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日露戦争期の国債消化

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日露戦争期の国債消化
日露戦争期の国債消化
一滋賀県下の事例1
は し が き
傳
田
日露戦争期の国債消化 一
た。一方内国債の発行には公募方式がとられていた。金融機関や大衆による国債消化が行われ、それがとくに﹁国民階層
れ、外債手取金は軍需品の輸入代金や戦費支出に充当され、さらに正貨準備維持のために大きな役割を果すこととなっ
公債発行の過半を占めた外国債は、日銀副総裁高橋是清の縦横の機略により、ロンドン、ニューヨークなどで発行さ
事態であり、政府は増税を実施するとともに、その八割以上を公債発行に依存することとなった。
万円、三六年末の全国銀行預金残高が七億七七〇〇万円といった状況のもとで、かような巨額な戦費調達は容易ならざる
後述のように、日露戦争の戦費支出総額は一八億二六二九万円に達していた。明治三六年置国民所得がニニ億二入○○
国債発行高が著しい増加を示していた。
戦争を経過することにより、軍事国債の発行額が大きなウエートを占め、とくに日露戦争期において、軍事目的のための
を有してきた。国債発行の目的や規模は、時代の推移とともに大きな相違がみられるが、明治期においては、日清・日露
わが国における国債は明治初年から発行され、租税や借入金とともに、政府資金調達のひとつの形態として重要な意義
功
日露戦争期の国債消化 二
︵1︶
によって消化され、そのなかには小口・零細な保有者が少なくなかった﹂ことが特徴となっていた。
日露戦争に関連して発行された国庫債券あるいは臨時事件公債は、短期間に相ついで募集が行われたにもかかわらず、
発行の都度応募額が募集額を大きく上回り、価格以上の申込みが発行額の七割七分を占めるといった事態も生じていた。
かような経過のゆえに、政府関係の刊行物などでは、当時の国債発行が国民の愛国心により自発的に引受けられていたこ
とを強調するものが少くない。例えば大蔵省理財局﹃国債沿革略﹄第一巻に﹁是等国債ハ所謂愛国公債ニシテ其ノ各人ノ
応募ハ必スシモ自家ノ資金運用上ヨリ打算シタルニアラスシテ赤誠ノ遊ル所報国ノ至情自ラ禁スルコト能ハス敢テ己ノ資
力ヲ傾ケ奮テ軍資ノ充実二貢献センよル輩出テタルモノ多キニ居ル・のβと記されるなどその一例である・
しかし国債消化の実惜はどうであったのか。日露戦争が文字通り国家存亡の大事であった以上、国民の愛国心や報国の
至情が、国債応募にかりたてたであろうことは想像にかたくない。しかし小論でとり上げた滋賀県下の事例からもうかが
われるように、国債の消化は愛国心のみで説明されるほどなまやさしいことではなかった。鈴木武雄﹃財政史﹄は、 ﹁戦
︵3︶
二二の公債発行がことごとく公募の方法で行なわれえたことの秘密は、戦争の熱狂のみに帰するわけにはいかない﹂とし
て、その重要な原因を、 ﹁日本資本主義の金融的な力が、日清戦争当時と比べて驚くべき発展をした﹂という事実と、戦
争.遂行の過程で、 ﹁国内における軍需品の購入と日銀券の増発とが、民間資本の手に資金の集積を促した﹂こと、すなわ
ち﹁戦争遂行そのものが公債の消化を助けた﹂ことをあげている。国債の民間消化を説明する適切な指摘といえよう。
野田正穂氏は軍事公債が多数の零細な所有者の間に広範に分散、所有されていたこと、さらに﹁零細な所有者の多くが
利回り採算にもとつく投資の結果として国債を所有したのではなく、﹂﹁愛国心に訴えた勧誘もしくは地方庁を通ずる半ば
︵4︶
強制的な割当の結果として﹂所有されていたことに注目されている。同氏も引用されている滝沢直七﹃稿本日本金融史
論﹄にみられる﹁応募は応募力充分なる所にのみ限られず、勧誘は決して緩慢ではなかった。各府県に募集予定額を割当
て、知事郡長より町村長に至るまで、みな人民の愛国心に訴へしものも勘なからずして、極力勧誘に努めたのである﹂と
︵5︶
の記述は、当時の国債募集の重要な側面を示すものであったといえよう。
いうまでもなく国債の発行は、経済や金融と密接な関連を有しており、自からその発行には限界が存するが、とくに戦
時国債の発行や消化については、中央・地方の官僚機構を通ずる監督や指導による半強制的な公債の割当て、あるいは募
債を容易にするための諸措置が講じられており、かような政府資金調達の動員体系が、零細資金吸収の上で大きなカを発
揮していたものと言わねばならない。以下小論においては、日露戦争期の国債消化に焦点をおき、滋賀県下における債券
の割当や勧誘などの事例を通じ、前述のような、政府資金調達の実情を明かにしてみたいと考える。
︵−︶ 野田正穂﹃目本証券市揚成山ユ史﹄三三六頁。
昭和一一年九月、日.露戦争当時の大蔵次官阪谷芳郎、同じく主税局長若槻礼次郎、主計局長荒井賢太郎らを囲む﹁明治大正財政史座談会﹂におい
て、日露戦争時の公債募集については、当時の蔵相曾禰荒助が、その就任当初より、国を挙げて国難に当るべき戦時に際しては、零細な資金の持主
をも広く公債に応募せしむべきことを極力主張し、種々肝胆を砕いていた事実が指摘されている。 ︵大蔵財務協会編﹃財政﹄第一巻第一号、昭和一
一年一〇月︶
︵2︶ 大蔵省理財局編﹃国債沿革略﹄第一巻、七六三頁。
︵4︶ 野田正穂、前掲書、 三 三 九 頁 参 照 。
︵3︶鈴木武雄﹃財政史﹄八七頁。
︵5︶ 滝沢直七﹃稿本日本 金 融 史 論 ﹄ 七 二 一 頁 。
二 国債発行の経過
日露戦争は明治三七年二月六目に始まり、戦争継続期間一九ヵ月、三八年九月五日の講和条約調印により終結をみてい
るが、戦争の規模は日清戦争をはるかにしのぐものがあり、例えば戦費は日清戦争の介意近い額に達しており、わが国経
済に及ぼす影響もまた甚大であった。
日露戦争期の国債消化 三
日露戦争期の国債消化 四
政府は明治三六年一〇月以降、ロシアとの交渉が切迫し、風雲急を告ぐるに及び、同年末、軍備拡充にあてる経費支弁
のため、一時借入金や特別会計に属する資金の繰替使用を行ない、国庫債券を発行することをうる旨の緊急勅令を公布し
ている。当時の内閣は第︼次桂内閣であり、大蔵大臣は曽禰荒聖、同次官には阪谷芳郎が就任しており、日銀総裁は松尾
臣善、同副総裁は高橋是清であった。
開戦直前の明治三七年一月﹁八目、大蔵大臣曽禰直心は、東京府下の有力銀行家を蔵相官邸に招待し、国家の大事を打
明けて、軍事公債募集のための後援を求めた。また同月二入日首相官邸に全国各地の銀行家代表を招集して、同じく公債
発行への支援を要請し、翌二九日には日銀総裁主催の懇親会が開催されている。
さらに同年二月一〇日、曽禰蔵相は地方長官会議を招集し、その席上、戦時財政の第一着手として国庫債券一億円を発
行する旨を説明し、同時に︸般経費の節減と各種事業の中止ないし繰延べを断行する旨を述べ、十分の尽力あらんことを
切望している。
第1表は日清・目露戦争の戦費支出︵決算額︶を示すものである。日露戦争の戦費は戦後繰越使用された金額を含め、
総額一入億二六二九万円で、日清戦争時の戦費の八倍近くとなり、戦費の一ヵ月平均支出額もはるかに大きく、一般会計
歳出︼ヵ月平均に対する割合も三・七倍から四・一倍以上に増加している。戦費支出の使途別内訳をみると、物件費の割
合が七〇%代に達し、とくに日露戦争期には兵器の進歩などにより、物件費が全体の七七・六%に達していた。
政府は戦費調達のため広範な増税を実施した。増税は前後二回にわたり実施され、地租の増徴をはじめ、たばこや塩の
専売益金、各種の消費税、関税、印紙収入などの増税がはかられた。しかし租税収入は全体の一〇%程度にすぎず、戦費
の入割以上は公債および借入金によって調達されている。第2表は臨時軍事費特別会計歳入決算額の内訳を示すものであ
るが、両大戦とも公債・借入金を最大の財源としているものの、日清戦争時には五一・止血であったのが、日露戦争時に
(単位:千円)
}日清戦時日露戦争
96, 236
791
221, 581
233, 400 1 1, 826, 290
二ニロ
十
1, 508, 472
32, 134
合
19ヵ月
96, 121
6, 511
23, 088
373. 9
415. 0
期義
争月鋪
力般
継潔細
出月︶
続三一儒
間囚個
10ヵ月
23, 340
戦1一
69, 312
4. O
1. 3
2, 321
O. 1
L3
48, 408
2. 8
金劉%金 劉・d・
82. 4
182, 430
10. 6
) 102, 396
45. 5
公一特軍雑
奪騨
借計資献収
入齢納
金れえ金入
1:認
日露戦争
日清戦争
1, 418, 731
51. 9
116, 805
200, 475
臨 時 軍 事 費
一般会計臨時軍事費
臨 時 事 件 費
(出所) 『昭和財政史』第4巻による。
(第2表) 臨時軍事費特別会計歳入決算額内訳
(単位1千円、%)
ニョロ
十
1 225, 230 1 100. 01 1, 721, 212 S,100. 0
(出所) 『昭和財政史』第4巻および鈴木武雄『財政史』に
よる。
た。
日露戦争期の国債消化
は八二・四%とそのウエートを
卑しく増大せしめている。日露
戦争の主要財源は公債収入金に
依存したものであり、このうち
内国債︵第一回∼第五回の国庫
債券および臨時事件公債︶は計
六億七二〇〇余万円、外債は英
貨公債四回、約八億円、内外債
合わせて一四億七二〇〇余万円
に及んでいる。
第3表は日露戦争期の内国債
の発行経過および発行条件を示
すものである。国庫債券の発行
条件は、 ﹁第一回国庫債券の発
ってきた結果によるものであっ
五
これは国内金利の騰貴などの環境的変化や、金融業者らの営利追求の面を看過しえなくな
行は、開戦早々でもあり、国民的興奮もはなばだしくかつ憂国的至誠も旺盛であった関係 から、その発行条件も五分利甲
︵1︶
五円と政府に対し有利な決定をみるに至った﹂が、回を重ねるにしたがい、発行条件は政 府にとって不利となっている。
(第1表) 日清・日露戦争の戦費支出(決算額)
6.6
6. 6
8. 25
8. 25
5. 4
日露戦争期⋮の国債消化
6. 3
〃 〃 〃 〃 〃
90
100
90
10e
95
200
8 9 8 戸0 ρ0 戸0
回回回回回回
1000分の1
100
92
100
92
80
の募集にあたり、市中銀行との間に発行方法、条件などにつき協議を行ない、その協
政府は国債の消化を促進するために様々な手段を採用したQ先に述べたように、国債
ノ、
年.’匿・・.
tl
tl
tt
第2回
第3回
第4回
第5回
臨時事件公債
7, 7 7 8 R︶ 9
3 3 3 QJ 3 3
tt
集され、翌二九目、日銀総裁主催の懇親会が開かれているが、この状況を﹃京都日出
新聞﹄が次のように報じている。
﹁十九日午後四時より日本銀行総裁松尾臣善氏主人となり、京、浜、阪、中等の重
は東電記載の如くなるが、当日は松方、井上の両伯出席し、席定まるや松尾総裁より
なる銀行家を有楽町なる三井倶楽部に招待し、公債募集の事に就き協議する所ありし
一場の挨拶あり、終て松方伯は時局の容易ならざる形勢に切迫せること、及其の成行
み、之に対して豊川良平、田中源太郎氏寺より二三の質問ありしが、松尾総裁より懇
て此際我々は大に奮って其応募に尽痒すべしとの趣旨を演べ、之に対して井上伯の挨
りしが、結局五言利付九十五円を以て必要に応じ、成るべく民間経済界を掩乱せざる
拶あり、晩餐終って再び別席に移り、本問題即ち公債募集の方法に付き協議する所あ
範囲内に於て募集することに決し、各銀行共率先して其の募集に応ずべき旨を諾し、
︵2︶
主客共に胸襟を開ぎ、尚余談雑話に時を移して散会せしは同夜十一時頃なりしと﹂。
べきことであり、明石照男﹃明治銀行史﹄はこの点に関し、次のようにその意義を述
政府が事前に銀行関係者と会談を行ない、彼等の諒解をとっていたことは注目さる
咄卵
月36m243なる答弁あり。右了て晩餐の席に移り、席上園田氏は一同に代りて謝辞を述べ、併せ
年577773・
%555665めに率随先ひしてては之公が債応募募集にの尽已力むせをら得れざたるしこととの、旨愈を々述募べ集、発次表での井暁上に伯はも来亦会同諸様君のは演国説家をの試工
大蔵省『明治三十七八年戦時財政始末報告』による。
を求めたことなどその一例である。明治三七年一月二八日、銀行家代表が東京に召
210551力0
%
円百万円
95
囎
第1回国庫債券
還限
償期
利子発行発行 払込 銀行手数料 応募者
歩合価格総額 回数
利回り
発行時期
日露戦争期の内国債発行条件
(第3表)
ぺている。
﹁国庫債券の第一回は︵明治︶三十七年三月に発行せられた。抑々日清戦役の際には、公債募集に関しては、主として日本
しては、政府は重なる銀行家を招いて、予め発行上の要件方法に就て協議を凝らし、日本銀行も亦此間に斡旋し、然る後之を
銀行が其衝に当り、他の銀行は唯之に附随して一種の利付御用金を募集するの観があった。然るに、這回国庫債券の募集に関
発表したのである。是れ全く過去十年間に於ける預金銀行発達の効果が事実上認識せられたるものであって、金融機関が唯財
る﹂と。
︵3︶
政の奴隷たるに甘んぜず、其独立の意思を発表するに至りたる渋墨なりというべく、銀行史上看過すべからざる一大事件であ
国債発行の条件を金融の実勢に応じて、漸次応募者側に有利に変更していったのも、銀行の発言力が高められていたこ
とを反映するものであった。
さらに国債消化を助けたものに、日本銀行政府貸上金の活用があった。日銀は公募の事前に、巨額の政府貸し上げを行
ない、政府はこれを財源として市揚に散布し、その後公募公債払込みの形で再び政府に吸収し、ついで日銀に対し政府貸
上金の返済を行っている。日銀の政府に対する一時貸上げは、一九〇回、総額旨意︼七〇〇万円に達し、この他に大蔵省
証券の引受けが行われており、ともに政府資金の対民間散布を通じ、国債の応募を容易ならしめる上で重要な役割を果し
ていた。
︵4︶
また政府は国庫債券の発行に際し、大衆の直接投資を容易にするために、本券の額面を二五円、五〇円、一〇〇円、五
〇〇円、一〇〇〇円、五〇〇〇円、一万円の七種類に細分化し、さらに二百円以下の小口応募者には、応募額が発行予定
額を上回っても、穏健はずれとしないこととした。第一回発行国庫債券の発行規程第九条によれば、 ﹁国庫債券応募高需
要額二超過スルトキハ大蔵大臣ハ応募価格ノ高キモノヨリ順次債券ヲ交付シ需要額二満ツルニ至テ止ム其価格同シキモノ
ハ申込ノ高二割合ヒ減少スルモノトス但二百円以下ノ応募者ニハ之ヲ減少セス﹂と記されている。
︵5︶
日露戦争期の国債消化 七
目露戦争期の国債消化 八
なお第一回国庫債券の募集に当っては、二百円以下の小口の応募者については、応募超過額に対し割減らしをしないこ
ととなっていたが、第二回以後この特例を廃止している。
国債募集には日銀が政府のために発行事務を取扱い、各府県においては、日銀の支店あるいは出張所が中心となり、各
銀行もまたこれに協力して、応募・消化につとめている。京都府および滋賀県の国債募集については、日銀京都出張所が
中心となって募集事務を推進し、滋賀県下にも多くの国庫債券取扱店や応募申込取次店が配置され、応募のとりまとめや
売出しなど、日銀の代理業務を委託されていた。左記の日本銀行による募集広告は、第三回国庫債券発行にあたり、 ﹃京
都日出新聞﹄に掲載されたものであり、国債の発行条件とともに、京都府および滋賀県下の国債取扱店が併記されてい
た。
﹁第参回国庫債券募集広告
本月十二日大蔵省令第四十一号を以て第参回国庫債券八千万円募集相粟穂に付ては応募望みの方は左の各項御承知の上本行
本支店出張所派出所又は其他の取扱店へ御申込相成度候
一 最低価格 額面百円に付金九拾弐円
一 利率 年五分
但し価格以上の申込には拾銭未満の端数を附することを得す
但し明治三十八年九月までの利子は第四期目明治三十八年二月︶以前に全部の払込を為したるものには額面百円に
付金参円六拾参銭第五期︵明治三十八年三月︶以後に全部の払込を為したるものには額面百円に付金弐円弐拾七銭
一 償還期限 明治三十八年より七ケ年以内
の割合を以て支払うものとす
一 応募保証金 額面百円に付金弐円
一 申込期日 十月三十一日より十一月七目迄
但し十月三十一日以前の申込と錐も便宜取扱ふべし
一 払込期目及金額左の如し
第壱期 明治三十七年十一月十八目
同拾円
同年計八年一月十六日より同月廿五日まで 同五円
同年十二月十六日より同月廿五日まで 同拾円
額面百円に付 弐円
第参期
第弐期
同年二月十六日より同月廿五日まで
同弐拾円
同拾五円
但し保証金より振替
第四期
同年三月十六日より同月廿五日まで
同弐拾円
同年四月十七日より同月廿六日まで
同年五月十六日より同月廿五日まで
同拾円
第六期
第七期
同年六月十六日より同月廿六日まで
第五期
第八期
一 申込高募集額に超過するときは価格の高きものより順次之を採り価格同じものは申込高に割合ひ減少す
明治三十七年十月 日本銀行﹂
さらに本広告には滋賀県下取扱店として左記の銀行があげられている。
百三十三銀行本支店
三井銀行大津支店
八幡銀行本支店
﹁滋賀県下取扱店
近江商業銀行本支店
江頭農産銀行
日野銀行
柏原銀行﹂︵6︶
長浜銀行
伊香銀行
近江銀行能登川支店
甲賀銀行
湖東銀行
栗太銀行
高島銀行今津支店
二十一銀行
百三十銀行長浜支店
近江銀行愛知川支店
江北銀行
日露戦争期の国債消化
九
日露戦争期の国債消化 一〇
︵1︶ 竹沢正武﹃日本金 融 百 年 史 ﹄ 二 〇 入 頁 。
︵3︶ 明石照男﹃明治銀 行 史 ﹄ 一 九 六 ∼ 一 九 七 頁 。
︵2︶ ﹃京都日出新聞﹄ 明 治 三 七 年 二 月 一 日
︵4︶ 吉野俊彦氏は日本銀行政府貸上金の作用の重要性を指摘し、 ﹁この日本銀行の操作によって国債︵この場合内国債︶の公募以前に、財政資金の対
民間散布超過の状態をひき起こすことがなかったと仮定するならば、内国債の公募などとうてい円滑に行なわれることはあり得なかったと思われ
︵5︶ 大蔵省編﹃明治大 正 財 政 史 ・ 第 十 一 巻 ﹄ 九 二 一 頁 。
る﹂︵吉野俊彦﹃日本銀行史・第三巻﹄︶とされ、日銀の信用創出とその返済のメカニズムを明かにすることの必要性を主張されている。
︵6︶ ﹃京都目出新聞﹄明治三七年一〇月一九目
三 第︼回国庫債券の発行
明治三七年二月一三目、政府ば第一回国庫債券の発行を公表している。発行額一億円、利率五%、発行価格九五円とさ
れていた。前述のように、戦争開始の直前、大蔵大臣は銀行首脳を集めて公債引受方について協力を求め、また地方長官
会議においても国民の協力が強く要請されていた。かような意向は道府県においても踏襲され、政府による国債の割当て
に対し、知事、郡・市長から町村長に至るまで、募集の勧告、説得につとめることとなった。
当時の滋賀県知事は鈴木定直︵明治三五年一〇月四日就任、同四〇年一月一一日離任︶であったが、同知事は明治三七年二
月︼五日、郡市長会議を開催し、国債の割当について郡市長を通じ、管下市町村に対しその趣旨を徹底し、その協力を求
むべき旨を指示し、県関係の銀行経営者に対しても同趣旨の要請を行っている。
ところで滋賀県に対する第一回国庫債券の割当額は六〇〇万円と決定され、県はこれにもとづき、五〇〇万円を各郡市
に割当て、別に県下の銀行に対し一〇〇万円を割当て、極力応募勧誘につとめることとなった。各郡市に対する割当額に
ついては、五〇〇万円のうちその二分五厘を地価に、二分五厘を営業税に、二分五厘を所得税に、二分を戸数割により配
当し、残り五厘を特別割として資力の豊富な蒲生郡に三厘、神崎郡に二厘を配当している。第1表は郡市別割当額の状況
第1回国庫債券割当額
(銀行分を除く)
202, 650
275, 300
275, 700
262, OOO
1, 019, 750
1, 029, 600
369, 200
358, 150
382, 500
230, 650
105, 450
235, 500
市郡〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃甘
253, 550円
大滋栗野甲蒲神愛犬坂東伊高合
薯太洲韮崎知上姓鳶
割 当 額
郡市別
5, OOO, OOO
を示すものである。
﹁日晒路交齢別ノ為量⊥畢二亜ハスル国 庫債券発行二三虫貝大︷子二三
ている。栗太郡老上村での状況を付記しておきたい。
応募者勧誘委員がおかれ、村長の指示のもとに勧誘につとめ
の有力者に働きかけ、割当額の消化に努力した。村むらには
つとめ、督励を受けた町村長らは、さらに管下の区長ら町村
めて各郡市に出張させ、郡長、市長らと協力して極力勧誘に
国債の募集にあたり、滋賀県では県高等官の受持区分をき
(出所) 「滋賀県庁所蔵文書」
により作成。
日露戦争期の国債消化 一一
第2表は滋賀県下における第一回国庫債券の応募・募入状況を示すものである。当初割当額六〇〇万円に対し応募額入
︵2︶
深尾為吉殿﹂
老上村長 遠藤権兵衛
明治三十七年二月二十四日
ス応募方好結果ヲ告ゲ候様我国家ノ為メ此際御尽力相成度此段及御依頼候也
角隠邊挙挙二出スルモノナシトセス故事今回貴区長へ募集方委托シ置候条万事区長ト御打合セノ上翼長又ハ本村内国四二譲ラ
﹁今般国庫債券発行二付テ中耳帝国民ノ天性トシテ競テ之レニ応募スベキハ論ヲ俣タサルト錐モ難中ニハ其富有者ニシテ兎
右嘱託依頼とともに村長から勧誘委員に対し次のような文書が送付されている。
深尾為吉殿﹂
︵1︶
明治参拾七年弐月弐拾四日
老上村長 遠藤権兵衛
ル応募者勧誘委員ヲ嘱⋮托ス
(第1表)
(第2表)第1回国庫債券応募・募入状況(銀行分を含む)
応募額
募 入 額
募当外レ額
応募額二対スル
募入額ノ割合
円
円
294, 250
54, 925
239, 325
18,6
359, 600
128, 200
231, 400
35. 6
363, 975
42, 850
321, 125
11,7
304, 425
161, 450
142, 975
52. 7
1, 787, OOO
235. 875
1, 551, 125
13, 1
125, 600
1, 336, 550
8. 2
584, 450
196, 950
387, 500
33. 6
1, 028, 825
249, 975
778, 850
24. 2
690, 075
189, 850
500, 225
27, 5
267, 800
120, 775
147, 025
45. 0
158, 125
74, 325
83, 800
47. 0
293, 700
i47,400
146, 300
50. 1
8, 194, 875
1, 881, 775
6,3ユ3,ユ00
23. 0
600, 500
153, 600
go6
25, 5
446, 900
’
1, 462, 150
一二
一九万円余、募入額一八八万一円で、応募額に対する油入額の
割合は二三・○傷であった。第一回発行にあたっては、応募高
が需要高を超過するときは、応募価格の高いものから順次これ
を墨入し、価格の同じものは申込の高に割合い減少せしめ、ま
た国債応募はなるべく多くの国民よりとの観点から、こ○○円
以下の応募額はこれを減少せしめないこととされていた。郡市
別にみると、応募額に対する募入額の割合に大きな相違がある
のは、かような事情によるものであった。
県下において蒲生郡、神崎郡の二尉は、いわゆる近江商人と
呼ばれる富商の出身地であり、日清戦争時の軍事公債の募集に
際しても、この二千については特別割が付加され、他郡に比し
の資産家のふところをあてにするところが多かった。当時の神
崎郡長添田良平は、県から国庫債券の応募に協力の見込ある商
人の有無を問われたのに対し、内務部長昌谷彰宛次のような回
答を行っている。
﹁本月二十二日内四発第六︸号ヲ以テ御照会相成候国庫債
券応募勧誘二付長官ヨリ依頼書発セラレ度見込ノモノ左記之
「滋賀県庁所蔵文書」により作成。
旦露戦争期の国債消化
円
多くの割当てがなされていたが、日露戦争期にも、県はこの地
(出所)
市郡〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃計
浅
大滋栗野甲蒲神愛犬坂東伊高合
津賀太洲賀生崎知上田井香島
郡市別
通二有之候条可然御取計相成度此段及回答候也﹂
︵3︶
また左記として同署南個荘村大字川並、塚本定右衛門、同村大字金堂、外村宇兵衛ら郡下資産家一六名の氏名があげられ
ている。
郡長の見込によるこれらの人々に対し、県知事名で国債応募のための依頼書が送られ、同時に郡長の勧誘が行われた。
この状況も県庁所蔵の資料によりうかがうことができる。例えば三七年二月二七日、郡長からの内務部長宛の電報に、次
のような電文が見られる。
トノムラウへ一〇マンニキマル︵外村宇兵衛一〇万円に決まる︶
六万円
旭 村 山本
〃 川並
小泉新兵衛
稲本利右衛門
塚本粂右衛門
一三
第一回国魔債券の募集において、神崎郡では南五個荘村の塚本定右衛門の一五万円を筆頭に郡下富商らの応募額が多か
県と管下町村との問にあって、国債の応募勧誘につとめる郡長や吏員らの心労の一端を推測することができる。
った。このうち三万円以上の応募者を付記しておく。
五万円
〃 〃
松尾久右衛門
塚本定右衛門
五万円
北五個荘村竜田
外村與左衛門
一五万円 南五個荘村川並
四万円
南五個荘村金堂
阿部市太郎
外村宇兵衛
四万円
能登川村能登川
一〇万円 〃 金堂
四万円
日露戦争期の国債消化
︵4︶
川島斎兵衛
塚本市右衛門
塚本源三郎
塚本佐兵衛
日露戦争期の国債消化
〃 〃
〃
〃
三万円 南五個荘村川並
三万円
三万円
三万円
〃
一四
宗家定右衛門二勧告シテ多額ノ応募額ヲ定メ熱心以テ村内ヲ勧誘シ一村七十万円以上二及ヒタルハ本人ノ尽力与テカアリト
塚本佐兵衛
南五個荘村大字川並
左記
昌 谷 彰 殿
内務部長滋賀県書記官
神崎郡長 添田良平
明治三十七年三月
左記之通二有之候条宜敷御取計相成度此段及回答候也
﹁本月一五日付内四発第=一号ヲ以テ御照会相藩候本郡内二心ケル国庫債券募集二関シ格別尽力シタルモノ・住所氏名ハ
応募額が多く、郡長より県宛左記のような協力者の報告がなされている。
前述のように、第一回国庫債券の募集に際し、神崎郡では南五個荘村の塚本定右衛門の一五万円を筆頭に郡下富商らの
〃
福原吉太郎
八日市町大字八日市
自ラ十五万円ノ応募ヲナシ末家職名ト共二一二十万円ト定メ自村及隣村ノ有力者ヲ勧誘シ応募ノ多カランコトニ尽力セリ
塚本定右衛門
ス
自町内二於テ勧誘二奔走シテ格別尽力セリ﹂︵5︶
福原維諄
神崎郡、蒲生郡などでは応募額は前掲にも示されるように他の郡・市に比し多額であったが、実際の追入額は応募額に
対し、神崎郡八・二%、蒲生郡=二・一%といった状況であり、前記塚本定右衛門らの募入額も応募額をかなり下回るも
のであったと思われる。
同じ滋賀県内でも郡により事情は様々である。蒲生、神崎二軸の有力者、資産家が商人に多かったのに対し、野洲郡、
栗太郡等では地主層が有力者であり資産家であった。郡長による国債募集の勧誘にも、かような地域性が端的に反映され
ている。栗太郡の揚合について付記しておく。
﹁本月廿二日付上四発第六一号ヲ以テ国庫債券応募勧誘ノ件二関シ御照会ノ趣了承右ハ最モ時機適切ノ御処置ト考量致候ノ
ミナラズ取扱上郷メテ好都合二有之候就テハ郡内大地主タル左記下名ノ者へ懇篤御示諭菅二当人ノ出資二止マラズ進ンデ他ノ
有力者ヲ誘導扶抜ノ責二任ズベキ様御取計有之度不堪想望ノ至此段及回答候也
内務部長 滋賀県書記官
葉山村大字手原
草津町大字矢倉
柴林宗五郎
里内藤五郎
山本喜六
一五
栗太郡長 笠井 喬
昌谷彰殿﹂︵6︶
同村大字六地蔵
片岡久一郎
さらに左記として以下の七名の氏名があげられている。
常磐村大字片岡
日露戦争期の国債消化
(第3表) 第1回国庫債券第2回払込未済者取調表(明治37年5月10日調)
13
9, 725
1, 458. 75
172
不日完了ノ筈
町村長ヲシテ督促セシメ
ッ・アリ不日完了ノ筈。
目下諭示中
221. 25
731. 25
11,150
1, 672. 50
211
21, OOO
3, 150. 00
420
1, 225
183. 75
18
目下諭示中
18, 900
2, 835. 00
58
目下注意中
83, 995
12, 558. 75
1, 209
一3093
1, 745
4, 875
日露戦争期の国債消化
93. 75
考
625
備
員
額
76
大回栗野甲四神愛犬坂東伊高
浅 計
津賀太三賀生崎知上田井香島
52
720. 00
廿日嚢胚完了ノ見込
682. 50
4, 800
目下説諭中
4, 550
人
66
810. 00
5, 400
銭
円
金 額
人
払込ムベキ
面
市
郡
(出所) 「滋賀県庁所蔵文書」により作成。
(備考)募入額188万1775円二対シ未払込4厘4毛トス。
一六
金勝村大字東坂 鵜飼退蔵
笠縫村大字新堂 村井久治郎
上田上村大字中野 元持大造︵7︶
前記の人々は栗太郡の代表的な地主であるとともに地
域のリーダーであり、柴林宗五郎は栗太銀行︵明治三〇
年草津町に設立された地方銀行︶の頭取をつとめ、里内藤
五郎は酒造業を営むとともに、栗太銀行取締役に就任し
ており、鵜飼退蔵も同行取締役、元持大造は同行監査役
を勤めていた。片岡久﹂郎は明治一〇年代に自由民権運
動のリーダーとして活躍、その後国会議員をつとめ、あ
るいは琵琶湖治水事業にも足跡を残した人物であった。
前述のように、第一回国庫債券に対する応募状況は全
国的に好調であったが、いざ払込みとなると、国債購入
の不慣れなども重なり、円滑に進みえない状況も続出し
た。第一回の払込みは保証金を充当したので問題は少な
かったが、四月一六日より同月二五日までの第二回目の
払込みになると締切までに遅れる者がみられた。第3表
に示される滋賀県下の第二回払込未済者取調表による
と、すでにこの段階で説諭を加えられる者が生じていることがうかがわれる。
﹁滋賀県庁所蔵文書﹂
こ
甲
﹃京都日出新聞﹄︵明治三七年四月一七日︶が﹁国債払込模様﹂と題し、京都市内での状況を報じているので参考までに
付記しておく。
﹁国庫債券第二回払込は、既記の如く昨日より来る二五日までにて、其の払込順は価格以上の申込者より小口に及び夫より
ひわり
大口と定め、各応募者に日割を通知したるが、昨日分は総口数約二千口の中営業時間までに払込を了したるは日銀出張所及び
市内各取扱銀行の分を合せ其の半数なる千口にして金額約六万円なりしと。先に日銀出張所より払込日割の通知を受けたる応
かたがた ︵8︶
募者は、通知日に赴かず他の日に払込をなすときは、銀行は非常の手数を要し、従って仮債券の受取に時間を待合さざる可ら
ず、 労双方の不便なれば、応募者は必ず通知日割通りに払込むべしとなり。﹂
︵3︶
︵1︶︵2︶ ﹁草津市役所所蔵文書﹂
︵5︶ 同右。
︵4︶ 同右。
︵6︶ 同右。
﹃京都日出新聞﹄ ︵明治三七年四月一七日︶
︵7︶ 同右。
︵8︶
四 銀行による応募状況
日露戦争当時県下に本店をおく銀行は、二十一、百三十三、入幡、湖東、江北、近江商業、江頭農産、大津、栗太、
賀、長浜、長浜貯金、近江貯金、寺庄、日野、伊香、蒲生倉庫会社銀行部、高島、淡海下田、滋賀県農工、近江貯蓄、
楽の二二行であったが、県ではこれら諸銀行につき資力調査を行い、それに応じた国庫債券の割当てを要請している。
のうち近江貯蓄は、百三十三銀行の貯蓄部的存在であり、また信楽銀行は整理中のため割当てが行われていない。
日露戦争期の国債消化 一七
信
日露戦争期の国債消化 一八
前述のように滋賀県に対する第一回国庫債券の割当額は六〇〇万円とされ、県はこれにもとづき県下の銀行に対し一〇
〇万円を割当て、各行に対し割当分の消化を強く要請している。
県下における銀行は他府県同様明治﹂0年代より設立され、その後漸増を続けてきたが、とくにコ一八年以来ハ恰モ春
︵1︶
草ノ萌へ出ツルカ如キ有様ニテ頻々其設立ヲ見ルしこととなり、小銀行の濫立がみられたが、明治三三年不況などにより
経営の危機に当面する銀行なども存在し、百三十三、八幡、近江商業、二十︼銀行などを除き、その多くは経営基盤の脆
弱な小銀行であった。明治三〇年代はじめには三井銀行大津支店、近江銀行愛知川支店など、東京あるいは大阪に本店を
おく有力銀行の県内店舗の存在も大きく、とくに近江銀行は明治三〇年代の後期より県下の小銀行の合併を進め、三九年
までに湖東銀行、長浜銀行、目野銀行、大津銀行などを買収、県内預金の吸収に力を発揮していた。
日清戦争当時に比し、県内の産業活動も拡大を示していたが、日露戦争期においても、滋賀県経済の中枢をなすものは
農業であり、地場産業であった。明治三〇年代末当時の銀行経営の内容について、 ﹁本県下ノ如キ製造工業未ダ振ハズ生
産品十中ノ九ハ農産物二心リ経済上ノ趨勢ハ常二農業ノ消長目配リテ遷移左右セラレ、各銀行ハ殆ンド農家ノ機関トシテ
︵2︶
立ツヲ以テ其取扱金額亦比較的少小ニシテ⋮⋮﹂といった記述がなされているように、県下の銀行の多くは国債投資を積
極的に行う資力がなく、とくに郡部に本店をおく小銀行において国債引受けの余裕乏しく、度重なる割当てに難渋するこ
ととなった。
滋賀県庁所蔵の国債関係資料によれぽ、三七年二月下旬から、県の銀行に対する応募勧誘の努力が傾注されていたこと
がうかがわれる。彦根に本店をおく百三十三銀行は、八幡銀行とともに県下を代表する地方銀行であり、当時の頭取営営
助三郎は、彦根の出身で明治ここ年、かねてより関心を寄せていた保険事業に進出、関西財界の有力者の協力を得、同年
七月大阪市に有限責任日本生命保険会社を創設し、取締役︵後に社長︶に就任していた。彼は明治一八年より二七年まで
百三十三銀行︵当時は国立銀行︶頭取を勤めており、日露戦争期を含む三四年より三九年にかけて再度頭取に就任、日本生
命取締役と兼務の形となっていた。前掲県庁資料の中に、明治三七年二月一=二目発信、大阪市北区衣笠町弘世助三郎宛の
左記の電報が残されている。
一五マンタノム イサイショメン シガケンチジ
この電報に対し、折返し弘世助三郎より
ジュウヤクカイノウエ ヘンジスル
との返電があった。
さきに二世は県から要請のあった国債応募について、重役会にはかり第一回国庫債券の百三十三銀行引受額として一〇
万円を承諾していたが、知事からは一〇万円の引受けでは県下他銀行との権衡もあり、また他行の応募額にも影響を与え
るものとして、県下の有力銀行たる同行に対し、︼五万円以上の引受方を再度要請したものであり、結局百三十三銀行は
一五万円の引受けを応諾している。
百三十三、入幡など有力銀行を除き、県下の小銀行は日銀との関係がなく、したがって貸出金の不足を日銀からの借入
れによって充足するといったことは不可能であった。当時の銀行経営者は資金不足からくる取付けさわぎを引起すことを
おそれており、如何にしてこれを防ぐかが最大の関心事となっていた。次に述べる甲賀銀行も、かような小銀行の一例で
あり、国債の割当てが大きな負担となっていた。
甲賀銀行は明治三〇年甲賀郡水口町に設立され、三八年末現在、払込資本金八万円、預金残高一一七万六三二六円、郡
下に寺庄、土山、三雲、大野など四支店を開設する小銀行であった。県からの同行に対する国債割当てに際し、甲賀郡長
松田宗寿は県の指示により、同行に対し一万五千円以上の引受け方を再三にわたり交渉してきたが、頭取大原重右衛門は
日露戦争期の国債消化 一九
日露戦争期の国債消化
二〇
同行の引受け可能限度額一万円を主張し、次長からの増額要求をことわり、以下のようにその事情を説明している。
﹁今回募集相成候国庫債券応募三儀札付過日県下同業者集会ノ上資本積立及預金ヲ標準トシテ予定額割付相成蟹行モ該予定
額ノ応募可致座隅候垂直県下同業者中三四ノ銀行ハ従来日本銀行ト取引アルヲ以テ資金必要ノ場合ハ国庫債券ヲ担保トシテ何
ヨリ融通ヲ仰ク事能ハザル次第ニテ弊行ノ如キモ此等ノ後援ヲ有セザルヲ以テ乍遺憾予定額ノ応募致兼添上已ナラズ一般地方
時ニチモ融通ノ便ヲ得ラル・モ自余ノ銀行ハ何レモ従来日本銀行ト直接取引ナキヲ以テ今日ノ国庫債券ヲ担保トシテ日本銀行
人民ノ応募セラレタル国債二向テモ富士充分二金融ノ便ヲ与フル事不能哉モ難計斯クテハ軍国多事ノ今日二際シ銀行家タルベ
キノ本務ヲ尽ス事不能甚ダ遺憾ノ次第殊二本郡ノ如キ他地方ト金融状況ヲ油画セルラ以テ一層金融ノ渋滞ヲ来シ引テ地方ノ生
産力ヲ阻害スルノ催ナキヲ保セズ実二痛却寒心二等サルヲ以テ過般同業者集会ノ節モ前陳ノ事情ニヨリ特二軍事中ハ日本銀行
京都出張所二七テ今回ノ国庫債券二対シテハ従来取引アル銀行ト否トニ不拘相当貸出便宜ヲ与ヘラレソ事ヲ知事閣下ヨリ日本
銀行京都出張所へ御照会アラセラレン事ヲ懇願致シ官奏ル次第二御座薫沐幸ヒ日本銀行二審テ貸出承認ノ後援ヲ得ル粗面テハ
奮テ予定ノ応募可致候得共催ダ夫等ノ便宜ヲ得ザル上ハ不本意ナガラ別紙ノ通り壱万円ヨリ応募筆規候間宜敷地方経済界ノ状
態ニョリ御洞察アラン事ヲ奉希望候也
明治三十七年二月二十七日
株式会社甲賀銀行
甲賀郡長 松田宗寿殿﹂︵3︶
頭取 大原重右衛門
前述のように甲賀銀行は応募額一万円が限度である旨を主張していたが、日銀による貸出承認の後援も得られぬまま
﹁滋賀県庁所蔵文書﹂
増田源太郎編﹃滋賀銀 行 二 十 年 史 ﹄ 二 七 頁 。
﹃滋賀県実業要覧﹄︵﹃滋賀県市町村沿革史﹄第五巻所収︶
に、郡長らの再三にわたる督励により、結局一万五千円の応募を行うに至っている。
︵1︶
︵2︶
︵3︶
五 第二・第三回国庫債券の発行
明治三七年五月二三目、政府は第二回国庫債券発行につき公表した。発行額一億円、利率五%、
れ、償還期限七力年となっていた。同月二五日県は郡・市長あて次のような内訓を発している。
発行価格九二円とさ
﹁今回第二回国庫債券ヲ募集セラル・二就テハ第一回募集ノ際ハ非常ノ国尽カ一一依リ意外ノ好結果ヲ奏シタルモ其募入額ハ
ル分ハ資産家ノ申込其大部分ヲ占タルヲ以テ今回ハ別二各郡市ノ募集高ヲ配当セス主トシテ此等募入外レトナリタル資産家二
別紙調書ノ通八百拾九万余円二対シ百八拾八万余円ニシテ六百三拾壱万余円ハ募寺外レトナリタリ而シテ此平入外レトナリタ
右内訓ス
於テ奮ヅテ応募ノ様精々勧誘セラルヘシ
各郡市長︵親展︶﹂ ︵ − ︶
五月廿五目 幹事
前記の内訓によると、第二回の発行に際しては、郡・市営の割当てがなされていなかったことがうかがわれる。第1表
により第二回の応募額、募入額などの状況をみると、銀行分を除く応募額六六五万福〇〇円、募入額二〇〇万五七五円、
応募額に対する言入額の割合は三〇・○%となっていた。たまたま応募締切日の六月一七日には、大阪の第百三十銀行が
休業を発表し、関西、九州地方の金融界が混乱を来し、滋賀県下の金融界もその余波を受けているが、第二回目の国債応
募も県下においては良好な成績をあげている。
明治三七年︸○月=一日、政府は第三回国庫債券の発行規程を公布、一〇月三一目より公募を行った。発行総額八○○
○万円、利率五%、発行価格九二円とされ、発行条件は第二回の目合と同様であった。第三回国庫債券発行の必要を、
﹃京都目出新聞﹄は次のように報じていた。
日露戦争期の国債消化 二一
郡市別体募劇募入劉募入外噸
「滋賀県庁所蔵文書」により作成。
(出所)
日露戦争期の国債消化
円
円
円
454, 550
141, 800
312, 750
242, 275
71, 125
171, 150
254, OOO
57, 150
196, 850
364, 775
110, 475
254, 300
甲賀〃
蒲生〃
神崎〃
愛知〃
犬上〃
222, 875
70, 275
152, 600
1, 586, 450
472, 900
1, 113, 550
1, 345, 525
404, 050
941, 475
435, 975
131, 350
304, 625
795, 475
242, 950
552, 525
坂田〃
589, 275
182, 625
406, 650
東浅井〃
148, 100
48, 450
99, 650
伊香〃
高島〃
計
74, 550
24, 875
49, 675
136, 675
42, 550
94, 125
6, 650, 500
2, OOO, 575
4, 649, 925
大津市
滋賀郡
栗太〃
野洲〃
二二
﹁軍資のため本年度中に募集すべき公債は、四億一千万円
の予定にして、其内三億円は既に国庫債券及外債に依って募
集せられしも、第一回国庫債券は九、十両月に各千五百万円
の払込あり、十一月に八百万円の払込ありて全部終了を告
げ、以後は第二回債券の払込のみとなり、又外債の払込は既
は漸く減縮し、従って軍資の収入を更に求むるの要あり﹂
に去八月を以て全部皆済となり、今後国債に依る国庫の収納
︵2︶
政府は同年一〇月逓信省令第六七号をもって郵便局国庫債券
取扱規則を定め、郵便局においても国債の応募申込、応募金の
払込、債券交付に関する事務を取扱うこととなった。政府から
の滋賀県知事宛の次のような訓令が残されている。
﹁今般逓信省令第六十七号ヲ以テ郵便局国庫債券取扱規則
発布相成即処右ハ僻阪二散布セル資金ヲ吸収スル官話メ可成応
募者ノ便宜ヲ図ルニ出テタルモノニシテ軍費ノ内地二消散サ
第2表は第三回国庫債券の応募、募入状況を示すものである。県庁所蔵資料によると、割当額については、 ﹁郡市割当
滋賀県知事 鈴木定直殿﹂︵3︶
内務大臣 芳川顕正
大蔵大臣 曾禰荒助
明治三十七年十月三十日
逓信大臣 大浦兼武
度貴官二於テモ此趣旨二依リ充分ノ御尽力ヲ煩シ度此段及内訓候也
ル・モノ一丸力貯蓄ヲ奨励シ以テ募債卜居セシムル等資金ノ輯転ヲ野並ナラシメ以テ軍国ノ財政二尉ノ遺漏ナカラシムル様致
(第1表) 第2回国庫債券応募額・募入額状況
(第2表) 第3回国庫漬券応募・募入状況
(単位:円)
日露戦争期の国債消化
郡市別
募
割当額 応募額
引
入
募入魂レ額
般1銀
一
行
計
大津市
滋賀郡
栗太〃
野洲〃
403, 600
282, 850
85, 700
220, 800
220, OOO
71, 900
254, OOO
270, 675
84, 950
3, 200
88, 150
182, 525
328, 100
326, 175
94, 325
11, OOO
105, 325
220, 850
甲賀〃
蒲生〃
神崎〃
愛知〃
犬上〃
坂田〃
196, 900
214, 900
68, 950
4, 800
73, 750
141, 150
1, 436, 900
1, 122, 650
304, 650
56, 450
361, 100
761, 550
8, 500
94, 200
188, 650
71, 900
148, 100
900, 100
289, 275
289, 275
610, 825
378, 550
122, 575
122, 575
255, 975
712, 900
665, 550
152, 050
70, OOO
222, 050
443, 500
524, 700
549, 250
138, 950
39, 150
178, 100
371, 150
東浅井〃
128, 600
131, 700
45, 200
45, 200
86, 500
伊香〃
高島〃
64, 100
77, 575
22, 050
3, 850
25, 900
51, 675
121, 500
154, 275
51, 550
1, 900
53, 450
100, 825
合
1, 214, 800
393, 100
244, osol 1, 730, 97sl 3, s63, 27s
計1・,・・・・…5・・294・・25・1・486・・952
額ハ明治三十六年度県税地租割営業税雑種税営業税付加
税戸数割及第二回算入外額ヲ標準トシ算出ス﹂とあり、
割当額六〇〇万円に対し応募額は五二九万四二五回転で
約七〇万円の不足をきたしている。すなわち大津市、蒲
生郡、神崎郡など割当額をかなり下回る応募状況となっ
ていた。募入額は一七三万九七五円、うち一般討入額一
四八万六九五二円、銀行募入額二四万四〇五〇円となっ
ていた。
前述のように、第三回国庫債券の発行については、応
募額が県の割当額に達しない郡、市が出ており、第一
回、第二回に比し応募の勧誘には一段の努力を要したも
のと思われる。左記の一文は、第三回国庫債券の応募勧
誘に当った愛知郡郡長沢信次郎の知事宛の手紙である。
管下町村の国債割当てに対する当惑ぶりをうかがうこと
め除いた︶
目通予定額二対シ多数ノ減額⋮ヲ見ルニ至リシバ甚漉思械⋮
﹁拝啓 本郡国債応募ノ義二付テハ不取敢電報致置
二三
ができよう。 ︵⋮⋮の部分はプライバシーにわたる記述のた
(出所) 「滋賀県庁所蔵文書」により作成。
(第3表) 第3回国庫債券銀行応募額
日露戦争期の国債消化 二四
ノ至りニ有之候其状況二葉テ丁霊ル五日概況御報告致置候次第モ有之他府県出店ノ罵言多ク一本郡二於テ応募スルヲ謝絶シ来
候ノミナラズ⋮⋮其他一般各村ノ状況ハ既一一前回二於テ比較的割合多ク募入相成居ルヲ以テ中資産以下ハ頗ル困難ヲ訴フルノ
ミナラズ稽資産家ト称スルモノハ前便申上候通前回二比シ少額二止メタシトノ意思ナルニ依リ村内平均ヲ失スルトカ種々苦情
ヲ惹起シ資産家ヲ攻ムルモノアリ又之ヲロ実トシテ応募ヲ拒ムモアリ中々協議相纒マラズ之ガ為徹夜勧誘二勉メ漸ク一旦之二
キ点モ可有之被存候得共深夜迄奔走配意致候実二今回ハ非常ノ困難ヲ極メ奮励勧誘ノ結果漸ク三十七万余円二相達シ候得共遂
応シ承諾シタルモノモ愈々七日申込ノ場合二際シ変更ヲ来シ其村予定額二達セザル如キ有様ヲ呈スル等要スルニ資力二余裕少
二予定額二不足ヲ告グルニ至リタルハ甚ダ遺憾至極ニシテ面目無之候得共前陳ノ事情御賢察被下度右状況御内報迄如斯二御座
候 敬具
明治三十七年十一月八日
知事 鈴木定直殿﹂︵4︶
澤信次郎
7, OOO
20, OOO
20, OOO
85, OOO
120, OOO
15, OOO
2, OOO
50, OOO
2, OOO
6, OOO
30, OOO
2, OOO
25, OOO
7, OOO
15, OOO
2, eoo
10, OOO
近大江二長長百近寺蒲江高伊湖日甲淡栗八
鴫津北+浜聾嫡庄糠島香東野賀断太幡
行行行行行行行行行部行行行行行行行行行
4, 500
翻 畷銀舞騰銀 畷 円
160, OOO
582, 500
(出所) 「滋賀県庁所蔵文書」によ
る。信楽銀行は整理中のため
応募なし。
計
四楼において開催された江州同盟銀
も三七年一〇月二三目、入幡町の兵
記述がみられる。 ﹁滋賀県において
﹃滋賀銀行二十年史﹄に次のような
の県と銀行側との交渉について、
は第3表のとおりであった。この際
示されているが、銀行別の応募状況
県下の銀行の募入額は前掲第2表に
第三回国庫債券発行に際しての、
名
応募額
行
銀
行会の第二二回定例会の席上県書記官伊沢多喜男および内務部第四課長小手習太郎が出席、第三回国庫債券の募集につき
説明、各行に対しなるべく多額の応募を要請したのにたいし、百揖三銀行の頭取弘誓助三郎氏より各行の応募額を至急取
︵5︶
りまとめ伊沢書記官に報告すべき旨回答があった﹂と。伊沢多喜男は長野県上伊那郡高遠町の出身、伊沢修二の実弟で、
明治二八年東大法科卒業後内務省官僚となり、日露戦争当時滋賀県に内務部長として勤務、後に和歌山、愛媛、新潟など
各県知事、警視総監、台湾総督などを歴任、浜口雄幸と親しく、民政党系政界黒幕として活躍した人物であった。
江州同盟銀行会は、前記の第ニニ回定例会での相談の結果、三七年一〇月二九日、当時同盟銀行会の幹事役をつとめて
いた八幡銀行を通じ、伊沢多喜男宛、応募額の決定を通達している。各銀行の応募額は表示のとおりである。銀行応募額
総額は五八万二五〇〇円で第︸回、第二回同様、八幡、百三十三両行の応募額が大きく、ついで二十一銀行、近江商業銀
︵1︶
﹁滋賀県庁所蔵文書﹂
﹃京都日出新聞﹄ ︵明治三七年九月一〇日︶
﹁滋賀県庁所蔵文書﹂
行等の順位となっている。
︵3︶
︵2︶
増田源太郎編﹃滋賀 銀 行 ご 十 年 史 ﹄ 二 五 頁 。
︵4︶ 同右。
︵5︶
六 第四・五回国庫債券および臨時事件公債の発行
前述のように政府は明治三七年中に巨額の国債発行を行ってきていたが、さらに増大する軍費にあてるため、翌三八年
二月二七日、第四回国庫債券の発行規程を公布、三月二五日より公募を行うこととなった。発行総額一億円、利率六%、
発行価格九〇円、償還年限七華年とされている。第一回より第三回までは利率五%、発行価格も第一回は九五円、第二
日露戦争期の国債消化 二五
日露戦争期の国債消化 二六
回、第三回は九二円であったが、第四回国庫債券の発行は利率六%、発行価格九〇円となり、償還期限は田力年の短期に
し、利率、償還期限、発行価格など応募者にとって有利となっている。これは既述のように国内金利の騰貴などの環境的
かかわらず、利回りは八・二五%という高利となっていた。国庫債券の発行条件は政府にとって回を重ねるごとに悪化
変化や、金融業者らの営利追求の面を看過しえなくなってきた結果によるものであった。
滋賀県に対する第四回国庫債券の割当ては銀行引受分を含め六〇一万二千円となっていたが、県はこの半額を県税額に
郡市別i割当額1応募額1過不足
円
円
円
大津市
滋賀郡
栗太郡
野洲郡
甲賀郡
蒲生郡
神崎郡
愛知郡
犬上郡
坂田郡
299, 900
302, 500
2, 600
267, 300
267, 300
343, 300
343, 500
200
380, 500
381, 850
1, 350
296, 300
303, 975
7, 675
1, 197, 600
1, 095, 475
AIO2, 125
950, OOO
1, 220, 750
270, 750
431, 500
424, 675
A 6, 825
706,500
771, 525
65, 025
622, 500
660, 425
37, 925
東浅井郡
182, OOO
184, 500
2,500
伊香郡
高島郡
118, 100
124, 125
6, 025
216, 500
224, 025
7, 525
計
ている。
第四回国庫債券の発行は、三八年三月に募集が始められた
が、たまたま三月一〇目の奉天会戦の勝利が伝えられ、県民の
﹁第四回国債募集之件本郡配当額弐拾九万六千参百円ヲ各
は、同郡下における勧誘の困難をよく示している。
甲賀郡郡.長松田宗寿より県書記官伊沢多喜男宛の左記の報告
た。
行にとっては、事実上国債の引受けはすでに限界に達してい
た。とくに毎回まとまった金額での割当てを受ける県下の小銀
実務に当るものにとっては、依然として難事に外ならなかっ
かしそれはあくまでも表向きのことであり、実際に応募勧誘の
戦勝気分も手伝って応募状況は前回に比して好調であった。し
「滋賀県庁所蔵文書」により作成。
(出所)
6,012, ooo i 6,304, 62s 1
292, 625
より、さらに半額を第三回国庫債券応募額実績により、郡市別の割当額の算出を行っている。その状況は第1表に示され
(第1表) 郡市別第4回国庫債券割当額・応募額状況
一回以後ノ配当額ヨリ今回ハ増加セシ脇立リ何レノ町村モ人民各個ヘノ配当上今日マデノ習慣二超過スルヲ以テ頗ル難ヲ感シ
町村及各銀行へ配当シ目下夫々督励中一一有之未タ各町村トモ確実ナル報告ヲ齋ラスニ至ラス三無共其情況ヲ察スル臨本郡ハ第
居候趣ニテ中門ハ到底配当額ヲ充タス能ハサル旨申出候向モ有之候得共明日ヨリ郡書記ヲ各方面二出張セシメ督励ヲ加へ候筈
ニテ結局町村大分ハ成功セシムヘキ予定馬差得共銀行へ配当セシニ万三千円︵甲賀一万五千円、寺庄五千円、下田三千円︶ハ
各銀行トモ種々ノ事情ヲ陳述シ第三回ノ応募平茸リモ尚ホ幾分減額スルノ止ムヲ得サル旨ヲ申立候二念更二重役ノ再会ヲ促シ
況御報道迄申進度 怪々拝具
勧誘セシメ居候得共到底予定額二相達シ兼候情況二付塾員本郡配当額中壱万数千円ハ減少候ヤモ難斗被告雲量剥取敢刻下ノ景
明治三十八年三月二十四日
松田甲賀郡長
︵1︶
伊澤書記官殿﹂
当時の甲賀郡は戸数一万三二=一戸、農林業以外に目立つ産業もなく、蒲生・神崎郡のような富商の出身地でもなかっ
た。開戦以来働き手の応召、戦費調達のための増税、軍資献納、櫨兵品寄贈、馬糧や軍用米の供給、あるいは牛馬、荷車
などの徴発、そして購入物資の騰貴などにより、農家の経済は大きな打撃を蒙っていた。第2表ば同郡下二五町村の、国
庫債券第三回発行に至るまでの応募額、募入額の状況を示すものであるが、甲賀郡全体の応募額は七四万一=一五円、募
入額三〇万五〇〇〇円、一戸当り平均の応募額五六円余、同齢入額二三円余となっていた。当時米一升が一五∼一六銭で
あったことを考えると、明治三七年中の一戸当り平均再入額二三円余という金額が少なからざる額であったことがうかが
われる。
他の郡においても事情はほぼ同様であり、郡長の督励のもと、町村長の勧誘は地域の有力者を通じくり返し行れてい
た。滋賀郡長の左記の報告書など、第四回国庫債券募集の苦心のさまを端的に示すものといえよう。
日露戦争期の国債消化 二七
における国庫債券応募・募入状況
日露戦争期の国債消化
コ ロ コ の ロ コ コ コ サ ロ コ コ ロ コ コ ロ ロ の の コ
八
円
円
募 入 額
応 募 額
募 入額
円
計
円
円
合
応 募 額
円
の ロ ロ コ 1 555505 000500 0550000
5
2
7
7
7
5
7
0
5
5
7
5
0
5
7
2
5
5
7
3
1
2
1
0
2
4
0
4
8
0
0
0
8
0
0
6
0
3
0
4
2
8
9
0
1
2
5
7
8
4
9
1
1
1
9
5
7
0
2
3
1 1 1 1 13
1 1
1
2 1
7﹁
381 62958612 77 11860
4
5
7
4
4
3
4
6
3
8
0
4
9
0
1
2
5
5
8
5
5
3
9
8
3
4
3
2
8
1
7
6
0
2
5
2
5
0
4
3
4
3
2
8
2
3
7
3
3
7
2
3
5
5
23
29
12
29
12
33
36
13
1
2
2
2
2
3
2
1
2
1
2
16
1
8363 73687274312526 6
5
4
0
7
6
3
5
0
2
3
2
3
5
9
4
0
5
0
0
9
3
2
1
0
4
2
8
5
3
6
6
5
2
9
3
6
4
1
2
8
2
4
3
9
7
1
8
4
5
3
2
5
7
0
4
2
2
4
8
9
7
7
6
4
5
8
8
7
3
14444451665561
5 0
5 555
0
55
02
0
5
0
0
7
0
7
2
0
0
0
0
0
0
7
7
0
4
2
4
1
4
1
1
9
7
9
4
3
3
2
8
4
3
2
7
6
8
8
3
5
7
1
6
00
64
38
60
64
16
7
3
1 1
1
2
1
1 1
1 1
1
1
2
1
3 1 0
0
5 5555 505 5505505
0
0
7
0
7
7
7
2
0
2
5
2
0
2
5
7
7
7
0
1
5
1
1
0
9
1
3
1
1
2
1
4
8
9
8
2
2
9
2
7
0
3
0
4
7
77
48
60
79
58
25
11
8
1
2
3
4
1
1
1
3
1 3
3
3
3
3
3
3
7 33123 1 5 0
055500
550 5505
2
0
5
0
0
5
7
7
7
0
0
7
2
5
0
5
3
1
6
6
6
8
6
7
1
21
40
31
33
3
4
1
24
30
10
14
29
33
3
3
1
27
32
12
7
一戸平均
応募額 募 入 額
回
3
第
(第2表)滋賀県甲賀郡下各町村
T0
V5
V5
O0
T0
V5
O0
O0
V5
O0
O0
V5
O0
T0
Q5
O0
T0
Q5
T0
V5
Q5
Q5
O0
T0
Q5
O0
T0
T0
V5
O0
Q5
V5
Q5
Q5
T0
V5
T0
V5
T0
O0
O0
T0
Q5
T0
T0
円
β4潟β4ゆββββ⑩β⑩43﹂ゆβ55βββ⑩2ゆ
5 984レ844拓92873154622 恩
U
7
円
V5
V5
円
孟R
ββ
ββ
謁4
45
92
ββ
β5
43
β泥
93
3﹂
82
β 2 11 7
2β3
3β3
1
2β 1β3
3
3β1
T0
β5
渦9
31
ゆβ
渇2
ββ
55
β﹂
β3
51
β5
β0
渇渦
W
2β1
1β
3β4
841
1β1
1β
2β111048911
T0
T0
2
円
25
11
00
P1
Q5
Q5
O0
Q5
V5
O0
V5
O0
T0
T0
Q5
Q5
O0
O0
V5
O0
Q5
O0
T0
T0
T0
O0
Q5
O0
O0
O0
Q5
T0
V5
O0
Q5
O0
Q5
Q5
Q5
V5
Q5
V5
V5
O0
V5
O0
V5
O0
4β5β3βV
β1
β7
53
ゆ6
渦1
﹂4
4β
β6
46
β7
4 12464520
1β
6沼
55
6β1
U⑩
1β
4β1
(出所) 「滋賀県庁所蔵文書」により作成。
V5
P1
V5
P3
Q5
P0
O0
P5
O0
P6
O0
β
6653454672377355234452
1 13
3
75
P5
U1
S5
U7
W1
S5
X8
U9
T8
U1
P3
W6
R4
O4
W8
X5
X5
X3
T2
U2
S7
X4
R0
X4
口部雲根田谷木野山山川内原日 池庄川杣杣井野原宮尾計
宮 生 羅
水石三岩下伴柏大佐土鮎山大油 龍寺貴南北雲長小朝手合
O9
日露戦争期の国債消化
九
第 1 回
37
50
14
46
31
P2
第 2 回
戸数 応募額1募入額1応募額1募入額
町村名
日露戦争期の 国 債 消 化
﹁ 報告
第四回国庫債券勧誘ノ末辛フシテ応募額金弐拾六万七千参百円二相達シ候条此段及報告候也
︵2︶
鈴木定直殿﹂
明治三十八年三月光一日
滋賀県知事
三〇
滋賀郡長 服部慶太郎
栗太銀行は明治三〇年一〇月、栗太郡草津町に本店を置き営業を開始しているが、明治三七年当時資本金一〇万円の小
銀行であった。第一回以来国債引受けを強要されてきた同行の当惑ぶりが、知事宛提出された栗太郡長の報告によってう
かがうことができる。
﹁栗太銀行へ第四回国庫債券額面弐万円応募スヘキ青燈懇示相成候明輝テハ尚本官ヨリモ奮テ応募スヘキ様勧誘致候へ共今
日銀行ノ現況余裕ナキヲ以テ謝絶致度モ為国家不得止三千円応募ノ旨申出三二付再三再四懇諭致候結果五千円応スヘク此上ハ
此段底上申楽也追而本文ノ為郡配当額ノ内一万五千円減少スルコト・相成候モ及フ限り他ヲ勧誘シ郡配当額ヲ磐屋シタキ考二
如何トモ致方無キ上申判事実二已ムヲ得サルモノト認メ候へ共是レカ為県下他ノ銀行二影響候テハ甚タ不都合ト存候条不取敢
候へ共或ハ多少減スルヤモ難計候二付予メ御含置相成度此段添申候也
明治三十八年三月廿九日
︵3︶
滋賀県知事 鈴木定直殿﹂
滋賀県栗太郡長 北川良愼
明治三隔年五月、重ねて第五回国庫債券の募集が行われた。発行高一億円、利率六%、発行価格九〇円、償還期限七島
年とされ、三月発行の第四回国庫債券の場合と全く同様であった。第四回発行から発行条件が応募者に有利となり、利回
りが八・二五%に上昇したことや、軍需品購入による軍資の放散あるいは日銀券の増発などにより、第五回国庫債券は、
発行額の五倍に及ぶ応募額が得られている。滋賀県に対する配当額は六〇一万二〇〇〇円とされていたが、応募額は七〇
(第3表)滋賀県における公債種類別保有高
(単位 円)
『滋賀県統計全書』(明治39年)による。
(出所)
97, 640
明治36年末
327, OOO
316, 100 3, 013, 200 1, 966, 275
15, 720, 215
〃37年末
362, 475
75 152, 800 8, 211, 150
308, 450 2, 942, 500 1, 784, 150 2, 660, 775
〃38年末
352, 825
50 713, 090 10,483,465
150, 100 2, 312, 050 1, 395, 850 5, 559, 550
〃39年末
354, 075
50 1, 753, 810 9, 628, 835
142, 100 2, 137, 150 1, 302, 550 3, 939, 150
日露戦争期の国債消化
次i旧公紅軍矧聾咽軸公債1嘩鯛その倒合計
年
一万三八二五円、募入額は一三四万六二〇〇円に達している。この応募額は、第一回
の応募額につぐ金額となっている。
臨時事件公債は日露戦争終結後の明治三九年三月、戦時中の軍費の不足額、軍隊の
引揚、論功行賞などに要する経費捻出のため発行されているが、発行額が二億円もの
巨額であったために、国庫債券発行の場合と同様、政府は事前に財界関係者らと協議
を行っている。﹃京都日出新聞﹄︵明治三九年二月一〇日︶に次のような記事がみられる。
﹁阪谷大蔵大臣は来る十三日午後五時より、東京、横浜、大阪、京都、名古屋等の
と大に其の趣を異にするを以て、同日は具体的に協賛を求むるが如き事なかるべく、
重なる銀行家を官邸に招待し、内債募集に関し協賛を求むる由。今回の募債は戦時中
又銀行家に激ても従来の如く国民の敵悔心に訴へ零砕なる資金を吸収すること能はず
利益計算に重きを置き充分審査講究の上諾否を決すべき事情なるが故に従前の如く邸
︵4︶
決する事能はざるべしと云ふ﹂
政府は発行に当り各種の特典を与えるとともに、償還国庫債券所有者の応募を勧奨
するなどっとめるところがあり、その結果発行条件が不利なるにかかわらず、三十七
三一七万円の申込を得ている。滋賀県下においては四〇〇万円の割当てに対し、四三
五万八二五〇円の応募がみられた。
前述のような国債の応募に際しては、個人あるいは銀行のほかに、会社や各種団体
などが申込を行っており、滋賀県においては、この他に郡市町村基本財産や郡市町村
学校基本財産積立金などによる応募が行われていた。
ゴニ
(第4表) 公債所有形態別状況
額
員
有
所
面
額
人
金
計
郡 市 別
個
有1合
丘
人
A
円
円
円
1 08
1, 966
977, 100
506, 825
ユ,483,925
841
R5
876
355, 625
エ83,500
539,エ25
2, 113
Q7
2, 140
250, 100
74, 350
324, 450
2, 160
S9
2, 209
365, 325
66, 475
431, 800
2, 523
T3
2, 576
384, 800
22, 550
407, 350
4, 416
W9
4, 505
1, 443, 600
408, 025
1, 851, 625
1, 377
R8
1, 415
1, 514, 9eO
300, 750
1, 815, 650
2, 443
R4
2, 477
523, 175
38, 300
561,475
4, 774
T6
4, 830
1, 148, 990
143, 675
1, 292, 665
4, 739
T9
4, 798
804, 150
171, 475
975, 625
1, 793
P5
1, 808
218, 100
11, 725
229, 825
2, 041
Q2
2, 063
210, 600
56, 525
267, 125
3, 099
R7
3, 136
281, 450
21, 375
302, 825
1, 858
計
計
日露戦争期の国債消化
津賀太三賀生旧知上田井香島
浅
口滋栗野甲蒲神愛犬坂東伊高
総
有1合
人1共
個
6221 34, 7ggl s, 477, glsl 2, oos, ssollo, 4s3, 46s
34, 177
『滋賀県統計全書』 (明治38年)による。
(出所)
三二
第3表に示されるように、滋賀県においても公債保有
高は明治三七年より急増をみているが、それは目露戦争
期の国庫債券の発行にもとつくものであった。明治三八
年末には、国庫債券の保有高は総保有高の五三%を占め
ていた。また第4表は同年末の公債保有の郡市別、所有形
態別状況を示すものである。本表によって国庫債券の保
有構造を明らかにすることは困難であるが、︵所有形態で
の共有のなかには、銀行、会社、各種団体などが含まれるもの
と考えられる︶所有人員あるいは額面金額などから、国庫
債券についても小口・零細な個人保有者が多数含まれて
いたことが推測されうる。
︵5︶
︵1︶ ﹁滋賀県庁所蔵文書﹂
︵3︶ 同右。
︵2︶同右。
︵4︶ ﹃京都目出新聞﹄ ︵明治三九年二月一〇日︶
︵5︶ 日露戦争期の国債募集について、他府県の状況がどのようなも
い。
のであったか。参考までに岐阜県の事情について述べておきた
同県の第一回から第五回までの、国庫債券応募額合計は二入五
政史﹄第十一巻国債︵上︶︶で、いずれも滋賀県を下回っていた。
四万四一五〇円、募入額合計六七三万九一〇〇円︵﹃明治大正財
名
岐阜県編﹃岐阜県史・通史編・近代下﹄四・一五頁に次の記述がみられる。 ﹁﹂はすべて﹁岐阜日日新聞﹂からの引用である。
冷々水の如き﹂有様であり、第三回も第二回より四、六二五円増の三、三六一、〇五〇円に止まった。しかも募集にかなりの無理があり、恵那郡一
﹁この余りにも巨額に上る県下の国債募集状況は﹁第一回は県内上下一般非常に熱狂、愛国的であったが、第二回は忘れたる如く捨てて顧みず、
の損失を負担に決した。﹂
寒村では﹁村民奮って国債に応じ度し、金は無しとて村民相会し、一時応分の募集に応じ、直ちにこれを売るとして其の間の鞘︵一〇〇円に五円︶
が熱心に勧誘﹂した結果一六万円に達した旨郡長より県当局に報告、町村中努力大なるものの事例をあげている。又資産家層中には、地租等増税の
﹁いずれにしても国債募集にはかなりの強制力が働いたと思われ、養老郡では第一回国債割当一四万円募集が極めて不成績であったが、 ﹁町村長
上に多額の国債を割当てられることへの反棲もあり、第三回国債募集に際し、 ﹁県下西濃某冨豪は一文の応募もせず、郡役所よりいかに勧誘するも
断乎どして飽くまで拒絶﹂し、或いは第一回、第二回国債についても、応募は﹁申流以下に多く中流以上に少き観あり、金持と吐月峯は何とやらの
感あり﹂と報ぜられている。﹂
七 県下における応募の特徴
岐阜県下の事例もまた、国債の消化が国民大衆にとって容易ならざる事態であったことを示すものといえよう。
円
5, 541, 650
12, 610, 200
4, 092, 950
3, 594, 100
3, 407, 800
2, 591, 550
2, 587, 100
東大神京兵愛滋群富山
①②③④⑤⑥⑦⑧⑨⑩
京阪馴麓知 賀 馬 山 ・
府府県府県県県県三二
14, 392, 050
日露戦争期の国債消化
玉
167, 303, 950
肝
全
募額
応
県
府
66, 547, 250
2, 587, 100
(出所) 「滋賀県庁所蔵文書」に
より作成。
三三
千万円、第二回五千万円に対し百万円以上の応募をなしたる府県﹂
県別応募状況に関する県庁所蔵資料によれば、 ﹁公債募集第一回三
国計は一億六七三〇万三九五〇円に達していた。この軍事公債の府
五〇〇〇万円、同応募額九〇三〇万=二〇〇円であり、応募額の全
集額三〇〇〇万円、同応募額七七〇〇万二六五,○円、第二回募集額
日清戦争期間中には軍事公債が二回にわたり募集され、第一回募
戦争期の軍事公債の応募状況とあわせ概観しておきたい。
比較してどのような特徴をもつものであったのか、参考までに日清
滋賀県下における日露戦争期の国庫債券消化の状況は 以 上 に 述 べ た
と
お
り
で
あ
る
が
、
かような県下の実情は、他府県と
(第1表)軍事公債府県別応募状況
(第2表) 滋賀県における国庫債券応募・募入状況
(単位:円)
鵬・募入別立・回第・回1第・回1第・回1第・回「計
応募額
募入額
6, 284, 075
7, 013, 825 33, 469, 25e
1, 882, 325
644, 925
1, 346, 200
7, 635, 150
(出所) 『明治大正財政史』第11巻,944頁Q
(注) 小論における応募・筆入金額はすべて県庁所蔵文書より得られており,本
日露戦争期の国債消化
:12:g13,gajil;9,l18,::
8, 196, 125
表の金額と若干の相違がある。
41, 568, 825
93, 312, 675
29, 002, 875
61, 476, 125
14, 078, 425
38, 939, 100
8, 521, 975
33, 901, 900
10, 303, 075
33, 702, 150
8, 258, 525
33, 469, 250
7, 635, 150
上言己1・騨訓・…8…3,…[321・・895・・95・
臨
盟砿
㈱ 誰 稀 灘認 繍
取祝
全国計2,004,288,100 480,000,000
状況は良好であり、応募
額の全国順位も一〇指に
入る結果をみている。第
2表はこれまで述べてき
た第一回より第五回に至
るまでの応募・募入状況
を一括表示したものであ
るが、滋賀県に対する割
当額は毎回六〇〇万円程
度で、人口構成比や県の
経済力などからすると、
配当額が大きいと考えら
三四
20, 947, OOO
103, 886, 950
として、第一回、第二回を合した応募額およびその順位があげられている。そのベス
50, 064, 850
108, 510, 300
トテンをあげると第1表表示の状況となっていた。これによると滋賀県の応募額は全
131, 515, 250
269, 602, 025
国第七位にランクされている。県の財政規模や県経済の実勢などからすると、せいぜ
631, 703, 425
い三〇念望どまりと判断されるにもかかわらず、かような応募順位となっていること
府府県県県府県県県県
京阪知望都都重岡潟賀
東大愛神兵京三福新滋
①②③④⑤⑥⑦⑧⑨⑩
府県別応募制募入額
円
円
が注目されよう。
募入状況
斥お
にけ
おる
け国
る庫
国債
庫券
債に
券対
にす
対る
す応
る募
応募
目露戦争期においても、日清戦争期と同様、滋賀県に
(第3表) 国庫債券(第1回∼第5回)府県別応募。
れるが、にもかかわらず、応募額が割当額を上回ることが多かった。応募・募入実績を、府県別の比較でみると、第︼
回∼第五回の合計で、滋賀県は第3表に示されるように、応募額、聴入額とも全国順位で第一〇位にランクされていた。
かような国庫債券応募の経過および府県比較の一端について、滋賀県庁所蔵の﹁国庫債券応募ノ状況﹂が次めように記録
している。
国庫債券応募ノ状況
﹁昨年二月宣戦ノ詔勅燥発セラレ次テ第一回国庫債券募集ノ挙アリ右募集ノ良否ハ我邦財カノ信用二関スルノミナラス外征
定メ各郡二出張郡市長ト協力シ極力勧誘ヲ加へ而シテ県民二於テモ此際決シテ朧躇スヘキ秋ニアラサルヲ自覚シ熱誠以テ之力
軍ノ気勢二至大ノ影響ヲ及ホスハ言ヲ待タサル所ナルヲ以テニ月十五日郡市長ヲ召集シテ訓示ヲ与へ尚県高等官ノ受持区域ヲ
募集二応シ此二八百拾九万円余ノ応募ヲ見ルニ至レリ次テ引続キ第二回及第三回ヲ募集セラレタルニ当時一般経済界ノ状況兎
角前回ノ如ク好況ナラス勧誘上非常ノ困難ヲ極メタリト錐極力勧誘ノ結果相当ノ好成績ヲ見ルニ至レリ今試二各府県第一回乃
リテ第四回、五回ヲ募集セラレタルニ今回ノ募債条件ハ稽前回二異ルモノアルヲ以テ毎回頗ル好成績ヲ見ルニ至レリ﹂︵−︶
至第三回ノ応募総額ヲ戸数二割当ツルトキハ本県ハ= 平均百五拾四円二上リ実二全国中第四位ヲ占ムルヲ見ル爾来本年二入
前記の各府県第一回乃至第三回の、応募額についての一戸当り応募額および順位をみると、①東京府七四七円、②大阪
府四〇四円、③神奈川県二八二円、④滋賀県一五四円、⑤京都府一五三円、⑥兵庫県一三九円、⑦富山県==円、⑧愛
︵2︶
知県一一九円、⑨奈良県一一〇円、⑩北海道=○円の順位となっている。すなわち= 当りの応募額順位では滋賀県は
全国第四位の地位を占めていたことが知られる。
第4表は近畿二府四県と東京府の、重要資力調査を示すものである。紙面の都合上他県を省略しているが、東京府、大
阪府などにおいては、明治二〇年代より資本主義経済の進展がみられ、会社企業の生成や有力銀行の発展が実現されてお
り、人口や産業の集積、あるいは所得水準の上昇により、公債の引受能力も他府県に比すると高い永準にあった。東京府
日露戦争期の国債消化 三五
(第4表)重要資力調査(明治37年10月1日調)
羅 災 公共団体 会 社
銀 行
銀行預金 郵便貯金 救助基金
積立金
積立金 積立金
府県覇
5, 999
96, 857
2, 369
2, 668
千円
520
千円
千円
千円
2, 576
37, 661
788
1,129
107, 142
1, 031
1, 059
2, 657
41, 049
562
369
617
7, 360
817
715
1, 525
73 9, 420
g, 4201
359
382
790
.鴛91
和歌円馴
1.1.?.?.i一..一...一.一.v.li.?.1
東京府「漏1f・二丁・;[’5,・19
ゴ
33, 634
473 5, 339
550 10, 721
11, 681
72si 1,ggsl s6,3s7
33,4ssl 2g,0271 63,7441 s6,3s71
全国計82,456705, 835
14, 328
日露戦争期の国債消化
千円
2, 183
U1
府府県県三一
山.
都
阪庫良賀
血
肝大兵奈滋和
千円 千円
1,123 31, 259
計
291, 895
914, 520
(出所) 「滋賀県庁所蔵文書」により作成。
926
8. 194
165
1, 072
6. 496
302
6, 738
22. 311
179
5, 104
28. 513
116
1,627
14. 025
230
2, 468
10. 730
200
2, 217
11. 085
東浅井郡
56
280
5. 000
伊香郡
高島郡
89
394
4. 426
191
1, 169
6. 120
計12・295127・926112・168
(出所) 『滋賀県統計全書』 (明治3
年)により作成。
三六
6. 514
113
円以上の所得
に課せられる
もので、明治
三一年五月一
六日置官報に
よれぽ、当時
の所得税納税
者は、全国で
二階九二九
や大阪府が応募額、募入額、あるいは= 当り応募額において一位あるい
1, 140
は二位を占めるのはむしろ当然の結果であった。
10. 002
175
滋賀県の応募成績が好調であった理由は何か。とくに注目されるのは、
4,791
蒲生、神崎二郡を出身地とするいわゆる近江商人の存在であった。当時の
円
滋賀郡
栗太郡
野洲郡
甲賀郡
蒲生郡
神崎郡
愛知郡
犬上郡
坂田郡
近江商人達は、商店・会社・自宅を他府県の都市に構えても、本宅を出身
円
479
の町村におく者が多く、国債の募集に際しても出身地でこれに応募する者
人
が少くなかった。第5表は明治三〇年度における、県下の所得税納税者の
納税額
郡別納税人員、納税額、および一人当り納税額を示すものである。明治二
納税人員
郡
〇年に導入された所得税は、個人の資産および営業より生ずる年間三〇〇
悟
り 〇
額
愚税
名
納1納
(第5表) 国別所得税納税状況
六人となっている。本表に示される納税者一人当り平均納税額をみると、神崎郡が二八・五=二円、蒲生郡が二二・コニ
︸円となっており、他郡の平均納税額に比し著しく高額となっている。このこ郡にはいおゆる高額所得者が他郡に比し多
数存在していたことがうかがわれる。滋賀県庁所蔵の資料によれば、とりわけ前後五回にわたる国庫債券の応募に際し、
神崎郡の南五個荘村の存在が大きかったことが記録されている。
﹁蒲生、神崎郡ハ所謂近江商人ノ根拠地ニシテ富豪ノ聞ヘアルモノ甚軽罪ク毎回ノ応募黒鳥二他面二超越セリ殊二神崎郡南
Z五五円
一戸平均応募額
九七七〃
六九七〃
四、九六九〃﹂︵3︶
細資
南五個荘村の資力がけたはずれに大きかったことがうかがわれよう。
セ﹃
匹
五個荘村ノ如キハ毎回六、七拾万円内外到達シ県下滋賀、東浅井、伊香、高島ノ四聖︵合計五十六ケ村︶ノ応募額ト伯仲ノ間
七〇四、五七五円
応募額
二在リ試二同村二於ケル第一回以来ノ応募額及一戸平均額ヲ調査スルニ左ノ如シ
第一回
四六五、七〇〇〃
宦對ェ〃
六五二、五七五〃
六七一二、 一五〇〃
第三回
第二回
第四回
三、三一九、二〇〇〃
八二二、二〇〇〃
一、二三二〃
合計
第五回
︵1︶ ﹁滋賀県所蔵文書﹂
神崎郡においてもとりわけ、
と とも
の
︵2︶ 同右。
開
た
め
︵3︶ 同右。
看過できない重要な経過は、
戦
八 国債消化と貯蓄奨励
日露戦争下における国債消化の問題と関連して、
日露戦争期の国債消化
零
七
金
吸
収
一、
一、
日露戦争期の国債消化 三八
大規模な国民貯蓄運動が展開されていることである。国債の消化は原則として直接投資の方法を採用しているが、これと
併行して、 ﹁政府は各種の貯蓄奨励措置を実施し、これによって吸収される零細な資金を国債の消化に充当するという問
︵1︶
接金融方式にも依存した﹂のである。
わが国における貯蓄奨励運動は、歴代の財政当局者により推進され、明治初年以来しばしぼ国家目的との関連において
し地域において活用されてきたのは、講的組織あるいは各種の貯蓄組合的組織の存在と機能であった。これらの組合はそ
その重要性が主張されてきた。この揚合とりわけ農業県において重要な役割を果してきたのは、すなわち農村的環壌ない
の設立の動機を異にし、実際の事業においても、地域によりかなりの相違がみられたが、共通に見出しうる特色は、大字
あるいは町村単位で規約を結び、でぎうる限り生活程度を低く維持し、冗費を節して蓄積を行おうとする姿勢が保持され
ていたことである。明治二〇年代から全国各地にかような組織が形成されてくるのであるが、その名称も、例えば、貯蓄
組合、勤倹貯蓄組合、日掛貯蓄組合、積善講、五厘講、日掛講など、まさに多様であった。例えば島根県飯石郡来島村の
﹁勤倹貯蓄組合﹂は、 ﹁明治二十六年以来勤倹貯蓄及矯風ノ目的ヲ以テ組合ヲ各大字附設ケ交際上ノ贈答ヲ節約廃止シ凶
荒ノ予備トシテ郵便貯金及籾ノ貯蔵ヲ為シ耕地ノ改良造林ノ奨励ヲ図り、且ツ災害異変心際シ隣保相助クルコトヲ規約シ
之力実行ヲ努ムル﹂ことを目的としていた。山形県南村山郡蔵増村の﹁貯蓄組合﹂においては、 ﹁天災其他困難ノ場合二
︵2︶
応スルタメ毎戸一日掛弐厘宛貯蓄シ郵便貯金ト為シ其方法上毎月十五日置二十五目ノ両度積立金ヲ世話掛口渡シ世話掛ハ
其金額ヲ世話掛ノ外数人ノ名義ヲ以テ郵便局二預ケ入レ毎年十二月笹目マテニ組合二報告スル﹂ものとされ、 ﹁組合内題
︵3︶
貧者ハ草履縄等ヲ以テ貯蓄金二戸テ又ハ富者三雇ハレ其賃金ヲ以テ積立ツルモノ﹂とされていた。
滋賀県においても日清戦争期を機に貯蓄奨励運動が高揚され、各町村ごとの貯蓄事業や郡あるいは町村基本財産の蓄積
が推進されている。一例として愛知郡稲枝村︵現、彦根市稲枝︶の稲枝村村治事績の中から貯蓄事業の経過を記しておく。
﹁明治二十九年風水害アリシ以来勤倹貯蓄ノ必要ヲ感シ明治三十一年時ノ村長平田伝右衛門貯蓄規約ヲ設ヶ以テ貯蓄ヲ奨励
セリ其規約ノ大要ヲ揚クレハ日各人ハ無益ノ費用ヲ節シ専ラ心ヲ勤倹貯蓄二止メロ之二依リテ得タル金銭ヲ戸数割賦立標準二
依り一戸五銭ヲ以テ貯蓄スルコト・為シ日其貯蓄金ハ毎月委員長之ヲ収集シ出金老ノ名ヲ以テ郵便局又ハ銀行二三込ムコト・
シ囲猶ホ幹事二人委員九人︵各字一二人︶監査八十入ヲ置キ以テ村民ノ貯金ヲ奨励シタル結果三十五年十月三十一日ノ現在ハ
預金四千三百六十九円二十四銭四厘、此利子三百八十円四十八銭二達セリト云フ﹂
︵4︶
貯蓄というものは本来自発的に行われるべきものであるが、前述の事例の示すところは、貯蓄運動の実体は、あくまで
も国−県i町村の縦割りの組織系統による半強制的な共同貯蓄であり、とくに農村地方においては、旧来の農村共同体的
秩序を媒介として強力に推進されていたという事実である。
わが国においては明治初年以来、零細資金の吸収機関として郵便局や貯蓄銀行が育成されてきているが、前記の事例に
も示されるように、各種組合で蓄積された資金は、郵便貯金あるいは銀行預金として預け入れられ、とくに戦時下におい
ては軍資として、あるいは国債引受けの資金として活用されることとなった。先に指摘したように、かような意味におい
て、国債消化は間接金融方式にも依存するところが大きかった。
日露戦争期においても、開戦前の明治三六年秋より、政府による貯蓄奨励運動が強化され、全国的な国民運動として展
開されている。貯金.局買﹃六十年間に於ける郵便貯金経済史観﹄ ︵昭和一〇年刊︶によれぽ、 ﹁露西亜との国交上には三十
六年秋から既に暗雲低迷し、其の年末に至っては愈々戦争不可避の情勢となったので、之に備ふる為、逓信、内務、大蔵
三大臣連署の勤倹貯蓄に関する内訓が地方長官に発せられ、続いて愈々開戦となるや文部大臣は学生・生徒に、陸軍大臣
は陸軍部内に夫々訓諭を発して貯蓄を奨励し、国民一般の笑気を促したのであって、国民亦之に応じて挙国一致勤倹力行
の気風は、宇内津々浦々にまでも江溢した﹂といわれている。
︵5︶
さらに東洋経済新報社編﹃金融六十年史﹄︵大正=二年刊︶は当時の貯蓄運動の状況を次のように記している。
日露戦争期の国債消化 三九
滋賀県下における郵便貯金および銀行預金の動向
(郵貯3月末,銀行預金1月1日現在)
員
64, 674
82, 705 147, 379 813, 837 1, 078, 266 1, 892, 103 1. 14
円 円 円 円 円 円
1. 51 2. 65
37 tl
98, 384
88, 888 187, 272 898, 510 966, 984 1, 865, 494
1. 27
1.36
2. 63
38 tt
158, 684 105, 882 264, 566 1, 300, 028 1,167,212 2, 467. 240
1. 83
1.10
2. 93
39 tt
164, 308 108, 636 272, 944 1, 549, 997 1, 284, 964 2, 834, 961
2. 17
1.80
3. 97
40 t/
181, 839 102, 785 284, 624
日露戦争期の国債消化
に付金額
計
『滋賀県統計全書』 (明治44年)により作成。
(出所)
3, 506. 449 3. 00 2. 00 5. 00
明治36年
2,103,652 il, 402, 797
人口1人
額
金
人
黄熱計
郵便貯金i銀行預金
計
郵便銀行
貯金預金
次
年
四〇
﹁或る村では定刻の梵鐘を一時間早めて各自の業務に従ひ、一年ならずし
て貯蓄の総額一万八千円に達したと言ひ、下品村では一村常業に従事する余
力を以て別に燕麦を播種すること三百七十二町歩に達したと伝へ、或は利長
自ら鈴を振りて村民の起床を促したり、軍用品の運送より得たる村民の賃金
組合﹄、月俸百分の五を積立てる﹃百五貯蓄金﹄、 ﹃五厘講﹄、 ﹃一厘講﹄、
を以て勤倹貯蓄組合を設けたり、其他﹃小学児童髪刈規則﹄、﹃紀念勤倹貯蓄
﹃貯蓄田﹄、 ﹃奉公貯金﹄、 ﹃覚悟貯蓄箱﹄等の如きもの、各地各処に輩出し
全国到る処に所謂貯蓄組合の設けなきはなく、一県にして、多きは一千数
︵6︶
百、少なきも百を以て数へた﹂と。
明治三六年末のわが国普通銀行預金の現在高は六億七四一七万円であった
が、三八年末には八億五三二七万円に増加し、郵便貯金は三六年末の三二七
五万円から、三八年末には五六二一万円に増加をみている。︵上掲の表に示さ
︵7︶
れるように、滋賀県のような農業県においては、郵便貯金は銀行預金に比し著しい伸
びを示している。︶
郵便貯金はとくに政府の貯蓄奨励施策に積極的に呼応し、戦時下に郵便貯
金の利子を年四・三%から五・四%に引き上げ、また貯金制限額を五〇〇円
から一〇〇〇円に引き上げたほか、集配人取集貯金、据置貯金、振替貯金制
度の創設など、時局に応ずる種々の工夫をこらしている。日清戦争直後から
停滞気味であった貯金の現在高は、三七年から四〇年にかけて年々約三〇%
の高率で増加をみることとなった。
前頁の表は日露戦争前後における滋賀県下での郵便貯金および銀行預金の動向を示すものである。いずれも明治三八年
に人員、金額とも顕著な増加を示しているが、とくに郵便貯金の増勢ぶりが注目されよう。
なお滋賀県庁所蔵の資料によれぽ、日露戦争下における貯蓄奨励の実態につき、次のように記録されている。
﹁客年二月宣戦ノ詔勅燥発セラルルや直二諭示ヲ為シ模範規約ヲ示シテ戦時国民貯蓄組合ヲ設ケ共同貯蓄ノ普及実行ヲ期セ
ンコトヲ奨励セリ而シテ本組合目一般県民二一日金壱銭ヲ標準トシテ貯蓄ヲ為サシメントスルモノニシテ其方法ハ徒二消極二
流レス主トシテ勤勉力行以テ其余財ヲ蓄積セシメ軍資ノ供給ヲ豊富ナラシムルト同時二生産的資本ノ充実ヲ期スルニ在リキ然
ルニ本組合ノ設立奨励二着手スルや当時開戦ノ影響トシテ人心何トナク緊縮ノ傾向アリ世上不景気ノ模様ヲ呈スルヲ見之ヲ以
二遭遇シタリト雌元来戦時貯蓄ノ趣旨ハ可成積極的方針ヲ執りテ生産ノ増加ヲ図り其剰シ得タル所ヲ貯蓄セシメントスルニ在
テ一二貯蓄奨励ノ結果ナリト誤解シ或ハ他ヲ煽動シテ三儀実行ヲ妨ケ或ハ種々ノ辞柄ヲ仮リテ之ヲ実行ス一時大二困難ノ状況
ルヲ以テ脚力誤解ヲ防グ為参事官其他ノ吏員ヲ派シ各郡市数ケ所ッ・一般人民ヲ会合セシメ幻燈ヲ用ヒテ大二勤勉貯蓄ノ必要
ト戦時二合ケル国民ノ心得方ヲ説示シ尚郡市長二対シテ一層之力督励方ヲ訓示シ百方尽力ノ結果県民二男テハ漸ク其趣旨ヲ諒
シ続々貯蓄組合ノ設立ヲ見ルニ至リ今日二在リテハ蓄積額ノ増加スルニ随ヒ益進ンテ之ヲ実行シ客年四月目リ本年三月末迄二
︵8︶
於テ県下二百三ケ村ノ内組合ヲ設ケタル町村百九十二、組合数九百十三二及ヘリ﹂
四一
かような貯蓄組合の増加はもとより滋賀県のみにとどまるものではなく、先述の官報にも示されるように、全国各府県
でほぼ同様の経過がみられた。
︵9︶
﹃官報﹄︵明治三五年七月四目︶
﹃官報﹄︵明治三六年八月三日︶
︵1︶ 吉野俊彦﹃日本銀行史・第三巻﹄五七三頁。
︵2︶
﹃官報﹄︵明治三六年四月二三日︶
︵3︶
︵4︶
東洋経済新報社編﹃明 治 金 融 史 ﹄ 一 一 三 頁 参 照 。
東洋経済新報社編﹃金融六十年史﹄四四二頁。
︵5︶ 貯金局編﹃六十年間に於ける郵便貯金経済史観﹄五入∼五九頁。
︵7︶
︵6︶
目露戦争期の国債消化
O
日露戦争期の国債消化 四二
︵9︶ 滋賀県下における目露戦争期の貯蓄奨励施設が、戦後産業組合の設立に関係をもっていたことが、左記の﹁滋賀県庁所蔵文書﹂によりうかがわれ
︵8︶ ﹁滋賀県所蔵又書﹂
る。
﹁明治三十三年三月産業組合法発布以来屡々郡市長二訓令シ組合ノ設置ヲ奨励スル所アリシモ県民未タ組合法ノ精神ヲ会得セサルカ為メ普ク設立
ヲ見ルニ至ラサルコト数年三十七年二月日露ノ国交破裂シ宣戦ノ詔勅ヲ燥発掘ラル、ヤ県民二諭示スルニ戦時国民貯蓄組合ヲ設ケ勤倹ノ余財ヲ蓄偵
途ヲ講シ以テ国力ノ培養二努ムヘキ旨諭示セリ爾来其ノ組織ヲ変更シ産業組合トナリタルモノアリテ機運漸ク一変スルニ至レリ﹂
シテ軍資供給ノ財源二備フヘキコトヲ以テセリ当時組合ヲ設ケタルモノ九百余貯蓄額五十万円ヲ算スルニ至リタリ然ルニ該組合ノ存立期限ハ戦時中
ナルヲ以テ平和克復ト共二組合ヲ解散スルハ策ヲ得タルモノニ非ラサルヲ以テ終局ノ際更二戦時国民貯蓄組合ハ之ヲ戦役紀念貯蓄組合トナシ貯蓄ヲ
継続実行スルカ又ハ其ノ蓄積額ヲ基礎トシ戦役紀念トシテ信用組合ヲ組織スル等曲目ノ生産資本ヲ造成シ共二其ノ資金ヲ利用シテ産業ヲ振興スルノ
九 結
京都市においては西陣機業をはじめ地山産業の多くは、商況不振で滞貨が増大し、銀行の預金、貸出しも停滞した。大
り﹂︵−︶
に増加を示せるに拘はらず、京都市は預金及び貸付は何れも減退し居れり。就中貸付の如きは比較的多額の減少を示し居れ
して今試みに東京、大阪、京都の三市に於ける開戦以来の銀行営業上の貸借関係を観れば、東京、大阪は預金並に貸付共立
とは掩ふべからざる事実なり。然れども戦局の進行に伴ひ軍隊に要する多大の軍需品は内地に於て之を購入せるより大に潤ほ
とど
ひし地方なきに非ず。例へば軍需品集散の中心たる大阪の如き、軍隊の来往に足を停むる広島若くは佐世保の如き是なり。而
﹁今春日露の間平和破れ曲直を干戊に訴ることとなりて以来、本邦内地の商工業は都鄙を論ぜず何れも大打撃を受けたるこ
九月七日の﹃京都目出新聞﹄は、当時の京都市の状況を次のように伝えている。
の民間への波及が少なく、物価騰貴や増税などによる負担が増加し、地域産業に及ぼす打撃も少くなかった。明治三七年
地方では景気が好転し、戦時成金を生み出す状況が持続した。しかしかような産業をもたない地方においては、軍需景気
日露戦争開戦後、わが国経済は全般的に沈滞状態に陥入ったが、戦費の支払いが増大するにつれ、軍需産業をようする
び
百三十三銀行・八幡銀行の預金・貸出金状況
(単位;円)
1, 638, 002
508, 165
390, 149
2, 163, 080
1, 513, 995
831, 280
210, 036
2, 052, 733
1, 895, 445
653, 851
210, 935
2, 990, 912
2, 777, 613
509, 690
264, 524
2, 933, 600
2, 184, 120
503, 295
1, 116, 647
1, 112, 893
260, 924
37
1, 110, 671
947, 618
38
1, 252, 542
1, 413, 868
39
3, 142, 927
3, 358, 100
40
1, 790, 181
1, 814, 635
日露戦争期の国債消化
『滋賀銀行二十年史』により作成。
(出所)
2, 173, 487
明治36年末
金i貸出金篇霧
預
金貸出金馨価霧
今
行
色
幡
多
百三十三銀行
次
年
阪に本店をおく百三十銀行は、京都織物業界の不振により貸出しが固定化
し、預金の取付けにより同年六月一七日臨時休業に追いこまれ、その後日銀
の特別融資などにより漸く業務を再開するといった経過もみられた。
滋賀県においても京都市と同様の状況がみられた。当時県下の有力銀行で
あった百三十三および八幡素行の預金、貸出金の動向をみると、明治三七・
八年に預金、貸出しの停滞がみられ、とくに三七年の貸出金の低下が顕著で
あった。ただ所有有価証券については国債の引受けにより、保有高の増加が
みられている。また県下の地場産業も消費需要の低下により停滞し、長浜の
絹織物、高島郡の木綿織、湖東地方の麻織物など、織物税の増大や消費節減
の指導により減産となり、とくに明治三七年には数量、価額とも著しい低下
をみている。
多大の戦費をついやして推進された戦争が国民に残したものは何であった
のか。吉野俊彦氏は日露戦争の期間を通じ、発出銀行券の増発により物価騰
貴が生じた事実を指摘し、さらに﹁戦争中の増税が間接税に高いウェイトを
おいていたことを考えあわせると、戦争の負担は消費者一般と農村にシワよ
せられた半面、成金が続出したことと財閥企業が抜目なく巨額の利潤を蓄積
︵2︶
したことに注目すべきである﹂と述べている。前掲﹃京都日出新聞﹄の記事
にもみられるように、京都府や滋賀県は軍事費支出による波及効果も少な
四三
く、国債の割当てや増税などによる負担のみがめだっていた。滋賀県甲賀郡永口町の、
日露戦争期の国債消化
明治三入年度﹁町会議案綴﹂
四四
かに次のような記録が残されている。
用等他方面白流出シテ、兎角地方ハ枯渇ノ一方二傾キ、人気ハ非常ノ錆沈ヲ来セリ、殊ニポーツマスニ於ケル平和会議ノ結
﹁戦時状態ハ軍費ノ放散主州都市二聚注シ、村邑ニアッテハ蔚二国債ノ応募、戦時税ノ膨大、加フルニ兵士ノ召集二伴フ費
果、一層活気ヲ衷セ、今や平和克復、軍隊ノ凱歌ハ旺盛歓呼スル所ナルモ、未ダ商業界ハ容易ニソノ機運ヲ恢復スル現象ナ
︵3︶
シ、今尚ホ不振中ナリ﹂
のな
軍事費の放出が都市に集中し、地方は幾多の負担増大のため枯渇の一方に傾きつつあることが指摘されている。まさに
県下の実情を率直に語るものであったといえよう。
った。明治三六年末の国債現在高は五三三八九六万二〇〇〇円︵うち内国債四諦四一三三万二〇〇〇円、外国債九七六一二万円︶
ところで日露戦争による戦費の大部分が公債によって調達されたことは、戦後においても財政上大きな負担となるに至
であったが、三九年末には二一億九五七〇万七〇〇〇円︵うち内国債一〇億四九五四万六〇〇〇円、外国債一一億四六一六万一
〇〇〇円︶という激増となっていた。政府にとって巨額な国債残高の整理が、当面の重要な課題となっていた。﹃東洋経済
新報﹄第三七六号︵明治三九年五月︶は、 ﹁勤倹の一途あるのみ﹂と題する一文で、戦争直後の国家財政の実情を次のよう
に指摘している。
﹁熟ら我経済の現状を見るに実に容易ならざる者あり。戦後国債の累計は二十四億に達し、之に対する利子の支払のみにて
不生産の用途に消廉する国財は無慮二億有余円に達すべし。而して夫の国家の命脈を維持するに欠くべからざる真の行政費及
も年額一億一千万円の巨額に上れり、又、陸海軍の黒めに支出すべき金額の総計は一億五千万円の巨額に上れり。蜥して全く
び其発達を計るが纏めに必要なる内外百般の施設に対する勘からざる国家の費用は皆悉く以上の二億有余の外に於て支弁せざ
︵4︶
るべからず﹂
目露戦争後のいわゆる戦後経営は、戦時特別税を継続し、資本の不足を外資の導入により確保し、生産力の向上を企図
する積極的な方針がとられていた。日銀による公定歩合の引下げや貸出方針の緩和などと相まって、明治三九年下期には
景気が上昇し、新事業の計画が続出するなど企業ブームがもたらされ、紡績を中心とする諸会社の収益増加が顕著となっ
四五
た。しかしこのブームは短期間で終思し、四〇年には早くも反動恐慌に当面し、その後の景気の低迷のなかで、累積され
た国債の元利払い費は、国家財政の基礎を脅かす大きな問題として残されることとなった。
︵1︶ ﹃京都[日出新⋮聞﹄︵明治三七年九月七日︶
︵3︶ ﹃水口町士心﹄上巻、五〇三∼五〇四頁。
︵2︶ 吉野俊彦﹃円の歴史﹄ 二 四 六 頁 。
︵4︶ ﹃東洋経済新報﹄第三 七 六 号 ︵ 明 治 三 九 年 五 月 ︶
日露戦争期の国債消化
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