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SURE: Shizuoka University REpository

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SURE: Shizuoka University REpository
SURE: Shizuoka University REpository
http://ir.lib.shizuoka.ac.jp/
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日本最初のドイツ語お雇い教師カデルリー(1827-1874)
というひと : スイスの貧農の生まれ、傭兵、家庭教師、
冒険旅行家、「鉱物学教授」
城岡, 啓二
人文論集. 57(2), p. A151-A196
2007-01-31
http://doi.org/10.14945/00000635
publisher
Rights
Author's Comment: 城岡, 啓二
大学南校(東京大学の前身)でドイツ語を教えたカデルリー(Kaderly)は経歴不詳の人だっ
たが、本名は Kaderli であり、スイスに伝記が残されていることが判明して、それに基づき書
いたもの。小学校卒、傭兵、経歴詐欺など、きわめて面白い人だったようである。
【正誤表】
p.152下12行 「住宅地とにも」→「住宅地にも」
p.168下9行「忘れ去れ」→「忘れ去られ」
p.169下6行「48歳」→「47歳」
p.170上6行 seiner Händer → seiner Hände
p.195下10行「カドリーニ氏の」→「カドリー二(漢数字)氏ノ」
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日本最初 の ドイツ語お雇 い教師
カデル リ― (1827‥ 1874)と い うひ と
「鉱物学教授」
一
一スイスの貧農の生まれ、
冒険旅行家、
傭兵、
家庭教師、
岡
啓
0.カ デル リーの生地、カ ン トン・ベ ル ンの小村 リンパハ を訪ねる
1.『 カデル リー文典』 を書 いた 日本最初 の ドイツ語お雇 い教師
1.1
1.2
お雇 い教師だ った期間
お雇 い教師 として の業績
2.1991年 に翻訳出版 されたクニ ッ ピングの未公刊 の 自伝
3.変 名で見つ か ったカデル リー関連文献 とカデル リーの生涯
3.1『 スイス歴 史百科事典』とカ ン トン 0ベ ル ン歴史協会 の『ベル ン伝記集』
3.2 『オ ンタ リオ州のスイス人』
4.カ デル リーはなぜ変名を使 い、なぜ 経歴 を詐称 したのか ?
0.カ デル リーの生地、 カン トン・ ベル ンの小村 リンパハ を訪ねる
2006年 夏 にスイスのカン トン・ベルンの小村 リンパハ を訪問 した。ベ ターキ ン
デ ン (Batterkinden)ま で行けば、そ こか らバ スが リンパハ まで出ている。ただし、
バ スはせいぜい一時間 に 1本 で、ま つた くバ スの走 らない時間帯 もある。 バ ス
l lSchalunenl
を利用せずに歩 くつ もりならベ ターキンデンの 1駅 前のシャルーネン
や 2駅 前 の ビュー レン・ ツム・ ホーフ (Buren zum HOf)の 方 が近い。
li VI●
鼈
-151-
:│
図 2:リ ンパハ の 民家、家畜小屋、納
屋 と居 住部分 を一 つの屋根でま と
める作 り方 にな つて い る。
図 3:リ ンパハ の 民家、この 民家 も家畜 と
飼料 な どを収め る部分が 巨大な屋根 で
作 られ て い る。
リンパハ で は写 真 の よ うな民 家 を よ く見 か けた。 この地 方 に特 徴的 な家 の 作
り方 であ る。 居住部 分 は 3階 建 てで つ くられ てい る の だが、 片側 の納 屋 と家 畜
小屋 として 機能 してい る部 分 は、屋 根 が 3階 部 分 か ら 2階 部 分 を全部 覆 い つ く
してい るた め、 ま るで大 きな屋 根 の 平 屋建 て の よ うに見 え る作 り方 にな っ てい
る。
リンパハ は、ドイツ語版 ウィキペ ディア 2に
よる と、2004年 末 の人 口が 327人 の小村であ
り、「1850年 時点 で人口 426人 」とあるので、
過去 150年 ち ょっ との間 に過疎化 の進 んだ農
村 で ある と言 える。近年 は、ベ ルンや ゾー ロ
トゥル ンに働 きに出てい る人 の住宅地 とにも
な つている らしい。
教会区としての リンパハ教区∝ irchgemeinde
LimpacDの ホームページ 3に は ,,wir sind gut
図 4:19世 紀初頭 に建て られ、カ
デル リー が 生 まれ る前 か ら
あ つた リンパハ の教会。 カデ
ル リー は この教会 の牧師 に も
手紙を書き送 つていたようだ。
900 Menschen“ と紹介 され、近隣 の ビュー レ
ン・ ツム・ ホーフ とシャル ーネ ンをあわせた
教区 として も、人口は 900人 強 にしかな らな
い よ うだ。
観光地 で もな く特 に見 るべ きもの もない リ
ンパハ を訪ねた の は リンパハ が どんな位置 に
あ つて 、 どんな 場所 な のか 見 て お きたか っ たので あ る。 じつ は、 この地 に生 ま
れ て、 日本 の ドイ ツ語教 育 史 上重 要 な足 跡 を残 した ス イ ス人 がいた ので あ る。
-152-
図 5:シ ンプル な作 りの
教会 内部。祭壇部分
では村人たちが ダ ン
ス も した りするのだ
ろ うか。 リンパハ 教
区の ホーム ペー ジに
は若 い女 性たちが民
族衣装 で踊 つてい る
写真が使われて いる。
ヤ ー コ プ・ カデル リーで あ る。 カ ー ダ ー リぐらい の書 き方 の方 が正 確 な発音 を
反映 して い る と思 われ るが、 本稿 で は現 在 い ちば ん標 準 的 な表 記 だ と思 われ る
カデル リー を基本 的 に使 ってい きた い 。 日本 最初 の ドイ ツ語 お雇 い 外 国人教 師
で あ る。幕府 の 洋学教 育機 関 で あ つ た 開成所 は 明治維新 で 閉鎖 され たが、 す ぐ
に復 活 してい る。
『 東京 開成 学校 一 覧』(明 治 8年 版
4、
明治 9年 版
5)に は明
治元
年 の 9月 には再興 した と書 かれ てい る。 復 活 した 洋学校 の 名称 で あ るが、 幕末
以来 の 開成所 とい う名称 も使 わ れ続 け た よ うで あ るが、 いつ の ま にか 開成 学校
が正 式 名称 にな つていた よ うで あ る
6。
この 学校 にカデル リー は 日本最 初 の ドイ
ツ語 担 当 の外 国人教 師 と して 採用 され て い る。この 開成 学校 は明 治 2年 12月 に
は大 学南校 と名称 を変 えて い る。 カデル リー は ドイ ツ語 担 当 の 大学南校最初 の
お雇 い 外 国人教 師 で もあ る。大 学南校 に雇用 され てい た ドイ ツ語 担 当 の お雇 い
7(「
外 国人 は、ス イ ス人 の カデル リーの あ とは ドイ ツ人 が 続 き、ワグネ ル
近 代窯
8(プ
「
「
ロ
の
の
の
セ
工
ン
業 父」、 近 代 業 父」、 近 代 日本 建設 父」)、 ホル ツ
イ
政府派
遣教 師 )、 ク ニ ッ ピン グ
9(日 本最初 の 天 気
10(日
予報 を出 したひ と)、 シ ェン ク
本 で 最初 に鉱 山学 ・ 鉱 物 学 の授 業 を担 当 したひ と)と 近 代 日本 の 成立 に貢献 し
たお 雇 い外 国人 が 続 いてい る。 ホル ツは プ ロイ セ ン政 府派 遣 で別格 だ っ た こと
もあ って 大学南校教 師 とい って も独特 の 立 場 だ つ た よ うで あ るが、「現地採用 」
の カデル リー とワグネル とクニ ッピングは 同僚 として大 学南校 の最初 期 の ドイ
ツ学 の教育 にあた つてい る。カデル リーは
『 カデル リー 文典』と呼 ばれ る 522ペ ー
ジの 文法書 を 1870年 に大学 南校 か ら出版 し、滞 日期 間 が 短 かか つ た に もかかわ
らず 、多 くの ドイ ツ語教 師 を育 てて い る。 明治初 年 は外 国語 の 「商 品価 値」 が
きわ めて 高 か った 時代 で あ り、大学 南校 な どで数年 間 ドイ ツ語 を習 うだ けで ド
-153-
イツ語教師にな つて行 った よ うだ。東京府 に提出 された私塾や家塾 の 「開学願
書」や 「開学明細書」 の教員履歴 には、カデル リー (と いつて も表記 はカ ー ト
レエ、カ ドリー、カ トリー、カデ リー)か ら教わ つた と書 いてい る ドイツ語教
師に前園道、佐久間正節、河井友輔、山縣信営、荒川文平、鈴木孝之助、中村
雄吉、吉埜重明、久間盛久、司馬盈之、上坂操がある (上 村 1985b)。 なお、司
馬凌海 とい う言 い方 の方が知 られ る司馬盈之 (み つ ゆき)は 当時 か ら語学 の天
才 と言われた人物である11が 、フ ランス語 で もカデル リーの名をあげて い る。司
馬凌海が どこでカデル リー にフ ランス語 を教わ ったのか不 明であるが、カデル
リー は南校 を満期解雇 になったあ と、横浜 で高島嘉右衛門 の開いた学校 (市 学
校 、町学校、藍謝堂、高島学校 )で 教 えていた こ とまで分か つてい る。「外務省
記録・外 国人雇入鑑 (自 明治 5年 1月 至 同年 9月 )」 に基 づ くと、雇用契約 は明
治 5年 1月 か ら 6ヶ 月 である。市学校 では、西堀 (1996)に よれば、 ドイツ語
とフランス語 を教 えて いたのだ とい うが、カデル リーが市学校 でフ ランス語 も
教 えていた ことを明確 に示 す資料 を西堀氏 は示 していない
カ リキ ュラムの 中
`「
に英語 の他 にフ ランス語や ドイツ語が見 られ る」 (西 堀 1988:556)と い うこと
と、教 えられそ うな外国人教師はカデル リー しかい なか った とい うこ となのか
もしれない。
『 高島翁言行録』 (大 野太衛編、東京堂、 1908)の 市学校 について
の部分 は 「明治三年 の秋頃横浜伊勢 山下 に学校 を建築 して高島学校 と名づ け り
其教師 としては正則科 に当時大学南校 の教師な りし瑞西人カ ドレー氏並 に米人
バ ラ氏兄弟を招聘 し」 (p.174)の よ うに書 いて ある。
市学校 との契約 が切れた あ とは ど うな ったのか、レヽ
つ 日本 を出国 したのかな
ど、かつ てはほ とん ど分か つていなか った。 上村 (1985)力 `
端的 に述べ ている
「国籍 がスイスである とい う以外、生 没年 をは じめその経歴 はほ とん ど
よ うに、
知 られてい ない」(p.3)、 「彼 の生涯 とくに来 日前、帰国後 の動静 につ いては全 く
知 られて いない」(p.5)と い う状況 が 20世 紀末 までのカデル リー をめ ぐる状況
だつた と言 える。
ところが 20世 紀も末 になつて状況は変化 して きた。まず、1991年 にはかつて
の大学南校時代の同僚が家族 のために残 していた未公刊の 自伝が『 クニ ッピン
グの明治日本回想記』として翻訳 され、出版された。 ここにはクニ ッピングか
ら見たカデル リーについての記述が見 られる。
1.小 関恒雄・北村智明訳編 :『 クニ ッピングの明治日本回想記』、玄同社、1991.
オリジナルは4η%″力π%4gι ηα%s%″ 勿ι
tt ι
ι
bι %〃 ″
ググ
ικグ
%滋 ″%″ グE%″ ′
-154-
)と い う題名の未公刊の 自伝で、編集 して訳 したも
子供と孫のための 自伝」
のである。以下、
『 回想記』 と略す こともある。
(「
また11988年 に『 スイス歴史百科事典』の三ヶ国語 (ド イツ語、フランス語、
イタリア語)の プ ロジ手ク トが立ち上が り、財団が結成 されている。
『 スイス歴
史百科事典』は広 い意味でスイス史 に関係 しそ うな項目を広 く集めよ うとして
いる現在進行中のプ ロジェク トである。2002年 に書籍の第 1巻 が出版され、全
13巻 の予定で出版が続けられ る予定であるが、1998年 以来インターネ ット上で
もオ ンライ ン版 (e‐ HLS12)が 無償で提供 されている。ここにカデル リーについ
ての記述があつたのである。あとで見るように、カデル リーは日本では変名を
使 っていた ようで、Kadedyで はな く、Kadediで 記載 されている。
2.影 sわ な σ力ω ιググわπ滋″■力微滋 (HLS).『 スイス歴史百科事典』、編集は
die suftung HistorischeS Lexikon der Schweiz(ス
イス歴史百科事典財団)。
以下、
『 事典』と略す こともある。
さいわい、
『 事典』のヵデル リーについての記述の元になつたカデル リーの伝
記もカン トン・ベルン歴史協会編纂 の伝記集 に残 されていることが分かつた。
3. Ao Walther:"Jakob Kaderli.1827‐ 1874.``,Sα %π ′
%η g
B′ Qttψ カ
ルπ3.Band,hrsgo
bι ″
πおθ
力ι
″
von deFFl hiStorischen Verein des Kantons Bem.
376。 以下、カ ン トン・ベル
ン歴史協会編纂 の『 ベルン伝記集』のことを『伝記集』
、また、これに掲載され
ているカデル リーの伝記を 「伝記」 と略す こともある。
Bem(Verlag von Schmid&Francke).1898,363‐
「伝記」の記述 に基づ くと、カデル リーは 日本を出てか らアメリカに向かい、
アメリカ とカナダに滞在 していたよ うである。カナダではオンタリオ州でスイ
ス移民が予定 されている移住地 の調査を行い、報告書を書いていることが 「伝
記」 に書かれている。カナダのスイス移民 についての本があれば何か分かるか
と思い、調べてみると、カデル リー についての記述が見つかつた。ただし、カ
デル リーはここで も変名を使 っていて、ヤー コプ・カデル リー Cakob Kadeni)
ではなく、ジャック・カデル リー Cacques Kaderli)と なつている。
4. Joan Magee(1991),r力 ιs"ぉ sグ πO%勉 ″οo Windsor,Onta五 o(Electa
Books)。
以下、引用する場合は『 オ ンタリオ州のスイス人』とする。
-155-
カデル リーが開成学校・大学南校・南校 と名前を変えていった維新政府の洋
学校で ドイツ語を教えていたのは 1869年 、1870年 、1871年 (明 治 2年 ∼明治
4年 )で あったと考えられるが、1世 紀以上を経て、よ うや く、お雇い外国人教
師カデル リーについて調べ る条件が整 つて きたわけである。本稿では、第 1章
で 日本滞在中のカデル リーについてまずまとめ、2章 以降では、新たに見つかつ
た『事典』の記述や 「伝記」やカナダで書かれた『 オンタリオ州のスイス人』
の内容をもとに、内容の紹介 と事実の洗い出 しを中心にして、全体 として、カ
デル リー とい うひとの経歴 と生涯をまとめておきたい。
上の 1か
現在の ところ、
ら4ま での新資料を扱 ったカデル リーについての論文や図書は出版されていな
いので、資料的価値もあると思われるので、引用する場合 は、翻訳だけでな く、
原文も可能な限 り添えたい。
1.『 カデル リー文典』を書いた日本最初の ドイツ語お雇い教師
1.1
お雇い教師だつた期間
カデル リーがお雇い教師だつた期間は、明治初年の公文書 にきちんと整理 さ
れていなかったことや学校 の記録もあいまいだったため、分か りに くくなつて
いるよ うである。
『東京帝国大学五十年史』(1932)に 「外国教師」の任免等 に
関する表が掲載されているが (上 冊第 1巻 第 2篇 補遺)、 スイス出身の「ヤ コツ
ブ・カデル リー」は、担当科 目が ドイツ語 で、明治 3年 1月 から明治 4年 11月
までの雇用期間とされている。
『資料御雇外国人』 (ユ ネスコ東アジア文化研究
ー
センタ 編)に まとめられているカデル リー関連 の各種資料では、雇用開始時
期を明記 している資料 は 1点 しかなく、東京大学の「傭外国人教師講師名簿」
だけであ り、明治 3年 1月 24日 となつている。
『 東京帝国大学五十年史』の記
「備外国人教師講師名簿」は
の
つてい
一の
述 もとにな
る資料 と同
可能性が高い。
古い記録ではなく、昭和初年に編纂 した もの らしく、カデル リーの時代につい
ては正確な情報 に基づいていないよ うである。カデル リーが明治 3年 1月 Z日
「大
雇用 とい う「傭外国人教師講師名簿」の記述 は正しいはずがない。なぜなら、
学南校雇教師瑞士國人カーデル リー相州箱根へ旅行」とい う記録が『太政類典』
(第 1編 ・ 慶応 3年 ∼明治 4年 )に あり、伺いの 日付が明治 2年 12月 19日 に
なつているからである。明治 2年 にはカデル リーは大学南校教師 になつていた
はずである。西堀 (1996)に は明治 2年 6月 にカデル リー開成学校 に雇入れ と
書いてあるが、この記述の元 になつているのが『 東京開成学校一覧 明治九年』
である。東京開成学校 と東京医学校が合併 して東京大学が誕生するのが明治 10
-156-
13で
ぁる。東京開成学校 とい う
年 であるか らtそ の一年前 の東京開成学校 の一 覧
の は、大学南校が文部省 の設置 とともに南校 にな り、そ の後、第 一大学区第 一
番 中学 にな り、それ が、 さらに開成 学校 とかつ ての名称 に戻 され、 さらに明治
7年 に東京開成学校 に改称 された もので ある。「東京開成学校沿革略史」の問題
「二千五百 二十八年即チ王政維新 ノ際一時本
の箇所 は次 の ように書 かれてい る。
校 ヲ廃 シ兵隊屯営 トナ ス此年九月朝廷 之 ヲ再興 シテ川勝近江柳川春 三 ヲ以テ頭
取 トス未夕幾 クナ ラスシテ 内田恒次郎 之 二代 ル翌年 一月細川潤次郎 ヲ以テ学校
権判事 トシ公務 ヲ掌 ラシム此月佛人 プーセー氏 ヲ以テ佛語学教師 トシ英人パ ー
レー氏 ヲ英語学教師 トス四月米 人ヴ ェルベ ッキ氏 ヲ以テ英語及学術教師 トシ尋
テ教頭 ヲ兼ネ シム六月瑞西人ガデル リー氏 ヲ以テ獨語学教師 トス七月細川氏転
14」
(p.10)。 「二千五百 二十八年即チ王政維新 ノ際」 とい
任 シ加藤弘 之之 二代 ル
うの は皇紀であるか ら、マイナ ス 660年 で西暦 1868年 で、明治元年 のこ とにな
る。ガデル リー と表 記 され ているカデル リーが採用 された のは翌年 の六月だか
ら、明治 2年 6月 である。お雇 い外国人 の動 向だ けを『 一 覧』 の記述 か ら取 り
出 してお くと、 フランス人 プーセー とイギ リス人パ ー レーが 明治 2年 1月 に採
用 され、ア メリカ人 ヴ ェルベ ッキ (フ ルベ ッキ)が 4月 に採用 され、 スイス人
デル リー)が 6月 だ と述 べ ている。
『 一 覧』の記述 が正 しい とす
b。
ー
れば、明治 2年 6月 にカデル リ は開成学校 に採用 され ていることになる 上
村 (1985a)に よる と、松野硼 とい う農科大学教授 の履歴書 (東 大蔵 )の 明治 2
ガデル リー
(カ
年 の ところに 「開成学校御雇瑞西 人カ トル リ氏 二就 キ独乙学初歩 ヲ学フ」 と書
いて あるのだ とい う。 上村 は 「彼 はすで にそ の時点 で来 日中であ つた と思われ
る」 と控 えめに推論 してい るが、カデル リーが明治 2年 6月 採用 だ とした ら、
「開成学校
松野 が明治 2年 にカデル リー に教わ ってい るの は不思議ではない し、
御雇瑞西 人」とい う書 き方 も当然であろ う。じつ は、山岸 (1939b:387)に 「在
職 は明治二年 か ら同四年まで」と書 いて あるか ら、「東京開成学校沿革略史」の
よ うなもの を見 ていて、 知 つていたのか もしれない。一方、満期解雇 の 日付 は
「傭外国人教師講師名簿」 の明治 4年 11月 26日 とい うの はおそ らく正 しい も
の と思われ る。
『 太政類典草稿』 (第 1編・慶応 3年 ∼明治 4年 0第 59巻・外国
交際・ 条約、外客雇入)で も 「独逸学教師カデル リー儀来月 ニテ備期限相満候
…猶六 ケ月雇増」とな つてい る箇所 の大学 の 日付が 4年 4月 23日 にな つていて、
翌月 か ら 6ヶ 月な ら 11月 で「傭外国人教師講師名簿」の記述 と一致す るか らで
ある。
さて、カデル リーがお雇い教師だ つたの は明治 2年 6月 か ら明治 4年 11月 26
-157-
日だ つた と思われ るが、第 3章 で詳 し く見 る「伝記」には香港や上海を旅行 し、
揚子江や黄河で船 に乗 つてい るが、その後、北京 には行 かなか うた理 由を、「天
津 での暴動 の勃発 のため ヨー ロッパ人 として北京へ 行 くことが得策だ と思 えな
か った」(「 伝記」、p.371)た め としている。そのために北京 に行 かず に 日本へ 行
くことにしたのだ とい う。 しか し、 この記述 はまった く疑わ しい。 天津 の暴動
とは、天津教案 と呼 ばれ る暴動事件で、 フ ランス系 のキ リス ト教教会 の孤児院
に対す る児童誘拐疑惑 に端 を発 して、 フ ランス系 の教会 が襲撃 され、フランス
人 の修道女や神父、 中国人 のキ リス ト教信者な どが殺 された事件である。暴動
は 1870年 6月 21日 に起 きてい る。当時 の和暦 に直す と、明治 3年 5月 23日 で
ある。この時期 にまだ来 日してい なか つた とい うこ とは有 り得ない。カデル リー
が天津教案 を持ち出 した理 由 としては、北京 に行かなか ったことを説明す るに
はもっ ともらしい 内容な ので、カデル リー 自身 が勘違 い して しま つたか、 ある
い は、香港や上海、揚子江や黄河 を旅行 していなが らなぜ北京 に行 かなかった
のか、 うま く説明で きなか つたために適 当な内容 を手紙 に書 いて故郷 に送 つた
.
ものではないだ ろ うか。
1.2
お雇 い教師 と しての業績
日本 には合計 3年 間 ぐらい滞在 したはず であ り、その うち明治 2年 6月 か ら
明治 4年 11月 26日 までは政府直属 の洋学教育機関 で働 い たカデル リニが多 く
の ドイツ語教師を育 てた ことはす で に述 べ たが、カデル リー は、2年 半程度 のお
雇 い教師 の期間 に、おそ らく長年 にわたる家庭教師 の仕事 の 中で集 めた材料 を
522ペ ージの文法書を書 いてい る。日本滞在中のカデル リ‐
使 つたものだろ うが、
の最大 の業績 で あると思われ る。
明治期 のお雇 い外国人教師 で本格的な ドイツ文法 を執筆 したの はカ デル リー
だ けである。
他 には、
東京外国語学校や新文学舎で教 えたア ドルフ・ヘ ルム (Adolf
Helω が全52ページの薄い文法離 の本 滋 ″ ,π られ彩η ″ ¨
z%%Gι bπ %σ 力ι滋″1/m″ ″ルss′πル s
%G懇 戒力ο
Gα ′
力ο力
(「
影 シ πttα
ドイツ語 の語活用、
外国語学校 の下級 クラス向 け」、1880)を 書 いてい るのがあるだ けで あろ う。こ
れは、主 として、 名詞、冠詞、形容詞、動詞 な どの語形変化がま とめ られた小
冊子 で ある。上村 (2001:39)は『 カデル リー文典』について 「我 が 国で出版
された最初 の本格的文法書 で、今 日の文法書 の原型 をなす。明治 10年 頃まで盛
んに行われたが、それ以降はシ ェー フ ェル独逸文典 に次第 に取 つて代わ られる」
と書 いてい る。いわゆる『 カデル リー文典』は ドイツ語で書かれ、二ι
力乃勿σ
λ滋″
-158-
α滋%″
ン グルカυ
λι%働 ssaπ 滋″物お硫 Lジ ″απお滋%五 カ
aみ ι
ノ
シ α
“
“
)と い う題名で、522
(直 訳すれば「日本帝国学校の上級生 向け ドイツ語教科書」
ページあるのは 1870年 の初版である。何種類もの版があるが、刊行年で分類す
″
d♭ %Jsθ力
ると、4種 類あつたようだ。
1870年
初版
1872年
第 2版
1878年
第 2版 復刻版 (中 川忠明翻刻出版人)
第 3版 (誠 之堂、扉には 「1885」 と印刷 されている)
1886角 F
第 2版 以降 はカデル リー に無 断 で 出版 されたもので あ り、 これがち ょつ とし
た 「外交問題」 に発展 している。1872年 の第 2版 が 出版 された当時、南校 をや
めていたけれ どもまだ横浜 の市学校 の教師を していたカデル リー は、 これ に断
固 として抗議 したよ うである。第 2版 は初版 の前半 の文法部分をさらに圧縮 し
た 内容 である。字 を小 さ くし、1ペ ー ジ当た りの文字数 を増や しているが、522
ペ ニ ジだ ったもの を 192パ ー ジに削減 して、 ラテ ン文字 で書 かれてい たもの を
ドイツ文字 に書 き直 している。外務省 がカデル リーか ら厳重な抗議 を受 けて、
文部省 がそれ を取 り次 ぎ、南校 に照会 している。そ の辺 の事情 は山岸 (1939b)
の東京大学本部 に残 る南校文書 の研究 が詳 しい。カデル リーが 日本 を去 るのは、
「伝記」によれば 1872年 7月 22日 であ り、和暦 に直す と明治 5年 6月 17日 で
ある。カデル リーが直接外務省 に抗議 を したのか どうかは不明であるが、外務
省 か ら文部省へ の問い合わせは明治 5年 5月 27日 付 けであ り、南校 は 5月 の晦
日に回答 している。回答がカデル リー に届 いたか どうか分か らないが、届 いた
としてもアメ リカヘ の出国間際であつたはず である。山岸は 「外国人 との間 に
版権侵害問題 を惹起 した」 と捉 えて い るが、外務省 か ら文部省へ の問い合わせ
には 「瑞西カデル リー元南校御雇 中著述致候独逸文法書今般翻刻相成過半不具
之儘 ニテ坊間売買相成候」 で始 ま り、カデル リー が気 にしていたのは版権 の よ
「過半不具之儘 ニテ」がポイン トだ つたかも
うな問題 もあ ったか もしれないが、
しれない。第 2版 以降 は、基本的 に ドイツ文字 で書 かれているが、 ドイツ文字
でのエ スツ ェ ッ トの使 い方 が大量 に間違 つてい る。Cla3e,la3en,gela3en,e3
en,gege3en,fre3en,gefre3en,verge3en,Ine3en,gemeBen,rnti3en,■ 鳳3en,
Be3erungの ような書 き方 をしている3は すべ て間違 つてい る。当時 の南校 の 日
本人教員 にはまだエ スツ ェ ッ トの使 い方 の よ うな周辺的 な文法規則まで理解 し
てい なか つたひ とがいたのではないだ ろ うか。南校 の文部省 へ の回答は、余 っ
-159-
「右ハ小本 ニテ種類モ異 り候ヤニテ全ク翻刻 卜申
た本は全部本人 に返 したとか、
スニハ有之間敷ヤ ト被存候」 と述べていて、短縮 して勝手 に出版 した本が種類
も異なり翻刻ではないと苦 しい言い訳をしている。
その後の南校文書 に「カデル リーノ文法書 ノ後 日耳曼 16ョ リ遥カニ卓絶セル文
典書渡 リタレバ今二至 り誰モカデル リー氏ノ文法書ヲ用ユル者無之候」 と書い
これでは、意味不明の言い訳を並べた
うえに、腹立ち紛れの捨て台詞の ようなものを南校文書 には書き留めているこ
てあるのだ とい う
(山 岸 1939b:388)。
とになるだろう。
『 カデル リー文典』は 1886年 版まであるわけであるし、新た
に ドイツから輸入され るよ うになった『 シェーフェル文典』などが使われるよ
うになつてい くのは事実であるが、
『 シェーフェル文典』などは ドイツ人の生徒
向けの学校文法であって、本来外国語学習 には不向きな文法書なので、
『 カデル
ー
リ 文典』よりもはるかに優れているなどとは言えるものではなかうたのであ
る。
母語を理解するための文法 と外国語習得のための文法では当然内容が異なつ
て くるはずであるが、当時はあま り意識 されていなかったのかもしれない。一
例をあげると、
『 カデル リー文典』では外国人が ドイツ語を学習する上で最初に
必要な項目として発音の解説をまず最初 に詳 しく扱 つている。5ペ ージめの音の
分類 (Eintheilung der Laute)か ら始まり、16ペ ージめまでと かな り詳細
なものである ドイツで出版されていた学校文法の教科書では 「発音」はこの
`
ような配置 と扱いにはなつていない。架蔵本の『 シェーフェル文典』 (第 7版 、
1868)で 調べ ると、発音 の説明が後半の第 4章 の「語形成 と正書法」の ところ
17、
でわずかになされているだけである。 ドイツ語を基本的に知 つている ドイツの
生徒向けに文法を教える場合はたとえば発音について詳 しく教える必要 はない
し、すでに発音 はできるのであるから最初に教える必要もない とい うことだろ
.
う。
それから、明治 5年 の当時、 ドイツから学校文法の教材が輸入されるように
なつたので、カデル リーの文法書を用いる者がまった くいな くなうたなどとい
う南校文書の内容はまつた く事実 に反 していたと思われる。
『 カデル リー文典』
「東大医学部予
は 1886年 (明 治 19年 )の 版まで印刷 されているわけであるし、
5等 予科生に対 して
科では吉田謙次郎が明治 12年 11月 から同 13年 12月 の間、
ヘ ステルス第 2読 本 によって読方 と訳読 の演習を行い、
1学 期 にはカデル リー文
典、2学 期 にシェァフェル文典を用 いて講義 している」 (上 村 2001:393)と い
う記述か らも分かる。
今 日から見ると、標準的 とは言えない ような発音 の記述を していることも書
-160-
いておかない とカデル リーの肩 を持 ちす ぎか もしれない。同僚 の クニ ッピング
が皮肉 った 内容を残 している。 これ につい ては『 回想記』 の ところで も触れ る
ので、
別 の例 をあげる と、発音 の差 のない ドイ ツ語 の tと thに ついて thの hは
「ほ とん ど聞 こえない」 (fast unhё rbar)と い う非科学的な説明 をしてい る と
ころも日に付 くが ヵデル リニ らしい説明の仕方 にな つて い る箇所 は、語頭 の
18、
や st‐ の説明である。カデル リーは標準的 とみな される綴 りの発音 の仕方 を
とりあ げ、そ うい う発音 をす る方言 もあるが、 間違 いで あると述べ 、非標準的
sp‐
な発音をするように求めているのである。"sp und st werden ttschlich in einigen
deutschen Mundarten im Anlaute me Schp und Scht ausgesprochen;die
五chtige Aussprache ist die nattirliche,nach der Zusammensetzung der
Laute,also nicht Schprache,sondem Sprache;nicht schprechen,sondem
sprechen;nich Schteln,sondern Steln;nicht Schtadt,sondem Stadt,“ (p.14).
「spと stは ドイツ語 の方言 によって は間違 つて schpや schtの よ うに発音 さ
Schpracheで はなくSprache
れる力ヽ正 しい発音は音を合わせた自然な発音であり、
であ り、
schprechenで はな く sprechenだ し、Schteinで はな く Stein、 Schtadt
ではな く Stadtな ので ある」。カデル リーが 間違 つた発音 として糾弾 しているの
が ドイツ語 として の標準的な発音 であ った し、今で もそ うである。 しか し、何
が標準的な発音 か とい う問題 は必ず しも容易な こ とではない し、明治初年 にい
ち早 く ドイツ留学 をし、帰国後 に ドイツ語教師 にな つた崎山元吉 の大正 8年 (初
版が明治 22年 )の『 独逸学捷径』(訂 正 16版 )を 見 て も、「独逸語 ハ Hannover
市 ヲ中央 トシテ其 ノ周園凡二十里以内二住 スル人民 ノ発音 ヲ以テ正 シキモ ノ ト
為 スハ世人 ノ知ル所ナ リ故 二 同地方 ノ発音 二依ル 」と高 らかに宣言 しているが、
Schweinに 「シ ュヴァイ ン」と読み をつ けているが、Steinに は「スタイン」と
していて、st‐ の発音 の規則 を今 日の よ うに教 えてい ない こ とに驚か され るので
あるか ら、カデル リーの発音 の教 え方が極端 にひ どか ったわけではない。む し
ろ、明治 16年 に日本人 として始 めて簡単 な ドイツ文法書 をつ くつた平塚定二郎
の『独逸文法階梯 前篇 辞学』 には発音解説 がま った くない ことを考 え合わせ
るべ きであろ う。
ドイツ語 の教育 をした ことと『 カデル リー文典』を執筆 した こと以外 のカデ
ル リーの業績 としては、 当時まだ 出版 され ていなか つた独和辞典 の編纂事業 が
ある。独和辞典 の編纂作業 については、山岸 (1937a,1939b)に 書 かれている
が、 当初大学南校 内でカデル リー と相原重政 が 中心 にな って進める こ とにな つ
ていたが、 ど うしても うま く行 かず、外部 の ドイツ語学者 に手伝 って もらうこ
-161-
とまで したのであるが
19、
結局失敗 して しまってい る。作業 の経過 を示す もの も
残 つてい ない よ うで ある。
『 公文録』 (明 治 3年 ・ 第 61巻 ・ 庚午九月 ∼閏十月・ 大学伺 )に は、「教導」
の功績や 「外教師雇入」及 び 「書籍買入」 の周旋 な どの功績 を理 由 に教頭 の フ
ルベ ッキに金 20両 の品を、 カデル リー には金 15両 程 の品を送 りたいが、 それ
でいいか とい う伺 いが 「庚午十月」 (明 治 3年 10月 )に 出 された ことが記録 さ
れてい る。また、
『公文録』 (明 治 4年・第 39巻・辛未五月∼七月・大学伺)に
は、「嘗テ病気 ニテ両足疾痛甚敷候節杯両杖 ニテ教場へ 出席勉強致」とある。し
たがって、カデル リー は熱心な教師 で あ り、直接教育 に関わ らない職務 におい
て も学校か ら感謝 され るよ うな仕事 をした とい うことで あ り、お雇 い教師 とし
てはかな り優秀 だ ったのではないだろ うか。
また、南校 は高等教育機関ではな く、普通学 を教 える中等教育機関であつた
が、高等教育機関 として の専門学校 を作 ろ うとい う意向を明治 4年 に出来 たば
「専門学校は文部省が乗 り気で、
か りの文部省は早 くか ら持 つていた ようである。
フルベ ッキを法律講師、 スイス人 の ドイツ語教師カデル リー と、当時は福井藩
の教師だったグ リフイスを理 学講師 として、東京 の 旧静 岡藩邸で開校 しよ うと
した 四」 (大 橋・ 平野 1988:266)。 この件 は実現 していないが、これな どもカデ
ル リーがかな り信頼 されて いた ことの証拠 だ と思われ る。
2.1991年 に翻訳出版 されたクニ ッ ピングの未公刊の 自伝
クニ ッピングはカデル リー、 ワグネル、ホルツの次 に大学南校 で雇用 された
ドイツ語 のお雇 い外国人 で あ り、元 は航海士 で、 後 に日本 の気象関係 の仕事を
し、日本最初 の天気予報 を出 した人で もある。
『 回想記』でカデル リす について
カデル リーの職業 として「家庭教師 mauslehrerl」
触れている箇所は多 くはないが、
をあげ、「シベ リア経 由で来 日」とも書 いていて、カデル リーの経歴 に触れ てい
る箇所 がある。 あ とで見 るよ うに、 この二つの記述や来 日時期な どか ら『 スイ
ス歴史百科事典』や『ベルン伝記集』の Jakob Kadediと 日本の Jakob Kaderly
が同一 人物 に間違 いない ことが証明で きるので ある。なお、「家庭教師」といつ
て も今 日の大学生 の アル バ イ トの家庭教師を思 い浮かべ るの は適切ではないだ
ろ う。 む しろ、学校教育 にも代わ るよ うな家庭教師であろ う。家庭教師に頼 る
とい うの は様 々な理由が考 え られ るが、 軍 の司令官や士官な ど家族連れで赴任
するような場合、子 どもの教育 を家庭教師に頼 る とい うこ とは当時あ つたのだ
ろ う。「伝記」によれば、カデル リー はナポ リ王国では士官の家庭で、ワルシヤ
-162-
ワでは工場 主 の家庭 で、 ウラルのエ カテ リンブル クでは鉱 山総監督 の家 で、 ロ
シアのアムール川河 日の都市 ニ コライエ フスクでは司令官 の家庭 で家庭教師を
している。
『 回想記』はオ リジナルの ドイツ語 の ものが公 刊 され ていない ので、訳 の不
「訳者 まえがき」には「文
明な点や訳 されなか つた 内容 につい ては確認 で きない。
「
意 を損わぬ範囲で意訳要約 した部分 もある」 ことや 冗長な箇所や ど うして も
うま く訳 せ ない部分 は一部省略 した」 と書 かれてい る。大学南校 の時代 の ドイ
ツ学 の様子 がお雇 い外国人 の立場 か ら記述 され ている類書 は他 にな く、貴重な
文献 である。以下、
『 回想記』か らカデル リーが 関係 している部分 を コ メン トを
付 けて引用 してお こ う。なお、引用 に際 しては訳者注 として加 え られた もの は
じゃま になる場合 もあ り、外 してある。
「私 は ヴァグナ ー を通 じて ドイツ語学校 に勤めた ので あ った。そ の頃その学
校 には、私 たち二人 のほか に、一人 のスイ ス人、カデル リー (Kadede)が 勤務
してい た。」(p.87)。 クニ ッ ピングは、カデル リー、ワグネル、ホルツに次 いで、
4人 め として大学南校 に採用 された ドイツ語担 当のお雇い外国人教師である。ホ
ルツの名前 があが っていないのは、ホルツはプ ロイセ ン政府派遣 で別格扱 いだっ
「一八七 一年四月 に上海 で ドク トル・ヴァグナ ーの電報 を受取 り、
たためである。
三人 目の ドイツ語教師 に要請 された時、私 は三週間 の体暇を取 って、す ぐ横浜
に発 つた。」(p.100)。 クニ ッ ピングはいわゆる現地採用 のお雇 い外国人 だ けを考
えて二人 日 としてい るわ けで ある。
「この学校 では、年少 の 日本人たちに三つの重要 な外国語 を教 え込 まねばな
らず、教師は最初、他 の学習 に考慮 を払 う余裕 がなか つた。やがて、われ らが
スイ ス人カデル リーが家庭教師 (Hauslehrer)と してシベ リア経由で来 日した。
彼 の ドイツ語 につ いての見解 は、彼 の ドイツ文典 の 中でいみ じ くも述べ ている
ように、少な くとも不可解な もので はなか つた。彼 はそ の 中で、例 えば Fuchs
はしば しば間違 つて Fuchsの 代 りに Fuksと 話 されて い ると述べ ているが、基
礎的知識 の うわべ を授 けることには熟達 していた。 とい つても、それは大 した
ものではあ り得なか ったが。 とい うの は、 ドク トル・ ヴァグナ ーが しば らくの
カデル リー と平行 して〕クラスを持 つたあ と、カデル リー は引下 つて横浜
間 〔
で私塾 を開かなければな らなか つたか らで ある。」(p.102)。 開成学校 では最初 か
らオランダ語 は教 えられて いない。「Fuchsは しば しば間違 って Fuchsの 代 り
に Fuksと 話 されてい る」の ところは この翻訳 では分 か りに くいが皮肉を述べ た
もので ある。カデル リー は ドイツ語 の発音 について述べ る際に自分 の母語 を基
-163-
準 にして しま つた ところがあるのだろ う。Fuchsを Fuksと 発音するのは標準
「カデル リー は引下 つて横浜 で私塾 を開かな けれ ば
的な発音なので ある。また、
な らなか った」とい う部分 であるが、カデル リーが塾主で あ ったわ けではない。
0章 で書 いた ように、横浜 にガス灯 をつ けた ことで も知 られ る高島嘉右衛門の開
いた学校で半年間教 えた ので ある。カデル リーが南校 に再雇用 されなか つた理
由は不明で あるが、 クニ ッピングがほの めか しているよ うな 日本人側 との あつ
れきの証拠 もない。
「私 は差 当 リカデル リー に従属 していたが、彼 の退職 した後は ドク トル・ ヴァ
グナ ーのや り方 で、よ り自由 に振舞 うこ とができた。ヴァグナ ーの方針 は、“ド
イツ語 を こなす "こ と、つ ま りで きるだけ多面的な教育 をす る こ とで、単 に文
法や読 んだ り作文す ることだ けではなか った。カデル リニ は学生 (生 徒 )と の
付合 いは、 いわゆる下級教師、即ちい くらか ドイ ツ語 のできる 日本人教師を介
してな され るべ きだ とし、そ う実行 した。これは彼が望 んだ仕事 の軽減 にはな つ
た。」(p.102)。 航海士 として乗船 していた船 が売 られて しまい、失業 したクニ ッ
ピングは、 ワグネル に大学南校 の仕事 を紹介 して もらってい るし、クニ ッピン
グ とワグネルが ドイ ツ人でカデル リー はスイ ス人だ とい うことも考 えると、ク
ニ ッピングがカデル リー に対 して批 判的な こ とを書 いていて も割 り引いて考 え
るのが妥当だろ う。それ に、 ドイツ語 の初 心者 の 日本人学生に対 して 日本語 を
使 ってで も直接教育 しよ うとしたワグネルの方法 と日本人教員 の質 を高めよ う
としたカデル リーの方法 の どち らが優れ ていたかは、 一概 には言 えないので な
いだ ろ うか。 ワグネルが 日本語 も使 つた ことは 「 ドク トル・ ヴァグナ ー は学生
たちと直接意思 の疎通を図 り、会話 を交す よ うにしたので、おか げで彼 らはず っ
と速 く上達 した。それで私 も早速 日本語 の勉強 を始 め、最初 の年 の夏 に大いに
励 んだ。」(pp.103-104)の 記述 か ら推定 で きる。なお、カデル リーが「いわゆる
下級教師、即ちい くらか ドイツ語 ので きる 日本人教師」の ドイジ語 に も配慮 し、
授業以外 で も日本人教師 の質問な どに答 えた こ とは、カデル リー についての公
文書 の記述「正課外教官質問相受 け」(『 公文録』
、明治 4年・第 39巻・辛未 5月 ∼
2)か
7月 ・ 大学伺
らも分かる。
「最初 の年 は、授業時間 は九 時 か ら十 二 時まで と、午後 一 時か ら四時までで
あ つた。私 はそのあ と、なお四時か ら五時まで助教師を教育 しな けれ ばな らな
か つた。一 日七時間 とい うの は 日本 の夏 では とて も長 い時間だ つた。 とい うの
は、午後 になる と気温 は しば しば三 十度 を越す ので ある。カデル リーが退 くと
ともに、この七時間制はな くな った。」(p.107)。 この記述 を読むと、クニ ッピン
-164-
グがカデル リー をけな している理 由の一つ は、や は り、カデル リーの考 えで 日
本人教員 に対す る追加 の授業 を持た され ていた ことがあるのではないか と思 う。
カデル リーが辞 めたあ とは、 日本人教員 に対す る授業 はや めて しま つた ようで
あるが、 この点 につい てカ デル リー を批判す るのはおか しい。
3B変 名で見 つか つたカデル リー 関連文献 とカデル リー の生涯
お雇 い外国人で も帰国後 に著名人 にな つていればイ ンターネ ッ ト上でも容易
に検索 できる。カデル リーの場合 もまず はそ うい う可能性 を考 えてみた。 しか
し、カデル リーの場合 はスイスで著名な 日本学者そ の他 の有名人 にはな つてい
'そ れ どころか、 日本 を出てか らスイス に帰国 さえしていなかった。
なか つた。
にもかかわ らず、カデル リーの伝記 が書 かれていたのである。それは、カデル
リーが普通 の人 とは異な る人生 を歩んで くれ たおか げで もある。19世 紀 に書 か
れた伝記 をもとに『 スイ ス歴 史百科事典』に Jakob Kadediの 項 目が作 られ て
いた。カデル リーは 日本 では Jakob Kaderlyで 通 して い たが、変名だ ったよ う
だ。カナ ダのスイス移民 を扱 う『 オ ンタ リオ州 のスイ ス人 』 で もカデル リーが
変名で 出てきていて、今度 は、Jacques Kadediに な っていた。
以下、新 たに見つ か ったカデル リー に関連す る資料 の 内容を見なが ら、 コメ
ン トす ることにす る。
3日
1『 スイス歴 史百科事典』 (HLS)の Jakob
Kade甫
以下全文 を引用 して、訳 をつ けてか ら、内容 につい ての コメン トを付す。
Kader!i,Jakob
*22.7.1827 Lirnpach,† 31.12.1874 Marseille,ve■ 11lutlich von Millchio Nach
der Dorfschule Bauernknecht,dann Soldat bei den Schweizer Truppen in
Neapd.Rasche Auffassungsgabe und Sprachtalent verhalfen K.zu Stellen,
u.a.als Hauslehrer erstmals in Neapel.Im Krimkrieg(18M‐ 56)arbeitete er
缶 die franzo Mili餞 壮verwaltung。 1856 fuhr K.nach St.Petersburg und war
dann Hauslehrer in Warschau。
lrland, 1861‐ 68
1860 bereiste er England,Schottland und
Sibirien. Dabei besuchte er in Swerdlowsk die
Bergbau‐ Akadenlie sowle Berl夢 rerke im Ural.1868‐ 72 erkundete Ko China
und Japan,1872‐ 74 Amenka und Kanada.Die Rmckreise uber Neufundland,
Gr6nland und lsland musste er 1874 wegen】
-165-
Krankheit abbrechen.In
Marsdlle b∝ ann K.mit den Adzdchnungen sdnerttdlah懸 五 Wdtreise,
starb aber bald.Uberliefert sind einige Reisevortrtte und Gutachten zu
Bergbaufragen。
Ltteratur
‐
Sigo bem.Biographien 3,1898,363‐ 376
Autor:Anne‐ Marie Dubler
【
訳】
カデル リー ,ヤ ー コプ
1827年 7月 22日 に リムパハ (Limpach)で 生まれ、1874年 12月 31日 にマル
セ イユ で死去。家系はおそ らくミュル ヒ (Mulchi)2の 出身。村 の学校 を終 えた
後、農家 の下働 きとして働 き、その後、ナポ リの スイス軍 に入隊。物覚えが速
く、語学 の才能 もあ り、ナポ リで家庭教師 の職 に付 くこ とにな つた。 ク リミヤ
戦争 (1854-56)で はフランス軍本部 で働 き、1856年 にサ ンク トペ テルブル クに
行き、それ か ら、ワル シャ ワで家庭教師 になる。1860年 にイギ リス、ス コ ッ ト
ラン ド、アイル ラン ドを旅行 し、1861年 か ら 1868年 までシベ リアを旅行す る。
ス ヴェル トロフスク (現 在 は旧名エカテ リンブル クに戻 つてい る)で 鉱 山学校
に通い、ウラルの鉱山を見学 してまわ る。1868年 か ら 1872年 にか けて 中国 と日
本 を調査 (erkunden)す る。1872年 か ら 1874年 までアメ リカ とカナ ダに滞在
す る。 ニ ュー フアン ドラン ド島、グ リー ン ラン ド、アイスラン ド経由での帰国
は発病 のために中止す る。マルセ イ ユで 12年 間の世界旅行 の記録 をま とめ始 め
るが、まもな く死去。旅行 の講演記録や鉱 山の鑑定書が伝わ ってい る。
参考文献
%お 磁ι″Bれ 勁″カルの、第 3巻 、1898、
ι
『ベルン伝記集』Gレ%〃笏客 み
0マ
:ア
ンネ
著者
リー・ ドウーブラー
363‐ 376
正確な来 日時期については書いてないものの 1868年
記載内容を見てみると、
か ら1872年 にかけて中国 と日本 に来ていることになつているので、お雇い教師
のカデル リーが日本 にいた時期 とおおよそ一致する。 シベ リア経由で来 日して
いる点や職業が家庭教師とい う記述があるが、これ もクニ ッピングの書いてい
るカデル リーの記述と合致 している。したがつて、
Jakob Kadedyの 本名は Jak6b
Kaderliで あることが分かる。
『 事典』の内容 についてい くつか コメン トしてお くと、著者はウラル地方を
-166-
シベ リアに合 めて考えていて、「1861年 から1868年 までシベ リアを旅行」と書
いているが、本来は、ウラル山脈が ヨー ロッパ とアジアの境界であ り、ウラル
「伝記」で もウラル地方をシベ リアとは見な して
山脈 め東側がシベ リアである。
いない。ウラルを出発 して、シベ リア放浪 は 5年 間 としている。ウラルを出発
したのは 1863年 とい うことになるだろ う。
「1868年 から1872年 にかけて中国 と日本を調査 (erkunden)す る」の部分
であるが、erkundenは 「(軍 隊の)偵 察」や「(土 地 の)調 査」の ような意味に
なるようであるが、 日本で ドイツ語教師をす ることが どうして調査す ることに
「伝記」の ところで も詳 しく見るが、これはカデ
なるのか とい う疑間があるが、
「1868年 から」とい
ル リーが周囲にその よ うに書いていたのである。それから、
うのは『 事典』の記事を書いたひとが 「伝記」の内容 を読み誤 つたもの と思わ
「伝記」にはアムール川の河日の都市ニコライエフスクに到着したのは 1868
れる。
年 の秋であ り、春になつて航行が可能 になるまでこの町で待機 したことが書い
てあるので 1969年 の春 から1872年 までのあいだに中国、 日本を回つたのであ
る。日本側資料から考えて 日本へは明治 2年 6月 (和 暦 の 6月 は西暦の 7月 9日
から 8月 7日 に対応)に は来ていなければならないので、中国滞在はせいぜい
数 ヶ月程度で、かな り短期間であつたはずである。
「ニ ューファン ドラン ド島、グリーンラン ド、アイスラン ド経由で
それから、
の帰国は発病 のために中止する」 とい う書き方では、少なくともニ ューファン
ドラン ド島を出発 して途中で旅行 をやめた ことになると思われるが、 これ は
「伝記」の記載を著者がや は り誤解 したためと思われる。"Nach New‐ York
zuriickgekehrt, traf er Vorbereitungen, um im Frtihjahr 1874 von
Neufundland aus nlit einenl Wanfischftthrer naCh G預
女1land iiberzusetzen,
von v7o.oF dann lsland zu besuchen und uber Now7egen und Schweden nach
der Schweiz zurtickzukehren gedachte.Sein kranklicher zustand nё
ihn jedoch,dieses PrOlekt aufzugeben und in dem■
tigte
lilden Klima ltaliens
pp.372‐ 373)。 「ニュー ヨー
、
伝記」
クに戻る と捕鯨船 でニ ュー ファン ドラン ド島か らグ リー ン ラン ドに行 く準備を
した。1874年 の春 の予定 だ つた。予定ではそ こか らアイ ス ラン ドヘ渡 つて、ノ
ル ウ ェー とスウェーデ ンを経 由 してスイスに帰 国す るつ も りだ つた。 しか し健
Bessertlng seiner Gesundheit zu suchen.“
(「
康状態は思わ しくな く、カデル リー は この計画 を断念 して、イタ リア に行 き、
温和な気候 の 中で健康 が 回復するの を待つ ことを選択せ ぎるを得なか つた。」計
画 自体 を断念 したのだか ら、おそ らく、 ニ ュー フ ァン ドラン ド島 にも行 つてい
-167-
ないはずである。城岡 (2006:82)で も『 事典』の記載を元に「ヨーロッパ に
帰国のためにニ ューファン ドラン ド島、グリーンラン ド、アイスラン ドを旅行
中に発病 し、旅行を 1874年 に中断したJと 書いたが、これは間違 つていたこと
になる。
3.2『 ベルン伝記集』第 3巻 の Jakob
Kade甫
″Bれ 聯ψカル%(『 ベルン伝記集』
力ι
助 %%励 饗「bι 2お σ
)は カン トン・ベルン
歴史協会の編集 になるが、1884年 に出版 された第 1巻 冒頭にはどうい う伝記を
収録するか基本的な考え方が示されている:「 この伝記集が収録を目指 したのは、
新旧を問わずカ ン トン・ベルンで何 らかの顕著な活躍をした人物の伝記やカ ン
トン・ベルン出身者でスイスの他 の地域や外国での活躍 によって故郷 の名誉を
.カ デル リーの場合はカン トン・ベルン出身者で外国
守 つた人物の伝記である」
での活躍 によリカン トン・ベルンの名誉を守 つた人物 として伝記集に収録 され
ているとい うことだろう。それから、 日次であるが、名前 のほかに簡単な表現
でその人物を紹介 しているが、カデル リーの場合は Wdtreisendeム つまり「世
界旅行家」 とい う紹介の仕方を している。
「伝記」はカデル リーが故郷に書き送 つた書簡やカデル リーを直接知る人の
話からカデル リーの死後 に A.ヴ ァル タ早 (Ao WaltheDと い う牧師が作成 し
ている。カデル リーが手紙を書いていた村の牧師とは別の牧師 (村 の新 しい牧
師かもしれないが、不明)で ある。書簡 は友人や知 り合いにあてたものや、54
年間 リンパハ村の教師だつたJ.器 トイシヤー 0.Teuscheう とい う名前 の村の学
校の恩師、ルー トヴィヒ・ ミュラー (Lud宙 g Muller)と ぃ ぅ名前の村の教会
の牧師にあてたものだったよ うだ。なお、 リンパハの教会 の現在の牧師をして
おられる方 に問い合わせてみたが、現在の リンパハではどうや らカデル リーは
忘却 のかなたに完全に忘れ去れてお り、カデル リーの書簡も残されていない と
い うことだつた。
「伝記」がカデル リーの書き送 つた書簡をもとにつ くられているとすると、
カデル リー 自身が故郷の人たちに見せたい姿が描かれ、場合 にようては 自慢 し
たい事柄が強調 して描かれることになるだろう。本人の 自己申告 に基づ く内容
であるし、明らかなウソも混 じつていると思われるが、過去の様 々な資料が自
由にインターネット上で検索できるよ うになれば別であるが、今の ところ、 ど
こまでが事実なのか確認するのは容易ではない と思われる。 しかし、カナダの
ニ ビッシング湖沿岸部の調査 の ようにカナダ側の資料で も確認できるものもあ
-168-
るので、「伝記」 の内容 はま った く信用 が置 けない とい うこ ともない よ うだ。
また、著者が牧師 とい うことも 「伝記」 の 内容 に一定 の偏向をもた らしてい
るかもしれない。牧師 として一般人 に示 したいカデル リ■像 がカデル リー 自身
の実像 とは別 の ところにあ つたか も しれない。農家 の下働 きか ら身を起 こした
男 の 出世物語 を牧師は皆 の前 に提示 したか つた のか も しれない。能力はあ つた
が、生まれは貧 しく、正式な教育は村 の学校 だ けだ ったかもしれないが、不断
の努力 と引き換 えに、つい には、世 界へ 飛び出 し、北半球 を ぐるつ と一周 した
立派 な人物。故郷 を出る ときには故郷 の土 に口づ け し、 常 に故 郷 を思 い、故郷
に何 かあれば どんなに離れてい ようともいつで も戻 つて くる覚悟 があ り、少な
くとも 3年 に 1度 は故郷 に帰 る計画 を立 て続 けた人物。 カデル リー はその よ う
な人物 として描かれ てい るが、果た してそれがカデル リーの実像 であ つただろ
うか。
以下 では、「伝記」の 中の事実関係 を記述す る部分 を中心 に、内容 にコメン ト
を加 えなが ら、カデル リーの生涯 をま とめてお く。なお、「伝記」は ドイツ文字
で書 かれているため、 ラテ ン文字 に変換 して引用 している。
ス イスの寒村に生まれ、農家 の下働 きをする カデル リー
"Der schon im 48。
Altersiahr den 31.Dezember 1874 abgeschlossenen
Lebenslauf dieses Mannes stent uns ein leuchtendes Beispiel dar,was aus
einer tiichtigen Natur,die mit iralent Energie des Geistes,Fnit guter
Auffassungsgabe Zahigkeit des Wonens und une■
llltidliche Arbeitslust
verbindet,auch unter au3erlich ungtinstigen Umstanden werden kann.
Geboren den 22.Juli 1827,aufgewachsen unterを mlichen Verhatnissen im
Dorf Lirnpach,inl Amtsbezirk Fraubrunnen,ohne eine andere Vorbildung,
als die,weldle ihm eine freilich von treuer Harld geleitete Dorfschule geben
konnte,hat sich Jakob Kaderliin eine Lebenssphh emporgearbeitet,die
p.363)。
weit ab von dem Ausgangspunkt seiner Laufbahn lag。 “(伝記冒頭、
「カデル リーは 1874年 12月 31日 に 盤 歳 で亡 くな つてい る。 この人の生涯 か
ら私たちが容易 に知 ることがで きるの は、篤実な人 は、才能 があ つて精神 のエ
ネルギーがあ り、優れ た理解 力があ つて意思 の粘 り強 さや倦む ことを知 らない
勤労意欲 があれば、た とえきわめて不遇な状況 に置 かれていて も、不遇な状況
を克服できるとい うことである。1827年 7月 22日 にフラウブルネ ン郡 リンパハ
村 の貧 しい家庭 に生まれ、村 の学校 に通 うこ と以上 の教育 は受 けてい ないが、
-169-
カデルリーは人生の出発点よりもはるかに高いところまで登りつめたのである。
」
"Nach seinem Austritt aus der Schttle,in welcher er sich vor allen
Wttili盤 器蹴響静
鐵贔 戦al躙
織識Fi詰 肌 鷲
蠅 ユ
軍出1]蹴 ″露胤 認
I〔
Abends besuchte er Fortbildungsschulen;der franttsische Sprache hatte
er sich bald so weit bemeistert,da3 er sich rnit Gewandtheit mtindlich und
schriftlich in ihr auszudrticken verFnOChte.“
(p.363)。
「学校 で は育ヒカや 学習
意欲 の点 ですべ ての同級 生 を凌駕 していたが、押 さえの きかない元気 のいい と
ころも 日立つ生徒 だつた。 卒業後 は家 が貧 しか つたので、農家 の下働 きを余儀
な くされた。しば らくはヴォー州 Zで 働 き、そ こでは 日中は仕事 で忙 しかつたが、
夜 は補習学校 (Fortbildungsschulen259に 通 つた。 フ ランス語 には上達 して、
話 し言葉 も書 き言葉 もた くみ にあやつ ることがで きるよ うにな つた。」
ナポ リ王国の傭兵にな ったカデル リー
正確 にはいつの ことか書いてないが、カデル リーは、
「若気のいた りで」(ein
ナポ リ王国のスイスの傭兵部隊 に入
隊する (der Jtingling lie3 sich unter die Schweizer Truppen in Neapel
arlwerben)。 後続 の記述を読む と、ナポ リとシシ リアで 1848年 、1849年 の戦い
Sch五 tt jugendlicher Unbesonnenheit)、
に加わったことが書かれているか ら、スイス傭兵部隊入隊はそれ以前のはずで
ある。当時、ナポ リ王国ではフェルディナ ン ド2世 がナポ リの暴動を鎮圧し、
シチ リアを取 り戻 しているか ら、スイス備兵部隊は これらの戦いに関わ つたも
の と思われる。スイスは 1840年 には傭兵部隊の新たな派遣を禁止 していて、契
約が継続中のナポ リ王国への派遣が最後 になつたよ うである。 したがって、カ
デル リーが参加 したのはこの最後のスイス人備兵部隊である%。
兵士としてのカデル リーは、ナポ リで目覚 しい活躍を見せたよ うであるが、
軍隊生活には満足 していなかつたよ うである。
"Die scharfe Zucht,welcher er
sich in Neapel unterziehen mu3te, und mehr noch das einfё rmige
GarnisOnsleben,die Besch狙 畦 ung mit mechaFliSChen Exerziden waren aber
durchaus nicht nach dem Geschmack geistig geweckten und freien,
unabhangigen Natur.Zwarin den Kampfen der Jahre 1848 und 1849 in
Neapel und Sizilien,an welchen die Schweizerregirnenter und vorab das
-170-
Bernerreglinent einen so hervoraragenden,1適 r ihre Waffenehre ttnllichen
Anteil nahmen,zeichnete er sich durch todesverachtende rrapferkeit aus,
so da3 er zunl Unteroffizier befё rdert wurde;er selber legte aber das
bescheidenё Ges働■
dnis ab,was ihm danlals als Bravour ausgelegt worden,
seiim Grunde nichts als Lebenttberdm3 gev7esen,er habe den Tod gesuぬ ち
aber,軸 rend Kanleraden rechts und links gefallen,habe keine Kugd den
Weg zu ihm,dem Lebensmuden gefunden。 “(p.364.p。 「ナポ リの軍隊 の厳格
な規律、単調な駐屯地 での生活、機械的な軍事教練、 こ ういつた ものは、覚醒
した精神 を持 ち、自由で独立 した人 間であるカデル リーの気 に入 るはずはなか つ
た。ナポ リとシシ リア島での 188年 と 1849年 の戦 いではスイス の連隊、 とく
にカン トン Lベ ル ンの連隊が武運 をあげ活躍 したが、 この ときカデル リーは死
をも恐れ ぬ勇敢 さで戦 い、見事、下士官まで昇進 している。控 えめな彼 自身 の
言葉 によれば、勇敢 と人 に思われた ことは実 は生 きるのが嫌 にな つていただ け
の こ とで、まわ りの戦友 が次 々 に戦死 して い くの に、死ぬつ もりでいた 自分を
弾 の方 が避 けて くれ た のだ と述べ てい る。」
ナポリで除隊後に家庭教師になつたカデルリー
ナポ リ王 国で軍隊生活 を送 る一方 で、カデル リーが関心や才能 を早 くも他 に
向け始 めた ことについて「伝記」は触れている。"Doch verstrichen die Jahre
des Soldatenstandes nicht unbenutzto Der neapolitanische Soldat,der sich
im Rock Seiner Maiesttt des higs Ferdinand so beengt ittlte,benutzte
ane MuBestunden init dem師 3ten Flei3e zu seiner Ausbildung und zur
Verrnehrung seine Kenntnisse.Nach Ablauf seiner Diensセ
eit erhielt er in
der Fanlilie eines Offiziers,dessen Aufnlerksamkeit der talen"oHe,
strebsame iunge Mann auf sich gezogen hatte,eine Anstenung als
Hauslehrero Er verlie3 diesdbe im Jahre 1854.“
(p.364)。「カデル
リー はフ ェ
ルデイナ ン ド王の もとでナポ リの兵隊 として過 ごす ことが窮屈 に感 じられるよ
うにな り、軍務 のあい間をぬ って、教養 を付 け、知識 を増やす ことに最大限の
努力を払 つた。除隊前 か らカデル リーの有能 さと努力家ぶ りを買 っていた士官
の家 で除隊後 に家庭教師 にな つた。カデル リーは 1854年 にこの家庭 を離れ てい
る。」ナ ポ リを出 るのが 1854年 で、没す るのが 1874年 であるか ら、この時か ら、
20年 を旅 の空 の下 で過 ごす ことになる。
-171-
ク リミヤ戦争の途中か らフランス軍で働 いたカデル リー
たまたま乗 つた船 でフ ランスの戦争委員 (K五 egskommissaOと 知 り合 い に
な り、 この関係か ら士官待遇でフランス軍 の管理部 の幹部 に迎 えられ ることに
な つた。 コンス タンティノー プルで数 ヶ月働 いた後、志願 してク リミア半島 に
行 くことになつた。
騎兵師団の会計係の補佐として Cals Attunkt des,,Comptablざ
eines Cavalleriedi宙 sion)働 くこ とにな り、任務 のためク リミア半島か ら 3回
の大きな旅行を こなす こ とにな つた。一 回めがア レクサン ドリア とカイ ロヘ の
旅 行 、二 回 めが ス ミル ナ (Smyma271へ の 旅 行 、 三 回 め が トラペ ズ ン ト
(Trapezun♂ )と ェルズルム (Erzerum)ま での旅行 である。「伝記」には軍
務 についているあいだ も、努力家 のカデル リーは寸暇 を惜 しんで英語 と トル コ
語 の勉強 をした こ とが書 いて ある。 トル コ語 につ いては、主計長 (Intendant)
が馬や牛 の購入 の ため に トル コ内陸部 に出か けるの を書記兼通訳 として (als
Sekretar und Dragoman)随 行 で きる くらいにはな った のだ とい う。ク リミヤ
戦争 が終わ ってか らアルジェ リアの士官ポス トの話 もあ ったのだが、カデル リー
は断 つた ようだ。戦争 はも う沢 山だ と感 じていたの と、 これまでの敵 だった ロ
シア を見聞 したい と感 じるよ うにな つていた らしい。1856年 の初夏 にモ スクヮ
の皇帝の戴冠式に出かけるアテネの若者たちといっし ょに馬で コンスタンチ ノー
プルか らモスクワに向か った。当時盗賊 が うようよしていたバルカン半島 は 8人
の トル コ憲兵 (Cavassen)に 護衛 されて安全 に通過 した。シ ュム ラ (Schumla)
を出たあ とは、ブカ レス ト、それか らヤ シ Cassy)を 通 ってベ ッサ ラ ビアをオ
デ ッサ に向か った。そ こか ら、一 団はキエ フ、オ ー レル (Orel)、 トゥー ラ (Tula)
を通 つてモ スクフに着 いた。 しか し、カデル リー はモ スクワには長居 は しない
で、見物す るもの を見た ら、サ ンク トペ テル ブル クに汽車 で向かつた。 サ ンク
トペ テルブル クでは裕福 なポ ー ラン ドの工場 主 と知 り合 いにな って、そ の関係
で、フルシャワで工場主の一人息子の住み込みの家庭教師 (als Gouvemeur seines
einzigen Sohnes)に な った よ うだ。カデル リー とい う人は どうや ら自己宣伝が
なかなか うまかった人の よ うで ある。有利な条件だ つた ことも 「伝記」は伝 え
ている。結局、教 養あ る人たち とつ きあいなが ら、 ワル シャワで約 2年 間暮 ら
す ことにな った。そろそろまた旅行が した くな つて きて、プ ロイセ ン、ベ ル ギー、
フ ランス を通 ってスイスに帰国す ることも考 えて いた矢先、事件は起 こった。
-172-
ワルシヤワのフランス総領事館での領事との衝突・ 逃亡
ク リミア戦争 の途 中か らフランス軍側 で働 いていたカデル リー は、最後は コ
ンス タンチ ノー プル の フ ランス軍 の派遣部隊 の管理任務 についていた よ うであ
るが、 ここを辞める ときに、 ロシア旅行 のためにフ ランスのパ スポー トを発行
して もらつてい た。"Schwei2er unter franzё sischem Schutz“ (フ ランスの保
護 を受 けるスイス人)と い う資格 だ った よ うだ。 ところが、ポー ラン ドの ワル
シャ ワの フランス総領事館 でパ スポー トにビザ の交付 を受 け ようとした ところ、
ろ くな説明もされず にパ スポ ー トを没収 されて しまった。 フ ランスのパ スポー
トを没収す る とい うことは、共和主義者 とい うだ けで 当局 か らにらまれ、警察
の標的 にされるよ うな国で彼 の保護 を打 ち切 る とい うことを意味する。顔見知
りにな つていた領事館 の書記 がほのめかす には、領事 "が 最近 にな つてパ リか ら
秘密 の指示 を受 け取 つていて、スイスがフランスの要求 を拒否 した ことに対す
るある種 の報復措置 ではないか とい うことだつた。フ ランスの要求 とい うのは、
フ ランス皇 帝 (ナ ポ レオ ン三世 のこ とか)を 脅 かす ような行動 を監視す るため
にスイ スの主要都市 にフ ランスの警察官を配備 したい とい う要求だ つたよ うだ。
この件 では領事 に も う一度会 いに行 つているよ うであるが、や は り、書記 の ほ
のめか した理 由の よ うな こ とがあ つた よ うで ある。
"Bei einer nochmaligen
Audienz gab in der rrhat der Konsul Kaderli die Erklarung,da3 es ihm
verboten sei,ftir die Zukunft Fremde und besonders Schweizer unter
「事 実 、再度 の領事 との接見 の場
で、領事 は、外国人特 にスイ ス人をフ ランスが保護す る こ とは今後は禁止な の
だ とカデル リー に説明 した」
。カデル リーはスイスのパ スポー トを持 つていなか つ
franzё sischen
Schutz zu nehmen.“
(p.367)。
たのか、スイ ス のパ スポー トよりもフランスのパ スポ ー トの方 が効 き目があ つ
たのか、その辺は 「伝記」 には書 いて ない。 いずれ にして も、カデル リーは強
硬 に抵抗 した ようで、スイス の新聞 に訴 えるぞ とまで言 って食 い下が つた よう
だ。カデル リーの強硬な抗議 に対 して、 フ ランス領事 も警察官を呼んでカデル
リー を逮捕 させ よ うとした よ うだ:「 伝記」の 内容 だ けでは領事 の横暴な行動 が
分 か りに くいが、コサ ック人 (勇 敢な ことで知 られる)の 警官二人が呼 ばれて、
なにや ら逮捕令状 の よ うな ものが渡 されたよ うだ。ち ようどそ の時で あ つた。
カデル リー はまだ体勢 を整 えて いない警官 の一人か らサ ーベ ル を奪 い、左手で
首 を押 さえ、右手 の奪 つたサ ーベ ルの柄 で警官 の こめかみを打 つた。警官 は倒
れた。 も うひ とりの警官 がカデル リーの方へ 見返 つた ときには、カデル リー は
-173-
警官 か ら二歩離れた位置 まで来 ていて、警官がサ ーベ ル に手 をか け よ うとした
ときには、カデル リーの方 が早 く、サ ーベ ル を握 つている右手 と左手 の両方 で
警官 の胸 を思 いつき り殴 つた。警官 は領事 に倒れ かか り、二人 とも床 に倒れて
しまった。カデル リーの思わ ぬ攻撃 によって生 じた混乱 の隙 に、総領事館 を出
て、暗闇 と雑踏 の 中 にまぎれて逃 げた。 そ の後、辻馬車 をつ かまえ、 町外れま
では行 つた ものの、 ど うしていいか分か らない。結局、知 り合 いにな つてい た
ポ ー ラン ドの伯爵 (Graf)が 近 くの城 に住 んで いたので、思 い切 つて、そ こへ
行 くことにした。伯爵はか くま って くれ ただ けで な く、逃亡 のための援助 の手
「伝記」では dieser,nicht nur dem Stande,sOndem auch
も差 し伸べて くれた。
der Gesinnung nach ein Eddmann(「 高貴な
(貴 族 )階 級 であるだ けでな く、
高貴な信念 を持 つ この人」)と 伯爵 を持 ち上 げている。カデル リーの住居 だ つた
ところには既 に 6人 の兵隊 を連れた警部が武器 を持 つたスイス人 の捜索 に現れ
ていた くらいで あるか ら、ポー ラン ド内にとどまる こ とはできなか った。伯爵
はカデル リー にひ げを剃 らせ 、猟 の服装 をさせ、乗 り換 えのための 4頭 の早馬
と従者 の猟師をつ けて、ワル シャワか ら逃亡 させた。「伝記」では、この後国境
を越 えることに成功 して、トル ン (Thom30)に つ くと伯爵 の友人 の城 で暖か く
迎 えられた ことまで書 いてい る。 フ ランス領事 の悪漢ぶ りといい、カデル リー
の勇敢 さといい、か くま って くれ た伯爵 の高潔な態度 といい、本 当 にこの よ う
な ことがあ ったのか どうかは分か らない。それに、一方 の 当事者 のカデル リー
が故郷 に書 き送 つた手紙 の 内容 を元 にしているわ けだか ら、カデル リー に都合
のいい ように事実が改変 されて い る可能性 もあるだろ う。
1860年 、1861年 のイギ リス 、ス コ ッ トラン ド、アイルラ ン ド滞在
ワルシャワでお尋ね者になつてプ ロイセ ン領 の トルンに逃げ延びたカデル リー
「伝記」ではその後 の記述 が しば らく欠 けていて、次 の記述 は 1860
で あ つたが、
年 か ら 1861年 にか けてのイギ リス、ス コ ッ トラン ド、アイル ラン ドヘ の旅行 で
ある。
"In den Jahren 1860 und 61 finden mr Kaderliin England,Schottland und
lrland.Daselbst bot sich reichlich Gdegenheit,die Lttcken seines Wissens
iinmer rnehr auszul■ leno Nicht nur vervonkomnlte er sich in der Kenntnis
der englischen Sprache,so da3 er sie mit voller Freiheit beherrschte,ganz
besonders war es das Studium der Geologie und Mineralogie,dem er mit
aner Energle sich widmeteo Langst schOn hatte ihn diese Wissenschaft
-174-
angezogeno E)ieser Neigung lie3 er nun freien Lauf,Vorlesungen wurden
angehё rt,die l肛 eneraliensamrrllungen des britischen Museums und der
Museen von Dublin und Edingburg besucht.“ (p.368)。 「1860年 、61年 にカ
デ ル リー はイ ギ リス、 ス コ ッ トラ ン ド、 アイ ル ラ ン ドに滞 在 した。 知識 ・ 教養
の欠けているところを補 うにはよい機会 となつた。英語 の勉強だけではなかつ
た。完全 に自由に英語 が使いこなせるよ うになつたのは言 うまで もないが、地
質学や鉱物学の分野の研究 にカデル リーは精力を傾けた。 この分野の学問にず
いぶん以前から惹かれていたのだが、この時 になつて、カデル リーは没頭 して、
講義を聴き、大英博物館やダブリンやエジンバ ラの博物館 の鉱物 コレクション
を訪ねてまわ つた。
」
イギ リス滞在中のことであるが、希望を打ち砕 くような、何かしら心の痛み
を伴 う経験をしたよ うで、そのため、詩作をした ことが 「伝記」 に書かれてい
る。日本のお雇い教師カデル リァが詩を書いたことは、
『 カデル リー文典』から
も裏付けられる。後半 には読章 の部分があつて、読み物や詩があるが、ゲーテ
や シラーなどの詩 にまじつて、作者 Kの 詩があ り、従来からカデル リー作だと
「Kな る人の作一つがある。Kと は編者自身の匿名でもあろ うか。
」(『 日
推定され、
、p.482)と 書かれてい る。
独言語文化交流史大年表』
「伝記」ではこの時期から地球を一周 しよ うとい う計画をカデル リーが意識
しだしたことについて書いている。 しかも、熱帯の国々ではなく、不毛なシベ
リアを通 つて行きたいと考えたのだとい う。カデル リー 自身が後 に手紙の中で
「北国の何もない孤独の方が色彩 と生
この時の気持ちを分析 しているらしいが、
命 にあふれる南国よりも当時の 自分の気分に合 っていたのだろう」(,,Die kahle
Einsamkeit des Nordens hamonierte besser nlit seiner damaligen
Gemutsverfassung,als die Farbenpracht und Lebensfune des stidens.“
、
p.369)と い う思いだつたよ うだ。
ウラル、 シベ リアを旅行するカデル リー
1861年 にカデル リー はハ ンブルク、ベ ル リン、ケー ニ ヒスベ ル クを通 つて ロ
シアに向か った。サ ンク トペ テルブルクに向か う郵便馬車 で深 い森 の夜道を走 つ
ていたのだが、馬が狼 の遠吠 えに恐れ をな し、暴れ、カデル リー は馬車か ら投
げ出 され、大怪我 を して しま う。
"Als er nach einigen Wochen so weit hergestdlt war9 um seine Reise nach
Petersburg und Moskau fortsetzen zu kё nnen, fand ein russischer
-175-
Polizeikommisar grOse Aehnlichkeit zvJlschen ihm und einem Mitgliede
der polnischen Agitationspartei,die damals gerade die bald darauf
ausbrechende polnische Revolution organisierte und hauptsた
hlich auch
in Lithauen sehr thatig war.Er wurde verhaftet und erst nach vler Tagen,
nachdem er sich uber den Zweck seiner Reise genugend ausgewiesen hatte,
(p.369)。 「サ ンク トペ テルブル クとモスクワヘ の
が
るまでに
が
旅行 続 けられ
健康 回復す るの に数週間かかつた。 その頃ポ ー ラン
ドの扇動政党 でま もな く始 まろ うとしていたポー ラン ド革命 を組織 して、主 に
wieder in Freiheit gesettt.“
リトアニ アで活動 していた政党 があ つたが、 党員 の一 人 とカデル リーが非常 に
よく似て い る と考 えた ロシアの警部 がいて、カデル リー は逮捕 され、旅行 の 目
的を十分 に説明 して、釈放 され るまで 4日 間 かかつた。」
"Nach einem kurzen Aufenthaltin Petersburg und dnem Aus■
ug nach den
und On∝ aseen reiste er tter Moskau nach Nischni‐ Nowgorod und
von da an Kasan.Ein Dampfer brachte ihn hierauf nach Pe.11l und
Ladoga‐
Postpferde nach Jekaterinaburg am
ёstlichen Abhange des Uralgebirges,
wo er sich ungefahr zwei Jahre zu praktischen geologischen und
mineraloglschen Studien in den dortigen Bergwerken aufzuhalten gedachL
Errlpfehlungen von Petersburg an den General Josse,Generaldirektor der
uralschen und altaischen BergwerkQ versch」 nen ihin dne gute Aufnahme
in den gebildeten Kreisen der ural'schen Hauptstadto Er wllrde Hauslehrer
in der Fanlilie eines Bruders des Generals und besuchte gleichzeitig die
Bergakadenlie,wo er sich besonders auch auf das Studium der Chenlie,
soweit die Mineralogie es erforderte,legte.Teils mit seinen Z建 ユingen und
ihrem Vater,der Oberinspektor der Bergwerke lvar,teils allein wahrend
der Ferienwochen besuchte er die wichtigsten Bergwerke der ganzen
Uralkette und studierte die geologische Fo..1latiOn dieses wlchtigen und
reichen Gebirges,some auch die Systeme der Ausbeutung seiner Sdhtte.
Nach einem zwelahrigen Aufenthalt am Ural glaubte er sich hinl狙
glich
ペ テルブル ク
en。 “(pp.369‐ 370)。 「サ ンク ト
に短期間滞在 して、 ラ ドガ湖やオ ネガ湖 へ の旅行 をしたが、その後、 モ スクワ
経由でニージニーノブゴロ ドNischni― NowgoroOへ 行き、
そ こか らカザンに asa→
vorbereitet,seine Reise fortzuseレ
へ行つた。それから、蒸気船でペルミ (Pe....)へ 行き、郵便馬車でウラル山脈
の東側斜面にあるエカテリンブルクに向かった。ここで 2年 ほど滞在 し、実用
-176-
的な地質学 と鉱物学 の研究 をウラル地方 の鉱 山で行 うつ もりだつた。 ウラル地
方 とアル タイ地方 の鉱 山の総支配人 を している ヨセ Oosse)将 軍あて にサンク
トペ テルブル クで書 いて もらつた推薦状 が役 に立ち、カデル リー は ウラルの首
都 のエカテ リンブル ク Cekate五 naburg)で 教養あ る人び との間で歓迎 を受け、
将軍 の兄 弟 の 家族 の も とで家庭 教 師 をす る こ とにな つ た。 傍 ら、鉱 山学校
(Bergakademie)に 通 い、とくに鉱物学 (Mineralogie)に 必要な化学 の研究
に打ち込 んだ。
家庭教師先の子供たちとい くつ もの鉱山の総監督 (ObettnslektoD
をしている父親 といっ しよに ウラル 山脈 の重要な鉱 山を見 て回 つた。休暇中は
一 人で行 つた りしたのだが、 こ うしてカデル リー はウラル山脈 の重要な鉱 山は
こ とごとく見て回 つた。そ して、 この重要で豊かな山脈 の地質学的な構成や鉱
物資源 の活用方法 を調査・研究 した。 ウラル地 方 で 2年 間過 ごしたのであるが、
カデル リー には旅 を続 ける ときが来た と感 じられた のだった。」
そ の後、5年 間、シベ リア各地 を転 々 とす るが、
『伝記集』はイルクー ツク以
「伝記」ではカデル リーの関心 が主 に地 質学的、鉱
外 の都市名 はあ げて いない。
物学的なものだ った ことに も触れて い る。 モ ンゴルや満州地域 (中 国東北部 )
5年 間
との国境地帯や北部 の氷 に覆われ た地 帯 を歩 き回 つた とは書 いているが、
の詳細 は不明である。とにか く、ウラル を出発 してか ら 5年 後 の 1868年 の秋 に
llの 河 日の町 ニコ ライエ フスク (Nikolaiev/sk)
はシベ リアを横断 してアムールリ
までた どり着 いてい る。
中国経 由で来 日、離 日 してアメ リカに向か うカデル リー
伝記 の ここか らしば らくは 日本滞在 中の記述やそ の前後 の記述なので、該 当
する部分 を省略せ ず にすべ て 引用 しておきたい。
Im Herbst 1868,ftinf Jahre nach seiner Abreise vom Ural erreichte
Kaderli die Ktiste des Stillen MeereS.Die gesunde Lust von Nikolaiewsk
an der Amu.11ltindung,wo er iiber den Winter bis zur Wiedereroffnung
der Schifffahrt als Lehrer iln Hause des Mihtargouverneurs des
Kustengebietes und zugleich Kommandanten der rllssischen Flotte im
stinen Meere verweilte,stente seine durch die Strapazen der sibirischen
ReiSe auf'S AeuBerste erschtitterte Gesundheit so weit her,d』
er es wagen
du」 he,seine Reise“ unl die Erde"fottusetzeno China war sein nttstes
Zielo AuBer Hongkong und seiner Umgebung besuchte er Shanghai und
-177-
befuhr auf eine Strecke die beiden Haup』
おse Chinas,den IIoang‐ ]Io und
den Jangtse‐ Kiango Ausgebrochen Unruhen in Tiensin lieBen es」 hr einen
Europた r nicht ratsanl erscheinen,die Hauptstadt Peking zu besuchen. Er
schiffte sich deshalb nach dem japanischen lnselreich ein,das er sich zu
einer Hauptstation ausersehen hatte. lUeber zwei Jahre verweilte er in
diesem machtigen aufstrebenden Landeo seine Bekanntschaft ini dem
Rektor der Akademie in Jeddo,wie danlals Tokio genanllt wurde9 vemittelte
ihnl eine Berufung an diese Anstalt als Lehrer na枷
旺
nveissenschaftlicher
趾 her. Seine Stellung als Staatsbeamter gestattete ihnl,unter denl Schutz
der Regierung mehrere Reisen in's lnnere des lnsdlandes zu untemehmen,
die reiche geo10glsche und IIlineraloglsche Ausbeute elnbrachten.
Am 22.Juli 1872,an seinem sechsund宙 erzigsten Geburtstage,schiffte
er sich auf dem amerikanischen POstdampfer nach Amerika ein.Als
welも「ollsten Ertrag seines Aufenthaltes・ inJapan brachte er eine groSe 1580
Exemplare zahlende,wO mё glich alle mineralogischen Produkte Japans
enthaltende Sanllnlung uber den groBen Ozean. I)iejapanischeReglerung
hatte sich umsonst bemuht,ihm dieselbe abzukaufen. In San Francisco
schloS er mi deFrl grOBen Woodward'schen Museurrl dasdbst einen Kontlrat
dem zufolge er diesem seine Sanlinlung ir einige Jahre zur
Ausstdlung iiberlie3.(p。 371)
「1868年 の秋、ウラルか ら出発 して 5年 後 にカデル リす は太平洋岸 譴までた どり
着 いた。アムール川河 日のニ コライエ フスクで、 春 になって船 の航行 が可能 に
なるまで の間沿岸地帯 の最高司令官 であ リロシア太平洋艦隊 の指揮官 で ある人
の ところで家庭教師 として一冬 を過 ごした。 シベ リア旅行で極度 に疲弊 した健
康状態であ ったが、健康は回復 し、地球 一周旅行を続行す ることになった。 中
国が次 の 目的地だ つた。 香港 とそ の周辺以外では上海 を訪ね、 中国の二大大河
黄河 と揚子江を船 で旅行 した。 天津で の暴動 の勃発 のため ヨー ロッパ 人 として
北京へ行 くこ とが得策 だ と思 えなか つたカデル リーは北京行 きを断念 した。 そ
れで、次 の主要滞在地 として選 んだ 日本 へ の船 に乗 ることにした。ヵ デル リー
は 2年 余 り (ueber zwei Jahre)を この強大な発展途上 の国で過 ご した。江戸
は当時東京 と名づ けられ ていたが、江戸 の学校 (Akademie)の 校長 32の 仲介 で
自然科学科目の教員として (alS Lehrer naturweissenschaftlicher Facher)
この施設に雇用されることになつた。国家公務員としての立場のおかげで政府
-178-
の庇護 を受 け、 日本 の奥地 へ の旅行 を何度 も断行 し、地 質学 上や鉱物学上 の実
り豊 かな成果 (die reiche geologische und mineralogische Ausbeute)を あ
げる ことができた。
カデル リー は 1872年 7月 22日 にアメ リカ の郵使船 に乗 つた。 この 日は彼 の
46歳 の誕生 日であつた。日本滞在 中の最大 の成果 として 1,580点 もの鉱物、ひ ょつ
とした ら日本 に存在す るすべ ての鉱物 を網羅 した鉱物標本 の大 コ レクシ ヨンを
携 えて太平洋を渡 つた。 日本政府は この鉱物標本 の買取 りを希望 したが果 たせ
なか つた。ア メ リカ に渡 つてか らカデル リー はサ ンフ ランシス コの ウッ ドワー
ド博物館 とのあいだで契約 を交わ し、鉱物標本 を展示用 に数 年間貸与 した。」
「2年 余 り (ueber劉 聡i Jahre)を この強大な発展途 上の国で過 ごした」と書
いているが、滞 日期間 は、実際 は、 もつ と長 い はずである。開成学校 へ の採用
が明治 2年 6月 で、横浜 の市学校 との契約 が切れ るのが 明治 5年 6月 であるか
ら、少な くとも 3年 程度 の滞 日期間はあ つたはず である。
「カデル リー は 1872年 7月 22日 にアメ リカ の郵便船 に乗 った」 とあるが、
郵便船 (Postschiff)と は PoM.社 (Paciic Mail Steamship Company、 「太
平洋郵船」、「太平洋郵便汽船会社」)の ことで、当時、横浜か らサ ンフ ランシス
コに向か うものは月 に一度 の定期便 だ つた。カデル リーは明治 5年 1月 か ら 6ヶ
月間 の契約 を高島嘉右衛門 としていることが『 資料御 雇外国人』 の記述 か ら分
かるが、1872年 7月 22日 は明治 5年 6月 17日 だか ら、契約 の終了 とほぼ同時
に日本 を離れ、月 に一度 のサ ンフ ランシス コ行 きの船 に乗 つて アメリカ に渡 つ
た ことになる。
アメリカとカナダのカデルリー
翌年 の 1873年 の初頭 には少 し遠 出 して、北 カ リフ ォル ニ ア、オ レゴン、ワシ
ン トンを超 えて、ブ リテ イッシ ユコロンビアヘ の旅行 をお こな つた。ブ リテイ ッ
シ ュコロンビアでは土地の 団体 の依頼 を受 けて、バ ンクーバ ー島 の奥地 へ の地
質学調査 を指揮 した ("er[..』
untemahm im Auftrage eines dortigen
Gesenschaft die Fuhrung einer geologischen Expedition in's lnnere der
Vankouver‐ Insel“ 、p.372)。 詳細な報告書 を書 いている と「伝記」は述べ てい
るが、
依頼 を出 した団体名 も書誌情報 も「伝記」にない のが惜 しまれ る。バ ンクー
バ ー島の調査 か ら、 いつたん、サ ンフ ランシス コに戻 つてか ら、今度 は、東ヘ
向かい、 モルモン教徒 の土地であるグ レー トソル トレー ク地方へ と向か つた。
-179-
鉱物資源 の豊かなワサ ッチ山脈 には雪がまだ残 つていたが、カデル リー は軽テ
ン トで過 ごしたために肺炎 (Brtlstenttundu理 的 にな り、ソル トレー クシティー
で しば らくの療養 を余儀 な くされ た よ うで ある。健康が い くらか回復 してか ら
カデル リー はオ ハ イオ州 に向か う。 スイ スか ら母 と姉妹 が移住 してきているは
ずだ つた。「伝記」には父親 へ の言及 が最初 か らま った くないので、カデル リー
の家は母子家庭だ つたのか もしれない。 姉妹 の数 は明記 され てい ないが、複数
形 で書かれ ている。
"Notdttg hergestellt,reiste er nach denl Staate Ohio,wo er Mutter und
Schwestern, die unterdessen nach AIne五 ka ausgewandert waren,
wiederzusehen hoffte.Er kanl zu spat:die Mutter war gestorbe,;die
Schwestem fortgezogen.“ (p.372)。 「体調 がそ こそ こ回復する とカデル リー は
オ ハイオ州に向か った。オ ハ イオ州 には母 とカデル リーの姉妹 が移住 してきて
い るのだ。再会 で きるもの と行 つてみ た のだが、母は死 んだ後 で、姉妹 はす で
にその土地 を後 にしていた。」
"[.… ]er[...]besch淘
比igte sich einige Wochen init geologischen Studien
am Uta,deFrl Flusse zwlschen dem Ontano und dem Erie‐
See und wahlte
hierauf Toronto in Kanada zu seinem zeitwelllgen Aufenthalt Von hier aus
untemahm er irrl lnteresse schweizerischer Einwanderung nach Kanada
einerseits und der Pro宙 nzialreglerung andrerseits eine Erforschungsreise
nach denl Nipissing‐ See,an dessen siidlichen und sudё stlichen Ufem die
RegierLIng ein Areal von einigen hundert englischen Quadratmeilen schoner
Waldungen nlit gutenl Ackerboden zu einer ktinftigen Kolonie ftir
Einwanderer aus der Schweiz ausgesetzt hatte。 “(p.372)。 「オ ンタ リオ湖 と
エ リー湖 の間を流れるユ タ川で数週間 にわた つて鉱物学 の調査研究を行 い、 こ
の 目的 のためにカナダの トロン トにしば らく滞在 した。 さらに、 ここ トロン ト
か らニ ピッシング湖へ調査 に出か けてい る。カナ ダヘ のスイ ス移民 の ための調
査であ り、州政府 のための調査 で あ った。 ニ ピッシング湖 の南岸 か ら南東岸 に
か けて政府 は数百 マイル
(イ
ギ リスマ イル)の 土地 をスイス移民 のための移住
地 として提 供を約束 していたのである。」
カデル リーが ニ ピッシ ング湖 へ の調査 に実際 に出か けた ことは次節 の『 オン
タ リオ州 のスイ ス人 』の ところで詳 し く見 る。「伝記」にはいつの こ となのか書
いてないが、
『 オ ンタ リオ州 のスイ ス人』によれば、1873年 11月 3日 に出発 し
て、4日 後 にはニ ッピシング湖 に近い John Beatけ の農 園 に調査団の一 行 (カ デ
-180-
ル リー と 3人 の農夫 と案内のガイ ド1人 )は 着 いてい る。
アメリカ に渡 つてか らのカデル リーの活動 で忘れ てな らないのは、シベ リア
「伝記」の著者 もいつ どこで行
や 日本 につい ての講演 を行 つてい ることだろ う。
われ たのか正確な情報 は持 ち合わせていない よ うであるが、 ,Vergangenheit,
Gegenwart und wahrscheinliche Zukunft abendlandischer]Kulturin China
中国 と日本 にお ける西洋文明 の過去 と現在 と予想 され る未来」)、
シベ リア とそ の住民」)と い う講演 をニ ュー
"Sibirien und seine Bewohner“ (「
ヨー クで行ない、 ニ ュー ヨー クの新聞 にも掲載 された と述べ ている (「 伝記」、
p.374)。 シベ リア については、
(「 シベ リアの流
und Japan“
(「
"Die Verbannten in Sibirien“
刑者」
)と い う講演 もニ ュー ヨー クで英語で行 い、好評だ つた と「伝記」に書 か
れ ている (p.371)。 ニ ュー ヨー クで行 つた とい う講演 については、将来、過去 の
新聞情報 な どが 自由 に検索できるよ うになれば、 もつ と詳 し く調 べ る こ とがで
きるか も しれないが、今 の ところ、確認 はで きてい ない。
「伝記」 では、 モン トリオ ールか らボス トンまでアメ リカ動物学 の父 といわ
れ るハ ー ヴァー ド大学教授 ル イ・アガ シー (Louis Agassiz 1807-1873)を 訪
ねた ことな どにも触れて い る。サ ンフ ラ ンシス コで知 り合 い、ボス トンに会 い
に行 つた ところ、アガ シー はす でに死 の床 にあ つた と述べ てい る。したが つて、
これ は 1873年 だ つたはず で ある。アガ シー はスイス 出身 の著名な学者 で、カデ
ル リー は同郷 の学者 に会 いに行 つたわ けである。東京大学初代動物学教授 にな
るお雇 い教師 E.S.モ ースはハ ーバ ー ド大学時代アガ シーの もとで学生助手を し
ているか ら、アガ シー はお雇 い教師 とは縁がある学者であ つた。
ヨーロッパに帰り、マルセイユで死去するまでのカデルリー
,,Am 3.Juni 1874 betrat er nach Vollendung seiner zwolfiahrigen Reise
unl die Erde in Cherbourg wleder den europ■ schen Boden.“ (p.373ゝ 「1874
年 6月 3日 に 12年 間の世界周遊 の旅 を終 え、カデル リーは、シェルブールで ヨー
ロッパ の土 を再 び踏 む こ とにな つた」。シ ェルブールか らどうい うル ー トかは分
か らないが、イタ リア にまず入 つた よ うである。療養 が 目的 でまず ジ ェノバ に
行 き、そ の後 、やは り療養 の 目的 で マルセ イ ユ に向か った。
故郷 に送 つた手紙 には居ても立 って もい られない くらいに故郷 に帰 りたい よ
うなことも書いているカミ将来計画にも書いていたようだ。,Vorh五 g beabsichtigte
ett an der Akadenlie von Aix eine ihnl angebotene Lehrstene zu versehen,
dann gedachte er sich bleibend in New‐ York niederzulassen,wo ihnl eine
-181-
Stelle in der Redaktion eines der bedeutendsten Blコ 比er in Aussicht standf`
「とりあえず、エ クス (A破、エ クサ ンプ ロバ ンス)の 学校 (Akademie)
で彼 に申 し出のあ った職 につ き、そ の後 ニ ュー ヨー クに腰 を落ち着 けるつ もり
だ った。 ニ ュー ョー クでは重要な新聞 の一つか ら、編集部 の仕事が得 られ る見
(p.373)。
通 しが あ ったのである。」
結局、計画は実現 されず に、1874年 12月 31日 にマルセ イユ の病院 でカデル
リーは死 去 した。死 因は肺炎 (Lungenentzundung)だ った ようだ。 ドイツ・
プ ロテスタ ン トの牧師が病院 に到着 した ときにはす でに意識不明で、遺言 を残
す こともな く、世界を駆 け巡 つた とき と同 じ孤独 さの うち に彼は死 んだ、と「伝
記」は書 き記 している。
3.3『 オ ンタ リオ州のスイス人』 の Jacques
Kade‖
i
1870年 代にカナダのオ ンタ リオ州へ のスイ ス人移民を精力的 に仲介する仕事
をした女性がある。エ リーゼ・フォ ン・ケル バ ー男爵夫人 (Elise von Koerber)
とい うドイツのバ ーデ ン公 国出身 の未亡人である。彼女 はカナ ダ政府やオ ンタ
リオ州政府 と交渉 し、また、 ヨー ロッパ まで出向いでカナダ移民 の宣伝活動 を
し、農民、時計工、家政婦、孤児な どをカナ ダに送 り込んでいる。“By the end
of 1875 she had 400 immigrants to Canada,the nlaiority of them
S宙 ss."(p.90)。 エ リーゼ・ フ ォ ン・ケル バ ー は 1875年 末 まで に 400人 の主 にス
イス人か らなる移民 をカナ ダに送 り込 んだ ので あるが、カナ ダの国勢調査 の 出
身国 に彼女 の活動 の結果 を見る ことがで きる。1871年 にはカナダ全体 で 2,963人
のスイス出身者 がいて、その うちオ ンタ リオ州は 950人 だ ったのが、10年 後 の
1881年 にはカナダ全体 で 4,588人 の うちオ ンタ リオ州が 2,382人 と過半数 を超え
るまでにな つてい るのである (p.243)。
じつ は、アメ リカか らカナ ダに渡 つたカデル リー はエ リーゼ・ フォン・ ケル
バ ー と知 り合 い にな つて いて、カデル リーは彼女 の依頼 でスイス人移民 のため
の土地 の調査 をしているので ある。 この調査旅行 については 「伝記」 に も記載
されてい るし、調査 自体 は事実 だ つた と思われ る。
,Ⅳ
ron hier(=TrOnto)auS unternahm er ilm lnteresse schweize五
scher
Einwandertlng nach Kanada einerseits und der Pro宙 nzialreglerung von
Ontario andrerseits eine Erforschungsreise nach dem Nipissing‐ See,an
dessen stidlidhen md ttdichen Ufem die Regie― g eln Areal von elnlgen
hundert englischen QuadratFrleilen schё ner Waldungen nlit gutem
-182-
Ackerboden zu einer ktinftigen Kolonie l適
『
「ここ
Einwanderer aus der Schweiz
ロン ト)を 基点 にしてスイス
人 のカナ ダ移民 とオ ンタ リオ州政府 の両者 のためにニ ビッシ ング湖へ の調査旅
、p.372)。
ausgesetzt hatte。 “(「 伝記」
(ト
行を行な つた。 ニ ピッシング湖 の南側 と南東側 の土地は良 い耕地 の付 いた数百
平方イギ リスマイルの素晴 らしい森林地 で あ つたが、政府は将来 のスイ ス移民
のための移住地 とす る こ とを約束 していた土地 で ある。」
「伝記」 の書 き方 だ と、カデル リーが直接 オ ンタ リオ州政府 の依頼 を受 けた
か の よ うに思 えるが、
『 オ ンタ リオ州 のスイス人』では、 フォン・ケルバ ー夫人
がカデル リー に頼 んだものの よ うで ある。
h Toronto she was introduced to the distinguished sdendst and traveller
“
Jacques Kaderli,a professor of minerology from Beme,who was retuming
from scientific expedition to Japano She persuaded hiFrl tO lead an
exploratory patt to the Nipissing reglon.In the paJけ
were three fa..1.ers,
Jacob Brunschweiler from St.Gall,Eduard Schnlid of Basd,and Eduard
von Zuben of Alpnach in the half‐ canton of Obwalden,all of whom were
respected agnculturalists and,in her words,“ experirnental econonlists."
Accompanied by a guide,Jacques Kaderliled the expedition nbrth to the
buiming ofthe Rosseau‐ Nipissing∞ lonization road,v7hich,though ne― g
completion after seven years of construction,was open for its fulHength
only for unter traffic.On 3 Noverrlber 1873 the pa■
four days later aFriVed atthe fam ofJohn Beal対
y set out by sled and
near Nipissing."(pp.84‐ 85〉
「 トロン トで彼女 は著名な科学者 であ り旅行家 のカデル リー に紹介 された。ベ
ル ン出身 の鉱物学教授 で、 日本 か らの学術調査旅行 の帰 りであつた。彼女 は彼
を説得 して、ニ ピ ッシ ング地域 の実地調査隊 の指揮 をとつて もらうこ とにした。
調査隊 の メンバ ー には二人 の農夫、ザ ンク トガ レン出身 のヤ ー コプ 0ブ ル ンシ ュ
ヴアイラー Oacob Brtlnschweiler)、 バーゼル出身のエ ドゥアル ト0シ ュミッ
ト (Eduard Schmid)、 準カン トン・オプヴァルデンのアルプナハ出身のエ ドゥ
アル ト・ツーベ ン (Eduard von Zuben)の 二人だつた。二人 とも立派な農業
家 (agriculturalists)で 、彼女の言葉では『 実験エコノミス ト』(expe五 mental
e∞ nomists)だ つた。道案内も同行 したが、カデル リーは ロッソ・ニ ピッシン
グ移住民道路のスター ト地点の北側への調査 の指揮を とつた。道路は 7年 の建
全長が通行可能になるのは冬 の時期だけだつた。
築期間が経 とうとしているが、
4日 後 にはニ ッピシング湖 に近い
調査隊は 1873年 11月 3日 にそ りで出発 して、
-183-
ジ ョン・ビーティー oOhn Beatサ )の 農園 に着 いてい る。」「著名な科学者であ
り旅行家 のカデル リー」や 「ベ ル ン出身 の鉱物学教授 で、 日本か らの学術調査
旅行 の帰 り」 の ところは信 じがたい 内容 で あるが、カデル リーの経歴詐称的傾
向 については次章 でま とめて扱 い たい。
カデル リー は実地調査 の報告書 を書 いた らしいのだが、 内容 につい ての『 オ
ンタ リオ州 のスイ ス人』の著者 の書 き方 はややあい まいで ある。“Members of
this party appear to have found the Nipissing region suitable for
colonizadon,for their report was glo宙 ng。 "(p.86)。 「この調査隊 の メンバ ー
にはニ ピ ッシング地域 は移住地 に適 している と思われたよ うだ。なぜ な ら彼 ら
の報告 は熱烈だつたからだ。
Kaderli's fornlal report was most favourable,
。“
」
too;in it he expressed the hope that there Fnight soon flourish``a new
Helvetia in Canada"and that the distttct might“ become a happy home
to hundreds and thousands"of Swiss immigrants."(p.86)。 「カデル リーの
公式報告 は きわ めて好意的なものだ った。 この地域 がカナ ダのニ ュー 0ヘ ルベ
ティア 踏として繁栄 して、何百、何千 ものスイ ス移民 のふ るさととなつてほしい
とい う希望 をそ の 中で表 明 している。」。無条件 に移住適地 と判断 したかのよ う
にも読めるが、
別の調査者の報告 と比較 している部分で,よ “
This report is unlike
those written by Professor Kaderli,JoE.Haus宙 rth,aFld Elise von Koerbe島
all of whOm weighed their statements carefuny and wamed immigrants
of possible problems."(p.107)。 「カデル リー教授や J.E.ハ ウス ヴィル ト CE.
Haus宙 rth)や エ リーゼ・ フォ ン・ ケルバ ーの報告 では二人 とも慎重な発言を
していて、起 こ りうる問題点 につ いて移民 に警告す る内容 になつていたが、オ ッ
トー 0ハ ー ンの報告 は異な つていた」。 これでは、手放 しで推薦 とい うことには
「伝記」に もカデル リーのニ ピッシング地域 の調査 についての見解 が
な らない。
紹介 されているが、カデル リーの調査報告 は全体的 には好意的な判断を下 した
としてい るが、 同郷人 に移住 を勧めるものでは決 してな く、移住 をすでに決め
ているひ とへ の指針 としてな ら報告 を公表 してもいい と許 可 したのだ と書 いて
レヽる (p.372)。
『 オ ンタ リオ州 のスイス人 』 で触れ られて い る 「著名な科学者」であるカデ
ル リーの発言 としては、 も う一つ 、植物 の生育期間 の点 でニ ピッシング湖 がス
イス北部 の コンス タンツ湖 (ボ ーデ ン湖 )周 辺 に似 ている と発言 し、 コンスタ
ンツ湖周辺 で育つ様 々なブ ドウの種類 が ニ ピッシング湖周辺 で も育つ だ ろ うと
述べ た と書かれてい る (p.86)。 現在 で もカナ ダワインの生産 の 中心地 はオンタ
-184-
リオ州 に限 られ ているよ うだか ら、土地 の鑑定 の専門家 で も農業 の専門家 で も
ないカデル リーの発言 はまるっ き り間違 つていた とい うことはなか つたよ うで
ある。
4.カ デル リー はなぜ変名を使 い、なぜ経歴 を詐称 したのか ?
「伝記」 で明 らかにな つたカデル リー は 日本 のカデル リー像 か らは予想 の付
かない もので はなか つただ ろ うか。ナポ リ王 国での備兵 として の活躍、ク リミ
ヤ戦争へ の参加 、ワル シャ ワのフ ランス領事館 で の大暴れ 、シベ リア放浪 、華 々
し くい ろい ろな こ とが出て くるのに興味 をそそ られ、驚 いた。 しか し、わた し
『 カデル リー文典』
が一番驚 いたのは、 日本最初 の ドイツ語お雇 い教師で あ り、
を書 いた ことを故郷 の人び とにはま った く知 らせていない ことで ある。お雇 い
『カ
教師 として のカデル リーの業績 は、日本最初 の ドイツ語お雇 い教師 であ り、
デル リー文典』を書 いた ことだ とわた しは考 えてい るが、カデル リー 自身 にとつ
ては重要な こととは考 えていなか つた よ うだ。
日本 で変名 を使 つていた ことにも驚 か された。しか し、日本 で Kade4yを 使 つ
liで 終わ る姓 "は スイ スを合 めたア レマ
た こ とには悪意 は感 じられない。本来、‐
ン系 ドイツ語方言 の姓 で ある。 ところが、a,e,i,o,uの 母音 で終わ る姓、とく
に iで 終わ る姓 は英米 では珍 しい。アメ リカ人 の姓 の頻度表 “で上位 2,000姓 に
iで 終わ る姓 にしても Rossiが あるくらいである。
liで 終わ る姓は見つ か らない。
一方、yで 終わ る姓な らかな り多 い。上位 200位 に限 つて も、Murphy,Kdly,
Bailey,Gray,Peny,Murray,Kennedy,Henry,Kelley,Beny,Bradley,Rlley,
Rayが 見つ かる。カデル リー が 日本 で Kaderlyを 使 った の は、おそ らく、日本
人や英米 の 同僚 に分 か り易 い姓 に改変 した ものだろ う。イ ンターネ ッ ト検索を
してみ ると、スイ スの アメ リカ移民 のひ とに Kaderlyと い う人が検索できるが、
同 じよ うに、英語式 に改変 した姓 だ ろ う。なお、 リンパハ村へ 行 つた ときに電
カデル リーの生まれ故郷である リンパハ には Kaderli
現在、
話帳をしらべてみたが、
とい う姓 のひ とは住 んでい ない。電話帳 に出てい る近郊 の村や町 には 1軒 か ら
数軒程度は Kaderli姓 のひ とが出てい ることは確認 で きた。ただし、Kaderlyと
い う表記 はな く、すべ て Kaderliで ある。
『 カデル リー文典』にはイ ニ シャル の
Kの 詩 が収 め られ ているが、この場合 の変名 もカデル リーのお遊び と見る こと
ができるだろ う。
一方、カナダでの変名の場合はヤーコプ Cakob)を ジャック Cacques留 )
the distinguished sdendst aFld traveller
に変えただけでなく経歴も偽つている。“
-185-
Jacques Kadedi"(『 オ ンタ リオ州 のスイ ス人』、p.84)と 書 かれているのが誤
「著名な科学者」とい うの も真実 とは言 い
解 に基づ くものだ とは考 え られない。
がたい し、“a professor of minerology from Beme"(前 掲書、p.84)と い う
「鉱物学教授」とい うの も変である。カデル リーが鉱山学、鉱物学、
ところで も、
地質学 と言われ るよ うな学問分野 に詳 しかつたのはおそ らく事実であろ う。
「伝
記」 の記述 をま とめる と、イギ リスや アイル ラン ドに滞在 した ときには講義 を
聴 いた り、大英博物館や ダブ リンや エ ジンバ ラの博物館 の鉱物 コ レクシ ョンを
訪ねてまわ ってい る。また、 ウラル 山脈 の重要な鉱 山を見て回 つた ことも書か
れてい るし、鉱 山学校で聴講 した りも している。 シベ リアの各地 に 5年 間滞在
しているが、その際のカデル リーの関心が、自然科学研究、とくに地質学研究、
鉱物学研究 にあったことも「伝記」 に書 かれてい る (,,Das Hauptaugenmerk
richtete Kaderli uberall auf nattrwissenschaftliche,besonders geologische
und mineralogische Forschungen“ 、p.370)。 しか し、だか らといつて、「鉱
物学教授」と名乗 るの は経歴詐称 に他 な らないで あろ う。「ベ ル ン出身」と説明
した こ とについては、 リンパハ では誰 も知 らないので、ベ ル ンの近 くとい う意
味 で こ う言 つた ものか もしれない し、カン トン・ベ ル ンの 出身 とい う意味な ら
間違 いで はない。 しか し、 日本 での学術調査 を終 えて帰 る ところ とい う説明も
している らしいので、かな り悪質な経歴詐称 だ と思われ る。日本でのカデル リー
は
『 カデル リー文典』の表紙では Lehrer der deutschen Sprache und Literatur
(ド イツ語 と ドイツ文学 の教師)と 書 き、「教授」 (PrOfessoDで はな く、「教
師」 (LehreDを 使 つている。
『 オ ンタ リオ州 のスイ ス人』 の 中で描 かれ ているカデル リー は経歴 を詐称 し
「伝記」のカデル リー に もそ の傾 向は見 られ る。日本での経歴 の説明
ているが、
がやは りおか しい。 自然科学科 目の教師 として働 き、地質学 の調査旅行を何度
も行ない、 日本産鉱物標本を大量 に集 めた鉱物学研究者 として描かれているか
らだ。当時 は外国人 が 自由 に旅行 できたわ けではな く、伺 いや届 けが必要 であつ
たか ら、地質学的な調査 を何度 も行な うとい うのは有 り得ない と思われる。公
文書 の『 太政 類典』 で確認 で きるの は 「相州箱根 へ旅行」 (明 治 2年 12月 )と
「伊 豆熱海」(「 大学南校 ノ雇教師瑞西國人カデル外数名休業 中旅行」、明治 3年
12月 23日 )ぐ らいで ある。あ とは、病気 が理 由で横浜 に旅行 した ときの「南校
雇教師独逸人カデル リー病気 ニ ヨ リ横浜へ旅行 ス」 (明 治 3年 11月 )と い う件
名で見つか る旅行 ぐらいで ある。
日本 の資料 ではカデル リーが鉱物学や鉱 山学 の授業 をした とい うこ とを示す
-186-
ものはま つた くない と言 つていい。 当時 の 日本 にはまだなか つた学問である:
日本 で最初 に鉱物学 を教 えた と一般 に考 えられてい るの は、カデル リーが南校
『 資料御
をやめた明治 4年 11月 か ら入れ替わ りに採用 されたシ ェンクである。
雇外国人』に引用 され てい る「傭外 国人教師講師名簿」(自 明治二年至昭和二年 、
「後チ専門学科 ノ設置 セ ラルヤ、彼 ハ其教師 ニ
東京大学)を 孫引き してお こ う。
擢用 セ ラ レ、及チ鉱 山学 ノー科 ヲ担 当 シ、勤勉職 ヲ奉 シ以テ善 ク其任期 ヲ全 ウ
ス …我学生 二専門学科 タル鉱 山学 ノ大意 ヲ授ケシハ彼其晴矢 ニ シテ、其功ヤ亦
看過 スベ カラサル モ ノア リ」。シ エン クはクニ ッピングの義 理 の兄 (姉 の夫)で
もあるが、
『 回想記』で もシ ェン クについ ては鉱 山学 との関わ りが述べ られ てい
るが、カデル リーについて そ の よ うな ことは述 べ られて いない。また、 日本人
で もつ とも早 く鉱物学 をは じめ、鉱物標本 コ レクシ ョンを集めた ことで も知 ら
れ ている和田維四郎 (つ な しろ う)は 明治 3年 の大学南校入学時 に ドイツ語 を
選択 した貢進 生 のひ と りであ り、カデル リー に ドイツ語 を学んだ ことは十分あ
り得 る と思われるが、和 田がカデル リー に鉱 山学、地質学な どを学んだ り、影
響 を受 けた とい うような こ とを示す資料 も存在 しない。和 田の書 いた教科書 の
第 3版『 日本鉱物誌』 (上 巻、伊藤定 一 、桜井欽 一共編、中文館書店、1947)の
冒頭 に「本邦産鉱物 に関す る研究 の発達 と本書 の成 立 」があ って、「我国 に於い
て鉱物学を 自然科学 の一分科 として取扱 いたるは明治維新 の後 にて、それ以前
には鉱物 は唯好事家、玩石家 と称す る一部 の人 々の間 に愛玩せ られたるに過 ぎ
「明治六年、東京 に開成学校開設せ られ、ドイツの鉱山技師カ ール・
ず」と述 べ 、
シ ェン クを して鉱物学 の講義 を行なわ しめた り。これ我国鉱物学 の濫場 にして、
当時同校 ドイ ツ部 の学生 に和 田維四郎あ り。」と述 べ 、明治 6年 を 日本 の鉱物学
の授業 の最初 と見 な している。
カデル リーが大学南校 で 自然科学を教 えた とい う「伝記」 での主張 に多少な
りとも根拠 があ りそ うなのは、大学南校 で作成 され、1871年 に出版 され ている
ドイツ語教材 D%お ω ιωι‐%π ″υttι %4gsb%σ 力。Erstes Heft(『 ドイツ語 の読
`″
み物 と演習』第 1巻 )の 石炭 と炭鉱 についての章 だろ うか。 この教材 は、 日本
の最初期 の ドイツ語教材 の一つで あるが、序文 もな く、解説 もな く、編著者名
もな く、誰 が どの よ うにして作成 した教 材 か 明確 な ことは分 か つてい ない。理
系 の入門読み物 の章 が幾つ か含 まれ ているし、かな り詳 しい石炭 と炭鉱 につい
ての章 がある。拙稿 (城 岡 2006)で は、カデル リー と大学南校 の二人めの ドイ
ツ語お雇 い教師 の ワグネル (物 理学・ 数学分野 の博 士号 とギ ュムナ ジ ウムでの
数学 と理科 の教師資格 を持 つ )の 二 人 の可能性 の 中で、カ デル リーが この ドイ
-187-
ツ語教材 の編集 に関与 した可能性 はほ とん どないだ ろ うと述べ た。 しか し、拙
稿 の執筆時 にはまだ入手 していなからた 「伝記」 のカデル リーの経歴 な ども考
慮 に入れ ると、石炭 と炭鉱 についての章 の ドイツ語文はカデル リーが書 いた可
能性が出てきた と思われる。 この教材 では ドイツ語文 の章 には 日本語 の抄訳 が
‐
付 けられ る形式を基本的 に とってい るが、 この章 では抄訳 もほ とん ど付 けられ
ていない。 この章 は、独和辞典 も出版 されて いない 当時 の学生 にとつては、手
に負 えるよ うなもので はなか つた と思われ る。 したがって、カデル リーが この
章 を元に石炭や炭鉱 についての授業がで きた とは思 えない。 しか し、 この章 を
書 いたのがカデル リーで あ つた とす るな らば、大学南校で鉱 山学や 自然科学 の
教育 に携わ つたのだ と言 えない ことはな いか もしれない:
「伝記」 には 日本産 の鉱物標本 の コ レクシ ョン、「1,580点 もの鉱物、ひ ょつ
とした ら日本 に存在す るすべ ての鉱物 を網羅 した鉱物標本 の大 コ レクシ ョン」
を集めて、サ ンフ ランシス コの ウッ ドワー ド博物館 に貸与 した と書 いて あ るが、
この内容 も極めて疑わ しい。仮 に多 くの鉱物標本 をカデル リーが持 つていた と
して も日本 で収集 した とい うの は考 えに くい。 ウラルや シベ リアな どで集めた
ものだつたのかもしれない。カデル リーの鉱物標本 が展示 された と「伝記」 で
述べ られ てるサ ンフ ランシス コの ウッ ドワー ド博物館は現存 しないが、 当時 の
展示品について何 か分 かれ ば確認 できる もの と思われ る。カデル リーの 日本産
鉱物標本 の コ レクシ ョンの話 は、 当時 の 日本 の鉱物学 の状況 か らはお よそ考え
られない ことで ある。それは『 日本鉱物誌』の次 の よ うな記述 か ら分かる。「そ
の頃の教育施設はすべ て不完全 にして、僅 かに外 国 より購入せ る百余個 の小型
鉱物標本 と、 ロイ ニス博物学一冊 とを有す るに過 ぎず、本邦鉱物 の如きは一 も
備えられず、又結 品の如きも学生 自ら板紙 を以 つて制作 したる有様な りと云 う」。
カデル リーの鉱物標本 は、本 当な ら、当時 の水準か ら言 えば確かにす ごいこ と
であるが、 日本政府が買 い上 げよ うとした とい う記録 も日本側 の資料 か らは見
えない。
「著名な鉱物学教授」はカデル リーの夢見 た理 想 の職業 だ つたのかもしれな
い。カナダでは経歴詐称 によつて 自分 の夢 を実現 させた とい うところだろ うか。
オ ンタ リオ州北部 のニ ピ ッシング湖南東部 の沿岸地帯が スイスか らの移住 に適
した土地か どうかを調査 して、3人 の農夫 を連れて調査旅行をして、鑑定報告を
フ ランス語 で書 いてい る。
『 オ ンタ リオ州 のスイス人 』によると、この調査報告
は公刊 された もので はないが、スイスのベ ル ンで 印刷 された冊子 の付録 として
出版 された もので、カデル リーが変名を使わなか った ら、ヤ ーコプ 0カ デル リー
-188-
を知 つているひとが出てきて、経歴が暴かれ、農家の下働きから身を起 こし、
出奔 して、ナポ リで傭兵 にな り、その後、傭兵 くずれ としてあちこちを旅行し
て回つた男だと見破 られてしまったか もしれない。カデル リーが何 としても避
けたかったのは、著名な鉱物学教授でないことがばれてしま うことだったので
はないだろうか。おそらく、カデル リーがカナダで変名を使 つたのはそんな こ
となどいろいろ考えたあげくの行動だつたのではないだろうか。
【
参考文献】
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-189-
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384‐388。
ユネス コ東アジア文化研究センター編 (1975):『 資料御雇外国人』
、小学館。
注】
【
l Schalunenの 自治体運営 のホームペ ー ジでたずね た ところ、複数 の発音 の仕
方 があるが、普通 はル ー にアクセ ン トを置 いて 「シャルーネ ン」 の ように発
音す るとい うことだつた。
2ィ ンタニネ ッ ト上で共有 され る百科事典 の 国際的な プ ロジ ェク ト.市 販 され
る既 存 の百科事典 よりも情報量が桁違 いに多 い。
3 http://wttnv.2xn。 こ
h/kirche.htm
4『 東京開成学校 一 覧』 の明治 8年 版 は国立国会 図書館 の近代デジタル ライブ
ラリー (http:〃 kindai.ndl.gojp/)で 公開されているので、閲覧、ダウンロー
ドが可能 で あ る。
5『 東京開成学校一覧』の明治 9年 版は国立公文書館に所蔵がある。
6『 東京帝国大学五十年史』(上 冊、第 2篇 )に 「当時の名称 に関 しては或は開
成所 と称 し、或は開成学校 と称 し、記録 に於て一致を欠 くも、医学所が復興
せ らる ヽと共 に医学校 と改称せられたる例 に徴すれば、本所も亦復興 と共 に
開成学校 と改称せ られたるにはあらぎるか」 と断定を避 けた書き方がなされ
ている。
7 Gottfried Wttener
8 v.H。 1レ
10
Karl Schenk
' Erwin]Knipping
llす でに丼 上哲次郎 が 日本 に於 ける独逸語研究 の起源及び其 の発展』(日 独文
『
化協会、1934)の 中で司馬凌 海 の語学 の才能 につ いて 「天才」、「天才者」 と
い う言 い方 を して、彼 のエ ピソー ドな どを紹介 している。
12 http://hls‐
dhs‐ dss.ch/index.php
13「 _覧 」 とい うの は、複数 の大学 を表 にした もので はない。東京大学史史料
「
室HPで は、
『大学一覧 (要 覧)』 とは、大学が公式 に発行する年度 ごとの大
学 に関するあらゆるデータを網羅 した情報発信媒体であり、大学の全体像を
提える最大の基幹史料・文献 といつて よいでしょう。 卜・]な お、一覧が欠け
-190-
ている年 は、殆 どの場合『要覧』が発行 され ています。
『 要覧』は一 覧を コン
パ ク トにしたもので、
一 覧が発行 されなか った年度 に限 り発行 され ています。
」
と説明 している。
14明 治 9年 版 の
の英訳 Histodcal
『東京開成学校一覧』には「東京開成学校沿革略史」
Summary(裏 からpp.9‐ 13)も 付けられているが、英訳はわりといい加減で、
皇紀 2529
明治 5年 までは和暦 と西暦が単純に対応していないにもかかわらず、
つい
の
ても「大学
年 6月 をそ まま西暦 1869年 6月 に対応 させている。校名 に
南校」や 「南校」は使われず に Kaisei Gakkoで 通 している。カデル リーの
採用 について も英訳ではまった く訳 されていなぃ。かわ りに、In June 1869,
a Ge..1.an Depar加 ℃nt was added to the school。 つまり、
学校 に ドイツ学
科が出来たのは 1869年 6月 とい う説明で済ませている。
15明
「二千
治八年版の『 東京開成学校一覧』の方が分か り易い記載内容である。
五百二十九年翌埠六月独乙語学ヲ加設シ瑞士國人「カデル リー」ヲ以テ教師 ト
ス」 (p.3)。
16「 日耳曼」は 「ぜ るまん」 と んで、 ドイツの こと。
読
17日
本人教師 が圧縮 した版 を出版 した と考 えられ る第 2版 以降では 5ペ ー ジか
ら 12ペ ー ジまでが発音 の説明で ある。この部分 は初版 と同一 内容 だ と思われ
るが、文 字 の大 きさを変 えた り、ペ ー ジを大 き くした りして、ペ ー ジあた り
の文字数 を変 えてい るためである。
1819世 紀 にはまだ Tal(「 谷」)が Thalと 書 かれ るな ど、 ドイツ語本来 の語 に
も大量 に thが 使 われて いたが、1901年 の正 書法改革 で thの 表記は外来語を
残 してや めて しま う。発音 の差がなか つた ことに基 づ く措置 であると思 うが、
19世 紀後半 の ドイッの学校文法 の教科書『 シ ェー フ ェル 文典』で も この二つ
については今 日の捉 え方 とは こ となる説 明を してい る。tを harte Laute(硬
音 )に 入れ、thを gehauchte Laute(息 の 出る音 )に入れ、ch([x]あ るい
は [c]の 音価 )や fと 同 じタイプの音 として区別 している
(1868、
第 7版 、
今 日一 般的な音声学 の用語 に直す と、tを 無声閉鎖音、thを 摩擦音 の
よ うに説明 していることになって しまい、カデル リーの説明以上 に奇異な解
p。 116)。
釈 である。
19山 岸 (1937a:62)│こ 「この独和辞書 の編輯 には誰 が従事 したか といへ ば、南
校教師カデ リー と少助教相原重政 、三浦祐 次郎 、木村繁生 の四人 が関係 した
ことは、同記録 (=東 京大学本部 に所蔵 される南校記録 のこ と)に 見 えてゐ
る」 とある。
-191-
20こ の
記述が何 に基 づ くのか不明。
21『
では この
資料御雇外国人』
記載 が『 太政 類典』か らとな ってい るが、
『 公文
録』 が正 しい。
2ミ ュル ヒは リンパハ の南西部 にある隣村。 ミュル ヒには今 日で も Kaderli姓
の人が何人か住んでいるよ うで ある。
四 ドイツ文字 の印刷字体では大文 の Iと
字
Jの 区男Jが な く、イニ シャルは Iと も
読 める。当時 は、
Johannと か Jakobと か Josefが 男性の名前 に多 かうたので、
可能性 として高 いの は Jと 考 えて、 い ちお う、Jと 表記 しておいた。
2ス イスのフ ランス語圏 のカ ン トンで、州都 は ローザ ンヌ。
あ Fortbildungsschulenは 複数形な ので、
複数 の学校 に通 つた ようである。小
学館 の『 独和大辞典』 (1985)で は Fortbildungsschuleの 訳語 として 「農業
実科学校」 も載せ、スイスやオ ース トリアの用法 としているが、カデル リー
が通 つた学校 が 「農業実科学校」 と言 うべ き種 類 の学校 で あ つたかは不明。
26『 スィ スの歴史』(U.イ ム・ ー フ、刀水
ホ
書房、1997)に 「備兵出稼 ぎは、一
八四八年 に制度 としては廃止 された。 しか し、現実 には、最後 のスイス人部
隊がナ ー ポ リ王 国か ら帰還 したのは、 よ うや く五八年 の こ とである。個人 と
しては他国の部隊 に加わることは、一九 二七年まで容認 されていた。」(p.183)。
カデル リー は後 にク リミヤ戦争 に際 して もフ ランス軍本部 で働 くが、 この と
きは個人 としてフランス軍 に参加 した もの と思われ る。
27ス ミルナはギ シア で、 ル コのエー
リ
名
ト
ゲ海 の都市イ ズ ミールの こ と。
四 トル コの黒海沿岸 の都市 で
現在 は トラブゾン (Trabzon)。
29「 伝記」 では Generalkonsulat(「
総領事館」)と い う語 は使 ってい るが、
Generalkonsul(「 総領事」)と い う語 は使 っていない。一貫 して Konsul(「 領
事」)を 使 つてい る。総領事 と領事 を区別 してい ないのだ ろ うと思われ るが、
ここで は 「伝記」 の記述通 りに 「総領事」 としないで、「領事」 とした。
30ヮ ルシ
ャワか ら 180キ ロ離れ た都市 で 当時 はプ ロイセ ン領。
31正 確 にはオホーック海 と
言 うべ き ところ。
32こ の
校長 (Rektor)と い うの は誰 の ことだ ろ うか。1.1で 引用 した『 東京開成
学校一 覧』 (明 治 9年 版)の 「東京開成学校沿革略史」 に基づいて考 えると、
素直 に解釈すれ ば、頭取 の内田恒次郎 か、学校 の校務 を担 当した学校権判事
の細川潤次郎 の ことになる と思われ る。カデル リーの 2ヶ 月前 に採用 された
フルベ ッキはのちに教頭 とい う立場 で学校 の運営 に精力的 に関与 し、外国人
教師の斡旋 も行 うが、フルベ ッキの可能性 はない と思われ る。なぜな ら、 フ
-192-
│││
ルベ ッキが教頭になつたのは、大橋・平野 (1988:373)で は明治 3年 7月 、
『新訳考証 日本のフルベ ッキ』の付録 の年表では 1870年 11月 頃 (旧 暦 10
月)と され、はつきりしないが、いずれ にしてもかな り後のことである。明
治 2年 6月 のカデル リーの採用をフルベ ッキが斡旋 したとい うことは有 り得
ない。
田Brustenレ undungは 正 しくは Masutisの ことで「乳腺炎」のことらしいが、
Lungenentzuhdungの 意味で使 つたもの と解釈 した。
Mヘ ルベテイア (Helvetia)は スイスのこと。
,
35D%滋 πλ πグ
マ
π (2000)に よると、ア レ ン系 ドイツ方言の姓の末
ル%π απι
liが ‐
lyに
liは ‐
linと 同 じとい う記述がなされている。また、‐
尾に見られる ‐
なるとは述べていないが、同じようにア レマン系 ドイツ方言で使われている
yも 見られ るとい う記述があ り、
Emiと Emyを あげて
iの 場合は ‐
末尾形式 ‐
いる。
木村正史の『英米人の姓名』(1980、 鷹書房弓プレス)及 び『 続英米人の姓名』
“
(1997、 鷹書房弓プ レス)に 掲載されているアメリカの上位 2,000姓 を対象 に
調査 した。
W Kaderlyに しても、Kに しても、Jacquesに しても、カデル リーの変名は、
名前の一部を残 しているとい う共通点がある。カナダで使ったJacques Kadedi
は、本名を隠 し、本当の経歴が明らかにならない ようにする目的があつた と
思 うが、同時 に、みずから隠れておきながら、手がか りを出す ことでいつか
自分を見つ けて もらいたいと思 つていたかのよ うである。なお、 ドイツ語の
JakObと フランス語 の JacqueSは 語源的対応関係 にある。つまり、Jakobは
Jacquesの ドイツ語形であ り、Jacquesは JakObの フランス語形である。し
“
かし、だからといつて、名前を翻訳 して使 うとい うのは普通のことではない。
Comte‐ Rendu de mon exp6ditton
カデル リーの報告はフランス語で書かれ、
sur les(6tes Sud― est du lac Nipissing,au Nord de la province Ontarlo
en Canada(oCtObre et novembre 1873)(「 ニ ピッシング湖南東岸地域の調
査報告、カナダのオンタリオ州北部 (1873年 10月 と 11月 )」 )(『 オンタリオ
p.251)。 Comte‐ Renduは Compte‐ Renduが 正しい ようだが、
、
州のスイス人』
『 オンタリオ州のスイス人』に書いてあるままにした。
追記】
【
脱稿後に『横浜市史稿 教育編』(横 浜市役所、1932)と 『東京大学百年史』
-193-
(通 史1、 1984、 以下『 百年史』と略す)の ヵデル リーの記述 に 目を通す こ とが
で きた。本 稿 で述 べ た 内容 と関係 が深 く、内容 を補足す るよ うな記述 もあ り、
追記 のか た ちで も触れてお くのが必要 で あると判断 した。また、見解 を異 にす
る点 もコメン トとして述べ てお きたい。
まず、
『横浜市史稿』であるが、
『 高島嘉右衛門 自叙伝』(実 業之横浜社、1917)
か らの引用があ り、そ こには、「教師には瑞西人カ ドリー氏 を聘 した り。氏 は大
学南校 に七千弗 の年俸 を以て傭 はれたる人 にて、 是 に獨・ 佛語 を教授せ しめ」
とあ つた
(p.11)。
カデル リーが横浜 の市学校 でフ ランス語 と ドイツ語 の教育 を
担当 した と西堀 (1979)や『 横浜 の本 と文化 』(横 浜市 中央図書館、1994、 p.490)
に書 かれてい るが、この『 横浜市史稿』の記述 か、
『 高島嘉右衛門 自叙伝』の記
述が元 にな ってい るよ うで ある。カデル リーが市学校 でフ ランス語 も教 えた と
考える根拠が不 明だ と本論 で書 いたが、証拠 はあった こ とになる。
次 に『 百年史』であるが、カ デル リーの採用時期 についての記載が、
『 東京帝
国大学五十年史』 の 内容 か ら変更 されていた。「明治2年 末 には ドイッ学開講 が
計画 され、ひ とまずスイ ス人カ デル リーが語学教師 として採用 された」(p.185)
とある。また、掲載 されて い るお雇 い外国人 の表で も雇用開始時期を明治2年 12
月 としている。明治2年 12月 は従来 の東京大学資料 と公文書 の矛盾 を考慮 した も
のだ ろ うか。「大学南校 二於テ独逸語伝習 ヲ始 ム」 (『 太政類典』)、 「南校於テ独
逸語学伝 習 ノ儀布達 申立」 (『 公文録』)な どが明治2年 12月 として記録 されてしヽ
るの も事実であるので、大学南校 にお ける ドイッ学 の授業 の本格的な開始時期
が明治2年 12月 だつたのは確実な こ とであろ う。しか し、カデル リーの雇用開始
も明治2年 12月 だ とす ると、
『 東京開成学校 一 覧』 の明治2年 6月 と異な っている
理 由が説明で きない。 ドイッ学 の授業が本格 的 に開始 され る以前 にカデル リー
が採用 されていて、授業開始へ の準備 をしていた として もおか し くないので は
・この期間を利用 して カデル ー
ないだろ うか。
リ 文典』 の執筆 を行 つたこ とも
『
あ り得 るだ ろ う。また、カデル リーの契約期間か ら考 えても明治2年 12月 は不 自
然 で ある。なぜ な らお雇い外 国人教師 との契約期間は半年 を最低単位 として 当
初 は2年 を目安 にす る │い う原則があ った よ うであるか らだ。カデル リー は、契
約がいったん満期 にな って、半年 の延長 を して、明治4年 11月 26日 に満期解雇 に
な つているので ある。明治2年 12月 が採用 な ら、明治4年 11月 26日 では満期解雇
にな らない はず で あるし、満期 の後 に半年 の延長 を した とい う記述 とも矛盾す
る。
『 百年史』では、カデル リーの契約 が継続 にな らず に満期解雇 になった理 由
-194-
について も新説 を出 している。 大木喬任文部卿 は、 明治4年 10月 9日 付 けで 出 し
ている意 見書 で 「教授免許 ノ證 書 モ無之、其学力生徒 ニモ不及者有之」 として
南校 のお雇 い外国人教師 の うち教授不適格者 につい ては契約切れ で再雇用 しな
い とい う方針 を提案 し、南校 の全16名 の外国人教師 の半数 の8名 を選び 出 したの
だとい う。
『 百年史』はこの8名 の中にカデル リーが入 つているのだ とい うが、
「契約 日等から瑞人カデル リーの
意見書中には「仏ガ ロー」と書いてあるのが、
べ
の
ている。と
ば、
だと述
カデル リーが再雇用 されなかつ
すれ
誤 りと見られ」る
たのは、文部省や大木喬任文部卿の方針通 りだつたとい うことになる。
『 百年史』は、さらに、カデル リーが 「学問の進展 の前 に不必要な存在 とし
て解雇され るに至 り、感情 の行き違いか ら、[‥・]課 外 の活動や教科書作成に対
する報酬を要求 して大学側 と対立するとい う悲劇を生み出す こともあったので
ある」(p.193)と い う解釈までしめしている。記述の元 になっている資料 とし
て『 公文録』をあげてい るが、該当箇所は不明だ。
『 太政類典』には「南校元雇
教師瑞西人カテルソー定約時間外勤務セル報酬請求」 とい う件名の記載が見つ
かるので、元 になつてい るのはこの記載かもしれない。明治5年 4月 10日 付けと
なつている。満期解雇からかな り経 うてか らの話である。山岸 (1939b)力 `
まと
めている大学南校文書の『 カデル リー文典』の争いの時期 とほぼ同時期の話で
ある。しかし、山岸 (1939b)か ら分かることは、大学南校がカデル リーには無
断で『 カデル リー文典』の再版を出版 したことに対す る抗議があつたとい うこ
「感情の行き違い」といつた記述 に要約 してしま うことが適当だとも思え
とで、
ない。いわんや、カデル リーの満期解雇の理 由を 「学問の進展の前 に不必要な
存在 として」と解釈す るのは、
『 カデル リー文典』がカデル リーの死後も明治19
年 (1886)の 第3版 まで出版が続 けられた こと、また、明治17年 (1884)に は「セー
ヘエルカ ドリーニ氏 の文法 ヨリ摘集セシモ ノナ レ トモ」 とい う『 ドイツ文典字
彙』(山 本剛著)の ような語彙集が出版 されていることなどを考えるととて も妥
当な解釈であるとは言 えない と思 う。たかだか2年 半のお雇い教師の間に522ペ ー
ジの文法書を書いただけでな く (ド イツ語 の知識 の無い人がまとめたのだと思
うが、
『 公文録』では「初学の読本」となつているが、初級 から使 える文法書で
あっても決 して初級文法書ではない)、 当時存在 していなかつた独和辞典作成作
業 にかかわ り、授業以外でも日本人教員の ドイツ語力の向上のために力を尽 く
したカデル リーの正 当な評価 とはとても言えない ものであると思 う。
大木喬任文部卿の 「教授免許ノ證書モ無之」 とい う南校 のお雇い外国人教師
の何人かの者 に向けられた批判について も付け加えてお くと、
『 百年史』で「学
-195-
識が他 に抜きん出てお り、外国人教師の中で も特別な存在であった」 として高
く評価されている教頭のフルベ ッキにして もアメリカの神学校を卒業 しただけ
であるし、特定科目の 「教授免許」の よ うなものを持 つていたとは思えない。
また、彼 にしてもアメ リカに移住す る前のオランダ時代については経歴を詐称
していたことが明 らかにされてきている。出身地 のザイス トの記録 によればア
メリカに移住す る間際まで 「鍛冶屋の弟子奉公」をしていたことが確実である
が、伝記 には「ユ トレヒ トの工業学校 (the Polytechnic lnstitute of Utrecht)
に入 り、グロッ トとい う教授 の指導の下で学んだ」 ことが書かれているか らで
ある (『 新訳考証 日本のフルベ ッキ』
、W・ Eグ リフイス著、村瀬寿代訳編、
洋学堂書店、2003)。 また、学歴 とい うことで言えば、言語学 と日本語学の分野
で多大な業績を残 し、最初の東京帝国大学名誉教師になつたバ ジル・ ホール・
チェンバ レンも高卒で、銀行業が肌 に合わず、ノイ ローゼにな り、 日本に流れ
着いた人だつたことを忘れてはならない。明治文明開化時代のお雇い外国人教
師は、経歴詐称者であつて も、出身国では高学歴ではな くて も、実力があれば、
活躍の場があつたわけである。カデル リーが再雇用 されない8人 の中に入れ られ
たのは、
『 百年史』が想定 しているよ うなやや単純な理由ではな く、まだ解明さ
れているとは言えない事情がいろいろ関係 していたのではないだろうか。
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