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永遠の命とその交わり - えりにか・織田 昭・聖書講解ノート

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永遠の命とその交わり - えりにか・織田 昭・聖書講解ノート
永遠の命とその交わり
第一ヨハネ書の福音 1
永遠の命とその交わり
1:1-4
1.初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見
て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。― 2.この命
は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、
わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。― 3.わたしたち
が見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたし
たちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と
御子イエス・キリストとの交わりです。 4.わたしたちがこれらのことを書く
のは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。
ヨハネの第一書簡といわれる文書です。ヨハネの福音書を書いた同じ筆者
の作として、古代の教会が保存してきました。1 節の言葉などは確かに、福
音書の「初めに言があった」という書き出しや、「言の内に命があった。命
は人間を照らす光であった」という、福音書の 5 行目の文章、また「言は肉
となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た」とい
う証言とも並行するように思います。(ヨハネ 1:1,4,14)
古い注解者は、同じヨハネの文章なら「言葉」― ロゴスも当然同じ意味
と受け止めて、解釈しました。最初に出る「命の言葉」も、「中に神の命が
込められたロゴス」と読んだのです。しかし、福音書では、「言葉が肉とな
った」と言うのですが、この手紙では「御父と共にあった……この命が……
現れた」と言います。「命」のほうが主語で、福音書の「言葉」に並行する
のは「命」なのです。その「命」に私たちは「手で触れた」し、「目で見て」
確かめたのだ……と。すると、
「言葉」は普通の意味で、
「伝えられた内容」、
「伝達されたメッセージ」です。「ロゴス」は福音書と同じ単語でも、ここ
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の「言葉」は「福音宣言」を指しています。
こうして、新しい視点から見直してみると、ここの文章は次の三つの段落
に分けて書いてあります。
以下、私が語る内容は「命」のことです。私たちはこの「命」である人を
見たばかりか、しかと「自分の目で見て」確かめて、「手で触って」きた生
き証人です。―ここまでが初めの 3 行の趣旨です。
この「命」であるとしか言えない人は、元々「天の父と共にあった。」こ
こは福音書と同じ表現で、「共に」という前置詞も、「父と正面から向き合
って」―父の意志を全部、自分の中に受け止めて……という意味が込めら
れています。「一緒に同じ所にいた」というだけではありません。「そんな
人が私たちに現れた。」それが 4 行目から後の 4 行の意味です。―そして
最後の 4 行半。「交わり」という語が三度繰り返されます。
「交わり」(キノニーア)は「共通の体験」、「同じ源に繋がること」、
「同じ力、同じ喜びを受けること」を言う言葉です。「天の父から」受ける
体験―具体的には「父と正面から向き合っていたキリスト」から同じ恵み
を頂く喜びを、「私たちと同じように味わって欲しい。」以上の書き出しは、
「ロゴス」の意味が違うほかは、第三福音書と同じです。
今朝は 5 行目に出る「永遠の命」に焦点を合わせます。この「イエス」と
いう人、その人がその「永遠の命」の正体です……と。これは福音書に出る
イエスご自身の言葉と同じ響きを持ちます。「復活とはこの私のことだ……
“命”と言い換えてもよい。」イースターの掛け軸の言葉です。
英訳の“etermal life”を下敷きにして、中国語訳の「永生」から字を借り
た結果、「永遠の命」は「終りの無い命」、「無限に生き続けること」を連
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想させる嫌いがあります。数学で使う“ 8 ”の字を横に倒した記号“∞”の
長さを持つ時間を、つい考えてしまうのです。哲学の概念としては意味を持
つでしょうが、自分の生き死にとは結びつかない、抽象的な内容しか、素人
には伝わりません。そんな思想遊びが「好き」な人は別です。先日も、そう
いう方から質問を受けて、困りました。
ヨハネが使った熟語「エオーニオス・ゾイー」が、元を正すと古代ギリシ
ャの思想家も使った慣用句なので、ついギリシャ哲学に引きずられて「いつ
までも生き続けて終りの無い命」を考えるのは、無理も無いのですが、その
視点から見ると、古代エジプト人が「永遠に生きる」ために考えた「死後の
準備」や、「体が再生する時」の配慮と変らなくなります。この言葉の背後
に、イエスが使ったヘブライ語の慣用句と、それの訳語をダブらせてみるの
が、聖書の読み方としては正しいと思います。
“etermal”と“life”に分け考えますが、まず“life”(命)から……。
英語でも、日本語、中国語でも区別しないで「命」と言うしか無いのです
けれど、古代のギリシャ人は「ヴィオス」と「ゾイー」の二語に別
の内容とニュアンスを込めて、使い分けました。前者は薬の名前の「ビオフ
ェルミン」や、今流行りの「バイオテクノロジー」に入っている英語の bioというスペルで代表されます。bio- は「命」の継続期間や、命が残した軌
跡―英語なら“life of Abraham Lincoln”の「ライフ」の意味で、命が残
した跡……「伝記」の意味にも使います。
生まれてから死ぬまでの数十年、またそれを生きてきた“生き様”をこの
「バイオ」は表現します。一応、「途切れないで続いてゆく」ような「命」
としては、DNA を通しての形質遺伝とも繋がります。個人としては、「初
めがあれば終わりもある」ので、間もなく「昭」という命は終点に着きます
が、私と家内の遺伝子は、孫からやがて曾孫へと、薄められながらでも「続
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いてゆく」訳です。良い意味なら「末広がり」、悪い意味なら「希釈消失型」
の“life”です。それでも、ある米国人の女性が、私と義夫が並んでいるのを
見て、30 年前のオバケを見てショックを受けたと言います。これと似たこと
は、どのご家庭にもあるかと思います。「永遠の命」と言う時の「命」は、
それとは別です。
「ゾイー」の方の zo- は英語の「動物学」や「動物園」に含まれる zo- で
す。これは生物や人間の寿命とは別の意味を持ちます。zo- は人の一生の軌
跡とも、残した業績とも別のものを指します。この語はその生物ないし人間
を「生きたもの」にして「生かしている原動力」と言いますか、命の源から
注がれている「生命エネルギー」、またその「生命力」そのものを意味して
います。イエスのマルタへのお言葉、「復活とはこの私のことだ……“命”
と言い換えてもよい」と言われたときの“命”は、この「ゾイー」でした。
「永遠の命」もこの語で表わされています。
先ほど、「“命”という言葉の背後に、イエスが使ったヘブライ語の慣用
句と、それの訳語をダブらせて読むのが正しい」と言いました。この意味の
“命”の背後にあるのは、“息”(ルーアッハ,また ニシュマー)という語
です。主なる神は、「土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れら
れた。人はこうして生きる者となった」(創世記 2:7)のです。詩篇の作者
もこの“息”という単語に、「生かす原動力―ゾイー」の意味を込めまし
た。「神が、息吹を取り上げられれば彼らは息絶え、元の塵に返る」(詩篇
104:29)。「命」は「息」の訳語としては使われていませんれど、内容と働
きについて言うなら、まさに、「神の息」の別名です。
最後に「永遠の」という形容詞にイエス様が、どんな意味をこめられたか
を確かめるため、イエスより 100 年以上前にできた、旧約聖書のギリシャ語
訳(LXX)を調べると、この形容詞「エオーニオス」も訳語として使われて
いるのですが、ラビ文書に出るヘブライ語は、
「次に来ることになる時代の」
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(ハオラム・ハッバ)となっています。“the age to come”に当たります。
とすると、イエス様が言われた「永遠の命」も、このヨハネ書の「永遠の命」
も、この世かぎりでなく、神が支配しておられる「その先に展開する時間の
区分まで続く」神の“息”の働きを描写していることになります。この短い
地上の命の残りが、あと何年しか無かろうと、仮に数ヶ月で尽きようと、そ
れを長くするとか、無限大“∞”に伸ばすとかいう「エジプト式」の期待は、
イエスご自身も弟子のヨハネも念頭に無かったのです。死のさらに先の時間
―「来世」にしぶとく生きさせるような、神が吹き込む“息”が、「永遠
の命」の正体でした。
服部霊園の一角に「簡易埋葬筒」を息子たちに掘らせてから、24 年になり
ます。その時と比べて「地上のビオスの終わり」が、より現実感を持って迫
る……と言えば、そのようにも思います。そうでないようにも思えます。あ
れは単に、できるだけ簡素な「廃棄物の流し場」を作ったというだけです。
昭という一人の人間が「生きて地上に残した軌跡」の虚しさは、あの時のま
まです。石の蓋に、埋葬された人の名前を一切刻まないのも、「残した軌跡」
の無意味と、「名を覚えておいてもらう」執着の滑稽さを考えたためです。
お蔭で入会する人はほとんど無くて、助かりました。葬儀で読む「故人略歴」
も、「ビオスの命」の詳細を落さないように気を遣う喜劇だと思います。家
族があの「喜劇の台本」を、たとえ 10 秒でも短縮するだけ、趣旨を受けとめ
てくれれば有難いのです。
24 年前に比べて「ビオスの終点」が、より身近に感じられると言えれば、
少し恰好がつきますが、あの時と変わりません。Biology がどんな終わり方
をするかは、終始「問題外」でした。聖書を読んだのも、学んだ福音を発表
してきたのも、「地上をズリ歩いた軌跡」は靴跡と同じに消えるままに任せ
て、ただ「神様の息をいつも吹き込んでいただいているか……次に来る“世”
に私の視点は移されたか」だけを考えて、今に至りました。その意味では、
死の実感はあの時のままで、ただ、今日も「神様の息が働き続けている不思
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議」を実感しながら、この“息”が漲っている間だけでも、作業をやめない
でいたい。それだけです。
ヨハネは「神の命の源にあなたも私も共通に繋がる」と言いました。「命
そのものとして来られたキリストを、私は手で触ってきた」とまで証言しま
した。それほど確かな「命」―「神様がこの先に準備しておられる時代区分
まで突入する命」の共有者になってくれ。この「命」の正体は、イエスが言
われた「神様の息」なのだ。その「息」をあなたが受けて、次の間で生きる
人になってくれるなら、我々の喜びはフルに満たされる。―その言葉で、
ヨハネはこの手紙を切り出したのです。
(2006/01/28)
《研究者のための注》
1. 「息」(①,②,③
x;Wr,④ hm'v'n>
)第 1 語は新共同訳では普通冠詞をつ
けて“霊”、形容詞「聖なる」を冠して「聖霊」と訳されます。第 3 語は旧約で「息」
とも「霊」とも訳されます。創世記 1:1「神の霊が水の面を動いていた」は③、創
世記 2:7「息」は ④です。創世記 2:7「息」の LXX の訳語は ②になっています。
2.私の趣旨は「永遠の命」の「命」を「息」と訳せということではなく、「ゾイー」の
本来の意味「生かす原動力」を考えると、は神の「息」の働きそのものであり、
この意味での「命」の正体は「息」だと言える―ということです。
3.ヨハネ 11:25 の訳文については、織田「ヨハネによる福音」第 45 講を参照。
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