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(g) 一 はじめに 石人山古墳は、 八女郡広川町大字一 條宇人形原に所在

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(g) 一 はじめに 石人山古墳は、 八女郡広川町大字一 條宇人形原に所在
尾 崎 源太郎
広川町では、平成二十三年十月一日
石人山古墳の整備に向けて
一 はじめに
石人山古墳は、八女郡広川町大字一
條字人形原に所在する全長一〇〇mを
超す前方後円墳である。耳納山地から
教育委員会として整備検討委員会の事
付けで ﹁石人山古墳整備検討委員会﹂
が発足し、具体的な整備に先立つ関係
事業が始まっている。本稿では石人山
古墳の現在までの整備事業の過程を、
︶
とした装飾古墳の分類上、石棺系の代
表的な装飾古墳としてあげられるのが
現在整備対象となっている石人山古墳
である。石棺棺蓋には、流麗なライン
と起伏で浮き彫り表現されている直弧
文があり、現時点で全国的に残存度が
非常に良く、今後多角的な保存計画が
必要とされるものである。著名な装飾
文様以外にも、石人山古墳では埋葬施
設 ︵竪穴系横口式石室、要人横口式家
形石棺︶・石製表餅としての有人・埴輪・
初期須恵器等ひいては被葬者の性格な
ど時間をかけて研究・分析すべき点は
枚挙にいとまがないほどある。総じて
務局に従事している立場から報告した
西九州の古墳時代史を彩る傑出した存
のび、広川町域南側に横たわる﹁八女
丘陵﹂ の西端付近に築造されている。
江戸期 ︵一八世紀︶ より後円部にある
家形石棺前面部 ︵西側面の開口部︶ の
主体部を守るように樹立する武装石人
露出している様子は図に描かれ、また
在であることに異論はないだろう。
ここで石人山古墳を保存・整備・活
一二 危惧される現状
の存在 ︵身体治癒信仰に伴う石大敵打
の歴史がある︶ とも相まって、筑後地
まれ愛着のある古墳といえよう。まさ
用していくために現状の問題点を整理
してみよう。第一に、石棺保護施設へ
通じる後円部の切り通し部分の崩落で
ある。映れた部分は北側、南側共に木
の根で崩落は免れている。だが南側法
の巨木の根が露出し、応急的に土嚢に
面はクロガネモチ ︵幹回り一二〇00︶
より養生しているが抜本的な解決には
なっていない。︵写真1︶ 第二に、雨
四 整備の方向性
前述した現状を再確認し、その課題
解決策を探るため各分野の専門的な意
見や基礎的な作業が必要になった。こ
うしたことが直接の契機となり、平成
二十二年の広川町文化財専門委員会の
答申 ︵﹁石人山古墳の保存整備につい
水により後円部西側傾斜部分と石人保
護施設周囲の土砂が流出する状況。第
三に、素人横口式家形石棺の相身横口
部の地面に近い部分。ここに緑色の藻
類?が数年前から付着し生育してい
員会﹂ が平成二十三年に発足したので
て﹂︶を経て、﹃石人山古墳整備検討委
る。その範囲は徐々に広がりつつあり、
注意して観察が必要である。︵写真2︶
写真2
域ではよく知られ、地元では長く親し
に古墳の名称が、﹁せきじんさん﹂古
墳と呼ばれる所以である。
文化財指定の経緯は、大正十五年三
月に福岡県の指定を受けている。その
後、昭和十三年八月八日国指定史跡と
なり、昭和五十三年三月二十四日﹁八
女古墳辞﹂と改称して国の一括指定と
は約七〇〇基であり、日本列島で展開
した古墳全体の一%にも満たない特異
なっている。
昭和十一年に武藤直治・鏡山猛によ
り家形石棺部の調査が実施され、石棺
上部の覆土が除去され、棺蓋両側面に
連接する直弧文が彫刻されていること
が明らかにされた。これ以降発掘調査
は実施されず、有人・石棺共に鉄筋コ
ンクリート製の見学可能な施設内で保
で希少な墳墓群である。埋葬施設を主
中で、装飾古墳と定義、つけられるもの
護され、現在に至っている。
二 装飾古墳としての重要性
ところで、全国約二〇万基の古墳の
石人山古墳の空中撮影(西から)
地方 史ふ く おか 第156号
の一で、墳丘・周壕・周堤・陪塚・参
冊にまとめたものが﹃石人山古墳資料
集︵文献編︶﹄ である。広川町郷土史
研究会と佐々木四十臣民︵福岡県文化
ある。当委員会の特色は、事務局主導
育委員会では、墳長は一〇七メートル
財保護指導委員、現石人山古墳整備検
野のエキスパートの委員の方々から忌
道等広範囲な地形図の作成を実施。教
︵矢野一貞の測定値を換算︶ としてい
討委員会会長︶ による四〇年をかけた
げている点にある。
土遺物の資料集を順次刊行していく計
画である。
○平成二十五年度
石人山古墳の石棺・有人の三次元計
データ収集作業として、関係論文や出
な文献資料集が完成した。さらに基礎
測を実施した。︵写真3︶ 三次元計測
Ⅳ 石棺環境の記録︵温湿度、日射状
況、表面の剥落状態など︶
V 後円部︵切通し部崩落・墳丘土砂
流出︶ の緊急・応急対策
たが、今回の測量図で約二一〇mを測
業が基礎となり完成した労作である。
多くの研究者にとって研究史の基礎的
ではなく、ゼロから出発し、各専門分
悼ない意見をいただき、整備の方向性
国指定史跡としては、多くの処理す
り、五世紀前半代の古墳としては北部
九州最大級であることを再確認した。
なお、先述した水ノ江調査官の視察
。
る
地道な石人山古墳関係の古文献収集作
を定めようという理念のもとに立ち上
べき課題が山積しているのは言うまで
もない。しかし、整備検討委員会の中
で協議し、年次計画を立てて事業を着
実に実施し、現在に至っている。
翌年十月には、文化庁記念物謀の水
ノ江調査官の来訪があり、現地視察並
びに保存整備に関する協議がなされ
ル西の丘陵上に、古墳が存在していた
の際、石人山古墳に続く参道西端部の
石段の法面から埴輪片四点︵円筒埴輪・
器材埴輪︶ が出土しているのを偶然に
可能性があることを付記しておこう。
た。この時、以下の有益な指摘を受け、
ここで平成二十四年から二十五年度
までの取り組みを紹介しておこう。
○平成二十四年度
石人山古墳の測量図は、久留米藩の
歴史学者であった矢野一貞の作成した
山古墳から離れること約一四〇メート
も発見、これらを採集している。石人
川町教育委員会として正確な測量図を
実測図をはじめとして数点あるが、広
今日までの整備事業の指針となってい
指定地内民有地の公有地化
作成することとなった。縮尺二五〇分
石人山古墳は江戸時代の文献に多く
登場している。つまり、この古墳の在
り対象物の立体形状を非接触かつ高精
度に記録するもので、現地計測作業も
安全かつ短時間に計測できるように
なった。脆く複雑な形状を呈する文化
財の立体計測に有用である。今回、石
製品である武装石人と家形石棺︵棺蓋
墳の石製表飾品である一体の武装石人
に委託した。これにより従来の実測図
化作業までの業務を凸版印刷株式会社
タル化することとした。武装有人の外
観と家形石棺の形状・棺蓋文様をそれ
ぞれ三次元計測及びデジタル画像撮影
した後、計測データの処理を経て、図
の装飾文様︶ の資料情報を精緻にデジ
が多くの書物に図入りで紹介され、江
では得られない立体的な画像情報の資
り様が、当時から非常に神秘性を以て
筑後地域の住民から注目・受容されて
戸時代より身体治癒の霊験ありという
料化が実現し、様々な角度から対象物
と称され紹介されていること。また古
は後円部に露出した石棺入口が﹁石殿﹂
に木槌等で敲打されている事実から
も、容易に類推できる。このように石
人山古墳の貴重な記述がみられる江戸
期以降の文献資料を収集・解題し、福
岡県教育委員会による調査報告書を一
︶
家形石棺には、外形とその変遷や材
質の産地、刻出された文様に注意が注
がれていた。しかし、保存整備検討委
を観察可能となった。
迷信により、過去の形状を留めぬほど
いた事実を裏付けるものである。それ
とは、三次元レーザースキャナーによ
古墳の評価 ︵古墳時代史・地域で
の位置づけ︶
石人山古墳測量図
現在削平されている箇所であるが、明
治三十五年の陸軍参謀本部陸地測量部
作成の地図・米軍撮影の航空写真等で
その痕跡を調査中である。
I 基礎データ ︵墳丘、古墳の範囲確
詔等︶ の整理
Ⅲ Ⅱ
︶
︶
現状の石人山古墳は築造後約一六〇
〇年経過し、環境の良さも手伝い一五
〇本近くの樹木が繁茂している。この
結果、台風などの気象災害で墳丘に二
次災害をもたらす高木や巨木が自生し
が天草砂岩を取り寄せ、古墳
氏がその石陸と彫刻された文
様の研究・復刻に努められた
経緯がある。まさに地元が未
ている。整備に際して適切な樹木環境
両側に苔のようなものが繁茂している。
助力いただいた佐々木四十臣民による
と、墳丘の南側と北側で樹種に違った
を正確に落とし、樹種名・幹回りを調
察記録の継続により、適切な保存環境
近くにアトリエを構える西平
来に残すべき地域文化財の保
た。先に作成した測量図に樹木の位置
古墳墳丘に生育する樹木調査を実施し
この貴重な体験をされた西
傾向があることや、福岡県下でも珍し
の創出を目指したい。
の整理が必要である為、まず年度末に
い
る
。
存を真塾にとらえ、自ら行動
し成果を上げた好例と考えて
平氏と筆者とは数年前、﹁造
山古墳蘇生会﹂ の石人山古墳
直弧文見学の折にお会いして
いる。機会があれば、直弧文
いヤマモガシ ︵ヤマモガシ科︶ の自生
貝である高木恭二氏︵考古学︶
とも親交があり、今回の比較調査は西
平氏の探究心と整備検討委員会の意向
が合致する事業となった。業務内容は、
石人山古墳現地にて家形石棺棺蓋の直
弧文に三次元明暗デッサンを実施し、
い技術の観察眼というものを実感し、
た筆者も彫刻する側でしか理解できな
たたいているが、今後さらに古代工人
の技術の高さに焦点を当てた実験考古
。
る
は前述したように、相身開口部下半の
あり、常時見学可能な状態にある。ま
た、外気・日射の遮断もなく四季の温
湿度変化に任せた環境といえる。現在
五 石棺環境の保護
後円部に露出している家形石棺と小
石室は保護施設内︵西面が鉄格子︶ に
査していく作業となった。樹種鑑定に
の保存の件でお話ししたい旨
三〇〇年前から住民に親しまれ、歴史
墳。造山古墳の陪塚で墳長八〇メート
ルの前方後円墳︶ がある。この主体部
多くの示唆を受けることとなった。こ
は古式の横穴式石室であり、玄室の石
障には端正で美しい直弧文が浮き彫り
学的考察がなされることと期待してい
の研究成果は報告書として提出してい
されていた。残念ながらこの石障部は、
現在剥離個所が発見され、石室外へ緊
急避難する措置が取られている。極め
て価値の高い文化財であったため、地
元住民グループの﹁造山古墳蘇生会﹂
幸運も重なり、地元の人々や文化庁、
福岡県文化財保護課、多くの研究機関
の方々にご協力いただいており、紙面
を借りて感謝申し上げたい。
︵広川町郷土史研究会︶
石人山古墳の整備事業には時期的な
代の我々にとっての責務である。
き歴史遺産を未来に継承することは現
していくことになろう。石人山古墳は、
今後さらに、日々の石棺環境調査で
得られる基礎データの蓄積作業は継続
となる。
皆様から具体的な意見をいただき、基
本計画の策定に取り組む一区切りの年
六 おわりに
今年度は、整備検討委員会の委員の
も憂慮される。計測器と肉眼による観
お伝えし、お別れしたことが
が十本近く確認出来る結果となった。
保存整備検討委員会の副会長・藤枝国
光氏 ︵植生、九州大学名誉教授︶ は、
墳丘破損等危険度の高い巨樹や古木を
整理し、自然風勢走で樹形を仕立て直
す方法を提言されている。
八女丘陵は日々開発等で変貌してい
る。﹁八女古墳群﹂ ︵石人山古墳・弘化
谷古墳・岩戸山古墳・善蔵塚古墳ほか︶
の現時点での状況を航空機による広域
的な環境が信仰心とともに守られてき
石材の阿蘇熔結凝灰岩自体が含水しや
すい性質もあるが、このような変化が
発現した原因を研究機関の助力を得て
多面的に究明中である。︵東京文化財
研究所・奈良文化財研究所により調査
中︶ また、千足古墳の教訓を受けて梅
村自体の剥離・劣化の進行が加速しな
い対策を今から講ずる必要がある。
当時の技術を凝集した石棺とその装
飾文様を現状のまま常時公開していき
たいが、昨今の気象変動が及ぼす影響
により、直弧文の文様と彫りの規則性・
千足古墳の直弧文と比較検討すること
撮影並びに、マルチコブターによる個
た。九州の古墳文化の中でも特筆すべ
あった。加えて、整備検討委
査を依頼することとなった。
直弧文それもA型の基本構図を有す
秩序性などから九州と吉備の関連性を
別撮影により記録した。
貝会の中で、その加工過程に彫刻家の
意見・視点が必要であるという意見を
受けて、彫刻家・西平孝史氏 ︵岡山県
岡山市在住︶ に直弧文の彫刻技法的調
る装飾古墳として著名なものに岡山県
岡山市子足古墳 ︵史跡造山古墳第五古
調査するというもの。調査に立ち会っ
武装石人と石棺椙葺の3次元画像
地方 史ふ く お か 第156号
少ない量で推移していきます。一方で、
ほかなく、石炭輸送量も湾鉄より常に
でした。しかし後の宮地岳線開業後は、
トから外れた民間炭を主な需要とする
徐々に旅客輸送の比重も高めていくこ
この会社は社名に﹁参宮﹂と名乗って
いるように、宇美八幡宮への参拝客輸
送など旅客輸送も柱としていた会社で
した。当時の経営資料 ﹃営業報告書﹄
送は石炭中心で、開業後しばらくは旅
一方、大正七年から八年にかけて、
客よりも貨物収入が圧倒的に多い会社
博多の隣、吉塚から志免を経て宇美で
から両社の収入構成を見ると、大正十
渡 部 邦 昭
域に残る文化財としての鉄道遺産を紹
す。この糟屋地区の鉄道を通じて、地
湾鉄と合流し、さらに南の筑前勝田ま
糟屋地区の最初の鉄道は、明治二十
とになります。
介します。
で走る筑前参宮鉄道が開業します。昭
年頃では湾鉄が鉄道収入の大半を石炭
輸送に頼っていたのに対し、筑前参宮
鉄道は旅客収入と貨物収入がほぼ半分
糟屋地区の石炭輸送鉄道と鉄道遺産
1 近代化道産と鉄道道産
明治維新後、急速に近代化の道を進
んだ日本では、建築や土木、機械など
様々な分野に新たな技術が導入されて
和六十年に廃止された旧国鉄勝田線の
前身で、湾鉄と同様、糟屋の炭鉱から
覚を変えたという研究もあるなど、鉄道
確な鉄道のダイヤは、日本人の時間感
三年 ︵一八九〇︶ に当時の九州鉄道が
開業させた後の鹿児島本線ですが、糟
一つが、鉄道でした。明治五年にはじ
いきます。そうした近代技術の象徴の
2 糟屋の鉄道整備
鉄道遺産について触れる前に、まず
は糟屋地区の鉄道の歩みを見てみま
ずつを占めていました。旅客輸送人員
では、後の宮地岳線開業までは筑前参
めて開業した日本の鉄道は、その後人
の石炭輸送が敷設目的の一つでした。
しかしこの会社は、石炭輸送に関し
しょ、つ。
宮鉄道が湾鉄を上回っています。
そして昭和十七年︵一九四二︶、両
と物の輸送を一挙に拡大させ、また正
ては湾鉄より恵まれない状態でスター
トします。筑前参宮鉄道が開業する頃
社は他の鉄道会社三社と共に合併して
は様々な面で日本の近代化を促進しま
大正i昭和初期の博多湾鉄道・筑前参宮鉄道の年間石炭輸送量(単位 千トン)
には、かつての両社の路線の内、香椎
出典 博多湾鉄道および筑前参宮鉄道の各期「営業報告書」より作成
には、海軍炭は湾鉄で西戸崎まで運び、
出典 博多湾鉄道および筑前参宮鉄道の各期「営業報告荘」より作成
西日本鉄道となりました。昭和十九年
霊諜諜諜靖頭語彊講霊室量曇墨書墓室
屋地区の輸送を主な目的とした最初の
200」一一−−−フー ̄二二二さてフラーJL
す。そして技術的にも、鉄道は車両工
雲諜諜諜輿評語彊霊室墓室墓室彊謹
そこから船で運ぶルートがほぼ確立し
ていたため、筑前参宮鉄道はこのルー
i ノーへヽ
鉄道は、博多湾鉄道 ︵湾鉄︶ でした。
明治三十七年から翌年にかけて西戸崎
i
学、土木、建築、製鉄、機械、電気、通
信など、多様な近代技術を集めてはじ
1−博多湾鉄道
∼宇美間、現在のIR香椎線を開業さ
1(重量)1 −
めて運行できるものであり、鉄の線路の
せた会社で、大正八年︵一九一九︶ に
は、西戸崎港から石炭輸送をする海運
博多湾鉄道汽船に変更します。さらに
大正十三年から翌年にかけて後の西鉄
業 ︵船舶事業︶ も兼営し、翌年商号も
その中で鉄道に関するものは﹁鉄道遺
︵現廃止︶ ∼和白∼新宮∼宮地岳︵現
宮地岳線 ︵現貝塚線︶ の前身、新博多
上を速く列車を走らせる仕組みは、近
代技術の塊でした。現在、日本の近代
化の時期に造られた建築物や機械など
は﹁近代化遺産﹂と呼ばれていますが、
代表的なものであるといえるでしょう。
産﹂とも呼ぶことができ、近代化遺産の
今回は、こうした鉄道遺産の中から、
こちらは実現せずに終わりました。
廃止︶ 間も開業させます。さらに筑豊
や朝倉への延伸計画もありましたが、
糟屋地区の鉄道遺産を取り上げます。
かつて糟屋地区は福岡県、そして日本
海軍炭鉱からの石炭輸送を主な目的に
を結ぶ路線だったのです。そのため輸
軍炭の積出港があり、湾鉄は炭鉱と港
敷設されました。起点の西戸崎には海
この湾鉄は最初、当時糟屋にあった
の近代化を支えた産炭地で、鉄道もま
ずは石炭輸送のために敷かれました。
そして糟屋地区には、当時の鉄道の様
子を伝える鉄道遺産、特にレンガや石
で作られた多くの橋梁が残されていま
︶
大正・昭利初期の博多湾鉄道・筑前参宮鉄道の年間輸送人員(単位●千人)
(13)
となった両線は、戦後炭鉱の閉山など
による輸送減に見舞われ、結局勝田線
は廃止されましたが、香椎線は生き
線と勝田線が国有化されます。国鉄線
は同じ博多湾鉄道汽船が経営していま
鉄貝塚線の接続駅である和白駅です。
木遺産にも選ばれました。その名島川
︶
残ってJR九州に引き継がれました。
見ることができます。
おり、同じ会社が経営していた名残を
した。現在も両線のホームは隣接して
前述のとおり、戦前はこの二つの路線
橋梁から束に進むと、IR香椎線と西
また西鉄宮地岳線も、戦後路線の部分
廃止や貝塚線への改称などを経ます
が、現在も貝塚∼西鉄新宮間が運行さ
その和白駅から、香椎線を宇美方向
す。たとえば香椎∼香椎神宮問の香椎
や石造りで残る多くの橋梁が見られま
九州鉄道城山三連橋梁などにも見られ
脚への水圧負担を減らす工夫と推測さ
れるもので、同様の例は筑紫野市の旧
れています。
またこの博多湾鉄道、筑前参宮鉄道
の路線の他に、明治三十七年には九州
に進んでいきましょう。するとレンガ
鉄道が吉塚∼篠栗間、現在の篠栗線を
ます。他にも全線に渡ってレンガ造り、
道 ︵ロープウエー︶ が敷設されていま
川橋梁︵福岡市東区︶ は、橋脚がレン
また篠栗線も、明治時代に建設され
した。その索道の支柱が一本、福岡市
開業させましたが、明治四十年には九
た吉塚∼篠栗間には古い橋梁がありま
東区の土井駅付近に残されています。
以上、糟屋地区の鉄道遺産を簡単に
特に旧志免駅付近は志免鉄道記念公園
として整備され、ホーム、駅名板、踏
切、信号機などが鉄道の走った時代を
伝えています。また、かつて久山町に
麻生山田炭鉱が開かれていた頃、炭鉱
から香椎線土井駅まで石炭輸送用の索
梁︵粕屋町︶ は、レンガと石組みの土
す。その一つ、柚須∼原町間の仲原橋
紹介しました。鉄道遺産は、多くの人々
の面影を見ることができます。
下にレンガアーチの谷川橋梁がありま
台が見られますが、さらに橋桁にも﹁鉄
に注目されるものもありますが、多く
石造りの橋梁が多数あり、明治の鉄道
す。この駅は国鉄分割民営化後に設置
された駅で、付近は駅設置のため改築
道省﹂と記された銘板がありました。
は地域の中に静かに溶け込んでいま
います ︵橋桁は戦後取り替えられてい
されましたが、この橋梁はレンガ造り
鉄道省は大正九年に設置され、昭和十
八年には運輸通信省に改組されていま
道遺産を見てみましょう。
3 糟屋に残る鉄道遺産
それでは、糟屋地区に現在も残る鉄
で残されました。さらに終点の宇美駅
産であっても、近代化を支えた鉄道輸
︵福岡地方史研究会︶
ここに記して感謝申し上げます。
等で御協力をいただきました。
一部です。また九州大学大学院人文
科学府の都営慎司氏には、資料収集
研費注記○空調︶ による研究成果の
※本稿は、独立行政法人日本学術振興
会の科学研究費助成事業︵]SPS科
る貴重な文化財であるといえます。
送の姿を伝えるものであり、地域に残
す。しかしそうした目立たない鉄道遺
手前の字美川橋梁︵宇美町︶ は橋脚が
すので、この橋桁はその間に作られた
廃線跡の多くが遊歩道となりました。
廃止されましたが、路盤の一部が現存
しています。さらに旧国鉄勝田線は、
ありました。昭和五十九年までに全線
とえば香椎線酒殿駅からはかつて、志
免方面に延びる貨物列車専用の支線が
た路線にも鉄道遺産は見られます。た
見られますが、一方でいまは廃止され
線、西鉄貝塚線には多くの鉄道遺産が
このように現役路線の香椎線や篠栗
石造りですが、上流側が水流に対して
ガ造りで、湾鉄開業時の建設とされて
監蛙
まず、旧博多湾鉄道汽船が建設した
最も目立つ鉄道遺産として、名島川橋
梁︵福岡市束区︶ があります。現在の
西鉄貝塚線敷設に合わせ、大正十二年
一部として連行を続けていきます。
志免鉄道記念公園
ことがわかります。
州鉄道が鉄道国有法により国に買収さ
れたため、以後国有鉄道−JR九州の
山型に突き出た石造り橋脚の宇美Iii橋梁
ます︶。また篠栗線と交差する長者原
駅 ︵粕屋町︶ では、香椎線ホームの直
≡重量遥
山側に作られています。これは川の水
かつての離船線が並ぶ和白、今はJRと西鉄に
︵一九二三︶ に建設された鉄筋コンク
リート製橋梁で、土木学会によって土
美しいアーチが並ぶ名島Iii橋梁
地方史ふ く おか 第156号 (14)
福岡県地方史研究連絡協議会
平成26年度地区研究集会の御案内
「よみがえる薩摩街道 松崎宿・油屋の歴史」
&現地見学会
片岡宏二氏(小都市埋蔵文化財調査センター)
日 時 平成26年11月8日(土)13:30∼
会 場 古代体験館おごおり(小都市埋蔵文化財調査センター)
備 考 参加無料・申込必要
間合先 小都市郷土史研究会
「豊前松山城をめぐる戦国武将違」
●−−
小野剛史氏(かんだ郷土史研究会)
引回螺i 「筑豊産炭地における友子」
安蘇能生氏(田川郷土研究会)
目 時 平成26年11月8日(土)13:30−
会 場 田川市民会館(中央公民館)
備 考 参加無料・申込不要
間合先 田川郷土研究会
(15) 2014930
平成26年度 福史連役員名簿
役 職
1
会 長
氏 名
大 域 英知信
2
副 会 長
3
副 会 長
4
副 会 長
所 属
編集委員
筑後(三池史談会)
佐々木 四十臣
筑後(広Iii町郷土史研究会)
○
筑前(福岡地方史研究会)
○
石 瀧 豊 美
馬 渡 博 親
豊前(小倉郷土会)
5
常任理事
安 蘇 能 生
豊前(田川郷土研究会)
6
常任理事
山 内 公 二
豊前(美夜古郷土史学校)
7
常任理事
高 垣 治 海
豊前(かんだ郷土史研究会)
8
常任理事
大 島 泰 治
筑前(NPO法人福岡歴史研究会)
9
常任理事
牛 嶋 英 俊
筑前(直方郷土研究会)
10
常任理事
廣 崎 篤 夫
筑前(八幡郷土史会)
11
常任理事
帆 足 徳 男
筑後(小郡市郷土史研究会)
12
常任理事
樋 口 一 成
筑後(久留米郷土研究会)
13
常任理事
江星口 充
筑後(筑後郷土史研究会)
14
常任理事
久 我 純 一
福岡県高等学校歴史研究会
15
常任理事
本 圃 明
福岡県公共図書館等協議会
16
常任理事
清 田 憲 治
17
監 事!松 岡 博 和
18
監 事 千 綾 光 男
豊前(小倉郷土会)
19
顧 問 佐々木 哲 哉
筑前(福岡地方史研究会)
○
福岡県博物館協議会
筑前(福岡地方史研究会)
平成26年慶 福史連加盟団体名簿
10
9
8
7
6
5
4
3
2 23 1 22
21
20
19
18
17
16
15
14
13
12
11
10
9
8
7
6
5
4
3
2
機 関 会 員
福岡県公共図書館等協議会
福岡県高等学校歴史研究会
賛 助 会 員
グラウド・ホールディングス
イ 劇 ふ 福 銀 筑 太 杜 九 弦 ∃圭
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地方史ふ く おか 第156号 (16)
劇団ショーマンシップ 創立20周年記念公演
亀井商冥伝
∼金印の謎を生んだ勇一
天明四年、志賀島の叶の崎と呼ば
れる土地から金印が発見された事は
もあります。
賀海神社に残されている神楽歌は、
歴史の楽しさは、こうした断片の
エピソードから物語を想像すること
亀井南真の父亀井聴因は、井原槍
溝遺跡のすぐ近く三雲村の出身で、
その先租は憎土の高祖城城主原田家
に仕えていたと言われています。
埋っていたのか? その謎を解こう
と町はにわか学者で溢れたそうです。
になりました。金印がなぜ志賀島に
学問所甘菜館の館長亀井南真です。
彼は金印を鑑定した後、論文を発
表。その論文は京都や大阪でも話題
伝に書かれた印だと見抜いたのは、西
金印を最初に鑑定し、後漢書東夷
憎土との関係を歌っているという説
誰もが知っています。
しかし、同じ天明年間に、恰土 ︵今
の糸島︶ の井原鑓溝遺跡から方格規
矩鏡が発見されていたことは、一般
の方にはあまり知られていません。
その鏡は金印と同じ後漠王朝時代の
ものなのにです。
戦国時代まで長きにわたり恰土付
近を治めていたのは原田氏でした。
伝説では、その先祖は漢の皇帝の
末裔だといわれ、高祖劉邦を偲び恰
つ山があります。
ではないでしょうが。
土の山に高祖山という名をつけたそ
金印が発見された志賀島は古代安
曇族の拠点でした。安曇族の王で
うです。高祖山の隣には叶岳という
金印が発見された土地と同じ名を持
あったとされる絹澤海の神を祭る志
亀井南真は何を知っていたのか→
果たして金印は本当に志賀島から発
見されたのか? 志賀島と胎土を結
ぶものとは?
今回の公演では、亀井南真と金印
にまつわる話を描きます。
﹁亀井南冥伝∼金印の謎を生んだ男∼﹂
福岡という土地は、古代史におい
てもロマンに溢れています。その一
端に少しでも多くの人に触れていた
だければと考えています。
年末は博多座で、一緒に金印の謎
解きに挑戦してみませんか。
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(云匿璽)前売/S席:4.500円 A席:3,500円
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25日(木)18°30開演(17 30開場)
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(亘亘)12月24日(水)19iOO開演(18:00開場)
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(萱匿)博多座(福岡市博多区下川端町2−1)
当日/S席●5,000円 A席.4.000円
公演「唐人歌舞伎 筑前藩校絵巻一献(みち)を修める善一」の一揚面
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