...

ーネパールの 「森の王様」 ラウテ民族

by user

on
Category: Documents
64

views

Report

Comments

Transcript

ーネパールの 「森の王様」 ラウテ民族
フィールドノート
■ネパールの「森の王様」ラウテ民族
稲村哲也
ラウテは、ネパール西部のマハーバーラト山脈南
麓を中心に、サルの狩猟をしながら移動生活をして
いる森の民である。昨年10月末に、愛・地球博記念
公園を中心に開催した「森と草原の地球教室」で、「森
の家作り」の指導のため、ラウテのリーダー、マイ
ン・バハドウール氏の招くことになっていた。残念
ながら、来日直前にバハドウールさんの奥さんが怪
我で入院したため、それは叶わなかった。しかし、「ラ
ウテの家作り」は、本学の非常勤講師(及び客員共
同研究員)であり、ラウテの研究を行っているカナ
ル・キソル氏ご夫妻に来ていただき、予定通り実施
することができた。アフリカの森の狩猟民バカの家
と共に、戸外の食の広場で実施した「森の家づくり」
は、多くの家族連れで賑わい、大好評を博した。
キソル氏はこれまでに7回の調査を実施している
が、私自身は、そのうちの3回、2007年11月、2009
年3月、2010年12月∼2011年1月の調査に同行し
た(後の二回には京都大学霊長類研究所の川本芳氏
も参加した)。この機会に、現地フィールドワークを
含め、ラウテとはどのような人々なのか、また、激
動するネパールの中で今、森の狩猟民がどのような
状況に置かれているのか、紹介したい。
クダ科野生動物ビクーニャの追い込み猟「チヤク」
の調査も行っている。インカ時代に王族の衣服の材
料とするため、質の良いビクーニャの毛を刈るため
の「殺さない狩猟」(毛を刈ったあと生きたまま解放
する)である。インカ帝国がスペイン人によって征
服され、植民地にされたあとに「チヤク」は一旦消
滅したが、近年になって復活した。
以上のようなこれまでの研究との関わりから、ラ
ウテの調査が実現すれば、アンデスとヒマラヤの「狩
猟」と「牧畜」の比較研究に展開できる。そのよう
な研究は世界でも他に例がない。
キソルさんによると、ラウテの人々は以前は外部
の人との接触を嫌っていたが、今は接触が可能なの
だという。彼らは季節的なサルの移動(夏は高地、
冬は暖かい低地)にあわせて上下の移動をしている。
そして、調査を予定している11月は農村の近くに居
住地を移しており、会いやすいとのことだった。
短期間の調査で本当に会えるものかと半信半疑だ
ったが、「狩猟民ラウテに会えるものなら、私もぜひ
会いたい」と同行を申し出たわけである。
フィールドワークの開始
カタール経由でカトマンズに入り、2007年11月
22日、一行と合流し、翌23日、ブッダ・エアーのプ
ラウテ調査のきっかけ
2007年の春ごろ、キソル氏から相談を受けた。「日
ロペラ機で、カトマンズ空港を出発した。窓からは、
本福祉大学の二人の先生(綾部さん、武下さん)と、
ネパールのマイノリティ、とくに狩猟民ラウテの調
査を計画しているが、フィールドワークの経験が少
右手にヒマラヤの白い山なみがくっきりと見えた。
ないので、アドバイスしてほしい」というものだっ
た。私は、総合地球環境学研究所の研究プロジェク
トで、ちょうど高地文化の比較のためェチオピアで
の予備調査を計画していたところだった。ネパール
の狩猟民の調査が簡単にできるとは思えなかったが、
「じゃあ、ネパールに寄って、私も調査に加わりま
しょう」ということになった。
筆者は1978年から、ペルーのアンデス高地でリヤ
マとアルパカ(共にラクダ科の動物)の牧畜民(ケ
チュア族)の調査研究を続けてきた。1980年代から
は、ネパールのヒマラヤ高地でヤクを飼う山岳民族
シェルパの調査も行ってきた。ヒマラヤでは「移牧」、
すなわち標高差を利用した上下の規則的な季節移動
が行われている。それに対し赤道により近い中央ア
ンデスでは、気温の年較差が小さいことなどから、
一年を通して高原の一定領域内で放牧される「定住
的牧畜」が行われている。世界二大山脈の比較から、
いろいろなことがわかる。2000年代からはまた、ラ
−112 −
次第に南下してヒマラヤから遠ざかると、1時間ほ
どでタライ(亜熱帯低地)西部のネパールガンジの
空港に到着。すぐに、待機していた白いインド製ジ
ープに寝袋などを積み、北に向かう。
ネパールというとヒマラヤの国のイメージが強い
が、国の南半分は亜熱帯の低地である。かつてはジ
ャングルが広がっていたが、マラリアが撲滅された
後、農業の開発が進み、いくつかの大きな都市が形
成された。そうしたタライの都市のひとつネパール
ガンジの市街は、トラック、バスに、牛車、馬車が
走り、華やかなサリーを着た女性たちに交じって、
黒衣と頭巾で全身と顔を覆ったイスラームの女性も、
リキシャに乗って行きかう。近代と伝統がひしめき
合い、ヒンドゥーとイスラームが混在する、インド
的なカオスの世界である。リキシャは日本発の「文
化」で、人力車に自転車をくっつけたものである。
買い物などに便利なタクシー代わりの庶民の足にな
っている。リキシャのこぎ手は大変だが、多くの雇
用を提供しており、燃費ゼロで環境にやさしい、平
坦なタライにはうってつけの交通機関だ。
フィールドノート
町を抜けると国立公園に入り、原生の亜熱帯ジャ
ングルにまっすぐの道がしばらく続く。国立公園の
製の器を見せてくれた。ラウテは木器を作る、いわ
ば「木地師」でもある。農民と物々交換をし、器の
入口に、トーチカを備えた軍のチェックポイントが
中に入るだけの量のオオムギ、ソバ、トウモロコシ
ある。マオイスト(共産主義毛沢東派)が席捲して
いた頃は、その勢力が展開していた地域である。舗
装道路に、ときどきサルの群がたむろしている。
ジャングルが山道に入って七曲となる、やがて田
園地帯に出ると、スルケットの町に到着する。山岳
地域の町は、タライの幹線道路沿いの町のような、
トラックやバスが行き交い雑多な人々が交錯する喧
騒はなく、空気はひんやりとし、街路に店が並んで
をもらうのだという。農民はその器を、粉を練った
いるものの、どことなく物静かである。「ナマステ(こ
んにちは)ネパール」といういかにもローカルな名
前の町一番というホテルにチェックイン。食糧など
の買い出しをし、キソルさんがラウテに関する情報
を集める。ラウテは北の方に居るらしいが、正確な
場所は誰も知らない。翌朝早く出発し、情報を集め
ながら、山岳地域を北上することになる。
2007年11月24日、5時半に起きジープに荷を積
みこむ。ガソリンが不足していて、タンクを満タン
にするのに時間がかかり、朝もやに霞むスルケット
の町を出るまでに2時間ほどかかってしまった。
まもなく車はカシやシヤクナゲの林の中に入り、
山岳道路を上っていく。10時、コムギ、トウモロコ
シ、ジャガイモなどを栽培する農村を通過し、標高
が2000メートルを超えたあたり、バスの停車場に
人々が集まっている。ラウテについて尋ねると、2
か月前まで近くに居たという。そこで、ラウテが住
んでいたという場所に案内してもらうことになった。
街道からちょっと上っていくと、たしかに、緩やか
な段々畑の休閑地に数10戸の住居の跡があった。
立ち去った跡
もぬけの殻となった集落。人が消えた生活世界。
廃墟?、ではない。考古遺跡?、ともちょっと違う。
不思議な光景だ。木の枝で作った、長径4メートル
ほどの楕円型のドーム状の家のいくつかは、原型を
留めている。「おじやまします」と呟いて、家の中に
入ってみる。身をかがめないと、頭が天井について
しまう。返事は返ってこないが、ちょっと前までは
家族がここで寝起きをしていたはずの、まざれもな
い日常生活の気配。炉の跡が残されている。古い布
きれも落ちている。集落のはずれには、割れた木器、
木工品を作った木屑が残されていた。いったいどん
な人たちがここで暮らしていたのだろう?
近くの茶店に寄って話を聞いた。ラウテは8月か
ら住んでいて、11月11日に出て行ったという。ほん
の2週間前のことだ。「ここからドゥンゲソルの方に
向かった。二つのグループに分かれたらしい」とい
う。北西約50キロ、車で約1時間半のあたり。冬の
訪れの前に、ここより低い、温かい地域に向かった
のである。それはサルの移動にも連動している。
店の主人が、ラウテから手に入れたコシという木
一113 −
り、ヨーグルトを入れるのに使っている。
午後3時過ぎ、川沿いに下ったところで、河原に
近い一画で再びラウテの集落跡を見つけた。ラウテ
の「現住所」に近づいているようだが、確実な情報
は得られなかった。4時半、橋の近くにバディ(魚
取りの被差別カースト集団)の集落があって、街道
沿いに食堂や店が並んでいた。翌朝からラウテ探索
を続けることにし、そこで宿をとった。
茶店で一服しながら、ラウテについて住民に尋ね
ていると、誰かが「ラウテ!」と叫んだ。橋の方か
ら、薄手の布をマントのように羽織り、長い杖をも
った二人の男がこちらに向かって歩いていた。背は
低く、むしろきゃしゃな体躯だが、村人たちの視線
を浴びる中、静かに、ゆっくりと、しかし堂々とし
た歩きが、どこか超然とした雰囲気を発していた。
森の中へ
キソルさんがラウテの二人を呼び止め、茶店に誘
った。興奮気味に質問を投げかける。まもなく、嬉
しそうに、「先生、行きましょう」と言う。運転手を
呼ぶと、ラウテの二人が同乗し、出発する。
橋を越えて5分ほど走ると、道路わきにジープが
停止した。そこから河原の方に向かって、ブッシュ
の踏み分け道を歩く。10メートルも進んだかどうか。
忽然と、森を開いて作られたラウテの集落が目の前
にあった。長径が4mほどの長円形のドーム状の、木
の枝で作られた小さな家が立ち並ぶ。小さな広場の
地面に埋めた木の目を、2人の女性が杵でついて、稲
を脱穀していた。そのちょっと下方では女性たちが
「風撰」をしている。脱穀した稲穂を大旅から下に
落とし、軽いもみ殻だけを風で飛ばし、下に敷いた
莫産に白いコメが残るという仕組みだ。
写真では何度も見た、アフリカの森の狩猟民ムブ
ティ(バカと同系統のピグミー系民族)のように、
森の中のその空間だけは太古の時が止まったかのよ
うだ。プアーつという音が聞こえ、道路を通過する
トラックが、木立の向こうに透けてみえた。
マイン・バハドウール氏が我々を迎えてくれて、
集落を一回りした。男たちは、手斧を使って、森の
木から器を作っている。大きな木箱などもあった。
女性たちは、腰巻とシャツを身に着け、布を頭に被
って足まで垂らしている。女性たちとは直接話すこ
とはできない。
ラウテの現ムキヤ(リーダー)は、マイン・バハ
ドール氏の義理の父のマン・バハドールだが、高齢
で弱っているという。実質的には婿にあたるマイ
ン・バハドウール氏が仕切っているらしい。すでに
夕方になっていたので、彼に翌朝再訪することを願
い出て、宿に戻った。
フィールドノート
「あなた方は、宮殿の王様。私たちは森の王様」
研究所の川本芳氏と、ブータンでの調査を終えた後、
翌朝、ラウテの集落を再訪した。ふたつに分かれ
2009年3月9日、カルカッタ経由でカトマンズに入
たグループの一つで、約20戸、70人くらいの集団で
ある。標高は約800メートル。道路と川の間の狭い
った。カトマンズの空港は市内のはずれにあるが、
道が大渋滞で、市中心のホテルまで1時間もかかっ
森の中に集落が作られている。知らなければ、近く
を通りかかっても気づかないだろう。ラウテは、サ
ルの狩猟をするために森に住むが、コシを作って
物々交換するため、農村にも近い方が便利である。
集落の位置は、究極の選択の場所という感じである。
てしまった。ちょうど「チベット動乱」の50周年の
年に当たるため、チベット系住民(もともとのチベ
ット系ネパール人に加え、チベットからの難民も少
マイン・バハドウール氏は、森の住む理由を、「あな
た方は宮殿の王様。私たちは森の王様。ネパール中
の森が、自由に生きられる世界」と述べる。キソル
さんの通訳を通じて、いろいろな質問に答えてくれ
た。彼らの暮らしをある程度知ることができた。
ラウテは、男たちが猿を捕まえ、料理して食べる。
しかし、よそ者には食べさせないし、狩猟をしてい
るところも見せない。ラウテはサル以外の動物はと
らない。森の木を切って、コシ(容器)を作り、コ
シを作物と交換するために農村に行く。
ラウテは一年を通じて移動して生活している。移
動の要素は、サルの狩猟、農民との物々交換、周辺
住民との関係である。死者が出たとき、直ちにその
場所を移るという。ムキヤ(リーダー)が悪い夢を
見たときも、移動することがあるという。移動する
方向や新しい集落の場所を決めるのはムキヤだ。移
動のとき、どちらに行くかは体で感じるという。
ムキヤには仲間から人望があって能力がある人が
選ばれる。ムキヤは外部の人と話をする。問題が起
こったときにそれを解決する。今は、ラウテに援助
をしてもらうため政府や政治家とも話をする。
森にはモストという神がいて、ラウテはモストに、
農民から物々交換で手に入れるヤギやニワトリの血
を捧げる。ムキヤとは別に呪術師がいて、彼はモス
トを見ることができるし、祖先と話すこともできる。
呪術師は、人が病気にかかったとき、サルが獲れな
いとき、満月のときなどにお祈りをする。
女性たちは外部の人とは話をしない。未亡人にな
ると、男たちが彼女にコシを与えて援助する。子供
がいる未亡人は再婚することができないが、子供が
いない場合は再婚できるという。
若い未亡人がコシを持っていたので、「それを私に
売ってください」というと、「お金ではだめ。お米と
交換するならいい。」という。そこで、私たちは、彼
女と親族の男を車に乗せ、橋の近くの店まで行った。
そこで私がコシに入るだけのコメを買い、そのコメ
を彼女に渡すと、彼女は納得の表情でコシを私に差
し出した。現金を仲介にした「物々交換」が成立し
たわけだ。
ラウテ再訪−ラウテ社会の変化
ラウテとの感激的な最初の出会いからおよそ1年
半後、2回目の訪問の機会を得た。総合地球環境学研
究所のプロジェクトの一環として、京都大学霊長類
−114 −
なくない)を規制するため、中国大使館前の道路が
閉鎖されているためだという。
ネパールの低地タライ地方では、政府への抗議活
動が活発化していた。タライの先住民族タルーが、
自分たちを先住民族と認めずインド系住民と同等に
みなす新政府の政策に不満を持ち、ネパールガンジ
周辺の道路を一週間にわたって封鎖していた。首相
との話し合いがもたれており解決を待ったが、結局
は封鎖解除に至らなかった。そこで、3月11日、ス
ルケットの空港に直接に飛ぶことになった。スルケ
ットへのフライトは、週2便しかない上に、飛行機
が小さく、天候不順等によるフライト・キャンセル
も多くて不安定だが、他に方法はない。幸い、スル
ケット行の20人乗りシータ航空機は、2時間遅れた
が、「予定通り」に出発した。
スルケットでは、なじみのホテル「ナマステ・ネ
パール」にチェックイン。キソルさんがあらかじめ
集めた情報にしたがって、ラウテが集落を作ってい
る谷筋の麓の農村ラッカムまで直接行くことができ
た。ラッカム村の宿屋で一泊すると、キリスト教支
援団体に所属するネパール人青年カゲンドゥラ君が
泊まっていた。ラウテの子供たちが学校に行けない
ので、教育のための援助活動をしているのだという。
しかし、ラウテは学校教育を拒絶しているので、教
育支援は実を結んでいないようである。「旅は道連
れ」ということで、彼と一緒にラウテ集落を訪問す
ることになった。
谷を遡って行くと、女性たちが川で洗濯をしてい
た。その州の向こう岸の段々畑の休閑地にラウテの
集落があった。前のムキヤが亡くなり、マイン・バ
ハドウールがムキヤの地位についているはずだった。
しかしあいにく、マイン・バハドウールと男たちは
不在で、女性と子供たちしかいなかった。前ムキヤ
の未亡人が出てきて、「ムキヤは援助を求めるために
都市に行った。ムキヤを探して話しなさい」という
ので、早々に引き返すことにした。ラッカム村に下
ると、もう一つのグループを統括する副ムキヤのア
イン・バハドウール氏が、我々の来訪を知って、待
っていた。そこで、彼の集落も訪問することになっ
た。別の谷筋を上っていくと、やはり段々畑の休閑
地にラウテの集落があった。男たち手斧でコシを作
っていた。女性たちはコメを脱穀し、泉から水を汲
んできたところだった。集落の上方に森が広がって
いた。ほんの短時間の訪問となったが、ラウテの移
動と2つの集落の離合集散の実際を見ることができ
た。キソル氏によるそれまでの調査の分析によれば、
フィールドノート
副ムキヤは援助を受けることに熱心で、お金に執着
する傾向が出てきている。また、若者たちの中に、
彼の方針に賛同するものが増えているという。
ラウテにはなれない。自分の伝統を守り、遊動生活
をし、森で狩りをし、木彫りをして物々交換で生活
をするのがラウテである」と述べたそうである。
ムキヤはその後も数回カトマンズに行ったという
2010年12月に、3度目の訪問をした。今回はネパ
ールガンジからスルケットに入り、そこから東に延
「私は政府や、政党やいろいろな政治家と会いに行
った。その時、総理大臣、法務大臣、大統領や政党
のネパール・コングレス(国民会議党)、UML(共
びる別の川筋に入った。ラウテがこの地域に移動す
産党マルクス・レーニン統一派)、マオイスト(共産
るのは20年ぶりとのことであった。キソルさんは、
ラウテのムキヤであるマイン・バハドール氏とミッ
党毛沢東派)といろいろな話をした。ラウテが森で
自由に生活することと、生活が苦しいので支援を求
ト(擬制親族関係:終生互いに助け合う関係を維持
めた」という。
森の生活が不自由になってきた
する)の契りを結んでいた。そのため、遠慮のいら
ない関係となり、集落に長く留まることができ、写
真も自由に取らせてくれるようになっていた。
ムキヤによれば、最近はサルが減ってきたという。
ムキヤは次のように訴えた。「最近この辺のマガル族
(農民)がたくさん捕るのでサルが少なくなった。
それで、ラウテが困っている。ネパール政府と話し
てラウテ以外の民族はサルを捕れないようにしてほ
しい。」。木工製品との交換による農産物の確保のた
めには農村に近い森が集落の適地であるが、サルの
狩猟とのジレンマが常にある。村人との競合関係が
潜在しているのである。
もうひとつのジレンマは森の木の伐採をめぐる農
民との関係である。ムキヤは語る。「私たちラウテが
昔からこのような生活してきたことは、周辺の住民
も政府も知っていることで、我々を追い出すことは
しなかった。村の住民は田畑や家を建てて生活する
が、我々ラウテは農業ではなく、木工をして商品を
作り、それを村人と交換して生活を営む。両方の側
が生活することは自由である。ラウテは村人に迷惑
をかけない」。
2010年の調査時、ラウテはそれまで20年以上続
けていた遊動域を大きく変えた。彼らは、以前はス
ルケットから北上するカルナリ川に沿って移動して
いたが、最近、スルケットの南から東に伸びるベー
リ川沿いに移動するようになった。移動のルートを
変更した理由を尋ねると、ムキヤは「昔のルートに
変えてみた。コシがあまり売れなくなったことも理
由にある」と答えた。さらに、コミュニティ・フォ
レストとの関係を尋ねると、「住民がフォレストの木
をたくさん切ったと、怒っていた」と述べた。
2009年に集落を訪問した時、ムキヤが不在だった
が、その時は、ダイレク郡の中心の町に行き、公聴
会に出席したためであった。ネパール政府が憲法制
定議会議員を地方に派遣して、全地方、全民族に、
どんな憲法を作るべきかについて公聴会を開いてい
たからである。そこでも、ムキヤは「私たちは森で
自由に生活したい」と訴えたという。
王制廃止、森林政策の変更
2028年(西暦1971年)に飢饉があった際、国王が
現地を視察した。その時、国王はラウテと会って食
糧、衣服などを支給し、「何か困ったことはあるか」
と尋ねた。ラウテのムキヤは、ラウテが森に自由に
入り、木材を伐採する許可を願い出て、それを許さ
れたという。
王制が廃止された現在、この許可証は効力を失い、
森で自由に木を切って生活するための後ろ盾は無く
なったことになる。そこで、ラウテは、総理大臣を
はじめとする政治家に、ラウテが自由に森で生活し、
森の木を切る自由を保障するように訴えている。
移動ルートの大きな変更は、木工製品の需要とも、
森の木の伐採をめぐる住民との乳轢とも関係してい
るのであろう。この森の伐採をめぐる乱轢は、政府
の森林政策の変更と関係している。1993年に森林法
が改正され、「コミュニティ・フォレスト」が制度化
された。森の利用は、従来は地域ごとに慣習的な占
有や利用がなされてきた。しかし、森の維持と再生
を目的とし、新たに地域コミュニティ単位で組合を
設立して近隣の森を登録し、コミュニティがその森
林を管理することになった。この制度変更は、移動
しながら森を利用してきた人々にとっては大きな障
害となりうる。
国王の廃位によって、王からの下賜は無効となっ
政府からの援助と貨幣経済の浸透
ネパールの政治状況の変化が、ラウテ社会を大き
く変えるきっかけになったのは間違いない。ムキヤ
のマイン・バハドールは、2008年、ネパール・コン
グレス(国民会議党)のコイララ党首(当時)から
憲法制定議会の議員として推薦され、新聞に彼の名
前と顔写真が掲載された。ムキヤは首都カトマンズ
へ行ったが、議員になることは拒否した。ムキヤは、
「ラウテは政治に参加しない。議員なるのだったら
一115 −
た。一方、コミュニティ・フォレスト制度によって、
地域住民による森の管理・利用の制度が確立し、法
的に地域住民の主張が正当となった。ラウテは、中
央の大臣らに懇願して、既得権の継続を要請するが、
中央の政治が混乱する状況では、地域社会への影響
力は及ばない。そこで、住民との乱轢が顕在化して
きているのである。
フィールドノート
ネパールの政治状況とラウテへの影響
ネパールの人口は2800万人(2007年調査)で、59
の民族が認定されている。ネパール語を母語とする
ヒンドゥー教徒でカースト・アイデンティティをも
つ人々が多数派を占める。宗教は、ヒンドゥー教徒
が80%、仏教徒が約10.7%、イスラム教徒が約4.2%
とされている。言語はネパール語(標準語)、英語
(第二言語)のほか、102の民族言語や少数言語が確
認されている。
1996年以後、共産主義マオイスト(毛沢東派)の
ゲリラ運動が始まり、ネパールの諸民族に大きな影
響をもたらした。彼らは、西ネパールの山岳地帯を
中心に、多言語、多宗教を認め、ヒンドゥー王制廃
止、カースト廃止、女性、民族マイノリティや先住
民の保護、経済的平等などを訴えゲリラ運動を始め
た。多くの民族・先住民族、低カーストや女性の若
者がゲリラに参加し、国全体に影響が及んだ。ゲリ
ラと国軍の激しい戦争となり、社会が混乱し、高カ
ーストだけなく、少数民族、先住民族や低カースト
の人々にも大きな打撃与えた。
長い内戦の末、2006年に休戦・和平が結ばれ、マ
オイストが合法化された。2008年に憲法制定議会の
選挙が実施されると、マオイストが第一党になった。
ただし、過半数は得られず、3大政党となったマオイ
スト(ネパール共産党毛沢東派)、ネパール国民会議
党、ネパール共産党(マルクス・レーニン統一派)
の「互酬」システムが強く機能してきた。木工製品
の交換による収入は個人のものであるが、それも農
作物との物々交換を原則としてきたために、市場経
済はある程度ブロックされてきた。農産物であれば、
蓄積は家族の消費を大きく上回ることなく、余剰は
相互扶助のために使われることになる。コミュニテ
ィの共通の富としては、祭で消費されるヤギが最大
のものであった。外部からの金銭的な収入はムキヤ
が管理し、ヤギに変えられ、祭で消費された。こう
して、市場経済の世界に囲まれながらも、内部では
ムキヤを中心とする小規模な「再分配」システムに
よって経済的社会的な統合が図られてきた。
しかし近年になり、市場経済はラウテ社会にも確
実に浸透してきた。政府やNPO等によるラウテ社
会への金銭的援助がその要因の一つである。貨幣経
済を知るようになると、木工製品を現金で売る傾向
も強くなってきた。
「互酬」と「再分配」によって強い凝集力が保た
れてきたラウテの社会に「市場交換」システムが浸
透するにつれ、ムキヤのリーダーシップにもゆらぎ
が生じている。ムキヤ自身も「お金で農産物を買え
るし、服、ヤギ、ニワトリなど何でも買うことがで
きるのがお金である」と語る。貨幣の魅力を知った
若者たちの新しい意識を、ムキヤは今後どうコント
ロールしていくのだろうか。政府による個人への金
ど政治的な混乱が続いた。
マオイストによるゲリラ戦争、和平、民主化、王
銭的支援は、若者の飲酒や、木工製品の必要性が下
がり、木工技術の衰退につながることを、ムキヤは
危惧している。
森林制度の変更は、森の木の伐採の許可を与えて
きた王制の廃止とともに、ラウテの生活基盤を全面
的にゆるがす事態となっている。ラウテの総人口が
少数であることから、森の管理者となった地域住民
との乱轢は今のところ限定的だとも言えるが、すで
制廃止は、ネパール社会に大きな変化をもたらすこ
ととなった。すべての政党が、支援者を集めるため、
マイノリティの地位向上を訴えてきたこともその要
因の一つである。それは、ラウテのような極小民族
にも及んだ。制憲議会の議席数は606であるが、選
に、遊動区域の変更の一つの要因となっている。
ラウテは、森での自由な生活の維持を望んでおり、
これまでは定住化は拒絶している。2010年3月の調
査時には、キリスト教系NPOがラウテの子どもの
教育のための支援を目的としてラウテと接触をして
挙で選ばれた議員に加え、得票数に応じた任命枠が
いた。市場経済化のさらなる浸透、外部世界との交
流の増加とともに、教育の問題もラウテの人びとに
とって大きな転換要因となるだろう。
様々な外部要因がラウテの社会に浸透する中で、
が大連立し、2008年の憲法制定議会で250年に及ぶ
シャハ王制廃止を決めた。連邦制を導入することな
どで合意したが、マオイストの軍を国軍に編入する
ことなど、重要な課題で合意できず、マオイストが
政権から一時離脱し、首相がなかなか決まらないな
決められ、少数民族や低カーストなどのマイノリテ
ィに割り当てられた。国民会議党の党首がラウテの
ムキヤを議員に指名した背景はそこにある。
すべての民族に意見を聞くという原則から、極小
民族でありながら、ラウテがひとつの「民族」とし
て扱われるようになった。さらに「ネパール最後の
狩猟民族」ということからも世論の注目を集め、援
助の対象にもなったのである。
経済システムの変容とラウテ社会の統合
ラウテの社会では、サルの獲物の平等な分配、未
亡人にコシを贈与して支える相互扶助の仕組みなど
ー116 −
ラウテはいつまで「森の王様」であり続けることが
できるのだろうか。
付記:本稿は主として総合地球環境学研究所プロジ
ェクト「人の生老病死と高所環境」(代表奥宮清人)、
及び科学研究費・基盤研究(A)「熱帯高地環境に
おける家畜化・牧畜成立過程に関する学際的研究」
(課題番号22251013)の成果に基づくものである。
フィールドノート
カトマンズから西に向かい、南下してヒマラヤ主
脈から遠ざると、マハーバーラタ山麓が眼下に見
える。この山中のどこかにラウテの集落がある。
手斧で木工細工をするラウテの男性。彼らは木
工品を農民と物々交換して、コメなどを手に入
れる。
森の中に忽然とラウテ集落が現れる。木の枝を
組み立て、それに葉がついた小枝を組み込んで
長円形の家を作る。それを布で覆っている。
の脱穀をしている。左の女性は、大きな旅を使っ
て風環をしている。
杵や木工道具で遊ぶ子供たち。
森の小道を行き来するラウテの男女。
−117 −
フィールドノート
ラウテの集落の家の外観。枝で葺いた小屋に布を掛
け、雨が漏れないようにしている。
ラウテ集落の広場。頭上に容器を重ねている女性
は水汲みに行ってきたところ。
家の内部の様子。両方の出入り口の脇に柱を立て
て梁を渡している。寝具の向こうに炉がある。
踊りを踊る男性たち。女性は踊ることが禁じられ
ている。
ラウテ集落の訪問を終え、帰路につく。後ろの農
家に泊めていただいた。
ラウテの集落に近い農村の光景
ー118 −
Fly UP