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ハリスと東海道(3) −ヒュースケン日記とともに

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ハリスと東海道(3) −ヒュースケン日記とともに
ハリスと東海道(3)
−ヒュースケン日記とともに−
山 下 琢 巳 *
Harris and Tokaido (3)
− With Heusken’s Diary −
Takumi YAMASHITA
はじめに
1857年11月23日(安政4年10月7日)、ハリスは、通商条約締結のために、下田柿崎の玉泉寺に置か
れていたアメリカ総領事館を出発して江戸に向かった。一行は、下田街道を通って、11月25日に三島
宿に到着、翌26日、東海道を下って、箱根峠を越えた。その日は、小田原で一泊、27日は、大磯で休
憩を取って、藤沢に宿泊した。前稿では、ハリスとヒュースケンの日記をもとに東海道箱根宿から藤
沢宿までの様子をたどった。
一行はその後、28日は、神奈川で休息して、川崎に宿泊する。30日、川崎を発った一行は、六郷川
を渡って蒲田、鈴ヶ森と進んで品川で休み、高輪を通過してやがて東海道の起点である日本橋に至
り、室町、本町、御堀端通り、小川町を経て、宿所の設けられていた九段坂下の蕃書調所に到着す
る。
本稿では、ふたりの日記をもとに、藤沢から川崎にかけての幕末期の東海道の様子を探っていく。
Ⅰ 神奈川宿
海沿いの道
1857年11月28日土曜日(安政4年10月12日)、午前7時、ハリス一行は、藤沢宿を発った。一行は、
*
Takumi YAMASHITA 日本伝統文化学科(Department of Japanese Tradition and Culture)
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東京成徳大学研究紀要 ―人文学部・応用心理学部― 第 22 号(2015)
戸塚宿、保土ヶ谷宿を抜け、5里12丁(21.5km)先の昼の休憩地神奈川宿を目指した。
藤沢から三浦半島の内陸地を通る東海道は、神奈川宿の台町から江戸日本橋にかけては、ほぼ江戸
湾に沿って進む。初代広重の隷書版「東海道四 五十三次 加奈川 臺の茶や」には、保土ヶ谷方面
から見た東海道の様子が描かれる。東海道の右側には、「桜屋」「石崎屋」「玉川屋」といったこの
地で有名な茶屋が立ち並び、その向こうには、数艘の弁財船が浮かぶ江戸湾が広がり、遠方には三浦
半島が見渡せる。この台町は、海に面した崖の上にあり、ここからは、周辺の横浜・本牧・洲乾・野
毛・平沼・芝生をはじめとして、富士山や房総の鹿野山までも眺望することができた 1)。
街道筋には、1856年9月23日(安政3年8月25日)から24日にかけて関東地方を襲った台風の爪痕が
見受けられた。この台風による東海道筋の被害について、『安政風聞集』(金屯道人編、安政3年・
1856・刊)は、「箱根・小田原・大磯・平塚此辺は海さへ近きところなれば、是また破損の道・橋・
家居沢山に見へたるなり。藤沢・戸塚・保土ヶ谷は多分の荒は見へねども、風にもまた其筋有て、思
ひがけなき大家を損じ、折べくも見へぬ大木など倒れたる」とし、神奈川宿に関しては「神奈川台は
地高きゆへ、風の当り烈しくて破損の家も多し」と記している。この台風の死傷者は、「凡十萬餘
人」であったともいわれる(『近世史略』初編、山口兼、1872)。しかし、前方には平野がひらけ後
方に富士山を抱く東海道の旅は、非常に気持ちの良いものであった。そして、大きな村落が切れ目な
く続き、晴着を着て筵の上にひざまずく見物人の姿が目に入った。
ハリス一行は、正午に神奈川宿本陣に到着し休息を取った 2)。
ハ 午前七時に藤沢を立った。江戸に近づくにつれて、次第に平野が広濶となり、道路はひじょう
に気持がよい。東海道は小田原から全く海岸に近く走り、相模半島を横切るところが海から遠
のいているだけだ。道路にそって、一八五六年九月の颱風による被害の痕が多数見られる。富士
山は、それから遠ざかるにしたがって、姿がよく見えはじめる。途中の村々は、昨日通った村々
よりも大きく、いっそう密接につらなっている。人々はいずれも祭日の晴着をきて、私が通ると
き、彼らの家々の前の蓆にひざまずいている。
正午に神奈川でとまり、水辺の綺れいな本陣に休息する。
Ha Saturday, November 28, I857. Left Fusisawa at seven A. M. The road is very pleasant, as
the plain gradually widens as we approach Yedo. The Tokido from Odowara runs quite near
the shore, except where it crosses the Peninsula of Sagami. See many marks of the typhoon
of September, 1856, along the road. Fusi Yama begins to improve in appearance as we recede
from it. The villages are larger and more closely connected than on yesterday's route. The
people, all in holiday costume, are kneeling on mats in front of their houses, as I pass.
At noon stop at Kanagawa, at a pretty honjin placed at the water side.
神奈川宿は、滝の川を境として、西の青木町と東の神奈川町とからなっていた。『新編武蔵風土記
稿』(天保12年・1841・成)巻70に拠れば、宿内の往還は、長さ32町41間(3.57km)、西の方芝村
から東の新宿村までの道幅は、3間(5.5m)から4間(7.3m)であった。そして、滝の川には、長さ7
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ハリスと東海道(三)―ヒュースケン日記とともに―
間(12.7m)、幅2間(3.6m)の滝の橋が架かっていた。
また、『東海道宿村大概帳』に拠れば 3)、天保14年(1843)の宿内人別は、5793人で、宿内総家
数は、1341軒であった。本陣は、青木町滝の町の鈴木源太左衛門家(凡建坪183坪)と神奈川町西の
町の石井源左衛門家(凡建坪182坪)の二軒があり、脇本陣はなく、旅籠屋は58軒あった。
神奈川宿の様子を俯瞰して描く『細見神奈川絵図』(天保15年)についてみると、鈴木本陣は、
背面が海に、石井本陣は、背面が山地に、それぞれ面していた。休憩を取った部屋の庭が入江の波
に洗われていたというヒュースケンの記述からすれば、一行は、鈴木本陣で休息を取ったことにな
る 4)。
ヒ 神奈川ではきれいな茶店で休憩した。そこには幸い大名臭さがなく、部屋は入江の波の寄せる
きれいな小庭に面していた。そこからひろびろとした江戸湾と横浜村を見渡すことができる。
He At Kanagawa we stopped in a lovely little inn, which luckily does not reek of the Daimyo,
the rooms overlooking a lovely little garden washed by the waves of the bay. We enjoy here a
magnificent view of Edo Bay, the village of Yokohama.
ペリー談判の地
1853年7月8日(嘉永6年6月3日)、マシュー・ペリー(Matthew Calbraith Perry)提督率いる艦
船4隻が、日本への開国と通商を要望するアメリカ大統領フィルモアの書簡を携えて浦賀鴨居沖に投
錨した。艦隊の構成は、木造3本マスト・バーク型外輪式蒸気フリゲート(Frigate)の旗艦サスケハ
ンナ(Susquehanna 2,450t)とミシシッピ(Mississippi 1,692t)、および、木造3本マスト横帆船ス
ループ(Sloop)のプリマス(Plymouth 989t)とサラトガ(Saratoga 882t)であった 5)。浦賀奉行
らは、艦隊の長崎への回航を求め折衝を重ねたが受諾されず、結局、7月13日(6月9日)、浦賀の久
里浜村海岸で、浦賀奉行戸田氏栄と井戸弘道によってアメリカ大統領国書が受理された。その後、艦
隊は、小柴沖に投錨し、この地点をアメリカ錨地(American Anchorage)と命名、さらに測量を行
いつつ江戸から7マイルの品川沖まで侵入し、7月17日(6月12日)に、来春の再来を日本側に通達し
て江戸湾を去っていった。
それからおよそ半年後の1854年2月11日(嘉永7年1月14日)、ペリー艦隊が、日本開国への条
約締結のために、ふたたび江戸湾に現れた。その陣容は、蒸気船のポウハタン(Powhatan 旗艦
2415t、備砲9)、サスケハンナ(Susquehanna 2450t、備砲9)、ミシシッピ(Mississippi 1692t、
備砲12)、帆船スループのマセドニアン(Macedonian 1341t、備砲22)、ヴァンダリア(Vandalia
770t、備砲20)、そして、帆装補給艦のレキシントン(Lexington 691t、備砲6)、サウサンプトン
(Southampton 567t、備砲2)の7隻であった
6)
。一回目の遠征に比して軍備がより強大なものと
なっており、補給艦に燃料や食料を搭載して交渉の長期化にも備えていた。そして、艦隊は、前回
の浦賀沖よりさらに江戸に近い小柴沖すなわちアメリカ錨地に停泊していた。交渉地として、ペリー
は停泊地付近の海岸を、幕府はかつての応接場所で既に米使応接掛が赴いていた浦賀を主張した。こ
のため前回同様に会見場所の決定にまず時間を要することとなる。しかし、2月25日(1月28日)、ペ
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リーの江戸入府を危惧した幕府は、浦賀奉行支配組与力香山守左衛門をポウハタンに派遣して、アメ
リカ側で交渉に当たっていた司令官(Commander)アダムス(Henry A. Adams)に、「神奈川辺
にて宜敷地も有之哉之旨被申聞候由、左候ハヽ、同所辺に而適宜之地を選み、応接所を取設、応接も
可致、就而ハ右近傍横浜ハ如何に候哉」と当時寒村だった横浜村を候補地として提示した 7)。アメ
リカ側は、これを受け入れて、ただちに横浜に上陸し、村の北の駒端形の地に杭を打ち込んで応接地
の印とした。
3月4日(2月6日)、将軍への贈り物を搭載したサラトガ(Saratoga 882t、備砲22)が入港し、3月
8日(2月10日)に第1回の日米会議が横浜で開かれた。この後、交渉は難渋を極め、途中、帆装補給
艦のサプライ(Supply 547t、備砲4)が3月19日(2月21日)に到着、交渉は、3月31日(3月3日)に
至って漸く合意に達した 8)。この神奈川条約と一般にいわれる日米和親条約は全十二ヶ条よりなっ
ている。そして、下田への領事官派遣に関しては、そのうちの第十一ヶ条に記される 9)。
両国政府に於て無據儀有之候時は模樣により合衆国官吏之者下田に差置候儀も可有之尤約定調印
より十八ケ月後に無之候ては不及其儀候事
(日本國米利堅合衆國和親條約第十一条)
There shall be appointed by the Government of the United States, Consuls or Agents to reside
in Simoda at any time after the expiration of Eighteen months from the date of the signing of
this Treaty, provided that either of the two governments deem such arrangement necessary.
(Treaty between the United States of America and the Empire of Japan. Article Ⅺ)
この条項では、領事官派遣に関して、日本側とアメリカ側で解釈の相違が見られる。条約締結18ヶ
月後、両国政府が必要と認めた場合、下田に合衆国官吏を置くとする日本側に対し、アメリカ側は、
日米両国政府のどちらか一方が必要と認めた場合、下田居住の領事または代理官を任命することがで
きるとする。
1853年5月4日(嘉永6年3月27日)、ハリスは、かつて上海にあって、ペリー艦隊が、第1回日本遠
征への途次、その地に寄港したおり、同乗を願い出たが許可されなかった。そのハリスは、1855年8
月4日(安政2年6月22日)付のピアス大統領命令で、日本駐剳総領事に任命され、今、修好通商条約
締結のため、江戸参府途上、神奈川の地にあった。
ハリスは、休息する本陣の部屋から感慨を持って横浜方面を眺めた。しかし、ハリスは、そこに3
隻の洋式帆船と2隻のスクーナー船、さらに蒸気船1隻を認めて非常に驚くこととなる。
ハ 神奈川はペリー提督の談判の行われた場所なので、私にとって興味のある場所である。私はこ
の家から、ペリー提督の艦隊が碇泊した横浜の湾を見わたす。私は、神奈川と横浜との中間ぐら
いの所に、三隻の欧洲型の、しかもその式の装備をもった船が、二隻のスクーナー船と共にある
のを見て、大いに驚いた。これらの船は、日本政府が海軍を創建するためにオランダから購入し
たものである。神奈川から北東にあたって、オランダ人から日本人に贈られた蒸気船を見た。
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ハリスと東海道(三)―ヒュースケン日記とともに―
Ha This is an interesting spot to me as it was the scene of Commodore Perry's negotiations.
From my house I look across the bay to Yokohama, the place where his fleet was anchored.
I was much surprised by the sight of three ships of European build and rig, which with two
schooners were lying about midway between Kanagawa and Yokohama. These ships have
been purchased from the Dutch by the Japanese, as the beginning of a navy. To the northeast
from Kanagawa I saw the steamer which the Dutch presented to the Japanese.
洋式船
品川宿年寄忠次郎は、藤沢から神奈川までのハリスとヒュースケンの道中の様子を「上官は始終乗
物の内にて目鏡をかけ、書見いたし、如何にも落つき居り候體に相見え、ヒウスケンは、日々馬乗
にて、時々早乗いたし云々」と記している 10)。終始駕籠に乗っていたハリスと違い乗馬で移動して
いたヒュースケンは、街道からはじめて目にする江戸湾の様子を隈無く見ていた。そのヒュースケン
は、江戸湾に浮かぶ洋式帆船について、ハリスがオランダから購入したものとするのに対し、2年前
に薩摩と水戸で建造されたものとする。持ち前の人懐こい性格を発揮して、即座に随行の幕府官吏か
ら情報を得たものであろう。
ヒ 神奈川を通過する。これは入江の岸に沿ってつづくひどく細長い町で、その入江の口は江戸
湾の奥に向かって開いている。そこに二隻のコルヴェット艦と、スクーナーが一隻いた。コル
ヴェット艦は二年前に薩摩と水戸で建造されたということである。蒸気船や快速大型帆船が開発
された今世紀においては、やや古い型に倣ったものである。さらに行くと第三のコルヴェット艦
が見え、品川の手前で沖合に外輪式コルヴェット艦スンビン号―現在カンコウマル〔観光丸〕
と呼ばれている―が見えた。これはオランダ政府が日本政府に贈ったものである。
He We pass through Kanagawa, a town consisting of an extremely long street built along a bay
which opens into the inner bay of Edo. There I see two corvettes and a schooner, the first two,
it is said, were built at Satsuma and Mito two years ago. They were constructed from rather
old-fashioned models in this enlightened century of steamships and clippers. A little farther on
I discover a third corvette, and in the distance before Shinagawa, the paddle-wheel corvette,
the Soembing, now called the Kanko Maru, given by the government of the Netherlands to
the Japanese government.
幕府は、寛永12年6月21日(1635.8.3)、3代将軍家光のときに制定された「武家諸法度」第17条の
「五百石以上之船停止之事」に基づき、俗に千石船といわれる国内商船を除いて500石以上の船の
建造を長きにわたって禁止してきた 11)。この法度の主な目的は、西国大名の水軍抑止にあった。し
かし、ペリー来航以後の情勢は、これまでの状況を一変させ、幕府は、諸外国に対する海防策とし
て大船建造の必要性に迫られる。幕府は、安政の改革の一環として、嘉永7年7月3日(1854.7.27)、
攘夷のための大型洋式船の建造を提言していた水戸藩主徳川齊昭を、海防事務参与として任命。そ
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して、同年9月15日(11.5)、老中阿部正弘の決断によって、諸藩に対して大船建造の解禁を布達
し海防の強化を命じる。また、9月21日(11.11)には、長崎奉行水野忠徳が、オランダ船スンピン
(Soembing)の艦長ファビウス(Gerhardes Fabius)の「幕府海軍創設意見書」を基に作成した軍
艦購入、幕府海軍の創設、海軍伝習所の設立に関する意見書を採択して、オランダにコルベット2隻
(後の咸臨丸と朝陽丸)の建造を依頼、翌安政2年10月22日(1855.12.1)には、海軍伝習所の開所式
を迎える。
しかし、この解禁令以前に、幕府や雄藩は、蘭書の翻訳、外国船の観察などをもとにして、独自の
洋式帆船の建造に着手していた 12)。
幕府の鳳凰丸は、嘉永6年9月19日(1853.10.22)に浦賀造船所で起工され、嘉永7年5月10日
(1854.6.6)に竣工した。3本マストのバーク型帆船で、排水量600トン、全長120尺(36.4m)、全幅
30尺(9.1m)、兵装は大砲10門であった。
鳳凰丸起工以前の嘉永5年12月27日(1853.2.5)に、薩摩藩主島津斉彬は、琉球王国の防衛を名目
に琉大砲船(洋式軍艦)の建造願いを出していた。嘉永6年4月29日(1853.6.5)に建造許可がおり、
同年5月29日(7.5)に、桜島瀬戸村造船所において起工、竣工は、19ヶ月後の安政元年12月12日
(1855.1.29)で、鳳凰丸に次いで2番目の洋式軍艦であった。艦種は、3本マストバーク型帆船で、排
水量370トン、全長17間(31m)、全幅4間(7.3m)、兵装は大砲10門。安政2年1月26日(1855.3.14)
に、昇平丸と命名され、江戸に回航して、同年8月13日(9.23)に幕府に献上された。
また、嘉永6年11月12日(1853.12.12)に、幕府から水戸藩に洋式船の建造命令がくだされ、翌嘉
永7年1月2日(1854.1.30)に石川島造船所で起工、約2年半後の安政3年5月(1856.6)頃に竣工、旭
日丸と命名されて幕府に献上された。3本マストのシップ型帆船で、排水量は750トン、全長23間1尺
(42.3m)、全幅5間2尺(9.7m)、兵装は大砲24門で、当時の日本においては最大級の軍艦であっ
た。
ハリスが鈴木本陣から見た三隻の洋式船は、鳳凰丸、昇平丸、旭日丸であったと考えられる。おそ
らく、幕府の示威行為として、ハリスの神奈川宿到着に合わせて神奈川沖に停泊されていたのであろ
う。しかし、ヒュースケンの記すように、世界の軍艦の主流は蒸気船となっており、純粋な帆船は時
代遅れのものとなっていた。そのようななかで、品川よりには一隻の蒸気船が停泊していた。この船
は、ヒュースケンが記すように、旧名スームビング号(Soembing)、安政2年(1855)に、オランダ
国王ウィレム3世(Willem Alexander Paul Frederik Lodewijk)から13代将軍家定に贈呈され、安政
3年(1856)に「観光丸」と改名されて、幕府の長崎海軍伝習所練習艦として使用されていた。排水
量353トン、全長29間(52.7m)、全幅5間(9m)、3本マスト150馬力蒸気エンジン、兵装は大砲6門
であった。
初代広重の「五十三次名所図会 四 神奈川台の茶屋海上見はらし」(竪絵東海道)は、ハリス
下田着任の前年にあたる安政2年(1855)に江戸の蔦屋吉蔵が版元となって刊行された。この浮世絵
は、台の茶屋から見える江戸湾の様子を俯瞰して描く。湾上には、数隻の弁財船が描かれるが、未だ
洋式船は一隻も描かれていない。下って安政5年(1858)初夏、つまりハリスと幕府の間で修好通商
条約が締結される頃に、同じ広重の「神奈川台石崎楼上十五景一望之図」が江戸金花堂より刊行され
る。この浮世絵には、弁財船に混じって洋式船が五隻描かれており、そのうちの二隻は外輪式の蒸気
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ハリスと東海道(三)―ヒュースケン日記とともに―
船となっている。わずか数年の違いで、神奈川沖という風景画のなかに洋式船が風物として登場し、
その後、定着していくことになる。
神奈川湊
江戸湾に面する神奈川宿は、神奈川町中の町の住人煙管亭喜荘が記した『金川砂子』(文政7年8月
成)に、「諸国大小の売船日々此津に湊して交易す」とあるように、諸国と交易を行う湊の所在地
としても栄えてきた 13)。神奈川湊は、本牧から出崎にかけての一里余りの入江の水深が深く、陸地
は、西北の側が山地となっていて波風を防ぐなど港としての立地条件に恵まれていた(『新編武蔵風
土記稿』巻70)。
南の方本牧の方より、神奈川の出崎までの間、なゝめにくり入たる如くなる入海なり。その間
舟路一里餘なり。宿内青木町の方、古よりの湊にて、諸国の船のかゝる所なり。これを神奈川湊
と呼ぶ。西北に山あれば風波のうれひなし。
ハリスは、繁栄する神奈川宿の地を実見し、東海道筋にあって江戸に最も近い良港を擁するこの地
を近い将来、海外貿易の拠点とすることを思い描いた。後日、ハリスと幕府との間で日米通商条約が
結ばれたときには、ハリスの主張によって、安政6年6月2日(1859.7.1)に神奈川を開港することが定
められることとなる。しかし、条約締結後、幕府の深謀遠慮によって実際には東海道から離れた寒村
の横浜が神奈川に代えて開港されることになろうとは、この時のハリスには未だ知るよしもなかっ
た。ハリスは、特別な感情を持って神奈川を去り、川崎へと向かった。
ハ 神奈川は繁栄する町の様相を呈している。ケンペルが記述した當時よりも、ずっと大きくなっ
ている。江戸に一番近い港であり、江戸が外国貿易のために開かれるときには、ひじょうに大切
な場所となるに相違ない。私は惜別の情をもって神奈川を去り、川崎へ向った。その土地で、私
は日曜日を過すであろう。
Ha Kanagawa has the air of a flourishing town and has much increased since Kaempfer
described it. It is the nearest harbor to Yedo, and must become a place of great importance
whenever Yedo shall be opened to foreign commerce. I left Kanagawa with regret and
pursued my road to Kawasaki, where I shall pass Sunday.
なお、ケンペルは、1691年3月12日の項に、神奈川について次のように記している 14)。宿内総戸数
は約600、これは、先に記した天保期の戸数に比して半分以下、入江は、潮が引くと泥沼のような海
底が見えるとする。しかし、神奈川が、湊として栄えていることについては触れられていない。
ケ およそ六〇〇の家々が立並ぶこの土地の町筋は、半里も長く続いていた。この町は神奈川とい
う名が付いているが、どこにも川はない。町はずれの山や長く続く丘の麓にたくさんの穴が作ら
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東京成徳大学研究紀要 ―人文学部・応用心理学部― 第 22 号(2015)
れていて、住民は貯えた水をこの中から飲料として汲むのである。この水は大へんすき通っては
いるが、やや塩辛かった。近くにある入江では、潮がいちばん引いた時には、泥ぶかい沼のよう
な海底が見えた。
Kae This town consisted of one street of about 600 houses, and was near half a mile long. Tho'
it hath the name of a river, yet there is none runs thro' it. The Inhabitants have all their
drinking-water from some wells dug at the foot of a mountain or rather long hill at the end of
the town. It is clear, but tastes somewhat brackish. The coasts hereabouts appear at low-water
to be a soft muddy clay.
Ⅱ 川崎宿
庶民の様相
先払いが、ハリス一行を先導する村役人の前に立って、二三歩ごとに錫杖を鳴らしながら東海道を
進む。川崎に近づくにつれ、見物人の数が増してくる。その人たちは、健康そうで身なりもよく、一
見したところでは、貧富の差がなく幸福そうに見える。1848年1月26日、ハリスが、45歳のとき、兄
弟で経営していたニューヨークの陶器店が倒産する。その後の約6年間、ハリスは、貿易商としてマ
レー群島、蘭領東インド、オーストラリア、フィリピン、中国、英領植民地、ジャワ、ビルマ、イン
ド、シャム、ボルネオなどを活躍の場とした。ハリスは、そこで、各国の世態人情、政治経済、また
文化などをつぶさに観察した 15)。そんなハリスにとって、今、欧米諸国をも含めてどの国よりも幸
福に感じられるこの国を開国することの是非が、時として脳裏を掠めるのであった。
ハ 見物人の数が増してきた。彼らは皆よく肥え、身なりもよく、幸福そうである。一見したとこ
ろ、富者も貧者もない―これが恐らく人民の本当の幸福の姿というものだろう。私は時とし
て、日本を開国して外国の影響をうけさせることが、果してこの人々の普遍的な幸福を増進する
所以であるか、どうか、疑わしくなる。私は、質素と正直の黄金時代を、いずれの他の国におけ
るよりも、より多く日本において見出す。生命と財産の安全、全般の人々の質素と満足とは、現
在の日本の顕著な姿であるように思われる。
Ha The number of people seen increases. They are all fat, well clad and happy looking, but
there is an equal absence of any appearance of wealth or of poverty, ― a state of things
that may perhaps constitute the real happiness of a people. I sometimes doubt whether the
opening of Japan to foreign influences will promote the general happiness of this people. It
is more like the golden age of simplicity and honesty than I have ever seen in any other
country. Security for person and property, universal frugality and contentment seem to be the
apparent condition of Japan at present.
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ハリスと東海道(三)―ヒュースケン日記とともに―
田中本陣
神奈川宿から川崎宿までは、2里半(約2.7km)、川崎宿は、京の口から江戸側へかけて小土呂、
砂子、新宿、久根崎の四町で構成されていた。『新編武蔵風土記稿』(天保12年・1841・成)巻72
によれば、南の市場村から北の八幡塚村までの往還は、24町36間(2.68km)、その間、家並みが続
くのは、14町24間(1.57km)、並木道509間(925m)、道幅は、3間半(6.4m)から5間(9.1m)で
あった。江戸方向のはずれは、幅105間(191m)の多摩川で、六郷の船渡しとなっていた。
また、『東海道宿村大概帳』によれば、天保14年(1843)の宿内人別は、2433人で、宿内総家数
は、641軒であった。本陣は、新宿町の下本陣田中兵庫家(建坪約231坪)と砂子町の上本陣佐藤
惣左衛門家(建坪約181坪)の二軒があり、脇本陣はなく、旅籠屋は72軒あった。なお、文久3年9
月(1863.10)の「川崎宿書上帳」によれば、旅籠72軒のうちわけは、宿泊を専らとする平旅籠39
軒(中旅籠17軒、小旅籠22軒)、飯盛女を置く飯売旅籠33軒(中旅籠10軒、小旅籠23軒)であっ
た 16)。
ハリス一行は、川崎宿に、午後4時半に到着した。しかし、今夜宿泊所として用意されていた田中
本陣の状態は、ハリスがこれまで見てきた日本家屋と相違して非常に汚く不潔で、実に不愉快なもの
であった。
ハ 午後四時半に川崎に到着した。私を迎えるために用意されていた本陣が、ひどく荒れはててい
るのを知った。戸や窓はしまらず、紙がぼろぼろに破れているので、風が自由に部屋へふきこ
み、汚らしい不潔さが全体にみなぎっていた。これは、私が日本でこれまでに見てきた汚い家屋
の最初の例であった。そして、私が日曜日をここで過そうと考えていただけ、一層ひどく私には
感じられたのである。その家の状態は、一つの重大な問題となった。やがて、私は決心した。本
陣に泊ろうと考えるかぎり、この場所の実際の不愉快さから遁れることができないので、この土
地で発見することができるなら、もっとよい宿へ泊ることにしようと。そこで、副奉行が色々と
むつかしい諌言をするのもかまわず、ヒュースケン君はこの土地の旅館を物色するため飛びだし
ていった。
Ha Reached Kawasaki at half-past four P. M. The honjin prepared for my reception I found
to be in a sadly dilapidated condition. Doors and windows would not close, the paper in
many places broken, so that the wind played freely through the rooms, while an air of dirty
slovenliness reigned over the whole. This was the first instance of a dirty house I had ever
seen in Japan, and it struck me all the more forcibly as I was to pass Sunday here; the
condition of the house became a serious matter, and I soon determined to have better lodgings
if they could be found in the place, as the idea of lodging in a honjin would not protect me
from the actual discomfort of the place; so, after much grave remonstrance on the part of the
Vice-Governor, Mr. Heusken sallied out to look at the hotels of the place.
川崎宿設立当初は、砂子町の妙遠寺が公用旅行者の休泊所となっていた。その後、寛永5年
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東京成徳大学研究紀要 ―人文学部・応用心理学部― 第 22 号(2015)
(1628)に、田中家が仮本陣となり、同12年に正式の本陣となる。同本陣は、その後慶安の震災をう
け、また、たびたび罹災してきた 17)。
この田中本陣の当主のひとりに川崎宿財政の建て直しや酒匂川の治水などで知られる田中休愚がい
る。休愚は、宝永元年(1704)に養子の身から家督を継ぎ田中本陣の当主となった。休愚は、その著
『民間省要』(享保6年・1721・自序)のなかで、本陣の現状を八ヶ条にわたって記している。その
五ヶ条冒頭には、本陣の衰退への言及がある。
それによると、金銀の価値が下がるなかで、宿泊客からの賜物は段々と減っていき、加えて倹約の
ため諸大名一行の総人数も減っている。また、諸物価高騰のため諸家の休泊に要する本陣の費用も多
い。本陣として選ばれることは、名誉なこととされてきた(苗字帯刀、門や玄関、上段の間を設ける
ことができるなどの特権が認められた)。しかし、現状では、(費用に相当する休憩料や宿泊料が払
われない)本陣という制度は不要だと言わざるをえない。本陣の多くは、代々所持してきた田畑山林
を売り払って半潰れとなったり、家もろとも名跡を他人に譲るなどしている 18)。
五ツにハ時移り世変して金銀ハ独り位を下り、諸侯大夫、行旅宿々の賜ハ段々と減シ、年々に
倹約の号として被召連人数も減シ、諸色ハ高直にして右に述かことく宿々追日衰といへど、世の
奢につれて諸家の休泊に本陣の物入ハ多く成、相続すへきいはれなし。夫宿々の本亭ハ古しへよ
り其所の長として禄も重く、其筋目も選れて立来りしに、いつしか世変し、人間渡世の内ニ扨も
宿々の本陣宿程無益成物、今ハなし。次第に衰へ、代々所持し来ルの田地・山林等も売々て、半
潰にして居ルも有、或ハ家共に名代を他に譲りて退もあり、漸今に相続して無恙分ハ稀成。
下って、文政7年8月(1824.9)、代官中村八太夫は、支配する品川宿・川崎宿・神奈川宿・保土ヶ
谷宿・戸塚宿・藤沢宿の六ヶ宿の諸本陣のいずれもが困窮するなかにあって、とりわけ品川と川崎の
本陣の困窮の度合いが高いと報告している。そして、衰微の原因として、三十年ほど以前から大名の
倹約の結果、旅籠代や手当が減少したこと、品川・川崎ともに江戸に近いため休憩のみで宿泊のない
こと、また、品川には釜屋、川崎には後述する万年屋という茶屋が、本陣のように家作を補修拡張
し、本来本陣を利用すべき大名諸家も両家に休泊するためと指摘している 19)。
私支配所東海道品川宿・川崎宿・神奈川宿・保土ヶ谷宿・戸塚宿・藤沢宿、〆六ヶ宿之儀、何
れも困窮宿之内、就中品川・川崎両宿本陣共別而困窮ニ而(中略)依之先達而私右最寄廻村之節
本陣困窮之次第相糺候処、三拾ヶ年程以前より諸家追々倹約故、旅籠銭其外手当も減少仕候処、
品川・川崎とも江戸近之宿方故、一躰泊も無数、先ツは休重ニ候処、品川宿之方は町奉行支配品
川寺門前ニ屋号釜屋と唱茶屋、本陣同様ニ家作補理、川崎宿は宿入口ニ万年屋と屋号相唱候茶
屋、追々家作も手広ニ補理候故、近年往来之旅人之外諸家昼休ニ相成、本陣等え可休分も追々減
少仕。
上段の間
ハリスは、これまでの東海道中において、三島宿、箱根宿、小田原宿、大磯宿、藤沢宿、神奈川宿
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ハリスと東海道(三)―ヒュースケン日記とともに―
では、すべて本陣で宿泊、あるいは、休憩を取ってきた。そして、それらの本陣の状態をおおむね快
適であると記している。しかし、川崎の田中本陣は、荒れ果てており、ハリスは、安息日である日曜
をこの本陣で過ごすことを拒否する。
ヒュースケンは、ことの次第を次のように記している。
ヒ 夕刻川崎に着く。ハリス氏が安息日に旅行することを欲しないので、明日はここで泊まること
になっていた。ところが宿につくと、ハリス氏はそこに泊まることに反対しはじめた。街道筋の
旅宿はホンジン〔本陣〕と呼ばれ、建物には必ず車で通り抜けられる門をはじめ、大名風の拵え
があって、身分のある人だけに使用される。
自分の資金で本陣を建てる者には、政府が指定を与え、その施設を維持する権利は世襲で父か
ら子に譲られる。身分の高い人はそこに宿泊せざるをえないから、持ち主は貴族の上客を保証さ
れているのであるが、それにもかかわらず建物の手入れを怠っていることが多い。それで大衆向
きの旅館のほうが状態のよい場合がある。川崎の本陣〔田中兵庫〕はひどい状態であった。
He In the evening we arrive at Kawasaki, where we will stay tomorrow to pass the Sabbath
since Mr. Harris does not want to travel on that day. Once at the hotel, Mr. Harris objects to
staying there. The hotels on the highway are called Honjin. The establishments are invariably
provided with a carriage gateway and other daimyoesque attributes which are opened for
only persons of quality.
The government gives an appointment to whoever will build the Honjin with his money,
and the right of keeping such an establishment is hereditary and passes from father to son.
Since persons of quality are obliged to go there, it sometimes happens that the owners of
these establishments, being assured of their aristocratic clientele, neglect to keep them in good
condition, so that the public hotels in many instances are better maintained. We found the
Honjin of Kawasaki in a deplorable condition.
ハリスが、田中本陣での宿泊を拒んだ理由が今ひとつある。本陣では、ハリスは、貴人として本陣
の上段の間で過ごさなければならない。上段の間は、床が框の高さだけ他の部屋より高くなってお
り、床の間、違い棚、付け書院が設けられていた。そして、上段の間は、本陣の奥まった所に位置
し、奥庭に面しているものの完全に街道筋からは隔絶されていた。これまでの道中で、ハリスは、ア
メリカ政府要人としての扱いを受け、階級差が明確となる本陣での宿泊を満喫してきた。しかし、ハ
リスは、最後の宿泊地川崎において、貴賓室を抜け出して、一般人の宿泊所に身を置くこと、また、
そこから街の様子を観察することを希求した。
ヒュースケンは、幕府体制下での貴人の置かれた位置について、おそらく当時の欧米諸国との比較
を踏まえて、ユーモアたっぷりに次のように記した。
ヒ 他の部屋より六インチも床が高くなっていて、大名・小名たちだけが高貴な寝息をとり交わし
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東京成徳大学研究紀要 ―人文学部・応用心理学部― 第 22 号(2015)
た部屋で夜を過ごすのは明らかな名誉であるのに、ハリス氏は羽目板の隙間から十一月の夜の冷
気が流れこまず、また皇帝の紋章のついた衝立や幔幕などよりもましなものがその隙間からのぞ
き見できる家で休むことを望んだ。というのは日本では、えらい人ほど隔離され、身動きせず、
物を言わないので、衝立や幔幕は陽の光や空の青さ、そのほかしもじもの賎しいものを大名の目
に触れさせないために置かれているのである。
思うに、この帝国の貴人にとって最大の名誉は、昔、誓いを破った尼僧がなされたように、生
きながら龕の中に塗りこめられることなのであろう。御霊よやすかれ!
He Despite the conspicuous honor of spending a night in a room, the floor of which is six inches
above the floor of the others, where only Daimyo and Shomyo have exchanged their august
breath, Mr. Harris prefers to sleep in a house where the cracks in the wainscoting do not let
in the cold air of a November night and from where the eyes can rest on more interesting
things than partitions and draperies decorated with the Imperial colors which protect the
Daimyo from the rays of the sun, the azure blue of the sky, and other common and vulgar
things, because in Japan, the greater a man is, the more secluded he is, the less he moves, and
the less he speaks.
I believe that the greatest honor that can be paid a dignitary of this Empire would be to
wall him up alive in a niche, as was done in other times to the nun who was unfaithful to her
vows. Vade in pace!
Ⅲ 宿泊所
宿替え
江戸入府を直前に控え、ハリスの宿替えの要求に、道中責任者の若菜三男三郎はまた頭を痛めるこ
ととなる。若菜は、ハリスが、この旅行において、大君の命によって日本で最も高い身分の者と同等
の特権を受けることになっており、宿泊場所は、それにふさわしく一段高い床の設けられた本陣以外
は許されないと諫言した。
ハ 私が万年屋へ行ってはならぬ他の理由として副奉行が述べたことの中には、ひじょうに重大な
事柄があった。それは、どこの本陣でも、私の入る部屋の床は他の部屋よりも約三吋高くなって
いるということだ。余人と同じ高さの床の上に私をおくことは、私に払うべき尊敬を減少するこ
とになる。それに、大君から最もつよい命令が出ており、それによれば私は日本で最も身分の高
い人達にあたえられる名誉のあらゆる特色を旅行中にうけることになっている。そんなわけで、
私は常に最も良質の畳のしかれている、そして特別の型の梁などで縁どってある高い床のある本
陣に泊まることになっているというのだ。
Ha Among other reasons advanced by the Governor why I ought not to go to the Mannenya
108
ハリスと東海道(三)―ヒュースケン日記とともに―
was the very grave fact that at all the honjins the floor of the room occupied by me was
raised some three inches higher than the other rooms; that to place me on a floor of the same
level as the others was to derogate from the respect due to me; that the most positive orders
had been issued by the Tykoon that I should receive all the marks of honor in my journey
that were bestowed on persons of the most exalted rank in Japan, and for that reason I had
always been lodged in honjins on a raised floor which was covered with mats of the finest
quality, and bordered with a binding of a particular pattern, etc., etc.
若菜の説得に対して、ハリスは、川崎では、本陣ではなく一般の旅籠に泊まるという主張を曲げな
かった。そして、ハリスは、これまでの本陣での宿泊で、自分は、上段の間に居ながらも、その床よ
りはるかに高い椅子に腰掛けていた、そのことを忘れていないなら、床の高低差がない本陣以外でも
決してアメリカ公使としての名誉は損なわれることはない、と若菜に告げた。この公使の言としては
正当性に欠けるものの、ユーモアを感じさせる反論によって、3時間あまりにもおよんだひと悶着は
ようやく落着する。
ハ 私は彼に答えた。貴君の言はまことに真実であり、極めてもっともなことではあるが、貴君
は、私が本陣の恵まれた床よりもずっと私を高くしているところの椅子にかけているという事実
を忘れている。それに、「畳と梁」のことは、私は外国人のことゆえ、川崎に滞在中はそれらを
考慮してもらわなくても結構であると。そんなわけで、事件は三時間ばかりを費したのちに落着
した。
Ha I answered him that what he said was no doubt very true and very proper, but he had
forgotten that I sat on chairs that raised me much higher than even the favored floor of
the honjin, and that, as to the "mats and binding," my being a foreigner would allow me to
dispense with those considerations while I was at Kawasaki, and so that matter ended after
consuming nearly three hours.
なお、川崎宿でのこの出来事を、「亜墨利加人渡来一件」では、次のように記している 20)。
川崎本陣兵庫方著之所、座敷向惣体見苦候 、俄に宿替、以之外及混雑、同宿万年屋半七方え
繰替相成
万年屋
藤沢宿においても使節の要求による遊行寺参詣という突然の旅程変更があった。しかし、宿替え、
それも本陣以外の一般宿にハリスが宿泊することとなって、役人たちは急遽、使節にふさわしい宿を
探した。そして、その候補となったのが、万年屋である 21)。
万年屋は、明和年間(1764~72)、13文均一という安価で旅人に食事を出す一膳飯屋であったとい
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東京成徳大学研究紀要 ―人文学部・応用心理学部― 第 22 号(2015)
われている。しかし、その後の庶民の旅への関心の高まり、就中、川崎大師参詣者の増加によって、
川崎宿内第一の茶屋に発展し、宿泊所としての施設も整えていく。
その繁栄の様子は、東海道の名所を絵画化して案内することを主眼とした『東海道名所図会』(秋
里籬島著、北尾政美・竹原春泉斎他画、寛政9年・1797・刊)に「河崎万年屋・奈良茶飯」として挿絵
に見え、『東海道中膝栗毛』(十返舎一九、享和2年・1802・刊)では、弥次郎兵衛と喜多八のふた
りが、この万年屋で食事を取っている。
万年屋の当主は、代々「半七」を名乗ったが、天保14年(1843)の「宿方明細帳」には、30石以上
所持百姓7名の筆頭に「158石2斗8合半七」とその名が見えている 22)。そして、文久3年(1863)2月
の「将軍上洛に付宿並書上」(森家文書、川崎市市民ミュージアム蔵)によれば、多摩川河畔に近い
江戸口から二軒目に店舗を構え、ともに二階屋の表屋敷と別屋敷の2棟があった。表屋敷1階は間口11
間半(約20.9m)、奥行12間(約21.8m)、坪数123、畳数91。同2階は20坪38畳。別屋敷1階は間口5
間半(約10m)、坪数24、畳数27畳半。同2階は坪数24、畳数36。
先述したように、万年屋が、文政年間に、家屋を補修拡張して、本来本陣を利用すべき大名諸家ま
でもが休泊していたことが知られるが、文久年間の記録からみると、その規模は、当時の旅籠や茶屋
のなかで最大ともいえるものであった。文久年間の川崎宿には、旅籠が72軒あり、そのうち平旅籠が
39軒あったことを前述したが、代表的な旅籠といえば万年屋であった。
川崎宿でのハリス一行の様子を記録した「諏訪氏雑記」によれば、役人は、ハリスに、万年屋を宿
の第一候補として推薦し、これを受けてヒュースケンが下見に出かけ、見分の結果、宿泊が本決まり
となる 23)。東海道中における最後の宿泊地川崎において、まさに歴史の綾が、ハリスの一般宿に宿
泊したいという希望を叶えることとなった。
十月十二日夕七ッ時過、本陣兵庫方え入候處、坐敷向見苦敷候間、宿替致候様、夷人申ニ付、
半七方可然旨申立候處、通辯方見届ニ罷越、見分之上、半七方え泊ニ相成
ハリスは、ヒュースケンの報告を聞き、万年屋に宿泊することを即決する。若菜は、役柄上、ハ
リスに、一般宿に泊まることを思い止まるよう最後の懇願をする。幕府がハリス出府のために定め
た「出府道中心得方大意」全9条のうちには、「休泊の儀は、役人手当に任すべきこと」の1条があ
り 24)、この覚書のオランダ語訳が、出府前のハリスに交付されていた。道中責任者の若菜自身が、
本心では荒れ果てて不潔な本陣での宿泊を望んでいないことを察したハリスは、決して迷惑をかけな
いことを条件に、若菜の裁量を待った。
ハ 彼はやがて戻ってきて、一軒のよさそうな家を発見したこと。それは場所もよく、きれいで、
清潔で、感じのよい家だといった。私は直ちにそこへ泊ることにきめた。副奉行は、庶民の泊る
旅館へは行かないでもらいたいと、私に懇願した。しかし、私がそれを望むよりも、むしろ彼の
方が自分の宿舎をすてて、彼自身その旅館へ行きたかったであろう。私は彼に、貴君に面倒をか
けるようなことはしない。私の威厳に関しては、それは私自身に関する事柄だから、十分にそれ
を注意するつもりであるといった。
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ハリスと東海道(三)―ヒュースケン日記とともに―
Ha He soon returned with word that he had found a house pleasantly situated and that it was
neat, clean and comfortable. I decided at once to accept it. The Vice-Governor implored me not
to think of going to a tavern, but, rather than I should do so, he would give up his quarters
and go to the tavern himself. I told him I could not think of disturbing him; and, as to my
dignity, that was my affair, and I would take good care of it.
前出「諏訪氏雑記」によれば、最終的に、ハリスとヒュースケンは万年屋に、若菜は本陣田中兵庫
に、脇屋は旅籠小松屋に、菊名は旅籠会津屋に宿泊する。小松屋、会津屋ともに万年屋に次いで繁昌
した旅籠であり、ひとり若菜のみが、下田奉行支配組頭という役柄からその責めを塞ぐかたちとなっ
た。
一、使節 通弁官 両人 万年屋 半七
一、下田奉行支配組頭 若菜三男三郎 田中兵庫 一、同調役 脇屋卯三郎 小松屋 甚蔵
一、同調役並 菊名仙之丞 会津屋 五兵衛
一、同調役下役元締 高橋渡世平 同上
此外合原猪三郎等廿六人宿割略ス
Ⅳ 旅籠
快適な宿
ハリスとヒュースケンは、万年屋に導かれた。それは、ふたりにとって、はじめて経験する東海
道での庶民宿(ハリスはa tavern、ヒュースケンはa lodgingと記す)であった。ふたりの宿泊用とし
て、万年屋の別棟の1階の2部屋が用意された。そのおそらく一般庶民用としてではない特別な部屋
が、明るく清潔で快適であったことはもちろん、なにより本陣の閉塞された上段の間と違うのは、街
の周辺が見渡せるということであった。そして、ヒュースケンにとっては、その部屋から見える水田
を歩き回る鸛という平和に満ちた風景が、なにより印象に残った。
ハ そこで私は、万年屋、すなわち「万年の幸福」というその旅館へいったが、宿を変えて非常に
よかった。なぜならば、暗くて、汚くて、不愉快な本陣の代りに、明るく、清潔で、氣持のよい
家に入ることができたからである。
Ha So to the hotel Mannenya, or "the felicity of ten thousand years," I went, and a very good
change it was, for I had a bright, clean and comfortable house in place of the dark, dirty and
uncomfortable honjin.
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東京成徳大学研究紀要 ―人文学部・応用心理学部― 第 22 号(2015)
ヒ 彼らは急いで他の宿を用意した。それは母屋(公衆旅館)から離れた、小さな白い別棟で、一
階にある二室から町の周辺と、鸛がのどかに歩きまわっている水田が見渡せる。この宿屋は万年
屋といって、名前は古めかしいがなかなか快適である。
He They hastened to procure us another lodging. It was a little white pavilion, detached from
the main house (a public tavern), with two apartments on the first floor overlooking the
environs of the town and the rice fields where the storks were strolling peacefully. This
establishment is called the Mannenya [House of Ten Thousand Years], but despite this
antediluvian name it is rather comfortable.
前出「諏訪氏雑記」には、二人は万年屋に滞在中、別棟の二階に上がり、望遠鏡で四方を見渡し、
その様子をスケッチしたと記されている。
一、万年屋半七方滞留中、二階より、望遠鏡を以、諸方見分、直絵ニ認候
西洋式料理
ハリスとヒュースケンは、料理屋としても有名な万年屋に宿泊したが、夕食には西洋式料理を楽し
んだ。調理をしたのは、この道中での食事のために、下田でハリスに西洋料理法の手ほどきを受け
た村山滝蔵であったかと思われる。1837年の創業で、ニューヨークマンハッタン(2 South William
Street)にあり、ショート・ロイン(Short loin、仔牛の背中肉)を焼いたデルモニコ・ステー
キ 25)(Delmonico steak)の発祥地とされるデルモニコ・レストランの料理にはもちろん及ばないも
のの、その料理は、ハリスを充分満足させるものであった。
ハリス日記1856.9.15の項には、下田奉行調役脇屋卯三郎が人選した15歳の助蔵をヒュースケンの下
僕に、16歳の滝蔵をハリスの下僕としたことが記されている。下田での生活においては香港で雇い入
れた支那人コックのアセンが料理を担当していた 26)。しかし、ハリス日記1857.9.28の項には、江戸
参府へ、日本人の家僕2名のみを同行させ、支那人は帯同させないと記している。村山滝蔵について
は、明治末年当時、大連に渡っていたということ以外知り得ないが 27)、この時、ハリスに同行した
もうひとりの日本人下僕西山助蔵については、助蔵70歳のときの聞書が「ハリス従者追懐譚」として
残されている 28)。
なお、この時用意された食材の費用は、この旅行中の宿泊費、また、護衛者、駕籠舁、馬丁などの
給金とともにハリス持ちであった。
ハ 私の料理人は私に、ひじょうに美味しい小鴨と、うまい鶉を私の夕食に供してくれた。私はこ
の男(日本人の料理人)に、私が下田を出発する前の五週間ばかりの間、西洋式の料理をおし
えていた。彼の料理はデルモニコの料理には劣るが、日本料理よりは私の味覚に大いにましであ
る。
私は私の食物と宿泊に対して、私の旅行中は支払をする(私の護衛者、駕籠舁、馬丁などの給
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ハリスと東海道(三)―ヒュースケン日記とともに―
金をも)。幕府は、私の荷物などを運ぶために雇った人夫の全部に給与する。江戸へ到着のあか
つきは、私は大君の賓客としての待遇をうけ、私の宿所と食事は大君によって給せられるであろ
うとつげられている
Ha My cook served me up some very delicate teal and delicious quail for my dinner. I had this
man (who is a Japanese cook) instructed in the Western manner of cooking for some five
weeks before I left Shimoda. His cookery is inferior to Delmonico's, but much more to my taste
than the Japanese cuisine.
I pay for my food and lodgings (and for the hire of my guards and bearers, grooms, etc.,
etc. )while on my journey. The Government furnishes all the coolies that are employed
to transport my luggage, etc., etc. I am informed that on my arrival at Yedo I am to be
considered as the guest of the Tykoon, and that my lodgings and table will be furnished by
him.
ハリスは、この日の夕食の特筆すべきものとして、小鴨と鶉の鳥肉料理をその日記にあげている。
しかし、「諏訪氏雑記」によれば、これらは、ハリスの特に口に合うものとして、鷸、牡蠣、蜜柑、
葡萄、蕪、大根などとともに12日夜に急遽買い揃えられた。下田奉行付の宿割役人簗瀬大一郎と木村
為次郎は、ハリスが川崎に到着する前日の11日夜、川崎宿年寄五郎冶と問屋藤右衛門に、猪、豚、鶏
などの肉類や鰈、小鯛、鱚などの魚、さらに柿、梨、銀杏といった果物を吟味精選のうえ用意するよ
う申しつけていた。これらは、先述した「出府道中心得方大意」全9条のうちの「食事の儀は、その
宿駅有り合せ次第、鶏卵魚類等をもつて賄ひ候こと」に従って用意されたものである。しかし、これ
らの食材は、ハリスは言及していないものの、幕府側の、ハリスの下田での食生活を調査した上で周
到に準備されたものであった。
丁巳十月十一日夜、下田奉行附宿割役人より、左之通受書申付、
差上申御受書之事
一、猪肉 貳斤程
一、鶏卵 四十
一、豕 四斤程
一、鶏 貳羽但、雌雄極若キ方
一、鶩 二羽
一、小魚類 鰈 小鯛 鱚 海老 糸より
一、鉢屋柿 十
一、梨子 十
一、銀杏 一升
一、上白米 三升
一、胡麻油 一升
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東京成徳大学研究紀要 ―人文学部・応用心理学部― 第 22 号(2015)
右は此度亜墨利加使節参府ニ付、明十二日十三日、此所止宿ニ相成候ニ付、為食料書面之通、
品々用意可仕旨被仰付、承知奉畏候、何れも品合吟味精撰之上、悉用意仕、聊御差支無之様可仕
奉存候、依之御受書差上申處、仍如件、
東海道川崎宿
安政四巳十月十一日 年寄 五郎治
問屋 藤右衛門
簗瀬大一郎様
木村為次郎様
右之通受書差出候處、右之外鶉鷸小鴨牡蠣蜜柑葡萄蕪大根等相好候由ニ而、急々十二日夜買求候
事
ハリスとヒュースケンは、江戸出府における最終宿泊地である川崎において、民間の宿で一夜を明
かす。明くる11月29日は、「聖アンデレ(St.Andrew)の日(11.30)」に最も近い日であり、キリ
ストの降誕を待つクリスマスイブまでの約4週間、つまり降臨節(Advent)の第一日曜日にあたって
いた。
【注】
1)
『神奈川の東海道(上)』(神奈川東海道ルネッサンス推進協議会、神奈川新聞社、1999)参照。
2)訳文は、
『日本滞在記』(坂田精一訳、岩波文庫、1953)、原文は、Mario Emilio Cosenza, The Complete
Journal of Townsend Harris : First American Consul General and Minister to Japan, New York, Doubleday, Doran &
Company, 1930 による。以下同じ。
3)
『近世交通史料集』第 4 巻(児玉幸多校訂、吉川弘文館、1970)所収。
4)訳文は、
『ヒュースケン日本日記』(青木枝朗訳、岩波文庫、1989。初版は、1971 年に校倉書房より刊行)
、
原文は、Jeannette C. van der Corput and Robert A. Wilso, Japan Journal 1855-1861, Rutgers University Press, 1964
による。以下同じ。
5)各艦の要目については、『幕末の蒸気船物語』(元綱数道、成山堂書店、2004)参照。
6)注5に同じ。なお、
「渡来の異国船九艘名」
(『亜墨理駕船渡来日記』
)および「此度渡来セシ亜墨理駕船名」
(
『亜米利加船渡来日誌』)に、幕吏の観察した艦隊の要目が記されている(ともに武相叢書第 1 編『亜墨理
駕船渡来日記』石野瑛校訂、武相考古会、1929 所収)。
7)
「大師河原沖米艦日米対話書」(『大日本維新史料』2 編ノ 2、維新史料編纂事務局、1940、所収)
8)ペリーの二度の来航については以下の書を参照した。
①『日本開国史』(石井孝、吉川弘文館、1972)
②『開国』日本の歴史 23(芝原拓自、小学館、1975)
③『開国と幕末の動乱』日本の時代史 20(井上勲、吉川弘文館、2004)
④『幕末外交と開国』(加藤祐三、筑摩書房、2004)
⑤『開国への道』全集日本の歴史 12(平川新、小学館、2008)
⑥ Francis L. Hawks, D.D.,LL.D, Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China Seas and Japan:
performed in the years 1852, 1853, and 1854, under the command of Commodore M. C. Perry, United States Navy, by
order of the Government of the United States, Washington : Beverley Tucker, printer, 1856 日本語訳に『ペルリ提
督日本遠征記』上・下(土屋喬雄・玉城肇共訳、弘文荘、1935)および『ペリー艦隊日本遠征記』上・下(オ
フィス宮崎編訳、万来舎、2009)。ペリー監修、フランシス L. ホークス編著による公式記録。
⑦ S. Wells Williams, A Journal of the Perry Expedition to Japan (1853-1854), Kelly & Walsh, 1910 日本語訳に『ペ
リー日本遠征随行記』新異国叢書 1-8(洞富雄訳注、雄松堂出版、1970)
。艦隊の通訳官サミュエル・ウィ
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ハリスと東海道(三)―ヒュースケン日記とともに―
リアムズの記録。
⑧ Matthew Calbraith Perry, The Japan Expedition, 1852–1854; the personal journal of Commodore Matthew C. Perry.
Edited by Roger Pineau. With an introd. by Samuel Eliot Morison, Washington, DC: Smithsonian Institution Press,
1968 日本語訳に『ペリー日本遠征日記』新異国叢書 2-1(金井圓訳、雄松堂出版、1985)
。ロジャー・ピノ
オ編になるペリー本人の日記。
⑨ Spalding, J. Willett, The Japan expedition, Japan and around the world : an account of three visits to the Japanese
Empire : with sketches of Madeira, St. Helena, Cape of Good Hope, Mauritius, Ceylon, Singapore, China, and LooChoo, New York: Redfield, 1855 『スポルディング日本遠征記』新異国叢書 3-4(島田孝右訳、雄松堂出版、
2002)。ミシシッピ号に乗船した艦長付書記官の航海記。
9)本文(日文・英文)引用は、『締盟各国条約彙纂』
(外務省記録局、1884)による。
10)「亜墨利加人渡来一件」(『幕末外国関係文書』18、東京大学史料編纂所、1925)
11)『御触書寛保集成』(高柳真三、石井良介編、岩波書店、1934)
12)洋式帆船の建造に関しては、注5および、『異様の船』
(安達裕之、平凡社選書 157、1995)参照。
13)『金川砂子附神奈川史要』武相叢書第 2 編(石野瑛校訂、武相考古会、1930)所収。
14) 訳 文 は、
『 江 戸 参 府 旅 行 日 記 』( 斎 藤 信 訳、 東 洋 文 庫、1977)
、 原 文 は、1727 年 初 版 の 複 製 Yushodo
Booksellers Ltd. ,Tokyo, 1977 による。
15)『開国の使者 − ハリスとヒュースケン』東西交流叢書 1(宮永孝、雄松堂出版、1986)参照。
16)『神奈川県史』資料編 9 近世 6(神奈川県民部県史編集室、1974)所収。
17)『川崎市史』通史編 2 近世(川崎市、1994)参照。
18)本文は、『新訂民間省要』(村上直校訂、有隣堂、1996)による。
19)「五街道取締書物類寄」24 之帳(『近世交通史料集』第 1 巻、児玉幸多校訂、吉川弘文館、1967)
20)『幕末外国関係文書』18(東京大学史料編纂所、1925)所収。
21)「万年屋」については注 17 に詳しい。
22)『村況史料集』上(川崎市市民ミュージアム編、1989)所収。
23)『幕末外国関係文書』18(東京大学史料編纂所、1925)所収。
24)「堀田正睦外国掛中書類」(『幕末外国関係文書』17、東京大学史料編纂所、1924)
25)http://en.wikipedia.org/wiki/Delmonico's 参照。
26)「柿崎名主与平治日記」(『開国史蹟玉泉寺今昔物語』村上文機、1933 所収)による。
27)
『開国の使者 − ハリスとヒュースケン』(注 15)に、
「明治になって、郷土史家の久保田孤帆が西山助蔵
が住む下田の在―稲生沢村に西山老人を訪ね、玉泉寺に勤めた頃の思い出話を聞きだした」として、「こ
のとき私は一五歳、相役は村山滝蔵といって一六歳、いまこの人は大連に行っている」と記されている。
28)『維新秘史日米外交の真相』(生駒翺翔訳述、金港堂書籍株式会社、1913)所収。
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