...

放射線の人体影響についての意見書(体制

by user

on
Category: Documents
8

views

Report

Comments

Transcript

放射線の人体影響についての意見書(体制
放射線の人体影響についての意見書
平成22年11月30日
国際医療福祉大学クリニック教授
広島大学
原爆放射線医科学研究所
客員教授
鈴木
元
放射線医学総合研究所
緊急被ばく医療研究センター
大分県立看護科学大学
センター長
明石
真言
人間科学講座研究室
教授
ICRP
第4専門委員会委員
甲斐
広島大学
倫明
原爆放射線医科学研究所長
緊急被ばく医療推進センター長
広島大学教授
神谷
研二
大分県立看護科学大学長
元東京大学大学院
草間
助教授
放射線医学総合研究所
放射線防護研究センター
朋子
センター長
ICRP 第5専門委員会
委員
酒井
一夫
広島原爆障害対策協議会
健康管理・増進センター所長
元放射線影響研究所
臨床研究部副部長
佐々木
英夫
前原子放射線の影響に関する国連科学委員会(UNSCEAR)日本代表
独立行政法人
放射線医学総合研究所
前理事長
佐々木
康人
元放射線影響研究所理事長
元日本公衆衛生学会
理事長
重松
逸造
長崎大学特任教授(放射線健康リスク制御国際戦略拠点)
元放射線影響研究所
疫学部長
柴田
義貞
長崎県赤十字血液センター長
元長崎大学医学部
元長崎大学大学院
医歯薬学総合研究科
教授
原爆後障害医療研究施設長
関根
日本赤十字社長崎原爆病院
一郎
第1外科部長
谷口
日本赤十字社
英樹
広島赤十字・原爆病院
HICARE(放射線被曝者医療国際協力推進協議会)会長
土肥
博雄
長崎原爆病院
院長
元長崎大学医学部
教授
日本赤十字社
元長崎大学大学院
医歯薬学総合研究科
原爆後障害医療研究施設長
朝長
万左男
元日本保健物理学会
元文部科学省
会長
放射線審議会基本部会長
沼宮内
弼雄
元放射線影響学会
会長
京都大学
名誉教授
丹羽
大分県立看護科学大学
人間科学講座
環境保健学研究室
太貫
准教授
原子放射線の影響に関する国連科学委員会(UNSCEAR)
日本代表団アドバイザー
伴
独立行政法人放射線医学総合研究所
信彦
原子放射線の影響に関する国連科学委員会(UNSCEAR)
理事長
日本代表
米倉
義晴
独立行政法人放射線医学総合研究所
米原 英典
独立行政法人日本原子力研究開発機構
放射線管理部
課長
元原子放射線の影響に関する国連科学委員会(UNSCEAR)
日本代表団アドバイザー
吉澤道夫
(共著者に関しては50音順
敬称略)
目次
要旨
第 1 章.循環論法
1-1.
論旨が循環論法であること
1-2.
脱毛発症率から線量換算する過程での方法論的な問題
1-3.
被曝線量の推定に用いられている線量計算式の問題
1-4.
沢田氏が採用した調査・分析の問題点
1-5.
まとめ
第 2 章.生物学的線量評価による被曝線量の事後的評価
-沢田意見書の世界
標準との乖離あるいは独善-
2-1.
放射線を浴びた方の被曝線量を事後的に推定する方法
2-2.
生物学的線量評価法
2-3.
JCO 事故およびタイ国バンコク郊外被曝事故経験
2-4.
急性放射線症状を線量評価に使う場合の一般的な注意
2-5.
下痢の頻度が脱毛,出血の頻度より高い沢田意見書の問題点
2-6.
沢田意見書における確定的影響と確率的影響の混同
2-7.
内部被曝は,脱毛より下痢頻度が高いことを説明できるのか?
(1) チェルノブイリ原発事故
(2) ビキニ環礁の原水爆実験
(3) ホットパーティクル理論の非現実性
2-8.
沢田意見書の矛盾点-フォールアウトの地区と症状の分布が一致しない-
2-9.
まとめ
第3章
放射線影響研究所の調査結果は,放射性降下物による線量の寄与をどの
様に判定しているのか?
3-1.
DS86 第 6 章
/
原爆放射線の人体影響 1992
3-2. (財)日本公衆衛生協会残留放射能調査委員会(橋詰委員長)による調
査及びその追加解析
3-3.
ギルバート論文
3-4.
ピーターソン論文
3-5.佐々木論文
3-6.
児玉論文
3-7.
まとめ
要旨
科学はさまざまな知見を総合して判断が下されるもので,放射線
のリスクについての科学もその例外ではありません。この度沢田昭
二氏より提出された意見書では,被爆による放射線の線量が問題に
されています。しかし沢田氏の主張する線量は,従来の物理的手法
での線量推定と一致しないのみならず,染色体異常頻度や歯のエナ
メル質での測定から得られた線量と数倍の違いがあり,総合的な知
見判断との見地からしても,科学的とは言えません。
沢田氏のご意見は,放射線物理学・保健物理学,放射線疫学や放
射線生物学の現在まで長年にわたり多くの科学者によって積み上げ
られてきた世界的な科学的知見から大きく外れるものです。このよ
うな非科学的言説が述べられたのでは,公正中立な裁判所の判断が
ゆがめられる可能性があり,また一般市民の方々の放射線への認識
にも悪影響をもたらしかねないものです。そのため,放射線リスク
研究にまじめに取り組んできたわが国の研究者集団として,この事
態を大変憂慮しております。
ここに,私たちは,世界的に認められている放射線物理学・保健
物理学,放射線疫学や放射線生物学の知見を紹介しながら,沢田氏
の意見書の非科学性や矛盾点を指摘していきます。
私たちが依拠する世界的に認められている科学的知見に照らすと,沢田氏の
意見書の非科学性や矛盾点は枚挙にいとまがありません。主なものを列挙する
と,以下の9点を挙げることができます。
第一に,放射性降下物による被曝線量推定式および図は,一見,科学的な装い
で説明されておりますが,沢田氏が意図するような線量を計算できるように,
何ら根拠なく恣意的に関係式を作り,急性症状の発症頻度に合わせて「症状発
症頻度と爆心からの距離」と「線量と爆心からの距離」をなぞったもので,科
学的には何の意味もありません。本来必要なのは,観察された症状が放射線の
1
影響によるものか否かの厳密な検討です。しかし,沢田氏はそのような検討を
せず,これらを全て放射線の影響として,推定式を作り,線量計算をしている
(このような仮定は科学的・医学的に到底受け入れられないものです。)ので,
高い線量が得られるのは当然です。
現在わが国の死亡の3割は癌が原因であり,5割の人が一生に一度は経験し
ます。例えるなら,沢田氏の行っている議論は,癌がすべて放射線が原因であ
るものとして,現在の日本の全国民が受けている放射線の線量を推定するのと
同様の暴論です。そのため沢田氏の議論は,典型的な循環論法と言え,論理的
に破綻しています。
第二に,マウスの実験結果より沢田氏が採用した「脱毛が有意に増加する線量」
は,世界中の国が放射線防護の基準として用いている国際放射線防護委員会
(ICRP)が採用している「放射線による脱毛」の定義とは全く異なったもので,
住民の脱毛発症最低線量の推定には利用できません。
「頭髪の5%が抜ける」線
量は「住民の5%が脱毛を経験する」線量とは違います。
第三に,住民のアンケート調査の精度や信頼性の評価を怠っており,とりわけ
戦後直後の調査と戦後半世紀後のアンケート調査結果を無批判に直結させて,
遠距離住民に急性症状を起こすような被曝があったという主張は,さらに科学
的根拠に乏しいのです。
第四に,沢田氏の意見書では,4~6グレイ以上の消化管被曝が無ければ出現
しない下痢症状の頻度の方が,3グレイ以上の皮膚被曝で出現する脱毛の発症
頻度や,2~3グレイ以上の骨髄被曝で出現する紫斑の頻度より高くなるとい
う矛盾を呈しています。その説明のため,放射性降下物による内部被曝の特殊
性やホットパーティクルの関与などを挙げておりますが,ビキニ環礁での水爆
実験による放射性降下物のデータや被曝住民の症状は,沢田意見書の主張を否
定するデータとなっております。
第五に,沢田氏の意見書では,放射性降下物による被曝が住民の下痢や紫斑や
脱毛の原因であるとしていますが,これらの症状の発症分布は,放射性降下物
2
が降下した方向とは無関係で,放射性降下物が降下しなかったとされる地域に
も同じような頻度で見られております。
さらに(細かいデータや計算法については,のちほど示しますが),放射性降
下物の大半は数分から数時間という大変短い時間で放出する放射線が半分にな
る(半減期)ため,爆心からの距離が離れるに従い,人々が受ける線量は小さ
くなります。また,遠距離になるに従い放射性降下物自体が大気により希釈さ
れるため,放射性降下物自体も少なくなるはずです。そのため,急性症状の頻
度も加速度的に低下するはずですが,戦後半世紀後の長崎のアンケート調査結
果は,距離とは無関係に同じような頻度で下痢が発症しています。すなわち,
この調査結果は,放射線以外の原因で発症した症状をピックアップした可能性
が高いことを示しています。
第六に,DS86 をまとめる際に,放射性降下物からの線量推定が実施されており,
有意な被曝線量は無かったと結論されております。なお,昭和51年,53年,
平成3年と繰り返し,土壌調査が行われておりますが,有意な放射線量は計測
されていません。
第七に,仮に放射性降下物による被曝線量が沢田氏の主張するように遠距離被
爆者で1グレイ,2グレイといったレベルであったなら,当然,放射線によっ
て生じることが他の知見からも明確な染色体異常の頻度が,遠距離被爆者で高
い頻度で観察されるはずですが,放射線影響研究所の研究結果は,遠距離被爆
者と市内非滞在者(NIC)で染色体異常頻度に差がないことを示しており,沢
田氏の主張を明確に否定しています。
第八に,仮に放射性降下物による被爆線量が沢田氏の主張するようなレベルで
あったなら,当然,急性症状の発症分布は,爆心を中心とした同心円分布では
なく,放射性降下物の降下方向に大きく舌状に張り出した分布になるはずです
が,放射線影響研究所の調査結果は,近中距離でわずかなゆがみがあるのみで,
遠距離で高くなることはありませんでした。
第九に,仮に放射性降下物による被曝線量が沢田氏の主張するようなレベルで
あったなら,当然,放射線発癌の発症分布は,爆心を中心とした同心円分布で
3
はなく,放射性降下物の降下方向に大きく舌状に張り出した分布になるはずで
すが,放射線影響研究所の調査結果では,最も放射線の感受性の高い白血病で
さえも,はっきりとした傾向のある結果は出ませんでした(ほぼ同心円状でし
た)。
沢田氏の意見書には,主な問題点として以上のようなものがありますが,こ
れらの問題点を踏まえ,私たちが依拠する世界的に認められている放射線物理
学・保健物理学,放射線疫学や放射線生物学の知見を示しながら,沢田氏の意
見書の内容が,いかに非科学性・矛盾点に満ちているかを明らかにしていきま
す。
この意見書では,まず,沢田氏の意見書における根本的な問題であると考え
られる,沢田氏による資料の分析方法の問題点を指摘して,沢田氏の意見が循
環論法であることを明らかにし(第1章),
次に,生物学的線量評価として,急性症状等から被曝線量を推定するに当た
り考慮すべき事項を明らかにし,沢田氏による生物学的線量評価が標準的な知
見と乖離した独善的なものであることを明らかにするとともに(第2章),
世界的に認められている放射線物理学・保健物理学,放射線疫学や放射線生
物学の知見に基づく放射線影響研究所における放射性降下物の寄与に関する考
え方等を紹介し,沢田氏の意見が,いかに他の知見とかけ離れた独善的なもの
であるのかを明らかにします(第3章)。
4
第 1 章.循環論法
1.1 論旨が循環論法であること
沢田意見書では,第一に,明らかに初期放射線が到達していない地域の住民
が,1999 年から 2000 年に実施した郵便調査において被爆直後から昭和 21 年
2 月末までに起こったと訴えた症状をすべて,本意見書の第2章で紹介する急
性放射線症状と巧妙に同一視しているところに根本的な誤りがあります。第二
に,バックグラウンドの症状発症が一定頻度あることを無視して,種々の調査
において報告された症状をすべて放射線影響と仮定して,図4から図 11 に示
されているような被爆距離と被曝線量の関係を導出しておりますが,両者の関
係性を裏付ける科学的実験や症状以外の疫学的,放射線生物学的根拠あるいは
放射性降下物(以下「フォールアウト」ともいう。)の拡散予測等に基づく推
計などの科学的根拠は無く,恣意的に症状頻度に合わせてパラメータの数値を
付与しただけのものです。この関係式を使って当該地域の住民が大量の放射線
に被曝したと結論づけていますが,もともと症状から線量の関係式を導いてい
るので,これは循環論法の典型です。
本意見書の第2章で述べますが,急性放射線症状は,放射線に特異的な症状
ではありません。物理的線量評価法(DS02 および放射性降下物の測定データ
からの演繹など),個々の急性症状の組み合わせ,急性症状の発現時期と終息
時期,個人被曝線量評価のゴールドスタンダードたる染色体線量評価との整合
性など,複数の観点から妥当性を検討しない限り,当該症状が放射線に起因し
たとは結論づけられません。どんな名医であろうとも,症状を見ただけでは,
それが放射線によるものかどうかを診断することはできないのです。
例え「放射線を○○グレイ浴びると5%のヒトで脱毛や下痢が起こる」こと
が正しかったとしても「脱毛や下痢があったヒトはすべて○○グレイ以上の被
曝があった」とはなりません。もし「放射線を○○グレイ浴びると5%のヒト
で脱毛や下痢が起こる」イコール「脱毛や下痢があったヒトはすべて○○グレ
イ以上の被曝があった」としてしまいますと,発症時期を半年まで延ばすこと
によって,極端なことを言えば原爆投下後半年の間に爆心地から100キロ離
れた地点で円形脱毛症で脱毛した方や赤痢・疫痢で下痢を起こした方がいた場
合でも(一定の数は必ずいます),計算式をそれに併せて設定すれば,放射線
影響と数えられてしまいます。
本意見書では,まず,沢田意見書の根本的な問題である循環論法であること
を指摘したいと思います。
5
沢田意見書における循環論法
爆心から遠く離れていたけど、
私はたくさんの放射線を受けた
その根拠は
近距離被爆者と同じく、
私は下痢を経験したから
沢田グラフによれば、私は下
痢をおこす程の被曝があった
ことが証明された
でも下痢を引き起こすレベルの
被曝はなかったですよね?
住民の下痢の頻度に合わ
せて被曝線量グラフ(沢田
グラフ)を考案
放射線による他の症状・染色体異常
は出ていない。
感染性の下痢症ではないですか?
国際的な科学的知見
から逸脱!
下痢は全て放射線の影響と断定
1.2 脱毛発症率から線量換算する過程での方法論的な問題
沢田意見書では,京泉らの動物実験 1 を援用して最初に被曝線量と脱毛発症
率の関係を求めていますが,この手法には科学的な問題があります。京泉の実
験は,免疫機能がほとんど機能しない状態であるマウスにヒトの胎児の頭皮を
移植しておき,放射線照射後に約 100 本の頭髪を観察するという手法で行わ
れております。かなり特殊な状況の実験で,その結果をヒトに当てはめるには
実験の信頼性・代表性に問題があります。さらに,この実験を元に脱毛発症頻
度から線量換算する際に,沢田氏は,故意にか不注意にか,移植皮膚頭髪の5%
が抜ける線量を集団の5%が脱毛を経験する線量にすり替えております。そ
して,集団の脱毛頻度から線量を推計する際に,脱毛が放射線の確定的影響で
あるのはもはや世界的に認められている確実な科学的知見にもかかわらず,確
率的影響であるかのように扱い,その結果,最終的に得られた脱毛頻度と線量
の図(図4,図7,図9)においては,放射線脱毛のしきい線量を大幅に下回
る線量でも脱毛が発症することになってしまうという科学的に誤った内容に
なっています。以下,より詳細に述べます。
第一に,拠って立つ実験の信頼性が低いのです。ヒト頭皮移植マウスに各々
1グレイ,2 グレイ,3グレイ,4.5 グレイ,6 グレイと線量を振って脱毛の
程度を観察していますが,各照射ポイントに使ったマウス(頭皮)数はわずか
2~3匹に過ぎないこと,さらに,移植後約 5 ヶ月という限定された「年齢」
1
京泉他:SCID-huマウスのヒト毛髪毛嚢の放射線感受性。ラディエーション
6
リサーチ誌
149 巻 11-18(1998)
で照射実験をしていることです。すなわち,放射線感受性には個体差があり,
かつ,「年齢差」があるとされているところ,沢田氏が拠り所とした実験は実
験規模が小さいため,そこから得られる数値は誤差が大きく,そこから得られ
る 50%効果線量やその標準偏差値は,元々信頼性が低いのです。
第二に,マウスの実験からヒトへの効果線量の演繹に問題があります。免疫
不全マウスに移植したヒト頭皮とはいえ,ヒトとは異なる生体環境に置かれて
います。頭髪の成長に必要な成長ホルモンや甲状腺ホルモンなどはマウス由来
であり,血液や血管はマウスに依存しております。このため,マウスに移植さ
れたヒトの頭髪は,ヒトとは異なる成長速度や寿命をもつと思われます。また,
寿命が約 2 年と短いマウスは,老化を促進する酸化ストレスのレベルがヒトよ
り高く,頭皮に栄養を与える毛細血管の老化スピードや,ヒト毛母細胞や毛包
上皮幹細胞への酸化ストレスも大きくなっています。このため,移植されたヒ
ト毛母細胞や毛包上皮幹細胞の放射線感受性は,実際のヒトの頭にあった時の
毛母細胞や毛包上皮幹細胞の放射線感受性とは異なると考えられます。例えこ
の実験から脱毛の 50%効果線量と標準偏差を求め,そこから「脱毛が有意に
上昇する線量」を推計したとしても,その値が原爆被爆者集団の多様な放射線
感受性を代表できるのかどうか大変疑問です。
第三に,京泉らの実験から得られた「脱毛が有意に上昇する線量」1.44 グ
レイは,観察していた 100 本の頭髪のうち5本が抜けた線量のことであり,
被曝した集団の5%のヒトが放射線脱毛を経験するしきい線量とは異なる概
念だということです。国際防護委員会ICRPは,放射線感受性の高いヒトを考
慮して集団の 1~5%のヒトに大量の一時的脱毛が起きる最低線量(しきい線
量)を3グレイと定義しております 2 。これに対し,沢田氏は,免疫不全マウ
スに移植したヒト胎児頭髪の 5%脱毛線量 1.44 グレイをあたかも住民の5%
が脱毛を経験する線量と置き換えています。沢田意見書の 11 ページでは,
「脱
毛発症率からの推定値は 1.4 グレイおよび 0.86 グレイ」と述べるなど,脱毛
が一定の線量を超さないと発症しない放射線の確定的影響(第 2 章で詳述)で
あるにもかかわらず,放射線発癌などと同様に確率的影響であるかのように計
算をしております。
以上のように沢田意見書で採用されている線量推定方法は,方法論的に循環
論法に陥っているばかりか,そこで採用している脱毛が起きる被曝線量も,放
射線の利用が始まった20世紀前半の臨床経験(日常の放射線診療などの過程
で過剰照射のために放射線熱傷や脱毛などの人体影響を起こしてしまった経
2
原子力安全委員会 健康管理検討委員会報告 平成 12 年 3 月 27 日 の表 5 に国際的に認められてい
るしきい線量がまとめられています。それによれば,一時的脱毛のしきい線量3Gy,永久脱毛のしきい線
量7Gyです。
7
験)から ICRP が定義した一時脱毛のしきい線量の半分以下の線量で脱毛が起
きることとなっています。
1-3. 被曝線量の推定に用いられている線量計算式の問題
沢田意見書は9~10 ページで,爆心地から r キロメートルの距離における
全被曝線量 D(r)を初期放射線量 P(r)と放射性降下物による被曝線量 F(r)を用
いて D(r)=cP(r)+F(r)と表し,c は遮蔽効果を表すパラメータであると述べ,こ
の遮蔽効果も急性症状のデータから推定しているようですが,これは奇妙なこ
とです。遮蔽効果は遮蔽状況で定められるもので,健康影響から定められるも
のではないはずです。さらに,放射性降下物による被曝線量 F(r)は 3 個のパ
ラメータ a, b, d を含む式で表されているようですが,国側の求釈明に対する
沢田氏の回答によれば,これらのパラメータは発症頻度をなぞるにもっとも適
当な数値を推計し当てはめただけのようです。特に遠距離のグラフは,放射線
物理学的根拠,放射性降下物の減衰と拡散などのシミュレーションに基づく根
拠や放射線生物学的根拠があって求められた数値ではありません。一見科学的
に見えますが,ただ,グラフ上の症状発症頻度の点をなぞったグラフ以上の意
味は持っておりません。
恣意的な例を挙げれば,図 5 では,「図3の初期放射線被ばくに対する脱毛
発症率を示す●印は,
...バックグラウンド発症率として差し引かれた発症率
を加えて元に戻すと上方に移動する。」
(沢田意見書 12 ページ)として■印の
グラフを 30%弱上方に移動しております。この 30%弱の上方移動は,恣意的
です。沢田意見書の 8 ページには,放射線影響研究所の調査では「初期放射線
量が無視できる遠距離の脱毛は放射線以外によって生じたバックグランウン
ドであるとしてこの発症率を□印から差し引いて」と書かれておりますが,実
際に沢田意見書で引用されたオリジナルの論文(長崎医学会雑誌 73 巻特集号
251-253 ページ)を見てみますと,図Aにありますが,バックグラウンドと考
えられた脱毛の頻度は約1%に過ぎません。これを 30%弱まで拡大するのは,
自分のロジックに合わせるための全くの恣意的な操作としかいいようがあり
ません。また,沢田意見書の16ページには,脱毛発症の半発症線量(50%効
果線量)と標準偏差を初期放射線被ばくの脱毛と放射性降下物による脱毛に対
して別個に割り当てていますが,これも何ら実験的エビデンスのない,症状の
頻度に合わせて恣意的に数値を選んだ結果に他なりません。この関係式を使っ
て症状から被曝線量を推計するのは,循環論法そのものです。
8
図A
1-4. 沢田氏が採用した調査・分析の問題点
沢田氏が採用した調査・分析の手法は,データについて系統的誤差(バイア
ス)がかかりやすいことを見過ごしたもので,戦後直後の聞き取り調査の結果
と半世紀経ってからのアンケート調査を同等に扱うものであって,非常に問題
点が多いものです。
すなわち,まず第一に,時間が経ってから行うアンケート調査は,バイアス
が起こりやすいので,その調査の信頼性を評価する必要があります。時間が経
ってから行うアンケート調査は,リコールバイアス(思いだしによる系統的誤
差)やレポーティングバイアス(情報提供者の意欲の差に基づく系統的誤差)
などが入りやすいからです。原爆手帳交付が受けられるかもしれないという状
況下で行われた長崎市・長崎県のアンケート調査では,これらのバイアスが強
くでる可能性があります。
第二に,調教授の調査や ABCC/放影研の調査が原爆投下後早期(2ヶ月以内)
の症状発症を調べているのに対し,長崎県・長崎市の調査結果は原爆投下後半
年間の症状を聞いています。第2章で述べるように,放射線被曝による脱毛で
あれば被曝後 3 週前後に発症し,8~9週頃から回復します。放射線被曝によ
る下痢であれば,被曝後2~3週以内に発症し,多くの場合は致死的です。放
射線被曝による出血(紫斑)は,線量により異なりますが,遅くとも被曝後4
週前後には発症します。長崎県・長崎市の調査結果では,症状出現時期に関し
9
ても質問しているのですが,公表されているデータは半年間のものです。これ
では,症状発症時期から見ても放射線と関係ない症例が大部分だといわれても
仕方ありません。
このように戦後直後の聞き取り調査の結果と半世紀経ってからのアンケー
ト調査は,その科学的価値が異なるものであり,それらを同等に扱い,図10
のように発症率の線を結んで引くのは,人を欺くやり方です。
1-5. まとめ
以上,沢田意見書は,住民の症状すべてを被曝の影響と仮定して,一定の症
状発症頻度があったから,被曝があったと結論しております。これは,循環論
法です。ロジックの展開の過程で,症状の発症頻度に合わせて a,b,c,d などの
パラメータを恣意的に設定し,線量-効果関係グラフを導いていますが,本質
的に科学的根拠の無い,単に症状に合わせた線量と爆心からの距離の関係グラ
フに過ぎません。線量-効果関係グラフの妥当性を支える他の疫学集団や実験
的エビデンスがないのです。このような症状から出発した関係グラフを使って,
遠距離住民の症状を根拠に被曝線量があったと結論するのは,典型的な循環論
法です。しかも,線量推定の拠り所となっている動物実験は,実験自体がサン
プル数の少ないものであり,誤差が大きいばかりでなく,ヒト集団の脱毛のし
きい値を演繹するには,科学的問題があります。このような科学的根拠の無い
線量-効果関係グラフを用いて,沢田意見書では,国際放射線防護委員会 ICRP
が定義した脱毛のしきい線量3グレイの半分以下の線量で脱毛が起きると主
張する独善になっております。
まずは,沢田意見書の根本的な問題である循環論法になっていることを指摘
しました。これのみをもってしても,沢田意見書の非科学性・矛盾点が明らか
です。しかし,沢田意見書の問題はこれに尽きません。以下,より具体的に国
際的な標準を示しながら沢田意見書の問題点を述べていきます。
10
第 2 章.生物学的線量評価による被曝線量の事後的評価
-沢田意見書の世界標準との乖離あるいは独善-
2.1 放射線を浴びた方の被曝線量を事後的に推定する方法
ここからは,生物学的線量評価について,別添の「緊急被ばく医療の基礎知
識」の 3 章 線量評価法に基づいて説明します。
沢田意見書の中にも,生物学的線量評価という言葉が使われておりますので,
はじめに生物学的線量評価という概念の全体像を説明します。被曝事故等で大
量の放射線を浴びたことが確実な患者の治療においては,今後の病態の変化を
予測し,治療方針を定めるため被曝の形態と被曝線量を評価して,患者の被曝
重症度を事前に推定する必要があります。そしてその線量評価に基づき治療方
針を定めます。急性放射線症候群と呼ばれる病態は,被曝線量に応じて重症度
が変わり,また発症時期が変わるからです。主治医は,症状が発症する前から,
今後の病態を予測して予防的な治療を開始する必要があります。
① 患者が放射線作業者がつけているような個人線量計を携帯していた場合は,
当然のことですが,線量推定は容易です。
② 放射線によって性質が変化するような宝石等を身につけていたりした場合
には,それらを使って被曝線量を事後的に評価する(TLD 法)ことが可能です。
なお,患者の歯が入手可能であれば,歯のエナメル質を電子スピン共鳴法(ESR
法)という特殊な方法で測定することによって,線量推定が可能です。ESR 法
は,原爆被爆者にも応用されています。
上記の①や②のような方法が不可能な場合には
③ 線源と遮蔽の状況が判っている場合には,コンピュータを使って被曝線量
をシミュレーションできます。原爆被曝では,DS86 や DS02 線量評価システム
がこれにあたります。また,放射性降下物からの被曝においても,代表的な放
射性同位元素の降下量(密度)と空間線量率の関係が実験的に求められていま
すので,代表的な放射性同位元素の降下量(密度)が判れば一定の推計が可能
です。DS86 第 6 章において,放射性降下物からの被曝線量に関して,一定の結
論が導かれております。
④ 被曝患者の血球の減少・回復の動態や,リンパ球の染色体異常頻度や,下
痢や嘔吐などの急性生体反応などから総合的に線量を推計することも一定程度
可能です。これらの④の方法を生物学的線量評価法と呼びます。
2-2. 生物学的線量評価法
生物学的線量評価法の中では,リンパ球の染色体異常頻度に基づく細胞遺伝
11
学的線量評価法がゴールドスタンダードとなっております。この方法では,実
験的にどれくらいの線量を浴びせると,リンパ球にどれくらいの染色体異常が
出現するのかを調べておき,この「線量効果カーブ」を「物差し」にして,被
曝患者さんのリンパ球における染色体異常頻度から被曝線量を推計します。た
だし,リンパ球は,生まれた時から自然放射線(ラドン,食品中の放射性カリ,
大地中の放射性物質からのガンマ線被曝,宇宙線など)に被曝しており,それ
による遺伝子損傷・染色体異常が蓄積されています。また,化学物質やその他
の酸化ストレスにより遺伝子損傷・染色体異常も蓄積しています。そのため,
被曝後長期にわたり存在し続ける「安定型」といわれる染色体異常頻度から線
量を推計する際には,年齢に応じて上昇する染色体異常頻度を差し引いて評価
する必要があります。原爆被爆者では,生物学的線量評価法のゴールドスタン
ダードである細胞遺伝学的線量評価が行われており,第 3 章でその結果を示し
ます。
(結論を先に述べますと,広島遠距離原爆被爆者と被爆時広島市に在住し
ていなかった市民(NIC)では,安定型染色体異常頻度に差がありません。)
臨床の現場では,他の線量評価手法の結果が得られない時点でも,下痢や嘔
吐など急性放射線症候群に伴い出現する前駆症状や急性症状を指標に大まかな
線量を推定する場合があります。しかし,前駆症状や急性症状から被曝線量を
推計する方法は,あまり正確ではありません。なぜ正確でないかというと,特
に放射線を浴びた(可能性のある)事故の際には,考えられないほどのストレ
スや衛生状態等の環境の変化があることが多く,下痢や嘔吐といった放射線に
よる急性の臨床症状は放射線による影響なのか,他の影響なのかの鑑別が難し
いためです。そのため,被曝状況等の他の情報や細胞遺伝学的線量評価と比較
して矛盾がない場合にのみ,大まかな線量評価として認められます。
別添「緊急被ばく医療の基礎知識」10ページおよび19ページには,それ
ぞれ全身被曝線量と急性放射線症候群の前駆症状との関係(表Aとして本意見
書に採録)と全身被曝線量と急性放射線症候群の症状や検査所見や発症時期(表
Bとして本意見書に採録)をまとめております。これらの表は,国際原子力機
関(IAEA)と世界保健機構(WHO)が出版した「放射線障害の診断と治療」
( IAEA/WHO Safety Reports Series No.2. "Diagnosis and Treatment of
Radiation Injuries)より収録しています。これらは,旧ソ連邦やドイツの研究機
関が収集していた放射線事故被曝の患者のデータベースを元に世界中の主立っ
た緊急被曝医療の専門家によって検討され,まとめられたものです。データベ
ースに採用されている症例は,それぞれ物理学的線量評価値や細胞遺伝学的線
量評価値を「物差し」として臨床症状が関連づけられております。このため,
これらの表は,急性症状から線量を推定する場合の「物差し」としても客観性
を有しており,JCO事故など国内事故の際に被曝線量を推定する方法として
12
使われたのみならず,世界中の放射線被曝事故で被曝した患者への治療のため
に使われています。
急性症状には,被曝当日・翌日に顕れる前駆症状(表A)と一定の潜伏期間
後に顕れる急性放射線症候群の症状(表B)があります。これらの表では,全
身被曝の際の線量を吸収線量グレイ(Gy)で示しております。局所被曝の場合
には,指示されている線量より若干高い線量でこれらの症状が顕れます。
一度に被曝する(急性被曝)のではなく,慢性的に(遷延被曝),あるいは,
分割して被曝する(分割被曝)場合は,同じ被曝線量であっても急性症状が出
にくくなります。この理由は,急性症状というものが放射線による細胞死をベ
ースにしており,細胞が死にすぎて当該組織の恒常性が破綻して出現する病態
なので,細胞死による組織機能の欠損を新たな細胞分裂で補修する時間的な余
裕が生ずる遷延被曝や分割被曝では,しきい線量よりずっと高い被曝線量でな
ければ症状が顕れないのです。以下の表A,表B,図Bは,急性被曝の際の症
状発現の線量を示しています。
まず表Aを元にして説明します。表Aは,被曝直後の症状と被曝線量に関す
る表です。
表A
13
表Aに示したように,被曝当日に観察される前駆症状としての下痢は,4~6
グレイ(Gy)全身被曝した患者では10%未満の頻度で被曝後3~8時間後に
一過性に観察され,また,6~8 グレイ全身被曝した患者では10%以上の頻度
で被曝後 1~3 時間後に一過性に観察されます。前駆症状としての下痢は,被曝
した消化管粘膜から放出される生理活性物質などの作用で消化管の浮腫がおこ
ぜんどう
り,また蠕動運動が亢進するためと考えられます。蠕動運動とは,消化管が環
状の収縮を次々と肛門側へ移行させて,内容物を肛門側へ送り出す運動を言い
ます。
次に表Bを元に説明します。表Bは,一定の潜伏期間を経過してからの症状に
関する表です。表2に示したように,被曝後 6~9 日目以降に発症する下痢は,
4~6 グレイの「重症」急性放射線症候群ではまれに観察されますが,6~8 グレ
イの「非常に重症」の放射線症候群の症状です。被曝により消化管粘膜の再生
ひ はく
びらん
が障害され,消化管粘膜の菲薄化(薄くなっていく様),体液漏出,粘膜糜爛(潰
瘍までに至らないただれ)が進行するために起きる下痢です。この時期の下痢
は,はじめは水溶性の下痢便ですが,徐々に血性の下痢便に進行する特色があ
ります。また,腸内の細菌が体内に侵入して,敗血症などの感染を併発します。
全身被曝が原因で下痢を発症した患者は,3 週以上生き延びていれば必ず脱毛や
出血を経験します。
14
表B
さて,放射線影響研究所の調査によれば,熱傷や爆風による外傷による死亡
を除いた原爆被爆犠牲者の60日以内半致死線量(60 日以内に 50%の被爆犠牲
者が死亡した線量)は,骨髄の線量として 2.7~3.1 グレイと推定されておりま
す 3 。この 2.7~3.1 グレイという線量は,表Aおよび表Bでは「中等度」の急
性放射線症候群にあたります。この被曝線量域では,造血組織やリンパ組織の
障害が主体で,発熱(感染症)や出血や脱毛などが出現します。しかし,この
線量では消化管組織の障害は軽微で,下痢などの臨床症状は発生しません。下
痢は,
「重症」急性放射線症候群で希に経験することはありますが,典型的には
「非常に重症」な急性放射線症候群の症状で,原爆被爆者の60日以内半致死
線量のおよそ 2 倍以上の被曝線量,すなわち6グレイ以上で発症します。放射
線の影響で下痢を発症した患者は,現代の医学で最高の治療を行っても救命率
は低いです。言い換えれば,真に放射線障害により下痢を発症した場合には,
全身の被曝線量が高すぎて出血や重症感染症を合併し,アンケート調査を実施
した時期まで生き延びたチャンスは極めて低いと思われます。
3藤田,加藤,シャル:広島と長崎の原爆被爆に伴う半致死線量。ジャーナル
サーチ誌 32 巻増刊 154-161(1991)。(英文)
15
オブ
ラディエーション
リ
2-3. JCO 事故およびタイ国バンコク郊外被曝事故経験
筆頭意見書提出者の鈴木は,1999 年 9 月 30 日に発生した東海村 JCO 臨界事
故で主治医を務め,また,2000 年 2 月にタイ国バンコック郊外でおきたコバル
ト線源による被曝事故では,国際原子力機関 IAEA から緊急被曝医療の専門家
として派遣されました。ここでの臨床経験は,これまで述べてきた急性症状か
ら被曝線量を推定する考え方を裏付けるものなので,その経験を紹介します。
まず,JCOの件ですが,JCO事故の被曝患者 3 名うち,一番被曝線量が高か
ったA氏は,消化管への被曝線量として 19.5~25 グレイ相当(GyEq分かりやす
くするため,Gyと同じものとみてもらってかまいません。)と高線量だったた
め,脱毛,出血傾向は無論のこと,放射線熱傷,消化管傷害(下痢,消化管出
血)を呈し,幹細胞移植など最先端の治療を行いましたが被曝後83日目に死
亡しております 4 。二番目に線量の高かったB氏は,消化管への被曝線量として
10.3~13.2 グレイ相当の被曝と評価されています。B氏も脱毛,出血傾向,放射
線熱傷を発症しましたが,予防措置の効果もあり急性期に下痢は起こしており
ませんでした。B氏は,骨髄障害や放射線熱傷の治療を受けましたが,被曝後
139 日目より放射線障害による口腔内潰瘍および消化管潰瘍のため,出血が始ま
り,被曝後半年後に死亡するまで出血は止まりませんでした。一番線量の低か
ったC氏の線量は,消化管への線量として 2.9~3.7 グレイ相当(GyEq)でした。
C氏は,特別消化管障害を予防するような措置はとりませんでした。C氏は,脱
毛を起こしましたが,出血や下痢は経験しませんでした。
次に,2000 年 2 月のタイ国での被曝事故では,10 名の方が被曝しました 5 。
全員脱毛を経験しましたが,下痢を発症した患者は 3 名だけです。下痢症状を
呈した 3 名中 2 名が敗血症で死亡しています。又,下痢は経験しませんでした
が,もう一名が敗血症で死亡しています。
このように,脱毛を起こす線量を受けていても,下痢を経験する患者は一部
で,これらの患者は脱毛だけを経験した患者よりさらに被曝線量が高いのです。
そして,下痢を発症すると死亡する可能性が高いことが判ります。
2-4. 急性放射線症状を線量評価に使う場合の一般的な注意
上記 2-2.でも述べましたが,急性放射線症状として挙げられる症状は,いず
れも放射線に特異的なものではありません。放射線による急性症状において見
られる症状は,放射線を原因とする以外に,代表的なものだけでも以下のよう
な多種多様な疾患を原因とすると考えられます。
4
プロシーディングス 東海村臨界事故に関する国際シンポジウム。放射線緊急時の医学的側面
辻,明石),千葉,日本 2000 NIRS-M-146 英文
5 サムートプラカーンの放射線事故
国際原子力機関 2002,ISBN 92-0-110902-4 英文
16
(編者
下痢の場合:①細菌やウイルス,②寄生虫,原虫,真菌,③薬剤性,④食物ア
レルギー,⑤ヒ素等の毒物摂取,⑥寒冷,⑦心因性ストレス,⑧腸管の循環障
こうげんびょう
害,⑨甲状腺機能亢進症,膠 原 病 等の合併症,⑩慢性炎症性腸疾患など
脱毛の場合:①ストレス②内分泌障害(特に甲状腺機能低下症や甲状腺機能亢
進症)③抜毛症④全身性エリテマトーデス⑤真菌感染症⑥梅毒⑦タリウムやヒ
素等の中毒など
出血の場合:表Cのような多くの疾患や,ビタミンCやKの欠乏など
表C
これらは,放射線を原因とするものではありませんが,バックグラウンドの
発症頻度と呼ばれています。急性症状から被曝線量を推定する際には,バック
グランドの発症頻度に十分な注意を要します。すなわち,放射線による急性症
状から被曝線量を推定する際,誤ってバックグランド発症頻度を放射線による
17
ものとして考慮に入れてしまう可能性を常に念頭に置かなければならず,この
ような熟慮によっても,正確な被曝線量を評価することは難しいのです。
にもかかわらず筆頭著者の鈴木がJCOやタイの事故で被曝者の線量評価を
総合的に行う際,急性放射線症状から線量推計をしたのは,これらの事故では
生命の危険があるほど放射線を浴びたことには疑う余地がなく,迅速に治療を
開始する必要があったためです。
一方,原爆投下後しかも数キロ以上の遠距離での被爆者に,しかも放射線の
急性症状は長くても 1~2 ヶ月の間に生じるものであるにも関わらずそういった
問題も考慮せず線量推計をすること自体に非常に疑問を感じます。特に原爆投
下時の周囲の状況を推察すると,被爆者の方には大変なストレス,不衛生な環
境,慢性的な食物の不足によるビタミン等の不足といった状況に置かれたこと
は容易に想像できます。
そこで,これらの症状を急性放射線症状と関連づけるためには,以下に記す
ような妥当性の検討が重要です。
第一に,それらの症状が出現する十分量の被曝線量があったか否かです。前
述したように,脱毛,出血は「中等度」の急性放射線症候群の症状ですが,下
痢は原爆被爆者の60日半致死線量の 2 倍以上の「非常に重症」の急性放射線
症候群の症状です。これは世界的に確立された国際的な科学的知見です。この
点については,既に述べたとおりです。
第二に,症状が出る時期にも特徴があります。脱毛は,急性被曝後 3 週前後
に発症し,線量がしきい線量程度であれば8~9週には回復します。下痢は,
被曝後1~2週以内に発症し,しばしば致死的です。出血(紫斑)は,遅くと
も 4 週までに発症します。この点について,後に詳細に論じます。
第三に,同じ総吸収線量であっても,慢性被曝の場合には,上記の線量を浴
びても急性症状は発現しません。このため,症状があったとしても,他の線量
評価法,例えば,シミュレーションに基づく線量評価値(DS02 など)や他の急
性症状による線量評価値,リンパ球による線量評価値や歯の電子スピン共鳴法
による線量評価値などとの整合性を検討する必要があります。第3章において,
放射線影響研究所が行ってきた染色体異常頻度からの線量評価やフォールアウ
トによる被曝評価を紹介しますが,これらの考え方による整合性の検討を欠か
せないということです。
さて,ここでは,先に述べたとおり,上記第二について,詳しく論じます。
被曝による症状出現時期と回復時期に関して,まず出血傾向に関連し,
「緊急
被ばく医療の基礎知識」の11ページに「原子放射線の影響に関する国連科学
委員会1988年報告」補遺 G に収録されている「線量に応じた被曝後の血小
板動態」(図Bとして本意見書に採録)を例に説明します。
18
血小板数(10 11/L)
10
1.0
4
6
7
8
9
0.1
3
2
1
5
10
0.01
0
10
20
30
40
50
60
被曝後日数(日)
図B.被曝線量別の血小板動態
図Bには,何本もの線が描かれていますが,線の肩部分に記している数字が
被曝線量を表しています。縦軸は血小板数で,横軸は被曝後の日数です。血小
板は,出血を止める作用をもつ血球で,これが減少すると皮下出血や紫斑がで
きやすくなります。図Bで上から 3 本目のグラフに従い説明します。このグラ
フは3グレイの被曝を受けた患者の血小板動態を示しております。一般に,健
康な方について血小板数は,15~40万/mm3(1.5 ~ 4 .0 x 1011 / L)と言わ
れていますが,被曝後 20 日から 30 日後の間に血小板数が2~3万/mm3 (0.2 ~
0.3 x 1011 / L) 以下になり,その時期に出血傾向(歯肉出血,紫斑など)が顕れ
ます。
次に,脱毛でも同じような潜伏期及び回復期があります。エリックJ. ホール
の教科書「放射線科医師のための放射線生物学」(第 5 版)(英文)の 217 ページに
は,
「一時的な脱毛は約3グレイの被曝で被曝後約 3 週で発症し,頭髪の再生に
は 5 週以上かかる」と書かれています。このように,出血や脱毛などの放射線
に起因する急性症状は,一定の被曝線量を上回る被曝があった場合に発症し,
しかも,被曝後一定の潜伏期後に出現し,急性期を生き延びることができれば
回復します。放射線影響研究所の京泉らの実験 6 でも,被曝後 2 週から脱毛が始
まり 3 週後に脱毛は明瞭になり,線量が高くない場合には被曝後 9 週で回復し
6
京泉他:SCID-huマウスのヒト毛髪毛嚢の放射線感受性。ラディエーション
19
リサーチ誌
149 巻 11-18(1998)
ます。沢田意見書でも取り上げられている放射線影響研究所のストラムらによ
る脱毛の解析やギルバートらによる脱毛,出血の解析において,被曝後60日
以内の症状に限定したのはこのような理由が背景にあります。急性放射線消化
管症候群による下痢症状は,被曝後1~2週頃に発症し,初期は水溶性の下痢
便であったものが後に血性の下痢に移行し,通常,敗血症などの重症感染を併
発して死に至ります。急性放射線症候群の発現時期以降に出血や脱毛や下痢が
出現する場合には,放射線との関係は疑わしくなります。
2-5.下痢の頻度が脱毛,出血の頻度より高い沢田意見書の問題点
以上を前提に,生物学的線量評価に関する沢田意見書の問題点をさらに詳し
く検討していくこととします。
まず,沢田意見書には恣意的なパラメータの設定が認められ,下痢の出現頻
度が脱毛及び出血の頻度より高くなるという問題が生じています。
沢田意見書の15,16ページにかけて,下痢を引き起こす線量に関して以
下のように記載されています。
「初期放射線被曝による下痢の発症率は,脱毛の
場合の半発症線量と標準偏差の 1.1 倍の半発症線量 3.026 グレイと標準偏差
0.873 グレイの正規分布によって表されるとし,放射性降下物による下痢の発症
率は,脱毛の場合の 0.72 倍の 1.981 グレイの半発症線量と標準偏差 0.572 グレ
イの正規分布によって表されるとして,下痢の発症頻度を再現する被曝線量を
求めた」。沢田氏は,いったいどの様な科学的根拠でもって下痢の半発症線量(5
0%効果線量)が3グレイあるいは2グレイとしたのでしょうか?放射線の影
響かどうか判らない於保調査の下痢の発症頻度に単純に合わせた恣意的な数値
としか言いようがありません。2-2.節で国際的に認められた科学的知見を述べま
したが,2グレイで下痢症状が 50%の被曝患者に起きることはありません。ま
た,2-3.節で紹介したように,私が治療に参画した被曝事故患者の治療経験でも
数グレイ以上の被曝患者以外に下痢を経験した患者はいません。
沢田氏が下痢に対してこのような恣意的に低い半発症線量の当てはめを行っ
たのは,図 8 に示された脱毛,紫斑と下痢の症状頻度に逆転,すなわち,被曝
線量が4~6グレイ以上でまれにしか出現しない下痢の頻度の方が,3グレイ
前後で出現する脱毛や紫斑より高いという問題を無理矢理調整しようとしたた
めに他なりません。この調整の仕方自体が,循環論法の典型です。前述のとお
り,下痢という症状は様々な原因によって生じるにも拘わらず,於保調査で報
告された下痢をすべて放射線によるものと決めつけ,その発生率に合うように,
被曝線量と発生率の関係式を都合よく修正しているのです。沢田氏の仮説は,
①放射性降下物からの被曝が従来考えられていたよりも非常に大きい,②その
20
寄与を考えれば遠距離被爆者における脱毛・紫斑・下痢等の発生を説明できる,
という二点に集約されます。循環論法ではなく,この仮説を真に証明するため
には,①を前提として沢田氏が算出した被曝線量 D(r)を,先に示した表 A, B と
照らし合わせた上で,②が成り立つかどうかを検証しなければなりません。あ
るいは,発生率に合うように修正した被曝線量と発生率の関係式が,表 A, B と
矛盾しないかどうかを検証する必要があります。ところが本来,非常に重症な
急性放射線症状である下痢が,中等度の急性放射線症状である脱毛・紫斑より
も高い頻度で生じるはずはなく,このような検証作業を行うまでもなく,沢田
氏の仮説は成立し得ないのです。
2-6. 沢田意見書における確定的影響と確率的影響の混同
次に,沢田意見書には,確定的影響と確率的影響とを混同しているきらいが
あり,そのため,図 4,図7,図9,図11には,放射線生物学的にあり得ない
過ちがあります。
専門的になりますが,放射線の人体影響には確定的影響と確率的影響があり
ます。確定的影響には,表A,表Bに示した全身被曝時の急性放射線症候群や,
その他,放射線熱傷,放射線誘発甲状腺機能低下症,放射線誘発不妊症,放射
線肺臓炎などがあります。確定的影響は,組織を構成する細胞,とりわけ幹細
胞が被曝により細胞死を起こし,組織の恒常性が障害されるために発症する病
態です。
例をあげて説明します。そもそも腸管の中は,もし体内に入ると重篤な感染
症を引き起こす大腸菌を初めとした細菌が無数に存在しています。腸管は隙間
いんか
なく粘膜によって覆われておりその奥深くには,幹細胞であるクリプト(陰窩)
細胞が多数存在しています。粘膜の細胞は3~5日で生え替わるため,粘膜に
傷がついても早急に修復されます。クリプト細胞は細胞分裂によって腸壁に粘
膜を供給することができる細胞であり,粘膜上皮細胞を供給し続けることによ
って,小腸から肛門に至るまで,腸壁を粘膜上皮で覆い,腸内の細菌が体内に
入って,感染を起こすことを防いでいます。
21
図C
放射線照射を受けると,クリプト細胞が細胞分裂を一時的に停止するばかり
でなく,高線量被曝したクリプト細胞は細胞死を起こしてその数が減少します。
他方,成熟した粘膜上皮細胞は放射線に対して抵抗力があり,簡単には細胞死
を起こさないのですが,元々寿命が短いのです。このような状態では,少ない
上皮細胞数で粘膜面を覆うため,まず粘膜の丈が短くなります。しかし,最低
限の粘膜機能(腸内細菌へのバリア,体内の水分や電解や栄養分の漏出防止)
がまっとうされている間は,症状は起きません。被曝線量が増えて一定のレベ
ル(これをしきい線量と呼びます)を超すと,生き残るクリプト細胞が少なく
なり,ついには粘膜面すべてを上皮細胞で覆うことができなくなり,細胞と細
胞の間に隙間が生じてしまいます。この隙間から腸内細菌が体内に侵入したり
(菌血症・敗血症),水分・電解質の漏出が起きたり(下痢として発症),さら
に重症になると消化管出血を起こします。このように,確定的影響においては,
被曝線量がしきい線量に達するまでは組織の恒常性が保たれ(例えば粘膜の厚
さが薄くなっても,最低限の機能は保たれる),症状が発現しないのです。そし
22
て,しきい線量を凌駕する被曝を受けると線量が増えるに従い急激に重症化し
ます。これに対し,確率的影響は,幹細胞や生殖細胞の DNA に変異が蓄積する
ため起きる病態で,放射線による DNA 変異の確率は,被曝線量に応じて増加し
ます。しかし,確定的影響と異なり,線量とが増加しても,将来起きてくる癌
の重症度は変わりありません。確率的影響には,放射線防護の立場から,100
ミリシーベルト以下の低線量放射線被曝でも確率的に放射線発癌のリスクがあ
る,言い換えれば,しきい線量がないとされています。ただし,これまでに得
られている疫学・生物学的知見を総合しても,100 ミリシーベルト以下の低線量
で本当に癌が誘発されるかどうかはわかっていません。
この点,先に過ちがある旨指摘した沢田意見書の図4,図7,図9,図11
では,自ら脱毛症状が有意に増加し始める線量(5%の頭髪が抜ける線量)を 1.44
グレイであると定義したにもかかわらず(9ページ),これらの図ではICRPの
しきい線量3グレイどころか京泉の実験でも脱毛が起こるはずのない 0.8 グレ
イでも住民に放射線脱毛が観測されるといった矛盾に陥っております。このよ
うな矛盾は,沢田氏がしきい線量の意味合いを正しく理解していないことに起
因します。確率的影響の場合は,変異を起こした細胞が少数であっても,その
変異が悪性のものであれば臨床症状に発展する可能性があります。そのため,
しきい線量はないと仮定されているのです。しかし,確定的影響の場合は,先
の腸管の例が示すとおり,一度に多数の細胞が死滅しない限り症状は出現しま
せん。京泉の動物実験に基づけば,0.8 グレイの被曝でも 0.6%の毛は抜けるこ
とになりますが,この程度では臨床的に異常とされる脱毛にはなりません。な
ぜならば,健常者であっても毛髪の一部は常に抜けて生え変わっているからで
す。
(なお,栄養も十分で,原爆など特別なストレスの存在しない現代の私たち
でも,1日あたり約50~100本は自然脱毛します。10日で約1%弱の頭
髪が抜け替わる計算です。)ここで問題とすべき脱毛は一度に大量の毛髪が抜け
落ちる状態であり,そのためにはもっと高い被曝線量が必要なことは明らかで
す。同様に,下痢に関しても,放射性降下物からの 0.8 グレイの被曝でも下痢が
起きるとしております。ヒトの疫学であれ動物実験であれ,放射線消化管障害
が 0.8 グレイで起きるという報告は一切ありません。文献があるのであれば,
是非とも,エビデンスを示してもらいたいものです。沢田氏は,外部被曝と放
射性降下物による内部被曝では,消化管症状の出方が違うという我田引水を行
っていますが,次にそれを検討してみましょう。
2-7. 内部被曝は,脱毛より下痢頻度が高いことを説明できるのか?
沢田氏の意見書の中では,本来,
「非常に重症」急性放射線症候群の症状であ
る下痢の頻度が,「中等度」急性放射線症候群の症状である脱毛や出血(紫斑)
23
の頻度より高い頻度で観察されており,その理由として「内部被曝による下痢
症状は,体内に摂取した放射性微粒子が腸の内壁に付着したり,毛細血管を通
して腸壁の組織に接近して引き起こされる。」また,「内部被曝の場合には透過
力が弱い放射線が密度の高い電離作用によって,局所的に深刻な被曝影響をも
たらす」(18 ページ)ためと説明しています。「透過力が弱い放射線が密度の高
い電離作用」をもつ放射線として,17,18 ページでアルファ線およびベータ線
に言及しています。沢田氏は,放射線の種類により被曝した時の効果の出方の
効率(専門的に相対的生物効果 RBE といいます)が違うことに言及しているの
だと思います。そして,放射性降下物による被曝では,アルファ線やベータ線
の消化管内部被曝が起きるため,脱毛を起こさなくとも下痢を起こすと言いた
いのかもしれません。しかし,一見専門的に述べられていますが,ここでも沢
田氏が放射線物理学や放射線生物学の常識を欠いていることが露呈しています。
確かに国際放射線防護委員会ICRPは,確率的影響である放射線発癌を評価す
る場合には,アルファ線はガンマ線より「密度の高い電離作用」が強いため,
発癌影響がガンマ線の20倍高い(RBE=20)としています。しかし,ベータ線
はガンマ線と比較して発癌影響は同じ(RBE=1)としています。一方,確定的影
響である急性放射線障害の場合は,このRBE値は少し違ってきます。国際原子
力機関IAEAは,アルファ線およびベータ線はガンマ線と比べて大腸組織に対し
て各々0 倍(RBE=0)および 1 倍(RBE=1)としております。RBE=0 という
意味は,アルファ線を出す核種が飲食されたとしても,アルファ線は電離作用
が大きくても,透過力が低く紙一枚さえも透過することができないため,(粘膜
さえも通らない)有効に消化管粘膜の底に潜んでいる組織幹細胞(クリプト細
胞)まで届かないことから,影響が零であるということです。
また,ベータ線は,発癌でも急性障害でもガンマ線と同等の影響しかありま
せん。放射性物質が,肺組織に沈着する場合や吸収され血液にのって全身に分
布される際には,アルファ線の RBE は肺組織に対して RBE=7,造血組織に対
して RBE=2 と評価されています。いずれにしても,確定的影響におけるアルフ
ァ線の相対的生物効果比 RBE は,確率的影響ほど高くはありません。内部被曝
においてベータ線がガンマ線より生物学的効果比が高いということはありませ
ん。
放射性降下物には,アルファ線をだす核種やベータ線(±ガンマ線)をだす
核種が含まれています。一般的にいえば,放射性降下物による被曝の場合には,
皮膚(頭髪)の被曝線量が最も高く,甲状腺,消化管(大腸),骨髄の順になり
ます。
沢田意見書では,具体的な放射性核種の名を挙げていないので,チェルノブ
イリ原発事故やビキニ環礁での原水爆実験で放出された核種を参考に議論を進
24
めてみます。
(1) チェルノブイリ原発事故
チェルノブイリ原発事故に関しては,原子放射線の影響に関する国連科学委
員会 UNSCEAR1988 報告書 補遺 G から,関連した情報を記した部分を紹
介します。チェルノブイリ原発事故では,原爆に比較すると短半減期の放射性
核種の割合が少ないと思われますが,逆に超ウラン元素のうちアルファ核種の
相対量は多くなっています。実際,原子炉の消火作業にあたって急性放射線症
候群に罹患した患者では,
「ヨウ素とセシウム同位元素を除くと,その他の核
種(ニオブ-95,セリウム-144,ランタン-140,その他)による内部被曝線量は全
て合計しても無視できる程度であった。」また,
「尿中の超ウラン元素(例えば
プルトニウム-239)の測定が 266 名の尿試料(分析数 635)で行われた。...
測定した全ての症例で顕著なプルトニウムの汚染は無かったことを確認して
いる。」と記載されています。これらの急性放射線症候群に罹患した患者のう
ち特に重症だった 22 名は,全員ベータ線熱傷といわれる放射線皮膚傷害と脱
毛を経験しています。しかし,下痢の発症は,5~6グレイ被曝した患者 8
名中 1 名のみ,7~9グレイ被曝した患者6名中 4 名に,そして11グレイ
以上被曝した患者 6 名中 6 名に見られております。まとめると,外部被曝と
放射性降下物の内部被曝を被ったチェルノブイリ原発事故犠牲者で急性放射
線症候群を発症した患者では,第一に,下痢の頻度は脱毛の頻度より低いこと,
第二に,アルファ核種の内部汚染は問題にならなかったことが判ります。
(2)ビキニ環礁の原水爆実験
1954 年のブラボー水爆実験は,広島原爆の約 940 倍,長崎原爆の約 700 倍の
規模の 15 メガトンの爆発でした。この実験は,第 5 福竜丸の乗組員 23 名やロ
ンゲラップ島民 64 名,ロンゲラップ島にいた米国気象観測員 18 名,その他,
周辺の島民に放射性降下物による被曝をもたらしました。これらの報告で,果
たして脱毛頻度が下痢の頻度より高いのかどうか検証してみます。
第 5 福竜丸船員に関しては,放射線医学総合研究所の熊取らが米国の学会で
発表しております 7 。それによると,23 名中放射線熱傷を経験したのは 23 名
(100%),脱毛を経験したのは 20 名(86%),そして下痢は 8 名(34%)に過
ぎません。
ロンゲラップ島民に関しての報告は,1957 年の米国の専門誌JAMAに報告さ
7熊取他,1954
年に放射性降下物により被曝した日本人漁師の 25 年間に亘る追跡調査。プロシーディング
ス:放射線事故対応準備のための医学的根拠
(編者:フブナー,フライ)(英文)
25
れています 8 。それによると,約 67%の島民が被曝後 2 日以内に食思不振と嘔気
をおぼえましたが,下痢を起こしたのは2~3名であるとされています。そし
て,数は明示されていませんが,島民は露出した皮膚のベータ線熱傷と脱毛を
経験し,2 年後の調査でもこの内 15 名は,放射線熱傷の後遺症(色素脱失,色
素沈着など)が認められました。この数値からだけでも,ロンゲラップ島民で
は,下痢の頻度より放射線熱傷の頻度の方が高いことが判ります。
最近ビキニ環礁での原水爆実験による被曝実態が報告されました 9 。最も実験
場に近かったロンゲラップ島民の放射性降下物による急性被曝は,甲状腺が最
も高く,放射性ヨウ素により数グレイといったレベルになりました。このとき
大腸に対してはネプツニウム-239 やイットリウ-93 などのベータ(+ガンマ)
線を放出する核種による内部被曝のみで 2.2 グレイ前後の被曝があったと推計
されております。外部被曝としてさらに 1.6 グレイ前後あったとされております。
注目していただきたいのは,第一に,アルファ線を放出する核種は内部被曝の
主要な原因核種として登場しないこと,第二に,短半減期の放射性核種により
消化管への被曝が推定されております。空中核爆発よりもはるかに多くの放射
性物質がまき散らされる地上核爆発である上,広島原爆の 940 倍という大きさ
の水爆にもかかわらず,前駆症状としての下痢が5%未満に観察されただけで,
線量推計においては急性期の外部被曝と内部被曝合計で 3.8 グレイ程度と評価
されていることに注目して下さい。ビキニ環礁の水爆実験より 940 分の 1 ある
いは 700 分の 1 程度の規模の広島・長崎原爆では,放射性降下物の量もずっと
少なく,急性放射線消化管症候群を来すような被曝を起こす事は考えられませ
ん。
(3) ホットパーティクル理論の非現実性
沢田氏は,求釈明に対する回答のなかで「ホットパーティクル理論」なる説
を展開しており,その例としてジルコニウム-95 のホットパーティクルに言及し
ております。それによれば「放射性微粒子が酸化ジルコニウムの1ミクロンの
微粒子であるとすると,5 千4百万個の半減期 62 日のジルコニウム-95 を含み」
と例示されております。しかし,これは核物理学やロンゲラップ島住民などで
経験された事実を無視した妄想であり,以下の問題があります。
まず第一に指摘すべきなのは,核分裂の結果,原爆火球内では個々の原子と
して存在していたジルコニウム-95 放射性元素は,空中の酸素と反応して酸化ジ
8
コナード RA 他:放射性降下物により被曝ご 2 年後のマーシャル島民の医学的調査。JAMA誌 July 13,
1957
9
サイモン SL他:マーシャル島民によるビキニおよびエネウェタクでの核兵器実験による降下物由来放
射性核種の急性及び慢性摂取とそれによる内部被曝線量。ヘルス・フィジックス誌 99 (2): 157-200 (2010)
26
ルコニウムとなり,温度が冷えるに従って既に固化していた他の粒子表面に付
着していきます。このとき,酸化ジルコニウムだけの粒子が形成されることは
あり得ません。粒子は,非放射性分子や様々な半減期の放射性の分子の集合体
になります。そのため,1ミクロンの粒子がすべてジルコニウム-95 を含む酸化
ジルコニウムとなり,その放射活性が 5.4x107ベックレルといった高レベルにな
ることはあり得ません。
第二に指摘すべきなのは,ビキニ環礁でのブラボー水爆実験ほか 23 回の原水
爆実験でロンゲラップ島に降下した放射性降下物が推定されていますが,くだ
んのジルコニウム-95 の土壌汚染密度はトータルで1平方メータ当たり 3.9x
104 ベックレルに過ぎません 10 。すなわち,沢田氏が想定したわずか一個の微粒
子の中の放射能は,それだけでもビキニ環礁の原水爆実験でロンゲラップ島に
1平方メータの面積に降下した量の約 1,400 倍と大過剰量です。爆発の形態も
空中核爆発であり,ビキニ環礁の水爆の 940 分の一の爆発規模の広島型原爆あ
るいは 700 分の 1 の爆発規模の長崎型原爆では,ジルコニウム-95 の汚染密度は
さらに低いレベルであったことは疑う余地もありません。
第三に指摘すべきなのは,例えホットパーティクルを飲み込んだとしても,
粘膜に張り付いて 60 日間も腸管に滞在し続けることは生理的にありえません。
消化管粘膜は,常に分泌されている粘液に覆われているほか,粘膜上皮細胞が 3
~5 日で生え替わるため,例え粘膜の粘液や上皮に付着できた粒子であっても,
上皮細胞が死ぬと便とともに排出されてしまいます。通常であれば,1~2 日程
度で非吸収性の物質は排泄されてしまいます。
第四に指摘すべきなのは,ホットパーティクルからの照射で急性消化管傷害
を起こすためには,テニスコートの面積に匹敵する面積がある腸管粘膜面に分
布する 106オーダーの幹細胞を短期間(2~3 日以内)に細胞死に導く必要があ
ります。このためには,一時的にではあれ粘膜面をくまなくホットパーティク
ルが分布しなければなりません。ただでさえ存在が怪しい高放射活性のホット
パーティクルですが,急性症状を起こすためには,このホットパーティクルが
さらに多数一度に飲食されなければならないことになります。このような状況
は,想像上の戯言に過ぎません。
以上の議論から,沢田氏の意見書の矛盾が再度顕わになりました。すなわち,
本来,
「重症」あるいは「非常に重症」な急性放射線症候群の症状である下痢の
頻度が,
「中等度」の急性放射線症候群の症状である脱毛や出血(紫斑)の頻度
より高い頻度で観察されている事です。沢田氏は,
「内部被曝による下痢症状は,
シモン SL 他:ビキニおよびエネウェタク核兵器実験による放射性降下物からの被曝
に伴うマーシャル諸島の放射線被曝線量と癌リスク。総括。ヘルス フィジックス 99(2):
105-123, 2010. (英文)
10
27
体内に摂取した放射性微粒子が腸の内壁に付着したり,毛細血管を通して腸壁
の組織に接近して引き起こされる。」。また,
「内部被曝の場合には透過力が弱い
放射線が密度の高い電離作用によって,局所的に深刻な被曝影響をもたらす」
ためと説明していますが,既に述べたように,①アルファ線放出核種による消
化管障害は科学的に起こりえないこと,②消化管障害を起こすようなベータ線
やガンマ線を放出する核種であれば,消化管だけが標的になるような都合の良
い被曝形態にはならず,第 5 福竜丸の漁師達やロンゲラップ島民が被ったよう
な放射線熱傷,脱毛など全身の他の症状の頻度が高く観察され,しかも下痢症
状を呈した方は同時に放射線熱傷や脱毛などを被ったはずだということです。
求釈明書で展開しているようなホットパーティクル理論で紹介されている1ミ
クロンの微粒子の放射能は,現実の原水爆実験でロンゲラップ島で1平方メー
タに降下した量の 1400 倍にあたる大過剰量で,想像上の微粒子にすぎません。
2-8. 沢田意見書の矛盾点 -フォールアウトの区域と症状の分布が一致しな
い-
さらに,沢田意見書には,次の問題があります。すなわち,バックグラウン
ドの脱毛や出血や下痢をすべて放射線の影響と仮定して,被曝線量を推計した
結果,沢田氏の意見書では大きな矛盾を抱えてしまっています。
まず,遠距離での被曝は,放射性降下物によるとしているにもかかわらず,
線量の分布と放射性降下物の降下区域が一致していません(図 12~図 15)。
また,爆心地からどれだけ距離が離れても,線量は減衰しないというおかし
な事態になっています。放射性物質は,各々固有の半減期をもっており(表D),
半減期毎に放射活性が二分の一に減衰していきます(図D,図E)。本来,放射
性降下物による被曝においても,原爆爆発直後から半減期が秒や分単位である
短半減期の核分裂生成物が減衰していくため遠距離に降下物が到達するまでに
時間がかかると,例え仮に同じ重量の放射性降下物が落ちたとしても,到達に
時間がかかる分だけ放射活性は原理的に必ず低くなります 11 。
表 D. ビキニ環礁の原水爆実験で解析対象となった放射性核種とその半減期
核種
半減期
核種
半減期
核種
55
2.7 年
105
35 時間
139
Fe
Rh
Ba
半減期
83 分
11核分裂に由来する放射能は,短半減期の放射性核種が多いため,原爆爆発後の時間経過と共に急速に減
衰していきます。簡便な評価ですが,爆発後 10 分後のフォールアウトと 70 分後のフォールアウトでは,
放射能が十分の一に減衰するといわれています。
28
64
370 日
140
14 時間
141
La
3.9 日
3.1 時間
141
Ce
33 日
18 分
115
53 時間
142
La
91 分
89
51 日
117
2.5 時間
143
Ce
33 時間
90
29 年
117m
2.0 時間
143
Pr
14 日
90
Y
64 時間
121
27 時間
144
Ce
280 日
91
Sr
9.6 時間
125
2.8 年
144
17 分
50 分
127
2.1 時間
145
Pr
6.0 時間
2.7 時間
127
3.9 日
147
Nd
11 日
3.5 時間
129
70 分
149
Pm
53 時間
93
Y
10 時間
129
4.4 時間
149
Nd
1.7 時間
95
Zr
64 日
131m
30 時間
151
Pm
28 時間
95
Nb
35 日
8.0 日
153
Cu
77
As
83
Br
88
Rb
Sr
Sr
91m
Y
92
Sr
92
Y
97
Zr
13 時間
106
39 時間
109
2.4 時間
112
17 時間
97m
Nb
53 秒
99
Mo
66 時間
Ru
Pd
Ag
Cd
Cd
In
Sn
Sb
Sn
Sb
Te
Sb
Te
131
I
132
I
2.3 時間
240
U
14 日
Te
55 分
240m
Np
7.2 分
21 時間
239
Np
2.4 日
6.6 時間
239
24,000 年
30 年
240
6,600 年
99m
Tc
6.0 時間
133
103
Ru
39 日
135
I
I
56 分
105
Ru
4.4 時間
140
46 時間
6.8 日
133m
Rh
Sm
78 時間
132
137
Pr
13 日
237
Te
103m
Ba
Cs
La
U
Pu
Pu
1.7 日
図D. 放射性核種(ラジオアイソトープ)の壊変と半減期
29
図E
(図D)例としてトリチウムのベータ壊変を示す。トリチウムは核の中の中性子一個が電子(ベータ線)
と陽子に変わることによってヘリウムという別の原子に変わる。この過程をベータ壊変と呼ぶ。ベータ壊
変の他,アルファ壊変がある。
(図E)放射性核種は,各々固有の半減期をもっており,徐々に別個の原子に壊変していく。
さらに,爆心地から距離が離れるにつれ,拡散により放射性降下物の密度は必
ず低くなります。これらの 2 つの影響で,爆心地からの距離が離れれば離れる
ほど,放射性降下物による被曝線量も低下すると予想されます。しかし,沢田
意見書では,下痢等からの被曝線量評価でこのような低下は認められていませ
ん。それは,バックグラウンドの脱毛や出血や下痢をすべて放射線被曝による
という仮説自体に無理があるからです。この沢田氏の論理では,広島・長崎か
らどんなに離れていようとも,パラメータさえその症状頻度に合わせれば,終
戦後半年以内に赤痢など細菌性下痢症やノロウィルス下痢症を患った日本人は,
すべて放射性降下物による下痢症であったと誤って判定されてしまいます。
2-9. まとめ
以上,急性放射線障害で発症する症状と線量に関して IAEA や WHO 等の国
際機関が認めている知識を紹介し,沢田意見書の独善性を指摘しました。事後
的に線量評価する際には,症状に基づく生物学的線量評価法だけでは不正確で,
生物学的線量評価法のゴールドスタンダードである染色体分析に基づく線量評
30
価や,物理的なあるいはシミュレーションに基づく線量評価との整合性が問わ
れることを第一に述べました。沢田意見書において,3グレイ前後の被曝で発
症する脱毛や出血(紫斑)の頻度よりも,4~6 グレイの被曝でまれにしか発症
せず,6グレイ以上の被曝に特徴的な下痢の頻度が高い矛盾を指摘しました。
また,沢田氏は,確定的影響に分類される急性症状の線量を推定する際に,し
きい線量の意味合いを正しく理解しておらず,脱毛や下痢が起きるはずもない
0.8 グレイなどという線量でも脱毛や下痢が発症するという矛盾に陥っている
ことを指摘しました。さらに,フォールアウトの地区と症状の分布が一致しな
い矛盾も指摘しました。これらの矛盾は,第 1 章で指摘した線量評価法の恣意
性により生じたものです。実際の外部被曝事故例や放射性降下物による被曝例
を紹介し,沢田氏の主張の独善性を指摘しました。
このように,沢田意見書には無視できない多数の問題点が見られ,これが結
論の不当性に繋がっているのです。
31
第 3 章.放射線影響研究所の調査結果は,放射性降下物による線量
の寄与をどの様に判定しているのか?
原爆炸裂後に黒い雨が降り,放射性降下物(フォールアウト)による被曝があ
ったことは,疑いありません。問題は,放射性降下物による被曝線量はどの程
度で,それは急性症状や発癌リスクを有意に高める程であったか否かです。
原水爆実験のフォールアウト(グローバルフォールアウト)に比較すると,
広島及び長崎の原爆からのフォールアウト量は少ないため(数%と見積もられ
ている),それによる被曝は有意なものではないと結論されており,DS86 をま
とめた以降,あまりフォールアウトによる被曝線量の検討はされてきませんで
した。この章では,主に放射線影響研究所の遠距離被曝に関する検討結果を紹
介し,沢田意見書の独善性を明らかにしていきたいと思います。
3-1. DS86 第 6 章 / 原爆放射線の人体影響 1992
放射線影響研究所は DS86 報告書の第 6 章(日本語版 209~230 ページ)で,
爆発後3ヶ月以内に実施されたフォールアウトや中性子線放射化による被曝線
量に関する様々な調査結果およびその後になされた調査結果を検討しておりま
す。その内容から,広島に限ってよりコンパクトにまとめたものが「原爆放射
線の人体影響 1992」(放射線被曝者医療国際協力推進協議会編)の 20-3「残留
放射能」(348~356 ページ)です。DS86 では,結論として「長崎の西山で数ヘク
タールの最も高度に汚染された放射性降下物地域における放射線被曝は,-1.2
の崩壊べき指数を用いて 1 時間目から無限大へと積分した場合に,20 ないし
40R(註:ラド。およそ 200~400 ミリグレイ)と推定される。広島の己斐―高
須地区については,対応する被曝は,1 ないし 3R と推定される。長崎では距離
にともなう現象は急でなく,最大値の 1/5 の被曝が,恐らく 1000 ヘクタールの
地域にわたって広がる(日本語版 DS86,227 ページ)。」原爆とは全く関係のな
い自然放射線であっても世界平均で年間約 2.4 ミリシーベルト(ミリシーベルト
は実効線量の単位,吸収線量の単位ミリグレイと同等),80 年間に 192 ミリシ
ーベルトですから,西山地区で常に外で生活していた場合に生涯にうける被曝
線量は,自然放射線からの生涯にうける被曝の1~2倍のレベルということで
す。これらの西山地区や己斐―高須地区の住民は,元々原爆被爆者に認定され
ております。
32
3-2. (財)日本公衆衛生協会残留放射能調査委員会(橋詰委員長)による調査お
よびその追加解析
この調査では,1976 年に爆心地から30kmの範囲で,北,北北西,西北西,
西,西南西,南,東南東,東北の方角を調査対象とし広島では107カ所,長
崎では98カ所で土壌のコアサンプルが採取され,セシウム-137 およびストロ
ンチウム-90 の分析が行われ,単位面積当たりの汚染密度が求められました。し
かし,大気圏核実験からのグローバルフォールアウトに由来するセシウム-137
およびストロンチウム-90 が大部分と見られ,長崎の西山地区では有意な上昇が
認められたものの,広島では有意にセシウム-137 およびストロンチウム-90 が
増加している場所は見つかっていません。
その後,このサンプルを用いて広大の高田らがウラン-234 とウラン-238 の比
を測定し,その結果を葉佐井教授等が引用報告しています(葉佐井,星,横路。
広島原爆の放射能に関する研究。2.フォールアウト放射能の測定。ジャーナ
ル オブ ラディエーション リサーチ誌 (補遺) 32-39,1991。 Hasai H,
Hoshi M, Yokoro K. Studies of radioactivity produced by the Hiroshima
atomic bomb: 2. Measurements of fallout radioactivity. I. Radiat. Res.
(Supple) 32-39, 1991)。この研究では,広島原爆に用いられたウラン原爆には
ウラン-235 精製過程で同時にウラン-234 が濃縮されたため,ウラン-234 がより
多く含まれているとの仮説を立て,大気圏原水爆実験からのグローバルフォー
ルアウトと広島原爆によるフォールアウトを区別しようという試みております。
この結果,黒い雨の降雨地域の土壌には広島原爆に用いられたと思われるウラ
ン-234 がより多く含まれていることが判りました。しかし,黒い雨の降雨地域
と対象地域の差異は小さく,このレベルであれば,DS86 での評価を変更する被
曝線量はないと結論付けられております。
3-3.
ギルバート論文
(Gilbert ES and Ohara JL. An analysis of various aspects of atomic bomb
dose estimation at RERF using data on acute radiation symptons. Radiat
Res 100: 124-138, 1984 ギルバート ES,オハラ JL: 急性放射線症状のデ
ータを用いて放射線影響研究所の原爆放射線線量評価の色々な側面を解析する
ラディエーション リサーチ誌 100:124-138,1984)
ギルバートとオハラは,1984 年に米国の学術専門誌に発表した論文で,急性
症状の分布に方位での偏位があるかどうかを検証しています。用いているデー
タは放射線影響研究所の寿命調査(LSS)集団で,急性症状のデータは被爆数年
後に ABCC 職員が被爆者から被曝状況に関してインタビューした時に得た情報
です。この解析では,被爆後 60 日以内の重度脱毛(2/3 以上の脱毛)と被爆後
33
60 日以内の出血(点状出血,紫斑)に注目しています。中等度脱毛(1/4~2/3 未
満の脱毛)および軽度脱毛(1/4 未満の脱毛)を除外したのは,線量-効果関係
を明確化させるためです。爆心地を中心に北,北東,東,南東,南,南西,西,
北西方向に直線を引き,放射線影響研究所の寿命調査(LSS)対象者をこれらの
直線で囲まれる区域に 8 分割し,個々の区域とその他の7区域での急性症状の
発症頻度を,線量と性を調整後にオッズ比で検討しております。その結果,重
度脱毛及び出血ともに北西-北区域および北-北東区域で,細かく解析すると
爆心地から 1100~1200mで,統計学的に有意に増加しているとの結果が得られ
ました。他方,重度脱毛では南西-西区域で有意に低下しており,出血では,
西-北西区域と東-南東区域が有意に低下しているとの結果が得られました。
同様の解析が長崎でも行われており,こちらでは放射性降下物は東方向に降
下したとされていますが,重度脱毛および出血症状は,西-南西区域に統計学
的に有意に増加していました。長崎では,放射性降下物の降下方向の被爆者で
統計的に有意な急性症状の増加は認められておりません。
注目していただきたいのは,沢田氏の説とは異なり,放射性降下物の降った
方向で必ずしも急性症状の頻度は高くないことです。言い換えれば,放射性降
下物による被曝線量は,急性症状を起こすレベルでは無かった事を示唆してい
ます。すなわち,ギルバートとオハラの論文は,明らかに沢田氏の説を支持し
ていません。
3-4. ピーターソン論文
(Perterson Jr. AV, Prentice RL, Ishimaru T et al. Investigation of circular
asymmetry in cancer mortality of Hiroshima and Nagasaki a-bomb survivors.
Radiat Res 93: 184-199, 1983. ピーターソン Jr. AV,プレンティス RL,
イシマル T 他。 広島・長崎の原爆被爆生存者癌死亡の同心円対称性の崩れを
検討する。ラディエーション リサーチ誌 93: 184-199, 1983)
ピーターソンらは,米国の学術専門誌に発表した論文の中で,種々の理由に
より原爆爆発時に,中性子線やガンマ線の分布が同心円状に分布しなかった可
能性を放射線発癌リスクから検証しています。手法は,基本的にギルバートと
同じですが,爆心地を中心に方位を 8 分割し,北東-東区域を基準にして,その
他の方位区域の発癌リスクの大きさを爆心地からの距離,性,年齢,追跡期間,
遮蔽を調整後にハザード比という統計手法で評価しています。
広島では,西-北西区域および南西-西区域で統計学的に有意に癌リスクが増加
しており,各々1.24 倍,1.16 倍に増加しておりました。組織別に解析すると,胃
がん,白血病,大腸癌が西方向で増加していましたが,肺がんや乳がんではこ
の傾向は認められませんでした。次に,広島の爆心地から 1600m以遠の寿命調
34
査(LSS)対象者に関して同様の解析を行ったところ,西方向で白血病と大腸癌
のリスクが有意に増加している事が判りました(各々ハザード比 1.37 と 1.41)。
一方,長崎では,このような方位による発癌リスクの違いは認められませんで
した。長崎では,放射性降下物の降った東方向は,人口密度が低いため,影響
があったとしても,統計的に検出が難しかった可能性も残されております。
この結果は,広島においては放射性降下物が降った西方向に放射線線量が高
くなっている可能性(爆心地より 1.6km以遠の被爆者で多く見積もっても 41%
増),あるいは,放射線以外の発癌リスク要因(たばこ,社会経済要因など)の
分布が方位によって均一でない可能性を示唆しています。
これらの結果は,放射性降下物によるリスクの増加があったとしても,その
寄与は中遠距離被曝(5 ミリグレイ未満~50ミリグレイ)で T65DR 評価の約
40%増程度以内であることを示唆しています。とても 1.44 グレイ(実効線量にし
て最低でも 1.44 シーベルト)あるいは3グレイ(実効線量として最低でも3シー
ベルト)といった線量の加算はありません。
次に,生物学的線量評価法のゴールドスタンダードである細胞遺伝学的線量
評価法を見ていきたいと思います。
3-5.
佐々木論文
(Sasaki MS, Miyata H. Biological dosimetry in atomic bomb survivors.
Nature 220: 1189-1193, 1968. 佐々木 MS,宮田 H.原爆被爆生存者の生
物学的線量評価。ネイチャー誌 220: 1189-1193, 1968)
原爆被爆者のリンパ球に残された染色体異常頻度から,線量を評価した先駆
的な論文です。被爆後約 22 年後に東京赤十字病院を訪れた広島の原爆被爆生存
者 51 名の方から採血し,同時に被爆時の距離や遮蔽状況をインタビューによっ
て得ております。この調査では,所謂「不安定型染色体変異」と「安定型染色
体異常+クロマチド型染色体異常」を指標に別々に線量を評価しています。
「不
安定型」という意味は,リンパ球が細胞分裂に際して「不安定型」染色体異常
をもった細胞は,大部分が細胞死を起こして失われてしまうことに由来します。
一方,
「安定型」は,細胞分裂に際して染色体異常が子孫細胞に受け継がれる染
色体異常を指します。クロマチド型染色体異常は,2 本鎖 DNA の片方が切断さ
れて,染色体でみると染色体の途中で一部が紐状に飛び出した形態を示すもの
を指します。
本論文では,試験管内で X 線照射された健常人のリンパ球で求められた線量
と染色体異常頻度カーブを物差しにして,安定型染色体異常頻度と不安定型染
色体異常頻度を指標にして線量を評価しています。本論文では,両者の線量評
35
価値が概ね良い相関を示すこと,そして,細胞遺伝学的線量評価値と T65D の
評価値と較べると,近距離被曝で前者が低く,遠距離被曝で前者が高い傾向を
示しましたが,これは広島における T65D が DS86 に改訂されてだいぶ修正さ
れました。爆心地から 2.4~5 超 km で被曝した 4 名に関しても検討されており,
1 名が 0.1~0.15 グレイと評価されておりますが,他の 3 名は 0.1 グレイ未満で
ありました。これらの被爆者に関して,原爆投下当日どの様な行動をとったの
か,原爆以外の被曝歴があるのか等の情報はありませんので,これ以上の議論
はできません。
3-6.
児玉論文
(Kodama K, Pawel D, Nakamura N et al. Stable chromosome aberrations
in atomic bomb survivors: results from 25 years of investigation. Radiat Res
156: 337-346, 2001. コダマ K,パウエル D, ナカムラ N その他。原
爆被爆生存者の安定型染色体変異。25 年間の研究結果。 ラディエーション リ
サーチ誌 156:337-346,, 2001)
児玉論文では,広島・長崎の被爆者 3000 名以上の末梢リンパ球を使って,安
定型染色体異常頻度と DS86 で評価された被曝線量との線量効果関係が,爆心
地からの距離や被曝時の遮蔽(木造家屋・工場・屋外など)によって異なって
いるのかどうかを調べています。加齢による染色体異常頻度を補正しているほ
か,原爆投下時に広島・長崎にいなかった住民(not-in-city: NIC)204 名(初
期入市は 24 名のみ),および DS86 で 0.005 シーベルト未満と評価されている
遠距離被曝 910 名を含めて検討しています。
60 歳男性および女性のバックグラウンド安定染色体異常頻度は,各々1.9%お
よび 1.8%であり,広島では被曝線量1シーベルト当たり 6.6%(95%信頼区間
4.8%-8.4%)増加します。仮に,放射性降下物による被爆が1.44 グレイあるい
は 3 グレイ(1.44 シーベルトあるいは3シーベルト)といったレベルであれば,
NIC集団と 0.005 シーベルト未満の遠距離被曝集団で染色体異常頻度に数パー
セント以上の差が出てくるはずです。結果は,論文の中に文章で書かれている
ように「NIC集団と 0.005 シーベルト未満の遠距離被曝集団での染色体異常頻
度に統計的な有意差は認めませんでした(χ21 = 0.6, p = 0.45)。」この結果は,
放射性降下物により線量の加算があったとしても,1.44 グレイ被曝に相当する
ような大きな加算はないことを示しています。
児玉論文を補完する阿波の未発表データが,放射線影響研究所の中村の総説
(中村典 「原爆放射線の遺伝的影響に関する調査:過去・現在・未来」放射
線生物研究 34(2): 153-169 (1999))の中に収録されています。それによれば,
被爆時に両市に不在(非被爆)であった 206 名の安定型染色体異常頻度は 1.42%
36
に対し,遠距離被曝群(0.005 シーベルト未満)420 名のそれは 1.30%で,有意な
差異は認められていません。これに対し,近距離被曝群(0.005 シーベルト以上)
1,751 名の安定型染色体異常頻度は 9.93%でした。
このように生物学的線量評価法のゴールドスタンダードである細胞遺伝学的
線量評価法は,遠距離被曝で有意な被曝がなかったことを示しており,沢田氏
の主張を否定しております。
3-7. まとめ
以上,放射線影響研究所や大学等の研究者が行ってきた放射性降下物に関す
る物理学的線量評価法や生物学的線量評価の結果を記載しました。放射性降下
物からの被曝シミュレーション結果や生物学的線量評価法のゴールドスタンダ
ードである染色体分析に基づく線量評価法の結果は,沢田意見書で主張されて
いるようなレベルの被曝を否定するものです。また,放射線影響研究所の LSS
集団では,急性症状の発症頻度や発癌リスクが沢田意見書で主張されているよ
うなレベルでフォールアウト地域に上昇している事実はないことを述べました。
放射性降下物が広く分布したことは事実だと思われますが,その降下物による
被曝により,有意な人体影響があったと結論できるようなデータあるいは有意
な人体影響がおきるような被曝があったことを示唆する線量評価結果は,存在
しません。
37
Fly UP