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エル・グレゴによるサント・ドミンゴ・エル・アンティ
ーグォ修道院の祭壇衝立
岡田, 裕成
フィロカリア. 4 P.31-P.53
1987-03-31
Text Version publisher
URL
http://hdl.handle.net/11094/51601
DOI
Rights
Osaka University
コ
ニ
︼
gJE
門Cr
己r
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白
r
c
、
Mo
o
05
H W H O円刊のO︵本名口
四護休との連関li 洗礼者ヨハネ像と袈ベネディクト像
五祭壇衝立の図像プログラム
エル・グレコ
円
。
成
アンティ iグォ修道院の祭壇衝立
裕
一五回
一五六八年頃
大規模な祭壌衝立を制作したハ挿図 1﹀。祭壇衝立は、聖堂内陣と袖
ル・アンティlグォ修遊説∞田口言ロogEぬC 白日﹀ロ去山口 O の
壇衝立を皮切りに、この国の古都トレドでの作品制作に取り組むこ
あった。以後彼は、 サント・ドミンゴ・エル・アンティ 1グォの祭
このトレド時代のグレコの活動の大きな特色は、個人礼拝堂や修
とになる。
絵画作品の内六点までは現在各地に散らばってしまったが、祭壊衝
道院聖堂といった一般信者があまり立ち入ることのできない施設の
廊に計三基あり、これらに全部で九点の絵闘が置かれている。この
る。グレコがスペインに現れたのは、この後一五七六年頃のことで
らはロ!マに滞在し、 イタリアのルネサンス美術を精力的に研究す
イタリアに渡る。彼は、初めヴ且ネツィアに、次いで一五七O年か
一年クレタ島の首府カンディアに生まれたグレコは、
けたのは、彼がスペインに現れて間もなくのことであった。
グレコがサント・ドミンゴ・エル・アンティ 1グォの仕事を手が
どのような意味を表わしているのかを明らかにしようと思う。
成する絵画作品を図像学的な立場から検討し、 それらが全体として
の配置も異論なく一得構成されている。本稿では、この祭壇衝立を構
田
@、グレコによる
ドミンゴ
@
一序
ニサント・ドミンゴ・エル・アンティ 1グォ修道院の新聖堂建設事
業とエル・グレコの祭極衝立
サント
.
五七七年から一五七九年にかけて、 トレドのサント・ドミンゴ・エ
岡
Jレ
三 死 の 膜 想il ﹁聖母被昇天﹂
.
Jレ
乙
二
立本体は開修道院にほぼ完全な形で残されており、制作当初の絵画
1
3
序
サント・ドミンゴ・エル・アンティ lグ ォ 修 道
院の新聖堂建設事業とエル・グレコの祭壇衝立
サント・ドミンゴ・エル・アンティ iグォ修道院に残るグレコの
祭壇衝立は、この修道院に新たに設けられることになった聖堂の建
設に付随して制作されたものであった。祭壇衝立の基本的な性格は、
この新喪堂がになわされた役割からうかがい知ることができる。
新聖堂建設の発端となったのは、 ドニャ・マリiア・デ・シルパ
ロ
oE 忠良釘円円四回目︿同という一人の信仰厚い女性の進一言であった。
彼女は王室に仕えた侍女で、宮廷を辞した後この修道院に隠居し、
る。こうした注文は、この街の高位聖職者を中心とする知識人たち
エル・アンティ 1グォ修道院の祭壇衝立もそのような中の一つであ
ために主として作品を制作したことであった。 サント・ドミンゴ・
ゴ・デ・カスティlリャ ロ芯 m O L自の同町門戸−出 を指名した。しかし
、 当時トレド大聖堂の聖堂参事会合文の職にあった友人ディエ
て
︿トレド﹀の袈堂内に設けることを遺言し、 その計画の実行者とし
墓所を彼女の家系にゆかりのあったマドレ・デ・ディオス修道院
その死に際して、自らの
によって為されたもので、 グレコは、これら学識深い注文者それぞ
ディエゴは、 ドニャ・マリiアの遺骨一口を全く違った形で執行する。
一志七五年没した。ドニャ・マリ 1アは
れの要求に基づき、高度な意味内容を持った作品を生み出していっ
ドニャ・マザlアがサント・ドミンゴ・エル・アンティiグ
、
皮士
t
f
をこの修道院の方に建設することを強引に決定してしまうのである。
ォで隠退生活を送っていたことなどを理由として、彼女の墓所聖堂
以下本論では、 まず、この祭摺衝立の制作に至る事情、 および、
︶
ト・ドミンゴの新しい聖堂を彼自身の墓所にも指定した。こうして
︵
3
堂を作ることが求められていたにもかかわらず、ディエゴは、サン
また、 ドニャ・マリノ 1アの遺言には彼女一人のためだけの個人礼拝
に取りかかることにしたい。
その注文者について検討し、それらをふまえた上で作品の関像研究
図に基づいて制制作されたのかを知ることが第一に必要とされる。
た。それゆえグレコの作品の理解には、 それが、誰のどのような意
挿図 1 サ γ ト・ドミ γ ゴ・エノレ・アソティーグォ修道院聖
堂内部(主祭主官僚立と脇祭制民立〕
32
に、グレコ白身で制作したのが、祭壇簡立を飾る九点の絵画作品で
﹁抑五ベネディクト﹂、
﹁聖母被昇天﹂、
ディエゴは、 ドニャ・マリ iアの遺言をいわば利用して、 サント・
﹁福音史家ヨハネヘ﹁洗礼者ヨハネ﹂、
これらの内、 聖堂内陣の主祭壊衝立には、
ある。
一五七六年ニ月に着手され、以後その作業の一切はディエ
ドミンゴに自らの墓所ともなる聖堂を建設したのであった。聖堂の
建設は、
れている︵挿図日比﹀。袖廊の二つの脇祭壇衝立には、内陣に向かって
でに全て完成し、修道院側に引き渡された。献堂式は同年九月二ニ
五七九年九月ま
二つの脇祭壇に揚えられた計一一一基の祭壇衝立、 および主祭壇衝立
日に行われ、次いで翌二三日には新聖堂主祭壌において、最初のミ
復活﹂︿挿図ぬ﹀が置かれている。これらの作品は
ハ挿図 2﹀に付属する五体の木彫像、 さらに主祭壇に置かれた聖櫨
サが執り行われた。
立について考える上で重要な意味を持っている。死者の救済を祈る
という聖堂の機能は、注文者ディエゴを介し、 グレコの祭壇衝立に
も当然反映されたと考えられるからである。実際、作品制作に対す
る注文者側の監督権は強力なものであった。正式契約に先だって、
グレコが注文者側と取り交わした﹃覚書﹄には、次のような記述が
ある。
﹁もし、これらの絵のいずれかが、部分的にせよ全体的にせよ、
︵注文者に﹀満足できないものであるときは、前述のドミユコ︵グ
J
@
飾るために制作されたものであった。このことは、 グレコの祭壇衝
カスティ 1リャおよびドニャ・マリ 1ア・デ・シルパの墓所聖堂を
以上のように、 グレコの祭壇衝立は、 その注文者ディエゴ・デ・
がある。これらの実制作はトレドの建築・彫刻家ファン・バウティ
まず、 グレコが設計・デザインを担当したものとして、主祭壇と
年八月八日に為された。制作途中に追加されたものも含め、 グレコ
、 および﹁ヴエロニカのヴェール﹂が置か
﹂
体
一
、、
左側のものに﹁学飼の礼拝﹂︵挿図同日︶、 右側のものに﹁キリストの
ゴ自身の監督下に進められる。グレコに対する正式注文は一五七七
、
し一
がこの注文に基づいて手がけた仕事は次の通りである。
レ
ノ
ナ
レ
ノ
レコ﹀は、 ドン・ディエゴ・デ・カスティ iリャにとって完全で満
33
スタ・モネlグロト﹁口問ロ切開己目的門戸出。詩型o によって行われた。次
翠 2 主祭主霊筋立
!
持
足のいくように、 それらを修正あるいは蒋制作しなければならない。
前述のドミニコは、可否についての判断を、彼︵ディエゴ﹀の考えに
︵
5
︶
引き立ったものとなる﹂ょう努力する旨が記されている。彼らの運
︵一﹀聖母無原罪の教義の確
造物に対する崇敬、 の三点であった。これらは全て、ブロテスタン
︵一一一︶聖人、 および聖
の聖堂参事会々長︵ディエコ︶の希望に反するいかなる反論もする
トとの間に論争のあった、 したがってカトワヅクにとっては擁護す
他方、ディエゴは相当な知識人でもあった。被はサラマンカとバ
ベき教条であった。
に至るまでを規定していた。 したがって、この祭壇衝立の理解には、
リャドリ iドの大学で教会法を修め、アルカ一フ・デ・エナ i レスの
トレドの教会で用いられる祈嬬書も著
作品について詳細な指示を行ったディエゴがどのような人物であっ
一O年から一五年境、 トレド大聖堂の聖堂参事
五
大学では神学と哲学の研究を深めた。こうした学識に基づき、彼は
ディエゴは
会々一長フェリーベ −デ・カスティlリャ明白日目匂伺仏由。回出円山口出の庶
また、対
抗宗教改革期の教会問題にも深く関わった人物であった。 サント・
以上のように、ディ早ゴはカトリノックの教義に精通し
長は、 トレドの大司教区において、大一可教に次ぐ地位であった。こ
ドミンゴ・エル・アンティ 1グォ修道院の新製堂は、このディエゴ
一五七
識に却した形で表現されたと考えられよう。
は、死後の救済への祈りが、ここに見たようなディエゴの信仰や学
構想したものである。この聖堂の室聖所を飾るグレコの祭壇衝立に
の重要な職にあって、彼は、当時の教会問題にも精力的に取り組ん
一五一七年に端、な発した宗教改革
的とする対抗宗教改革運動に乗り出していた。ディエゴは、
この祭壇衝立の関録プログラムについて、こうした観点から考察
を試みたものとしては、ジョナサン・ブラウンやリチャ iド・マン
。問的問︶出吋
門山由。巳円o
m同とともに、この運動なトレドにおいて積極的に推進し
七年にトレド大司教に就任したガスパ i ル・デ・キロ 1ガ
の動きに対し、 トリエント公会議を開催し、教会の刷新と粛正を自
このころのカトリック教会は
が、自らとドニャ・マリlア・デ・シルバの死後を託する場として
一五五一年、父と同じ職に就いた。聖堂参事会々
の
神
学
者
と
と
も
v
でいる。
子として生まれ、
主主人
Z
たのかも重要な問題となる。
この文書に見られる通り、注文者の意向は、作品のかなりの細部
ことなく果たさなければならない﹂。
︵二﹀ミサの徹践と聖一体の秘跡の強調、
動の中でとりわけ強調された隈おは
L
ふ
らによる研究がある。しかしこれらを含め、従来の研究では、
﹁ハトレド﹀大司教区が再建され、以前にもまして強く、 また、
ー
.
.
.
<
祭壇衝立を理解する上で重要な意味を持っと思われる図像表現が十
の
委ね、 いかなるものであれ彼の考えに従い、求められたことを前述
jL
し他
ての
い数
た人物であった。彼が、大司教就任直後のキ戸!ガに宛てた書簡に
土
t
4
3
分に議論されてこなかった。以下の考察では、 そうした表現を二つ
の商から取り上げ、その意味を探っていくことにしたい。
死 の 撰 想ll ﹁聖母被昇天﹂
主祭壇衝立の中央には、大西国の﹁聖母被昇天﹂︵挿図 3﹀が据え
られている。この作品は構闇上、 上下二段に分割され、画面上部に
は昇天する塑母とこれを取り巻く天使たちの姿が描かれている。ま
た、下部の地上部には、右棺を中心に左右六人ずつの使徒たちが描
かれている。
・
この絵の中心をなす聖母は、聖堂に葬られたドニャ・マリ Iァ
一ア・シルパの霊名が由来する守護袈人であり、彼女自身深く崇敬し
を描き込んで、聖母への礼賛をより明確に示している。
日月は、
聖母無原罪の象徴物で、神の母であるマリアが原罪を免れた存在で
あることを表わす。三日月を踏む聖母の姿は、通常﹁無原罪の御宿
り﹂の図像に現れるものだが、聖母が厚く敬われたスペインでは、
被昇天の聖母の足もとにもしばしばこの象徴物が描かれた。 グレコ
は、そうした例に倣って、 ドニャ・マリ lアの守護聖人聖母マリア
の純潔と袈性を強調し、この故人左記念しているのでム日。
しかしながら、地上部に捕かれた使徒たちの姿には、この聖母礼
賛という点からは理解しがたい描写が認められる。彼らの多くは、
昇天する聖母には何の関心も払っていないのである。こうした表現
は、この時期の被昇天図の大勢から見ても例外的なものである。
聖母被昇天の図像は、 一六世紀初頭に査り、天使たちによって引
き上げられる聖母の姿を描いた中世以来の国像から、聖母が自ら
た聖人であった。 それゆえ、天上に迎えられる聖母の姿を描いたこ
の作品は、従来より、故人の信仰にちなんで聖母を高らかに礼賢し
人の力で天に昇るという形に変わる。こういった図像では、聖母が
より高められた存在となったのに応じて、 地上の使徒たちの表現も、
にあるテ
聖母の奇蹟のような昇天に対する驚きと感嘆を露わにしたものとな
る。、ウ且ネツィアのサンタ・マリア・デイ・フラ!リ
ィツィア lノ、口江戸口。︿開口問店。の作品︵挿図 4︶は、 その最初期の
重要な作例である。この作品では、使徒たちの動きが全て聖母の方に
向けられ、観者の視線を昇天する聖母の方へと導いている。こうした
表現は、 グレコの生きた一六世紀の後半から一七世紀にかけてにも
受け継がれていく。とりわけカルラ γチ兄弟 T見 04UP﹀雪印江口 0・
.
5
3
たものと考えられてきた。 しかもグレコは、製母の足もとに一一一日月
7
7
5
挿図 3 エノレ・グレコ「聖母被外天J1
1×229cm シカゴ,美術研
0
年 4
究所
挿i
濁4 ティツィアーノ 「翠母被弁天J
1516-18
年 690x360cm ヴ
−
い(棺
るぎを
。覗
き
込
み
聖母の身に驚くべき奇蹟が起こったことを強調
として聖母をひときわ高らかに礼賛しようとしていた。このグレコ
の描写からも示されるように、 グレコは、 ドニャ・マリiアの記念
を示さず、 日を閉じ、 ただうつむいているだけなのである。三日月
的である。彼らは、昇天する聖母にも、 またその石棺にも何ら関心
後列の使徒たちは、ティツィアiノらが描く使徒たちとは全く対照
も熱狂とは程遠い時酵さを示している。特に、頭部だけが見える最
かも、後列の使徒たちは一様に膜想的な様子で表わされ、 その表情
一人が聖母を見上げているものの、 その勤きは抑制されている。
ところがグレコの被葬天国では、前列右側の二人の使徒と中央の
しの
彼らの描く使徒たちは、大きな身振りで聖母を仰ぎ見、あるいはそ
の劇的な感覚で、過剰な程の動きを示す使徒たちの姿を描き出した。
﹀口同氏ゲ同︸由。田町円告の山らボロiニャ派の作家たちは、バロック期独特
ェネツィア,サ γ タ・マリア・
デイ・フラ YM
堂
し
て石
挿図 5 符1
図 3部分悶
36
5
彼はその手を胸に置き、 ややうつむき加減に前方を見遣って
。
﹀
いる。 しかし、その説線は虚ろであり、彼が深い物思いの中にある
が、なぜこうした使徒たちを描いたのだろうか。一アィツィアiノの
作品のような使徒たちをここに描いていれば、 グレコは、聖母に対
﹂とを示している。
一六J 一七世紀の美術において珍し
する礼賛をより明確にできたはずである。 グレコがそうした表現を
﹂うしたタイプの聖人像は、
いものではない。 胸に手を当てて膜想に耽る軍人の姿︵挿図 6﹀は
知らなかった訳ではない。 ヴェネツィア滞在期のグレコが、先のテ
ィツィアlノの作品を見ていたことは、従来から確実視されている
﹂の時期に好んで拙かれた主題の
︵
つであった。これらの聖人たち
のである。両者の作品に共通するマリアのオランスのポiズがそれ
は、通常、 されこうべを前にして、あるいは自らこれを手に持った
︿
日
︶
を裏付けている。 したがって我々は、 グレコがこの作品に、従来い
姿で描かれる。こうした図像は、おおよそ一五七0年代以降、盛ん
MV
われてきた聖母礼賛という一アlマ以外の、何か他の意味をも込めた
に制作されるようになった。これは、この時期、即ちトリエント公
レクション
のだと考えねばならない。
会議に続く対抗宗教改卒期に、 死 を 思 い 膜 想 す る こ と が 非 常 に 重
祝されたことによる。 エミlル・マ!ルによれば、 そうした勤きの
︵
お
︶
イグナティウス・デ・ロヨラ H
三
一gL 白
m口
の﹃霊操﹄であった。これには次のような記述がある。
きっかけとなったのは、
MLO可O︸戸
﹁愉しみや歓びをおぼえるどんなことについても考えるのは、
れわれの罪に対する心痛、悲嘆、痛悔の涙をもよおすよで妨げとな
るから、・::むしろ死や容判を思い起こして、 心痛と悲嘆の念をい
だかねばならないい。
ここに見られるようなロヨラの考えは、彼の後継者であるイエズ
たちゃ、その他の解釈者によって発展、継承されていった。
そうした中で、絶えず死を直視し、 死について膜想することは、当
時の一信仰生活において最も震安な務めとなった。されこうべを前に
わ
して膜想する聖人の図像は、このような状況を反映したものである。
3
7
ス
﹂の点でまず注呂されるのは、 後列右端の使徒の姿である︵挿図
「
i
淡怨する聖フラ γ シスコ」
持図 6 エノレ・グレコ
1
5
8
5
9
0
年頃 103x87cm パノレセローナ, トレリョー・コ
非常によく似ている。﹁オルガス伯の埋葬﹂は、被昇天図と開じく、
大作﹁オルガス伯の埋葬﹂︵挿図 7︶に拙かれた葬儀参列者のそれに
:
、
。 しかも、この被昇天図での使徒たちの描写は、 グレコの後の
φ
しかし、彼を含め、使徒たちの多くは聖母の昇天に未だ気付いてい
た開題の使徒のまわりには、 されこうべのような死の象徴物はない。
度被昇天閣を見てみよう。胸に手を当て
うとしているかのようである。その様子は
る。顔を伏せて物思いに沈む彼に、左側の使徒は何かを語りかけよ
胸に手を当てた使徒の左には、彼を凝視する使徒の姿が描かれてい
うかのような姿で画面左端に描かれたこ人の修道士である︵挿図 8
。
︶
この語り合う人物像のモチーフは被昇天図の中にも見いだされる。
らにまた、この作品で見逃すことのできないのは、何事かを語り合
える。この描写は、基本的な構成において被昇天国と共通する。さ
﹂の点をふまえ、もう
その構閣が上下二段に分割されている。上段部に描かれるのは、天
での
し
、
グロ 1リア
V
上の栄光、そして、天使に抱きかかえられ、天上の世界に今迎えら
であるこ人の修道士が沈痛な表情で語り合うのは、もちろん伯爵の
トLt
れようとする伯爵の魂である。他方下段には、伯爵の壊葬に立ち会
死であろう。同様に、聖母の昇天に未だ気付いていない二人の使徒
人の修道土の描写に著しい類似を示している。葬犠の参列者
﹁オルガス伯の壇葬﹂
う参列者たちが拙かれている。彼ら参列者の中には、昇天する伯爵
も、昇天に先立つ聖母の死に患いを馳せているものと考えられる。
持図 8 挿図 7部分図
の魂を仰ぎ見る何人かとともに、静かな物思いに耽る人々の姿が見
挿図 7 エノレ・グレコ
fオノレカa スf自の耳lJ~~J
1
5
8
ふ−8
8年
4
8
0×360cm トレド,サ γ ト・トメ教会
38
実際、悲しやけに語り合う人物像のモチーフは、聖母の死の場面の伝
統的な囲像にも見られるものである︿挿図 9 つまり、被昇天図下
﹀
。
部の地上の場面は、聖母の死を強く意識した形で描かれているので
あり、先の二人の使徒を初めとする多くの使徒たちは、 その聖母の
死の立会人としての役割を担わされているといえる。この点から、
問題の使徒の、胸に手を当てるという描写は、されこうベを持つ聖
人と共通の理念を表わしたものと考えられよう。彼は、聖母の死に
直面して、死について深く考え、膜想に耽っているのである。また、
最後列の使徒たちの表現も、 そうした死についての膜想という面か
らその意味を解することができる。聖母の死に立ち会い、彼らもま
た死というものに思いをめぐらせている。彼らの顔に刻まれた濃い
JγJ今
UM
一ーノ回陪EE’ι、 その思いの深さを物語っている。
このようにグレコは、被昇天国の中に、聖母への礼賛とともに、
死を思う使徒たちの姿を描いた。これは当然、墓所聖堂を飾るとい
う機能に即したものであろう。死を深く自覚して膜想にひたる使徒
ベ、不︺ア
たちの姿には、現世における自らの罪を悔い、死後の救済を求める
祈りが託されているのである。
li 洗 礼 者 ヨ ハ ネ 像 と
聖体との連関
ィクト像
﹁聖母被昇天﹂の左右は、 それぞれ上下二段に分割され、計四点
の聖人像が置かれている。これらの内、左列下段の洗礼者ヨハネ像
39
四
ソポチャニ(ユーゴスラピア)
年頃
5
6
2
1
持関 9 「聖母の死」 (部分)
ポ申o
ヨ
f
t
−
サγト・ドミ γゴ・エル・ア γティ lグオ修遊拙陶製没
エル・グレコ﹁洗礼者百ハネ﹂一五七七|七九年一一一
ω
一X七八
右列上段の製ベネディクト像︵係凶江︶には共通した
ヨハネの指先は画面の縁からはみ出さんばかりであり、この画
ベネディクトは祝福の形で拙かれた手な左下方に向けている。しか
れている。 ヨハネはその指先を我々から見て右下方に向け、他方、
特徴が見られる。この間忠人は、 いずれも向かを指し示す姿で描か
︵挿図川山﹀と
的関 1
1 エノレ・グレコ「袈ベネディクト J 15777
9
1
f
. 1
1
6X80cm マド Fード,プラド
美術館
像単独では釣り合いを欠く。ベネディクト換についても同様である。
も
特に、このベネディクト像の場合、祝福の手が画面下方に向けられ
るという表現自体兵例なものである。こうした単独聖人像では、祝
﹁田市母被昇天﹂の下辺中央
描を与える聖人の手は、通常胸のす同さに上向きで表わされるのであ
る。また、この剖聖人の指し示す先は
あたりで交錯している︵挿図 2 ヨハネとベネディクトの両聖人は
。
﹀
回面外の、ある共通の対象を指し示しているようである。彼らは一
体何を指さしているのだろうか。従来の研究でこの問題はほとんど
議論されていない。しかし、その対象が何であるのかという問題は、
この祭壇衝立のプログラムを考える上でも重要な意味を持っている
ように思われる。
ヨハネとベネディクトが指し示す対象としてまず考えなければな
﹂の両聖人が指し示すような特別な
らないのは、両者の指先が向けられた被昇天図の下辺中央あたりの
描写である。 しかしここには
ものは拙かれていない。 しかも、被昇天閣のすぐ手前側には型植が
置かれており、このあたりはちょうどその陰に隠れてしまう。挿図
2に写っている盟横は一九世紀のものだが、聖堂建設当時にもこの
J
位置には型機が置かれていた。 したがって、 ヨハネとベネ アィクト
が指し示しているのは、むしろこの聖極、さらにはそのすぐ手前の
ミサの際に聖
祭壇の上あたりであったのではないかと考えられる。聖一樺とは、聖
別された車体を安設するものであり、 また祭壌とは
体を捧げるべき場所である。聖樟も祭壇も、これ以外の間的に用い
られることはないから、再聖人が指し示すのは本質的には車体その
40
ものということになろう。ミサの
である聖堂を鈍る画中の聖人が
その典礼の中核を為す邸晶体に観者の注意を差し向けていたことは大
いにありうることではなかろうか。 しかも、元来この聖堂内に据え
ドh
14T
一方これに対
︵二一一四センチメートル︹スペインの度設衡で一フィ iトは二八セ
を制作すること、 および、実作品はそのデザインをもとに高さ八ブ
.
d
︿山崎︶
ンチメートル︺︶で製作されるということのみである。
書簡には、今少し具体的な記述がある。この書面によれば、 グレコ
モネiグロがディエゴに宛てた一五七七年九月一一日付けの
えグレコが、堅植や、 それが置かれる現実空間をも含めた形で袈堂
の案による理権は上下一一段の構造を持ち、上段は一一本の柱だけで椛
られていた製植はグレコ自身がデザインしたものであった。それゆ
内博の装飾を構想することは、 それほど困難なことではなかったよ
成された物であったという。また、思植の高さはこの時点で八フィ
ートから七フィート︵一九六センチメートル︶に変更されてい問。こ
︶
四
︵
うにも思われる。以下の考察では、洗礼者ヨハネと型ベネディクト
の両聖人像と回一一体との連関が成立しうるのかという問題について詳
こでグレコが上段部を柱二本だけの簡素な形にしようとしているの
我々は今日残されている記録文献からその形状等を推測するしか
グレコのデザインによる誤植は過去に失われてしまっているので、
の祭壌と祭壇衝立との位置関係を把握しなければならない。 しかし、
がデザインした聖植を含む祭壇の袈堂建設当初の状態、 および、こ
両聖人像と聖体との連関を明らかにするためには、 まず、 グレコ
は、ディエゴに対し、思植の上段部止をより装飾的なものにするため、
向に基づくものであろう。 ただし、この閉じ書簡の中でモネ!グロ
ものにしたことを強調しているからである。これは当然商家側の
きく背後の絵廊作品を遮らないよう﹁見通しのきくだ器官BEm﹂
ィエゴに宛てた別の書簡で、 モネ iグロは、恕一植の上段があまり大
きるだけ避けようとしたためだったと考えられる。というのは、デ
しい検討を加えることにしたい。
ない。この聖極はグレコのデザインをもとに、 ファン・バ、ヮ一アイス
グレコ案でのニ本の柱の他に八本の柱を付け加えることも提案して
は、この期間植が背後の絵︵﹁聖母被昇天﹂﹀の鑑賞の妨げとなるのをで
タ・モネlグロが製作したもので、これらニ人の芸術家と注文者の
いる。聖植に関するこれ以後の記録は残されておらず、この提案が
の関係はそネlグロも了解していたわけだから、新たな柱が加わっ
﹀
れ
︵
間に交わされた文惑には、 わずかではあるが艶植に関する一言及がな
受け入れられたのかどうかは明らかではない。 しかし、背後の絵と
訟植に関する最初の記述が見いだされるのは、作品制作に先だっ
たとしても、思植の上段部は開放性の高い構造であったことは間違
︶
幻
︵
されている。
てグレコと注文者側が取り交わした吋覚窓口である。 しかし、この
いないだろう。また
﹂の最後の書簡でのそネiグロの記述によれ
文書に記されているのは、 グレコがこの聖植の下絵あるいはモデル
1
4
し
て
︶
幻
︵
ば、聖植の柱は全部でニO本であったという。
トレドのタベl一ブ病誌には、 グレコの設計による
以上のような記述から、我々は聖掘の大体の形状止を推定すること
ができる。 また
聖櫨︿挿図ロ﹀が部分的にではあるが残されているので、 その形状
も参考になる。 したがって次に問題となるのは、聖植が設置されて
いた位置である。これについては何の記録も残されていない。
が
ファン・ゴメ
二ハ一四年にグァダ
先に見たように、 グレコは、聖植が背後の絵を遮るのをできるだけ
ルーペ修道院のために設計した祭寝街立︵挿図日︶などに見られる。
ス・デ・モ 1 ラ
gロのひ自白骨宮。E
M
たと見るのが妥当なように思われる。そうした例は
の骨格をなすコリントス様式の円柱の基底の高さに揃えられてい
し、祭檀衝立の構造から考えれば、 聾植の基底部は祭壇衝立の構造
、
力
年 マドリード,
4
1
6
1
グアダノレーベ修遊説祭壇衝立構想図(部分〕
3 ファ γ ・ゴメス・デ・モーヲ
挿図1
0立図悉銀
0
年 金 高 163cm
2 エノレ・グレコ翠腿 1595-97
将図 1
トレド, Fベーヲ病院
し
42
持[
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1
4 サント・ドミンゴ・エル・アンティーグォ修道段取没,
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ミ祭 1
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避けようとしていたのだから、 その点からもこの位置は納得できよ
ぅ。この場合襲権の上端は、被昇天図中の聖母の足元を少し下がる
あたりに位置することになり、被昇天国の鑑賞をあまり妨げずに済
以上をもとに、制作当初の祭壌と、 ヨハネ像、ベネディクト像と
の位置関係を図上で復元してみることにしよう︵挿図uy ヨハネの
指先が一市す方向は大体右下方四OJ五O度、ベネディクトの祝福の
手はヨハネの指先ほど限定的ではないが、左下方六OJ七O度前後
を指している。他方聖体は、容器に入れられた上で、聖櫨下段に安
寵される。祭壇は、 そのすぐ手前側にある。 したがって、先におお
よその見当を付けたように、この荷聖人が聖極に安置された聖体、
さらには、車横手前の祭壌上にミサの際供えられる聖一体を指し示し
ているという位震関係は視覚上成立しうると考えてよいだろう。し
かも、これら両聖人と聖体との連関は間像学的にも理にかなったも
のといえる。次に、特にヨハネ像を中心として、図像表現という点
から聖人像と聖体との連関を検証していくことにしたい。
何ものかを指し示す二人の聖人の内、洗礼者ヨハネが指さすポ l
ズで掛かれることは稀ではない。美術作品において、 しばしばヨハ
ネは、幼児キリスト、あるいは小学として象徴的に表わされたキリ
﹁世の罪を取り除く神の小羊を見よ﹂︿ヨハネ
ストを指さす姿で描かれる。これは、荒野にイエスの姿を見いだし
てヨハネが諮問った
−二九﹀という言葉に由来する。我々が今問題にしているのは、聖
体を指さすヨハネだが、これについては前例となる間像は残念なが
ら見当たらない。しかし、 ヨハネの言葉でいう﹁神の小羊﹂とは、
人類の罪のあがない主として自らの身を神に捧げたキリストを象徴
したものだから、これが車体に置き換えられることは神学上容易に
予想できる。聖体とは、 まさにこのいけにえであるキリストの体そ
のものだからである。
ミサの際、祭壇上にはパン︵実際には内経状のウエハース﹀が供え
られる。このパンは、司祭の聖別の言葉によって、 その実体におい
てキリストの体に変化︿塑変化﹀する。ミサの典礼は、このキリスト
の体、即ち聖体を新たないけにえとして神に捧げ、十字架上でのキ
リストの蹟非を操り返すものである。このように聖体とは、いけに
えのキリスト、 つまり﹁神の小羊﹂としてのキリ’ストなのである。
事実、ミサの典礼には、聖体が﹁神の小学﹂という言葉で示される
場面がある。聖体拝領に先立つ場面で司祭は、聖体を捧持し、先の
開三]内
によるゲント祭壇
ヨハネの言葉﹁世の罪を取り除く神の小学を見よ﹂を唱えるのであ
る。また、 エイク兄弟国cgF守
口4
2
画中の﹁神秘の小学の礼拝﹂︵指図お︶は、聖体と﹁神の小羊﹂との
こうした同義性を図像表現の上で明確に示している。この作品で、
いけにえとしてほふられ、あがないの血をカ担スに注ぐ小羊は、祭
壊上に措かれ、聖体と等しいものとして表わされている。
以上のように、神学の上でも、 また美術表現の上でも、 ヨハネの
45
む。
年 ゲソト,パヴォ γ 大聖蛍
2
3
4
1
「神秘の小学の礼拝」 (部分)
5 エイク兄弟
1
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挿I
指し一訴す本来の対象である﹁神の小学﹂は聖体と伺義のものととら
えられる。 しかもゲントの作品では、小学の供与えられた祭壇の前被
﹁世の罪宏取り除く神の小羊を見よ﹂という先のヨハネの言葉
いけにえとされた文字通りの小羊であると同時に、この小
が記されている。この作品でのヨハネの言葉が﹁見よ﹂と呼びかけ
るのは
羊によって象徴される聖体でもある。この描写は、聖体が、洗礼者
ヨハネによって指ざされる対象となりうることを示している。グレ
コの拾いたヨハネ像が聖体を指し示していることはこれらの点から
裏付けられよう。また、聖ベネディクト像についても、下方に向け
られた彼の手が祝福を与える形で一万されているという描写から、
の先に伺か重要なものが置かれていることがうかがわれる。祭檀上
に捧げられた聖体はその対象としてふさわしい。
では、この図像表現は一体何を意味しているのだろうか。二人の
聖人が、聖体に対する観者の注意を喚起する役割を果たしているこ
取ることができる。
グレコが生きた一六世紀後半は、
プロテスタントとカトpyグの闘の対立の最も激しいものであった。
宗教的対立の時代であった。その中にあって、聖体に関する解釈は、
卒と、 それに対するカトワッグ側の対抗宗教改革運動の渦中にある
一五一七年に端を発した宗教改
考え合わせることで、我々はこの図像が表わす意味をより、深く読み
とは明らかである。 しかし、作品制作当時の聖体解釈のあり方をも
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ζ
6
4
対立する象徴説、 即ち、パンとワインはキリストの体と血を象徴す
ヴィングリ drrrN当日ロぬロらは、 カトリヅクの教えに真っ向から
もとに、それとともに現臨する、という共存説を出した。さらにツ
は、これに対し、 キリストの体と血はパンとワインの中に、それの
化ハ取一一変化︶するものとされていた。 と こ ろ が ル タ i 罵同込山口FEYR
祭が唱える聖別の言葉によって、その実体がキリストの体と血に変
宗教改革以前には、ミサに供せられるパンとワイ γは、典礼中に可
る形で示しているのである。
即ち、この聖堂の祭壇上で実際に聖変化が起こったことを自に見え
図像表現は、観者の前の臨晶体がキリストの体になったということ、
るという点で、それは、教義の観念的な表現にとどまらない。この
体の意味を明らかにしている。 しかし、 その聖体が現実のものであ
強調している。このように二人の聖人は、器変化の教義に沿って型
与える聖ベネディクトは、この袈体が真に聖なるものであることを
エミlル・マiルが明らかにしたように、聖体の秘跡の強調と
た動きは布教の重要な手段であった美術作品にも大きな影響を与え
義を擁護し、 またあらゆる手段でそれを徹底しようとした︶。こうし
公会議とこれに基づく対抗宗教改卒運動を通して、先の聖変化の教
考えを示した。こうした状況の中でカトリ γク教会は、 トリエント
るに過ぎず、 そこにキリストの体と血が存在するのではないという
聖体解釈の問題を十分に把握していたと考えられる。ここに見たよ
を所持していたことが知られており、この公会議で再三議論された
な限目であった。他方、 グレコも、自らトリエント公会議の議事録
った。 しかも、聖体をめぐる問題は、彼の遂行した教会改卒の重要
は、学識ある聖職者であり、当時の宗教問題にも精通した人物であ
二章で見たように、作品の注文者ディエゴ・デ・カスティiリャ
ヨ
その視覚化は、トリエント以降の美術の重要なテ!?となっていく
生み出されたものといえるだろう。
うな高度な国像表現は、こうした注文者と画家の共同作業の中から
む
明
︵
祭壇衝立の閣像プログラム
のである。眠中の聖人が祭壇上の聖体を指ざすというグレコの表現
もまた、聖体の秘跡に関連したものであり、当時のカトリック教会
三章および四章での考察で、我々は、 サント・ドミンゴ・エル・
の聖体解釈を如実に反映している。
ミサに供せられる車体は、聖変化の後も、 闘に見える形としては
ことを明らかにした。これらはいずれも、従来の研究において議論
描写があること、 また、この祭壇衝立が現実の袈体と連関している
した。その中で我々は、この祭壇衝立に死についての膜想を示した
アンティlグォの祭壇衝立の間像表現上の問題を二つの点から検討
五
もとの﹁パン﹂のままである。 しかし、 サント・ドミンゴの祭壇の
即ちあがない主キ
聖体は、洗礼者ヨハネに指さされることによって、 その実体が、
ハネの指し示す本来の対象である ﹁神の小学﹂
リノストの体に変化したことが明らかにされる。また、聖体に祝福を
7
4
三
T
いう根本的な問題に関わっている。この祭壊衝立のプログラムは、
の間像プ一グラムがどのような要素によって構成されているのかと
をはらんでいる。とりわけ、現実の聖体との連関は、この祭壇衝立
壇衝立全体の意味を解明する上で、無視することのできない重要性
らに、この祭壇上の聖体があがない主キリストの体そのものになっ
上の聖一体を指さすことによって、観者の注意を聖体に差し向け、
聖変化の場面に深く関わっている。 ヨハネとベネディクトは、祭壇
聖堂内ではミサが行われる。この二点の聖人像はミサの中核を為す
洗礼者ヨハネ像と霊ベネディクト像が指し示す聖体を取り巻き、
信仰が、現実の典礼と一体化した形で表拐される。
九点の絵踊作品だけで構成されるものではなく、祭壇上の聖体を合
たことを示す。こうして彼らは、この聖堂でのミサの中で、実際に
されてこなかった問題である。 しかも、この 一つの図像表現は、祭
めて、初めて一つの総体として成り立つものなのである。 しかも、
聖変化が起こったことを自に見える形にしている。
一体﹂、﹁聖母
﹁この供物にご嘉納のおだやかな御おを下し給え。主の下僕なる
司祭は次のような祈りを唱える。
おける新たないけにえとして神に捧げられる。聖変化に続く場面で
この襲変化の結果祭壇上に現れたキリストの体は、次に、ミサに
え
﹂
キツ
η ストの体そのものであるという重要性から、聖体は、全体のプ
ログラムの要となるべき存在であると考えられよう。
この祭壊衝立と聖体との関連については、 リチャ 1ド・マンの最
﹁キリストの復活﹂、
近の研究が詳細に論じている。彼は、河時代の神学的著作を広く援
﹁学館の礼拝﹂
義人アベルの供物と
用して、
被昇天﹂の四点の大作に、ミサや襲体に関わる表現が為されている
た供物を受け入れた如く、この聖なるいけにえ、けがれなきオステ
ミサの中で繰り返されるキリストの犠牲は、神がこの祈りに応え、
の大祭司メルセデクが主にささげ泰つ
ことを明らかにしようとしている。しかし、これらの作品の意味は、
ィア︵護休﹀をうけいれ給え﹂。
︵明日︶
画中の聖人が聖体を指し示しているという表現と無関係に論ずるこ
とはできない。この祭壇衝立は、盟体を介して現実の典礼の携に直
﹁聖なるいけにえ﹂である聖体を受け入れることで完結する。
位一体﹂︿挿図 MUには、 そうした理体の受け入れの場閣が象徴的に
接的に結びつけられることで、新たな様相を畏しているからである。
私は、そうした現実のミサ典礼との関わりが、この祭埴衝立の意味
、サが真の救済をもたらすものであることへの
ら抱きかかえる父なる神の姿である。こうした表現は、
の玉
座﹂の図録にその起源を持ってい問。﹁聖龍の玉座﹂とは、磁刑のキ
この﹁三位一体﹂に措かれるのは、死せるキリストの体を背後か
表わされている。
主祭壇衝立では
飾る作品群の国銀プログラムの再構築を試みることにしたい。
止を解く鍵であると考えている。以下、聖体との連関を軸に、聖堂を
一
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7
7
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「三位一体J 1
-79年 300xl78cm マドリード,
作品よりも少なくし、
かなり接近した視点からこの場面を拾
ている。 グレコは、製三位を取り巻く天使たちの数をデュ lラ!の
に徴妙な変化を加え、彼の作品をより豊かな意味を持ったものにし
り門町民の木版画︵挿悶悶むから学んだ。 しかし、 グレコはその版画
︶
お
︿
門
ゲ
ロ
と同様の意味を表わす。この間像を、グレコはデュ lラi ﹀Fお
刑のキリストを死せるキリストに置き替えたグレコの表現も、これ
像で、 キリストによるあがないの神による受け入れを窓味した。一様
︵
mM ﹀
リストを、向じく背後から抱きかかえた父なる神の姿を表わした関
6 エノレ・グレコ
挿図 1
の体という点で、間中のキリストは、
、サの場で捧げられる聖体と
トの体なのだということを強制している。 そして、 いけにえとして
象付け、ここで神に受け入れられるのが、 いけにえとしてのキリス
めることになる。 グレコは、こうしてキリストの践を観者に強く印
いた。その結果、死せるキワストの体は画面により大きな場所を占
ま
重なり合う。祭壇上の製体が絵画作品の図像連関の中にある以上、
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「三位一体」
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しているのである。
﹁ヴエロニカのヴェール﹂
﹂うした、現実の典礼と祭壇衝立との結びつきは
と﹁聖母被昇天﹂の間に置かれた小口問、
﹂の作品で、 ヴ ェ ー ル に 写
、サにおける聖体の奉献に関わる。一時祭は、先の祈りの
一言葉に続け、次のように唱える。
面もまた、
しとられた袈顔は、ニ人の小天使によって呈示されている。この場
︵挿図お﹀によってさらに深められる。
﹁三位一体﹂
がない主キリストの体そのものとして神に受け入れられたことを示
﹁三位一体﹂は、祭壇上の聖体が、真実のいけにえとして、即ちあ
トは、聖体の真上に描かれて、これと対肌隠されている。 つまりこの
この両者の関係は視覚的にも明らかだろう。 しかも、画中のキリス
7 デューラー
持図 1
﹁主の裂なる天使の手をもって、 天の祭壌と神聖なみいず︵御稜
49
t~ニ
プラド美術館
だキリストを、 さらには、このキリストによって象徴される聖体を、
﹁みいずのみまえ﹂に捧げ渡す天使の姿を表わしている。
以上のように、主祭壌筋立を飾る作品は、聖堂内での現実のミサ
典礼と密接に連係している。聖堂内でのミサとはもちろん、ここに
葬られたこ人の死者 |
t |ドニャ・マリ iア・デ・シルパ、 およびデ
は、まさにそうした目的に基づいて
ィエゴ・デ・カス一アィ iリャ liiの救済を祈念するものに他ならな
ぃ。一一意で見た通り、この
建設されたものであった。また、この聖堂には、彼ら二人のために
ミサな挙げる司祭が実際に任命されていた。主祭壇衝立の作口聞は、
これらの司祭によって執り行われるミサの中で、確かに聖変化が起
こったこと、 そして、 その聖変化の結果キリストの体となった聖体
が神に捧げられ、 またこれが神によって受け入れられたことを示し
ている。グレコの祭壊衝立は、 キリストのあがないがこうして聖堂
内のミサの場で繰り返されたことを明らかにし、一一人の死者のため
に挙げられるミサが真に救済につながるものであることを証してい
るのである。被昇天間中の使徒たちの描写は、このようなグレコの
見たように、彼ら使
徒たちの、罪を悔い、死について膜想する姿の内には、 死後の救済
祭一境衛立の役割を別の面から裏付ける。
威﹀のみまえに、このいけにえを運ばせたまえ﹂。
への祈りが託されている。この祭壇衝立が死者のためのものである
また、この使徒たちの頭上に描かれた聖母の姿も、そうした死者
ことは、こうして明確にされる。
コニ位一
の救済への祈りの中に位置付けられる。この被昇天国において、聖
﹁ヴエロニカのヴェール﹂は、
体﹂でのキリストの神による受容に先立ち、あがないのために死ん
用いられたものであった。
ゴ・クリペア lタと呼ばれ、古代以来、死者の肖像形式として広く
この作品のように楕円の中に肖像を描くという関像は、 ィ,マ i
︵
お
︶
1577-79
年 7
6(長径)× 55cm マド 9挿図1
8 エノレ・グレコ
「ヴェロニカのゥ・エーノレ」
ド,俗人コレグショソ
50
母の体は実に堂々としたそニュメンタリティーをもって捕かれ、
た、地上部の石棺は、 その内部が空になったことを一部すため、自然
な三次元空間に若干不調和な形で描かれている。これらはいずれも、
聖母が体の復活をかち得たことを視覚的に強調する。 キリスト教的
な救済とは、このように復活し、天上で永遠の至福を得ることをい
ぅ。死に勝利する聖母の姿には、この至福が具体的な形で表わされ
ている。
以上のように、神学的、典礼的な面から救済の理念を表明する主
祭壇衝立に対し、脇祭壇衝立は、歴史的な面から救済への過程を語
っている。
脇祭壌の作品は、﹁学館の礼拝﹂︵挿図股︶から﹁キリストの復活﹂
︵挿図加﹀へと展開する。前者は人類救済のためのキリスト降誕の
場面であり、後者は、死に勝利するキリストが救世主としての力を
人々に啓示する場面である。これらは主祭壇衝立最上段の﹁三位一
体﹂でのあがない主キリストの神による受容へとつながり、人類救
済に至る神の計画の歴史的な手順を記念している。
ジョナサン・ブラウン、 およびリチャ!ド・マンの研究に
210xl2Scm サ γ タ γ デ
ノレ,エミリオ・ボティ γ ・サンス・
コレ夕、ンョ γ
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グ乃ゴ堂
ル明川院
エおド道
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図
挿
羊
﹁
の図像プログラムの要となる聖体への信仰の表明は、このように聖
堂内にこだまし、全体の統一が国られているのである。また、
トの復活﹂の昭商左下には聖イルデフォンソの姿がそれぞれ描かれ
錦の礼拝﹂の回閣右下には聖ヒエロニムスの姿が、 そして﹁キリス
的な光の中に描かれたキリストの体は、聖体のイメージと重ね合わ
されたものだとい九。既に見た通り、聖体と祭壇衝立との連関が明
ている。彼らは、 いずれもディエゴ・デ・カスティーリャが深く尊
よれば、この両作品において構図上の中心を占め、裸体のまま神秘
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9 エノレ・グレコ 「竿飼の礼拝」 1
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ない。したがって、翠綴下段の柱も一O本ないし一八木ということ以
上には限定できない。
第五巻四七頁。
︵川出﹀上智大学編﹃カトリック大辞典﹄︵全五巻﹀富山一房一一九五四年
九五去年七五七支。ミサの典文は、トリエント公会議の際、改正、
︵お﹀フェデリコ・バルパロ一総﹃毎日のミサ血︿醤﹄ドン・ボスコ社一
カン公会議での大改正に至るまで、ほぼ作成当初のままの形で用いら
統一された。この典文は、一五七O年以降一九七O年の第二ヴァティ
れてきた。本稿で引用する典文は、前掲の一九五五年版のミサ典警に
拠っているので、グレコの作品が制制作された当時用いられていたもの
と概ね同じと考えられる。
習研究社一九七二年。
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︵お﹀聖体をめぐる問題は、トリエント公会議の最も重要な議題の一つで
あった。聖変化の意味については、第一一一一総会︵一五五一年﹀で発せ
︵おかだ・ひろしげ西洋美術史学講座修士課程学生︶
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することを強調し、これに反する信仰を厳しく断罪している︿日・デ
ンツインガl編 A ・シェ 1ンメッツ 7 1増 補 改 訂 浜 寛 五 郎 訳
﹃カトリック教会文明治資料集﹄且ンデルレ設店一九八二年一一八
七i 二九二一良﹀。また、聖体あるいはミサについての議論は、第一一一、
第二二総会︵一五六二年﹀においても行われた。
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