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人生はユーモアと共に

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人生はユーモアと共に
人が﹃青春の詩﹄の中で、
﹁青春とは人生のある期間を言うの
ではなく、
心のあり方を言うのだ﹂と書いています。しかし私は、
人生はユーモアと共に
この詩には賛成出来ません。人生の第四コーナーをよろよろ回
っている私のような老人の﹁切ない願望﹂に聞こえます。私は
﹁青春よ、もう一度﹂などと言うつもりは全くありません。や
エッセイスト・
前駐スウェーデン大使
はり、
﹁青春﹂とは人生のある特別の期間なのではありません
大 塚 清 一 郎
41
︵ 商︶
Jun 2009 如水会々報 022
六十七歳になります。サムエル・ウルマンというアメリカの詩
入学記念講演
か。
﹁青春﹂とは、誰が何と言おうが、
﹁若さ﹂ではありません
か。ほとばしるような若さです、想像力です、そして無限の可
能性です。そして、私にとっては高校・大学時代の数年間が紛
れもなく青春時代でした。皆さんは今がまさにその青春、いや、
﹁青春のど真ん中﹂にあると言っていいでしょう。
ッジ大学という世界的に有名な
そ こ で 皆 さ ん、 こ れ か ら の 大 学 生 活 で 何 を す る つ も り で す
か? 何を一番したいですか? もう考えは決まっていますか?
大学があります。日本にはワン
あの夢もあり、この計画もありですか? スポーツはどうです
ブリッジ大学というそれなりに
か? 私は空手をやりました。松濤館流初段です。恋愛はどう
有名な大学があります。一橋大
﹁青春﹂ではないではあり
で す か? 恋 愛 の な い 青 春 な ん か、
学です。今日から皆さんにとっ
ませんか。音楽はどうですか? バンドを結成して歌いまくる、
て一橋大学が母校になるわけで
そんな願望はありませんか? 私はトリオ・ロス・ディプロマ
す。一橋大学は日本では知る人ぞ知る有名大学ですが、世界で
ティコスというメキシカンバンドを結成して歌いまくっていま
は残念ながら殆ど知られていません。皆さんが将来世界で活躍
した。小説や詩を書くつもりはありませんか? 先輩の石原慎
するにつれて、ワンブリッジ・ユニバーシティはきっと世界的
太郎氏は在学中に﹃太陽の季節﹄を書きました。外国語を徹底
に有名な大学になることでしょう。
的 に 勉 強 し て 十 カ 国 語 位 マ ス タ ー す る 考 え は あ り ま せ ん か?
私は皆さんよりは少しばかり先に生まれ、馬齢を重ねて今年
今のグローバル世界では、英語だけでは駄目ですよ。私は外交
官という仕事をしてきましたから、英語は当然出来ます。国際
大磯の吉田茂総理邸に昼食に招かれたことがありました。八十
会議の議長役をこなしたこともあります。スペイン語も出来ま
六歳の吉田総理が大変上機嫌で、我々﹁外交官の卵﹂を迎えて
す。それからタイ語のジョークは今でも三十くらい出来ます。
下さいました。例の黒い羽織姿で、手にステッキ、縁なしの丸
私が青春時代のど真ん中で自分が経験したことで、皆さんに
是非お話ししたいことがひとつあります。一九六〇年、今から
メガネ、そして例の太い葉巻です。本当に胸がわくわくしまし
五十年前の高校三年生の時、百人のAFS︵アメリカン・フィ
我々も緊張していましたけども、だんだん口元がほどけて参り
ールド・サービス︶留学生と共に﹁氷川丸﹂に乗ってアメリカ
ました。同期生の一人がインドネシア語を勉強していることを
に渡り、
一年間高校留学したことです。今で言う﹁異文化体験﹂
話しますと、総理は﹁そうかね。インドネシアには私の友人が
のはしりですね。アメリカでの体験で一番鮮烈な印象として記
いるよ、スカルノって名前だがね﹂
。スカルノ大統領のことで
憶に残ることは、﹁ケネディ大統領とホワイトハウスで会えた
す。とにかく話のスケールが大きいのですね。﹁大分前だった
こと、それから彼の見事なスピーチ﹂でした。一年の留学生活
けども、スカルノが日本に来ることになって、どうも対日賠償
の締めくくりに世界五十五カ国のAFS留学生千八百人がワシ
請求の話を持ち出すらしい。ワシは何て言ってやろうかと色々
ントンに集合、ホワイトハウスに招かれ、ケネディ大統領との
考えたが、こう言ってやった。
〝スカルノさん、よく日本にい
会見がありました。その年の一月、ケネディは四十三歳の若さ
らっしゃいました。ところで、日本はお宅のあたりから毎年送
で大統領に就任し、就任演説で、
﹁
って来られる台風のおかげで、いつも大きな被害をこうむって
Ask not what the country
﹂とアメ
can do for you. Ask what you can do for the country
リカ国民に力強く語りかけました。若く、ハンサムで知的なケ
た ね。 や が て、 邸 内 で 昼 食 会 が 始 ま り ま し た。 始 め の う ち は
おります。今台風の被害総額を計算させております。近いうち
に、その請求書をお回ししますから、宜しくお願いしますよ〟。
ネディ大統領の演説を、私はテレビにかじりついて見ていたも
スカルノは賠償の話は全然口にせずに帰って行ったよ﹂。成る程、
のです。ケネディ大統領はAFS 留学生達に、
﹁若い君達には
外交術としてのユーモアはこんなところに生かされるのか。私
未来があります。平和のための架け橋になって頂きたい﹂と言
達は吉田さんのユーモアにいたく感動しました。私は、外交に
いました。私が外交官への道を選んだのは、このケネディの言
おけるユーモア精神を吉田総理から教えて頂いたと思っており
葉に背中を押されたのかもしれません。
ます。辞去する際の吉田さんの言葉をよく覚えています。
﹁君達、
私は四十一年間、﹁外交官﹂という仕事をさせてもらいまし
た。入省して間もなく、
昭和四十一年入省組の同期生二十四人が、
﹃一宿一飯の恩義﹄という事を忘れちゃいけないよ。今日はワ
シが君達に昼ご飯を御馳走したんだ。今度はワシが君達を訪ね
023 如水会々報 Jun 2009
皆さん、入学おめでとうござ
います。イギリスにはケンブリ
九四四年の二月に母は死にました。私は一歳九カ月でした⋮﹂。
田総理は八十七歳で亡くなられました。あの日からもう四十三
約一時間の電話のやりとりの最後に、ラッセルさんが、
﹁あんた、
年経っております。そういう次第で、私たち昭和四十一年入省
日本人の割には悪いやつじゃなさそうだな。一度、私の家にお
の同期生は、吉田総理に対する﹁一宿一飯の恩義﹂を返せない
茶でも飲みに来ないかね?﹂と言いました。かなり躊躇しまし
ままで、ずっと今日に至っております。ですから私は、吉田総
たが、ある日、思い切ってラッセルさんの家を訪ねました。ラ
理から教わった﹁ユーモアの精神﹂を受け継ぎ、ユーモアで友
ッセルさんは緊張のせいか、目の辺りがピクピクして痙攣して
達の輪を広げることによって、一宿一飯の恩義を返そうと、そ
いました。居間のソファーに座ってラッセルさんの当時の話が
んな気持ちでいる次第です。
ボツボツと始まりました。
﹁あんた、
﹃戦場にかける橋﹄という
映画を見たことあるか?﹂と質問されて、私が﹁はい﹂と答え
エ ジ ン バ ラ で、 初 代 の 総 領 事 を し て お り ま し た 時 に、 ス コ ッ
丸々太った捕虜なんて、どこにもいないよ﹂と言いました。そ
ト ラ ン ド 人 の 戦 争 捕 虜 の 人 と お 近 づ き に な り ま し た。 そ の 人
れにつられて皆でアハハハと笑いました。話が始まってからの
は、ジェームズ・ラッセルさんという、当時七十二歳の方でし
初 め て の 笑 い で し た。 大 き な 木 を 倒 す 作 業 を 捕 虜 達 が や ら さ
た。太平洋戦争中に日本軍が建設した﹁泰緬鉄道﹂で強制労働
れた話がありました。皆で、
﹁イーチ、ニー、サーン、イーチ、
に従事させられた戦争捕虜の一人でした。総領事館への抗議の
ニー、サーン﹂と日本語のかけ声でやらされたので、どうも腹
電話がきっかけでお付き合いが始まりました。
﹁あんたは戦争
の虫が収まらない。そこで、最後に﹁トージョー、ザ・バスタ
の事を覚えてるかね?﹂とラッセルさんに聞かれたものですか
ード!﹂という秘密の掛け声をこっそりつけた。﹁イーチ、ニー、
ら、私はちょっと言葉に詰まりながら、幼い頃の記憶を辿って
サーン、トージョーのバカ野郎!﹂という意味ですね。そうい
話をしました。﹁一九四二年の四月に東京で生まれました。戦
う次第で、木を倒す作業は無事終了したけれど、結局あとで日
争が激しくなり、東京空襲が始まっても家族はずっと終戦まで
本の兵隊に秘密の掛け声の意味がばれて、皆、ひどいビンタを
荻窪に住んでいました。B
による焼夷弾爆撃とか、防空壕の
くらったと言う話でした。こういう
﹁修羅場のユーモア﹂の話を
中でロウソクの薄明かりの下で食べた雑炊なんかをよく覚えて
ラッセルさんから聞いて私は胸を打たれましたね。お別れする
います。母は、戦争中に結核になって帰ってきた父を看病して
前に、私はスコットランドで習い覚えたバグパイプを吹きまし
いるうちに、自分が結核になって、当時は十分な薬もなく、一
た。ラッセルさんは顔をくしゃくしゃにして喜んでくれました。
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﹁修羅場のユーモア﹂を私に教えてくれたスコットランドの
友人のことをお話ししたいと思います。私はスコットランドの
ると、ラッセル氏は﹁あんなデタラメな映画はないね。あんな
エ ジ ン バ ラ の 次 の バ ン コ ッ ク 大 使 館 勤 務 の 際、 ま さ に そ の
﹁泰緬鉄道﹂に乗る機会がありました。私は泰緬鉄道に乗った
﹁ガス室送り﹂かもしれないとの恐怖に怯えながらも、ジョー
感想をバンコックからラッセルさん宛に手紙を書いて送りまし
必死になって確認しているのですね。フランクルは、﹁ユーモ
た。するとラッセルさんから返事が来て、手紙のやりとりが始
アは自分を見失わないための魂の武器である﹂と書いています。
まりました。最後の手紙はラッセルさんの長男からの手紙でし
高杉晋作は辞世の句で、
﹁面白きこともなき世を面白くすみな
た。﹁父は先日大腸癌で死にました。生前の父と貴方の交友を
すものは心なりけり﹂と詠みました。ここにいう﹁心﹂とは﹁ユ
心から感謝しております。父が死ぬ一週間ほど前、父は﹃あの
ーモアの心﹂のことではないでしょうか。
バグパイプを吹いてくれたミスター・オオツカは、バンコック
で元気にしているかな?﹄と、懐かしそうに語っておりました。
戦後の五十年、父の心に残された戦争の傷跡は、大きく深いも
のがありました。しかし、父は貴方との交流を通じて、自分の
気持ちを整理することが出来たのではないかと思います。父を
Jun 2009 如水会々報 024
ていく番だ。その時はひとつよろしく頼むよ﹂
。その翌年、吉
クをつくって笑おうとしている。自分が生きていることの証を
皆さん、これからの人生をユーモアと共に歩んでください。
きっと良い友人に恵まれて、面白い人生が開けることでしょう。
ご清聴頂きまして、本当に有り難うございました。
最後に皆様の門出を祝してバグパイプで﹁アメージング・グ
レイス﹂を吹かせて頂きます。
訪ねて頂いて、本当に有り難うございました﹂と書いてありま
した。
ところで、第二次世界大戦中のポーランドのアウシュヴィッ
ツ収容所での悲惨な暮らしの中で﹁ユーモア﹂を忘れずに実践
心理学者のヴィクトール・フランクルという名前のユダヤ人で
す。アウシュヴィッツ収容所から奇跡の生還を果たした後、フ
ランクルは﹃夜と霧﹄という題の本を書き、自分の体験を生々
しい言葉で書いています。フランクルは収容所生活のある日、
建設現場で働く仲間に﹁毎日、義務として最低ひとつは笑い話
をつくって皆で交換しようじゃないか﹂と提案します。栄養失
調でがりがりに骸骨のように痩せこけた収容所の人達が明日は
025 如水会々報 Jun 2009
した一人のユダヤ人がいました。驚くべきことです。その人は、
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