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ケルンの大群

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ケルンの大群
年
頭
所
感
会長
杉山修二
新年あけましておめでとうございます。
会員会友の皆様におかれましては新しい希望に満ちた新年を迎えられ、新しい門出をお
祝いしたこととお慶び申し上げます。長谷川前会長から会長を引き継ぎいたしました杉山
でございます。伝統ある山行クラブの会長を拝命し、重責で潰されそうな思いであります
が会員会友の皆様のご協力を賜り会長の任務を全うしていく所存でありますので今後共宜
しくお願い申し上げます。
さて山行クラブも今年で創立 23 周年を迎えることとなりますが、会員の皆様の使命感と
ご努力により大きな事故もなく飛躍してまいりました。昨年は例年通り月に 3 回の割合で
登山計画を立てましたが、春先は思いもよらない豪雪に見舞われ 2 月、3 月は全く山行がで
きない状態が続き、期待した春先の山行を楽しみにしていた方には残念な思いをしたこと
でしょう。また夏季シーズンの最も魅力的な山シーズンには天候に恵まれず 6 月、7 月、8
月には雨天で中止した計画が多くあり、山行のたびに雨具を装着しての登山を余儀なくさ
れた会員も多かったことでしょう。最近はゲリラ豪雨と称し、短時間に多量の雨を降らせ
る異常気象が多く発生し、国内に多くの災害をもたらしました。伊豆大島の豪雨災害や広
島の土砂災害はまだ記憶に新しいと思います。また山での災害も悲惨な災害が多く発生し
ました。特に御嶽山の爆発は活火山の脅威を我々山岳愛好家のみならず多くの国民の皆さ
んに知らしめたことでしょう。また一方で山岳愛好家の山岳事故も著しく、長野県警の報
告によれば、長野県内の山岳事故発生状況(週報)は平成 26 年の 10 月 13 日現在 250 件の
事故が発生し、遭難者は 277 人と報告されています。これは昨年 1 年間の事故や遭難者に
匹敵する数字です。例年言われているように 60 歳以上の高齢の登山者の遭難は相変わらず
多く、この報告書によれば死者は 35 名中 18 名(51%)、遭難者は 187 名中 81 人(41%)を
占め高齢の方の犠牲者が多く発生しています。当クラブの年齢も年ごとに高くなっていて
平成 26 年 10 月現在の平均年齢は 70 歳強であり、十分配慮しなければならない年齢となっ
ています。
さて平成 27 年も 33 件の山行が計画されておりしかも魅力的な山行計画となっています。
多くの会員の皆さんの積極的な参加を期待すると同時に安全第一に徹し、快適な登山を心
掛けていただきたいと思っております。特徴として北アルプス、南アルプスの山々はもと
より世界自然遺産に登録された富士山登山を当山行クラブとして初めて計画しました。日
本一の高峰を堪能するのも楽しみなことでしょう。恒例の環境登山は奥多摩の棒ノ折山を
計画しました。最近は登山マナー、モラルが向上し少しずつ綺麗になってきましたが自然
環境を守るという意味で大いに PR をしたいものです。更に恒例のオープン山行は福島県の
安達太良山が計画されています。クラブ員はもとより多くのクラブ員以外の方々の参加を
期待し、当クラブの魅力を認識していただき、出来れば多数の方々に会員になっていただ
-1-
けるよう努力していきましょう。山に登る楽しみ方は種々あることでしょう。百名山,
二百名山、三百名山を目指して登る人、高い山から順番に登りその達成感を味わうために
登る人、高山植物の素晴らしさに魅せられて登る人、頂上からの素晴らしいパノラマに魅
せられて登る人等々様々です。会員の皆さんには何か目標を持って山に登ることを心掛け
て頂きたいと思っています。新しいことにチャレンジし新たな世界を築き上げていくこと
もいいでしょう。登ったことのない山にチャレンジすること、技術的に自分のレベルより
少し高い山にチャレンジすること、今まで経験した山より少し急峻な山にチャレンジする
こと。当然山行にはリスクが伴います。そのリスクをいかに自分の技術や経験、知識のレ
ベル内に抑え込むことがチャレンジの必要条件となります。その為には自分の技術、経験、
知識レベルをしっかりと把握し、自分のレベルからはみ出したリスクを確実に手の内に入
れ管理を確実に実施することが必要となります。それ無くしてこの実現はありません。己
を知りリスク管理を着実に行えばチャレンジと安全第一は決して矛盾するものではありま
せん。
日本百名山の著者である深田久弥は百名山を認定する判断条件として品格、歴史、個性
を重視しました。当山行クラブは歴史のあるクラブです。今年で 23 年もの永きに渡り飛躍
して参りました。今後も一層の飛躍をしていきたいものです。また歴代の会長のご指導と
会員の皆さんのご努力により品格も決して劣るものではありません。この品格を更に高め
るべく努力していきたいものです。更に環境登山やオープン山行、年間 30 回以上の山行計
画と実行は個性的で魅力ある山行クラブを物語っています。今後とも会員・会友の皆さん
のさらなるご協力でこの栄光を続けていけるように努力したいと思っています。
参考情報
長野県内山岳遭難発生状況(平成26年1~12月)
年齢別比率
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長野県警のデータより
北海道山行ツアー第2弾 (百名山 4 座の踏破を目指して)
~トムラウシ山、羅臼岳、斜里岳、雌阿寒岳~
小田 憲和
昨年の東北・北海道山行ツアーに引き続き、同じメンバーを中心に北海道山行ツアー第 2
弾を計画した。メインの山行はトムラウシ山と羅臼岳であるが、道東の斜里岳と雌阿寒岳の
百名山 2 座を加え、計 4 座の踏破を目指した。今年は海堀さんの高校同窓生である清原夫妻
とも随所で合流し、キャンプ(自炊による夕食)を楽しみながらの山行ツアーとなった。山行
ツアー計画は 5 月下旬頃から着々と進め、6 月下旬までにフェリーをはじめ宿泊施設の予約
などは全て完了して、心は北海道に飛んでいた。しかし、自然は北海道山行ツアーを楽しみ
にしていた我々に、容赦ない試練を与えてきた。季節はずれの台風が南太平洋に発生し、我々
がフェリーで出発する 7 月 12 日頃には関東に上陸するような勢いで接近してきたのである。
幸いにも台風の上陸は免れたが、海は台風の影響でおお時化となっており、7 月 10 日時点
で 12 日の大洗発苫小牧行きフェリーの欠航が決まり、計画を変更せざるを得なかった。幸
いにも 7 月 13 日夜の八戸発苫小牧行きのシルバーフェリーは運航しており、予約すること
が出来たので、13 日の早朝から八戸に向け高速道路をひた走り、予定どおり 22:00 発のフ
ェリーに乗船した。当初計画より約 16 時間遅れではあったが、14 日朝 6:00 に北海道苫小
牧港に無事上陸することができた。当初から 13 日、14 日は移動日(苫小牧からトムラウシ
温泉「国民宿舎・東大雪荘」へ移動)としていたので、13 日の占冠キャンプ場のバンガロ
ー泊をキャンセルしたが、15 日以降の山行は当初計画通り実施できる運びとなった。
15 日はトムラウシ山山行、16 日は移動日(トムラウシ温泉から知床のウトロ)、17 日は羅
臼岳山行、18 日は斜里岳山行、19 日は雌阿寒岳山行を計画とおり実施し、20 日の午前中に
予定通り苫小牧へ戻ってきた。苫小牧では港町の「ぷらっとみなと市場」と「イオンモール」
でお土産を買いゆっくり寛いで、夕方(18:40 発)の大洗行きフェリーに乗船し帰途に着
いた。
今回のツアーでは総じて天候には恵まれ素晴しい展望と高山植物を愛でながら、山行を
楽しむことができた。特に印象に残っているのは、トムラウシ公園の奇岩と白い雪渓、小
川のせせらぎと高山植物が調和した素晴しい自然の造形美、羅臼岳でのヒグマとの遭遇、
斜里岳の渡渉と滝の水しぶきを浴びながらの登山である。唯一の心残りは、当ツアー最後
の雌阿寒岳山行であった。清原婦人を加え初めて5人で登り、山頂からの素晴しい眺望を
楽しむ予定であったが、残念ながら強風雨と濃霧にたたられ、視界は数 10m と悲惨な状況
で、眼下のオンネトーや阿寒湖を始め阿寒富士や雄阿寒岳などの周辺山々の眺望すら全く
無かったことである。今回は山頂で記念写真を撮ってすぐに下山したが、何時か機会を捉
えリベンジ山行に来て、素晴しい展望を想像するのではなく、自分の目で是非確認したい
と思う次第である。以下に各山行を振り返って印象に残った出来事や思い出を踏まえ、そ
れぞれが胸の内を文章としてしたためた。
☆ トムラウシ山山行:海堀(早)
☆ 羅臼岳山行
:小田
☆ 斜里岳山行
:荒井
-3-
-4-
長かったトムラウシ山
海堀
早苗
八戸フェリーから苫小牧の港に降りた去年のメンバー4人と友人夫婦6人組は、朝食を
食べに港市場へ。名々イカ刺、シャケ、
ホッケ定食を食べて、登山隊はトムラウ
シ山に登りに「東大雪荘」を目指します。
友人夫婦は、三日後のキャンプ地での合
流まで気ままな旅へ、ひとまずお別れ。
碁盤の目状の北海道らしい真っ直ぐな
道を走ってトムラウシ温泉へ。登山口ま
での下見も済んで、宿舎の駐車場にて荷
物を広げ、明日の準備。入館して「温泉
だ!!」
・・・と、そこまでは良かった
早朝の港市場で朝食
のですが、私、東京から車、船、車と乗り継いで来た疲れが出てダウン、何も食べられず
寝てしまいました。二時間後、気分が回復したので、寝仕度をして改めて寝ました。
翌朝、トムラウシ山まで、日帰り10時間で往復出来るコースに出発。天気は上々、4
時45分に登山開始、カムイ天上からコマドリ沢の雪渓等々、結構なアップダウンの道の
りです。登って登って降りて登って、行動食を食べ、休憩を交えながら、トムラウシ山に
近づいて行きました。前トム平にて、ナキウサギを待っている人に出会いましたが、その
姿を見ることはありませんでした。又々登って行くとトムラウシ公園を見下ろせるピーク
に出ました。この自然の造形は素晴らしく、岩と花と水の織りなす、まさに神々の遊ぶ庭
園といえる様です。小さなエゾコザクラが群落し、風に小きざみに揺れていました。
そこを過ぎ、南沼分岐点までは長~い道のりです。目を楽しませるコマクサ、イチゲ、
イワイチョウ等の高山植物が咲き誇っていました。山頂まで30分のその分岐点に来まし
たが、そこからは、雲が流れ時おり突風が吹きあおる、岩ゴロゴロの急登の歩き辛い道で
した。ようやく着いた山頂(2,141m)
、歩行時間7時間掛っていました。
トムラウシ公園にて
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ハクサンイチゲとツガザクラのお花畑
写真を撮り、又同じ道を帰ります。振り返って見る王冠形態の山頂は、雲が流れ、山が
隠し、すぐ見えなくなりましたが、反対の帰路目線では雲が晴れ、十勝岳、前富良野、美
瑛富士三山がくっきり見えました。ト
ムラウシ公園を登り降りし、前トム平
にて、またまたナキウサギの声だけを
耳にしましが、姿を見ることは無く、
キタキツネの姿だけ写真に納め降りて
行こうとした時、私・・・両膝の痛み
に耐えられずブレイク!!
リーダー
にリュックを持ってもらって、ダブル
トムラウシ山頂にて
ストックで歩きはじめたのですが、足を下ろすたび
に痛タ、痛テという状態です。コマドリ沢の雪渓を
下り、急登を登って、カムイ天上までの尾根道の長
かったこと・・・
日の長い夏場で本当に助かりました。段差のある
下りは痛くて(心の中では泣きながら)やっとやっ
早キタキツネ@前トム平
と車のある登山口に到着、14時間掛りました。同
行の方々、そして山、岩、樹など自然のあらゆる神に無事登って帰って来られた事を感謝
です。また、この辛い行軍が思い出になるには、少し時間がかかりそうです。
なお、次の日の羅臼岳はスル―しましたが、斜里岳と雌阿寒岳は登れました。
以 上
-6-
羅臼岳山行~ヒグマとの遭遇~
小田
憲和
7月17日早朝(4:00 過ぎ)に知床国設野営場で海堀夫人(早苗さん)に見送られて岩
尾別温泉の登山口へ向かった。15日のトムラウシ山行で膝痛に苦しんだ早苗さんが大事
をとってパスすることになったので羅臼岳は3人での山行となった。早朝は山頂付近にガ
スが掛かっていたが、徐々に晴れ間が覗くようになりマズマズの山行日和となった。
岩尾別温泉登山口(ホテル“地の涯”
)の駐車場に 4:30 頃到着し、早々に身支度を行い、
軽く朝食を済ませて登山口そばの木下小屋へ向かった。知床はヒグマが多く生息する地域
で、頻繁に出没することでも良く知られている。昭文社の地図にも今回の登山ルート上に
は「熊出没頻度が非常に高い」と記された所が 2 箇所あり、いつになく緊張を余儀なくさ
れた。熊情報を得るために木下小屋を訪れ、少しは安心できる情報を期待して小屋の主人
に熊の出没情報を確認したところ、主人曰く「熊は頻繁にでて
おり、多くの登山者が熊に遭遇しているが、襲われたと言う話
は聞いてないので心配しすぎる必要はない」との事であった。
少し安堵したが、心の中では熊に遭遇しないことを密かに願っ
た。また、万が一の遭遇に備え、昨年の北海道山行(幌尻岳、
十勝岳)のために購入・持参した「熊撃退スプレー」を今回も
所持し、ザックのハーネスに固定したペットボトルホルダーに
セットした。ただ、心の奥底では「熊撃退スプレー」を使用す
る必要は決して無いだろうという強い期待から、噴射レバーを
結束バンドで固定したまま所持していたのである。
登山口で入山届けをポストに入れ、熊情報と「熊撃退スプレ
ー」の持参で多少の安心感を抱いて登山を開始した。今日はす
っきり晴れ渡ってはいなかったので、北方領土を遠望することは出来なかったが、
「オホー
ツク展望」辺りから眼下に知床五湖やオホーツク海に浮かぶ遊覧船を眺めることで、清原
夫妻と早苗さんの知床観光に思いを馳せることが出来た。また、ここから 650m岩峰あたり
の登山道では蟻の巣が多いらしく、随所に蟻の大群を見かけた。ヒグマはこの蟻を食べる
ためにこの界隈に頻繁に出没しているとのことであったが、今回はこの付近でヒグマに遭
遇することも無く、予定より若干早く「弥三吉水」に到着した。この水場は水量も豊富で、
シーズンを通して涸れることは無いそうだ。水場の奥には数張りがはれるテント場があり、
ヒグマさえ出なければ絶好のテント場である。
我々はここで小休止し、行動食を腹に入れ、汗まみれの顔や頭およびタオルを洗ってリフ
レッシュした。ここから少し進むと登山道の傾斜が緩やかになってきた。ダケカンバの木々
-7-
が雪の重みで、地面を這うように成長している。この一帯は「極楽平」と呼ばれ、厳しい
急登から一時的に開放され極楽気分になれる所である。
「極楽平」を後に仙人坂をジグザグ
に登りきると「銀冷水」に到着した。ここもテント場となっており木陰には携帯トイレ用
のトイレブースまで設置されていた。
「銀冷水」は沢水で水量も比較的豊富であったが、水
溜りにはボウフラのような微小生物が活発に動いていたので、とても喉を潤す気になれな
い代物であった。しかし、別パーティーの登山ガイドが少し上流で水を汲み、飲んでいた
ので、そのパーティーの登山者もこの沢水を躊躇無く飲んでいた。エキノコックス菌のこ
とを知ってか知らずにかは定かでないが、ガイドブック等に要煮沸と明記されているから
には、それに従った方が賢明だと感じた次第である。
ここまでは順調に登ってきたので、ヒグマのことは殆ど忘れていた。むしろ大沢に残る雪
渓を登るのに軽アイゼンを履くか否かが脳裏を霞めていた。「銀冷水」から約 25 分で大沢
入口に到着し、雪渓が目の前に現れた。長さは 400 から 500mはありそうだ。雪渓に入る前
に雪質を確認すると、表面は粗目状で多くの登山者の踏み跡が確りしたステップになって
いるのでアイゼンは着けなくても大丈夫と判断しゆっ
くり登ることとした。ただ、雪渓の末端は凍結しスリ
ップの可能性があるので特に慎重に歩いた。大沢雪渓
を上りきった所からお花畑が随所に見られ、特にエゾ
コザクラやチングルマの群生は見事であった。
羅臼平まであと 20 分くらいと思いながら可憐な高
山植物を愛でながら登ってゆくと、岩陰にいた登山者
エゾコザクラ
が「この岩の先の登山道に脇の獣道から熊が出てきた」
と動揺を隠しきれない様子で我々に教えてくれた。実際にこの目で確認しようと、近くの
岩の上から前方を見ると、20~30m先に黒い巨体のヒグマがおり、食事をしているようで
あった。一瞬「この巨体のヒグマに襲われたら即死だ」となんとも言えない不安感がよぎ
った。安心感を得るために持参した「熊撃退スプレー」も噴射レバーを結束バンドで固定
しており、すぐに使用できる状態には無い。今のうちにスタンバイしなければと思い、カ
ッターを探したが、今日に限っていつもの袋に
入ってない。焦って同行者の荒井さんに確認し
たが持っていない。幸いにも海堀さんがナイフ
をザックに忍ばせていたので、それを借りて結
束バンドを切り、「熊撃退スプレー」をスタン
バイさせた。漸く気分的に少しは落ち着いたも
食事に夢中のヒグマ
のの、風向きやヒグマとの距離を考えると本当
に落ち着いて効果的な使い方が出来るのか?
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不安で自信がない。今回のヒグマとの遭遇は、熊が食事に夢中で我々登山者を無視してい
たので、熊との距離を保ちながら前進と停滞を繰り返し、熊が立ち去るのを約 1 時間待つ
ことで難を逃れた。これも他のパーティーを引率していたガイドの熊に遭遇した時の手馴
れた行動が非常にわれわれの助けになった
し、参考にもなった。ヒグマは羅臼平のハイ
マツ帯の中をノッソノッソと去って行った
が、暫くは山頂を目指しハイマツ帯の登山道
を進むので小生が先頭を歩くことにした。ハ
イマツ帯を過ぎて急登の岩場に差し掛かる
辺りで海堀さんと先頭を交替し、背後からの
羅臼平から山頂を望む
熊出没に備えた。
熊の出没で羅臼平までの登山道では、周囲の景色や高山植物を楽しむ心のゆとりは無か
ったが、羅臼平に到着して漸く平常心に戻り、
風景を楽しむ気分になったように思う。羅臼
平から眺める岩だらけの山頂は荒々しく雄大
で堂々とした溶岩ドームをなしており、是非
山頂を極めたいと思わせる魅力的な山だと感
じた。羅臼平から約 1 時間で山頂に立ったが、
眼下の羅臼平とその先の三ツ峰の景色も素晴
しく、ヒグマとの遭遇という難を逃れて、山
頂に立てたことで喜びもひとしおで感無量で
羅臼岳山頂にて
あった。ヒグマとの遭遇で約 1 時間ロスしたが、定期的な小休止の度に行動食をとるなど
して、休憩時間を短くすることで、結果的に 20 分程度の遅れで登山口へ下山した。
羅臼岳山行は標高差 1450m、歩行距離が 13.5km、所要時間8~9時間と体力的にもハ
ードであったが、ヒグマの出没で精神的にもクタクタの厳しい山行となった。下山後は岩
尾別温泉の露天風呂(無料)で疲れを癒し、本日の宿泊地、斜里町清里のオートキャンプ
場を目指した。
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斜里岳山行~シャワークライミング~
荒井
克益
7月18日早朝5時、ツアーに同行していた清原夫妻に見送られながら、清岳荘登山口
から登り始めた。天候は晴れ、気持ち良い朝だ。メンバーはリーダーの小田、海堀夫妻、
荒井の4名。
標高 1,547m の斜里岳は、日本百名山(深田久弥)および花の百名山(田中澄江)にもリ
ストアップされており、昨日登った羅臼岳など知床連山と明日登る予定の雌阿寒岳など阿
寒・摩周火山群をつなぐ位置にあって、斜里川(「シャリ」は、アイヌ語の「サル(葦のある
湿原)」が訛ったもの)の水源を持つため斜里岳と呼ばれているが、昔は遠音別岳、海別岳
とともに、アイヌ語のオンネヌプリ(オンネ=親、ヌプリ=岳、山の意)と呼ばれていた
らしい。事実、今回持参した地図にもオンネヌプリと括弧書きされていた。
出発して30分程で、一の沢川に出会う。ここから次のポイント下二股までに10回以
上渡渉を繰り返す。
“渡渉”で思い出すのは、昨夏同じメンバーで挑戦した幌尻岳だ。その
時の額平川は膝上までの水深があり、かつ20kg 近い荷物を背負っていたため、かなり神
経を使った記憶がある。今回は渡渉ポイントを誤らなければ水深は登山靴の甲が水を被る
程度の箇所がほとんどで、ザックが軽いこともあり緊張感はあまりない。時々首に巻いた
タオルを冷たい沢水に浸して汗をぬぐうとなんとも気持ちがいい。そんな時、先導役の海
堀さんが“イタツ!”と声を上げ、頭を手で押さえている。よく見ると額に一筋の血が・・・
・。
沢沿いの登山道上には頭の高さに木の枝がたくさん出ているので、渡渉にだけ注意を集中
していると危ないと皆気を引き締めた。応急処置をして再びスタート。
出発から約1時間、6時過ぎ旧道と新道に分岐する下二股に到着、暫しの休憩。ここか
ら旧道コースに入ると、7滝を巡りながらの沢登りが始まる。ここから上二段までがこの
コースのメインイベントだ。最初に現れたのは水蓮ノ滝、更にしばらく登ると溶岩流の上
を流れるナメ滝の羽衣の滝、そして万丈の
滝が現れる。白い水しぶきを上げる滝は真
夏の暑さを忘れさせてくれる。沢岸にはラ
ショウモンカズラの青い花が水しぶきを
浴びて美しく輝いている。
(前を行く海堀
夫人に訊いた名前)危険箇所には鎖やロー
プが設置されているところもあるが、水し
ぶきに濡れた大きな岩を両手両足でグリ
ップしながら乗り越えなければならない
ラショウモンカズラ
箇所もある。我々の前を行くツアーグルー
プ最後尾のおじさんが手を滑らせて2~3mズルズルと滑り落ちるのを目の当たりにして、
“危ない!”と思わず声をあげる場面もあった。やがてたどり着いたところが見晴ノ滝。
振り返ると清里の町並みだ。残念ながらその先のオホーツクの海は霞んで見えない。この
-10-
先、沢は流れの幅を小さくかつ急に
しつつ、階段状の岩場となり、七重
の滝、竜神の滝、霊華の滝と続く。
最後の霊華の滝の水際を水しぶきを
浴びながら登る海堀さんに下から逆
光の中でカメラを向けると、水しぶ
きが白く輝き、まさに“シャワーク
ライミング”のお気に入りの一枚が
撮れた。北海道ツアー出発前にいた
霊華の滝にて
だいた長谷川さんのメールに、
「斜里
は“シャワークライム”を楽しんで下さい。
」とあったのを思い出した。
下二股出発から約2時間の沢登り、8時に上二股に到着した。ここで新道と旧道がふた
たび合流して山頂を目指す。信仰の山らしく沢を横断するように張られた注連縄をくぐり
小さな流れになった沢道を歩き、それに続く低木が覆い被さりトンネルのような細い登山
道を抜けると、胸突八丁のきつい傾斜のガレ場が待っていた。ここを登り切り、8:45
馬の背(1,430m)に到着。ここまでくると高木は無く見通しがきく。北東に人影のある斜
里岳山頂、南東に南斜里岳が間近に見える。
山頂に向け岩礫の急な尾根道を登り始めると、いろいろな花々が迎えてくれる。チシマ
ノキンバイソウ、エゾツツジ、チシマフウロウ、トカチフウロ、ミヤマダイコンソウ、キ
タヨツバシオガマ、チシマギキョウ、ハイオトギリ、エゾゼンテイカ、ミヤマオダマキ・・
・。
途中、斜里岳神社にお参りし、右側が深
く切れ落ちた細い稜線を過ぎ溶岩ドーム
でできたといわれる山頂に到着したとこ
ろで、早めの昼食。
(9:15)山頂から
の眺めは、時折ガスの切れ間から南斜里
岳やこれから下山する熊見峠の尾根ルー
トが見えたが、知床の山並みやオホーツ
ク海は雲海の彼方であった。
下山に利用した新道コースは、熊見峠
まではハイマツ帯の緩やかなアップダウ
斜里岳山頂にて
ンを繰り返す尾根道だ。途中振り返ると今登ったばかりの斜里岳が美しい山容を見せなが
ら見送ってくれているようだ。また道沿いでは珍しいシロバナエンレイソウを見ることが
できた。11:25熊見峠到着。ここから下二股まで400mを一気に下る急坂が続き、
疲れた足には結構きついコースであったが、下二股からは登りと同じ一の沢川の渡渉で靴
の汚れと疲れを洗い流しながら、13:50清岳荘登山口に到着した。全行程約9時間の
シャワークライミングを満喫した山行だった。
-11-
平成26年8月記
針ノ木岳山行記
杉山 修二
針ノ木岳は後立山連峰に属する標高 2821m の山で、鹿島槍ヶ岳(2889m)に次ぐ標高を持
ちながらその全面に位置する蓮華岳(2799m)のどっしりした山容に遮られ、大町からは見
ることができない。今回の山行は針ノ木岳、蓮華岳に登る 3 泊 4 日(1泊は車中泊)の計
画で八木さん、原さんと小生の3名で実施した。
針ノ木岳の名前の由来は諸説あり定かではないが、一説ではこの付近にはミヤマハンノ
キが多く生えており、ミヤマハンノキの別名が針ノ木でありこの名前がついたと言われて
いる。また針ノ木岳の麓に位置する針ノ木峠は佐々成政の「針ノ木峠越え」で有名である。
天正12年(1584 年)富山城主の成政は小牧長久手の戦いで秀吉と和議を結んだ家康を再
考させようと、厳冬の飛騨山脈(北アルプス)・立山山系を自ら越えて浜松へと踏破し家
康に再挙を促した。しかし命がけの説得も適わず家康の説得に失敗し、とうとう秀吉に富
山城を包囲されその翌年秀吉に降伏した。一命は助けられたものの全ての領土を没収され、
妻子と共に大坂に移住させられ、以後秀吉に仕えた。その後九州征伐で功をあげたことを
契機に肥後(熊本)一国を与えられたが「肥後国人一揆」を自力で鎮めることができなか
ったという汚名を着せられ、秀吉に切腹を命ぜられて 53 歳の若さでこの世を去った。針ノ
木峠越えは真実でなかったのではという説もあるが、壮絶な成政の一生を思うとまさに生
死を掛けた究極の選択が「針ノ木峠越え」であり、真実であったろうと思わざるを得ない。
そんな歴史的背景を思い描きながら針ノ木岳、蓮華岳山頂を目指した。
平成 26 年 7 月 22 日 22 時、新宿高速バスターミナルに集合し 23 時新宿発の夜行バスで
出発。人気のルートであるため満車。一路扇沢を目指して出発。途中 2 か所のトイレタイ
ムと 1 か所の運転手の休息タイムがあり長時間連続して走行することはない。なかなか寝
付かれないまま、23 日の 4:45 に扇沢に到着。やはり夜行バスは難儀だ。
天気は良好で、頂上から北アルプスの遠望が期待できる。朝食は持参した食料の中から
選び食するが、あまり食欲がない。しかし食べ
ないとこれからの行動に差し支えるので少し
無理して何とか押し込んだ。準備を整え、5:55
に登山届を提出して登山開始。
緩やかな山道を登る。途中何ヶ所か林道を横
断し、20 分程度で登山口に到着。遥か遠方に針
ノ木岳の頂上付近を見ることができ、期待に胸
を膨らませる。少し気温は高めであるが、天気
は大丈夫のようだ。至る所に大きな石がゴロゴ
-12-
大沢小屋
ロする山道を 1 時間ほど登ると大沢小屋に到着。扇沢から 3km の地点だ。この大沢小屋と
今日宿泊する針ノ木小屋は百瀬慎太郎が開いた山小屋だ。百瀬慎太郎は明治 25 年大町市で
生まれ、大正 6 年に山案内人組合を日本で初めて設立等大町を中心に活躍した北アルプス
「山を思えば人恋し、人を思えば山恋し」は特に有名な言葉で大沢小屋の
開拓の先駆者だ。
入口の岩にこのレリーフが掲げられている。頂上付近の状況を管理人に確認し 15 分ほど休
憩後出発。
大沢小屋から 30 分ほどで針ノ木雪渓に到
着(8:00)
。アイゼンを装着して雪渓のアタ
ックを開始(8:10)かなりの傾斜がある雪渓
だ。至る所に落石が転がる。登山者は少なく、
雪渓上にポツポツとみられる程度だ。八木さ
んを先頭に原さんを真ん中にして 3 名縦に
連なり黙々と雪渓を登る。後ろから単独行の
登山者に追い抜かれたが、それでも我々は少
し早目と感じつつペースを維持しながら懸
針ノ木雪渓にて
命にアタック。下山途中のパーテーにも何回
か遭遇したが、余り疲れた様子はない。下山は楽々であるがやはり登りはきつい。雪渓上
ではザックを下しての休憩ができず、ザックを背負い立ったままでの休憩となるので十分
に身体を休めることができない。雪渓は針ノ木小屋まで続き、途中トラバースルートも確
認できたが、敢えて雪渓のルートを登った。雪渓のルートには小さな鯉のぼりが設置され
ていて危険な個所を回避するために判り易い。登りながら上方の雪渓を眺めると一見その
向う側はフラットな場所が存在し、休息することができると思われるが、期待してそこに
到達すると、そんなフラットな場所は存在せず、延々と雪渓が続いている場面に何回か遭
遇した。
雪渓を 2 時間半ほど登ったころ、やっと針ノ木小屋に到着(10:30)。針ノ木小屋の直下
付近はかなりの急登で一歩一歩喘ぎながらのアタックとなった。体調が十分でないことも
重なり、小屋に到着した時はヘトヘトの状況であった。原さんもかなりの疲労を訴えたが、
八木さんはさすがと思われるほど元気であ
った。天気は良好で針ノ木小屋らの遠望は素
晴らしかった。西側には立山連邦、剣岳がど
っしり雄大な姿を見せていた。東側には槍ヶ
岳や穂高連邦、さらに白馬連山等々が手に取
るように見ることができ大パノラマを満喫。
一休みした後サブザックに必要な物を入
れ替え、装備を軽めにした後針ノ木岳への登
頂を開始(11:10)
。ここからは 1 時間ほどで
頂上に到着予定であるが、原さんと私の体調
-13-
お花畑のイワカガミ
が思わしくなく、少し登ったところでほとん
ど前に進めなくなる。体調が不調なこと、雪
渓を登って体力を使い果たしたこと、さらに
夜行バスでの付けが同時に襲ってきた感があ
り、今まで経験したことがない様な体調の異
変を感じた。しかし折角ここまで来てリタイ
ヤはあり得ないと気力を振り絞り、ゆっくり
と登山を再開。途中お花畑がありイワカガミ、
やったー
針ノ木岳山頂にて
ツガザクラ、シナノキンパイ、ジュウモンジ
ソウ等々の高山植物が咲き誇っていたが、ほ
とんど記憶にないくらい身体は疲れ果てていた。それでも 1 時間 25 分の時間を要して頂上
に辿り着いた。
(12:35)感激の一瞬だ。
天気はややガスが出始めたところで視
界は良好であった。眼下に黒部湖、黒部
ダムの右サイドが確認でき、黒部立山ア
ルペンルートのゴンドラがかすかに確認
できた。頂上でたっぷり時間を過ごし、
昼食を摂ったが体調不良で食事が喉を通
らず、それでもハムと赤飯とジュースを
何とか口に入れ胃に流し込んだ。
黒部湖と立山、剣岳
約 1 時間頂上で時を過ごし、13:30 に
下山開始。
頂上で 77 歳になるという北海道から来た単独行の登山者に遭遇したが、今日我々
と同じように針ノ木雪渓を登り、今日中に雪渓を下る計画だという。なんと健脚な老人だ
ろうと唖然とするばかりであった。再びゆっくりと下山し 14:20 に針ノ木小屋に到着した。
宿泊に受付を済ませ、やっと一息ついた。宿泊客はそれほど多くなくゆっくりと過ごす
ことができた。少し落ち着いたところで針ノ木
岳登頂を祝しビールで乾杯。夕食まではまだ時
間があったのでひと眠りして疲れを癒した。部
屋には他のメンバー 4 名が宿泊、夕食後しばし
の会話を楽しんだ。一人がアマチュアカメラマ
ンで約 20kg の荷物を担いで登山するようだ。一
人はもと筑波大学の先生。残り一人は上越から
の登山客でいずれも単独行の面々だ。色々なキ
ャリアの持ち主がいる。夕食後に雨が降り始め
たが翌日の天気の良好なることを祈りつつ就寝。
-14-
針ノ木小屋での夕食
7 月 23 日
4:30 起床。雨音が激しくかなり強い雨が降っている模様。蓮華岳の登頂を断
念し下山を決めた。元筑波大学の先生や、上越から来た方も蓮華岳を目指した。多分雨は
あがらず、頂上では白一色の世界だろう。
我々パーティーは 7:00 に針ノ木小屋を出発。雨具に全身を包み、豪雨の中を下山開始。
下山当初は雪渓を下らず夏道を 40 分ほど下山。そこからは夏道がなくなったのでアイゼン
を装着。アイゼンをつけて快調に雪渓を下山。アイゼンの威力は抜群だ。急ぎ足のような
スピードで雪渓を下ることができ、約 30 分下ったところでアイゼンを脱着。登りは苦しく、
多くの時間を要するが、下山はかなり速い速度で下山が可能だ。再び一般道の下山となる。
下山に伴い空模様も明るさを増す。針ノ木小屋を出発してから約 2 時間で大沢小屋に到着。
少し休憩後再び下山開始。10:15 に昨日登山届を提出した扇沢に到着。雨の中ではあった
が約 3 時間余りで下山を完了した。天気はかなり回復し雨がほとんど止んだ。濡れ鼠の状
態であったので少し身体周りを整え、バスで大町温泉郷まで行き「弘法の湯」で汗を流し
た。
「弘法の湯」は何回か利用した温泉であり、今回は初めて旧館の湯を利用した。旧館の
湯は中々風情があり客は少なくゆったりと温泉を堪能することができ至福の時を過ごすこ
とができた。
今回初めて本格的な雪渓登りに挑戦したが、やはり針ノ木雪渓は日本三大雪渓の一つだ
けあってかなりハードであることを実感した。特に雪渓登りの途中ではザックを下して休
息することができないことがとても苦痛に感じた。また蓮華岳は残念なことに今回登頂す
ることが出来なかったがまた機会を捉らえて挑戦したい。
平成 26 年 10 月 10 日記
参考情報
夏季(7~8月)山岳遭難発生状況(警察庁)
-15-
白馬岳~不帰ノ嶮~唐松岳縦走を目指して
舩木
健
9月3日(水)5時10分に家を出て待望の縦走に向かう。同行者はIMCの結城・杉山・八木
の3君で、彼らとは千葉発南小谷行特急列車あずさ3号の車内で会う約束になっている。8時
03分、八王子発。その時指定席はほぼ満席であったが、甲府を過ぎるとだいぶん空いた。松
本を過ぎた辺りで4人は顔を揃えた。
11時28分、白馬で下車。駅前で早速タクシ―に乗り込む。15分ほどで栂池高原到着。
天気は曇り空ながらまあまあだ。ここからゴンドラリフトに20分乗り栂の森へ。さらに栂池
ロープウェイ6分で標高1,829Mの栂池自然園に着いた。タクシーを降りた栂池公園駅が8
31Mだったから30分弱で労せずして1,000M登ったわけで、便利だなあ、とつくづく思
う。{小生が1975(昭和50)年夏にそっくりこのコースを登った時はまだこのロープウ
ェイ等の文明の利器はなかった。1993(平成5)年までは自動車で自然園入口まで上って
来られたということだが、排気ガスの自然環境への悪影響を考慮して、翌年これらロープウェ
イ等が架けられたと言う。}
ロープウェイを降りて少し歩いたところに栂池自然園がある。一周5.5KM。ここは我が国
有数の高層湿原で、ミズバショウ湿原をはじめとして、ワタスゲ湿原・浮島湿原・展望湿原と
木道の遊歩道が整備されている。山には登らない一般の人たちも気軽に高山植物などの鑑賞が
できる所だ。ゆっくり歩くと4時間近くかかる(入園料300円)。だが、われわれにはそのよ
うな散策の時間はない。
自然園入口の向い側に栂池ヒュッテと栂池山荘が並んで建っている。その上手にはビジター
センターと栂池ヒュッテ記念館。12時40分、われわれは大きな建物栂池山荘の前に置いて
あるテーブル・椅子で昼食とする。空はどんよりと曇っていて、いつ降り始めるだろうかと気
が気ではない。13時05分、腹ごしらえもできていよいよ登りにかかる。歩行の順番は先頭
が八木君、そのあとに杉山・結城の両君が続きシンガリは小生と決めた。暫くは樹林帯を進む。
徐々に傾斜がきつくなる。
やがて天狗原に着いた。晴れていれば山上の
楽園のような広々とした景色が開けているはず
だ。ここまで1時間15分。呼吸を整えてすぐ
出発。さらに急な斜面を登る。このあたりに来
るとほどほどに残雪が見られる。幅20Mほどの
雪渓を横切る時はいささか慎重になる。ほどな
く乗鞍岳(右手の三角点は2436.4M)着。
大きなケルンが立っている。北アルプス南部に
ある同名の山と区別するため、白馬を頭に付け
-16-
天狗原にて
ることもある。ここからは緩やかな下りだ。霧が濃くなってきた。その切れ間に、火山の堰止
湖白馬大池がかすかに見え始めた。今宵の宿白馬大池山荘はもうすぐだ。池の周囲は約2KM。
南北500Mの縦長形で、その北側の縁を行く。
16時05分、南北に長く赤い屋根の山荘着。池の北西に位置し収容人員200~250名
という大きな山小屋だ。標高2,380M。歩き始めてちょうど3時間。山荘に置いてあるリー
フレット記載の標準コースタイムより20分早く到着。なかなか快調なペースであった。とに
かく降られずに来られてよかった。小屋はあまり
混んでいないようなのでヤレヤレだ。
蚕棚のような2段になった下部スペースにザ
ックを下してまづはくつろぐ。けれども4人一緒
だとかなり窮屈だ。そこで管理人にかけあってそ
の上の段も使わせてもらうことにした。夕食は1
7時30分から。出された料理はカツカレー。ボ
リューム満点で食べきれないほどであった。明朝
は出発が早いので、20時には床に就いた。
白馬大池山荘の夕食のカツカレー
9月4日(木)4時20分起床。5時半朝食。
今日は天狗山荘まで標準コースタイムで7時間の距離を歩かねばならない。山荘の外へ出た。曇
り空だ。が、天気予報は下り坂だという。6時10分、南方向へと登りにかかる。ここからは
登り一方だ。大池を左に見ながらゆっくりと歩を進める。山荘の赤い屋根もだんだん小さくな
っていく。暫く行くと稜線に出た。その先に急な登りが待っていた。一歩一歩高度を稼ぐ。地
形図上でも等高線の目が詰まっている。やがて右手方向に、北から南に延びる朝日岳~雪倉岳
の稜線が見えてきた。あのコースは2005年8月に歩いた。もう9年前のことだ。南西方向
の奥に位置するのが朝日岳(2,418M)。そこから視線を手前に移すと、ずっしりとした山
容の雪倉岳(2,611M)。今いる地点はそれらよりも既に高くなっている。ずっと北には日
本海。街も見える。方角からすると糸魚川市のようだ。
急な登りを終えて、8時05分、小蓮華(これんげ)山頂上(2,769M)着。ここには人が
かなりいた。あたり一面に霧が立ちこめている。い
ったん下った後、ゆるい登り坂の先の、長野・新潟・
富山3県の接点に位置する三国境に着いた。標高は
小蓮華山より18M低い。ここでも周囲は見えず残
念だ。5分休んで白馬岳への、馬の背ともいわれる
最後の登りにかかる。急登の途中、前を行く3人が
ふと立ち止まった。なにごとだろうと彼らが注視す
る左の草むらを見ると、いました、ライチョウの親
子が。母鳥が見守る中、5羽の雛鳥がチョコチョコ
と歩きまわっている。いつ見ても心が和む光景だ。
-17-
ライチョウ
9時50分、白馬岳山頂(2,932M)に
着いた。小生にとっては三度目の登頂だ。晴れ
ていれば大パノラマが満喫できるのに残念無
念。最高所に設置された背の高い山岳方位盤は
全く役に立たない。杉山君による写真撮影を済
ませ、わずか5分留まっただけで下山の途に。
わが国最大の山小屋白馬山荘(1,500人収
容)の前を通過し、10分ほどで下手にある村
営頂上宿舎(1,000名収容)と大雪渓上部
白馬岳山頂にて
を左手眼下に見ながら先を急ぐ。今にも降り出
しそうな雲行きだ。杓子岳に登る分岐点まで来た。右は切妻屋根形山容の西側腹を捲く道、左
はまっすぐ頂上へ続く道だ。ためらうことなく左の急坂へ。岩のゴロゴロしたジグザグ道をフ
ウフウいいながら登る。息遣いはますます激しくなり足取りはさらに重い。
11時50分、杓子岳(2,812M)頂上着。実にしんどかった。前回(39年前)は捲き
道を通ったので、ここに立つのは初めてだ。しかしこの濃霧の中では何の感激もない。すぐ斜
め右方へと下りにかかる。先ほど右に見送った捲き道との合流点を過ぎた辺りで昼食とする。
そのさ中、とうとう降り始めた。食事を中断し急いで雨具を着けて出発。鞍部まで来た。また
登りだ。
13時10分、本日最後のピーク白馬
鑓ケ岳(2,903M)に到達。長い道
のりであった。これから先は下り一方だ。
白馬鑓温泉への分岐を過ぎてひたすら
天狗山荘へと急ぐ。その途次、またもい
ました、ライチョウが。今度は腹面と脚
回りが白くなった6~7羽の成鳥が群
れていた。これは珍しい。成鳥だけとい
うのは初めて見る光景であった。ところ
でそのライチョウだが、以前は全国で約
白馬鑓ヶ岳山頂
3,000羽棲息している、と言われて
いたが、最近の調査では2,000羽足
らずになったという。今日はその内の0.5%も見ることができたので、ラッキーであった。
氷河期生き残りの鳥と言われる貴重な種なのでいつまでも生き残ってほしいものだ。現在その
生存を脅かすのは雛を襲うキツネだが、最近では猿や鹿もライチョウの餌である高山植物の葉
を食い荒らすというから始末が悪い。
漸く天狗山荘がうっすらと見えた。だが、外から見た感じは全くひっそりとしていて果して
中に人がいるのだろうか、と思うほどだ。ともあれ、14時10分到着。ここまでちょうど8
時間、長く厳しい1日であった。村営天狗山荘は標高2,730M、収容人員は200名。白馬
-18-
村振興公社の運営である。入口右側に受付の人がいてやれやれと思った。宿泊手続きを終えて
真っ先にしたことはビショ濡れの雨具をストーブの赤々と燃える乾燥室で乾かすことであった。
所狭しとぶら下げられた先客の雨具の隙間を見つけて何とか干し終えほっとする。それから一
番奥の6人用区画に入り、水分を吸ってずしりと重くなったザックを下した。
夕食は17時30分。それまでまだかな
りの時間がある。山の話や昨日今日見た
花々の話をしながら時を過した。八木君は
高山縮物の名前をよく知っているので感心
した。いよいよ待望の食事時間となった。
料理は盛りだくさんで、ここが人里を遠く
離れた山小屋だろうかと思うほどの品数で
あった。食堂のテレビは明日の天気予報を
やっていたが、残念なことに明日もまだ雨
天が続くと言う。とにかく明朝は5時にこ
こを出発しなければならないので、今夜も
村営天狗山荘での夕食
19時と早々に就寝。
9月5日(金)4時前、3人はもう起き出していた。屋根を叩く雨音がしている。この雨の
中を歩くのかと思うと憂鬱だ。全くついていない。今日は降雨のため急拠当初方針を変更、不
帰ノ嶮縦走は止めにして白馬鑓温泉を経て猿倉へ下ることにする。5時10分、昨日折角乾し
た雨具を再び身に着けて山荘の外へ出る。降りしきる雨の中へ出て行くのは悲壮で、しかも惨
めな思いがする。いったん稜線に出て昨日通った分岐から右へ。ジグザグ道をどんどん下る。
かなりの急坂だ。ところどころにクルマユリが咲いていて雨中行進のわれわれを励ましてくれ
るようだ。途中何箇所か鎖場があって気が抜けない。
全部で5~6か所あっただろうか。この雨の中を登っ
てくる人もいて、大変だなあ、と同情する。やがて行
く手下方に鑓温泉小屋が見えてきてホッとする。
7時半過ぎ小屋着。標高2,100M。白馬鑓ケ岳
東南の急峻な山腹下にあるので、冬季は解体される。
わが国で最高所にある天然温泉のひとつで、登山者以
外気軽に入浴することはまずできない文字通りの秘
湯なのだ。昔(39年前に)私は泊ったことがあるが、
その当時よりも今は建物が大きく立派になっていた。
収容能力150人。小屋の若い女性がお疲れさまと声
を掛けてくれて元気づけられた。20分休んで再び下
山の途に。下り始めてすぐのこと、突然猿が2匹目の
前を横切って行った。
「初時雨猿も小蓑を欲しげなり」
の句ではないが、猿も強い雨に打たれて逃げ走るしか
-19-
白馬鑓温泉
ないようだ。ここから先がひどかった。登山道には雨水が勢いよく流れ、まるで濁った小川だ。
水は靴の中まで入ってきた。ズブズブと気持ちが悪い。行けども行けどもこの濁流下りは続い
た。この辺りから先を行く3人について行けなくなった。彼ら3人の平均年齢は66.6歳、
私は76.9歳だから10歳の開きがある。自分の体力の無さを正当化する気はないが、やは
り60歳台の若い人には叶わない。
下り一方だった道が途中から登りになった。小日向(おびなた)山をどうしても越えなけれ
ばならない。やがて左手に小日向と書かれた所まで来た。3人は此処で待っていてくれた。そ
こからまた下る。実に長い下りだ。3人にはどうしても追いつけない。雨中を1人で歩いてい
ると、いささか疎外感を味わわざるを得なかった。この最後の下りのコースタイムが2時間と
いうことはあらかじめ知ってはいたもののそれにしても長いと思った。猿倉はまだかーっと大
声で叫びたい気持ちであった。正午前、漸く林道に出た。ここまでくればもう猿倉は近い。そ
の林道で彼らは5分ほど私を待ってくれていた。
12時05分、村営猿倉荘着。天狗山荘を
出てからちょうど7時間。2泊3日、30KM
に及ぶ縦走はここで終った。取るものもとり
あえず、ズブ濡れの雨具を脱ぎ捨てると漸く
人心地がついた。早速ビールで乾杯し、続い
て昼食。冷たい弁当だったが、腹ペコのわが
身にとっては実にうまかった。13時過ぎ、
呼んであったタクシーに乗り込み白馬駅へ
と向った。
村営猿倉荘でカンパーイ
2日目・3日目は雨にたたられたが、総じていい山行であった。降雨を気にしながらも未踏
の杓子岳の頂上に立てたし、IMCの若くて馬力のある仲間3人とも楽しく歩くことができた。共
に大きな収穫であった。
<完>
9月24日記す
-20-
三溪園散策
(三田あるこう会第 462 回)
三木 雅雄
平成 26 年 11 月 2 日(日)天候・晴れ、気温 15.4~22.4 度 距離 4.2 ㎞
天気予報では雨との予報であったが、前夜から快晴となり定刻 10 時半にJR根岸線根岸
駅に集合したのは 18 名。米寿の高田先輩始めみなさん元気いっぱい。当番幹事から本日の
コースと時間の説明がある。
10:55 発の横浜市営バスに乗って、本牧三溪園南門前で下車、三溪園南門(上海横浜友好
公園・横浜市陶芸センター)へ向かう。道の右手に幾つものテントがあり、弁当や飲み物
屋が並んでいる。右手に蓮池があり中国風の白壁と屋根の四隅の軒が吊り上った建物が続
く。やがて前方に高さ 30 メートルはあろうかと思われる上部を松に覆われた白い岩の崖が
表れる。振り返れば日本石油根岸製油所の煙突が蓮池の中国風建物の向こうに聳えている。
南門から入って中国梅林の横を通って管理事務所の前でボランティアガイド2名と合流す
る。
三溪園は生糸貿易により財を成した実業家 原 三溪に
よって、1906 年(明治 39)5 月 1 日に公開された。175,000m2
(5.3 万坪)に及ぶ園内には京都や鎌倉などから移築され
た歴史的に価値の高い建造物が巧みに配置されている 。
(現在、重要文化財 10 件 12 棟・横浜市指定有形文化財 3
棟を含めて17棟あり、神奈川県内の重要文化財 16 棟の
大半を占める。
)
東京湾を望む横浜の東南部・本牧三之谷に広がる広大な
土地は、三溪の手により 1902 年(明治 35)頃から造成が
始められ、1914 年(大正 3)に外苑、1922 年(大正 11)
に内苑が完成。原三溪が存命中は、新進芸術家の育成と支
三渓園
援の場ともなった。本人も漢詩、書道、日本画をよくし、
住所の本牧三之谷にちなんで雅号を「三渓」と称した。
その後、戦災により大きな被害をうけ、1953 年(昭和 28 年)、原家から横浜市に譲渡・
寄贈されるのを機に、財団法人三溪園保勝会が設立され、復旧工事を実施し 2007 年国の名
勝に指定される。
ここから 2 班に分かれてガイドの倉田さんの案内で内苑と記念館のツアーに出発する。
先ず住居としていた内苑入口の⑦御門は、京都東山西方寺の薬医門を大正時代に移築した
大規模なもので、長いアプローチの先に臨春閣入口が見える園内随一の写真スポット。
通路右側の⑧白雲邸は隠居所として三渓が夫人とともに暮らした数寄屋風建築で蔵はコ
ンクリート製である。⑨臨春閣は
江戸時代紀州徳川家初代徳川頼宜が紀州紀ノ川沿いに
建てた数寄屋風書院つくりの別荘を 1917 年(大正 6 年)移築したもの。内部には狩野派な
-21-
どの絵師による花鳥の障壁画複製や波の模様や和歌の欄間など洗練されたデザインが各所
にみられる。平屋 2 棟、2 階建て1棟が雁行型に池の向こうに並び、第一屋に玄関がある。
第二屋、第三屋から池越しに正面に眺められる②旧燈明寺三重塔は松に包まれて満月の頃
や 400 本ある桜の花見時期には、京都に遊ぶ心地して多くの行楽客でにぎわうという。
池に沿って右へ曲がると豊臣秀吉が生母大政所長寿祈願の為京都大徳寺に建てさせた⑩
旧天瑞寺壽塔覆堂(生前墓を収めるための建物で墓は大徳寺にある。
)には五三の桐もどき
の模様がある。桃山時代(1,591 年)に建築、旧大徳寺塔頭天瑞寺より 1905 年(明治 5 年)
移築。小流れにかかる鞍馬石の橋はぬれると赤変するという。
谷の右側石段を10mほど登った処から振り返ると紅葉の頃、桜の頃の旧燈明寺三重塔
の姿は素晴らしい。京都で撮った写真だと言っても疑う人はまずいないと言う。
最高所にある伏見城の大名控え所だったという江戸時代の⑪月華殿(1917 年)
、原三渓構
想による広さわずか約 1.8 畳の⑫一畳台目の茶室・金毛窟、(1918 年、大正 7 年)、鎌倉建
長寺近くの心平寺の禅宗様地蔵堂を移築した⑬天授院、江戸時代(1651 年)の三つがある。
ここから谷の右手の石段を下ると江戸時代二条城内にあった徳川家光・春日局ゆかりの
建物で 1922 年(大正 11 年)に移築された⑭聴秋閣があり、前後左右シンメトリーになっ
ていない設計で、二層の楼閣風の軽妙な意匠によって臨春閣と並んで著名である。金閣寺
などの寺や城の設計ではよくある例だと言う。藤棚の先にある三畳台目(3.8 畳ほど)の茶
室⑮春草廬は織田信長の弟・茶人織田有楽斎の作といわれる。
原三渓構想の茶室⑯蓮華
院(1917 年作)から左の三渓記念館へ向かう。
三渓記念館は平成元年完成の大江宏の設計による展示施設で、若き芸術家の支援や、関
東大震災後の横浜の復興など多方面にわたって尽力した三渓の業績やゆかりの資料、自筆
の書画、ゆかりの小林古径、前田青頓、横山大観、下村観山等作家の作品や美術工芸品、
臨春閣の障壁画などを展示、茶席・望塔亭、ミュウジアムショップも併設している。
原三渓の碑の前で記念撮影して、以後外苑での自由行動となる。
山の上の古塔仰ぎゆく池そひ道風やはらかにうみよりいたる
佐々木信綱
鴨の嘴よりたらたらと春の泥
高浜虚子
有志と高浜虚子の碑を見た後丘の上の②旧燈明寺三重塔を目指す。室町時代(1457 年)
建設で 1914 年(大正 3 年)移築されたもの。京都木津川市の燈明寺(廃寺)にあったもの
で、関東地方にある木造の塔では最古。
ここから南へ少し坂を登ると松風閣(展望台)
があり、祖父善三郎が最初に山荘を立てた場所である。崖下は製油所、LPGタンク、造
船所等工業地帯、住宅地帯である。かって白砂青松の海岸で、海水浴、舟遊び、魚釣りで
にぎわったのであるが、1964 年東京オリンピックの前年から埋め立てが開始され今ではそ
の面影は欠片も残っていない。
-22-
階段を下りて右へゆくと宋徧流林祠会から 1970 年に寄贈された茶室③林祠庵がありその
先左側に、田舎屋風草庵④横笛庵がある。右手梅林を眺めながらすすむと、正面に縁切り
寺で有名だった鎌倉の禅宗様の仏堂・⑤旧東慶寺仏殿が 1907 年に移築されている。
左隣に飛騨白川郷にあった唯一建物内部が見学できる旧矢篦原家住宅(合掌造り)がある。
式台玄関、書院つくりの座敷など接客の空間を備え、飛騨三長者の一人と言われた生活の
様子がうかがえる。屋内には飛騨地方の民具が展示され、囲炉裏では毎日薪がくべられ、
黒光りした柱や煙の臭いが昔の生活をしのばせる。ついで三重塔と同じく京都燈明寺から
移築された⑥旧燈明寺本堂と三溪園天満宮をみて、正門前出口へ着く。
原 三溪(本名富太郎)(1868 年/慶応 4-1939 年/昭和 14)現在の
岐阜県岐阜市柳津町で代々、庄屋をつとめた青木家の長男として
生まれた。幼少の頃から絵、漢学、詩文を学び、1885 年(明治 18)
東京専門学校(現早稲田大学)に入学、政治・法律を学んだ。1888
年(明治 21)頃に跡見女学校の助教師になり、1891 年(明治 24)
に、教え子であった原善三郎の孫娘、屋寿と結婚し、原家に入籍。
原家の家業を継ぐと、個人商社を合名会社へと改組、生糸輸出を
原
三渓
始めるなどの経営の近代化と国際化に力を入れ、実業家として成
功を収めた。富岡生糸場等工場を全国各地に持ち、帝国蚕糸社長、
横浜興信銀行(現横浜銀行)の頭取となる。実業家以外にも様々な面を持ちあわせた三溪
は、住まいを本牧・三之谷へ移すと古建築の移築を開始し、建築、造園、植栽を自ら指揮
し、1906 年(明治 39)三溪園を無料開園するほか、美術品の蒐集や芸術家の支援・育成を
行い、
1923 年(大正 12)の関東大震災後は、横浜市復興会長に就任し、それまでの作家
支援を止め荒廃した横浜の復興に力を注いだ。三溪自身も書画をたしなみ、その作品の一
部は、園内の三渓記念館に収蔵されている。
お待ちかねの昼食は正門から徒歩 10 分ほどの中華料理「桃李」で丸テーブル 2 卓に分か
れる。笠原会長から「先月は台風で延期となり 2 ヶ月振りの会となった。天気も環境も建
物も記念館の書画も素晴らしく。非常に有意義ない一日であった。
」と挨拶があり、ビール
で乾杯。前菜からデザートまでボリューム満点中華料理に舌鼓をうち、ビール、紹興酒が
進むとともに楽しい歓談の時を過ごした。
次回三田あるこう会 12 月計画の説明があり、午後3時前に解散。当番幹事各位と参加の
会員諸氏に感謝、感謝。
以
-23-
上
俳句
笠原与志生
20141107
海近き池に初鴨来ておりぬ
名園の山おちこちに石蕗咲けり
竹林の奥まる茶亭秋深し
一組の新郎新婦菊日和
回遊の歩を止めたる菊花展
菊花展人の流れの滞り
懸崖の百の菊花のなだれ咲く
厚物の白妙菊のいま盛り
伊勢嵯峨に劣らぬ肥後の菊の花
北斎の菊図の巴錦かな
歌もどき
三木雅舟
20141107
岐阜の庄屋の長男が婿入りしたあとシルク王
教え子の婿となり横浜の経済界のドンとなる
関東大震災の復興事業に奮闘し身上つぶす羽目に
横浜で都の秋を見る心地
大輪の菊鮮やかに三重塔
秀吉の孝行心や壽塔覆堂
世界一小さな茶室金毛窟
横浜は良くも悪くも亀屋(原三渓)の腹一つにてこと決まるなり
以
-24-
上
御坂の山へーIMC山行に参加して
舩木 健
御坂山塊(御坂山地)には、東から西へ、三ツ峠山(日本200名山)・黒岳(日本の山1
000、山梨百名山)・釈迦ヶ岳(同左)・十二ヶ岳(山梨百名山)・節刀ヶ岳(山梨百名山)
・
王岳(日本の山1000、山梨百名山)・三方分山(山梨百名山)という名だたる山々が連な
っている。
この度、海堀リーダー計画の、毛無山~十二ヶ岳日帰り山行に参加することにした。同行者
はIMC会員8名と小生の総勢9名。そのプランに書かれたコースの特徴説明には「鎖場・ロ
ープ・吊り橋があり、慎重に登りたい」とあって、これは面白そうだ、ぜひ行かねば!と思っ
た。
11月8日(土)9時40分、河口湖駅前に全員が集まった。早速タクシー2台に分乗し登
山口の文化洞トンネル手前まで行く。その広場で準備体操をしていよいよ出発。先頭は海堀リ
ーダー、すぐ後に同夫人、しんがりは住吉君。天気予報では午後に入って降雨もあり、となっ
ていたが、今は曇り空なのでできるだけ速く登ってロープや鎖のある難所は雨が降る前に通過
してしまおう、と皆内心考えていた。樹林帯の中を黙々と歩く。途中急な斜面で息が切れる箇
所もあったが、標準コースタイム通りの歩きで11時40分、毛無山(1,500m)の頂上
に到着。ここまで約1時間半。眼前に聳えているはずの富士山はあいにく雲の中だ。リーダー
の、昼食休憩、の声にほっと一息。ほぼ30分かけて胃の腑も満たした。
ここから西に向って縦走を開始する。一ヶ
岳・二ヶ岳と登り下りを繰り返し難所の十一
ヶ岳・十二ヶ岳に向う。途中で天を仰いで見
た。この調子で行けば何とか天気はもちそう
だ。十一ヶ岳までは難なく通過。あとはいよ
いよ本コースの難場、50mの急崖下りと1
00mの岩壁登りが待っている。「一本のロ
ープにひとりづつ」と海堀リーダーの声が飛
ぶ。その急下降がここから始まる、という地
点でトップの足が止まった。われわれの前を
ロープを使っての急崖下り
行く30~40歳くらいの、それぞれハーネ
スを付けた女性パーティがアンザイレンをして一人づつ慎重に下っている。それで時間がかか
っているのだ。われわれはしかたなくすぐ向かい側の100m岩壁を眺めるしかない。そこを
3~4人の男性パーティが下ってくる。その慎重な歩みから険しさが察せられる。さて、よう
やくわれわれの番になった。皆が鞍部に降り立ったところで女性パーティの先を行くことにし
た。両側の崖の間は谷だ。そこに金属製の立派な吊り橋が架かっている。長さは10mちょっ
とだが、やはりよく揺れるので、一人づつゆっくりと渡る。
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今度は岩壁登攀だ。相当急である。両手両足
をフル稼働して慎重に登った。14時15分、
十二ヶ岳頂上(1,683m)に無事到着。通
常ならばコースタイム1時間半のところを岩
場通過の待ち時間のため2時間近くかかった。
ここからは富士山が真正面に望めるはずだが、
頭頂部には相変らず雲がかかっている。だが暫
くすると、その雲がサーッと東に流れ頭が現れ
た。一同歓声をあげ、各人が急いでシャッター
を切った。そうこうするうちに、例の女性パー
十二ヶ岳頂上からの富士山
ティも頂上に着いた。リーダー格の男性1人と
女性が6人であった。14時20分、下りにかかる。西湖を目がけてひたすら下る。足取りは
軽くスピードも速い。だが、かなり距離はあった。
16時前、桑留尾(くわるび)の十二ヶ岳登山口バス停着。このあたりのカエデやドウダン
ツツジの鮮やかさはどうだろう!眺めているこちらの顔色が染まりそうなほどの真紅色だ。わ
が街横浜では見られない色だと思った。目の前の道路をロードレース用の自転車がシュッシュ
ッと音を立てながらものすごいスピード
で次から次へと通り過ぎていく。湖畔を何
周もするのだろう。このレースのためバス
は15分近く遅れて来た。徐行運転したた
めだと言う。ようやくわれわれ全員が空っ
ぽのバスに乗り込んで河口湖駅へと向っ
た。西湖の北岸から河口湖の南岸へと廻り
込む。左手車窓にはひときわ背の高い黒岳
がすっくと立っている。1,793mの高
さをもつこの山は盟主の貫録充分だ。バス
は17時前に河口湖駅に到着。小生はここ
から横浜駅直行のバスで帰途についた。
参加者メンバー
今日のコースを以前二度も歩いたと言い、テキパキと指示を下す海堀リーダーの下、同行メ
ンバーの足並みもキチッと揃っていてとても楽しい登山を楽しむことができた。本日も好日、
感謝感激であった。
{完}
11月25日記す
-26-
初冬の奥多摩ハイク
舩木
健
12月3日(水)、奥多摩の最も西方に位置する鹿倉(ししぐら)山へ登りに行った。
ところで一般的に奥多摩というと、どの区域を指すのだろうか。日本山名辞典では、最
初に「多摩川上流域の総称。
」といとも簡単に規定している。それと「奥多摩の山」と具
体的に言う場合は、東は高水三山や棒ノ嶺、北は天目山・酉谷(とりだに)山から雲取
山、西はこの鹿倉山、南は三頭(みとう)山・御前(ごぜん)山・大岳山などで劃され
るエリアということになるだろう。
前置きが少しく長くなったが、今日、目指すこの山へはずいぶん昔に一度登ったこと
がある。あれは1971年5月であったから、もう43年前のことだ。今回の同行者は
I君。
(彼と私は一時期大学山岳部に籍を置いたことがある。が、共に長続きはしなかっ
た。)登山口のある深山橋までは、奥多摩駅でうまい具合に接続のいいバスがあった 。車
内はこの冬枯れの時節にもかかわらず一杯の人であった。隣に座った女性は、10数人
の仲間とバードウォッチングをするのだ、と言いながらわれわれよりも少し手前で下車
した。
9時15分、われわれは深山橋バス停で下車。左
の奥多摩湖に架かる立派な橋を渡ってすぐ右手の
道を登りにかかる。いきなりの急坂だ。もう木々の
葉はあらかた落ち尽してしまっていた。その落ち葉
をカサコソと踏み散らしながら登る。幸い天気は上
々で、眼下の湖面が秋の日差しにキラキラと輝いて
いる。順調にジグザグ登りを続けてきたが、雑木林
深山橋バス停
の広い空間に出た時だった。落ち葉が一面に厚く散
り敷いていて登山道が埋まっている。ハテどの方向へ行ったものか、と地形図を取り出
して現在位置を確認することを余儀なくされた。結果、南へ行けばよいことが判明。晩
秋の山では得てしてこういうことがあるものだ。
11時前、最初のピーク大寺山が近付いて
くると、真っ白な巨大建造物が視界に飛び込
んできた。あれは何だ?!と訝しく思いなが
ら、さらに登る。高さ36mの仏舎利塔であ
った。その塔の左手に説明書きの看板が立っ
ていた。それによると、日蓮宗の日本山妙法
寺が本年6月に完成させたもので、東京奥多
大寺山の仏舎利塔
摩仏舎利塔と名付けられている。それにして
も、このハイキングコースの山上に何故?と
いう大きな疑問を抱かざるを得なかった。足
-27-
元にはおよそ10cmほどの高さの霜が降りていた。ベンチで一休みしていると、軽ト
ラックがやってきた。中から若い僧侶が降りてきて、北側へ廻り階段を上ると、うちわ
太鼓を叩きながらお経を上げ始めた。なるほどここであのように舎利供養をするのか、
と感心したことであった。(昔のガイドブックを見ると、「場違いな修験道場ができてい
る。」と書かれていたが、それがこのたびピカピカの新塔に変ったのだ。)
ここから西へ向って約3km、アップダウンを繰り返し、鹿倉山近くまで来た。登山
道の右側は木々がみごとに?伐採されていてずっと向こうまで見通せる。東西に延びる
北側の稜線の中でひときわ大きい山が雲取で、やはり盟主の貫録充分だ。そのずっと右
手延長線上には鷹ノ巣山。さらに視線を右に転ずると秀麗な山容を持つ御前山、その下
には奥多摩湖が碧い水を静かに湛えている。はるか東南方向には三頭山、とすばらしい
眺めが開けていた。さらに頂上が近付いてきた。するととんでもないものが目についた。
それこそ全く場違いな幅広の林道が登山道と並行して延々と続いている。無性に腹が立
って仕方がなかった。だれのための、何のための林道なのか?大事な税金を使ってこれ
ほどひどい自然破壊をするとは!
?私は過去に長年続いた保守政権による、この愚劣な仕
打を絶対許すことはできない。昔は良かった、というのはわれわれ高齢者の口癖だが、
全国到る所の山々や河川海岸で行われたこのような自然破壊の悪行が今日の日本の見る
も無残な、痛々しい姿をあちこちにつくりだしたのだ。このことを昔から今に到る保守
政治家は子孫にどのようにお詫びをし申し開きをするつもりなのか?!
13時過ぎ、鹿倉山頂着。昼食の時間だが、
帰りのバスのことを考えるとゆっくり食事を
している暇はない。しかも気温もかなり低く、
手がかじかんでミカンの皮も全然むけない。
(この冬各地で最低温度を記録した日だ。)
15分ほどで休み時間を切り上げて下山の
途に。帰りは速かった。とにかくバス便がな
くなると困るので、ずいぶん飛ばした。1時
間45分で小菅村役場前バス停に着くことが
できた。
鹿倉山山頂
近くの道の駅で購入した缶ビールを片手に、空でやってきたバスに乗り込む。早速今
日のハイクを振り返りながらプルトップを引いた。山中では、あのお坊さんは別にして、
他にはだれひとり会わなかった。ガイドブックにあるように実に静謐な山であった。お
互いこの年になってゆっくりといい山歩きができたことに感謝しながら冷たいビールを
味わったのであった。
{完}
2014年12月13日記す
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飛龍山山行記
八木恭一
昨年、12月23〜24日の日程で川嵜さんと奥秩父の飛龍山を目指したが、1週間前に降
った雪に阻まれて途中断念した。今年は約1週間日程を前倒しして、14〜15日で昨年と同
じ計画で川嵜さんと再挑戦した。奥多摩からのバスダイヤは土日祝日が便利になっているが、
13日の土曜日は外せない用事があったので14日(日)の出発としたのだが、これが大当た
りだった。
奥多摩駅発8:35の丹波行きのバスに乗ったが、
師走にも関わらず駅前は登山者で溢れかえっており、
奥多摩湖行きの臨時バスが出る程だった。丹波行き
のバスにも多くの登山者が乗車したが、鴨沢バス停
まででほとんど降りてしまい、その先は地元の方1
名と我々だけだった。お祭りバス停の一つ先の親川
バス停でバスを降り、晴天のもと9:25に歩き始
め、約2時間半の登りで丹波天平(タバデンデイロ)
丹波天平(三角点)1343m
に11:55頃到着し、昼食にした。行動中は少し汗ばむ程だったが、昼食中はフリースとウ
インドブレーカーを着込まねばならない程の冷え込みだった。
昨年は標高 1,343m の丹波天平で
も20〜30cm の積雪だったが、今年は殆ど雪がなく順調に歩く事ができた。
昼食後、サオラ峠を通り、御岳沢、権現谷、
ガンバ谷等いくつかの沢を渡り、15:15
過ぎに三条の湯に到着した。宿泊者は我々2
名とまだ到着していない2名だけとの事で、
早速温泉に入ったが、まだ湯温が低く(源泉
は約10℃)熱い継ぎ足し湯量も出が少なく、
サオラ峠
追い炊きの循環も不十分で30分以上浸か
っていた。漸く湯が熱くなり、体も温まった
ので湯から上がりビールで乾杯しているう
ちに夕食になった。夕食には例のごとく鹿肉が出て、山
梨産ワインで味わった。
2日前の天気予報では15日は晴れるものの山頂付近
は気温−10℃、風速10m とかなり厳しいコンディショ
ンを覚悟したが、その予報は外れ気温は低いものの陽射
しがあり、風もほとんどなく絶好の登山日和になった。
-29-
三条の湯を出発
三条の湯を6:30に出発し、いきなりの急坂に汗をかき、薄着になりながら約2時間半で
北天のタルに到着した。北天のタルからは雲取山を中心にした石尾根が望め、開けた南側は東
京、横浜方面や太陽が反射した海が見渡せた。
北天のタルから飛龍山方面の尾根の巻道を
飛龍山山頂
少し行くと岩場の凍結箇所が現れ、簡易アイゼ
ンを装着した。尾根の巻道をしばらく行き、飛
龍山への分岐から急坂を登り9:50に山頂に
到着した。2年越しの計画達成となった。記念
撮影の後、尾根通しに飛龍権現に下り、すぐ近
くの禿岩に行った。この禿岩は南側が大きく開
け、雲取山から奥多摩、丹沢、富士山、南アル
プス、奥秩父の山並みを、手に取るように望む
事ができた。特に南アルプスは甲斐駒ケ岳から遠くの聖岳までの稜線を見渡す事ができ、大収
穫だった。
禿岩から
富士山 雁ヶ腹摺山と大菩薩嶺
南アルプス(甲斐駒、仙丈、白根三山)
しばらくこの素晴らしい展望を堪能した後、飛龍権現から急峻な岩場を下り前飛竜に登り返
した。再び急坂を下った後、小広い尾根を上り下りした後、熊倉山(火打岩)に12:20頃
到着した。簡単な昼食後、サオラ峠から丹波山温泉に14:45に下り着いた。丹波山温泉は
道の駅に隣接した村営の温泉施設で「のめこい湯」という名が付けられている。肌がぬるぬる
と感じる「のめこい湯」は登山帰りには最高であった。
以上
-30-
飛龍山登山コース
飛龍山標高図
-31-
スイス紀行
八木恭一
1.はじめに
2014年8月7日から19日まで息子と二人でスイスを旅行して来た。旅行の主な目的は
ベルニナ急行や氷河急行等の観光列車や登山鉄道に乗車する事とマッターホルン、アイガー、
ユングフラウ、モンブラン等の山々を眺めながら麓をトレッキングする事である。といっても
これは息子が立てた計画であり、私はそれに便乗しただけだが。荷物はすべて大型ザックに詰
め込む所謂バックパッカーの旅で、宿泊はユースホステルを使った。
概略の行程は、
1日目は羽田からフランスのパリ、イタリアのミラノ経由でイタリアとの国境に近いスイス
南部のリゾート地であるルガーノへ。
2日目はルガーノからベルニナ急行に乗ってサンモリッツへ移動。このベルニナ急行はルガ
ーノからはまずバスで3時間程かけてイタリアのティラーノへ行き、そこから天井近くまで窓
があるパノラマ列車に乗り換えてサンモリッツへ行くというものだった。
3日目はサンモリッツから氷河急行(グレッシャーエクスプレス)のパノラマ列車で約8時
間かけてマッターホルンの麓の町ツェルマットへ移動。ツェルマットでは2泊してマッターホ
ルンの麓をトレッキング。
5日目はマッターホルン・グレッシャー・パラダイスでマッターホルンを眺めた後、グリン
デルワルトへ移動。
6日目はアイガー、
ユングフラウを眺めながらのトレッキングとユングフラウヨッホ観光後、
グリンデルワルトからレマン湖畔の町モントルーへ移動。
7日目はモントルーからフランスのシャモニーモンブランへ移動し、エギーユ・デュ・ミデ
ィからアルプス最高峰のモンブランを展望。
8日目はシャモニーモンブランからレマン湖畔のモントルーに戻りぶどう畑のラヴォー地区
をワイン列車で通り、ローザンヌを観光。
9日目はモントルーからゴールデンパスラインのパノラマカーでルツェルンへ移動し市内観
光。
10日目はルツェルンから1時間弱にあるエンゲルベルクの町を見下ろすティトゥリス山へ
行き麓をトレッキング後、チューリッヒ空港近くに移動。
11日目(最終日)はチューリッヒからフランスのパリへ飛び約10時間の乗り継ぎの間に
TGV でシャンパーニュ地方のランスへ行き観光後、パリから羽田へ。
という少し慌ただしいものであったが、だいたい当初の目的は果たせたように思う。
スイスは7月、8月は比較的天候が安定して晴天が続くそうだが今年は雨が多く、今回の旅
でも晴天のもとでのトレッキングは1度だけだった。これも地球温暖化の影響か。
2.鉄道の旅
今回のスイス旅行の目的の1つ目は観光鉄道や登山鉄道に乗車して車窓風景を楽しむ事だっ
た。スイスは九州よりやや小さな国土面積で、鉄道網が充実しており都市間、有名観光地への
移動は容易だ。運行はほぼダイヤ通りで、主要ラインの車両には清潔なトイレが設置されてお
り安心して快適な旅をする事ができた。
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この鉄道や市内交通のバス等にはスイスパスという決められた期間内、乗り放題となる割引
切符が用意されており、今回は2人以上で行動すると更に割引きになるスイスセイバーパスを
使った。15日間2名2等車で約700ユーロ(1人当り50,000円弱)だった。このパ
スの対象外の登山鉄道やロープウェイでもパスがあれば50%引きになるので、主に鉄道で移
動する場合はお勧めである。絶景場所を通る移動を兼ねた観光鉄道としては4カ所の線に、登
山鉄道は2カ所の線に乗車した。
(1)ベルニナ急行
イタリアのティラーノからサンモリッツまではベルニナ急行に乗車した。世界遺産に
登録されているルートを窓の大きなパノラマ列車で走るもので、急坂になるとアプト式
歯車を効かせながらゆっくりゴトゴトと素晴らしい景色の中を通った。
サンモリッツ駅(箱根登山鉄道からの寄贈)
ベルニナ線 オープンループ橋
(2)氷河急行(グレッシャーエクスプレス)
サンモリッツからツェルマットまでは氷河急行で約8時間の列車旅だった。この列車
も窓の大きなパノラマ列車で車窓風景は山岳地帯や小都市、湖、氷河と見飽きる事がな
く、8時間の長旅だったが時間を感じる事なく到着してしまった。途中昼食時には自分
の席で料理(メインは子牛のクリーム煮込み)が給仕され、スイスワインとともに至福
の時を過ごした。
スイスワインで一杯
氷河急行(グレッシャー・エクスプレス)
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(3)ワイン列車
レマン湖に面した南斜面はスイスでも有数の
ぶどう畑があり、ラヴォー地区と呼ばれている。
このぶどう畑を見下ろすように鉄道が通ってお
り、ワイン列車と呼ばれている。
この鉄道はローザンヌへの移動時に利用したが、
レマン湖沿いのぶどう畑を見下ろす風景は心に
残るものだった。
ワイン列車の車窓(レマン湖とぶどう畑)
(4)ゴールデンパス・ライン
レマン湖畔のモントルーからスイス中心部の
インターラーケンを通り、ルツェルンへ至るコー
スはゴールデンパス・ラインと呼ばれており、湖
や牧草地を巡るスイスならでわの景色が展開す
る移動だった。特にモントルーから乗り継ぎ駅ツ
バイジンメンまではロマンスカーの様な先頭車
両(前から2番目の席)に乗車(事前予約が必要)
ゴールデンパスラインの先頭車
し、運転手目線での旅となった。
(5)ゴルナーグラート鉄道
ゴルナーグラート登山鉄道はツェルマットから
マッターホルンの展望地のゴルナーグラートまで
標高差1,500m を約45分で登るものでゴル
ナーグラートからツェルマットまでのトレッキン
グのために利用した。当日は生憎の曇り空で、し
かも朝一番の始発列車に乗車したので数人の観光
客と犬を連れた山岳警備隊ぐらいしかいなかった。
晴天ならばマッターホルンを背景にした素晴ら
ゴルナーグラート鉄道
しい景色となるはずだったが残念である。
(6)ユングフラウ鉄道
ユングフラウ鉄道にはグリンデルワルトを見下
ろすメンリッヒェンからクライネシャイデックま
でのトレッキングの後、クライネシャイデックから
ユングフラウヨッホを往復するために乗車した。当
日も雲や霧で見通しが悪かったが、ユングフラウ鉄
道はアイガーの山中を貫き殆どがトンネル内なの
で、天気はあまり気にならなかった。アイガーの中
ユングフラウ鉄道
心を貫くこの鉄道が開通したのは1912年との事で、当時のスイス或はヨーロッパの
鉄道技術の高さを物語っていると思う。
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3.トレッキング
今回の旅では3回トレッキングを行った。計画では4回行う予定だったが、モンブランの麓
を歩く予定日に天候が悪く、ローザンヌ観光に変更した。
(1)マッターホルン周辺
マッターホルン展望地のゴルナーグラートから麓のツェルマットまで歩いたが、天気
が悪く(と言っても雨には会わなかったが)マッターホルンやスイス最高峰のモンテロ
ーザには雲がかかってしまい山々を眺めながらのトレッキングとはならなかった。その
代わり、珍しい草花やアルプスアイベックス、マーモット等の動物に巡り会う事のでき
た約半日のトレッキングだった。
マッターホルンは翌日ゴンドラリフトでマッターホルン・グレッシャー・パラダイス
という別の展望地に登ったところ、見事な雄姿を見せてくれたので満足した。
アルプスアイベックス
マッターホルングレッシャーパラダイスから
(2)アイガー、メンヒ、ユングフラウ周辺
アイガーの麓の町グリンデルワルトからゴンドラリフトで登ったメンリッヒェンを出
発点に、クライネシャイデックまで3時間程のトレッキングだった。この日も天気が悪
く、歩き始めは雨模様で強風もあったが、歩くうちに雨は上がり、雲間にアイガー、メ
ンヒ、ユングフラウの山並みが見え始めた。また、珍しい植物や道の真ん中でアルプス
サンショウウオに遭遇するなど、興味深いトレッキングだった。
アイガー、メンヒ、ユングフラウ
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アルプスサンショウウオ
(3)ティトゥリス周辺
スイス中央部の都市ルツェルンから鉄道で45分程の場所にエンゲルベルクがある。
ここからロープウェイを2つ乗り継ぐと、標高 3,020m のティトゥリス山の直下まで行
ける。ティトゥリス山は前日に降ったパウダースノーで覆われていた。この日は快晴で
絶好のトレッキング日和となった。ティトゥリス山からロープウェイを1つ降りた乗り
継ぎ地がトゥリュプゼーで、ここから麓のエンゲルベルクまでトレッキングを行った。
最初は湖畔沿いの道を進み、湖に映る雪山を眺め、やがて放牧地や山道の変化に富ん
だコースを2時間程下っていくとレストハウスがある場所に着いた。ここで、トロッテ
ィーバイクというハンドル、ブレーキ付きの2輪のローラーボードを借りてエンゲルベ
ルクまで下った。
トロッティーバイクで下る
ティトゥリス山の麓をトレッキング
スイスという国は精密機械、牧畜等の産業があるが、やはり観光立国である事を強く感じた。
また、非常に成熟した国という印象も受けた。人々のモラルの高さ、旅行者に帯する親切心等、
日本が今後の観光産業に力を入れていくために見習うべき点が多々あると感じる。物価は日本
以上に高いが、鉄道のフリーパスを利用したり、ユースホステルに宿泊する等すれば、節約し
た旅行ができる。スイスのユースホステルは設備が良く(日本のビジネスホテル並みのところ
もあった)周辺のホテルに比べると2/3から半額程度の料金なのでお勧めだと思った。
今回の旅行は移動が多かったが、次に行くのであればツェルマットやグリンデルワルトに3
〜4日滞在して、ゆっくりとトレッキングをしたいものである。
以上
-36-
4年間を振り返って
長谷川
徹
4年間会員が大きな事故もなく楽しく登山できたことを皆様とともに慶びたいと思
います。
山・自然はその豊かな恵みを与えてくれる一方厳しい試練も与え続ける。四季のある
日本では寒さ、暑さ、強風、無風、豪雨、雷雨、霙、雪と様々な気象現象が複雑に絡み
合って巡ってくる。標高 100m で気温は約 0.6℃変わり、風速が 1m/s 強くなると体感温
度 1℃下がるといわれている。これら気象変化に対する知識を十分持ち周辺の地形や自
分の体調を把握しつつ山と付き合ってゆかねばならない。さらに日本は、ユーラシア 、
北米、太平洋、フィリピンの四つのプレートがぶつかり合う上に存在し、隆起沈降が繰
り返されていることによる豊かな自然が育まれていると同時に、地表の多くは崩れやす
い砂岩や火山灰土におおわれているので地震・火山や水による様々な災害に向き合って
ゆかねばならない。
平成 23 年 3 月 11 日の東日本大震災、26 年 9 月 27 日の御
嶽山噴火は我々の日頃の行動に大きな警鐘を鳴らしたもの
である。この 4 年間には、このほかにも幾多の自然災害が起
こり、台風や豪雨、豪雪による入山禁止は全国のあちこちで
起きてきた。まさに災害列島である。これらの災害が過ぎ去
るのをじっと待つ辛抱強さ、危険を避ける・逃げる術を身に
着けてゆかねばならない。小心者の私は数多く途中撤退を経
験してきました。
日本には 110 の活火山があり、その中には名山といわれる
山が数多く含まれている。現在噴火警戒レベル 3 の御嶽山、
御岳山噴火
桜島は勿論のこと、十勝岳、草津白根山、阿蘇山、霧島新燃
岳が火口周辺規制レベル 2 となっている。今後は従前にもま
して地元気象台の情報を得て、必要最小限の装備での対応が求められている。
想定外という言葉が流行語になった東日本大震災、自然に対する畏れを見失い過去の
経験を忘れた結果 大災害となってしまった。3 月 29~31 日小沼さんとともに塩釜地
区へボランティアに向かった。鉄道は寸断され、且つガソリン入手が難しいので自家用
車は使えず、深夜バスとタクシーを乗り継いで塩釜に入り、汚泥の除去等の作業を実施
した。夜テントに段ボールを敷いても、地面からの冷気は相当厳しく、寒さでなかなか
眠りにつけなかった。ただし塩釜では心配した上下水道は活きており、水洗トイレも使
えたのでボランティアにとっては比較的恵まれた環境にあった。4 月 19~23 日に小沼
さんは石巻地区へ 1 人でボランティア、さらに 25~27 日には小沼、岩村、住吉、海堀
さんと長谷川の 5 名はテント 3 張りで岩沼地区ボランティア作業を行った。テント生活
の経験を活かし逸早く現場でのボランティア作業を行えたのは大変良かったと思って
いる。(詳細は「光友會会報 65 号」(H23. 10 発行)小沼さん投稿「山行クラブメンバ
ーで東北ボランティア」参照)
-37-
最近多くの会員が日本アルプスの高山や、東北・北海道、九州の山々に登るようにな
ってきた。100 名山は平成 23 年 10 月に小沼さんが乗鞍岳登頂により当会最高齢(73 歳)
で達成された。現在小田さんは残り 4 座、住吉、海堀さんも十数座である。大キレット、
八峰キレット、不帰の嶮、笈ヶ岳、戸隠山、鳥甲山、甲斐駒黒戸尾根等岩稜や難峰 ・難
ルートにも多くの会員が登り、大変バラエティに富んだ山行が実施されてきている 。こ
のようにより難しいルートへの会員の行動を考え海堀さんの企画により、平成 22 年 7
月に元東京都山岳連盟事務局長(法政大山岳部 OB)の山本春雄氏の指導による岩場の
基礎訓練を実施した。今後も適宜訓練を実施することが望ましい。
また春山登山として雲取山、大菩薩嶺、北横岳、北八ヶ岳白駒の池、燕岳、さらに残
雪期のみ登頂可能な尾瀬景鶴山等の山行が実施され雪山経験者も多くなってきた 。雪山
はその美しい姿で登ったものを虜にする魔力を秘めているが、体力と技術力、装備と雪
山特有の知識・判断力が要求される。1 月に川嵜氏は雪山技術講習(谷川岳天神尾根)
に参加されます。多くの方が雪上訓練により技術を習得し雪の山を楽しんでもらいたい。
平成 24 年 10 月には近代登山発祥の地‟上高地″で創立 20 周年を祝った。岩村さんを
中心に役員全員で準備して頂き奥様方を含め女性 6 名の参加もあり盛大に祝う事が出
来た。今後奥様方やご家族の方が参加される山行が増えることを期待している。
自然や山が好きな光友会会員にも門戸を開放し仲間を増やすことを考え「オープン山
行」を企画したが、尾瀬散策以外は入笠山に 1 名参加されたのみで、今後どのように展
開するか検討が必要と思われる。
忘れてはならないのはこの 4 年間 IMC 会員が登山の楽しさを享受できたのは、ホーム
ページの充実によるものが大きかったと思います。住吉さんが HP 改竄トラブルとその
修復等膨大な作業を含め HP の維持管理を常に行ってくれた結果であり、またパソコン
勉強会を毎年 2 回開催し会員のパソコンレベル向上に尽力され、会員が快適に HP を楽
しむ環境を創出していただいた。紙面を借りて厚く御礼申し上げたい。今後は広報担当
の方々を含め若手の皆様がさらに素晴らしい HP 作成にご尽力いただけると期待してい
ます。
70 才を過ぎ体力の低下、バランスの悪化を強く感じるようになってきましたが、安
全を第一に、限界を設けず体力の続く限りチャレンジし、楽しく登り続け楽しく飲み語
り合いたいと考えています。IMC には年齢を感じさせない多くの素晴らしい先輩方がお
られます。その方々を目標に、いつまでも気を若く持ち登山を続けたいと考えています。
最後に杉山新会長の下、安全第一に且つ少しアップレベル
の山に挑戦しつつ楽しく会が発展されますよう祈念します。
ありがとうございました。そして今後もよろしく!
-38-
栗原さんを偲ぶ
舩木
健
栗原さんが11月23日に亡くなられたことを光友会の訃報通知で知りました。誠に哀
惜の念に堪えません。心からご冥福をお祈りいたします。
そこで長くなりますが、楽しかった思い出話を二三つぎに記しまして故人を偲ぼうと思
います。
栗原さんを初めて知りましたのは昭和40年代のはじめごろでしたからもうずいぶん昔
のことになります。当時私は本社の営業部業務課にいました(後に管理課に異動)。その
ころその課ではまださほど残業は多くなかったので、週に1回でしたか、18時半過ぎに
は社が借りていた新大久保の体育館へ行きバスケットボールに興じていました。栗原さん
とも時折一緒にボールを追いかけました。彼は足が速く馬力があってすごいスポーツマン
だな、と感じました。練習が終ると流した汗の補充に、というわけではないのですが、共
に一杯やるのが楽しみでした。
それから40数年という長い月日が流れました。たしか平成18年だったと記憶します
が、栗原さんがIMCに入ってこられたのです。ご一緒した山行は数少なかったものの、
いつまでも思い出に残る登山をすることができたので、それをゆっくりと噛みしめながら
回想文を下記します。(文体は変更)
まづ平成19(2007)年の中央アルプス縦走登山から。
7月24日(火)早朝、前夜宿泊した上松のアルプス山荘を出発。今回目指す木曽駒ケ岳・
宝剣岳へは東側から登るのが一般的だが、シ
ーズンの真っ最中でもあるので、人混みの少
ない西側からあえて登るプランにした。同行
は栗原さんと海堀君。ガイドブック記載のコ
ースタイムでは歩き始めの地点である二合目
から木曽駒ヶ岳山頂の「頂上木曽小屋」まで
休憩なしで約6時間半の行程である。三合
目・四合目と長い登りを続けて、9時によう
やく五合目小屋(金懸小屋)に到着。ここで
は集中登山をしている大勢の中学生(上松中
学校)が休んでいた。快晴の空の下、後方西
側に視線を移すと横に長く稜線を延ばした御
木曽駒ヶ岳山頂にて
嶽山が悠然と聳えている。さらに1時間づつ
かけて六合目・七合目と進む。八合目を過ぎるとわずかな平坦地となった。ここで栗原さんが
-39-
「まだ余力は充分あるよ」と言いながら走り出されたのには舌を巻いた。それほどスタミナタ
ップリのひとであった。
14時35分、木曽駒ヶ岳山頂着。ここまで休憩時間を入れると8時間15分の長丁場であ
った。その頂上へは前から約束がしてあった吉永ご夫妻も千畳敷方面から来られて合流、一段
と賑かになった。ここで思いがけなく素晴らしい光景が展開した。東側山麓にある駒ケ根東中
学校の生徒たちが合唱を始めたのだ。歌詞は「称えよ 称えよ 母なる大地を・・・」ではじ
まる校歌のようで、感動的な場面であった。この晩宿泊する頂上木曽小屋は山頂西側直下にあ
る、収容能力200名の小屋だが、先程の合唱中学生たちも泊まるのでほぼ満員であった。言
7月25日(水)この日は、全山岩山の宝剣
岳を越えてその西南方にある三ノ沢岳を往復、
然る後下山、という予定になっている。朝一番
でご来光を仰ぎたいので、再び山頂まで行って
その時を待つ。だが、4時42分の日の出時刻
になっても東は厚い雲に覆われていてとうとう
期待した光景を見ることはできなかった。朝食
後、5時半に小屋を出発。7時ちょうど宝剣岳
頂上着。岩峰の最上部は人が1人かろうじて立
三ノ沢岳山頂にて
てるか立てないかというほどの狭さなのでそれ
だけは割愛。この頂上は私には二度目ながら岩
場の登り下りには両手両足を動員しなければならないほど手強い感じのする宝剣であった。難
所を無事通過して鞍部まで下る。ここから先、三角錐の秀麗な山容を持つ三ノ沢岳へ向う。こ
の山は高山植物の宝庫と言われる。現に、シナノキンバイやハクサンイチゲをはじめとしてさ
まざまな花が登山道の周辺一面に咲き競っていた。主稜線から分れて約2時間、長年の念願だ
った2,846mの頂上を踏むことができた。360度のパノラマビュウを満喫したので元来
た道を戻る。50分後、再び縦走路に出て極楽平から左へと下る。あとは千畳敷からロープウ
ェイに乗ってしらび平に下った。
栗原さん・海堀君と和気あいあいと歩いた2泊3日の初登山で十二分に満たされた思いを抱
いて駒ケ根から高速バスで帰途に就いた。
次は翌平成20(2008)年に登った男体山の思い出話を。
7月13日(日)栗原さんをはじめとするIMCの仲間(塚原・高橋・荒井の諸兄)4人と
私とで浅草から東武電車で出掛けた。その日は龍頭ノ滝から戦場ヶ原をのんびりと散策し湯滝
まで行く。約3時間半のハイキング。宿泊は湯の湖荘であった。
7月14日(月)たまたま宿で一緒になった、岩手県から来たという立花山想会の人たちに
お願いして小型バスに乗せてもらうことにした。先方は10名のパーティだ。5時過ぎに宿を
-40-
出発し、標高1,785mの志津乗越には
約30分で到着。そこから男体山の裏側、
つまり北側から登るのだ。5時40分、登
行開始。志津小屋を右に見ながら行くとす
ぐ一合目だ。続けて二・三・四合目を10
分刻みで登る。天気は曇りで、いつ降り出
すかといささか心配だ。五合目で休憩。こ
こから先は上へ行けば行くほど斜度はきつ
くなる。昭文社の地図には「すごいガレ
場」との記載もある。八合目を過ぎる辺り
男体山山頂にて
でポツポツと降り始めた。急いで雨具を着
ける。左から大きく弧を描くようにゆるい
斜面を行くと、漸くそこが目指す男体山の頂上であった。(8時20分過ぎ着)男体山神社の
奥宮あり。ゆっくりと周囲を見回す。が、期待した眺望は得られなかった。残念だ。40分間
頂上に留って晴れ間を待ったが、ついに晴れず。しかたなく真南に向って下山にかかる。下り
も傾斜はきつい。七合目まで来て一息入れた。この時、何かのきっかけで新田次郎の小説の話
が出た。当時、「3郎」といって司馬遼太郎・新田次郎・城山三郎の著作物を読むのがビジネ
スメンの教養上必須科目のようになっていた。その中の新田次郎の小説についてあれこれ話し
合っていると、栗原さんは彼の本のかなりの愛読者であることが判った。栗原さんは山を愛し、
山の本を好んで読まれるのだなあ、と感心したのであった。七・六合目の下山道につき、上記
の地図には「ガレていて急坂の連続」とあり、一歩一歩慎重に下らなければならなかった。正
午過ぎ、一合目下の二荒山神社登拝門に無事到着。境内で昼食時間とした。その後、中禅寺湖
畔にある日光山中禅寺立木観音堂(坂本18番札所)に参拝をし、中禅寺温泉バス停から帰途
に就いた。
今回も栗原さんをはじめ気の合った仲間と1泊2日の山行を共にすることができてまたもい
い思い出が残った。
あと山行の回想ではありませんが、2007年10月に私が二百名山登頂を達成した時
に栗原さんからお祝いの品を贈っていただきました。それに添えて毛筆での祝辞と墨絵で
高山の花々が描かれたお手紙が入っていました。豪快な筆跡でした。書は人を表す、と言
いますが、その言葉通り栗原さんの人柄がひしひしと伝わってくる書状でした。
以上、在天の栗原さんが安らかに眠られることを心から祈念しながら私の思い出話を認
めました。
12月20日記す
-41-
栗原さん
有難う
小沼英夫
栗原賢造さんとは仕事の分野が違っていたので、お会いしたのは、光友会で窪田雄一郎
さんのハイキング同好会に安部正志さんらと入会されてきたときでした。ある秋の奥多摩
のハイキングの打ち上げを立川で行った時に、もっとしっかり歩きたいという希望で東海
道を 1 年かけて歩くことが提案され、名前も「やじきた会」としました。2006 年は東海道、
2007 年は中山道を、できるだけ旧道を歩きました。熱田から桑名は栗原さんの粘り強い交
渉で NHK がチャーターした船を手配してもらい、楽しい旅となりました。
2007 年は 1 月には初めての山小屋泊
の雪の塔ケ岳から蛭ケ岳、8 月は焼岳か
らクリヤ谷コースの笠ケ岳・双六・槍ケ
岳・上高地、9 月には瑞牆山を踏破して
います。この頃は、マンションの階段を
重いリックを担いで、上り下りして体力
強化に努めていました。単独で八ケ岳を
縦走したのもこの年だったと思います。
蛭ヶ岳(1672m)
2008 年 8 月には燕岳・常念・蝶ケ岳から
横尾をご一緒しました。海賊マークのバンダ
ナスタイルで一番元気な頃でした。
笠から槍へは、私は 13 時間近くかかりま
したが、栗原さんは 10 時間足らずで、到着
し、槍の頂上まで往復して、私の到着をゆっ
瑞牆山(2230m)
くりと待っていてくれました。
それから暫らくして、闘病生活に入りまし
たが、2011 年 11 月の私の百名山踏破の会には
小岩までお運びいただき、祝っていただきま
した。その後、渋谷で IMC の数人とお茶会で
お会いしました。
-42-
笠ヶ岳(2898m)
2014 年には海外部の OB 会に出席されたり、抗がん剤の治療は終わったと聞いておりまし
たので、安心しておりました。
それが 11 月 23 日に突然、容体が急変して、逝かれてしまいました。余りの突然で、言
葉が出てきませんでした。お焼香に伺った時も、元気だった時のバンダナ姿のお写真を見
たら、のどが詰まって何も言えませんでした。
彗星の如く現れて、山行を共にした人々に強烈な印象を残して、最後まで山の VTR を見
ておられたと聞き、本当に山が好きだったのだなと思いました。
栗原さん、本当に有難う。ずっと忘れないよ。また、一緒に登ろうよ。またね。
(2015.01.06
-43-
記)
平成
期日
行 先
曜日
標高
月
金
土
高尾山
新年山行
富山
伊予 岳
能岳
八重山
年第一期山行計画概要
作成
概要
程度 歩行時間
宿泊
締 切
集 合
日時
小沼
東京 高尾山口 清滝 展望台 浄心門 慰霊碑
仏
舎利塔 四柱門 福徳弁財天 薬王院 大師堂八十 一般
八 所巡
大見晴台 昼食 散策
橋 吊橋
向
蛇滝 駒木野庭園
高尾駅 立川 反省会
荒井
東京 千葉駅 岩井駅 富山中前 伏 姫籠穴 富
山山頂 富山登山口 富山方面分岐 伊予 岳南峰
北峰 天神郷 国保病院前 岩井駅 保田駅
反省会
保田駅 蘇我 東京
海堀
姉 崎 東京 高尾 上野原 新井
停 八重山登
一般
山口 能岳 八重山 昼食 上野中学校前 大堀
向
停 上野原 高尾 八王子 姉 崎
一次締切
月 日
木
最終締切
月 日土
一般
向
月
日 火
月 日 木
月 日 月
月
日 金
月 日 土
留意事項
費用概算
場所
京王線
高尾山口駅
岩井駅前
乗場
東京起点
神奈川県在住
方
東京起点
便利
中央線
上野原駅北口
姉 崎起点
停
姉 崎付近
参加 考慮
姉 崎 起点
休日
得
土
土
日
土
土
土
新宿 本厚木 撚糸組合前 高取山登山口 高取山
一般
山頂 昼食
仏果山 土山峠分岐 経 岳 半僧坊前
向
本厚木駅 反省会
新宿駅
仏果山
高取山
小田
雲取山
飛龍山
一日目 新宿 奥多摩駅 鴨沢 小袖乗越 堂所
坂 雲取奥多摩小屋 小雲取山 雲取山 雲取山荘
泊
二日目 雲取山荘 雲取山 三条
狼 健脚
八木 恭
平 北天
飛龍山 飛龍権現 前飛龍
峠 丹波山温泉
湯 奥多摩駅 青梅駅
健脚
新宿
小倉山
三頭山
笹尾根 槇寄山
玉宮
上条峠分岐 上条峠展
一般
草群生地 小倉山 上条
向
月
日 木
月
日 水
日目
雲取山
荘
舩木
荒井
新宿 武蔵五日市駅 都民 森 鞘口峠 三頭山 昼
一般
食
峠 三頭 大滝
平 数馬
停
向
数馬 湯 入浴 反省会
武蔵五日市駅
月
日 水
岩村
新宿 高尾 上野原 郷原
西原峠 数馬峠 数馬 湯
月
日 水
一般
向
-44-
日 土
日目
千葉 新宿
塩山
望小屋 上条峠分岐
峠分岐 玉宮 塩山
泣 峠 槇寄山
武蔵五日市 新宿
月
月
日土
月
日 土
月 日土
月
日 土
月
日 土
小田急線
本厚木駅前
半原行
停
番乗場
奥多摩駅
鴨沢西行
乗場
中央線
塩山駅改札口
新宿起点
新宿起点
遠方 方 休
日
円
又
新宿起点
利用 検討下
武蔵五日市
駅前
西東京
番乗場
遠方 方
日
新宿起点
得
休
中央線
上野原駅前
停
遠方 方
日
新宿起点
得
休
Fly UP