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タルグム偽ヨナタン(Ps. J.)に おけるエリヤ像1

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タルグム偽ヨナタン(Ps. J.)に おけるエリヤ像1
タルグム偽ヨナタン(Ps. J.)におけるエリヤ像
タルグム偽ヨナタン(Ps. J.)に
おけるエリヤ像
1
The Figure of Elijah in the Targum Pseudo-Jonathan
勝又 悦子
Etsuko Katsumata
キーワード
タルグム偽ヨナタン、エリヤ、祭司、預言者、ラビ文学
KEY WORDS
Targum Pseudo-Jonathan, Elijah, Priest, Prophet, Rabbinic Literature
要旨
本稿は、タルグム偽ヨナタンにおけるエリヤ像の特徴を同時代の周辺文学でのエリ
ヤ像との比較検証の上、考察する。その特徴は、a. エリヤに「祭司の呼称が附される
こと、b. 祭司ピネハスと同一視、あるいは、大祭司ヨハナンと併置されること、c.
メシア的コンテキストで登場することにある。これらの個々の要素は、周辺文学にお
いても散見される。本稿では、更に、こうした要素を有するラビ文学、外典、偽典、
新約聖書でのエリヤ像を厳密に比較検証し、Ps. J. のエリヤ像の特異性を抽出する。
それは、上記の要素が結合して、常に「祭司」性を附されたエリヤがメシア的コンテ
キストで出現する点にある。本稿の考察を通して、Ps. J. をラビ・ユダヤ教文学の一
環と無批判に見なすことの危険性、福音書との若干の近さが暗示される。これは、ま
た、この時代の文学のダイナミックな交錯を示唆する。
SUMMARY
The purpose of this article is to investigate the features of Elijah in the Targum
Pseudo-Jonathan (Ps. J.), a highly paraphrased Aramaic translation of the
Pentateuch, through careful comparison with the representation of Elijah in the
contemporary literature. The following features are clarified:
17
基督教研究 第75巻 第1号
a. The name Elijah in Ps. J. is followed by the title “Priest,” or even “High Priest.”
b. Elijah in Ps. J. is identified with Pinehas, the Priest, or overlapped with Johanan,
a High Priest in the Hasmonean Dynasty.
c. Elijah in Ps. J. appears in a messianic context.
Indeed, each of these features is observed in the literature contemporary with Ps. J.,
such as the Rabbinic Midrash, the Pseudepigrapha, and the books of the New
Testament. Our inquiry, however, brings to light the finding that the combination of
these features—namely placing the priestly Elijah in a messianic context―is a very
crucial point in Ps. J.’s Elijah. Among the contemporary literature, Luke’s implication
that Elijah is John the Baptist, who is from a priestly family, bears a slight
resemblance to this feature. Our observations suggest Ps. J.’s unique position in
Jewish literature. It is imprudent to regard Ps. J. as just one of the products arising
in the milieu of rabbinic Judaism. Under such an assumption, we would fail to
realize the dynamic inter-cultural stream in Judaism and Christianity in the late
antiquity.
序
ヘブライ語聖書以降のユダヤ教、キリスト教、イスラームの様々な文学、思潮にお
いて、エリヤは多彩な役割を果たしてきた。その像は、多くの研究者の注目を集めて
きた2。ユダヤ教文献では「預言者」「その名が記憶されるように3」「祭司4」のような
呼称を伴うことが多い。「ラビたちの前に姿を表し、ハラハーやその他の問題を解決
するエリヤ」も多数見られる5。「死者を再生するエリヤ6」「エノクと併記されるエリ
ヤ7」「メシアの伝令としてのエリヤ8」「メシアとならぶ何人かのうちの一人としての
エリヤ9」なども目立つ。また、福音書には、当時のユダヤ教・キリスト教社会での
様々なエリヤ像が流布していたことを示唆する言説が多数見られる10。
このような多彩なエリヤ像が生まれた原因の一つは、ヘブライ語聖書でのこの人物
の特異な生涯と個性にある。イスラエルの王、アハブ、アハズヤ時代(紀元前9世紀)
に活動したエリヤは、隠遁的生活を送り、バアルの預言者との対決では彼らを皆殺し
にする残酷なまでの行為に熱情的な行為に出る(列上18章)。イスラエルの王に対し
ても果敢な批判をした(列下1.9以下)。他方、彼は非常に繊細で、バアル預言者との
対決の後では怖れる(列上19章)。また、多くの奇蹟の業を行った。それも王の前
(列下1.9以下)だけではなく、貧しい女性に対しても行い(列上17.8以下)、死者を復
18
を皆殺しにする残酷なまでの行為に熱情的な行為に出る(列上 18 章)
。イスラエル
の王に対しても果敢な批判をした(列下 1.9 以下)
。他方、彼は非常に繊細で、バア
タルグム偽ヨナタン(Ps. J.)におけるエリヤ像
ル預言者との対決の後では怖れる(列上 19 章)
。また、多くの奇蹟の業を行った。
それも王の前(列下 1.9 以下)だけではなく、貧しい女性に対しても行い(列上 17.8
以下)
、死者を復活させた(同
17.17 以下)
。彼には、死は訪れず天に上げられたと
活させた(同17.17以下)。彼には、死は訪れず天に上げられたとされる(列下2章)。
される(列下 2 章)
。こうしたヘブライ語聖書中のエリヤの個性が、その後の文学で
こうしたヘブライ語聖書中のエリヤの個性が、その後の文学での様々なエリヤ像の素
の様々なエリヤ像の素地になったと考えられる。
地になったと考えられる。
これまでの聖書以降の文学でのエリヤ像の研究は、上記のような多彩なエリヤ像
これまでの聖書以降の文学でのエリヤ像の研究は、上記のような多彩なエリヤ像を
を分類し、その中の特定の「像」について、古代文学から別の並行個所や起源を見
分類し、その中の特定の「像」について、古代文学から別の並行個所や起源を見出す
11。そして、これらの研究で問われるのは、収集された並
11
出すことが主流であった
ことが主流であった
。そして、これらの研究で問われるのは、収集された並行個所
行個所の中でどれがそのエリヤ像の先駆けなのか、ということであり、様々なエリ
の中でどれがそのエリヤ像の先駆けなのか、ということであり、様々なエリヤ像とそ
ヤ像とそれが出現するソースとの相関関係については関心が寄せられることはなか
れが出現するソースとの相関関係については関心が寄せられることはなかった。しか
った。しかしながら、このような多彩なエリヤ像の出現は決して均一ではないこと
しながら、このような多彩なエリヤ像の出現は決して均一ではないことには留意する
には留意する必要がある。エイルが指摘しているように、ソースによって「特定の
必要がある。エイルが指摘しているように、ソースによって「特定のエリヤ像が突出
,1994 )11 ,4991
‫)(איילי‬のである。
のであ
エリヤ像が突出したり、発展したり、衰退したりしている」
したり、発展したり、衰退したりしている」(44
る。
本稿では、様々なユダヤ教文献の中でも、モーセ五書へのタルグムの一つであるタ
ルグム偽ヨナタン(以下 Ps. J.)、の中でのエリヤ像の特異性を探る。タルグムとは、
本稿では、様々なユダヤ教文献の中でも、モーセ五書へのタルグムの一つである
バビロン捕囚から帰還後の第二神殿時代以降、聖書のヘブライ語の理解が難しくなっ
タルグム偽ヨナタン(以下
Ps. J.)
、の中でのエリヤ像の特異性を探る。タルグムと
たユダヤの民のために、ヘブライ語聖書を当時の日常言語であったアラム語に翻訳し
は、バビロン捕囚から帰還後の第二神殿時代以降、聖書のヘブライ語の理解が難し
12
たものである 。しかし、翻訳も一つの解釈行為であり、加筆修正のみならず、訳語
くなったユダヤの民のために、ヘブライ語聖書を当時の日常言語であったアラム語
の選択、様々な面で、タルグム文学にはタルグム活動に関わった者たちの思惑や理念
12。しかし、翻訳も一つの解釈行為であり、加筆修正のみな
に翻訳したものである
が表れている。中でも、Ps. J. には大量の加筆があり「改訂聖書 rewritten Bible」と
らず、訳語の選択、様々な面で、タルグム文学にはタルグム活動に関わった者たち
も呼ばれる。しかもそこに表れる様々な理念は、同時代の主流のラビ・ユダヤ教と必
の思惑や理念が表れている。中でも、Ps.
J には大量の加筆があり「改訂聖書
13
ずしも一致するものではない 。しかし、ユダヤ学においては、タルグム文学の独自
ewritten Bible」とも呼ばれる。しかもそこに表れる様々な理念は、同時代の主流
性については看過されてきた。ラビ文学の一環、コピーとして認識されてきたことが
その一つの要因である14。エリヤ像についても、タルグム文学においては様々な要素
が絡みあった独特のエリヤ像が創り出されている。また、自明ではあるが、モーセ五
書部分にはエリヤは登場しない。つまり、Ps. J. はあえてそれぞれの箇所でエリヤを
言及したのであり、そこには、Ps. J. の意図が多分に反映されている。しかし、その
エリヤ像の構成要素自体は、ラビ文学、特にミドラシュ類の中に見出されるものであ
るためか、研究者はその要素の結び付きの特異性に注目していない。
そこで、本稿では、Ps. J. におけるエリヤ像を、ラビ・ユダヤ教文学や外典、偽典
など周辺文学でのエリヤ像と比較の中で検証し、これまで看過されてきたタルグムの
エリヤ像の特異性を明らかし、Ps. J. の位置付けを示唆したい。これによって Ps. J.
が必ずしも正統なユダヤ教文学の中に入るものではないこと、また、新約聖書でのエ
リヤ像との近接性もうかがえるだろう。
19
典など周辺文学でのエリヤ像と比較の中で検証し、これまで看過されてきたタルグ
典など周辺文学でのエリヤ像と比較の中で検証し、これまで看過されてきたタルグ
ムのエリヤ像の特異性を明らかし、Ps.
ムのエリヤ像の特異性を明らかし、Ps. J.
J. の位置付けを示唆したい。これによって
の位置付けを示唆したい。これによって
Ps.
基督教研究 第75巻 第1号
Ps. J.
J. が必ずしも正統なユダヤ教文学の中に入るものではないこと、また、新約聖
が必ずしも正統なユダヤ教文学の中に入るものではないこと、また、新約聖
書でのエリヤ像との近接性もうかがえるだろう。
書でのエリヤ像との近接性もうかがえるだろう。
1.Ps.
におけるエリヤの言及
1.Ps.
1.Ps. J
JJ におけるエリヤの言及
におけるエリヤの言及
【1】出6.18
【1】出
6.18
【1】出
6.18
‫ומאת‬
‫ושלשים ומאת‬
‫שלש ושלשים‬
‫קהת שלש‬
‫חיי קהת‬
‫ושני חיי‬
‫ועזיאל ושני‬
‫וחברון ועזיאל‬
‫ויצהר וחברון‬
‫מרם ויצהר‬
‫קהת עעמרם‬
‫ובני קהת‬
‫ ובני‬.‫יח‬
.‫ יח‬,,‫שמות וו‬
‫שמות‬
..‫שנה‬
‫שנה‬
‫ותלתין ותלת‬
‫מאה ותלתין‬
‫חסידא מאה‬
‫דקהת חסידא‬
‫חייוי דקהת‬
‫ושני חייוי‬
‫ועזיאל ושני‬
‫וחברון ועזיאל‬
‫ויצהר וחברון‬
‫עמרם ויצהר‬
‫דקהת עמרם‬
‫ובנוי דקהת‬
‫ ובנוי‬::‫ת""יי‬
‫ת‬
‫ותלת‬
‫דישראל‬
‫אליהו כהנא‬
‫לגלוותא דישראל‬
‫למשתלחא לגלוותא‬
‫דעתיד למשתלחא‬
‫רבא דעתיד‬
‫כהנא רבא‬
‫הוא אליהו‬
‫פנחס הוא‬
‫ית פנחס‬
‫דחמא ית‬
‫עד דחמא‬
‫חייא עד‬
‫שנין חייא‬
‫שנין‬
.‫יומייא‬
‫בסוף‬
.‫בסוף יומייא‬
マソラ:ケハトの子らは、アムラム、イツハル、ヘブロン、ウジエルである。ケハト
マソラ:
ケハトの子らは、アムラム、イツハル、ヘブロン、ウジエルである。ケハ
マソラ:
ケハトの子らは、アムラム、イツハル、ヘブロン、ウジエルである。ケハ
の生涯は133年であった。
トの生涯は百三十三年であった。
トの生涯は百三十三年であった。
Ps.
ケハトの子らは、アムラム、イツハル、ヘブロン、ウジエルである。敬虔な
Ps.J.:
Ps.
J.:J.:ケハトの子らは、アムラム、イツハル、ヘブロン、ウジエルである。敬虔な
ケハトの子らは、アムラム、イツハル、ヘブロン、ウジエルである。敬虔な
ケハトの生涯は
133 年であった。ピネハスは、将来、終わりの日々にイスラエルの
年であった。ピネハスは、将来、終わりの日々にイスラエルの
ケハトの生涯は
133
ケハトの生涯は133年であった。ピネハスは、将来、終わりの日々にイスラエルの離
離散に使わされる者大祭司エリヤを見るまで生きた。
離散に使わされる者大祭司エリヤを見るまで生きた。
散に使わされる者大祭司エリヤを見るまで生きた。
【2】出
【2】出 40.10
40.10
【2】出40.10
‫קדש‬
‫המזבח קדש‬
‫והיה המזבח‬
‫המזבח והיה‬
‫המזבח‬--‫את‬
‫וקדשת את‬
‫כליו וקדשת‬
‫כליו‬--‫כל‬
‫ואת כל‬
‫העלה ואת‬
‫מזבח העלה‬
‫מזבח‬--‫את‬
‫ומשחת את‬
‫ ומשחת‬::‫יי‬,,‫מ‬
‫שמות מ‬
‫שמות‬
..‫קדשים‬
‫קדשים‬
‫קדש קודשין‬
‫מדבחא קדש‬
‫ויהי מדבחא‬
‫מדבחא ויהי‬
‫ית מדבחא‬
‫ותקדש ית‬
‫מנוי ותקדש‬
‫כל מנוי‬
‫וית כל‬
‫דעלתא וית‬
‫מדבחא דעלתא‬
‫ית מדבחא‬
‫ותרבי ית‬
‫ ותרבי‬:: ‫ת"י‬
‫ת"י‬
‫קודשין‬
.‫גלוותא‬
.‫בסוף גלוותא‬
‫למשתלחא בסוף‬
‫דעתיד למשתלחא‬
‫רבא דעתיד‬
‫כהנא רבא‬
‫ואליהו כהנא‬
‫ובנוי ואליהו‬
‫דאהדן ובנוי‬
‫דכהונתא דאהדן‬
‫כלילא דכהונתא‬
‫מטול כלילא‬
‫מטול‬
マソラ:
マソラ: 次いで、焼き尽くす献げ物の祭壇とそのすべての祭具に油を注ぎ、祭壇を
次いで、焼き尽くす献げ物の祭壇とそのすべての祭具に油を注ぎ、祭壇を
マソラ:次いで、焼き尽くす献げ物の祭壇とそのすべての祭具に油を注ぎ、祭壇を聖
聖別する。祭壇は神聖なものとなる。
聖別する。祭壇は神聖なものとなる。
Ps.
J.:
別する。祭壇は神聖なものとなる。
Ps.
J.: 次いで、焼き尽くす献げ物の祭壇とそのすべての祭具に油を注ぎ、祭壇を生
次いで、焼き尽くす献げ物の祭壇とそのすべての祭具に油を注ぎ、祭壇を生
5
別する。祭壇は、アロンとその子孫、大祭司エリヤの祭司職の冠ゆえに聖なるもの
別する。祭壇は、アロンとその子孫、大祭司エリヤの祭司職の冠ゆえに聖なるもの
Ps. J.:次いで、焼き尽くす献げ物の祭壇とそのすべての祭具に油を注ぎ、祭壇を聖
別する。祭壇は、アロンとその子孫、大祭司エリヤの祭司職の冠ゆえに聖なるものと
なる。そして彼[エリヤ]は将来、離散の終わりに使わされる者となる。
となる。そして彼[エリヤ]は将来、離散の終わりに使わされる者となる。
【3】申命記30.4
【3】申命記 30.4
.‫יהיה נדחך בקצה השמים משם יקבצך יהוה אלהיך ומשם יקחך‬-‫ אם‬:‫ד‬,‫דברים ל‬
‫ אין יהון מבדריכון בסייפי שמיא מתמן יכנוש יתכון מימרא דייי על ידוי דאליהו כהנא‬: ‫ת"י‬
.‫רבא ומתמן יקרב יתכון על ידויי דמלכא משיחא‬
マソラ: たとえ天の果てに追いやられたとしても、あなたの神、主はあなたを集め、
マソラ:たとえ天の果てに追いやられたとしても、あなたの神、主はあなたを集め、
そこから連れ戻される。
Ps. J. もし彼らが天の果てまで追いやられたとしても、主のミムラ15(言葉)は、
そこから連れ戻される。
そこからあなた方を大祭司エリヤの手によって集め、そこからあなた方をメシア王
Ps.
J.:もし彼らが天の果てまで追いやられたとしても、主のミムラ15(言葉)は、そ
の手によって近づけるだろう。
20
【4】申命記 33.11
.‫יקומון‬-‫ ברך יהוה חילו ופעל ידיו תרצה מחץ מתנים קמיו ומשנאיו מן‬:‫יא‬,‫דברים לג‬
.‫יהיה נדחך בקצה השמים משם יקבצך יהוה אלהיך ומשם יקחך‬-‫ אם‬:‫ד‬,‫דברים ל‬
となる。そして彼[エリヤ]は将来、離散の終わりに使わされる者となる。
‫ אין יהון מבדריכון בסייפי שמיא מתמן יכנוש יתכון מימרא דייי על ידוי דאליהו כהנא‬: ‫ת"י‬
.‫רבא ומתמן יקרב יתכון על ידויי דמלכא משיחא‬
【3】申命記 30.4
タルグム偽ヨナタン(Ps. J.)におけるエリヤ像
.‫יהיה נדחך בקצה השמים משם יקבצך יהוה אלהיך ומשם יקחך‬-‫ אם‬:‫ד‬,‫דברים ל‬
マソラ:
たとえ天の果てに追いやられたとしても、
あなたの神、
主はあなたを集め、
‫דאליהו כהנא‬
‫שמיא מתמן יכנוש יתכון מימרא דייי על ידוי‬
‫מבדריכון בסייפי‬
‫ אין יהון‬: ‫ת"י‬
そこから連れ戻される。
.‫רבא ומתמן יקרב יתכון על ידויי דמלכא משיחא‬
Ps. J. もし彼らが天の果てまで追いやられたとしても、主のミムラ15(言葉)は、
こからあなた方を大祭司エリヤの手によって集め、そこからあなた方をメシア王の手
そこからあなた方を大祭司エリヤの手によって集め、そこからあなた方をメシア王
マソラ:
たとえ天の果てに追いやられたとしても、あなたの神、主はあなたを集め、
によって近づけるだろう。
の手によって近づけるだろう。
そこから連れ戻される。
Ps. J. もし彼らが天の果てまで追いやられたとしても、主のミムラ15(言葉)は、
【4】申命記33.11
【4】申命記
33.11
そこからあなた方を大祭司エリヤの手によって集め、そこからあなた方をメシア王
.‫יקומון‬-‫ ברך יהוה חילו ופעל ידיו תרצה מחץ מתנים קמיו ומשנאיו מן‬:‫יא‬,‫דברים לג‬
の手によって近づけるだろう。
‫ בריך ייי ניכסוי דבית לוי דיהבין מעשרא מן מעשרא וקרבן ידוי דאליהו כהנא דמקרב‬: ‫ת"י‬
‫ דקיימין‬33.11
‫בטוורא כלמלא תקבל ברעוא תביר חרצא דאחאב סנאיה ופורקת נביי שיקרא‬
【4】申命記
.‫למקום‬
‫ידיורבא‬
‫כהנא‬
‫דיוחנן‬
‫יהי‬:‫ולא‬
‫לקובליה‬
.‫יקומון‬-‫מתנים קמיו ומשנאיו מן‬
‫רגלמחץ‬
‫תרצה‬
‫ופעל‬
‫לסנאויחילו‬
‫ברך יהוה‬
‫יא‬,‫לג‬
‫דברים‬
‫ בריך ייי ניכסוי דבית לוי דיהבין מעשרא מן מעשרא וקרבן ידוי דאליהו כהנא דמקרב‬: ‫ת"י‬
マソラ:
主よ、彼の力を祝福し、その手の業を受け入れてください。彼に立ち向か
‫דקיימין‬
‫בטוורא כלמלא תקבל ברעוא תביר חרצא דאחאב סנאיה ופורקת נביי שיקרא‬
う者の腰を打ち砕き、彼を憎む者が再び立てぬようにしてください。
マソラ:主よ、彼の力を祝福し、その手の業を受け入れてください。彼に立ち向かう
.‫לקובליה ולא יהי לסנאוי דיוחנן כהנא רבא רגל למקום‬
Ps. J. : 主よ、十分の一税を与えるレビ族の財産を祝福し、祭司エリヤの手によって
者の腰を打ち砕き、彼を憎む者が再び立てぬようにしてください。
ささげられるささげものを祝福して下さい。彼は、カルメル山で、彼の敵、アハブ
マソラ:
主よ、彼の力を祝福し、その手の業を受け入れてください。彼に立ち向か
Ps.
J.:主よ、十分の一税を与えるレビ族の財産を祝福し、祭司エリヤの手によって
*1 の敵が
の腰を砕き、彼に立ち向かった偽預言者の関節を折った。大祭司ヨハナン
う者の腰を打ち砕き、彼を憎む者が再び立てぬようにしてください。
ささげられるささげものを祝福して下さい。彼は、カルメル山で、彼の敵、アハブの
なくなり、彼の脚がその場に立つように。
Ps.
J. : 主よ、十分の一税を与えるレビ族の財産を祝福し、祭司エリヤの手によって
*1
の敵がなく
腰を砕き、彼に立ち向かった偽預言者の関節を折った。大祭司ヨハナン
*1
ハスモン王朝の王兼大祭司であったヨハナン・ヒルカノス(B.C.
135-140)を指
ささげられるささげものを祝福して下さい。彼は、カルメル山で、彼の敵、アハブ
16
*1 の敵が
すと考えられている 。
なり、彼の脚がその場に立つように。
の腰を砕き、彼に立ち向かった偽預言者の関節を折った。大祭司ヨハナン
*
なくなり、彼の脚がその場に立つように。
1 ハスモン王朝の王兼大祭司であったヨハナン・ヒルカノス(B.C. 135-140)を指
【5】民数記
25.12
*1
ハスモン王朝の王兼大祭司であったヨハナン・ヒルカノス(B.C.
135-140)を指
すと考えられている16。
.‫בריתי שלום‬-‫ לכן אמר הנני נתן לו את‬:‫יב‬,‫במדבר כה‬
すと考えられている16。
‫ בשבועא אימר ליה מן שמי האנא גזר ליה ית קיימי שלם ואעבדיניה מלאך קיים ויחי‬:‫ת"י‬
.‫לעלם למבשרא גאולתא בסוף יומיא‬
.‫בריתי שלום‬-‫ לכן אמר הנני נתן לו את‬:‫יב‬,‫במדבר כה‬
マソラ:それゆえ、こう告げるがよい。
「見よ、わたしは彼にわたしの平和の契約を
‫ית קיימי שלם ואעבדיניה מלאך קיים ויחי‬
‫ בשבועא אימר ליה מן שמי האנא גזר ליה‬:‫ת"י‬
.‫לעלם למבשרא גאולתא בסוף יומיא‬
授ける」。
【5】民数記25.12
【5】民数記 25.12
Ps.J:私の名において、彼に誓って言う。
「私は、彼に永遠の契約を定める。私は彼
マソラ:それゆえ、こう告げるがよい。
「見よ、わたしは彼にわたしの平和の契約を
、終わりの日の救済を予告する。
に御使いを使わせ、彼は永遠に存在し*1「見よ、わたしは彼にわたしの平和の契約を
マソラ:それゆえ、こう告げるがよい。
授ける」。
*1 ここでは、エリヤははっきりとは言及されないが、
「永遠に存在する」という表
授ける」
。
Ps.J:私の名において、彼に誓って言う。
「私は、彼に永遠の契約を定める。私は彼
現がエリヤを暗示し、ピンハスとエリヤが同一視されていると一般に認識されてい
Ps.
J.:私の名において、彼に誓って言う。
「私は、彼に永遠の契約を定める。私は彼
*1、終わりの日の救済を予告する。
に御使いを使わせ、彼は永遠に存在し
17
*1
る 。
に御使いを使わせ、彼は永遠に存在し
、終わりの日の救済を予告する。
*1 ここでは、エリヤははっきりとは言及されないが、「永遠に存在する」という表
*
1 ここでは、エリヤははっきりとは言及されないが、「永遠に存在する」という表
現がエリヤを暗示し、ピンハスとエリヤが同一視されていると一般に認識されてい
2.Ps.
J. のエリヤ像を構成する要素
現がエリヤを暗示し、ピネハスとエリヤが同一視されていると一般に認識され
る17。
ている17。
2.Ps. J. のエリヤ像を構成する要素
2.Ps. J. のエリヤ像を構成する要素
以上の Ps. J. におけるエリヤ像には以下の要素が絡み合っている。
21
6
6
6 666 6
6
基督教研究 第75巻 第1号
以上の Ps. J. におけるエリヤ
以上の
Ps.
J.におけるエリヤ像には以下の要素が絡み合っている。
におけるエリヤ像には以下の要素が絡み合っている。
以上の
Ps.
J.
J.
におけるエリヤ像には以下の要素が絡み合っている。
以上の
以上の
Ps.
Ps.J.
J.におけるエリヤ像には以下の要素が絡み合っている。
におけるエリヤ像には以下の要素が絡み合っている。
以上の以上の
Ps.
J. Ps.
におけるエリヤ像には以下の要素が絡み合っている。
a. エリヤに「祭司‫」כהנא‬も
以上の Ps.
J.a.におけるエリヤ像には以下の要素が絡み合っている。
以上の
Ps.
J. におけるエリヤ像には以下の要素が絡み合っている。
エリヤに「祭司
‫כהנא‬
」もしくは「大祭司
‫כהנארבא‬
‫כהנא‬
」
の呼称を伴う。
a.
エリヤに「祭司
‫כהנא‬
」もしくは「大祭司
‫רבא‬
」
の呼称を伴う。
a.
エリヤに「祭司
‫כהנא‬
」もしくは「大祭司
‫רבא‬
‫כהנא‬
」
の呼称を伴う。
a.
エリヤに「祭司 」もしくは「大祭司 」の呼称を伴う。
a.
a.
エリヤに「祭司
エリヤに「祭司
‫כהנא‬
‫כהנא‬
」もしくは「大祭司
」もしくは「大祭司
‫רבא‬
‫רבא‬
‫כהנא‬
‫כהנא‬
」
」
の呼称を伴う。
の呼称を伴う。
a. エリヤに「祭司‫」כהנא‬もしくは「大祭司‫」כהנא רבא‬の呼称を伴う。
b. エリヤが他の祭司同一視(
a. エリヤに「祭司
‫」כהנא‬もしくは「大祭司
‫כהנא רבא‬
」の呼称を伴う。
a. b.
エリヤに「祭司
‫」כהנא‬もしくは「大祭司
‫רבא‬
‫」כהנא‬の呼称を伴う。
b. エリヤが他の祭司同一視
エリヤが他の祭司同一視
(ピネハス)
、または併置される
(大祭司ヨハナン)
。
(ピネハス)
、または併置される
(大祭司ヨハナン)
。
b.
(ピネハス)
、または併置される
(大祭司ヨハナン)
b.
エリヤが他の祭司同一視(ピネハス)
、または併置される(大祭司ヨハナン)
。。 。
b.エリヤが他の祭司同一視
b.
エリヤが他の祭司同一視
エリヤが他の祭司同一視
(ピネハス)
(ピネハス)
、または併置される
、または併置される
(大祭司ヨハナン)
(大祭司ヨハナン)
。
b. エリヤが他の祭司同一視
(ピネハス)
、または併置される
(大祭司ヨハナン)
。
c.
エリヤはメシア的コンテ
b. エリヤが他の祭司同一視
(ピネハス)
、または併置される
(大祭司ヨハナン)
。
b. c.エリヤが他の祭司同一視
(ピネハス)
、または併置される
(大祭司ヨハナン)
。
c. エリヤはメシア的コンテキストの中で言及される。
エリヤはメシア的コンテキストの中で言及される。
c.
c.
c.エリヤはメシア的コンテキストの中で言及される。
c.エリヤはメシア的コンテキストの中で言及される。
エリヤはメシア的コンテキストの中で言及される。
エリヤはメシア的コンテキストの中で言及される。
c. エリヤはメシア的コンテキストの中で言及される。
c. エリヤはメシア的コンテキストの中で言及される。
c. エリヤはメシア的コンテキストの中で言及される。
上記の Ps. J. の引用テキスト
上記の
Ps.
J.の引用テキストのうち――部は
の引用テキストのうち――部は
a, b
に関する要素で、
c
上記の
Ps.
J.
に関する要素で、
Ps.
J.J.
a, ba,a,
c部は
上記の
の引用テキストのうち――部は
に関する要素で、
部は
に
J.
の引用テキストのうち――部は
a,
に関する要素で、
c部は
上記の
上記の
Ps.
Ps.
J.
の引用テキストのうち――部は
の引用テキストのうち――部は
a,
bbbに関する要素で、
に関する要素で、
部は
部は
ccc
上記の上記の
Ps.
J. Ps.
の引用テキストのうち――部は
a, b に関する要素で、
部は
c部は
に関する要素を示す。
上記の Ps.
J.
の引用テキストのうち――部は
a,
b
に関する要素で、
部は
c
上記の
Ps. J. の引用テキストのうち――部は a, b に関する要素で、
部は c
に関する要素を示す。
に関する要素を示す。
関する要素を示す。
に関する要素を示す。
に関する要素を示す。
に関する要素を示す。
に関する要素を示す。
a、b、は要するにエリヤを「祭
に関する要素を示す。
に関する要素を示す。
a、b、は要するにエリヤを「祭司」と見なすことである。特に【1】から【3】の資
a、b、は要するにエリヤを「祭司」と見なすことである。特に【1】から【3】の資
a、b、は要するにエリヤを「祭司」と見なすことである。特に【1】から【3】の
a、b、は要するにエリヤを「祭司」と見なすことである。特に【1】から【3】の資
a、b、は要するにエリヤを「祭司」と見なすことである。特に【1】から【3】の資
a、b、は要するにエリヤを「祭司」と見なすことである。特に【1】から【3】の資
a、b、は要するにエリヤを「祭司」と見なすことである。特に【1】から【3】の資
料では、エリヤには一貫して明
a、b、は要するにエリヤを「祭司」と見なすことである。特に【1】から【3】の資
a、b、は要するにエリヤを「祭司」と見なすことである。特に【1】から【3】の資
‫כהנארבא‬
‫כהנא‬
」という呼称が伴っている上
料では、エリヤには一貫して明瞭に「大祭司
‫רבא‬
」という呼称が伴っている上
料では、エリヤには一貫して明瞭に「大祭司
資料では、エリヤには一貫して明瞭に「大祭司 」という呼称が伴っている
‫רבארבא‬
‫כהנא‬
」という呼称が伴っている上
料では、エリヤには一貫して明瞭に「大祭司
‫רבא‬
‫כהנא‬
‫כהנא‬
」という呼称が伴っている上
」という呼称が伴っている上
料では、エリヤには一貫して明瞭に「大祭司
料では、エリヤには一貫して明瞭に「大祭司
‫כהנא רבא‬
」という呼称が伴っている上
料では、エリヤには一貫して明瞭に「大祭司
に、
【1】では、更にピネハスと
‫כהנא רבא‬
」という呼称が伴っている上
料では、エリヤには一貫して明瞭に「大祭司
‫רבא‬
‫」כהנא‬という呼称が伴っている上
料では、エリヤには一貫して明瞭に「大祭司
に、
【1】では、更にピネハスと同一視される。また【2】でも大祭司アロンとその子
に、
【1】では、更にピネハスと同一視される。また【2】でも大祭司アロンとその子
上に、
【1】では、更にピネハスと同一視される。また【2】でも大祭司アロンとその
に、
【1】では、更にピネハスと同一視される。また【2】でも大祭司アロンとその子
に、
に、
【1】では、更にピネハスと同一視される。また【2】でも大祭司アロンとその子
【1】では、更にピネハスと同一視される。また【2】でも大祭司アロンとその子
に、
【1】では、更にピネハスと同一視される。また【2】でも大祭司アロンとその子
孫という祭司家系の最も正統な
に、
【1】では、更にピネハスと同一視される。また【2】でも大祭司アロンとその子
に、
【1】では、更にピネハスと同一視される。また【2】でも大祭司アロンとその子
孫という祭司家系の最も正統な系図の中にエリヤは位置づけられる。また【4】でも
子孫という祭司家系の最も正統な系図の中にエリヤは位置づけられる。また【4】で
孫という祭司家系の最も正統な系図の中にエリヤは位置づけられる。また【4】でも
孫という祭司家系の最も正統な系図の中にエリヤは位置づけられる。また【4】でも
孫という祭司家系の最も正統な系図の中にエリヤは位置づけられる。また【4】でも
孫という祭司家系の最も正統な系図の中にエリヤは位置づけられる。また【4】でも
孫という祭司家系の最も正統な系図の中にエリヤは位置づけられる。また【4】でも
呼称として「祭司‫」כהנא‬と伴う上
孫という祭司家系の最も正統な系図の中にエリヤは位置づけられる。また【4】でも
孫という祭司家系の最も正統な系図の中にエリヤは位置づけられる。また【4】でも
‫כהנא‬
」と伴う上に、歴史上の人物、大祭司ヨハナンと併置される。
呼称として「祭司
も呼称として「祭司 」と伴う上に、歴史上の人物、大祭司ヨハナンと併置され
‫כהנא‬
」と伴う上に、歴史上の人物、大祭司ヨハナンと併置される。
呼称として「祭司
‫כהנא‬
」と伴う上に、歴史上の人物、大祭司ヨハナンと併置される。
呼称として「祭司
‫כהנא‬
‫כהנא‬
」と伴う上に、歴史上の人物、大祭司ヨハナンと併置される。
」と伴う上に、歴史上の人物、大祭司ヨハナンと併置される。
呼称として「祭司
呼称として「祭司
‫」כהנא‬と伴う上に、歴史上の人物、大祭司ヨハナンと併置される。
呼称として「祭司
Ps. J. では、他の預言者では
‫כהנא‬
」と伴う上に、歴史上の人物、大祭司ヨハナンと併置される。
呼称として「祭司
‫」כהנא‬と伴う上に、歴史上の人物、大祭司ヨハナンと併置される。
呼称として「祭司
Ps.
J.では、他の預言者ではイザヤとエゼキエルも言及されるが、二人ともヘブ
では、他の預言者ではイザヤとエゼキエルも言及されるが、二人ともヘブ
る。Ps.
J.
J.
では、他の預言者ではイザヤとエゼキエルも言及されるが、二人ともヘブ
Ps.
Ps.J.
J.では、他の預言者ではイザヤとエゼキエルも言及されるが、二人ともヘブ
では、他の預言者ではイザヤとエゼキエルも言及されるが、二人ともヘブ
Ps. J.Ps.
では、他の預言者ではイザヤとエゼキエルも言及されるが、二人ともヘブ
ライ語聖書での規定通り、
「預言
Ps. J. では、他の預言者ではイザヤとエゼキエルも言及されるが、二人ともヘブ
18、
Ps.
J.J. では、他の預言者ではイザヤとエゼキエルも言及されるが、二人ともヘブ
18、
Ps.
では、他の預言者ではイザヤとエゼキエルも言及されるが、二人ともヘブラ
」という呼称を伴うので
エリヤが
「祭司」
ライ語聖書での規定通り、
「預言者
‫נביא‬
」
という呼称を伴うので
エリヤが
「祭司」
ライ語聖書での規定通り、
「預言者
18、
18
18
18
」‫נביא‬
という呼称を伴うので
エリヤが
「祭司」
ライ語聖書での規定通り、
「預言者
18、エリヤが
‫נביא‬
‫נביא‬
」
」
という呼称を伴うので
という呼称を伴うので
、、
エリヤが
エリヤが
「祭司」
「祭司」
ライ語聖書での規定通り、
ライ語聖書での規定通り、
「預言者
「預言者
‫נביא‬
」‫נביא‬
という呼称を伴うので
「祭司」
ライ語聖書での規定通り、
「預言者
18、エリヤが
18
という呼称を伴うことは注意す
18
‫」נביא‬という呼称を伴うので
「祭司」
ライ語聖書での規定通り、
「預言者
‫」נביא‬という呼称を伴うので
、
エリヤが
「祭司」
ライ語聖書での規定通り、
「預言者
、エリヤが「祭司」
イ語聖書での規定通り、
「預言者 」という呼称を伴うので
という呼称を伴うことは注意すべきである。
加えて
【4】
の前後では、
Ps.
J.では
では
「偽
という呼称を伴うことは注意すべきである。
加えて
【4】
の前後では、
Ps.
J.
「偽
という呼称を伴うことは注意すべきである。
加えて
【4】
の前後では、
J.
では
「偽
という呼称を伴うことは注意すべきである。
という呼称を伴うことは注意すべきである。
加えて
加えて
【4】
【4】
の前後では、
の前後では、
Ps.
Ps.
J.
J.では
では
「偽
「偽
という呼称を伴うことは注意すべきである。
加えて【4】
の前後では、
Ps. J. Ps.
では
「偽
預言者」が言及されており、当
という呼称を伴うことは注意すべきである。
加えて【4】
の前後では、
Ps. J. では
J. では「偽
という呼称を伴うことは注意すべきである。
加えて
【4】の前後では、
Ps.「偽
J.
では「偽
という呼称を伴うことは注意すべきである。加えて【4】の前後では、Ps.
預言者」が言及されており、当然、エリヤも預言者としてバアル預言者に対峙した
預言者」が言及されており、当然、エリヤも預言者としてバアル預言者に対峙した
預言者」が言及されており、当然、エリヤも預言者としてバアル預言者に対峙した
預言者」が言及されており、当然、エリヤも預言者としてバアル預言者に対峙した
預言者」が言及されており、当然、エリヤも預言者としてバアル預言者に対峙した
預言者」が言及されており、当然、エリヤも預言者としてバアル預言者に対峙した
こと(王上 18 章)が連想され
預言者」が言及されており、当然、エリヤも預言者としてバアル預言者に対峙した
預言者」が言及されており、当然、エリヤも預言者としてバアル預言者に対峙したこ
預言者」が言及されており、当然、エリヤも預言者としてバアル預言者に対峙した
こと(王上
18章)が連想されるのに、エリヤは「祭司」と呼ばれる。また、
章)が連想されるのに、エリヤは「祭司」と呼ばれる。また、
【4】
こと(王上
18
【4】
こと(王上
18 18
章)が連想されるのに、エリヤは「祭司」と呼ばれる。また、
こと(王上
こと(王上
18章)が連想されるのに、エリヤは「祭司」と呼ばれる。また、
章)が連想されるのに、エリヤは「祭司」と呼ばれる。また、
【4】
【4】
こと(王上
18 章)が連想されるのに、エリヤは「祭司」と呼ばれる。また、
【4】【4】
が置かれた申命記
33 章 1 節で「
こと(王上
18
章)が連想されるのに、エリヤは「祭司」と呼ばれる。また、
【4】
と(王上18章)が連想されるのに、エリヤは「祭司」と呼ばれる。また、
【4】が置か
こと(王上
18 章)が連想されるのに、エリヤは「祭司」と呼ばれる。また、
【4】Ps.
‫האלהים‬
‫איש‬
」と記述されているモーセは、
Ps.
が置かれた申命記
33
章
1 節で「神の人
‫האלהים‬
‫איש‬
」と記述されているモーセは、
が置かれた申命記
33
節で「神の人
‫האלהים‬
‫אישאיש‬
」と記述されているモーセは、
Ps.Ps.
が置かれた申命記
章
1章
節で「神の人
‫האלהים‬
‫האלהים‬
‫איש‬
」と記述されているモーセは、
」と記述されているモーセは、
Ps.
が置かれた申命記
が置かれた申命記
33
33章
章
111節で「神の人
節で「神の人
‫האלהים‬
‫איש‬
」と記述されているモーセは、
Ps.
が置かれた申命記
33 章 33
1 節で「神の人
‫נביא דייי‬
J. では「主の預言者
‫האלהים‬
‫」איש‬と記述されているモーセは、
Ps. J. では
が置かれた申命記
33 章 1 33
節で「神の人
れた申命記33章1節で「神の人 」と記述されているモーセは、Ps.
‫האלהים‬
‫איש‬
」と記述されているモーセは、
Ps.
が置かれた申命記
章 1‫דייי‬
節で「神の人
‫נביאדייי‬
‫נביא‬
」と訳出される。
この同じ
「神の人」
という表現は、
J.では「主の預言者
では「主の預言者
」と訳出される。
この同じ
「神の人」
という表現は、
J.
‫דייי‬
‫נביא‬
」と訳出される。
この同じ
「神の人」
という表現は、
J. J.
では「主の預言者
‫דייי‬
‫דייי‬
‫נביא‬
‫נביא‬
」と訳出される。
」と訳出される。
この同じ
この同じ
「神の人」
「神の人」
という表現は、
という表現は、
J.では「主の預言者
では「主の預言者
‫נביא דייי‬
」と訳出される。
この同じ
「神の人」
という表現は、
J. では「主の預言者
エリヤに対してもヘブライ語聖
‫」דייינביא דייי‬と訳出される。
この同じ
「神の人」
という表現は、
J. では「主の預言者
‫」 נביא‬と訳出される。
この同じ
「神の人」
という表現は、
J.「主の預言者 」と訳出される。この同じ「神の人」という表現は、エリヤに
では「主の預言者
エリヤに対してもヘブライ語聖書でなされている(王下
1.9
以下他)ことは、Ps.
J.
エリヤに対してもヘブライ語聖書でなされている(王下
1.9
以下他)ことは、Ps.
エリヤに対してもヘブライ語聖書でなされている(王下
1.91.9
以下他)ことは、Ps.
J. J.J.
エリヤに対してもヘブライ語聖書でなされている(王下
エリヤに対してもヘブライ語聖書でなされている(王下
1.9以下他)ことは、Ps.
以下他)ことは、Ps.
J.
エリヤに対してもヘブライ語聖書でなされている(王下
1.9 以下他)ことは、Ps.
J.
にも十分意識されていたはずで
J.
対してもヘブライ語聖書でなされている(王下1.9以下他)ことは、Ps.
にも十分意識
エリヤに対してもヘブライ語聖書でなされている(王下
1.9
以下他)ことは、Ps.
J.
19
エリヤに対してもヘブライ語聖書でなされている(王下
1.9 以下他)ことは、Ps. J.
19。しかし、同じく「神の人」であるエリヤに
。しかし、同じく「神の人」であるエリヤに
にも十分意識されていたはずである
にも十分意識されていたはずである
19。しかし、同じく「神の人」であるエリヤに
19
1919
にも十分意識されていたはずである
19。しかし、同じく「神の人」であるエリヤに
。しかし、同じく「神の人」であるエリヤに
。しかし、同じく「神の人」であるエリヤに
にも十分意識されていたはずである
にも十分意識されていたはずである
にも十分意識されていたはずである
19
19
は「祭司‫」כהנא‬という呼称が当て
されていたはずである
。しかし、同じく「神の人」であるエリヤには「祭司 」
19。しかし、同じく「神の人」であるエリヤに
。しかし、同じく「神の人」であるエリヤに
にも十分意識されていたはずである
にも十分意識されていたはずである
‫כהנא‬
」という呼称が当てられているのである。
は「祭司
‫כהנא‬
」という呼称が当てられているのである。
は「祭司
‫כהנא‬
」という呼称が当てられているのである。
は「祭司
‫כהנא‬
‫כהנא‬
‫כהנא‬
」という呼称が当てられているのである。
」という呼称が当てられているのである。
」という呼称が当てられているのである。
は「祭司
は「祭司
‫כהנא‬
」という呼称が当てられているのである。
は「祭司
これらの状況を鑑みると、Ps
という呼称が当てられているのである。
‫כהנא‬
」という呼称が当てられているのである。
は「祭司は「祭司
‫」כהנא‬という呼称が当てられているのである。
これらの状況を鑑みると、Ps.
J.にとってエリヤを「祭司」と見なすことは、極
にとってエリヤを「祭司」と見なすことは、極
これらの状況を鑑みると、Ps.
J.
これらの状況を鑑みると、Ps.
J. J.
にとってエリヤを「祭司」と見なすことは、極
これらの状況を鑑みると、Ps.
これらの状況を鑑みると、Ps.
J.にとってエリヤを「祭司」と見なすことは、極
にとってエリヤを「祭司」と見なすことは、極
これらの状況を鑑みると、Ps.
J.
にとってエリヤを「祭司」と見なすことは、極
J. にとってエリヤを「祭司」と見なすことは、極め
めて意図的であり、周知で、当
これらの状況を鑑みると、Ps.
これらの状況を鑑みると、Ps.
J. にとってエリヤを「祭司」と見なすことは、極
これらの状況を鑑みると、Ps.
J.
にとってエリヤを「祭司」と見なすことは、極
めて意図的であり、周知で、当然のことだったと思われる。この要素は、Ps.
J.のみ
めて意図的であり、周知で、当然のことだったと思われる。この要素は、Ps.
J.のみ
めて意図的であり、周知で、当然のことだったと思われる。この要素は、Ps.
J.のみ
めて意図的であり、周知で、当然のことだったと思われる。この要素は、Ps.
めて意図的であり、周知で、当然のことだったと思われる。この要素は、Ps.
J.のみ
J.のみ
めて意図的であり、周知で、当然のことだったと思われる。この要素は、Ps.
J.のみ
J.
て意図的であり、周知で、当然のことだったと思われる。この要素は、Ps.
のみな
ならず、タルグム一般に共通して
めて意図的であり、周知で、当然のことだったと思われる。この要素は、Ps.
J.のみ
めて意図的であり、周知で、当然のことだったと思われる。この要素は、Ps.
J.のみ
ならず、タルグム一般に共通している。諸書へのタルグムにも見られるし預言書へ
ならず、タルグム一般に共通している。諸書へのタルグムにも見られるし預言書へ
ならず、タルグム一般に共通している。諸書へのタルグムにも見られるし預言書へ
ならず、タルグム一般に共通している。諸書へのタルグムにも見られるし預言書へ
ならず、タルグム一般に共通している。諸書へのタルグムにも見られるし預言書へ
ならず、タルグム一般に共通している。諸書へのタルグムにも見られるし預言書へ
らず、タルグム一般に共通している。諸書へのタルグムにも見られるし預言書への補
遺タルグムでも、エリヤは「大
ならず、タルグム一般に共通している。諸書へのタルグムにも見られるし預言書へ
20。
ならず、タルグム一般に共通している。諸書へのタルグムにも見られるし預言書へ
20。
の補遺タルグムでも、エリヤは「大祭司」と呼ばれる
の補遺タルグムでも、エリヤは「大祭司」と呼ばれる
20 20
2020
の補遺タルグムでも、エリヤは「大祭司」と呼ばれる
2020
。。
の補遺タルグムでも、エリヤは「大祭司」と呼ばれる
の補遺タルグムでも、エリヤは「大祭司」と呼ばれる
。。 。
の補遺タルグムでも、エリヤは「大祭司」と呼ばれる
遺タルグムでも、エリヤは「大祭司」と呼ばれる
20
メシアニズム、終末論は、終
20。
。
の補遺タルグムでも、エリヤは「大祭司」と呼ばれる
の補遺タルグムでも、エリヤは「大祭司」と呼ばれる
メシアニズム、終末論は、終わりの日々、政治的危機、メシアの到来、離散した
メシアニズム、終末論は、終わりの日々、政治的危機、メシアの到来、離散した
メシアニズム、終末論は、終わりの日々、政治的危機、メシアの到来、離散した
メシアニズム、終末論は、終わりの日々、政治的危機、メシアの到来、離散した
メシアニズム、終末論は、終わりの日々、政治的危機、メシアの到来、離散した
メシアニズム、終末論は、終わりの日々、政治的危機、メシアの到来、離散した
メシアニズム、終末論は、終わりの日々、政治的危機、メシアの到来、離散したイ
イスラエルの再集合、イスラエ
メシアニズム、終末論は、終わりの日々、政治的危機、メシアの到来、離散した
メシアニズム、終末論は、終わりの日々、政治的危機、メシアの到来、離散した
イスラエルの再集合、イスラエルの救済、死者の復活など様々な要素と過程によっ
イスラエルの再集合、イスラエルの救済、死者の復活など様々な要素と過程によっ
イスラエルの再集合、イスラエルの救済、死者の復活など様々な要素と過程によっ
イスラエルの再集合、イスラエルの救済、死者の復活など様々な要素と過程によっ
イスラエルの再集合、イスラエルの救済、死者の復活など様々な要素と過程によっ
イスラエルの再集合、イスラエルの救済、死者の復活など様々な要素と過程によっ
スラエルの再集合、イスラエルの救済、死者の復活など様々な要素と過程によって形
て形成される。また、時代や思
イスラエルの再集合、イスラエルの救済、死者の復活など様々な要素と過程によっ
イスラエルの再集合、イスラエルの救済、死者の復活など様々な要素と過程によっ
て形成される。また、時代や思潮によって変遷するが、その詳細を規定することは
て形成される。また、時代や思潮によって変遷するが、その詳細を規定することは
て形成される。また、時代や思潮によって変遷するが、その詳細を規定することは
て形成される。また、時代や思潮によって変遷するが、その詳細を規定することは
て形成される。また、時代や思潮によって変遷するが、その詳細を規定することは
て形成される。また、時代や思潮によって変遷するが、その詳細を規定することは
成される。また、時代や思潮によって変遷するが、その詳細を規定することは本稿の
本稿の射程を超えている。本稿
て形成される。また、時代や思潮によって変遷するが、その詳細を規定することは
て形成される。また、時代や思潮によって変遷するが、その詳細を規定することは
本稿の射程を超えている。本稿では、上記のような一般にメシアニズムに関すると
本稿の射程を超えている。本稿では、上記のような一般にメシアニズムに関すると
本稿の射程を超えている。本稿では、上記のような一般にメシアニズムに関すると
本稿の射程を超えている。本稿では、上記のような一般にメシアニズムに関すると
本稿の射程を超えている。本稿では、上記のような一般にメシアニズムに関すると
本稿の射程を超えている。本稿では、上記のような一般にメシアニズムに関すると
射程を超えている。本稿では、上記のような一般にメシアニズムに関すると理解され
理解されている要素をメシア的
本稿の射程を超えている。本稿では、上記のような一般にメシアニズムに関すると
本稿の射程を超えている。本稿では、上記のような一般にメシアニズムに関すると
理解されている要素をメシア的コンテキストと呼ぶ。エリヤに関する
Ps.
J.の資料
の資料
理解されている要素をメシア的コンテキストと呼ぶ。エリヤに関する
Ps.
J.
理解されている要素をメシア的コンテキストと呼ぶ。エリヤに関する
Ps.
J.
の資料
理解されている要素をメシア的コンテキストと呼ぶ。エリヤに関する
理解されている要素をメシア的コンテキストと呼ぶ。エリヤに関する
Ps.
Ps.J.
J.の資料
の資料
理解されている要素をメシア的コンテキストと呼ぶ。エリヤに関する
Ps.J. J.
の資料
Ps.
ている要素をメシア的コンテキストと呼ぶ。エリヤに関する
の資料において
においては、
特にメシアの言及が
理解されている要素をメシア的コンテキストと呼ぶ。エリヤに関する
Ps.
J. の資料
理解されている要素をメシア的コンテキストと呼ぶ。エリヤに関する
Ps. J.
の資料
‫משיחא‬
‫מלכא‬
」
においては、
特にメシアの言及が目立つ。
【3】
でははっきりと
「メシア王
‫משיחא‬
‫מלכא‬
」
においては、
特にメシアの言及が目立つ。
【3】
でははっきりと
「メシア王
‫משיחא‬
‫מלכא‬
」
においては、
特にメシアの言及が目立つ。
【3】
でははっきりと
「メシア王
‫משיחא‬
‫משיחא‬
‫מלכא‬
‫מלכא‬
」
」
においては、
においては、
特にメシアの言及が目立つ。
特にメシアの言及が目立つ。
【3】
【3】
でははっきりと
でははっきりと
「メシア王
「メシア王
‫משיחא‬
‫מלכא‬
」
においては、
特にメシアの言及が目立つ。
【3】
でははっきりと
「メシア王
は、特にメシアの言及が目立つ。【3】でははっきりと「メシア王 」が言
が言及される。また、
【1】
【2】
【
‫משיחא‬
‫מלכא‬
」
においては、
特にメシアの言及が目立つ。
【3】
でははっきりと
「メシア王
においては、
特にメシアの言及が目立つ。
【3】でははっきりと「メシア王‫」מלכא משיחא‬
が言及される。また、
【1】
【2】
【5】では「メシア」は言及されないが、「終わりの日々
が言及される。また、
【1】
【2】
【5】では「メシア」は言及されないが、「終わりの日々
が言及される。また、
【1】
【2】
【5】では「メシア」は言及されないが、「終わりの日々
が言及される。また、
が言及される。また、
【1】
【1】
【2】
【2】
【5】では「メシア」は言及されないが、「終わりの日々
【5】では「メシア」は言及されないが、「終わりの日々
が言及される。また、
【1】
【2】
【5】では「メシア」は言及されないが、「終わりの日々
及される。また、
【1】
【2】
【5】では「メシア」は言及されないが、
「終わりの日々
‫יומייא‬
‫「」סוף‬離散の終わり
‫וותא‬
が言及される。また、
【1】
【2】
【5】では「メシア」は言及されないが、「終わりの日々
が言及される。また、
【1】
【2】
【5】では「メシア」は言及されないが、「終わりの日々
‫יומייא‬
‫סוף‬
」「離散の終わり
‫גלוותא‬
‫סוף‬
」「終わりの日
‫יומיא‬
‫סוף‬
」「救済
‫גאולתא‬
」という
‫יומייא‬
‫סוף‬
」「離散の終わり
‫גלוותא‬
‫סוף‬
」「終わりの日
‫יומיא‬
‫סוף‬
」「救済
‫גאולתא‬
」という
‫סוףסוף‬
」「離散の終わり
‫סוףסוף‬
」「終わりの日
‫סוףסוף‬
」「救済
‫גאולתא‬
」という
‫יומייא‬
」「離散の終わり
‫גלוותא‬
」「終わりの日
」「救済
‫גאולתא‬
」という
‫יומייא‬
‫סוף‬
」「離散の終わり
‫גלוותא‬
‫גלוותא‬
‫סוף‬
‫סוף‬
」「終わりの日
」「終わりの日
‫יומיא‬
‫סוף‬
」「救済
‫גאולתא‬
」という
」
「離散の終わり 」
「終わりの日 」「救済 」と
‫יומייאיומייא‬
‫סוף‬
」「離散の終わり
‫גלוותאגלוותא‬
‫סוף‬
」「終わりの日
‫יומיא יומיא‬
‫יומיאסוף‬
」「救済
‫גאולתא‬
」という
表現はメシアが現れる過程に結
‫סוף יומייא‬
」「離散の終わり
‫סוף גלוותא‬
」「終わりの日
‫סוף יומיא‬
」「救済
‫יומייא‬
‫「」סוף‬離散の終わり
‫גלוותא‬
‫「」סוף‬終わりの日
‫יומיא‬
‫גאולתאסוף‬
」「救済」という
‫גאולתא‬
」という
表現はメシアが現れる過程に結びついているのでメシア的コンテキストと考える。
表現はメシアが現れる過程に結びついているのでメシア的コンテキストと考える。
表現はメシアが現れる過程に結びついているのでメシア的コンテキストと考える。
表現はメシアが現れる過程に結びついているのでメシア的コンテキストと考える。
表現はメシアが現れる過程に結びついているのでメシア的コンテキストと考える。
表現はメシアが現れる過程に結びついているのでメシア的コンテキストと考える。
事実、
Ps. J. での
「終わりの日々
表現はメシアが現れる過程に結びついているのでメシア的コンテキストと考える。
21。
21。
22 表現はメシアが現れる過程に結びついているのでメシア的コンテキストと考える。
事実、
Ps.
J.での
での
「終わりの日々」
の他の言及個所ではメシアが言及されている
事実、
Ps.
J.
「終わりの日々」
の他の言及個所ではメシアが言及されている
21
2121
J.
での
「終わりの日々」
の他の言及個所ではメシアが言及されている
21。 21。
。。
事実、
Ps.
J.での
での
「終わりの日々」
の他の言及個所ではメシアが言及されている
Ps.
J.
「終わりの日々」
の他の言及個所ではメシアが言及されている
事実、事実、
Ps.事実、
J. Ps.
での
「終わりの日々」
の他の言及個所ではメシアが言及されている
21。
21。
事実、Ps.
J. での
の他の言及個所ではメシアが言及されている
事実、
Ps.「終わりの日々」
J. での「終わりの日々」
の他の言及個所ではメシアが言及されている
7
タルグム偽ヨナタン(Ps. J.)におけるエリヤ像
いう表現はメシアが現れる過程に結びついているのでメシア的コンテキストと考え
21
る。事実、Ps. J. での「終わりの日々」の他の言及個所ではメシアが言及されている
また【2】の前後の句の
Ps. J. では、メシア王とエフライム出身のメシア王につい 。
また【2】の前後の句の Ps. J. では、メシア王とエフライム出身のメシア王について
て語られていているので【2】も十分メシア的なコンテキストにある。また、エリヤ
語られていているので【2】も十分メシア的なコンテキストにある。また、エリヤと
と同一視されるピネハスは、別の場所で再び「終わりの日々」という表現とともに
同一視されるピネハスは、別の場所で再び「終わりの日々」という表現とともに表れ
表れるように、ピネハスとの同一視もメシア的コンテキストを連想させる22。
るように、ピネハスとの同一視もメシア的コンテキストを連想させる22。
しかし、a-c それぞれの要素は Ps. J. のエリヤ像特有のものではない。大祭司ヨ
しかし、a-c それぞれの要素は Ps. J. のエリヤ像特有のものではない。大祭司ヨハ
ハナンとの同一視以外の要素は、以下に論じるように、他の周辺文学、特にミドラ
ナンとの同一視以外の要素は、以下に論じるように、他の周辺文学、特にミドラシュ
シュなどのラビ文学に並行個所は見出される。しかし、これらの並行記事と上記の
などのラビ文学に並行個所は見出される。しかし、これらの並行記事と上記の Ps. J.
Ps. J. でのエリヤ像を詳細に比較検討すると、Ps. J. のエリヤ像の特異性が明らか
でのエリヤ像を詳細に比較検討すると、Ps. J. のエリヤ像の特異性が明らかになる。
になる。以下、上記の a、b、c の各要素の並行個所との比較検証を行い、d にて、
以下、上記の a、b、c の各要素の並行個所との比較検証を行い、d にて、更に Ps.
更に Ps. J.と近いと思われる言説と比較検討する。
J. と近いと思われる言説と比較検討する。
3.周辺文学でのエリヤ像との比較検証
3.周辺文学でのエリヤ像との比較検証
先に概論したように、同時代のラビ・ユダヤ教文献では、多数の様々なエリヤ像
が描かれている。この中で、ここでは、特にエリヤが「祭司」と呼ばれるもの、匂
先に概論したように、同時代のラビ・ユダヤ教文献では、多数の様々なエリヤ像が
わせるもの、あるいは他の祭司、特にピネハスと同一視される言説と、エリヤがメ
描かれている。この中で、ここでは、特にエリヤが「祭司」と呼ばれるもの、匂わせ
シア的コンテキストで言及される言説のうち代表的なものを取り上げ、比較検証す
るもの、あるいは他の祭司、特にピネハスと同一視される言説と、エリヤがメシア的
る。
コンテキストで言及される言説のうち代表的なものを取り上げ、比較検証する。
a. 祭司、あるいは「祭司」の呼称を伴うエリヤ
a.祭司、あるいは「祭司」の呼称を伴うエリヤ
確かに、エリヤと祭司職の関係を示唆する資料はタルグム文学以外のラビ・ユダ
確かに、エリヤと祭司職の関係を示唆する資料はタルグム文学以外のラビ・ユダヤ
ヤ教文献、外典、偽典にも散見される。しかし、明瞭に「祭司」と呼ばれているの
教文献、外典、偽典にも散見される。しかし、明瞭に「祭司」と呼ばれているのは、
は、BT
114a-b と箴言ミドラシュのいくつかの写本とその並行個所だけで
と箴言ミドラシュのいくつかの写本とその並行個所
BTババ・メツィア
ババ・メツィア114a-b
だけである。他の伝承では、以下
で議論するように、ピネハスとの同一視の中で
ある。他の伝承では、以下 b bで議論するように、ピネハスとの同一視の中でエリヤ
エリヤが「祭司」であることを暗示している。
が「祭司」であることを暗示している。
BT ババ・メツィア
114a-b
BT
ババ・メツィア114a-b
ラッバ・バル・アバフは、
エリヤが異教徒の墓に立っているのを見た。
・・・
ラッバ・バル・アバフは、エリヤが異教徒の墓に立っているのを見た。…彼
‫)לא כהן הוא‬と言った。師よ、なぜ、師が墓場
)と言った。師よ、なぜ、師が
に、彼は祭司ではないのか( 彼に、彼は祭司ではないのか(
*1
*1。彼は言った。
に立っているのか 。彼は言った。
「あなたは学ばなかったのか。ラビ・シメ
墓場に立っているのか
「あなたは学ばなかったのか。ラビ・
オン・ベン・ユハイが異教徒の墓は汚さないと教えたのを。『おまえたちはわ
シメオン・ベン・ユハイが異教徒の墓は汚さないと教えたのを。
『おまえた
たしの群れ、わたしは牧草地の群れである。お前たちは人間であり、わたしは
ちはわたしの群れ、
わたしは牧草地の群れである。お前たちは人間であり、
おまえたちの神である』(エゼ33.31)とある。あなたがたがはアダムと呼ばれ
わたしはおまえたちの神である』(エゼ
33.31)とある。あなたがたがはアダ
ムと呼ばれる。異教徒はアダムと呼ばれない」。
*1 民 19 章の規定により遺体は穢れを移す。特に祭司はレビ 21 章で遺体に
触れることを禁じられている。
23
彼に、彼は祭司ではないのか(‫)לא כהן הוא‬と言った。師よ、なぜ、師が
「あなたは学ばなかったのか。ラビ・
墓場に立っているのか*1。彼は言った。
シメオン・ベン・ユハイが異教徒の墓は汚さないと教えたのを。
『おまえた
基督教研究 第75巻 第1号
ちはわたしの群れ、わたしは牧草地の群れである。お前たちは人間であり、
わたしはおまえたちの神である』(エゼ 33.31)とある。あなたがたがはアダ
ムと呼ばれる。異教徒はアダムと呼ばれない」
。
る。異教徒はアダムと呼ばれない」
。
8888 8
*
*1
民 民19章の規定により遺体は穢れを移す。特に祭司はレビ21章で遺体に触
19 章の規定により遺体は穢れを移す。特に祭司はレビ 21 章で遺体に
1 触れることを禁じられている。
れることを禁じられている。
*
*2
しかし、民
19 章で規定されている遺体は‫אדם‬アダムの遺体、即ち、エ
2 しかし、民19章で規定されている遺体は アダムの遺体、即ち、エゼ
ゼ
33
で‫אדם‬
と呼ばれるイスラエル人の遺体のことであり、
異教徒の遺体で
ゼ
で
と呼ばれるイスラエル人の遺体のことであり、
異教徒の遺体で
ゼ 33
33で
で‫אדם‬
‫אדם‬
と呼ばれるイスラエル人の遺体のことであり、
異教徒の遺体で
ゼ
異教徒の遺体で
ゼ33
33
で‫אדם‬
‫אדם‬と呼ばれるイスラエル人の遺体のことであり、
と呼ばれるイスラエル人の遺体のことであり、
異教徒の遺体で
33で と呼ばれるイスラエル人の遺体のことであり、異教徒の遺体で
はないので、異教徒の墓場に立っているエリヤも穢れを受けない。
はないので、異教徒の墓場に立っているエリヤも穢れを受けない。
はないので、異教徒の墓場に立っているエリヤも穢れを受けない。
はないので、異教徒の墓場に立っているエリヤも穢れを受けない。
はないので、異教徒の墓場に立っているエリヤも穢れを受けない。
はないので、異教徒の墓場に立っているエリヤも穢れを受けない。
箴言ミドラシュ(Buber
版)9.2
箴言ミドラシュ(Buber
版)9.2
箴言ミドラシュ(Buber
版)9.2
箴言ミドラシュ(Buber
箴言ミドラシュ(Buber
版)9.2
箴言ミドラシュ(Buber版)9.2
版)9.2
別の解釈「食卓を整え」
(箴
9.2)これは、ラビ・アキバが牢に入れられ、ゲ
別の解釈「食卓を整え」
(箴
9.2)これは、ラビ・アキバが牢に入れられ、ゲ
別の解釈「食卓を整え」
(箴
9.2)これは、ラビ・アキバが牢に入れられ、ゲ
別の解釈「食卓を整え」
(箴
9.2)これは、ラビ・アキバが牢に入れられ、ゲ
別の解釈「食卓を整え」
(箴9.2)これは、ラビ・アキバが牢に入れられ、ゲラ
別の解釈「食卓を整え」
(箴
9.2)これは、ラビ・アキバが牢に入れられ、ゲ
ラサのヨシュアが彼に仕えていたときの話で語られた。
ある聖なる日の夕べ、
ラサのヨシュアが彼に仕えていたときの話で語られた。
ある聖なる日の夕べ、
ラサのヨシュアが彼に仕えていたときの話で語られた。
ある聖なる日の夕べ、
ラサのヨシュアが彼に仕えていたときの話で語られた。
ある聖なる日の夕べ、
サのヨシュアが彼に仕えていたときの話で語られた。ある聖なる日の夕べ、ヨ
ラサのヨシュアが彼に仕えていたときの話で語られた。
ある聖なる日の夕べ、
ヨシュアが自分の師の元を離れ、家に向かおうとしていたとき、祭司エリヤ
ヨシュアが自分の師の元を離れ、家に向かおうとしていたとき、祭司エリヤ
ヨシュアが自分の師の元を離れ、家に向かおうとしていたとき、祭司エリヤ
ヨシュアが自分の師の元を離れ、家に向かおうとしていたとき、祭司エリヤ
シュアが自分の師の元を離れ、家に向かおうとしていたとき、祭司エリヤが現
ヨシュアが自分の師の元を離れ、家に向かおうとしていたとき、祭司エリヤ
‫כהן‬
。
が現れ、
彼の家の入口に立ち、
彼に言った。
「私は祭司エリヤである
(‫אני‬
‫כהן‬
)
。
が現れ、
彼の家の入口に立ち、
彼に言った。
「
(
‫אני‬
‫כהן‬
)
。)
が現れ、
彼の家の入口に立ち、
彼に言った。
「私は祭司エリヤである
私は祭司エリヤである
(‫אני‬
)
。
が現れ、
彼の家の入口に立ち、
彼に言った。
「
(
れ、彼の家の入口に立ち、彼に言った。
「私は祭司エリヤである( 。
‫כהןאני‬
‫)כהן‬
)
。
が現れ、
彼の家の入口に立ち、
彼に言った。
「私は祭司エリヤである
私は祭司エリヤである
(‫אני‬
ラビ・アキバが牢で死んだことをあなたに告げに来た」
。
・・・2
人が行って
ラビ・アキバが牢で死んだことをあなたに告げに来た」
。
・・・2
人が行って
ラビ・アキバが牢で死んだことをあなたに告げに来た」
。
・・・2
人が行って
ラビ・アキバが牢で死んだことをあなたに告げに来た」
。
・・・2
ラビ・アキバが牢で死んだことをあなたに告げに来た」
。…2人が行ってみる
ラビ・アキバが牢で死んだことをあなたに告げに来た」
。
・・・2人が行って
人が行って
みると、彼[ラビ・アキバ]は死んでいた。エリヤが彼の世話をして、衣装を
みると、彼[ラビ・アキバ]は死んでいた。エリヤが彼の世話をして、衣装を
みると、彼[ラビ・アキバ]は死んでいた。エリヤが彼の世話をして、衣装を
みると、彼[ラビ・アキバ]は死んでいた。エリヤが彼の世話をして、衣装を
と、彼[ラビ・アキバ]は死んでいた。エリヤが彼の世話をして、衣装を着せ
みると、彼[ラビ・アキバ]は死んでいた。エリヤが彼の世話をして、衣装を
着せた。彼にゲラサのヨシュアは言った。
「あなたは私に自分は祭司エリヤ
着せた。彼にゲラサのヨシュアは言った。
「あなたは私に自分は祭司エリヤ
着せた。彼にゲラサのヨシュアは言った。
「あなたは私に自分は祭司エリヤ
た。彼にゲラサのヨシュアは言った。
「あなたは私に『自分は祭司エリヤであ
着せた。彼にゲラサのヨシュアは言った。
「あなたは私に自分は祭司エリヤ
着せた。彼にゲラサのヨシュアは言った。
「あなたは私に自分は祭司エリヤ
である」と言ったではないか。祭司は遺体の穢れをうけることを禁じられて
である」と言ったではないか。祭司は遺体の穢れをうけることを禁じられて
である」と言ったではないか。祭司は遺体の穢れをうけることを禁じられて
る』
」と言ったではないか。祭司は遺体の穢れをうけることを禁じられている
である」と言ったではないか。祭司は遺体の穢れをうけることを禁じられて
である」と言ったではないか。祭司は遺体の穢れをうけることを禁じられて
いるのではないか」
。彼に言った。
「十分だ。私の息子、ヨシュアよ、義人に
いるのではないか」
。彼に言った。
「十分だ。私の息子、ヨシュアよ、義人に
いるのではないか」
。彼に言った。
「十分だ。私の息子、ヨシュアよ、義人に
のではないか」。彼に言った。
「十分だ。私の息子、ヨシュアよ、義人によって
いるのではないか」
。彼に言った。
「十分だ。私の息子、ヨシュアよ、義人に
いるのではないか」
。彼に言った。
「十分だ。私の息子、ヨシュアよ、義人に
よって汚れることはない。
また、
その弟子たちによっても汚れることはない」
よって汚れることはない。
また、
その弟子たちによっても汚れることはない」
。
よって汚れることはない。
また、
その弟子たちによっても汚れることはない」
。。
汚れることはない。また、その弟子たちによっても汚れることはない」
。
よって汚れることはない。
また、
その弟子たちによっても汚れることはない」
。
よって汚れることはない。
また、
その弟子たちによっても汚れることはない」
。
」と問われ、また、
確かにこの二つの資料では、
「祭司ではないのか
‫הוא‬
‫כהן‬
‫לאו‬
」と問われ、また、
確かにこの二つの資料では、
「祭司ではないのか
‫הואהוא‬
‫כהןכהן‬
‫לאולאו‬
」と問われ、また、
確かにこの二つの資料では、
「祭司ではないのか
確かにこの二つの資料では、
「祭司ではないのか 」と問われ、また、
確かにこの二つの資料では、
「祭司ではないのか
‫כהןהוא‬
‫לאוכהן‬
‫」לאו‬と問われ、また、
」と問われ、また、
確かにこの二つの資料では、
「祭司ではないのか‫הוא‬
‫אליהו‬
」という呼称が当てられているし、彼自身が「祭司」と自
箴言
9 では「祭司
‫כהןן‬
‫אליהו‬
」という呼称が当てられているし、彼自身が「祭司」と自
箴言
99 では「祭司
箴言9では「祭司 」という呼称が当てられているし、彼自身が「祭司」と自
‫כהןכה‬
‫אליהו‬
」という呼称が当てられているし、彼自身が「祭司」と自
箴言
では「祭司
箴言
‫אליהוכהן‬
‫」אליהו‬という呼称が当てられているし、彼自身が「祭司」と自
」という呼称が当てられているし、彼自身が「祭司」と自
箴言99では「祭司
では「祭司‫כהן‬
()
。しかし、これらの資料でのエリヤへの「祭司」という呼称は定
称している
))‫אני‬
‫כהן‬
((。しかし、これらの資料でのエリヤへの「祭司」という呼称は定
称している
称している( 。しかし、これらの資料でのエリヤへの「祭司」という呼称
‫אני)אני‬
‫כהןכהן‬
。しかし、これらの資料でのエリヤへの「祭司」という呼称は定
称している
称している
)‫כהן אני‬
‫。(כהן‬しかし、これらの資料でのエリヤへの「祭司」という呼称は定
(。しかし、これらの資料でのエリヤへの「祭司」という呼称は定
称している)‫אני‬
23
23、「祭司職」は、
23 、「祭司職」は、
「遺体によって汚れるかどうか」問いへの範囲の中
着していないし
は定着していないし
、「祭司職」は、
「遺体によって汚れるかどうか」問いへの範囲
「遺体によって汚れるかどうか」問いへの範囲の中
着していないし
「遺体によって汚れるかどうか」問いへの範囲の中
着していないし
2323、「祭司職」は、
「遺体によって汚れるかどうか」問いへの範囲の中
着していないし
、「祭司職」は、
「遺体によって汚れるかどうか」問いへの範囲の中
着していないし23、「祭司職」は、
の中において言及されるだけである。話の展開の中でエリヤが祭司であることは周辺
において言及されるだけである。話の展開の中でエリヤが祭司であることは周辺に
において言及されるだけである。話の展開の中でエリヤが祭司であることは周辺に
において言及されるだけである。話の展開の中でエリヤが祭司であることは周辺に
において言及されるだけである。話の展開の中でエリヤが祭司であることは周辺に
において言及されるだけである。話の展開の中でエリヤが祭司であることは周辺に
にある。BT
ババ・メツィアでは、議論の中心は貧者の負債をどうするかということ
ある。BT
ババ・メツィアでは、議論の中心は貧者の負債をどうするかということ
ある。BT
ババ・メツィアでは、議論の中心は貧者の負債をどうするかということ
ある。BT
ババ・メツィアでは、議論の中心は貧者の負債をどうするかということ
ある。BT
ある。BTババ・メツィアでは、議論の中心は貧者の負債をどうするかということ
ババ・メツィアでは、議論の中心は貧者の負債をどうするかということ
であり、エリヤと対話したラッバ・バル・アバフは貧しくて祭司の清浄規定まで学ぶ
であり、エリヤと対話したラッバ・バル・アバフは貧しくて祭司の清浄規定まで学
であり、エリヤと対話したラッバ・バル・アバフは貧しくて祭司の清浄規定まで学
であり、エリヤと対話したラッバ・バル・アバフは貧しくて祭司の清浄規定まで学
であり、エリヤと対話したラッバ・バル・アバフは貧しくて祭司の清浄規定まで学
であり、エリヤと対話したラッバ・バル・アバフは貧しくて祭司の清浄規定まで学
余裕がないことを訴える。そして、エリヤはラッバ・バル・アッバフの衣類で金策を
ぶ余裕がないことを訴える。そして、エリヤはラッバ・バル・アッバフの衣類で金
ぶ余裕がないことを訴える。そして、エリヤはラッバ・バル・アッバフの衣類で金
ぶ余裕がないことを訴える。そして、エリヤはラッバ・バル・アッバフの衣類で金
ぶ余裕がないことを訴える。そして、エリヤはラッバ・バル・アッバフの衣類で金
ぶ余裕がないことを訴える。そして、エリヤはラッバ・バル・アッバフの衣類で金
はからうという展開である。結局、
「祭司」の清浄規定の知識は特段必要ないとも考
策をはからうという展開である。結局、「祭司」の清浄規定の知識は特段必要ないと
策をはからうという展開である。結局、「祭司」の清浄規定の知識は特段必要ないと
策をはからうという展開である。結局、「祭司」の清浄規定の知識は特段必要ないと
策をはからうという展開である。結局、「祭司」の清浄規定の知識は特段必要ないと
策をはからうという展開である。結局、「祭司」の清浄規定の知識は特段必要ないと
えられる。また、箴言ミドラシュ9では、上記の言説の直前には、
「食卓を整え」と
も考えられる。
また、
箴言ミドラシュ
9 では、
上記の言説の直前には、
「食卓を整え」
も考えられる。
また、
箴言ミドラシュ
99 では、
上記の言説の直前には、
「食卓を整え」
も考えられる。
また、
箴言ミドラシュ
では、
上記の言説の直前には、
「食卓を整え」
も考えられる。
また、
箴言ミドラシュ
上記の言説の直前には、
「食卓を整え」
も考えられる。
また、
箴言ミドラシュ99では、
では、
上記の言説の直前には、
「食卓を整え」
は、トーラーの学びであり、トーラーの学びに専念するものは来る世にあずかれると
とは、トーラーの学びであり、トーラーの学びに専念するものは来る世にあずかれ
とは、トーラーの学びであり、トーラーの学びに専念するものは来る世にあずかれ
とは、トーラーの学びであり、トーラーの学びに専念するものは来る世にあずかれ
とは、トーラーの学びであり、トーラーの学びに専念するものは来る世にあずかれ
とは、トーラーの学びであり、トーラーの学びに専念するものは来る世にあずかれ
いう主張が展開する。そして上記の言説を挟んで、大贖罪日の大祭司がトーラーへの
るという主張が展開する。そして上記の言説を挟んで、大贖罪日の大祭司がトーラ
るという主張が展開する。そして上記の言説を挟んで、大贖罪日の大祭司がトーラ
るという主張が展開する。そして上記の言説を挟んで、大贖罪日の大祭司がトーラ
るという主張が展開する。そして上記の言説を挟んで、大贖罪日の大祭司がトーラ
るという主張が展開する。そして上記の言説を挟んで、大贖罪日の大祭司がトーラ
敬意よりも、血肉のこと(物質的なこと)を敬意していると非難される。つまり、上
ーへの敬意よりも、血肉のこと(物質的なこと)を敬意していると非難される。つ
ーへの敬意よりも、血肉のこと(物質的なこと)を敬意していると非難される。つ
ーへの敬意よりも、血肉のこと(物質的なこと)を敬意していると非難される。つ
ーへの敬意よりも、血肉のこと(物質的なこと)を敬意していると非難される。つ
ーへの敬意よりも、血肉のこと(物質的なこと)を敬意していると非難される。つ
記の言説はともに、祭司職よりもトーラーの学びの重要性、つまりトーラーへの敬意
まり、上記の言説はともに、祭司職よりもトーラーの学びの重要性、つまりトーラ
まり、上記の言説はともに、祭司職よりもトーラーの学びの重要性、つまりトーラ
まり、上記の言説はともに、祭司職よりもトーラーの学びの重要性、つまりトーラ
まり、上記の言説はともに、祭司職よりもトーラーの学びの重要性、つまりトーラ
まり、上記の言説はともに、祭司職よりもトーラーの学びの重要性、つまりトーラ
を主張することが主眼にある。エリヤの祭司性は、言わば、トーラーの学びの重要性
ーへの敬意を主張することが主眼にある。エリヤの祭司性は、言わば、トーラーの
ーへの敬意を主張することが主眼にある。エリヤの祭司性は、言わば、トーラーの
ーへの敬意を主張することが主眼にある。エリヤの祭司性は、言わば、トーラーの
ーへの敬意を主張することが主眼にある。エリヤの祭司性は、言わば、トーラーの
ーへの敬意を主張することが主眼にある。エリヤの祭司性は、言わば、トーラーの
学びの重要性を引き立てるためのようなものである。
学びの重要性を引き立てるためのようなものである。
学びの重要性を引き立てるためのようなものである。
24学びの重要性を引き立てるためのようなものである。
学びの重要性を引き立てるためのようなものである。
ラビ文献中でエリヤの祭司を暗示する別のタイプは、ミドラシュの中で何度も問
ラビ文献中でエリヤの祭司を暗示する別のタイプは、ミドラシュの中で何度も問
ラビ文献中でエリヤの祭司を暗示する別のタイプは、ミドラシュの中で何度も問
ラビ文献中でエリヤの祭司を暗示する別のタイプは、ミドラシュの中で何度も問
ラビ文献中でエリヤの祭司を暗示する別のタイプは、ミドラシュの中で何度も問
24
タルグム偽ヨナタン(Ps. J.)におけるエリヤ像
を引き立てるためのようなものである。
ラビ文献中でエリヤの祭司を暗示する別のタイプは、ミドラシュの中で何度も問わ
れる問い「エリヤの出自はどこか」に関係して出てくるものだ24。この問いに対する
見解は様々であり、その殆どはエリヤが祭司であることを語るものではないが25、そ
の中で、後代のセデル・エリヤフ・ラッバ18とその並行記事の中で26、エリヤがレビ
族、つまり祭司の部族の出身ではないかとラビたちが問う。議論の過程で、はたして
エリヤはレアの子孫かラケルの子孫かということが問題になり、議論の渦中にあるラ
ビたちの前に出現したエリヤに対してラビたちは問う。「あなたは祭司ではなかった
のか」。つまり、祭司の部族であるレビ族の出身、つまり、レアの子孫ではないかと
考えている。しかし、その問いは、エリヤ自身の「私は、ラケルの子孫に他ならな
い」という答えによって否定される。
ここでも「彼は祭司ではないのか」という問いが繰り返されるように、「エリヤが
祭司ではないのか」という「問い」に、ラビたちは関心があったようだ27。しかし、
これらの言説の中では、「祭司としてのエリヤ」は描かれていない。しかもこの問い
を発するラビたちは、エリヤの祭司性を決して肯定的なものとしては扱っていない。
そして、セデル・エリヤフ・ラッバではエリヤの口を通してエリヤの祭司性は否定さ
れる。つまり、これらを編纂したラビたちがエリヤの祭司性を否定しているというこ
とである。
b.エリヤとピネハスとの同一視、他の祭司との列挙
ピネハスとの同一視は、ラビ文学では、民シフレ131節(Horowitz 版137頁)、民 R
21.3、PRE29、PRE47、外典では、フィロン古代誌48.1、マカベア書等がある。これ
らの中で、エリヤとピネハスの連想が最も辿りやすいのが、民 R 21.3である。おそら
く上記【5】の連想過程を説明するものだろう。
民 R 21.3(Horowitz 版137頁)
この結果*1、聖典は彼(ピネハス)に次のように宣言したのである。「永遠の
祭司職の契約にあずかる、」(民25.11)これは、ピネハスが今でも生きている
ということを示唆する。それで次のように言われている。「[レビと結んだ]わ
が契約は命と永遠*2であり、わたしはそれらを彼に与えた。それは畏れをもた
らす契約であり、彼はわたしを畏れ、わが名ゆえにおののいた」(マラキ
2.5)。「彼と彼に続く子孫には。イスラエル人のために、罪の贖いをしたから
である」(民同13)。しかし、彼はささげものをしたのか。いや悪人の血を流す
者は、ささげものをささげたと見なされるということを教えるためである。
25
基督教研究 第75巻 第1号
*1 ピネハスが神殿にミディアンの女を連れ込んだイスラエル人に怒り、刺
し殺した結果。
*
2 「永遠に」という表現ゆえに、生き続けていると考えた。ちなみに、新
共同訳では、「平和」と訳しているが、本稿では解釈の連想を生かすため
に「永遠」と訳出する。民25.11とマラキ2.5を重ねることによって、ピネ
10
10
ハスの行為の背景に、神への畏れがあったことを示唆することになる。
PRE 47
ラビ・エリエゼルは言った。
「ほむべき
ゼルは言った。
「ほむべきかな、聖なる方は、ピネハスの名を、ギ
ルアド族出身のエリヤ―その名が良く
身のエリヤ―その名が良く記憶されるように―の名と関係づけた。
イスラエルはギルアドの地に悔悛をも
はギルアドの地に悔悛をもたらしたからだ。
「レビと結んだわが契約
は命と永遠であり」(マラキ 2.5)
。そ
ラビ・エリエゼルは言った。「ほむべきかな、聖なる方は、ピネハスの名を、
ギルアド族出身のエリヤ―その名が良く記憶されるように―の名と関係づけ
た。イスラエルはギルアドの地に悔悛をもたらしたからだ。「レビと結んだわ
であり」
(マラキ 2.5)
。それで、彼にこの世での命と来る世での命
を与えたのである。
が契約は命と永遠であり」(マラキ2.5)。それで、彼にこの世での命と来る世
である。
での命を与えたのである。
第一マカビア書 2 章のマタティアの遺言の中(2.54、56)で 2 人
外典文学では、第一マカビア書 2 章のマタ
が併置され、ともに熱情ゆえに天に上げら
外典文学では、第一マカビア書2章のマタティアの遺言の中(2.54、56)で2人が併
もに熱情ゆえに天に上げられたことが記述される。また偽フィロン
でも、ピネハスの生涯の記述に際して「あ
置され、ともに熱情ゆえに天に上げられたことが記述される。また偽フィロンでも、
誌(偽フィロン古代誌48.1)
48.1)という表現が、ピネハスとエリヤを
ピネハスの生涯の記述に際して「あなたは天にとどまった」
生涯の記述に際して「あなたは天にとどまった」(偽フィロン古代
Ps.J. での箇所を含め、上記の箇所での
という表現が、ピネハスとエリヤを同一視されていると解釈される。
現が、ピネハスとエリヤを同一視されていると解釈される。
を含め、上記の箇所でのエリヤとピネハスの同一視は、古くから
J.
Ps.
研究者の注目を集めてきた28。ピネハスを
での箇所を含め、上記の箇所でのエリヤとピネハスの同一視は、古くから研
集めてきた28。ピネハスを祭司系のメシア王の到来の象徴とし、祭
司系王権を体現したハスモン王朝支持
究者の注目を集めてきた28。ピネハスを祭司系のメシア王の到来の象徴とし、祭司系
し た ハ ス モ王権を体現したハスモン王朝支持の思潮を反映であると考えられたり(Aptowizer,
ン 王 朝 支 持 の 思 潮 を 反 映 で あ る と 考 え ら れ た り (Aptowizer, 1927)、メシアにおける祭司家
)、メシアにおける祭司家系が重要な役割を果たすクムラン教団の
影響を推測されたり (Woude, 1957)、熱心
1927)、メシアにおける祭司家系が重要な役割を果たすクムラン教団の影響が推測さ
29
たり (Woude,れたり(Woude,
1957)、熱心派の影響も指摘された
(Hengel 1976: 154-81)
。また、キリスト教での油注がれ
1957)、熱心派の影響も指摘された(Hengel
1976:29154-81)
。また、
、キリスト教での油注がれた大祭司メルキツェデクとイエスを同一
視の傾向に対するアンティテーゼと考える
キリスト教での油注がれた大祭司メルキツェデクとイエスを同一視の傾向に対するア
るアンティテーゼと考える研究者もいる
(Strack and Billerbeck
and Billerbeck1928;
‫)(איילי‬
。Ps.
J. での上記の箇所
ンティテーゼと考える研究者もいる(Strack
1928;4991
1994 。Ps. J.
。Ps. J. での上記の箇所もこれらのエリヤ―ピネハス伝承の一環
での上記の箇所もこれらのエリヤ―ピネハス伝承の一環として論じられてきた。特に
として論じられてきた。特に【5】で名前の
きた。特に【5】で名前のあがった大祭司ヨハナンは、ヨハナン・
【5】で名前のあがった大祭司ヨハナンは、ヨハナン・ヒルカノスを彷彿させるため
ヒルカノスを彷彿させるために、ガイガー
させるために、ガイガーは、Ps.
が親ハスモン王朝の環境下で 創造されたことの証左とする )‫ תש"ט‬,‫גייגר‬
J. が親ハスモン王朝の環境下で創造されたことの証左とする
に、ガイガーは、Ps. J.
証左とする( )‫ תש"ט‬,‫)גייגר‬
(。ヘイワードは
Ps. J.J.こそが、親ハスモン王朝の支持グループの先駆け
こそが、親ハスモ ン王朝の支持グループの先駆けであったと
。ヘイワードは Ps.
ープの先駆けであったと考える
(Hayward
1978)。他方、ギンズ
であったと考える(Hayward
1978)
。他方、ギンズベルグはこの大祭司ヨハナンの記
ベルグはこの大祭司ヨハナンの記述は後代
p.156,vol.6,
n.925)。
述は後代の改訂とする(Ginzberg
1968: vol.6,
祭司ヨハナンの記述は後代の改訂とする
(Ginzberg
1968:
p.156, n.925)。
しかしながら、ピネハスとエリヤの同一視が見られるからと言って、これらの伝承
しかしながら、ピネハスとエリヤの同一
を全て同次元で扱い、その背景に何か統一された思潮があると想定するには、我々に
、ピネハスとエリヤの同一視が見られるからと言って、これらの伝
承を全て同次元で扱い、その背景に何か統一
残された資料は断片的であり、限定的である。これらの言説の共通のルーツを探すよ
扱い、その背景に何か統一された思潮があると想定するには、
我々 に残された資料は断片的であり、限定的で
は断片的であり、限定的である。これらの言説の共通のルーツを探
すよりもそのようなルーツから派生したか
なルーツから派生したかもしれない伝承を、個々の集団、文学で、
いかに使い分けているか、そこから個々の
26
ているか、そこから個々の集団、文学の特徴を捉える材料とするべ
タルグム偽ヨナタン(Ps. J.)におけるエリヤ像
りもそのようなルーツから派生したかもしれない伝承を、個々の集団、文学で、いか
に使い分けているか、そこから個々の集団、文学の特徴を捉える材料とするべきでは
ないだろうか。
周辺文学、とくにラビ文学におけるピネハス・エリヤの同一視の伝承には、同一視
の度合いに、言わば「濃淡」がある。上記のラビ文学では「ピネハスはまだ生きてい
る」(民 R)という表現でエリヤを暗示しているのは、言わば「淡い」同一視であ
る。外典文学でも、「エリヤ」の名前が出されることはないので、「淡い」同一視であ
る。しかし、PRE29では、エリヤに対して、彼はかつてピネハスだったとして神が語
りかける30。通常のこれらの書の想定編纂年代を考慮すると、おそらく、民シフレで
は、茫漠としていたピネハス―エリヤ同一視の伝承(淡い同定)が、より後期の民
ラッバで聖典を突き合わせて明瞭化され(やや濃)、PRE でピネハスはエリヤだと初
めて明言される(濃い同定)。同様の濃淡は、Ps. J. でも見られる。Ps. J. においても
【5】の同一視は淡く、暗示の範囲を超えないが、【1】では、「ピネハスは大祭司エリ
ヤである」で直結されるように、濃い同一視である。
Ps. J. も周辺文学でのピネハスとの同一視については、上述の「濃淡」はあるが、
以下の2点の違いが指摘されよう。第一に、周辺文学では、ピネハスとエリヤは同一
視されているが、あえてエリヤが「祭司」と呼ばれることはないが、Ps. J. では「祭
司」と規定される点である。周辺文学では、ピネハス自身にも「祭司」という呼称は
与えられていない。濃く同定される PRE においても、同一視の中で、ピネハスに対
しても、エリヤに対しても、「祭司」という称号が付されることはない。しかし、Ps.
J. では、【1】エリヤ側に「大祭司」という称号が下されている。また、【5】では、確
かに淡い同一視であるが、少なくともピネハスについては彼が「祭司」の家系である
ことは、先行句から明示されている。
第二に、周辺文学においてこの二人が重ねられるのは、ヘブライ語聖書での両者を
巡る文脈の範疇を超えていないが、Ps. J. では聖書の文脈を超えたところで同一視さ
れている点である。上記民 R ではピネハスはシティムの件で、エリヤはバラアムの
預言者との対決で熱情的であったことが同定の根拠であり、ともに「永遠の契約」と
いう表現がピネハスは民数記で、エリヤはマラキ書でされているために同一視されて
いる。あくまで聖書の記述の範囲内である。しかしながら Ps. J. でのエリヤと同定さ
れるピネハスは、救済の終わりを告げる者、離散を集合させるというメシア的コンテ
キストにおいて積極的な役割を果たすということであり(【1】
、【5】)、ヘブライ語聖
書の文脈を超えた次元での同一視である。
27
基督教研究 第75巻 第1号
c.メシア的コンテキストにおけるエリヤの登場
ラビ文献や外典、偽典文学でメシア的なコンテキストでエリヤが登場するのは、多
数見られる31。特に、ラビ文学で特に有名な事例は、PR35、BT イェブリン43a であ
る。これらの箇所では、エリヤがメシアの先駆けとなる伝令の役割を果たしている32。
PR35
別の解釈「(娘シオンよ)声を挙げて喜べ」(ゼカ2.14)。これは、ほむべきか
な、聖なる方がイスラエルを救済されるとき、その三日前にエリヤがやってき
てイスラエルの山々に立ち、嘆き、彼らを憐れみ、言うだろう。
「見よ、イス
12
ラエルの知よ、いつまでお前たちは、荒廃した灼熱の地に立っていなければな
らないのか。」その声が世界の隅々まで届くと、彼はイスラエルに対して言
う。「見よ、良き知らせを伝え、平和を告げる者の足は山の上を行く」(ナフム
「見よ、良き知らせを伝え、平和を告げる者の足は山の上を行く」(ナフム 2.11)
。
2.11)。
BT スッカ 52b、民 R 14、PR15 他33
では、エリヤはメシアと関係する人物群の一人
33
BT スッカ52b、民 R 14、PR15他 では、エリヤはメシアと関係する人物群の一人と
として名前が挙がる。例えば、BT スッカ 52 b では、「更に主はわたしに4人の鉄
して名前が挙がる。例えば、BT スッカ52 b では、「更に主はわたしに4人の鉄工を示
工を示された。
」(ゼカ 2.3)の「4人の鉄工」
「ダビデの子孫のメシアとヨセフの子孫
された。」(ゼカ2.3)の「4人の鉄工」「ダビデの子孫のメシアとヨセフの子孫のメシ
のメシアとエリヤと義の祭司である」と解釈する。また、エリヤと死者の復活を関
アとエリヤと義の祭司である」と解釈する。また、エリヤと死者の復活を関係づける
34。
係づける言説もある
34
言説もある 。
このように、エリヤはラビ文学でもメシア的なコンテキストで言及されることも
このように、エリヤはラビ文学でもメシア的なコンテキストで言及されることも多
多い。しかし、これらの箇所では、エリヤを「祭司」とは、決して示唆されていな
い。しかし、これらの箇所では、エリヤが「祭司」であるとは、決して示唆されてい
い。加えて、4 人他のメシア論では、ダビデ系のメシアについての話題が展開して
ない。加えて、4人他のメシア論では、ダビデ系のメシアについての話題が展開して
いることから、エリヤは話題の中心ではない。また、PR4 では、モーセとエリヤが
いることから、エリヤは話題の中心ではない。また、PR4では、モーセとエリヤが祭
祭司の家系であるレビ族出身のメシアとして列挙されているが、モーセ、エリヤ両
司の家系であるレビ族出身のメシアとして列挙されているが、モーセ、エリヤ両方
方が、二人の預言者と繰り返し言及されていることから、話の焦点は彼らが預言者
が、二人の預言者と繰り返し言及されていることから、話の焦点は彼らが預言者であ
であることにある。
ることにある。
黙示文学では、終末的なコンテキストの中でエリヤが現れる。特に『エリヤの黙
黙示文学では、終末的なコンテキストの中でエリヤが現れる。特に『エリヤの黙示
示録』などの黙示文学では、終末的状況においてアンチキリストに対抗して、エノ
録』などの黙示文学では、終末的状況においてアンチキリストに対抗して、エノクと
35。しかし、このよう
クとともに現れるというエリヤについての言説が散見される
ともに現れるというエリヤについての言説が散見される35。しかし、このような言説
な言説では、祭司としてのエリヤは描かれていない。
では、祭司としてのエリヤは描かれていない。
おそらくメシア的コンテキストでのエリヤが祭司とされていないのは、「見よ、
わ
おそらくメシア的コンテキストでのエリヤが祭司とされていないのは、「見よ、わ
‫אליהו הנביא‬をあなたたち
たしは大いなる恐るべき主の火が来る前に預言者エリヤ
たしは大いなる恐るべき主の火が来る前に預言者エリヤ をあなたたちに
に遣わす」(マラキ
3.23)が関係しているだろう。そこでは、メシア的なコンテキ
遣わす」(マラキ3.23)が関係しているだろう。そこでは、メシア的なコンテキスト
ストでのエリヤが、
はっきりと預言者として言及されている。実際に、レビRRには、預
には、
でのエリヤが、はっきりと預言者として言及されている。実際に、レビ
預言者の代替者としてのエリヤとメシアを併置している。
28
レビ R34.8
タルグム偽ヨナタン(Ps. J.)におけるエリヤ像
言者の代替者としてのエリヤとメシアを併置している。
レビ R34.8
ラビ・コヘンとシケニンのラビ・レビがラビ・レビの名において言った。「か
つては人が戒律を実践し、預言者がそれを記した。しかし、今は預言者がいな
い。誰がそれを記すのか。エリヤとメシア王である。そして、ほむべきかな、
聖なる方は、かれらによってそれに封をする。『神の御前には主を畏れ、御名
を思う者のために記録の書が書き記された』(マラキ3.16)とあるように」。
このような典拠がありながらも、なおかつ、メシア的コンテキストでのエリヤを祭
司とする Ps. J. の特異性が際立つ。また、祭司であるピネハス自身も、Ps. J. では、
メシア的コンテキストで言及されている(出4.13)。おそらく、エリヤだけでなく、
ピンハスを含めて、祭司職自体が Ps. J. では、メシア的コンテキストにおいてすぐれ
て重要な機能を果たしているのではないだろうか。
d.「祭司」的エリヤがメシア的コンテキストで出現する例
ここで、Ps. J. でのエリヤ像の特異性を更に明瞭にするために、祭司エリヤがメシ
ア的コンテキストで出現する他の言説について考察を加える必要がある。それらは、
民シフレ131節、マタイによる福音書17.10-17.13、ルカによる福音書1.13-17での洗礼
者ヨハナンとエリヤの同一視である36。確かに、これらの伝承は Ps. J. との若干の近
さを物語るものとして重要である。
民シフレ131節民シフレ131節(Horowitz 版173頁)
「彼と彼に続く子孫は、永遠の祭司職の契約にあずかる」(民25.13)、これは
祭司職に与えられる24の特権のことである。「彼がその神に対する熱情ゆえに」
(民同)とは、「彼が自らをなげうち、死んで、罪人の一人に数えられた」(イ
ザ53.12)。ことである。「イスラエル人のために、罪の贖いをしたからである」
(民同)。ここで、イスラエルの民を(彼は)「贖った」ではなく、「贖うだろ
う」と書かれている*1。つまり、今までまだ動かず立ち止まっていた。そし
て、死者が復活するときに贖うのである*2。
*1 ヘブライ語聖書原典では、ヴァヴ接続法で、未完了形で連続する過去の
出来事を表しているが、その未完了形から実際にその行為が終了してい
ないと解釈する。
*
2 「死者が復活する」という表現から、死者を復活させたエリヤと同一視
29
基督教研究 第75巻 第1号
されていると考えられる。
マタイによる福音書17.10-17.13
10彼らはイエスに、「なぜ律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っている
のでしょうか」と尋ねた。11イエスはお答えになった。「確かにエリヤが来
て、すべてを元通りにする。12言っておくが、エリヤは既に来たのだ。人人は
かれを認めず、好きなようにあしらったのである。人の子も、そのように人々
から苦しめられることになる。」13そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨ
ハネのことを言われたのだと思った。
ルカによる福音書1.13-17
13天使は言った。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れら
れた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさ
い。……16イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。
17彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者
に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する」
以上、周辺文学において、メシア的コンテキストにあるエリヤに祭司性が示唆され
る言説であるが、Ps. J. との言説と比較して以下のような違いが指摘される。
まず、エリヤの祭司性は、極めて「淡い」示唆である。民シフレでは、「死者が復
活する」という表現で、死者を復活させたエリヤをピネハスに重ねることによってエ
リヤの祭司性を出しているが、エリヤの名は出てこない。福音書の記事からは、少な
くともこれらの福音書が編纂された時代のユダヤ・キリスト教社会にはメシア的終末
的コンテキストの中でエリヤが登場するという言説が流布していたことが分かる37。
その多くは、イエスに対して、「エリヤ」「洗礼者ヨハネ」「預言者」を併置するもの
であるが、中でも上記に挙げた言説は「洗礼者ヨハネ」と「エリヤ」を比較的同一視
に近い形で並べている。ただし、マタ17.13は、弟子たちが同一視したことを示唆し
ているだけでありマタイの書き手の見解ではない。しかも、福音書でのエリヤの祭司
性は、ヨハネの出自を辿ると初めてわかることである。ルカ1.13-17は、ヨハネの父が
祭司であり神殿祭儀の中で洗礼者ヨハネの誕生がザカリアに告げられという内容で、
洗礼者ヨハネ自身の祭司家系との関係は容易に示唆される。しかし、ここでの言説
は、「洗礼者ヨハネにエリヤの霊と力」が働くのであり、両者を同一視を表している
とは言い難い。更に、洗礼者ヨハネ自身は「祭司」とは呼ばれない。加えて、ヨハネ
誕生後のザカリアの預言の中では、ヨハネが「預言者」と呼ばれるとある(ルカ
30
ヨハネの父が祭司であり神殿祭儀の中で洗礼者ヨハネの誕生がザカリアに告げられ
という内容で、洗礼者ヨハネ自身の祭司家系との関係は容易に示唆される。しかし、
ここでの言説は、
「洗礼者ヨハネにエリヤの霊と力」が働くのであり、両者を同一視
タルグム偽ヨナタン(Ps. J.)におけるエリヤ像
を表しているとは言い難い。更に、洗礼者ヨハネ自身は「祭司」とは呼ばれない。
加えて、ヨハネ誕生後のザカリアの預言の中では、ヨハネが「預言者」と呼ばれる
とある(ルカ
1.76)。つまり、マタイ、ルカでのエリヤと洗礼者ヨハネとの同一視
1.76)。つまり、マタイ、ルカでのエリヤと洗礼者ヨハネとの同一視では、エリヤの
38。
では、エリヤの祭司性は明瞭ではない
祭司性は明瞭ではない38。
第二に、
メシア的コンテキストについての違いも指摘される。上記シフレでの「イ
第二に、メシア的コンテキストについての違いも指摘される。上記シフレでの「イ
スラエルを贖う」ことは、メシア的なコンテキストなのか、または聖書での出来事
スラエルを贖う」ことは、メシア的なコンテキストなのか、または聖書での出来事
(バアル予預言者との対決、シティムでの事件)であるのか不明瞭である。仮に終
(バアル予預言者との対決、シティムでの事件)であるのか不明瞭である。仮に終末
‫)כפר‬であり、個々人のレベ
)であり、個々人のレ
末でのイスラエルの贖いであるとしても、罪からの贖い(
でのイスラエルの贖いであるとしても、罪からの贖い( ルでのイスラエルの民の内面的な変化である。福音書でのエリヤの役割もイスラエル
ベルでのイスラエルの民の内面的な変化である。福音書でのエリヤの役割もイスラ
の民を悔悛させること、内面的変化に向けられているようだ。
エルの民を悔悛させること、内面的変化に向けられているようだ。
これらの言説に対してこれ、Ps.
でのメシア的コンテキストは、イスラエルの民
こられの言説に対してこれ、Ps.
J. J.でのメシア的コンテキストは、イスラエルの
全体の離散からの救済であったり、他の民との戦争であったり、イスラエルへのメシ
民全体の離散からの救済であったり、他の民との戦争であったり、イスラエルへの
アの到来であったり、より集合的であり、他の民との関係の中でのイスラエルであ
メシアの到来であったり、より集合的であり、他の民との関係の中でのイスラエル
る。つまり、エリヤは、「終わりの日々」に「イスラエルの民」vs「他の民」という
である。つまり、エリヤは、
「終わりの日々」に「イスラエルの民」vs「他の民」と
状況で登場しているという特徴が指摘できるだろう。
いう状況で登場しているという特徴が指摘できるだろう。
とは言え、ラビ文学や外典・偽典でのメシア的コンテキストのエリヤにはまったく
とは言え、ラビ文学や外典・偽典でのメシア的コンテキストのエリヤにはまった
祭司性が付されていないことを考えると、祭司性を彷彿させるエリヤをメシア的コン
く祭司性が付されていないことを考えると、祭司性を彷彿させるエリヤをメシア的
39
J. と福音書でのエリヤは若干の近似性がある 。 39。
テキストに置いた Ps.
コンテキストに置いた
Ps.
J. と福音書でのエリヤは若干の近似性がある
4.エリヤ像の分布:祭司性とメシア的コンテキストの「濃淡」から
16
以上、本稿で取り上げた言説を、祭司性とメシア的コンテキストの「濃淡」から便
宜的に図示してみよう。
Ⅳ
祭司�
a. 「大祭司」「祭司」
b.他の祭司との同一視・並
列
BTババ・メツィア114a‐b,
箴言ミドラシュ9
「エリヤは祭司か」と問われ
るのみ。トーラーの学びに
重点
民R21.3、PRE47,
1マカ、偽フィロン
エリヤに「祭司は明言さ
れず
Ⅰ
洗礼者ヨハネとの同
一視:マタイ17.10‐13、
ルカ1.13‐17
エリヤの黙示録、
マタイ11.14、17.3、
17.4、マルコ9.11‐
12他
c.メシア�コン��スト
Ⅲ
賢者の議論に現れるエリヤ:M. ババ・メツィア
1.8、2.8、3.4、創R 87.9 他
エリヤの出自:創71.11他
Ⅱ
メシアの伝令:PR35, BTイェブ
リン43a, BTサンヘドリン98a,
4人のメシア:BT スッカ52b, 民R14、PR16
レビR34.8
31
基督教研究 第75巻 第1号
祭司性、メシア的コンテキストの濃淡の位置づけはあくまで目安である。縦軸の祭
司性については、「大祭司」「祭司」との呼称が定着>他の祭司と明瞭に同一視>他の
祭司との不明瞭な同一視という大まかな分け方をしている。また横軸の「メシア的コ
ンテキスト」も常識的な判断に基づいた。聖書の文脈内のピネハスとエリヤの同一視
については、これらの事件がメシア的コンテキストでのイスラエルの救済を暗示しな
くもないので、表中の中央軸に位置させた。エリヤの出自に関する言説は、多くは、
メシア的コンテキストにも祭司性にも議論の主題には関係しないので、領域Ⅲに位置
づけた。また、本稿で、取り上げなかったラビ文献でのエリヤが賢者の議論の中に出
現しハラハーを解決する言説も、同様に領域Ⅲに入るだろう。そして、殆ど全ての言
説でエリヤに「大祭司」や「祭司という呼称を附し、ピネハスと直結的な濃い同一視
をし、それらのエリヤが殆ど常にメシア的なコンテキストで出現する Ps. J. のエリヤ
に関する言説は、領域Ⅰの右肩上方に位置することになる。この表は、あくまで便宜
的なものにすぎない。しかし、様々な周辺文学の中で、本稿で取りあげた Ps. J. のエ
リヤ像の特異性がこの図表化によって、一層明らかになるのではないかと思われる。
言説の時代よる変遷については、上記の図表から見ると、外典、新約聖書、ユダヤ
教文献の中でも比較的早期のものが Ps. J. の言説の下方に多く、後期の言説は領域
Ⅱ、Ⅲの下部に多くなる傾向があるように思われる。この点については、今後の課題
としたい。
結句:Ps. J. におけるエリヤ像が示唆すること
本稿で論考したように、Ps. J. のエリヤ像は、従来の研究で並行記事とされる同時
代の他の文学で言及されるエリヤ像との比較検証の中で、以下のような特異な点が明
らかになった。
1.Ps. J. のエリヤは、祭司であることが明言される。他の祭司と同一視される
2.メシア的なコンテキストで出現する。
従来、並行個所とされてきた同時代のラビ文学での記事も、詳細にそのコンテキス
トを検証し、同様のモチーフが現れていてもその「濃淡」まで考慮に入れることに
よって、1、2が同時に出現している Ps. J. の特異性が明らかになった。
特に、ラビ文学ではメシア的なコンテキストでエリヤが登場する伝承は多数見出さ
れるのに対して、それらの記事では、エリヤが決して「祭司」とは呼ばれないことは
注目すべきである。しかし、Ps. J. では、エリヤは「祭司」としてメシア的コンテキ
ストで機能する。更に、「祭司」エリヤだけでなく、ピネハス自身も「終わりの日の
使者」と言及されている箇所がある40。これらは、タルグム文学、とくに Ps. J での
32
タルグム偽ヨナタン(Ps. J.)におけるエリヤ像
メシアニズムと祭司との関わりを示唆する。更に、Ps. J. やタルグム文学との祭司的
思潮の影響は、断片的に示唆されてきているが、本稿の考察は、両者の関係の強さの
更なる証左となるだろう41。
また、Ps. J. の特異なエリヤ像は、Ps. J. は決してラビ文学の中心で形成されたので
はなく、その周辺で形成されたことを示唆する。ここで、マタイ、ルカでのエリヤ像
が比較的近い関係にあったことは留意すべきである。シナゴーグを中心に形成された
タルグム文学は、やはりシナゴーグに出入りしていたイエスやその弟子たちにも近い
ところにあったことが想定される。また、同時代のユダヤ教文学の周縁にあったから
こそ、タルグム文学がキリスト教やその他の思潮の窓口になったという可能性も考え
られる。
えてしてユダヤ学では、いわゆるミシュナ、ミドラシュ、タルムードに代表される
所謂正統的なラビ文学が研究の中心にあったが、ラビ文学も神殿崩壊前後のダイナ
ミックな思潮の交錯の渦中にあったことも目を向けるべきである。そして、そのよう
なダイナミックな思潮の交錯は、タルグム文学等のように、主流の文学の周縁にあっ
たジャンルを通して、より一層、明らかにされるのではないだろうか。
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. ‫ ספרי ואהרמן‬:‫ירושלים‬
.‫זוטא‬,5‫אליהו‬
‫וסדר‬.‫ישראל‬
‫אליהו רבה‬
‫לסדר‬
‫אליהומבוא‬
.)4911
( .'‫ מ‬,‫שלום‬
‫איש‬
, ‫העתיד‬
‫באגדות‬
‫הנביא‬
.)‫(תרפ"ג‬
.'‫ י‬,‫גוטמן‬
.41-11
. ‫ ספרי ואהרמן‬:‫ירושלים‬
.‫זוטא‬,5‫אליהו‬
‫וסדר‬.‫ישראל‬
‫אליהו רבה‬
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.)4911
( .'‫ מ‬,‫שלום‬
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.‫של‬
41-11
, ‫להתפתחותה‬
‫העתיד‬
‫באגדות‬
‫הנביא‬
.)‫(תרפ"ג‬
.'‫ י‬,‫גוטמן‬
. ‫ואהרמן‬
‫ספרי‬.‫היהדות‬
:‫ירושלים‬
.‫זוטא‬
‫ו‬
‫אליה‬
‫וסדר‬
‫רבה‬
‫אליהו‬
‫לסדר‬
‫מבוא‬
.)
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.'‫מ‬
,‫שלום‬
‫איש‬
.‫מוסד ביאליק‬
:‫ירושלים‬
‫הפנימית‬
‫בזיקתם‬
‫ותרגומיו‬
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.)‫(תש"ט‬
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,5 , ‫להתפתחותה‬
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.‫ישראל‬
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‫ אליהו‬.)‫(תרפ"ג‬
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.
‫היהדות‬
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:‫ירושלים‬
.‫לנביאים‬
‫תרגום‬
.)‫(תשנ"ו‬
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,‫כשר‬
.‫ מוסד ביאליק‬:‫ירושלים‬
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勝又悦子. (2012). ユダヤ教聖書解釈における
と
「祭司」
宗教研究
85,‫גייגר‬
(4),
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‫העולמי‬
‫האיגוד‬
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‫היהדות‬
‫למדעי‬
‫העולמי‬
‫האיגוד‬
:‫ירושלים‬
.‫לנביאים‬
‫תרגום‬
‫תוספתות‬
.)‫(תשנ"ו‬
.'‫ר‬
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ユダヤ教聖書解釈における
「預言者」と「祭司」
のパラダイム. 宗教研究
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TRGM(翻訳する)の語感.
一神教学際研究,vol.
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34―――.
―――. (2010). ラビ文献における TRGM(翻訳する)の語感. 一神教学際研究,vol. 6 , 90-109.
1
1
本稿は The XIIIth World Congress of Jewish Studies, at the Hebrew University of Jerusalem (August,
本稿は The XIIIth World Congress of Jewish Studies, at the Hebrew University of Jerusalem (August,
タルグム偽ヨナタン(Ps. J.)におけるエリヤ像
勝又悦子.(2012).ユダヤ教聖書解釈における「預言者」と「祭司」のパラダイム.宗教研究,85 (4),
1146-48.
―――.(2010).ラビ文献における TRGM(翻訳する)の語感.一神教学際研究 ,vol. 6, 90-109.
注
1
本稿は The XIIIth World Congress of Jewish Studies, at the Hebrew University of Jerusalem(August,
2001)での口頭発表 “Elijah, the High Priest in the Aramaic Bible” を元に考察を深め推敲を加えたもの
である。また2011-14年度科学研究費補助金(基盤研究 c)「ユダヤ教における『預言者』vs『祭司』
のパラダイム」(研究課題番号:23520110)研究の成果の一部である。本稿では以下の省略記号を用
いる。
Ps. J.:タルグム偽ヨナタン:モーセ5書に対するアラム語訳聖書の中でも、特に加筆、改訂が多い。
成立年代については、紀元前後から7,8世紀まで諸説ある。本稿での Ps. J. のテキストは E. G.
Clarke, et al. eds. Targum Pseudo-Jonathan of the Pentateuch: text and concordance(Ktav Pub. House
New Jersey 1984)に依拠した。
M:ミシュナ:タナイーム時代(0-200年)のラビたちの法規に関わる議論をラビ・イェフダが200年
頃集大成した書。
BT:バビロニア・タルムード。ミシュナを中心にタナイーム(0-200年)、アモライーム(200-500年)
時代のラビのミシュナをめぐる議論、聖書解釈他、ユダヤの知、議論を集大成した書。500-600年
ごろ成立。
民シフレ:民数記についてのシフレ。タナイーム時代(0-200年)のラビたちの民数記の主として法
規(ハラハー)に関わる解釈のコレクション。Horowitz 版(Jerusalem: 1917)に依拠。
創 R: 創世記ラッバ。創世記についてのアモライーム時代までのラビたちの物語的解釈(アガダー)
の集成。編纂は500-600年。本稿でのテキストは Theodor-Albeck 版(Berlin: 1936)に依拠。
民 R:民数記ラッバ。民数記についてのアモライーム時代までのラビたちの主として物語(アガ
ダー)的解釈の集成。編纂は700-800年。
PR:プスィクタ・ラバティ。祝祭や特定の安息日の説教のためのミドラシュ集。700-800年の編纂。
PRE:ピルケ・デ・ラビ・エリエゼル。聖書を時系列に従い、独自の視点から書き換えた800-900年
成立の書。厳密な意味でのミドラシュ集ではない。
ラビ文学の詳細は(Stemberger, 1991)。本稿でのタルグム、ラビ文献の翻訳は筆者による。ヘブラ
イ語聖書の訳は新共同訳に依拠したが、必要に応じて改訳している。
2
ヘブライ語聖書以降の文学におけるエリヤ像の概論については(Ginzberg 1968: 195-235; Wiener,
1978; Willems, 1988)。
3
M. ソータ9.15、箴言ミドラシュ9の写本の一部、箴9.2についてのヤルクート・シムオニ、
35
民シフレ:民数記についてのシフレ。タナイーム時代(0-200
年)のラビたちの民数記の主として
の集成。編纂は
500-600 年。本稿でのテキストは Theodor-Albeck 版(Berlin:1936)に依拠。
法規(ハラハー)に関わる解釈のコレクション。Horowitz 版(Jerusalem:1917)に依拠。
民 R:民数記ラッバ。民数記についてのアモライーム時代までのラビたちの主として物語(アガ
創 R:創世記ラッバ。創世記についてのアモライーム時代までのラビたちの物語的解釈
(アガダー)
ダー)的解釈の集成。編纂は
700-800 年。
の集成。編纂は 500-600祝祭や特定の安息日の説教のためのミドラシュ集。
年。本稿でのテキストは Theodor-Albeck 版(Berlin:1936)に依拠。
PR:プスィクタ・ラバティ。
8-9 世紀の編纂。
基督教研究 第75巻 第1号
民 R:民数記ラッバ。民数記についてのアモライーム時代までのラビたちの主として物語(アガ
PRE:ピルケ・デ・ラビ・エリエゼル。聖書を時系列に従い、独自の視点から書き換えた
800-900
ダー)的解釈の集成。編纂は 700-800 年。
成立の書。厳密な意味でのミドラシュ集ではない。
PR:プスィクタ・ラバティ。
祝祭や特定の安息日の説教のためのミドラシュ集。8-9 世紀の編纂。
ラビ文学の詳細は
(Stemberger 1991)。本稿でのタルグム、ラビ文献の翻訳は筆者による。ヘブラ
PRE:ピルケ・デ・ラビ・エリエゼル。聖書を時系列に従い、独自の視点から書き換えた 800-900
イ語聖書の訳は新共同訳に依拠したが、必要に応じて改訳している。
BT ババ・メツィア114a-b、箴言ミドラシュ9.2後述参考。
2 4
成立の書。厳密な意味でのミドラシュ集ではない。
ヘブライ語聖書以降の文学におけるエリヤ像の概論については
(Ginzberg 1968:195-235; Wiener,
1991)。本稿でのタルグム、ラビ文献の翻訳は筆者による。ヘブラ
1978;
Willems,
1988)。
M. バ バ・
5 ラビ文学の詳細は
メ ツ ィ(Stemberger
ア1.8、2.8、3.4、BT
バ バ・ メ ツ ィ ア114a-b、JT テ ル モ ー ト8.1, 46b、 創 R87.9
3
M.イ語聖書の訳は新共同訳に依拠したが、必要に応じて改訳している。
ソータ 9.15、箴言ミドラシュ9の写本の一部、箴 9.2 についてのヤルクート・シムオニ、
(Theodor-Albeck 1184-85)他。
4
ヘブライ語聖書以降の文学におけるエリヤ像の概論については
(Ginzberg 1968:195-235; Wiener,
BT2 ババ・メツィア
114a-b、箴言ミドラシュ 9.2 後述参考。
5
1988)。
M.
ババ・メツィア
1.8、2.8、3.4、BT ババ・メツィア 114a-b、JT テルモート 8.1, 46b、創 R87.9
M.Willems,
6 1978;
ソータ9.15、雅歌ズッタ7.14。
3
M. ソータ 9.15、箴言ミドラシュ9の写本の一部、箴
9.2 についてのヤルクート・シムオニ、
(Theodor-Albeck
1184-85)他。
ツファニアの黙示録9.4、エリヤの黙示録5.21他。後述参照。
6 7 4
BT ババ・メツィア
114a-b、箴言ミドラシュ
9.2 後述参考。
M. ソータ
9.15、雅歌ズッタ
7.14。
5
7
ババ・メツィア
1.8、2.8、3.4、BT
ババ・メツィア
114a-b、JT テルモート 8.1, 46b、創 R87.9
ツファニアの黙示録
9.4、エリヤの黙示録
5.21
他。後述参照。
8 M.
申シフレ345、PR35、BT
イェブリン43a、タンフーマ・ミシュパティーム18、雅歌ズッタ2.5、同5.2。
8 申シフレ
(Theodor-Albeck
1184-85)他。
345、PR35、
BT イェブリン 43a、タンフーマ・ミシュパティーム 18、雅歌ズッタ 2.5、
9 6 BT スッカ52b、民 R14、PR15、PRK15他。これらのエリヤ像については後述。
M. ソータ 9.15、雅歌ズッタ 7.14。
同 5.2。
7
9
ツファニアの黙示録
9.4、エリヤの黙示録
5.21 他。後述参照。
BT
52b、民 R14、PR15、PRK15
他。これらのエリヤ像については後述。
10 スッカ
福音書では、マタイ11.14,16.14、17.3、17.10-12,27.37、27.49、マルコ6.15、8.28、9.4-5、9.11-13、
10
8 申シフレ マタイ
345、PR35、
BT
イェブリン
43a、タンフーマ・ミシュパティーム
18、
雅歌ズッタ
福音書では、
11.14,
16.14、
17.3、17.10-12,
27.37、27.49、マルコ 6.15、8.28、
9.4-5、
9.11-13、2.5、
15.35―36、ルカ1.17、4.25-26、9.8、9.19、9.30、9.33、ヨハネ1.21、1.25。
同 5.2。
15.35―36、ルカ
1.17、4.25-26、9.8、9.19、9.30、9.33、ヨハネ 1.21、1.25。
9
11
BT
スッカ 52b、民 R14、PR15、PRK15 他。これらのエリヤ像については後述。
ラビ・ユダヤ教文献におけるエリヤ像の分類については、
)4991 , ,‫ איש שלום‬,,144
411 , ,‫ תרפ"ג‬,‫)(גוטמן‬
。ただ
11
ラビ・ユダヤ教文献におけるエリヤ像の分類については、
(1968
。ただ
10
福音書では、マタイJ.や他のタルグムもラビ・ユダヤ教文学の一環とされている。
11.14,16.14、17.3、17.10-12,27.37、27.49、マルコ 6.15、8.28、9.4-5、9.11-13、
し、これらの書では、Ps.
し、これらの書では、Ps. J. や他のタルグムもラビ・ユダヤ教文学の一環とされている。
12
15.35―36、ルカ
1.17、4.25-26、9.8、9.19、9.30、9.33、ヨハネ
1.21、1.25。
タルグム文学の
Sitz
im Leben については (Fraade 1992; Kasher 1988)参照。
11
13
ラビ・ユダヤ教文献におけるエリヤ像の分類については、
)4911
,‫שלום‬
‫ איש‬,411 ,‫תרפ"ג‬
。ただ
タルグム文学とラビ・ユダヤ教文学との乖離については
(Shinan
1983;
Katsumata
2011: ,‫(גוטמן‬
52-104;
12
タルグム文学の Sitz im Leben については(Fraade 1992; Kasher
1988)参照。
J.や他のタルグムもラビ・ユダヤ教文学の一環とされている。
勝又し、これらの書では、Ps.
2010)。
14 1312 タルグム文学とラビ・ユダヤ教文学との乖離については(Shinan 1983; Katsumata 2011: 52-104; 勝又
タルグム文学の Sitz im Leben については
(Fraade 1992;
1988)参照。
タルグム研究の概観とその問題については
(Katsumata
2011:Kasher
38-51;Shinan
1994) 。
13
15
タルグム文学とラビ・ユダヤ教文学との乖離については
(Shinan 1983; Katsumata 2011: 52-104;
Memra(
‫ממרא‬
、‫「 אמר‬言う」からの派生語)とは、タルグム特有の用語で、神の身体的な
2010)
。
勝又 2010)。
表現、神と人間との直接的接触を示唆する表現を婉曲にする機能などを有す。ここでは、主が「集
1414 タルグム研究の概観とその問題については(Katsumata 2011: 38-51; Shinan 1994)。
タルグム研究の概観とその問題については (Katsumata 2011: 38-51;Shinan
1994) 。
める」という直接性を婉曲にするためだと思われる。同時に、Memra
は、神の力を顕現する神秘
15
Memra( 「言う」からの派生語)とは、タルグム特有の用語で、神の身体的な表現、神
15 Memra(‫「אמר、ממרא‬言う」からの派生語)とは、タルグム特有の用語で、神の身体的な表現、
神と人間との直接的接触を示唆する表現を婉曲にする機能などを有す。ここでは、主が「集める」
と人間との直接的接触を示唆する表現を婉曲にする機能などを有す。ここでは、主が「集める」とい
19
という直接性を婉曲にするためだと思われる。同時に、Memra
は、神の力を顕現する神秘性をタ
う直接性を婉曲にするためだと思われる。同時に、Memra は、神の力を顕現する神秘性をタルグム
19
では有する。Memra については(Hayward 1981)参照。
16
(McNamara & Clarke 1995: 265)参照。M. ヒルカノス I 世か、ヒルカノス II 世か、ついては緒説分
I
かれる。シレン自身は様々な資料との検証の上、
【4】で示唆されているのはヨハナン・ヒルカノス
性をタルグムでは有する。Memra
については (Hayward
1981) 参照。
16
(McNamara & Clarke 1995: 265)参照。M. ヒルカノス I 世か、ヒルカノス II 世か、ついては緒説
世が妥当と考えている。その他の説については後述参照。
分かれる。シレン自身は様々な資料との検証の上、
ルグムでは有する。Memra
については (Hayward 1981)【4】で示唆されているのはヨハナン・ヒルカ
参照。
16
17 I (Hayward
1978:
22-34)
ノス
世が妥当と考えている。その他の説については後述参照。
(McNamara
& Clarke
1995:
265)参照。M. ヒルカノス I 世か、ヒルカノス II 世か、ついては緒説
17
(Hayward 1978: 22-34)
分かれる。シレン自身は様々な資料との検証の上、
【4】で示唆されているのはヨハナン・ヒルカ
イザヤは Ps. J. 申32.1、エゼキエルは Ps. J. 出13.17で言及される。
18 18
Ps. J. 申 32.1、エゼキエルは Ps. J. 出 13.17 で言及される。
ノス I イザヤは
世が妥当と考えている。その他の説については後述参照。
17 19
列下該当箇所の預言書タルグムでは主の預言者‫דיי‬
‫נביא‬と訳される。直訳調のタルグム・オンケ
(Hayward
1978: 22-34)
19
列下該当箇所の預言書タルグムでは主の預言者 と訳される。直訳調のタルグム・オンケロス
18
ロス―預言書タルグムの系列と
Ps. J.の違いが現れる。タルグムの中でも
Ps. J. の特異性について
イザヤは
Ps. J. 申 32.1、エゼキエルは
Ps. J. 出 13.17 で言及される。
―預言書タルグムの系列と Ps. J. の違いが現れる。タルグムの中でも Ps. J. の特異性については
19
は
(Shinan
1983;
Mortensen
2006)。
列下該当箇所の預言書タルグムでは主の預言者‫נביא דיי‬と訳される。直訳調のタルグム・オンケ
20
哀 4.22、エステル
4.1 についての諸書タルグム。オバ
21 に対する補遺タルグム。補遺タルグム
ロス―預言書タルグムの系列と
Ps.
J.の違いが現れる。タルグムの中でも
Ps. J. の特異性について
(Shinan 1983; Mortensen
2006)
。
とその Ps.
J. Mortensen
との近さについては
)609-01 ,‫ ;כשר תשנ"ו‬Kasher 1996)。本稿の考察も、カシェルの
は (Shinan
1983;
2006)。
20
哀4.22、エステル4.1についての諸書タルグム。オバ21に対する補遺タルグム。補遺タルグムとその
20
推察の証左となる。
哀
4.22、エステル 4.1 についての諸書タルグム。オバ 21 に対する補遺タルグム。補遺タルグム
21
とそのPs.
Ps.J.Ps.
J.創との近さについては
)601-01
,‫ו‬
"‫תשנ‬他。
‫ ; ;כשר‬Kasher
創 49.1; 出 40.9;
民 24.20
J.35.21;
, Kasher 1996)。本稿の考察も、カシェルの推
との近さについては(206-08
1996)。本稿の考察も、カシェルの推察の証
22
察の証左となる。
Ps. J. 出エ 4.13。
左となる。
21 23
Ps. J.
創 35.21; 創 49.1; 出 40.9; 民 24.20 他。
写本の一部と出版版では、「義人」エリヤと呼ばれる。またエリヤ「その名が記憶されるように」
22
という呼称もある。また後代のミドラシュコレクションであるピルケ・ラビ・イアシャ、ヤルク
Ps. 4.13。
J. 創35.21; 創49.1; 出40.9; 民24.20他。
Ps.
J. 出エ
21
23
写本の一部と出版版では、「義人」エリヤと呼ばれる。またエリヤ「その名が記憶されるように」
ート・シムオニの箴言同所についての記事では「その名が記憶されるように」がエリヤに対する呼
Ps. J. 出エ4.13。
22
という呼称もある。また後代のミドラシュコレクションであるピルケ・ラビ・イアシャ、ヤルク
称になっている。実際、いわゆるラビ文献の中では、「その名が記憶されるように」という呼称が
ート・シムオニの箴言同所についての記事では「その名が記憶されるように」がエリヤに対する呼
多い。しかし、近現代の研究者、解釈者がエリヤ像を言及するときに、無意識に「預言者」とい
23
写本の一部と出版版では、「義人」エリヤと呼ばれる。またエリヤ「その名が記憶されるように」と
称になっている。実際、いわゆるラビ文献の中では、「その名が記憶されるように」という呼称が
う呼称を附してしまうようだ。例えば後述の BT でも原文には「預言者」という呼称は付せられてい
いう呼称もある。また後代のミドラシュコレクションであるピルケ・ラビ・イアシャ、ヤルクート・
多い。しかし、近現代の研究者、解釈者がエリヤ像を言及するときに、無意識に「預言者」とい
ないのに、英訳、解説には”the Prophet”を伴う。 (Goldwurm, 2010)中の BT ババ・メツィアⅠ14a, BT
う呼称を附してしまうようだ。
例えば後述の BT でも原文には「預言者」という呼称は付せられてい
サンヘドリン 98a への英訳参照。また、エリヤを扱う論文タイトルの多くに「預言者」という呼称
ないのに、
英訳、解説には”the Prophet”を伴う。 (Goldwurm, 2010)中の BT ババ・メツィアⅠ14a, BT
36 を伴う。ユダヤ教のみならず近現代の思潮の「預言」志向性が現れているように思える(勝又悦子,
サンヘドリン
98a への英訳参照。また、エリヤを扱う論文タイトルの多くに「預言者」という呼称
2012)。
24
を伴う。ユダヤ教のみならず近現代の思潮の「預言」志向性が現れているように思える(勝又悦子,
エリヤの出身を問うミドラシュ群については )4991 ,‫(איילי‬参照。
19 17
(Hayward 1978: 22-34)
列下該当箇所の預言書タルグムでは主の預言者‫דיי‬
‫נביא‬と訳される。直訳調のタルグム・オンケ
18
イザヤは Ps. J. 申 32.1、エゼキエルは
Ps. J. 出 13.17 で言及される。Ps. J. の特異性について
ロス―預言書タルグムの系列と
Ps. J.の違いが現れる。タルグムの中でも
19
列下該当箇所の預言書タルグムでは主の預言者‫דיי‬
‫נביא‬と訳される。直訳調のタルグム・オンケ
は (Shinan
1983; Mortensen 2006)。
20 ロス―預言書タルグムの系列と Ps. J.の違いが現れる。タルグムの中でも Ps. J. の特異性について
哀 4.22、エステル 4.1 についての諸書タルグム。オバタルグム偽ヨナタン(Ps.
21 に対する補遺タルグム。補遺タルグム
J.)におけるエリヤ像
は (Shinan
Mortensen 2006)。
とその
Ps. J. 1983;
との近さについては
)601-01 ,‫ ;כשר תשנ"ו‬Kasher 1996)。本稿の考察も、カシェルの推
20
哀 4.22、エステル 4.1 についての諸書タルグム。オバ 21 に対する補遺タルグム。補遺タルグム
察の証左となる。
21
とその
J. との近さについては
,‫ ;כשר תשנ"ו‬Kasher 1996)。本稿の考察も、カシェルの
Ps. J. 創Ps.35.21;
創 49.1; 出 40.9; 民)609-01
24.20 他。
22
推察の証左となる。
Ps. J. 出エ 4.13。
シムオニの箴言同所についての記事では「その名が記憶されるように」がエリヤに対する呼称になっ
23 21
Ps. J. 創 35.21; 創 49.1; 出 40.9; 民 24.20 他。
写本の一部と出版版では、「義人」エリヤと呼ばれる。またエリヤ「その名が記憶されるように」
22
Ps. ている。実際、いわゆるラビ文献の中では、
J. 出エ 4.13。
という呼称もある。また後代のミドラシュコレクションであるピルケ・ラビ・イアシャ、ヤルク
「その名が記憶されるように」という呼称が多い。しか
23
写本の一部と出版版では、「義人」エリヤと呼ばれる。またエリヤ「その名が記憶されるように」
ート・シムオニの箴言同所についての記事では「その名が記憶されるように」がエリヤに対する呼
し、近現代の研究者、解釈者がエリヤ像を言及するときに、無意識に「預言者」という呼称を附して
という呼称もある。また後代のミドラシュコレクションであるピルケ・ラビ・イアシャ、ヤルク
称になっている。実際、いわゆるラビ文献の中では、「その名が記憶されるように」という呼称が
ート・シムオニの箴言同所についての記事では「その名が記憶されるように」がエリヤに対する呼
多い。しかし、近現代の研究者、解釈者がエリヤ像を言及するときに、無意識に「預言者」とい
しまうようだ。例えば後述の BT でも原文には「預言者」という呼称は付せられていないのに、英
称になっている。実際、いわゆるラビ文献の中では、「その名が記憶されるように」という呼称が
う呼称を附してしまうようだ。
例えば後述の BT でも原文には「預言者」という呼称は付せられてい
訳、解説には “the Prophet” を伴う。(Goldwurm, 2010)中の BT ババ・メツィアⅠ14a, BT サンヘド
多い。しかし、近現代の研究者、解釈者がエリヤ像を言及するときに、無意識に「預言者」とい
ないのに、
英訳、解説には”the Prophet”を伴う。 (Goldwurm, 2010)中の BT ババ・メツィアⅠ14a, BT
う呼称を附してしまうようだ。
例えば後述の BT でも原文には「預言者」という呼称は付せられてい
サンヘドリン
への英訳参照。また、エリヤを扱う論文タイトルの多くに「預言者」という呼称
リン98a98a
への英訳参照。また、エリヤを扱う論文タイトルの多くに「預言者」という呼称を伴う。ユ
ないのに、英訳、解説には”the Prophet”を伴う。 (Goldwurm, 2010)中の BT ババ・メツィアⅠ14a, BT
を伴う。ユダヤ教のみならず近現代の思潮の「預言」志向性が現れているように思える(勝又悦子,
ダヤ教のみならず近現代の思潮の「預言」志向性が現れているように思える(勝又悦子 , 2012)。
サンヘドリン 98a への英訳参照。また、エリヤを扱う論文タイトルの多くに「預言者」という呼称
2012)。
24
を伴う。ユダヤ教のみならず近現代の思潮の「預言」志向性が現れているように思える(勝又悦子,
エリヤの出身を問うミドラシュ群については
)4991 ,, )参照。
‫(איילי‬参照。
24
エリヤの出身を問うミドラシュ群については(1994
25
2012)。
創 R 71.11(Theodor-Albeck; 833-35)では、エリヤはレアの子孫のガド族の出身である、あるい
創 R 71.11(Theodor-Albeck; 833-35)では、エリヤはレアの子孫のガド族の出身である、あるいは、
2425
エリヤの出身を問うミドラシュ群については )4991 ,‫(איילי‬参照。
は、ラケルの子孫ベニミヤミン族の出身である、あるいは、ギルアドの住人である、ラビによっ
25
創R
71.11(Theodor-Albeck; 833-35)では、エリヤはレアの子孫のガド族の出身である、あるい
て見解は分かれるが、最終的にエリヤが現れて、自分がラケルの子孫であることを宣言する。
ラケルの子孫ベニミヤミン族の出身である、あるいは、ギルアドの住人である、ラビによって見解は
26
は、ラケルの子孫ベニミヤミン族の出身である、あるいは、ギルアドの住人である、ラビによっ
ヤルクート・シムオニ、列上‫。רח‬
分かれるが、最終的にエリヤが現れて、自分がラケルの子孫であることを宣言する。
27
て見解は分かれるが、最終的にエリヤが現れて、自分がラケルの子孫であることを宣言する。
上記註 25 のように創 R 71.1 では、レアの子孫の中でもガド族に同定していたのを、後代のセ
26
デル・エリヤフ・ラッバでは祭司の家系であるレビ族に同定していることから、
「エリヤが祭司の
26ヤルクート・シムオニ、列上‫。רח‬
ヤルクート・シムオニ、列上 。
27
上記註 25 という問いへの関心は、
のように創 R 71.1 では、レアの子孫の中でもガド族に同定していたのを、後代のセ
部族かどうか」
後代に強まった能性が考えられる。また、註 26 のように、
27
上記註25のように創 R 71.1では、レアの子孫の中でもガド族に同定していたのを、後代のセデル・エ
デル・エリヤフ・ラッバでは祭司の家系であるレビ族に同定していることから、
「エリヤが祭司の
セデル・エリヤフ・ラッバ、ヤルクート・シムオニでのエリヤの呼称が、
「祭司」から別の呼称に
部族かどうか」
という問いへの関心は、後代に強まった能性が考えられる。
また、註 26 のように、
変わっていることを考えると、これらの後代のミドラシュ群が編纂されたころには、エリヤから
リヤフ・ラッバでは祭司の家系であるレビ族に同定していることから、
「エリヤが祭司の部族かどう
セデル・エリヤフ・ラッバ、ヤルクート・シムオニでのエリヤの呼称が、
「祭司」から別の呼称に
の祭司性の払拭が進んだとも考えられる。
か」という問いへの関心は、後代に強まった能性が考えられる。また、註26のように、セデル・エリ
28
変わっていることを考えると、これらの後代のミドラシュ群が編纂されたころには、エリヤから
この問題の研究史の総括は (Syrén 1986:167 n.347-357)参照。
29
(Hengel
1976:154-181).
の祭司性の払拭が進んだとも考えられる。
ヤフ・ラッバ、ヤルクート・シムオニでのエリヤの呼称が、
「祭司」から別の呼称に変わっているこ
30 28
PRE47
では、
「ピネハスはエリヤである」と直接的な濃い同一視がされている。
この問題の研究史の総括は
(Syrén 1986:167 n.347-357)参照。
とを考えると、これらの後代のミドラシュ群が編纂されたころには、エリヤからの祭司性の払拭が進
31 29
M(Hengel
エドゥヨート
8.7、メヒルタ・ヴァシュラッハ 5、PR4,
1976:154-181).
32 30
では、
「ピネハスはエリヤである」と直接的な濃い同一視がされている。
BTPRE47
サンヘドリン
98a もラビたちのメシア議論の中でエリヤが現れ、ラビたちのメシア到来の
んだとも考えられる。
31 M エドゥヨート 8.7、メヒルタ・ヴァシュラッハ 5、PR4,
前兆は何かを問う質問に対して答える。メシア的コンテキストであるが、ラビの前に現れるエリ
28
1986:167 n.347-357)参照。
32
BT この問題の研究史の総括は(Syrén
サンヘドリン 98a もラビたちのメシア議論の中でエリヤが現れ、ラビたちのメシア到来の
ヤ像の要素も強い。タンフーマ・ミシュパティーム
18、雅歌ズッタ 2.5、同 5.2、申シフ 345 節
33 前兆は何かを問う質問に対して答える。メシア的コンテキストであるが、ラビの前に現れるエリ
他には
PRK15
,
29 (Hengel
1976:154-181)
.
34 ヤ像の要素も強い。タンフーマ・ミシュパティーム
18、雅歌ズッタ 2.5、同 5.2、申シフ 345 節
M ソータ 9.15、雅ズッタ 7.14、
PRE47では、
30
35 33
他には PRK15「ピネハスはエリヤである」と直接的な濃い同一視がされている。
,
『ツファニアの黙示録
9.4』
(B.C.1c- A.D.1c)では終末的な戦争の勝利の後に、エリヤがアブラ
34 M ソータ 9.15、雅ズッタ 7.14、
ハム、イサク、ヤコブ、エノク、ダビデが現れる。
『エリヤの黙示録』
(1-4 世紀)5.31-32 では、
M エドゥヨート8.7、メヒルタ・ヴァシュラッハ5、PR4。
31
35
『ツファニアの黙示録 9.4』
(B.C.1c- A.D.1c)では終末的な戦争の勝利の後に、エリヤがアブラ
アンチキリストの処刑の後にエリヤとエノクが下ってくる。
『エズラの黙示録(ギリシア語)
』
(2-9
BT サンヘドリン98a もラビたちのメシア議論の中でエリヤが現れ、ラビたちのメシア到来の前兆は
32
ハム、イサク、ヤコブ、エノク、ダビデが現れる。
『エリヤの黙示録』
(1-4 世紀)5.31-32 では、
世紀)5.21
では、アンチキリスト登場後の罰と報いの場面で、エノク、エリヤ、モーセ、ぺテロ、
アンチキリストの処刑の後にエリヤとエノクが下ってくる。
『エズラの黙示録(ギリシア語)
』
(2-9
パウロ、ルカ、他義人が現れる。
『ダニエルの黙示録』
(9 世紀)14.2
でアンチ・クリストの前を歩
何かを問う質問に対して答える。メシア的コンテキストであるが、ラビの前に現れるエリヤ像の要素
世紀)5.21 では、アンチキリスト登場後の罰と報いの場面で、エノク、エリヤ、モーセ、ぺテロ、
く二人はエリヤとエノクであると解釈される。以上、「黙示録」文学はユダヤ教的な要素も含みつ
も強い。タンフーマ・ミシュパティーム18、雅歌ズッタ2.5、同5.2、申シフ345節
パウロ、ルカ、他義人が現れる。
『ダニエルの黙示録』
(9
世紀)14.2 でアンチ・クリストの前を歩
つ、キリスト教サークルで形成された可能性が高い。
各書の年代・背景は
(Charlesworth, 1983)
く二人はエリヤとエノクであると解釈される。以上、「黙示録」文学はユダヤ教的な要素も含みつ
の各書での解説に依拠した。
33
他には PRK15。
36
つ、キリスト教サークルで形成された可能性が高い。
(Charlesworth, 1983)
ルカにおけるエリヤとエリシャについては (Huddleston,各書の年代・背景は
2011)参照。
M ソータ9.15、雅ズッタ7.14。
37 34
の各書での解説に依拠した。
註 10 参照。
38 36
(Huddleston, 2011)参照。
しかし、周辺社会で流布している言説を反映していると思われる福音書の弟子たちの言葉では
35ルカにおけるエリヤとエリシャについては
『ツファニアの黙示録9.4』(B.C.1c- A.D.1c)では終末的な戦争の勝利の後に、エリヤがアブラハム、
37
註 10 参照。
イサク、ヤコブ、エノク、ダビデが現れる。『エリヤの黙示録』(1-4世紀)5.31-32では、アンチキリ
38
しかし、周辺社会で流布している言説を反映していると思われる福音書の弟子たちの言葉では
ストの処刑の後にエリヤとエノクが下ってくる。『エズラの黙示録(ギリシア語)』(2-9世紀)5.21で
は、アンチキリスト登場後の罰と報いの場面で、エノク、エリヤ、モーセ、ぺテロ、パウロ、ルカ、
他義人が現れる。『ダニエルの黙示録』(9世紀)14.2でアンチ・クリストの前を歩く二人はエリヤと
エノクであると解釈される。以上、「黙示録」文学はユダヤ教的な要素も含みつつ、キリスト教サー
クルで形成された可能性が高い。各書の年代・背景は(Charlesworth, 1983)の各書での解説に依拠
37
基督教研究 第75巻 第1号
した。
36
ルカにおけるエリヤとエリシャについては(Huddleston, 2011)参照。
37
註10参照。
38
しかし、周辺社会で流布している言説を反映していると思われる福音書の弟子たちの言葉では「洗礼
者ヨハネ」「預言者」「エリヤ」が併置されながらも、同一視されていない(マタイ16.4、マルコ
6.15、同8.28他)。
39
更に福音書には、同時代の社会でイエスがエリヤと同一視された形跡もある。マルコ6.15、8.28ルカ
9.19他。イエス自身も大祭司メルキツェデクと同一視されていることを考えると、福音書が汲みあげ
るエリヤ像に若干の祭司性が示唆される(ただし、必ずしも福音書の書き手自身のエリヤ像ではな
い)。メルキツェデクとイエスについては(Aschim, 1999)参照。
40
Ps. J. 出4.13:モーセはなおも言った。「ああ、主よ、どうぞ他の人を見つけてお遣わし下さい。
」そ
して言った。「あなたの御前に慈悲をお願いします。主よ、ピネハス―終わりの日々の使いに値する
―の手によってあなたのメッセージを送ってください」。
41
38
タルグム文学と祭司的思潮との関係について(Mortensen 2006; Katsumata, 2011)。
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