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環境対策における不合理の進化心理学的起源と その

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環境対策における不合理の進化心理学的起源と その
(財)電力中央研究所社会経済研究所ディスカッションペーパー(SERC Discussion Paper):
SERC11030
環境対策における不合理の進化心理学的起源と
その解決について
杉山大志*
(財) 電力中央研究所
社会経済研究所
小松秀徳
(財) 電力中央研究所
システム技術研究所
要約:
現実には環境問題は一貫して改善を続けてきたにも関わらず、悲観論が論壇の主流を占
めつづけてきた。これは「危険な話」を信じやすい人類の性向によるものであり、この性
向には、原始人にとって実際に「信じるもの」が生存に有利であった、という進化心理学
的な起源がある。現代の環境政策において費用対便益の熟慮による合理性をもたらすため
には、できるだけ多くの人が直観(ヒューリスティクス)に頼らず熟考をすること、およ
び、その熟考過程を組織化するために、環境リスク管理を行う組織を確立することが有益
であろう。
免責事項
本ディスカッションペーパー中,意見にかかる部分は筆者のものであり,
(財)電力中央研究所又はその他機関の見解を示すものではない。
Disclaimer
The views expressed in this paper are solely those of the author(s), and do not necessarily
reflect the views of CRIEPI or other organizations.
*
Corresponding author. [e-mail: [email protected]]
■この論文は、http://criepi.denken.or.jp/jp/serc/discussion/index.html
からダウンロードできます。
Copyright 2011 CRIEPI. All rights reserved.
1.
環境は改善してきた
世界の環境(以下本稿では、厚生省の管轄である衛生などもひとくくりに環境と呼ぶ)
は一貫して良くなっており、今日の人類はいまだかつてなく健康で、安全で、長生きをし
てきた。このことは(ロンボルグ, 2003)が多くの統計を使って説得的に示している。
このような話は数限りなくできるのだが、例を2つだけひく。かつて日本には恐ろしい
風土病があった。日本住血吸虫病、ツツガムシ病、フィラリア病などで10万人規模の病
人が出た。また、数百人規模で死者が出た。天然痘やコレラの流行で数千人規模の死者が
出ることも頻発した(宮本他, 1995, p231)。これらは、今ではほとんど病名すら聞くこと
がなくなった。勿論、代わりにエイズや鳥インフルエンザ等の新たな病気が出現している
のは事実であるが、これらに対してはその都度新たな治療薬が開発されてきたこともあり、
前述のような風土病と比べ、死者数は遥かに小さくなっている(総務省統計局 HP, 社会実
情データ図録)。またマルサスは人口増加によって貧困を迎えることが人間の宿命である
としたのだが、人類は緑の革命という技術革新によって人口増加を上回る食料増産を果た
した(速水・神門, 2002, pp.116-127)。今や日本人は飽食し、数々の病気を克服し、健康で長
寿になった。
2.
環境悲観論
このように、一貫して環境は良くなっているのが実態であるにも関わらず、アンケート
などを行うと、環境は日々悪くなっているという認識が一般に強い。
実際のところは、現在では人体を大きく損なうような公害は殆ど解決されてしまった。
煤塵、水銀中毒などは確かに重大な健康損害を引き起こしたが、このような公害は概ね1
970年代までに解決されてしまった。最近ではダイオキシン、BSEなどが大きな社会
問題となり莫大な費用が投じられたが、実はこの両者はいずれも日本では1人も死者は出
ていない。
環境問題がほぼ解決してしまったのにも関らず、なぜ人々は環境が悪くなっていると認
識し、新しい環境問題を見つけては大騒ぎし、莫大な費用を無駄遣いするのだろうか?
これには、メディアが悪いニュースばかり取り上げる傾向があるからだとか、反権力志
向の強い左翼思想が日本の論壇を長く支配してきたからだ、政治家が大衆迎合的だ、など
の評論が多くある。しかしながら、これはいずれも表層的な現象に過ぎない。なぜなら、
テレビも左翼思想もないころに、マルサスは悲観論を唱えたし、終末論をとなえる宗教は
多くあったからだ。むしろ、メディアも左翼思想家も政治家も、なぜ環境問題で大騒ぎす
る傾向があるかといえば、結局のところ大衆の社会心理と個人の心理にそのような傾向が
もともと備わっているからだ。人間は、「危険な話」を信じやすい。それでは、このよう
な性向はどうして備わったのか。
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3.
なぜ人類は「危険な話」を信じやすいのか?
およそ人類のいるところ、必ず宗教がある。これは、宗教がバンド(150人程度の血
族からなる部族集団であり、原始時代の人類の活動単位であった)の結束や、死をもおそ
れぬ勇気をもたらし、バンドの生存に有利に働いたからだ。原始時代、人にとって最も危
険で信用ならない捕食者は人であり、人はこの難敵と常に向き合っていかなければならず、
個人単位でもバンド単位でも常に戦力強化の競争にさらされていた。このような状況下で
バンド内の結束が弱いようでは、そのバンドは生き残ることができない。そこで、法の制
定者としての神が生まれ、倫理基準に権威が与えられ、宗教的世界観を共有することでバ
ンド内の結束は強まった(ウィルソン, 1997)。死への恐怖は、あの世での永遠の命を説く
ことで解消され、バンドが死をも恐れぬ戦闘集団となることを可能にした。つまり人は、
バンドの共通認識である一貫した認知体系、すなわち宗教、に服属する性向を持つように
なり、これがバンドの生存に有利に働いた。このようにして、人は合理的に計算し判断す
るよりも、宗教に服属するという「信じやすい」性向を持つようになった。
この、信じる対象であり、一貫した物語の体系であるところの宗教には、終末について
の考え方が盛り込まれたであろう。
現代では人類全体が滅びるようなことはまず考えられないが、終末論を信じる人は多い
し、また環境問題に対して終末論的な恐怖を抱く人も多い。なぜこのようなことが起きる
かというと、人間心理が形成された原始時代には、実際にバンドの終末は頻々と起きる事
柄であったため、人間がそのような認知をする傾向が根付いてしまったからと思われる。
昔は実際に終末が身近であった。宗教によってバンド内での結束が得られた後も、バン
ド間ではまだ常に戦争状態であった。バンドは、他のバンドによってもよく全滅かそれに
近い憂き目にあったであろうし、また、土砂災害や干ばつなどの自然災害によっても、同
様なことが起きただろう。これが終末論という最も危険な話を人類が信じやすくなった起
源と思われる。
終末が来ることを訴え、それに備えるために、宗教はそれを邪悪な神、魔物、怪物など
の形でしばしば表現した。自然災害や敵を悪神として表現することは、世界中の様々な所
で確認されてきた。例えば、相手が女子供であっても待ち伏せなどをして、容赦なく首狩
りを行う種族がいた(ちなみにこの首狩り行為は、部族の中で宗教的に奨励され、成功し
た者には勲章が贈られた)。この首狩り種族は、他の種族によって、竜や雲の中からあら
われて人々を滅ぼす獣人として描かれ、終末論的に語られていた(Atran et al., 2004)。
人類が危険な話を信じやすい性向があることのもう一つの論拠として、進化心理学のエ
ラーマネジメント理論がある。不確実性が高い状況で相手が危険かどうかを判断しなけれ
ばいけない場合、危険でないものを危険とみなす誤りよりも、危険でないものを危険とみ
なす誤りの方が、致死的ではなかった(Haselton, 2000)。例えば、蛇を枝と間違えるよりも、
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枝を蛇と間違える方が、より安全である。このように、最悪の状況を想定して恐れるとい
う選択が生存上有利であったため、そのような判断を行う直観(ヒューリスティクス)が
進化した。このようにして危険な話を信じやすい、というヒューリスティクスが進化した
のかもしれない。
一方、正常性バイアスのようにリスクを過小評価するヒューリスティクスが存在するこ
とも知られているが、これは人がなじみのある対象に対して、不確実性がないと主観的に
認識している場合に生じるものと考えられる。正常性バイアスの例として、津波が来たと
きに「自分は大丈夫だろう」と思って逃げなかったために被害にあう、というものが有名
だが、これらは何も異常が起こっていない平常時へのなじみに起因すると考えられる。環
境問題では、常に新しい問題が掘り起こされてきているため、個別の問題に対しては毎回
なじみがなく、それゆえリスク評価が大きくなると思われる。このことから、正常性バイ
アスのような過小評価するヒューリスティクスの存在も、エラーマネジメント理論と矛盾
はしないものと考えられる。
4.
環境政策はなぜ非合理になるのか
上述の「終末論などの危険な話を信じやすい性向」は、いずれも人類がバンドで暮らす
原始人であったころには、生存に有利な性質だった。しかし、これが直観として現代の環
境問題に持ち込まれると、費用対効果という観点から見て合理性の低い政策が採用される
ことになる。
「○○が危ない」という話が広まり、それがひとたびステレオタイプとして社会の認知
体系の中に定着すると、人々はその信仰から離れにくくなる。それが終末論的な響きを持
つならばなおさらである。人はそれを信じやすい性向にあるからだ。そして、ひとたびそ
のような信仰が出来ると、それに相反する情報を人々は拒絶する傾向ができる。認知的不
協和を生じるような情報は、バンドの結束にとって不適切だからだ。
このような性向をあおりたてるようなバイアスをもった情報を取り上げたり作り上げた
りして、メディア、政治家、左翼運動家は支持を広げ、また、ステレオタイプを再生産す
る。ステレオタイプの再生産とは、メディアでの繰り返しやデモへの参加体験などによる
認知体系の強化であり、宗教的陶酔の強化とも言える。このような形で世論が出来上がる
と、費用対便益の熟慮による計算が度外視されて、その結果として、著しく効率の悪い環
境対策が是認されることになる。
5.
環境政策を合理的にするためには
環境政策を含め、政策のための予算は限られているから、現代社会においては効率性が
重要になる。では、それはどうしたら確保できるか。
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第一に、人間の進化心理学的な性向として、信じやすく、終末論などの危険な話が好き
であり、そのため、よく環境政策についての判断を誤るという自己認識を広めることであ
る。たとえば標語を作ってみると、「原始時代、信じるバカは救われた。現代、信じるバ
カは損をする」、ということだ。なお、大衆迎合的な今日の政治・経済においては、ただ
のステレオタイプやそれに基づく直観的な意見表明であっても有権者・消費者として人々
はおだてられる傾向にあり、「市民の声」といったような標語が、時として不勉強を肯定
するようなキャッチコピーとして蔓延する傾向にあることは嘆かわしい。「実はそうでは
ない、直観などあてにならないことが多い」、という認識を広める必要がある。このため
には、進化心理学的な説明が役に立つだろう。たとえば、よく終末論が語られるが、現代
の人類は暴力や災害に対してかなり程度の高い防御体制を構築したので、そう滅多に全滅
などしない。これは原始人のバンドとは全く話が異なる、といった話をすることは、現代
人の性向を、現代人自身の自己理解として広めるために有益だろう。
そして、効率性の確保のために必要なことの第二は、直観ではなく、データに基づいた
熟慮を奨励することだ。これは敷居が高く全ての人が実践できるわけではないが、しかし、
どれだけ多くの人々がこれを実践できるかで、結局のところ社会全体の効率性は大きく規
定されるのだろう。
そして第三に、リスク管理の専門組織を、権威あるものとして確立することである。こ
れは、上述の熟慮をする人々が支持基盤となり、また、広く一般からその権威を認められ
るものでなければならない。
それでは、一体このような組織を作ることは可能なのだろうか?
筆者は可能であると考える。なぜなら、人類は、直観とは反する多くの規定を含む強力
な組織をいくつも作り、進化心理的な性向という制約を超越した強力な規範を形成し、高
い生産性を挙げてきたからだ。
例えば警察組織は、その初めは権力者が専制支配を行うための暴力装置であったが、民
間での紛争解決手段として暴力が使われることについては禁止した。なぜなら、国民経済
に悪影響を与えるなどの形で権力者の利益を損なうためである。しかし、これは結果とし
て人々の利益にも大きく貢献した。人々の知識水準が高まるにつれて、警察組織は支配の
道具から民衆の生活の安寧を保障するものに変容した。経緯はどうあれ、ここでは、私闘
や殺人を禁忌とする文化がすっかり定着したことに着目したい。私闘も殺人も原始時代か
らの人類の伝統であり、本能に深くプログラムされてきたことに思いを馳せると、この禁
忌が確立されたことは実に驚異的である。そして、警察に暴力を独占させるというこの驚
くべき事象は、今も継続されており、また警察は組織として民衆から信頼され、この暴力
の委託を受けつづけることに成功している。
環境省の母体であった厚生省も、1940年代初めに設立されたころは、臣民を鍛え強
い軍隊を作るための為政者の装置だった。このことは当時の厚生省のポスターにも明白に
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書かれている1。環境省は、そこから派生して、煤塵や汚水対策を行うようになった。
警察組織と同様に、人々の知識水準の高まりを反映して、厚生・環境行政(以下、簡単
のため衛生や食品安全行政も含めて単にひとくくりに環境行政と呼ぶ)は徐々に変容して
いった。それは、臣民を鍛えるというものから、国民の幸福のために健康を増進し守るも
のに変容した。
このような行政活動は1970年代までは間違いなく国民の健康の増進に役立ったと思
われるが、近年になって、問題の性質がさらに変容した。さきにあげたダイオキシンとB
SEが特にその先鋭化した例であるが、環境行政は、人々の直観に基づく世論を反映して、
次々に些細な問題を発見しては費用対効果の悪い不合理な政策を打つようになってしまっ
た2。
それでは、合理的な政策を打つようにするにはどうすればよいか?それは、既存の環境
行政組織を改善することによって、環境リスク管理をする組織を権威あるものとして確立
することが有益であろう。
(橋本, 1988)が述べていたように、かつて環境庁は、ある特定の環境問題について国民
規模の社会運動を盛り上げ、それを背景として環境規制を強化するという方法を明白にと
っていた。このような方法は、1970年代までは妥当なものだったであろう。環境問題
の存在自体が広く知られておらず、また深刻な健康影響を実際に及ぼし、さらにその対策
を実施するための反対勢力が強固であったからだ。
しかし、今日ではこの状況は一変した。どちらかといえば、実際に健康被害などほとん
どない環境問題が次々に取り上げられ、社会問題化し、効率の悪い政策が実施され、風評
被害などで多くの企業やその従業者が苦しみ、失業や自殺すら起きる、という構造ができ
ている。今日の環境問題は、環境悪化によって健康被害が生じることよりも、むしろ、環
境問題が社会問題となることで起きる風評被害などのほうが深刻な場合が多くなったので
はないか。
このような状況変化を受けて、環境省をはじめ、環境行政にかかわる組織は、「環境運
動」をするのはやめて、「費用対効果の高い形で環境リスク管理をする」ということを、
そのマンデート(責務、ないしは設立趣旨)に明確に書き込むべきであろう。これが風評
被害を防ぐことにもつながるだろう。同様なことは、厚生行政についてもそのままあては
まる。
環境省は、歴史的にいえば間違いなく「環境運動省」として始まり、今日でもこの傾向
をまだ帯びているように思う。これを「環境リスク管理省」として、様々な環境リスクを
1
例えば国際日本文化研究センターの所蔵資料に当時のポスターの写真がある。
なぜ不合理な政策を打つようになってしまったのだろうかという点について、(渡辺正, 2005)は、主要
な厚生・環境問題が解決してしまったのに、組織的慣性が続いており、次々に新しい問題を発見し対策を
打ち続ける構造になってしまっていると指摘している。なおこれに関しては、技術進歩に応じて、新たな
「問題」が次々に発生する構造になっているのかもしれない。例えば水害防災のための土木事業と比較し
てみると納得する。水害は常に起こり、この問題は解決しない。新しい問題が発生するほど技術進歩はあ
まりない。このため、新たに費用対効果の悪い政策を発明して実施する余裕もないのかもしれない。
2
-5-
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相対的に評価し、最も費用対効果の高い環境対策を優先して対策を実施していくようにし
ていくことが望ましい。すでに環境規制の基準設定にあたってはリスク評価書が利用され
るようになっているから、このような方向性は十分に意識されていると思うが、もう一歩
進んで、組織全体のマンデートとして明白に意識したほうがよい。過剰反応や風評被害を
避けるために、危険がないとき、恐れる必要がないときは、そのことを積極的に国民に伝
えねばならない。
このためには主権者たる国民が、環境対策は費用対効果を重視して実施すべきこと、お
よび、環境問題の解決は、単純な直観の総和ではなく、専門性を持つリスク管理政府組織
に委ねることを、合意する必要がある。日本には、熟慮する人々が多く存在し、このよう
な実際的な解決策をとり、環境リスク管理組織の支持基盤し、やがてそれが警察行政なみ
の信頼を得ることは可能だと信じたい。
参考文献
ウィルソン, E. O. (1997)、人間の本性について, ちくま学芸文庫
ロンボルグ (2003)、環境危機をあおってはいけない、文芸春秋
橋本道夫 (1988)、私史環境行政、朝日新聞社
速水佑次郎・神門善久 (2002)、農業経済論
新版、岩波書店
宮本常一 (1995)、日本残酷物語1-貧しき人々の群れー、平凡社ライブラリー
総務省統計局 HP, http://www.stat.go.jp/data/sekai/14.htm#h14-02 (アクセス日2011年10月17日)
社会実情データ図録, http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/1955.html (アクセス日2011年10月17日)
渡辺 正 (2005)、これからの環境論―つくられた危機を超えて (シリーズ地球と人間の環境を考
える (12)) 、日本評論社
Scott
Atran
and
Ara
Norenzayan
(2004),
Religion’s
evolutionary
landscape:
Counterintuition, commitment,compassion, communion, Behavioral and Brain
Sciences, 27, pp. 713–770
Martie G. Haselton and David M. Buss (2000), Error Management Theory: A New
Perspective on Biases in Cross-Sex Mind Reading, Journal of Personality and
Social Psychology, 78(1), pp. 81-91
-6-
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