詞的用法の区別を行なうことが有益であるというこ
とを、非対格仮説をめぐる諸理論は示唆しているように見える (例えば、関係文法では、始発
層に、狭義の再帰の場合には主語と直接目的語の multiattacco を設定し、自動詞的用法の場合
には主語を欠き直接目的語持った非対格層を設定する、というようにして、両者を区別してい
る)。そのような有益さを妨げるような形で、両者をただ単に混同する (それは両者をきちんと
区別した上でさらに上のレベルで統合するというのとは別の態度である) というのは避けるべ
きであろう。
しかし、そのような統一を試みる理論とは異なり、再帰動詞のさまざまな用法、特に再帰代
名詞が対格である場合と、自動詞的用法とを、ただ単純に混同するような記述がしばしばなさ
れてきたことも指摘しておかなければならない。すでに、そのような混同の例を幾つか見てき
たが、以下、もう1つ、そのような混同の例を見ておこうと思う。
7. 再帰的用法と自動詞的用法の中和
再帰動詞 alzarsi「起きる」は、教科書に再帰動詞の代表選手として選ばれることの多い語の
1つであり、本質的再帰代名詞 (狭義の再帰的用法) の典型とされている。ところが、(少なく
ともイタリア語文法の分野では) あまり指摘されてこなかったが、この語は典型的な再帰動詞
というよりは、むしろある意味では特殊なものである (そしてその特殊性に人は惑わされてし
まう) のである。
実は、
「起きる」には2つの異なった解釈が可能である。1つは、
「自分自身を起こす」つま
り「自分の身を起こす」 (狭義の再帰)。もう1つは、「起き上がった状態になる」 (自動詞用
法、本稿の中動態)。最終的には、どちらの解釈も、
「起きる」という意味に至るので、少なく
とも表面的にはこのような2つの解釈の違いが深刻な問題を引き起こすことはあまりない。20)
このような2つの解釈を許容するがどちらの解釈を取っても結局は同じ意味 (訳) になって
しまう再帰動詞は幾つかあって、どれもごく普通のに用いられるものである。coricarsi「横に
なる」(<「身を横たえる」[再帰的解釈] あるいは「横たわった状態になる」[自動詞的解釈])、
sedersi「座る」(<「身を据える」[再帰的解釈] あるいは「座った状態になる」[自動詞的解釈])、
muoversi「動かす」(<「身を動かす」[再帰的解釈] あるいは「動いた状態になる」[自動詞的
284
イタリア語の中動態について (その2):山本真司
解釈])、spostarsi「移動する」(<「自分の身をある場所から別の場所へ移す」[再帰的解釈] あ
るいは「ある場所から別の場所へ移った状態になる」[自動詞的解釈])、fermarsi「止まる」(<
「自分自身を止める」[再帰的解釈] あるいは「止まった状態になる」[自動詞的解釈])、
allontanarsi「遠ざかる」(<「自分自身を何かから遠ざける」[再帰的解釈] あるいは「遠ざかっ
た状態になる」[自動詞的解釈])、avvicinarsi「近づく」(<「自分自身を何かに近づける」[再帰
的解釈] あるいは「近づいた状態になる」[自動詞的解釈])。
このような2つの解釈が可能な状態が存在していることは、狭義の再帰的用法と自動詞的用
法とはもともと区別がないものであるという意味ではなく、
たまたまこれらの動詞の場合には、
この2つが形態・意味の上でいわば中和を起こしているのだと理解するべきであろう。したが
って、これは根本的にはむしろ多義性の問題というべきである。しかし、そのような2つの似
た意味がかなり頻繁に同居するという事態は、この2つがいわば同一である (あるいは比喩的
な言い方をすれば一心同体である) という印象を作り出してしまうのである。21)
8. 少数派が代表選手
実は、alzarsi のように解釈を一意的に確定するのに問題のある動詞や、svegliarsi のように
本当は代名動詞なのに狭義の再帰動詞と誤解されている動詞を除くと、狭義の再帰的意味を持
っている再帰動詞はそれほど多くはない。22) さらに、その中から日常の用途において頻度数の
高いものとなるとさらに少なくなる。したがって、常用性の点から言えば、構造上純粋に再帰
的用法を示す用法よりも、そうでない諸表現のほうが、より頻繁に使われるゆえに、再帰動詞
の典型であるという印象を与えてしまうことになる。この印象は、本来の再帰とは何か (とい
うことは、裏返しには、本来の再帰でないものは何か) を理解する妨げとなる恐れがある。
ここには、無標 (あるいはこのケースでは典型と言っても良いかも知れない) というものの
理解に関する理論上のまた実践上の困難さというものが現れている。機能・構造の上で、一番
単純で、二次的な付加要素がなく、ほかのさまざまな派生形の説明の元となる、という意味で
の無標形は、実は、数あるいは頻度数の点で稀な例である (さまざまな副次的な要素の影響を
被っていない例ということだから) ということはたびたびある。また、逆に、頻繁に出てくる
例を、典型であると考えて、それを他のさまざまな変種を説明する出発点にしようとすると、
実は、そのような例は、機能・構造のうえではそれなりの特殊事情を抱えていて、その特殊事
情を捨象すること無しには、他のケースの説明には応用できない、ということも起こりえる (そ
れでも、このような「特殊な」例も、頻度数・常用性の点から言えば、
「無標」なのだという考
え方もあるが)。
また、教育上の配慮の問題もある。もし、純然たる文法構造の説明のために説明を組み立て
東京外国語大学論集第 80 号(2010)
285
ることが許される場合には、用例の選び方も、理論的整合性を念頭において置けばよい。とこ
ろが、会話なり講読なりのテキストを理解させるためならば、テキスト中に出てくる用例に直
..
結した説明が求められる。そして、日常よく用いられる語彙や語法が、同時に、文法体系の説
明に都合の良い、端的な構造をしているという保障はないのである。
教材の作成などに関わる制約には無理からぬ事情があり、やはり、ある程度、実用性との妥
協が求められる。それはそうとして、いや、そうであるからこそ、理論的な問題を再検討しよ
うとする場合には、一度、そのような制約に置かれた状況から自由になってみて、関係する諸
要素を見直す、ということも必要ではなかろうか。23)
9.「すり合わせ」の理念的な意義:非対格仮説に対して距離をおく
本案における重要な作業は、新しい理論を伝統的な学校文法に当てはめるということのみな
らず、むしろ、伝統的な学校文法の中にある、不徹底や矛盾を解消することによって、できる
だけ理論的整合性の取れた記述を目指すことである。そのようにして、欠点やごみをきれいに
取り除いて整理し直せば、伝統的な学校文法の枠組みも、非対格という仮説こそ形成しなかっ
たとはいえ、全体の展望としては非対格仮説の諸理論と大きくは異ならないことがわかってい
ただけると思う。
しかも、本案の立場は、非対格という仮説が伝統的な学校文法に欠けていることは、致命的
な欠点ではないと考える。その意味では、本案は、矛盾しているようだが、非対格仮説自体に
は、決定的な重要性を与えない。実は、
「すり合わせ」の筋書きを構想する際に気をつけたのは、
話の大前提として、(よかれ悪しかれ一般常識となっている伝統的な学校文法以外に) 特定の学
派の理論を受け入れることを要請するような論の組み立てを極力避ける、
ということであった。
イタリア語は、
非対格仮説の研究の展開に、
そのごく初期より関わってきた言語であるため、
研究に多くの貢献 (また厳密に言うとイタリア語ではないがイタリア諸方言の研究からもたら
された莫大なデータと研究のことも忘れてはならないであろう) をするとともに、その恩恵に
多く浴してきた言語であると言える。ただ、そのような恩恵に与ろうとするときに問題となる
のは、それらの研究の成果が、(少なくともイタリア語文法においては) 生成文法なり関係文法
なり、特定の理論の枠組みを前提にして解説・提示されることが多かった、ということである。
生成文法に基づく Burzio (前掲書) や 関係文法に則った La Fauci などはそのような研究の代
表例であろう。
そのような論法は、生成文法なり関係文法なり特定の言語理論やまた非対格仮説そのものに
科学的に賛成できない人 (そもそも人間の頭脳の中で起こっているプロセスを直接覗いて見る、
ということが困難な現在の状況にあっては、非対格仮説の主張は、直接観察可能な事実では無
286
イタリア語の中動態について (その2):山本真司
くて、あくまでも作業仮説に留まるのだから) は、議論そのものから排除されてしまいかねな
い。
したがって、
「非対格仮説」という理論あるいはその名を持ち出さずとも、実質上、その理論
の発展上得られたの知見を生かして関係事項を理解することが可能になる、ということは、さ
まざまな研究の立場を超えた交流のためにも、また、理論に対して良心的な立場を保つ (どん
な理論でも、将来、修正されたり捨てられたりしてしまう可能性は常にあることを忘れないこ
と) ためにも意義のあることであり、本稿の理想とするところである。
本稿では、
能動態との交替という、
明白でよく知られている事実に基づいて中動態を定義し、
それを漸次的に、やはりかなり明確で具体的な言語現象の理由に基づき、拡張していく、とい
う論法を取った。これは、できるだけ多くの人を議論に参加することを可能にするの役に立つ
と考えている。実は、非対格仮説をめぐる研究のかなりの部分は、理論の整合性を巡る議論と
いうよりも、非常に具体的な言語現象についての観察で占められているので、このような、客
観的事実の認識は、理論的立場の違いに関わらず、研究者の間で共有可能であろうし、共有す
るべきであろう。
終わりに
本稿では、紙面の許す限り、中動態に関するさまざまな問題を取り上げてきたが、取り上げ
るべき関連事項はまだ多くあり、また機会があれば引き続き「イタリア語の中動態について(そ
の3)」の執筆も考えたい。また、筆者は、本案に基づいた文法の授業を自らの講義で実践して
いるが、それについても、使用している配布資料なども含め、この一連の論文とはまた別に 1
つの形にまとめることができれば、と思っている。
注
1)
会話表現集のような、文法の説明にはあまり力を入れていない教材をここで取り上げるのはあまり意味がな
いであろうから、初級文法という内容およびレベル上の制約がありつつも、それなりにきちんと文法を説明
しようとしていると見える学習書を、選んで特に参照した。
2)
非対格仮説一般に関しては、Perlmutter (1978) を挙げるのが普通であるが、イタリア語に関しては この
Perlmutter (1989) が最も完備していると思う。
3)
ただし、筆者としては、少なくとも非対格仮説の扱いに関しては、GB 理論およびそれ以降の生成文法より
も、関係文法のほうが、いくつかの点で優れているの印象を持っている。例えば、かって広まっていた、非
対格的構文を構成する動詞のことを「能格動詞」と呼ぶ間違いも、関係文法のダイナミックな枠組みでは起
こり得なかったろうと思われる。
4)
与格の再帰代名詞を伴ったいわゆる「形式的再帰動詞」についての議論は、再帰動詞の記述・分類には不可
欠の点であるが、中動態の議論には直接あるいは密接に関連するわけではないので、本稿では詳しく取り上
げない。ただ、基本的には形式的再帰動詞の問題は与格のそれに還元できる (もちろんそのためには与格の
用法についての充実した記述が前提となるが) ということで解決できるものと思われる。
東京外国語大学論集第 80 号(2010)
287
5)
文法用語を欧名で引用する場合、特に断らない場合には、イタリア語の形を用いてある。
6)
正確に言うと、能動態と再帰態についても、後に見るように、修正が加えられるので、その内容は従来どお
りのものではない。再帰動詞の構文のうち自動詞的用法は中動態に入れられるので、結局は、狭義の再帰の
用法のものだけが再帰態の構文と言うことになる。また、自動詞の構文についても、その一部は中動態に分
類されるので、残ったものが、(他動詞の構文とともに) 能動態に入れられることになる。
7)
例文については,特に典拠を明示していない場合は,日常会話や筆者が授業で用いている自家製の教材・配
8)
例文に添えた語注は, 用例の理解に必要最少限のためのものであって, 各語句の文法的機能についての詳細
9)
もともと中動態は、能動態と受動態との関連で定義したものであるので、それらとの関連なしで中動態を認
布資料などから引いた.これらは本稿作成時にイタリア人の同僚たちにチェックしてもらってある.
な情報を供することを目的としたものではない.
めることは、矛盾と言うことでなければ、この概念の再定義、新しい展開を意味する。ただ、これは全く新
規なアイディアというわけではなく、印欧語の古典諸語文法には、
「能相欠如動詞」verbi deponenti という
概念が既にある。
10) 存在しない文なので和訳をつけるというのも変なのだが、もし仮に使役交替が成り立てばという想定で、文
そのものというより論の運びを理解する一助として付けたものとして御理解いただきたい。以下、アステリ
スクの付いた他の用例についても同様。
11) この aus. essere (「アウス・エッセレ」と読まれたし) は「助動詞 ausiliare として essere を用いる」とい
う意味で、辞書の説明などでこのように書かれていることを呼称としたもの。筆者の学生時代の記憶では、
文法の授業でこのような言い方がなされていたが、文法書などで定着した言い方ではない。しかし、ほかに
定まった言い方がないので、本稿では、仮にこのように呼ぶことにする。ただし、正確に言うと、同一の動
詞が、能動態の時には
avere を助動詞選択し、中動態の時には essere を助動詞選択することが起こり得る
.
ので、
「ある語が aus.essere 動詞である」という言い方は厳密さに欠けるのだが (これについては次の章を
参照)。
12) 注 17 を参照。
13) Salvi / Vanelli (1992) では、
「非対格動詞」という名称を掲げているが、すぐにその後に、
「正確に言えば、
動詞、ではなくて、動詞の個々の用法なのだが」と但し書きをしている。
14) 下記に見るように、厳密には、
「非対格の構文」の中には受動態の構文も含まれるのであるから、
「非対格」
を「受動」と並べるのは不正確であるが、ここ以下、2、3段落における「非対格」という語は、前の段落
からの話を受ける形で、従来「非対格動詞」と呼ばれていた動詞の構文 (ただし本稿ではそれは中動態の概
念にそって拡張されているが) を指すとご了解いただきたい。
15) これら「非対格」inaccusativo 「非能格」inergativo などの特徴を表わす語を動詞を分類するのに用いるの
は、非対格仮説の当初の意図ではなかったと思われる。非対格仮説の提案者 (おそらく最初の) である
Perlmutter は、そのアイディアを、自ら提案・推進した、関係文法の枠組みで理論化した (その変形 – 発
展形と言えば良いであろうか - であろうと思われる対弧文法についてはここでは考慮しない)。簡単に言え
ば、関係文法では、1つの文は、始発層 sostrato iniziale から始めて、最終的な文の形に至る最終層に至る
まで、いくつかの層を経て形成される、と考えるが、実は、関係文法において「非対格」であったり「非能
格」であったりするのは、これらの層なのであって、ある語彙あるいは単語なのではない。同じ動詞に属す
るものであっても、ある層は「非対格」であり、また別の層は「非対格」ではなかったりするのである。こ
の点で、関係文法における非対格の考え方は、GB 理論以降の生成文法一般について行なわれているものよ
りも、より慎重、あるいはより精密であると思われる。
16) 中動態の「中」medio というのは、もちろん、能動でも受動でもなく、その間、中間、という意味であろ
うが、能動と受動の「間」には、加えて再帰態も存在するということになると、一方だけを中動態と呼ぶこ
とは問題になるかも知れない (事実、よく知られている幾つかの言語の場合には、中動態の形は、再帰の意
味を持つこともあり得る)。しかしながら、能動・受動に対する位置づけは、中動も再帰も等しく中間、と
いうことではなくて、いくらかの相違がある。本稿では詳しく論じる余裕はないが、簡単に言うと、中動は
..........
.................
能動でも受動でもないのに対して、再帰は能動と受動の両方の特徴を持っているということになるのではな
いかと思う(関係文法が、再帰に対して始発層において、1 (主語)と2 (直接目的語) あるいは 1 (主語)
288
イタリア語の中動態について (その2):山本真司
と3 (直接目的語)というように、1つの名詞要素に同時に2つの役割を割り当てる、いわゆる multiattacco
を想定していることにもそれは現れていると言えよう)。
17) Renzi / Salvi / Cardinaletti (1991)、Salvi / Vanelli (1992) などは、
「非対格動詞」という名称の下に (ただし
注 13 で説明したような制限をつけた上で)、さまざまな種類の受動態の構文 (助動詞 + 過去分詞の形をと
るもの、受身の si によるものなど) をも挙げている。
18) 再帰動詞としてしか用いられない、といっても、使役動詞 verbi fattitivi の構文のように、形の上では再帰
代名詞が削除されても再帰動詞としての意味は保存されているような場合(lo fece fermare「彼を止まらせ
た」[つまり、
「彼が止まる fermarsi」という出来事が生じるように取り計らった、の意味])は、再帰代名詞
なしで用いられているケースとは見なさないこととする。
19) このような態度が研究者のうちにあったということを実証的に示そうとすれば、教材の歴史的・文献学的な
研究によるべきところである。にもかかわらず、本稿でこのような筆者の抱いている印象を敢えて述べたの
は、あくまでも、再帰動詞に関する誤解を解明するためのヒントを述べるのが目的である。それなりの分量
の紙面を要する実証的研究は、また別の機会に譲りたい。
20) alzarsi のような場合、話者の頭の中では、狭義の再帰的の意味と自動詞的用法の意味との区別が本当に存
在するのか、また、話者はそのような区別を意識していないのか、あるいは意識していないが存在するのか、
などの問題は、本稿では深く考察しない。本稿では、alzarsi が狭義の再帰の意味で用いられているとは即
断できない、問題を含んだ動詞であるということに注意を喚起するにとどめておきたい。なお、si alza la luna
「月が高く上る」のような、主語が自己意識を持たない物体の場合は、さすがに「自分自身を高く上げる」
というような本来の再帰の意味に解釈するのは困難ではないかと思う。
21) 日本で出版されている教科書で、再帰動詞の代表として alzarsi のような動詞を掲げている (そのうち何冊
かは本来の再帰の意味であると明言している) 教科書は枚挙にいとまがない。また、svegliarsi に対して同
様の取り扱いをしているものも何冊かある。これらは、いわば暗黙のうちに「狭義の再帰動詞」と「自動詞
的用法」を混同している疑いがあるものだが、さらには、次の記述のように、両者をを明示的に混同してい
るものもある:
「本質的再帰動詞 これは、主語が主語自身を目的語としているような動詞で、再帰代名詞
は主語自身を表わす直接補語 (目的格)の働きをしています… (中略) … 本質的再帰動詞は再帰代名詞がつ
。(坂
かないときは他動詞です。つまり他動詞を自動的に使うには再帰動詞にすればよいともいえましょう」
本 1979, p.115)
22) これは、引用されている用例から受けた印象であるが、正確を期すためには、もちろん、コーパスを使って
頻度数調査などを行なうべきであろう。
23) 近年、日本でイタリア語の教材の数が大幅に増えたにもかかわらず、そこにおける文法の説明にあまり変化
がないのは、これらの教材の大部分が、テキストを読ませることを主眼としていて、文法の説明を中心には
していないということと、無関係ではないと思われる。それに対して、秋山 (1990) が批判した、辞書中の
記述については、それ以降、いろいろな点で改善が見られている。
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あるため、ここでは、(1)-(3) とは異なった形式で掲げてある。各項の冒頭から「:」で区切ってある前ま
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東京外国語大学論集第 80 号(2010)
291
Il “medio” nella lingua italiana (2)
YAMAMOTO Shinji
Quest’ articolo intende riprendere l’argomento del lavoro precedente (Yamamoto (1995)) e
completarne il quadro teorico con annotazioni e commenti. L’applicazione dell’ipotesi inaccusativa
agli strumenti didattici, già avviata in Italia con Renzi (1992) e Salvi / Vanelli (1993), è ancora
poco realizzata nei testi e nelle grammatiche italiane pubblicate e utilizzate in Giappone. Eppure la
grammatica scolastica tradizionale, se depurata da alcune imprecisioni e insicurezze (a riguardo
del verbo intransitivo per esempio), presenterebbe un panorama che non si discosta troppo da
quello che suggerisce la teoria dell’inaccusatività. Quindi per avvicinare a questa il quadro teorico
della grammatica tradizionale, proponiamo di riprendere il concetto del medio in quanto diatesi
verbale e di collocarvi alcuni tipi di costrutti riflessivi e intransitivi, in modo da riunirli così in una
stessa categoria in base alle caratteristiche comuni messe in evidenza nel corso dell’elaborazione
della suddetta teoria. Inoltre rivedere il panorama dei costrutti inaccusativi con la chiave della
diatesi aiuterà a chiarire alcuni problemi, seppur di carattere piuttosto terminologico che inerente
alla teoria stessa, riguardo al concetto di inaccusatività, soprattutto quale debbano essere le unità
o entità che diciamo siano inaccusative o inergative; infatti inaccusativi dovrebbero essere non i
singoli verbi ma i singoli usi di ciascun verbo, visto che questo può formare sia il costrutto
transitivo (nella sfera della diatesi attiva) che uno inaccusativo (nel passivo e nel medio).
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