...

「事事無擬」 を三 いたのは誰か - J

by user

on
Category: Documents
38

views

Report

Comments

Transcript

「事事無擬」 を三 いたのは誰か - J
﹁
事事 無 礙 ﹂ を説 いた のは誰 か
伝 統 的 な華 厳 教 学 に よ れ ば 、 華 厳 教 学 と は 事 法 界 ・理 法
界 ・理 事 無 礙 法 界 ・事 事 無礙 法 界 と いう 四種 法 界 を説 き 、 そ
の頂 点 た る 事 事 無 礙 法 界 を 自 ら の 立場 とす るも のと さ れ てき
た 。 だ が 、 華 厳 教 学 の大 成 者 と目 さ れ る法 蔵 の著 作 に は、 四
石
井
公
成
を 認 めな い真 一分 満教 と区 別 す る に とど ま る のであ る。 こ の
点 に つ い て、 坂 本 幸 男 氏 は 次 の よ う に評 し て いる 。
真具分満教 の中に理事無碍 と事事 無碍 と の二門を分かちながら
も、 これを教として表現 し得 なか つた点 は、教判として不完 全 の
る ﹃妄 尽 還 源 観 ﹄ を 除 け ば 、 事 事 無 礙 と いう言 葉 そ のも のが
見出される にも拘らず、これを教判上に充分反映し得なか つたか
特徴 は終教 の理事無碍 の外 に、 円教の事 事無碍を建立する こと に
嫌あるを免れ得 な いであ らう。何故 ならば 、華 厳学 の最も大切な
一度 も 用 い られ て い な い の であ る 。(
法1
蔵)
は事 事 無 礙 に当 た る
らである。
種 法 界 の分 類 は説 かれ て い な い。 それ ば かり か、 偽 作 と され
思 想 を別 な 言葉 で説 い て いた ので あ ろ う か。 そ れ とも 、 事 事
い て いる。 し か し、 慧 苑 は 理 事 無 礙 と 事 事 無 礙 と を 区 別 し て
苑 の ﹃刊定 記 ﹄ であ り、 ﹃刊 定 記 ﹄ は事 事 無礙 法 界 の 語 も 用
事 事 無 礙 の語 を用 い て いる のは、 法 蔵 の弟 子 であ る静 法寺 慧
﹃妄 尽 還 源 観 ﹄ 以 外 で は、 現 存 の文 献 中 で最 も 早 い時 期 に
﹃刊 定 記 ﹄ が 、 新 訳 唯識 説 そ の他 と 対 立 す る な か で法 蔵 以 上
思 想 を 充分 承 知 し たう え で書 かれ て い る は ず で あ る。 そ の
法 藏 のあ と を 承け て著 さ れ た も の であ る た め、 法 蔵 の晩 年 の
が 、 ﹃刊 定 記 ﹄ は 、 唐訳 ﹃華 厳 経 ﹄ の注 釈 を 作 成 中 に 没 し た
慧 苑 は師 であ る法 蔵 の説 を し ば しば 批 判 し て改 め た人 物 だ
(坂本 ﹃華厳教学 の研究﹄二九四頁)
お り なが ら、 教 判 を 立 て る に際 し ては 、 事 事 無 礙 に相 当 す る
に真 如 随縁 の義 を重 視 す る よう にな って い た と は い え、 事 事
無 礙 を究 竟 の立 場 と し て いな か った の であ ろ う か 。
教 を 設 け て いな い。 理事 無 礙 と 事 事 無 礙 を 合 し た も のを 真 具
八九
無 礙 を 独 立 し た 教 と し て教 判 中 に位 置 づ け な か った こ と の意
平成八年三月
分 満 教 と称 し て最 高 の教 と し 、 真 具 分 満 教 と 違 つて真 如 随 縁
印度學佛 教學研究 第四十四巻第二号
583
﹁事事無礙﹂を説 いたのは誰 か (
石
味 は大 き い。
井)
し か も 、 こう し た傾 向 は、 同 じ く 法 藏 の弟 子 であ る 文 超 に
も 見 出 さ れ る のであ る。 文 超 の ﹃華 厳 経 義 鈔 ﹄ は逸 文 が 残 る
の み であ るが 、 そ の解 釈 の傾 向 に つ い て闘 峯 了 州 氏 は 次 のよ
う に述 べ て い る。
大体 の所説 は、仏身と衆 生 ・三性 ・二諦 ・色空 ・心境 など の無
九〇
第二華厳三昧。 疏 ﹁万行如華厳法身故 、 余如別説﹂者、 遺忘集
説、﹁略有十観。 一摂相帰真観。 二相尽証実観。 三相実無礙観。
四随 相摂生観。五縁起相収観。六微細容摂観。七 一多相即観。八
帝網重重観。九主伴円融観。十果海平等観﹂。然此十観融四法界。・
初二理法界。始終不異。三即事理無礙法界。四即随事法界。次五
特に海 印定をも って真如 の不変随 縁 の義 により て解釈せる如き尚
しよ う と し て いる が 、 第 一観 と 第 二 観 は理 法 界 、 第 三 観 は理
厳経義鈔)﹄ の説 く 十 観 に つい ても 四 種 法 界 に当 て は め て説 明
四 種 法 界 です べ てを 割 り 切 ろ う と す る 澄 観 は、 ﹃遺 忘集 (
華
(
澄観 ﹃演義鈔﹄巻第三十五、大正三六 ・二七 一上)
即事事無礙法界。⋮⋮其第十観果海絶言、通為前四之極。
事事無 礙的思想 の未 だ充 分に説 き尽くされな いも のがあ ると いえ
礙円融自在を述ぶるところ多 く理事無礙的立場 に於て論ぜ られ、
よう。
あ る 。 し か も、 現 存 す る部 分 に は 事 事 無 礙 の語 は用 いら れ て
果 た し て い る のであ り、 事 事 無 礙 と の区 分が 明 確 で な い の で
す な わ ち、 ここ でも 真 如 随 縁 の義 が き わ め て 重 要 な 役 割 を
であ ろ う 。 文 超 の十 観 に は事 事 無 礙 に相 当 す る内 容 が 多 く 含
法 界 の体 系 と は無 縁 のと ころ で発 想 さ れ て いる こ と は 明 ら か
が 事 法 界 ・理 法 界 ・理 事 無 礙 法 界 ・事 事 無 礙法 界 と 進 む 四種
る と す る 配 当 の強 引 さ が よく 示 し て い る よう に、 文 超 の十 観
事 無 礙 法 界 、 第 四 観 は事 法 界 、 第 五 観 から 第 九 観 ま で は事 事
い な い。 し か し、 華 厳 教 学 が 確 立 さ れ る 以前 な ら と も かく 、
ま れ て い る こ と は事 実 だ が 、 微 細 相 容 ・ 一多 相 即 ・帝 網 重
(高峯 ﹃華厳学 論集﹄ ﹁文超法師 の華 厳経義鈔 について﹂
法 蔵 の弟 子 、 そ れも 六師 と称 さ れ る 代表 的 な 六 人 の弟 子 のう
重 ・主 伴 円 明 と い った 事 事 無 礙 に相 当 す る観 よ りも 、 最 後 に
無 礙 法 界 、 第 十 観 は果 海 絶 言 であ って四 法 界 の極 と な って い
ち、 著 作 が 伝 わ って い る慧 苑 と 文 超 の二 人 の ﹃華 厳 経 ﹄ 注 釈
配 さ れ て いる 果 海 平 等 観 の方 が 尊 重 さ れ て いる こ と は 疑 いな
五 一二頁)
が 、 と も に 上記 の よう な 性 格 のも の であ る こと は 、 い った い
い。 つま り 、 文 超 は、 いわ ゆ る事 事 無 礙 的 な あ り方 の宣 揚 に
う よ う な 統 合 的 な あ り 方 の方 を 高 次 元 のも のと し て尊 ん で い
力 を 注 ぎ つ つも 、 そ う し たあ り 方 を も 一部 と し て含 ん で し ま
何 を 意 味 す る のか 。
文 超 に つ い ても う 一例、 澄 観 が 引 用 し て い る 佚 文 を あ げ て
お き た い。
584
る の であ る。
こ こ で注 目 さ れ る の は、 法 蔵 の兄 弟子 の義 湘 (
義 相)が 次 の
よ う に述 べ て いる 点 であ る 。
若依 別教 一乗、理理相即、亦事事相即。亦得理事相即。亦得各各
不相 即。亦得相 即。何 以故。中 即不同故。亦有具足理因陀羅尼、
及事因陀羅尼等法門故。十仏普賢法界宅中、有如是等無障礙法界
(
﹃一乗法界図﹄大正四五 ・七 一四中)
法門、極自在故。⋮ ⋮若 欲観縁起実相陀羅尼法者、先応覚数十銭
法。
こ の部 分 は 、 義 湘 独 自 の説 であ る 理 理 相 即 の理 論 を 説 く も
の と し て知 ら れ てき た が 、 こ こ で大 事 な のは、 義 湘 は 事 事 無
礙 に相 当す る ﹁事 事 相 即 ﹂ と いう 言葉 を用 い て い な が ら 、 そ
の ﹁事 事 相 即﹂ を最 高 の立 場 で あ る別 教 一乗 の法 門 と し て い
な い こと であ ろう 。 義 湘 は、 理 と理 、 事 と 事 、 理 と事 と いう
組 み合 わ せが 相 即 し た り 相 即 し な か ったり す る よ う な 自 在 な
と 事 の組 み合 わ せが いず れ も 自 在 に相 即 ・不 相 即 す る と いう
点 に ﹃華 厳 経 ﹄ 独 自 の無 障 礙 のあ り 方 を 見 出 し 、(
そ3
の)
特徴を
こう し た 主 張 は、 師 の智 儼 の思 想 に基 づ く と 考 え ら れ る。
強 調 した の であ ろ う 。
た と えば 、 智 儼 は 、 最 晩 年 の 作 で あ る ﹃孔 目 章 ﹄ 巻 第 二 の
﹁回向 真 如 章 ﹂ で は、 一乗 の真 如 を 別 教 門 と 同 教 門 と に 分 か
ち 、 別 教 門 に つ い て、
(
大正四五 ・五五八下)
別教門者、謂円通理事、統含無 尽因陀 羅及微細等。
と 述 べ て いる 。 智 儼 の文 章 は 、 簡 略 か つ難 解 な こと で よく 知
ら れ て お り 、 右 の引 文 はそ の典 型 だ が 、 ﹁円 通 理 事 、 統 含 無
尽 因 陀 羅 及 微 細 ﹂ と いう 簡 潔 な 表 現 は 、 お そ ら く 右 で見 た よ
う な 義 湘 の主 張 を 含 ん で いる の であ ろ う 。智 儼 は事 事 無 礙 と
い う 語 や そ れ に類 し た語 は用 い て いな いも の の、 ﹃孔 目 章 ﹄
で は 、 初 教 は ﹁即 空 ﹂、 終 教 は ﹁即如 ﹂、 一乗 別 教 は ﹁無 尽 ﹂
﹁無障 礙 法 界 法 門 ﹂ な い し ﹁縁 起 実 相 陀 羅 尼 ﹂ と 呼 ぶ の で あ
に 含 む 事 態 を 想 定 し て いる も のと 思 わ れ る 。 理 の因 陀 羅 網 や
事 、 事 と 事 な ど の多 様 な 組 み 合 わ せを 因 陀 羅 網 の よう に自 在
て、 智儼 が 別 教 の ﹁理 事 ﹂ に 言 及 す る 場 合 は 、 理 と 理 、 理 と
﹁無 量 ﹂ と いう 規 定 を随 所 で繰 り返 し こ し て い る こと か ら 見
る 。 こ の ﹁無 障 礙 法 界 ﹂ と は、 ﹃大 集 経 ﹄ こそ ﹁無 障 礙﹂ の
事 の因 陀 羅 網 な る も のを 説 く ﹃法 界 図 ﹄ は、 智 儼 が 没 す る直
あ り 方 こそ が 別 教 一乗 の特 徴 であ る と し、 そ う し たあ り 方 を
て、 き わ め て多 様 であ った地 論 宗 南 道 派 の法 界 説 を承 け た も
立 場 で円 教 を 明 ら か に す る も の だ と す る 人 々の 主張 も 含 め
前 に書 か れ て いる こ と を 想 起 す べ き であ ろ う 。 師 であ る智 儼
(2)
のと 考 え ら れ る が 、 義 湘 は 、 ﹁無 障 礙﹂ のあ り 方 を最 高 のも
九一
が あ ま り にも 簡 潔 に、 あ る い は曖 昧 に 述 べ て いた 点 を 明 確 に
井)
のとす る南 道 派 の図 式 は変 えな い ま ま、 理 と 理 、 事 と 事、 理
﹁
事事無 礙﹂を説 いたのは誰 か (
石
585
井)
九二
は、 ﹁
事事無礙﹂と い う、個 々の事物 ・事象相互 の関係を前面 に
﹁事事無 礙﹂を説 いたのは誰 か (
石
し、 他 の学 派 の教 学 と の違 いを明 ら か にす る こと こそ 、 智 儼
押 し出 した表現を案出す る発想 そのも のが なか った。 これが出 て
ば なるまい。
と 注意 を う なが さ れ た 。 これ は き わ め て示 唆 に富 む 指 摘 と 言
(
木村清孝 ﹃中国華厳思想史﹄ 一五九頁)
真理観 を ﹁
事事無礙﹂ の語 によ って総括す ることに慎重 でなけれ
くるのは、次 の世代以後 に属す るのであ る。 われわれは、法蔵 の
の弟 子 の仕 事 であ った はず であ る。
な お、 先 に は澄 観 が 四 種 法 界 を ふり かざ し て事 事 無 礙 を 強
調 し て いた こ と に触 れ たが 、 そ う し た 澄観 で す ら、 そ の事 事
無 礙 説 は 背 後 に ひそ む 理 事 無 礙 を 根底 とす る も ので あ り 、 教
って よ い。 法 藏 は、 ﹃起 信 論 ﹄ を詳 細 に研 究 す る こと に よ り 、
学 全 体 と し て は理 事 無 礙 の色 彩 が 濃 いと 言 わ れ て い る 。(
実4)
際、 澄観 は 四 種 法 界 説 を 盛 ん に用 いる 一方 で、 李 通 玄 の影 響
﹃起信 論 ﹄ に 代 表 さ れ る (
と法蔵 には思われた)真如 随 縁 の思
想 、 す な わ ち 理 事 無 礙 の立 場 と 、 ﹃華 厳 経 ﹄ 独 自 の立 場 であ
いの だが 、(
こ5の)場合 、 事 事 無 礙法 界 は 一真 法 界 とあ る 程 度 重
な り なが らも 結 局 は 一真 法 界 のう ち に お さ め と られ てし ま う
る事 事 無 礙 と の違 いを 、 ほ か の祖 師 た ち以 上 に意 識 し て明 ら
を 受 け、 根 源 的 な 理 心 の世 界 であ る 一真法 界 を 説 く こと も 多
こ と にな る 。 第 五祖 と さ れ る 宗 密 に つ い て は、 ﹃円 覚 経﹄ に
か にし よ う と 努 め た こ と は確 かだ が 、 いわ ゆ る 事 事 無 礙 を 手
放 し で究 竟 と す る ので は な く 、 兄 弟 子 の義 湘 と 似 た よう な 考
基 づ い て華 厳 教学 を 大 幅 に 変質 さ せ て し まう た め、 こ こで は
論 じな いが 、 そ の教 学 は、 澄観 以 上 に 理事 無 礙 の色 彩 が強 い
え を 抱 い て いた 形跡 が あ る 。 たと え ば 、 義 湘 の特 異 な 主 張 と
考 え ら れ てき た 理 理相 即 の主 張 ま で含 め て、 義 湘 の説 にき わ
こ と は よく 知 ら れ て いる 。
で は、 華 厳 教 学 を 大 成 し て事 事 無 礙 の思 想 を確 立 し た は ず
め て近 い議 論 が ﹃華 厳 明 法 品 内 立 三 宝 章 ﹄ に見 ら れ る 。 本 書
理事 即不 即門者、此中 理事 相即不相即、無礙融通、各有 四句。初
の法 蔵 は ど う な の か。 法 藏 が そ の著 作 で は事 事 無 礙 の語 を ま
不即中四句者、 一二事不相 即。 以縁 相事礙故。 二 二 事之理不相
は ﹃五 教章 ﹄ 以 後 の試 論 を 編 集 し た も のと 思 わ れ る が 、 そ の
法蔵が いわゆ る ﹁事事無礙﹂ の事態 に関して、そ の語が直接 には
即。以無二故。三理事不相 即。以 理静非動故。四事理不相即。以
つた く 用 い て いな い こと は、 冒 頭 で述 べ た通 り であ る。・
この
表 わしえ ない ﹁
縁起 ﹂ の全体性や、そ の背後 にあ ってそれを支 え
事動非静故。二相即中四句者、 一事 即理。 以縁起無性故。 二理即
﹁二諦 無 礙 門 ﹂ にお い て、 法 蔵 は次 のよ う に いう 。
る真理 ・真実 を常 に意識 し、 それを踏 まえ つつ、究 極 の縁起 のす
点 に つ い て、 最 近 、 木 村 清 孝 氏 は、
が たを解 明しようとし ていた ことを窺わせる。 お そ ら く法蔵 に
586
事。以理随縁事得立故。 三二事之理相即。以約詮会実故。 四二事
相即。以即理之事無別事故。是故事如理而無礙。
(﹃華厳明法品内立三宝章﹄巻下、二諦無礙門第七、大正四五 ・
む ろ ん、 法 蔵 は、 伝 統 教 学 が 主 張 す る よ う に、 華 厳 独 自 の
法 門 と し て 事 事 無 礙 的 な あ り方 を強 調 し て いる 。特 に晩 年 に
な る と そ の傾向 が 強 ま って お り、 そ の教 学 の頂 点 に 位置 す る
す な わ ち、 義 湘 と 同 じ く 相 即 と 不 相 即 の様 々な あ り 方 を 論
九全事相即。⋮⋮
八融事相入。⋮⋮
七理事倶融。 ⋮⋮
﹃探 玄記 ﹄ の十 重 唯識 に お い て は。
じ る の で あ り、 ﹁二 事 之 理 相 即 ﹂ と あ る よ う に 理 理 相 即 す る
十帝網無礙。⋮⋮既 一門中如是重重 不 可 窮 尽。余一一 門皆各如
六二五中)
場 合 に触 れ た のち 、 事 事 無 礙 のう ち の限 ら れ た 場 合 に当 た る
面 で用 いら れ る のが 本 来 の形 であ った と 思 わ れ る 。 事 事 無 礙
そ の門 下 に お い て は、 ﹁無 礙 ﹂ と いう 語 は、 理 にか かわ る場
箇 所 で用 い ら れ て いる のみ であ る 点が 注 目 さ れ よ う 。 智 儼 や
であ ると いう 箇 所 と 、 事 が 理 のよ う に ﹁無 礙 ﹂ と な る と いう
相 即 と不 相 即 の様 々な あ り 方 が 同 時 に並 在 し て ﹁融 通 無 礙 ﹂
った直 接 的 な 表 現 が 用 いら れ ず 、 無 礙 と いう 語 は、 理 と事 の
が 説 か れ て いな が ら 、 ﹁二 事 無礙 ﹂ な い し ﹁事 事 無 礙 ﹂ と い
無 礙 ﹂ と な る と す る の であ る。 こ こ で は、 明 ら か に事 事 無 礙
色 と し て い た の に対 し、 ﹃探 玄 記 ﹄ にな ると 、 ﹃華 厳 経 ﹄ に し
相 即 の自 在 な あ り 方 こそ が 別 教 一乗 と し て の ﹃華 厳 経 ﹄ の特,
即 と い った ﹃華 厳 経 ﹄ 独 自 な法 門 をも す べ て 含 んだ 相 即 ・不
を 認 め て いる の であ る。 つま り、 義 湘 は、 理 理 相 即 や 事 事 相
倶 有 をも 含 め て第 一門 か ら第 十 門 ま で のす べ て を 具 す る こと
の立 場 に立 て ば 、 ﹃華 厳 経 ﹄ は 理 事 無 礙 に 当 た る 第 七 の理 事
法 門 であ る こ と を 明 言 し て いる 。 し か し、 こ こ です ら 、 同 教
の 三門 の みが 円 教 中 の別 教 であ る と し て、 ﹃華 厳 経 ﹄ 独 自 の
事 事 無 礙 のあ り方 を 明確 に区別 し、 後 者 に属 す る 八 .九 .十
とあ る よう に、 理 事倶 融 と 言 わ れ て いる 理 事 無 礙 のあ の 方 と
(﹃探玄記﹄ 巻第十 三、大正三五 ・三四七上中下)
是 。⋮⋮後 三門約 円教中 別教説。総具十門、約 同教説。
﹁二事 相 即 ﹂ にも 言 及 す る の で あ る が 、 法 藏 は、 ﹁二 事 ﹂ が
﹁相 即﹂ す る のは 、・﹁理 に 即す る の事 に は、 別 の [固 定 的 な]
を 強 調 し た 人 物 と 考 え ら れ てき た法 藏が 、 過 渡 期 の作 の中 と
か説 かれ て いな い事 事 無 礙 的 な あ り方 こ そが 別 教 の特 色 であ
事 無 き を 以 て の故 ﹂ であ り、 だ から こそ ﹁事 は理 の如 く し て
は いえ 、 理 事 相 即 門 と は 別 に事 事 相 即門 を 立 て る こ と を せ
る と 強 調 し て おり 、 理 事 無 礙 の よ う に他 の経 論 も 説 い て いる
九三
ず 、 ﹁理 事 即 不 即門 ﹂ と いう枠 の な か で理 事 相 即 と 事 事 相 即
井)
を説 いて いる こと は注 目 に値 す る。
﹁事事無礙﹂を説 いたのは誰 か (
石
587
る の は、 後 代 にな って から 、 そ れ も かな り 後 にな って から の
井)
こと であ る 可 能 性 が高 い。
事事無
九礙
四﹂
﹁を説 いた のは誰 か (
石
法 門 を 含 め て 一切 の法 門 を ﹃華 厳 経﹄ が 含 む と いう 事 態 に つ
遠藤孝次郎 ﹁
華 厳無尽論﹂ (
﹃
東 京学芸大学研究報告﹄第十七
集 、 一九 六 六 年 三 月) 一四 頁 。
石井 ﹁
新 羅 華 厳教 学 の基 礎 的研 究 ⋮ ⋮ ﹃一乗 法 界 図 ﹄ の成 立
事情⋮⋮ (
﹁
青 丘 学術 論 集 ﹂ 第 4 集 、 一九 九 三 年 三 月 。 同 ﹁大 集
経 尊 重 派 の地 論 師﹂ (﹃駒 沢 短 大 研 究 紀 要 ﹄ 第 二 十 三 号 、 一九 九
五年 三 月)。
二 二九 下 一四〇 上) と説 い て い る よ う に 、 差 別 ・無 差 別 が 同 時
に並 在 し て因 陀 羅 網 の如 く で あ る と す る 南 道 派 の主 張 を 承 け て
相 即 と不 相 即 の並 立 と い う 点 も 、 S 六 一三 Vが ﹁差 別 無 差
別、如因陀羅網。融同無礙者、寧 非円窮之実哉﹂ (
教煙宝蔵五 ・
3
2
1
いて は、 同 教 にす ぎ な いと し て軽 く扱 おう と す る も の の、
﹃華 厳 経 ﹄ が す べ て の法 門 を 含 む と いう面 を 無視 す る こ と が
できず に いる の であ る。 法 蔵 は、 単 な る 事 事 無 礙 と の違 いを
明 ら か に す る た め に、 別 教 にあ っては 重 重 無 尽 であ る こ と を
論 証 し よ う と す る ほ か、 ﹃起 信 論﹄ を柱 に し て終 教 の 理 事 無
礙 のあ り 方 を 明 ら か に し よ う と努 め て い るが 、 そ う し た試 み
ち は た だ ち に 事 事 無 礙 説 の 確 立 に つな が るも の で はな か っ
い る面 が あ ろう 。 石 井 ﹁教 煙 出 土 の 地論 宗 諸 文 献 ﹂ (
﹁印 仏 研 ﹂
た。
こ のよ う に見 てく る と 、 初 期 の華 厳 宗 の祖 師 と さ れ る 人 物
四十一一
ー 二 、 一九 九 四 年 三 月 )。
鎌 田 茂 雄 ﹃中 国 華 厳 思 想 の研 究 ﹄ 四 二 一頁。
小 島 岱 山 ﹁李 通 玄 の根 本 思 想 ⋮ ⋮ 一真 法 界 思想 の形 成 と そ の
(
駒 沢 短 期 大 学 助 教 援 ・文 博 )
︿キ ー ワ ード ﹀ 華 厳 教 学 、 四 種 法 界 、 法 蔵
思想史的意義⋮⋮﹂ (
﹁印 仏 研 ﹂ 三 一︱二 、 一九 八 三年 )。
4
5
には、 事 事 無 礙 を 手 放 し で最 高 の立 場 と し た 者 は 実 は 一人 も
い な か った こ と が知 ら れ る 。 これ ら の祖 師 た ち は、 実 際 に は
事 事 無 礙 の語 を 説 い て いな いか 、 用 い た と し て も あ る 種 の曖
の より も 、 そ う し たあ り方 を も含 む よう な統 合 的 な あ り 方 を
昧 さ .不 徹 底 さ を と も な ってお り 、 いわ ゆ る 事 事 無 礙 そ のも
志 向 し て いる のが 常 な の であ る。 こ の結 果 、 理 と事 の自 在 な
相 即 .不 相 即 の世 界 、 いわ ば 統 合 的 な 理 事 無 礙 の世 界 のう ち
に、 理 事 無 礙 と 事 事 無 礙 が 含 まれ る 形 にな る のだ が 、 法 藏 以
後 の祖 師 た ち は、 そ う し た 構 造 を 明 確 に意 識 しな い い ま ま、
法 蔵 が 理 事 無 礙 の内 容 と し て明 ら か にし た 真 如 随 縁 の思 想 を
統 合 的 な 理 事 無 礙 の世 界 にも 当 て は め て い った ので あ ろ う。
い わゆ る事 事 無 礙 を 華 厳 教 学 の最 高 の立 場 と し て疑 わな く な
588
Fly UP