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翻訳者としての米沢藩医堀内素堂 ̶ 山形翻訳者の系譜(3)

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翻訳者としての米沢藩医堀内素堂 ̶ 山形翻訳者の系譜(3)
翻訳者としての米沢藩医堀内素堂
̶ 山形翻訳者の系譜(3) ̶
加 藤 健 司
(山形大学 地域教育文化学部)
山形大学紀要(人文科学)第18巻第2号別刷
平成 27 年(2015)2月
翻訳者としての米沢藩医堀内素堂
— 山形翻訳者の系譜(3) —
翻訳者としての米沢藩医堀内素堂
— 山形翻訳者の系譜(3) —
加 藤 健 司
(山形大学 地域教育文化学部)
1.はじめに
ほりのうちそどう
1822(文政5)年以降米沢藩医を勤めた堀 内素堂(1801<享和1> -1854<安政1>)1 の
孫である堀内亮一氏がまとめた伝記『堀内素堂』では,素堂の訳業としてつねに第一に挙げ
られる『幼幼精義』について,次のように解説している。
幼幼精義 七巻 既刻
フーフェランド
原本は,独逸扶 歇蘭度の著書(第三版西暦一七九八年即ち寛政十一年版)で之を和
サ
ク
セ
蘭の薩 窟設が蘭訳したもの(西暦一八〇二年即ち文化元年版)を翻訳したので,天保
十年冬稿を終り,弘化二年秋(西暦一八四五年)出版したのである。二篇より成り,
其第一輯は小児疾病の病原論,用薬等も書き,之に名称義略一巻を付してある。之は
病原論中に新しき名称等多き故,其註解として添えたものである。序文は坪井信道,
跋文は杉田立卿が書いて居る。第二輯は専ら痘瘡論でかなり詳しく書いてある。跋文
は伊東玄朴である。本書以前一二の小児科書もあったが,真に西洋小児科学を我国に
紹介した,最初のものとして意味がある2。
『米沢医界のあゆみ』では,八人の「特筆すべき藩制時代の医師」のひとりとして素堂を
挙げて,この訳書についても「天保十四年蘭医フヘランド著を漢訳して『幼々精義』と名づ
けた。これは我国小児科医書のはじめであった」と紹介している3。年号が『堀内素堂』と
異なっているのは,初輯が天保14年開雕[版のこと]4であるが最終第七巻の刊行終了が
弘化2年であるためで,フーフェラントを蘭医としているのは漢方医に対するヨーロッパ医
学者という意であろう。
幼名を忠公,諱を忠寛,字を君栗という。また忠龍,忠亮とも,素堂は号である。
1932(昭和7)年に非売品として杏林舎から出版されているが,ここでは以下のリプリント叢書版を参
照した。『堀内素堂』堀内亮一 伝記叢書136 東京:大空社 1994年,87-88頁。また本稿では,本書
も含め引用文献の旧漢字,旧仮名遣いは,基本的にすべて新漢字,新仮名遣いとしている。
3 『米沢医界のあゆみ』新野辰三郎ほか編 (米沢医師会館創立満四十周年記念発行)米沢:米沢市医師
会 1963年,97頁。
4 本稿筆者補記。以下同様の[ ]内は本稿筆者が補った,あるいは訂正した部分である。
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山形大学紀要(人文科学)第18巻第2号
北條元一氏『米沢藩医史私撰』5は,「米沢藩における蘭学の系譜は堀内家を中心として興
隆したとみることができ」る(『私撰』:126)と指摘して,藩医堀内家を中心にたいへん入
念に資料を調査し,本稿もこの書に負うところが大きい。『幼幼精義』についても詳しく,
「そ
の業績として特筆すべきは天保十四年(一八四三)に出版した『幼幼精義』七巻でフーフェ
ランド(扶歇蘭度―Christoph Wilhelm Hufeland―この人は,はじめドイツ・イェナ大学教授,
のちプロシャ国王侍医,一八一〇年新設されたベルリン大学教授となり,当時のドイツ国医
学の第一人者であった)の著作(第三版,一七九八刊)をオランダのサクセが蘭訳した書(一
八〇二刊)を和訳したもので,わが国最初の西洋小児科医書であった」(『私撰』:126)と
紹介する。北條氏はさらに素堂の翻訳原文を引く個所で次のように記している。「この扶歇
蘭 度 の 書 と い う の は, 原 本 は “Enchiridion Medicum (oder Anleitung zur medicinischen
Praxis)“ であって,彼の地で名著の評たかく,順次数ヶ国語に翻訳された。忠寛がサクセの
翻訳より重訳したのは,前記の凡例における文章にも見るように,『エンヒリーディオン・
メディクム』二巻二十篇中のもので,内山孝一氏は『…素堂の本書は原本で云えば終わりに
近いところに訳されているところの “Kinderkrankheiten“[諸小児病]の部分の抄訳である。
(…)』(『明治前日本医学史』第二巻)と記載している」(『私撰』:252)。しかしながら,
このフーフェラントのドイツ語原著についての北條氏の指摘は,正しくもあり誤ってもいる。
素堂の『幼幼精義』は,すでに『西洋医術伝来史』で古賀氏が正しく指摘したように「W.
Hufeland の 著 述( 一 七 九 八 年, 第 三 版, 獨 文 本 ) を J.A.Saxe が 蘭 訳 し た Waarnemingen
over de natuurlyke en ingeente kinderpokjes, over de Ziekten der kinderen, enz. Utrecht,
1802. を翻訳したもの」6に他ならない。すなわち,堀内素堂が1845(弘化2)年にその第一
輯を上梓したという小児科書が下敷きにしたのは,1798年に出版されたフーフェラント
(Christoph Wilhelm Hufeland: 1762-1836)の著書『天然および接種した痘瘡について,さま
ざまな小児病について,また小児の医学上・栄養上の扱い方について』の第三版7(以下『痘
瘡論と小児科』)を,オランダの医師サクセ(Jan Adriaan Saxe: ?-?)が蘭訳したものである。
とはいえ,実は『幼幼精義』は『痘瘡論と小児科』の単純な全訳でもない。たとえば,弘化
2年出版の第二輯のうち第七巻は「扶氏痘瘡通治 補 扶歇蘭度内科書」と題されているが,
『米沢藩医史私撰』北條元一 (米沢医師会館創立七十周年記念出版)米沢:米沢市医師会 1992年。
本書からの引用は,引用末に(『私撰』:頁)として示す。
6 『西洋医術伝来史』古賀十二郎 東京:日新書院 1942年,424頁。本稿は1943年の再版による。
7 Christoph Wilhelm Hufeland: Bemerkungen über die natürlichen und inoculirten(geimpften) Blattern,
verschiedene Kinderkrankheiten, und sowohl medizinische als diätetische Behandlung der Kinder.
Dritte, sehr vermehrte Auflage. Berlin: Heinrich August Rottmann 1798. この1798年版は単なる第三版
Dritte Auflageではなく,大増補版sehr vermehrte Auflageとされている。本書からの引用は,引用末に
(H:頁)として示す。また本稿においてはとくに断らないかぎり,オランダ語,ドイツ語(含:ラテ
ン語部分),漢文に添えた和訳は筆者の拙訳である。
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翻訳者としての米沢藩医堀内素堂
— 山形翻訳者の系譜(3) —
『痘瘡論と小児科』にはこの「扶氏痘瘡通治」と一致する記述はないのである。題目の但し
書き「扶歇蘭度内科書」が示すように,こちらこそまさに『米沢藩医史私撰』で触れられた
フーフェラントの『医学ハンドブック』Enchiridion Medicum の,しかし『明治前日本医学史』
第 二 巻 が い う「 原 本 で 云 え ば 終 わ り に 近 い と こ ろ に 記 載 せ ら れ て い る と こ ろ の
“Kinderkrankheiten“ の部分」8ではなく,皮膚の病を総説したなかの痘瘡に関わる部分の抄
訳である。
つまり,堀内素堂訳『幼幼精義』とは , ドイツ人医師フーフェラントの『痘瘡論と小児科』
をほぼ中心として『医学ハンドブック』などから一部を加え,蘭訳本を底本として漢文で抄
訳紹介した書物である。
このように事実認識に若干の混乱もなくはない『幼幼精義』という翻訳について,残念な
がら筆者は,素堂が翻訳に際して直接の下敷きとしたサクセによるオランダ語版をまだ手に
できていない。したがって本稿では,フーフェラントによるドイツ語原書との対照と断片的
な記事などを用いながら,江戸末期の米沢の蘭学者が抄訳というかたちで、蘭訳されたドイ
ツ語医書のなにを選択的に受容していったのかを少しく整理し,そして『幼幼精義』という
訳書が持つ , 日本に紹介された最初の西洋小児科書である以外の意味も考えるのが目的である。
2.『痘瘡論と小児科』
『米沢藩医史私撰』でも述べられていたように,『痘瘡論と小児科』の原著者フーフェラ
ントは,大学で教鞭を執ったり,プロイセン王の侍医を務めたり,あるいはゲーテをはじめ
とする当時の著名な文人たちとの交際でも知られる18世紀から19世紀にかけての著名な
ドイツ人医師である。教育者として臨床医として活躍する一方で啓蒙的な論文や医学書の執
筆にも相当に熱心な人物であった。1784年に「メスマーとその磁気療法」Mesmer und sein
Magnetismus という論文を雑誌に発表して以来、多くの論文や書物を執筆している。おそ
らくその著書のうちでも,日本における紹介という点についていえば,幾度も邦訳されてい
る1794年初版の『長寿法』
Die Kunst, das menschliche Leben zu verlängern と1836年初版の『医
学ハンドブック』の両者がもっとも有名であろう。
フーフェラントがヴァイマールにいた当時,五,六年に一度ほど天然痘の流行があり,
1788年の流行については,『1788年ヴァイマールにおける天然のおよび接種した疱瘡につい
8 『明治前日本医学史(増訂復刻版)』第二巻 日本学士院日本科学史刊行会 東京:日本古医学資料セ
ンター 1978年,307頁。北條氏も引用された『明治前日本医学史』は,『幼幼精義』について何箇所か
で言及しているが,第三巻「フーフエランドの小児科書により」(81頁),「その小児科書(一七九八
年版 蘭人医J.A.Saxe蘭訳)により」(94頁),あるいは第五巻「フーフエランドHufelandの小児科書
を訳述し」(443頁),「フーフェランド蘭訳書の訳述にして体裁を備えたる西洋小児科書の最初なり」
(604頁)と,北條氏の引用個所以外ではいずれもフーフェラントの原著名は挙げていない。
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山形大学紀要(人文科学)第18巻第2号
て』Bemerkungen über die natürlichen und künstlichen Blattern zu Weimar im Jahr 1788(以
下『ヴァイマールの痘瘡』)という書物を翌1789年にヴァイマール宮廷医の立場で執筆した。
この『ヴァイマールの痘瘡』に小児科学に関わる内容を加筆して,およそ二倍以上の分量の
書物として1798年上梓されたのが,素堂が底本とするオランダ語訳のもととなった『痘瘡論
と小児科』第三版である。
『痘瘡論と小児科』は三部に分かれている。第一部はすでに1789年に出版された先述の『ヴァ
イマールの痘瘡』の再録であり,第二部では種痘の有効性などについて論じている。そして
第三部「小児の栄養上と医学上の扱い方,およびさまざまな小児病について」Ueber die
diätische und medizinische Behandlung der Kinder, und verschidene Kinderkrankheiten が,
素堂の漢訳したうち小児科に関わる部分である。
アムステルダムの医師であったらしいサクセの翻訳については,先述の通り,筆者未見で
あるので,その翻訳の質あるいは抄訳・完訳のいずれかについても言明はできない。そこで
サクセの翻訳について幾許かの情報でも得るために,1761年から1876年まで多少誌名を替え
ながら出版され続けた,オランダの書評誌『祖国の文芸実践』Vaderlandsche Letteroefeningen
(以下『実践』)を参照したい。この『実践』の1803年版では,その前年に出版されたフーフェ
ラントのサクセ訳を2頁にわたって取りあげ,その構成・内容を紹介したうえで,実際のサ
クセ訳を引用しながらその問題点(サクセの翻訳の問題ではなく,原著の)を指摘している9 。
『実践』によると,「子どもの痘瘡およびその他多くの小児病について詳しく記したこの書
物は,三部からなっている。第一部は,広く流行している子どもの痘瘡と1788年のヴァイマー
ルにおける種痘について述べる。第二部は,小児の痘瘡について予防接種がきわめて有益で
ある点,真性の疱瘡と仮性の痘瘡,痘瘡の根絶,その他関連することがらを扱う。第三部に
は,十二章に分けて,子どもの食事のありかたへの疑問,小児の医学治療,その他さまざま
な小児病が示されている」というので,どうやらサクセの翻訳の,少なくとも,その全体の
構成はフーフェラントの原著と同じである。フーフェラントの原著が全504頁,『実践』の記
述によればサクセ訳は全489頁であるから,単純比較はできないものの分量自体はさほど変
わらない。『実践』の書評者は「この書物には,優れた知見と実践に関わる示唆がふんだん
にあり,まさにそれゆえよく読まれるべきである」と賞賛したのに継いで,「一方で残念な
のは,筆者がそれぞれの対象についてあまりに詳細に扱っていることで,そのためたびたび
うんざりさせられる」とフーフェラントの書きぶりを批評する。そして「ここで報告されて
いる症例のなかでも以下は重要である」として,サクセ訳が,しかも小児科に関わる第三部
から引用される。
Algemeene Vaderlandsche Letter-oefeningen. Eerste Stuk. Amsterdam 1803, S.114-115.本稿では,
http://www.dbnl.org/で公開しているオリジナルスキャンデータを参照した。
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翻訳者としての米沢藩医堀内素堂
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Een Kind van agt jaaren, dat kliergezwellen en ook de Engelsche ziekte had, was
reeds zedert eenige maanden aan eene klieragtige loopende ontsteeking der oogen,
voornaamelyk van het rechter oog, onderhevig geweest, zonder dat man naar een
behoorlyk middel had omgezien. De krampagtige zamentrekking der oogleden was zo
sterk, dat dezelve byna niet konden geopend worden.「ある八歳児は,腺病に加えて,
くる病を患っており,すでに数ヶ月前から腺病による湿った目の炎症,特に右目の炎
症に悩まされているが,それに対して相応しい処置がなされていない。まぶたは痙攣
と緊張がはなはだしく,両まぶたともほとんど開くことができなかった。」
ち な み に,„Ein skrophuöses auch rachitisches Kind von 8 Jahren hatte schon seit einigen
Monaten an einer skrophulösen feuchten Augenentzündung, hauptsächlich des rechten Auges,
gelitten, ohne dass man ordentliche Hülfe dagegen gesucht hätte. Die krampfichte
Zusammenschnürung der Augenlieder war so groß, dass sie fast gar nicht geöffnet werden
konnten.“(H:473)というフーフェラント原著の当該部分とサクセの翻訳には,おそらく
ドイツ語とオランダ語がきわめて近い言語であるためもあり,めだった構文の違いさえほと
んどない。ほぼ直訳といってよいだろう。
ところがこれに続く文章にはある興味深い表現が見られる。
Ik schreef voor, stoovingen, met warme melk [en verder alle gewoone bedenkelyke uiten inwendige middelen.] - Alles zonder de minste beterschap.「私が処方したのは,温
めたミルクでの湯あん法(と,さらに他にも普通考え得るあらゆる外用薬・内服薬)
であった−しかし,まったく回復はなかったのである」
この引用のカッコ内[en verder alle gewoone bedenkelyke uit- en inwendige middelen.]の
部分は,フーフェラントの原文では,具体的な処置や薬品名などが十七行にわたって記され
た個所であるが,蘭訳ではその他諸々と表現されている。すなわち,サクセの訳文は,おそ
らくおおむね原文に忠実に翻訳しているとしても,ときには原文をやや省略してまとめてい
る個所があると疑われるのである。とはいえ,この部分については『実践』で書評する際に
無署名の書評者が,引用が長くなるのを嫌って省略した可能性も否定はできない。しかし,
同じく『実践』から次の部分を見ると,おそらくサクセの訳文は原文に忠実な全訳ではなかっ
た,少なくとも部分的には,訳者が原著を自身の判断に基づいて再構成している翻訳であっ
たと結論できそうでもある。
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山形大学紀要(人文科学)第18巻第2号
(...), hierop van de Tinctura Stramonii, [uit twee lood zaad van Stramonium, agt lood
Spaansche Wyn, en twee lood Wyngeest] zekerlyk het vermogendste verdoovend
middel, dat wy bezitten, een half lood, met een half pond water vermengd,「さらに,
ティンクトゥラ・ストラモニウム(ストラモニウムの種子2ロート,スペインワイン
8ロート,酒精2ロートからなる)これは間違いなくわれわれが手にしているうちで
最も強力な麻痺剤であるが,それを半ロート,半ポンドの水に混ぜて(…)」
前の引用の八歳児の治療についての記述が続くのだが,またしてもカッコに入れられた部分
が原著と異なる。しかもこちらは,
『実践』の引用者が省略したとは想定しづらい。なぜなら,
フーフェラントの原文ではサクセ訳でカッコに収められた薬草から薬を作る際の配合分量に
ついて,説明はこの個所ではなく,脚註のかたちで別にかなり長くなされているからである。
さらに,サクセ訳でカッコの直後に置かれた一文は原文では次のようにカッコ内に入れられ
ていた。
(...), hierauf von der Tinctura Stramonii (gewiß das stärkste Stupefaciens, was wir
haben)*) ein halb Loth einem halben Pfund Wasser vermischt, (...)「さらに,ティンク
トゥラ・ストラモニウム(間違いなくわれわれが手にしているうちで最も強力な麻痺
剤)* を半ロート,半ポンドの水に混ぜ(…)」(H:474-475)
そしてフーフェラント原著中のアスタリスクに付けられた長い脚註は以下のようにはじま
る。
*) Die Formel ist folgende: Pulv. Semin. Stramon. Unc. duas. Vini hispan. Unc. octo. Spir.
Vin. Unc. unam. Digere per aliquot dies leni calore, et filtia. Die Dosis ist von 6 bis zu
10 und 20 Tropfen. Die Datura Stramonium ist vielleicht das stärkste Stupefaciens und
der Saame der Datura (...)「配合は以下の通り:ストラモニウムの種子粉末2ウンシ
ア,スペインワイン8ウンシア,酒精1ウンシア。数日間解かし加熱して濾過する。
使用する量は6から10ないし20滴である。ダトゥラ・ストラモニウムはあるいは麻酔
剤のうちでも最も強力であり,ダトゥラの種子は(…)。」(H:474-475)
チョウセンアサガオの一種からできるひとつの薬品に関わるだけの,たいへん少ない情報で
あるからもちろん最終結論とはできないが,ここではサクセ訳が原著に忠実にしたがいなが
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翻訳者としての米沢藩医堀内素堂
— 山形翻訳者の系譜(3) —
らも部分的には原著を再構成した翻訳であった可能性を指摘しておきたい。それでは素堂が
このあたりをいかに翻訳紹介したかを知りたいのだが,残念ながら『幼幼精義』にはこの個
所の翻訳がない。先述の通り,『幼幼精義』の小児科に関わる翻訳は『痘瘡論と小児科』第
三部の,さらにその抄訳である。上記のオランダの雑誌『実践』からその一端をうかがい知
れたサクセ訳の原著第三部の第七章「目の慢性的炎症における麻痺剤のおおいに有用なこ
と」は,その翻訳対象とされなかったのである。
3.『幼幼精義』が訳したもの
『幼幼精義』第一輯,第二輯全七巻(第一から第十七)は,以下左欄のような構成である。
右欄には,それに対応するフーフェラントの原著『痘瘡論と小児科』と『医学ハンドブック』
の章を示している。カッコ内は素堂の翻訳の章番号,そしてそれに対応する原著頁番号であ
る。
『幼幼精義』
『痘瘡論と小児科』
第一巻
第三部:小児の栄養上と医学上の扱い方とさ
原病総論第一
まざまな小児病
吐剤論第二
第一章:小児病論と重要な小児用の薬(第一 :
第二巻
256-279),I. 催 吐 剤( 第 二 : 279-295)、II. 下
下剤論第三
剤(第三 : 295-299),III. 緩和,刺激抑制,巻
緩性拒刺衝無包摂性薬剤論第四
包帯による薬剤(第四 : 299-332?),IV. 実際
第三巻
に 痙 攣 を 鎮 め 麻 痺 さ せ る 薬 剤( 第 五 : 332-
鎮痙麻酔薬剤論第五
338),V. 誘 導 剤 他(第 六 : 338-347),VI. 外
利導抵抗薬剤論第六
用薬,内服薬の外用薬としての使用(第七 :
外用法及外施内服諸薬論第七
347-354)
第四巻
第一部:1788年ヴァイマールでの痘瘡流行と
摂生弁気節論第八
種痘
痘瘡症候論第九
第一章:当該病の顛末,巷間の健康状態と当
痘瘡治即論第十
時の気象(第八 : 1-14),第二章:種痘による
第五巻
症状の説明と扱い方,第三章:天然の痘瘡の
見点期論第十一
症状の説明(第九 : 71-89)および扱い方(第
貫膿期論第十二
十 : 89-100)
(初期,第十一 : 100-109)
(化膿期,
乾収期論第十三
第十二 : 110-125)(乾燥期,第十三 : 126-131)
病毒転移及継発諸症論第十四
(転位とその他後から見られる症状,第十四 :
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山形大学紀要(人文科学)第18巻第2号
第六巻
132-136)
施治実験第十五
第四章:いくつかの症例(第十五 : 137-168)
第七巻
扶 氏痘瘡通治
扶歇蘭度内科書中痘瘡篇
第十六補
謨斯䔍氏痘瘡通治第十七補
『医学ハンドブック』痘瘡(ウァリオラ,天
然痘,人の痘瘡,疱瘡)(第十六 : 524-536)
未詳(第十七)
両者を比較してまず目につくのは,
『幼幼精義』と『痘瘡論と小児科』の構成の違いである。
先述のように,1803年の『実践』によればサクセの蘭訳版の三部構成はフーフェラント原著
と同一であるらしい。したがって,『幼幼精義』においては素堂が意図的に,原著第三部の
小児科に関わる部分をまず先に翻訳した可能性が考えられる。そしてもしそうであったな
ら,『幼幼精義』が「本書以前一二の小児科書もあったが,真に西洋小児科学を我国に紹介
した,最初のもの」たり得たのは,素堂の訳書における構成の変更のおかげといえるかも知
れない。
またこの比較によって,原著第二部が『幼幼精義』には翻訳されなかったとわかる。とは
いえ,素堂には第二部を翻訳する気がなかったとは断言できない。なぜなら『幼幼精義』第
三巻末には「附録 名称義略」と題した医学用語集が素堂によって付されているが,北條氏
の指摘にもあるように(『私撰』:305頁),その用語集の続きについて第四巻冒頭に次のよ
うに書かれているからである。すなわち,第一輯では第二輯に「名称義略」の続きを載せる
としたが,「(…)抄訳扶歇氏内科書,及謨斯䔍氏医学類音痘条,以附之巻末,(…)又不得
不譲之於第三輯附録」,第二輯にはフーフェラントらの書物の抄訳を付したので,第三輯の
附録へと譲らざるを得なくなった。つまり,素堂は『幼幼精義』第三輯を予定していたので
あり,もしこれも『痘瘡論と小児科』を底本したならば,先の比較表からも想像できるよう
に,原著第三部の続き,あるいは原著第二部にあたる部分が翻訳紹介された可能性があると
思われるのである。
すでに触れたように,『幼幼精義』第七巻(第十六)は,「扶歇蘭度内科書中痘瘡篇」であ
るが,こちらはフーフェラントの最晩年の書物『医学ハンドブック』からの,もちろんいず
れかの蘭訳を通じての翻訳である。同じく第七巻の第十七補とある最終章,前段の第四巻冒
頭の引用でも触れられた「謨斯䔍氏痘瘡通治」の「謨斯䔍氏」とは,ひょっとしたら北條氏
が「摸斯度(モスト,一七九四−一八四三,ドイツ人医師)はゲッチンゲン大学で医学を修
め,ながくシュタットハーゲンで眼科内科を開業,一八二六年ロストック大学講師のち教授,
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翻訳者としての米沢藩医堀内素堂
— 山形翻訳者の系譜(3) —
この人の著書の銃創篇で大槻俊斎が訳した銃創瑣言は嘉永七年(一八五四)刊」(『私撰』:
419),と紹介された医師のいずれかの書物の蘭訳からとも想像されるが,現在のところ筆者
には証拠をあげて論じることができない。しかしながら『幼幼精義』が,けっしてフーフェ
ラントの一書を全訳または抄訳したのではなく,素堂が再構成した翻訳であったのは確かで
ある。
『幼幼精義』第一輯第三巻第七「外用法及外施内服諸薬論」までが,フーフェラント原著
の第三部からの翻訳であるが,これはその第一章のみが翻訳対象とされている。先にも触れ
たように,素堂はすべてを訳したわけではなく,第三部については実のところそのほとんど,
第二章から第十二章までは翻訳しなかったのである。ただし,これについても蘭訳者である
サクセが原著第三部をある程度抄訳した可能性は否定できないが,すでに示したように少な
くともこのうち第七章は素堂が訳さなかった部分である。第二輯第四巻から第六巻までが原
著第一部の痘瘡に関わる記述の翻訳であり,こちらも後述のように全訳ではないが,第三部
とは異なりいちおうは全体が翻訳対象とされた。
さて,素堂の翻訳順にしたがって,まずは翻訳冒頭の第一巻第一の原病総論を北條氏によ
る翻訳当該個所の現代語訳をお借りしながら,フーフェラントの原著の当該部分と少し比べ
てみたい。
凡 小児性分,素皆脆薄,是以原其病,必因性分而求之,施其治亦必従性分而行之者,
実為吾医用心第一義諦,然而,世医或不務出於此道,而使唖科原病之学,調治之法,
茅塞不通也,是故家多不保嬰孩,生未二三歳而夭殤相継者,豈不惨乎,雖通邑大都不
乏医薬,亦不免此弊,然況於寒郷僻土乎。
「 およそ小児の性質はもともとみな脆薄[であるから],小児の病のもとを考察する
には,必ず小児の性質に基づいて求め,その治療をするにも必ず小児の性質に従って
行わねばならない,これこそ実に我々医師が心を用いる第一の義諦である。ところが
世の医(当時における世代の医師)は,この道筋を進むのを努めずに,小児の病のも
とを考察する学問,治療方法を調える方法を塞いで通じないようにしている。このた
めに各々の家では,乳児をよく保育できず,生まれて二,三歳での幼児死亡があい継
ぐのは惨たらしいことではないか。交通の便利な大きな都市で医薬が乏しくないとこ
ろでもこの弊害はそのままであり,貧しい村や僻遠の地ではなおさらの事である。」
(『私撰』:263)
Die Kenntniß der Kinderkrankheiten, der besten und naturgemäßesten Behandlung
dieses zarten Lebensalters, sollte billig einer der wichtigsten Gegenstände des
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山形大学紀要(人文科学)第18巻第2号
praktischen Arztes sein, wird aber gewöhnlich bey weitem der Aufmerksamkeit nicht
gewürdigt, die er verdient. − Noch immer herrscht Dunkelheit und Unbestimmtheit in
der Pathologie und Behandlungsweise vieler Kinderkrankheiten; noch immer bleibt die
Sterblichkeit derselben so groß, dass man dafür zurückschaudert, wenn man, selbst in
den Städten, die keine Mangel an medizinischer Hülfe haben, noch immer die Hälfte
der Neugebornen vor Ende des dritten Jahrs wieder zu Grabe tragen sieht.(H:256257)
「小児病の知見を得ること,この脆弱な年齢の最適かつ理にかなった治療のありかた
を知ることは,いうまでもなく臨床医にとってもっとも重要な目的のひとつであるが,
今までのところそれ相当の注目がなされているとは到底いえない。多くの小児病につ
いて病理論や治療方法の面でもいまだ多くが曖昧模糊としているばかりだし,小児の
死亡率は依然としてきわめて高く,医薬に事欠かないはずの都市部でさえ,新生児の
半分が三年目を終えることなく葬られるのを見れば,身震いをせざるをえない。」
いうまでもなく北條氏の指摘通り「素堂の翻訳そのものも原著[オランダ語訳]と照合して
みなければ明白ではない」(『私撰』:268)。しかしほんのわずかの例ではあるが先に示した
ように,サクセの翻訳自体はほぼフーフェラントそのままであり,原著との相違があるとす
れば若干の省略や文の入れ替えなどかと想像される。ざっと比べてみると,素堂の翻訳の骨
格はまったくフーフェラントの原文と異ならないのがわかる。医師にとっての小児科学の重
要性,にもかかわらず現段階では十分な小児科学がない点,そして幼くしてその一生を終え
る幼児が都市部でも少なくないこと,など原文の議論が不足なく伝えられる。しかし一方で,
いまだ小児科学が進まないのは当代の医師の怠慢ないしは意図的な放棄と解釈されている部
分,都市部でさえ幼児死亡率が高いのに対して,「況於寒僻土乎」とそれと呼応する一文が
入れられている個所など原文とのずれも認められる。もう少し冒頭部分の比較を続けてみたい。
然 冀能弁症候,精診察,知病性,依実徴,不失定準,量其年行,以選簡易的方,無徒
走新奇,更要此道開闢者,所望於吾同盟也,
唖科原病之学,調治之法,未至所届者何,是由不知小児性稟,与大人自有施設之別,
又従其年行,而有自家症状耳。
「願わくばよく症候をわきまえ,詳しく診察し,病気の性質を知り,実際の症状によっ
て一定の標準を失わず,その現在の年齢に基づき簡易適宜な治療法を選び,いたずら
に新奇な方法に走ることなく,この道を開いてゆこうとするものは,自分の仲間とし
て望むところである。
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翻訳者としての米沢藩医堀内素堂
— 山形翻訳者の系譜(3) —
小児の病を考察する学問,治療を整える方法がまだ行き届かないのは何であるか。
これは小児の天性が大人とはおのづから備わっているものに違いがあり,その年齢に
より,それ自体の症状があるのを知らないためである。」(『私撰』:264)
Ich wage es daher, einen großen Theil meiner Herren Kollegen aufzufordern, diesem
Theil ihres Berufs einen höhern Werth beyzulegen, ihm mehr Aufmerksamkeit zu
schenken, die Semiotik der Kinderkrankheiten gewiß den schweresten, aber leider
auch den mangelhaftesten Theil, zu vervollkommnen, und neue Zeichen und
Bestimmungen aufzuspüren, die Krankheiten selbst genauern Prüfungen zu
unterwerfen, und ihre wesentliche Natur und Charakteristik bestimmter anzugeben,
und nicht sowohl auf neue, als vielmehr den passenden für dieses Alter modifizirten
Gebrauch der vorräthigen Mittel zu denken.
(...)
Ein Hauptgrund, warum man in der Kenntniß und Heilung der Kinderkrankheiten
noch nicht so glücklich ist, als man vielleicht seyn könnte, liegt wohl darinne, daß man
zu wenig Rücksichten auf den physischen Unterschied und die Eigenthümlichkeiten
dieses Lebensalters nimmt.(H:258-260)
「そこで私が,多くの同業諸氏に敢えて求めたいのは,諸氏の医業のうちでもぜひこ
の分野に力点をおいて,より一層注意深く,小児病の症候学という間違いなくもっと
も困難でありながら,残念なことにもっとも不足の多い分野を完成すること,新たに
さまざまな徴候を知り解明し,疾病自体については精密な検査をしてその本質や特徴
をよりはっきりと示して,新しい医薬というよりはむしろ,すでに存在する薬剤をこ
の年齢用に調整することである。(…)小児病の知識と治療について,いまだ,それ
ほどうまく進行せずしかるべきレベルに到達していない主な理由は,この年齢が身体
的に異なっていて,この年齢特有のことがらがさまざまあるのを軽視しているからで
あろう。」
たとえば,ドイツ語原文および拙訳のなかほどにいれた(…)の個所には,フーフェラント
原文では若い医師たちに小児科の魅力とその重要性を語る段落がひとつあるのだが,素堂の
翻訳には反映されていない。これについても素堂がいわば飛ばして訳したのか蘭訳者サクセ
が訳さなかったのかは不明である。とはいえ,素堂が紹介している他の部分の比較によって,
『幼幼精義』の翻訳の特徴が若干は見えるだろう。すなわち,オランダ語文の意味を取って
ゆくうえでの勘違いと思われる個所もありながら,全体としては,語や表現を補ったり,漢
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山形大学紀要(人文科学)第18巻第2号
文の素養からむしろそれが自然に感じられたのであろうか対句的表現を入れたりしながら,
原文の意をできるかぎりわかりやすく伝えようしているその翻訳態度である。
素堂は,原注もできるだけ翻訳しているようだが,年号や薬品名などについて素堂が付し
た訳註にもぜひ注目しなければならい。
Es ist in Europa erst im 7. Jahrhundert, in Amerika erst im 15., in Island erst im 18.
bekannt geworden. Es ist rein organischen, nicht atmosphärischen Ursprungs, d.h. es
kann nur in einem lebenden Organismus und zwar nach vorhergegangener Mittheilung
des Keims (Ansteckung) erzeugt werden. Es theilt sich nicht durch die Atmosphäre,
sondern nur durch Kontakt, entweder des Kranken selbst oder fester, damit inficirter
Körper mit, auf welche Weise es auch 100 Meilen weit fort getragen werden kann;
「ヨーロッパでは7世紀になってはじめて,アメリカでは15世紀に,アイスランド
ではようやく18世紀になって痘瘡は知られるようになった。痘瘡は生物由来のもの
であり,空気中に由来するものではない,すなわち,生きている生物において,しか
もすでにある病原菌が伝えられることによって(すなわち感染)生じるのである。伝
染は大気を介するのではなく,患者本人や汚染させたさまざまな物との接触によるの
であり,それによって100マイル先にでも伝わりえる」10
という『医学ハンドブック』の文章を翻訳した『幼幼精義』第十六のある部分などは,素堂
の訳註が少なくない。
当本邦文
蓋 痘,在欧羅巴,則当第七百年, 武帝四年,始行,在亜墨利加,則千五百年,
当本邦寛
寛按,在本邦則聖武帝天平七
当本邦明
応九年 ,
始 行, 在 依 蘭 度, 則 千 八 百 年, 政十二年, 始 行, 年,乙亥春,痘始行於筑紫 , 凡 痘 之 伝,
寛按痘自人伝
資始於人身,而不資於気中, 久不以気伝之,是故,痘之毒,不伝則不染,但其伝之,非
以雰気伝之以親触其毒,而伝之,而其触也,或直触痘児,或触其毒処染百物而伝之,
夫触物而伝,処以千里之遠亦能伝其毒也。
「痘瘡なるものは,ヨーロッパでは700年(本邦でいえば文武天皇第4年目に当たる)
に流行が始まり,アメリカでは1500年(本邦の明応9年)に,アイスランドでは1800
年(本邦の寛政12年)に最初の流行があった。(寛[= 素堂]が思うには,本邦にあっ
ては聖武天皇の天平7年春に痘瘡は筑紫地方において始めて流行したのである)。お
Christoph Wilhelm Hufeland: Enchiridion medicum oder Anleitung zur medizinischen Praxis. Dritte
Auflage. Berlin: Jonas 1837, S.528. 先述のように初版は1836年だが,筆者が参照したのは翌1837年の第
三版である。
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翻訳者としての米沢藩医堀内素堂
— 山形翻訳者の系譜(3) —
よそ痘瘡が伝染するのは,人を経由し,気中を伝わるのではない。(素堂が考えるには,
痘瘡は人から人へと伝わるのであり,大気はこれと伝えない)。そのため,痘瘡の毒
が伝わらなければ感染もしない,ただし,伝わるにせよ空気が伝えるのではなく,そ
の毒に近く接することによる。伝わるのは,直接患者に触れたり,保菌しているさま
ざまなものに触れたりすれば伝染するので,千里離れたところにも伝染してゆくこと
がある」
拙訳カッコ内が素堂による訳註部分である。世紀という,ヨーロッパ風の大きな括りの時間
概念が誤って解されてはいるが,それぞれの年号を訳註として日本の元号に移し,また日本
における天然痘の流行の始まりについても触れ,さらに痘瘡の伝染についての記述に加えら
れた訳註には,翻訳時点で素堂が持っていた医学知識も窺える。他の箇所,たとえば『幼幼
精義』下剤論第三の薬品についての訳註にも素堂の知識が見える。こちらも拙訳を添える。
Daß Bolus und Siegelerde eine ungleich stärker einsaugende Kraft haben, als alle die
andern absorbentia, (...).(H:305)
「Bolus と Siegelerde には,他の吸収のための諸薬と比較にならない吸収力があること」
寛按,印土者,石脂一類,其性主吸収制酸之効,
又 石脂,印土,西人製其土,為錠,記印以売之,名曰印土云 ,此他吸収諸薬最勝
「また石脂,印土(私,素堂が考えるには,印土とは石脂の一種であり,吸収と制酸
に効能があり,ヨーロッパではこれを作って錠剤として刻印し販売しており,その名
を印土という)は,他の吸収のための諸薬と比べ最も強い」
原著中の Bolus や Siegelerde は現在はほとんど同義語として丸薬を意味すると思われるが,
当時の経口薬としては,多くの種類があったがおもに陶土を水に浸して丸めたものらしい。
Siegelerde を素堂が細かく説明しているのは興味深いし,素堂による訳語かどうかは不明だ
が,Siegel= 印,Erde= 土で,印土と紹介されているのも,翻訳語の成立のしかたをひとつ
端的に示してくれている11。
4.素堂がめざしたこと
1826(文政9)年幾度めかに江戸に向かう直前,素堂は食用とされていたある地衣類を偶
1879年のドイツの百科事典などでも,SiegelerdeはBolusと同一に扱われている。さらに素堂の解説と同
じく「最初のそれは古代に遡るが,現在でも刻印されて販売されるのでSiegelerdeと呼ばれる」と説明
している。Meyers Konversationslexikon. Dritte gänzlich umgearbeitete Auflage. Leipzig: Verlag des
Bibliographischen Instituts 1879.
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山形大学紀要(人文科学)第18巻第2号
然見つける。料理前の,「其の未だ煮ないものを見せて貰った」12ところ,エイランタイ(依
蘭苔)らしく思われる。江戸において他の蘭方医たちに示してもどうやらそうではないかと
いう。しばらくして,同じ米沢藩医であり私費で長崎に遊学しシーボルトの教えを仰いでい
きゅうあん
た伊東救 葊にこの地衣のサンプルを送り,シーボルトの鑑定を求めた。その結果を伝えて救
葊は素堂に以下のような書簡を送った。「御贈の依蘭苔,翌天,出島花圃に持参,シーボル
トに鑑定を願候処,能嘗味致候而申候様は,此は真の依蘭苔には無之候得共,其一種にして
随分可供薬用候。此依蘭苔に代用すべきもの,日本に於ては第一の見出しに候。此品本国迄
持参致度に付貰受度と申に付,望に任せ申候得ば,此紙面に出産の国郡地土を書記し呉候様
申すに付,大日本東山道羽州置賜郡米沢府小国邑之産と書記し置き申候」13。つまり,素堂
の発見した地衣は,エイランタイ[現学名 Cetraria islandica]そのものではないが,その一
種と考えられ,薬用としてよろしいだろう,シーボルトもこれをヨーロッパに持ち帰りたい
と望んだ,と伝えられたのである。
このやりとりに先立って1827(文政10)年素堂は『依蘭苔記』なる文章を綴った。その
最後には次のように記されたという。「是誠に求めて得ず,求めずして得,所謂期せずして
然るもの,何の奇か之に如かん。収めて以て日常の薬餌に供す,以て死を起し生を回すべし,
則ち真に奇と謂うべし。嗚呼,天我医学を開くに意あり」14。地元で薬用の地衣を発見して
臨床にも用いてみた素堂がここで「天我医学を開くに意あり」と記すとき,そこには江戸後
期の蘭学者の強い思いが込められていないだろうか。
ドイツ人医師フーフェラントが執筆したいくつかの論文に目を通すと,むろん時代最先端
の学者であったり,優れた教育者であったりという側面と並んで,きわめて啓蒙的で活動的
な人物であったという印象を強く受ける。さまざまな著作を通じて,人々に科学的なものの
見方を医学の専門家としての立場から伝えたり(たとえば,当時話題を呼んだ磁気療法を批
判的に論じた最初の論文「メスマーとその磁気療法」も発表は一般文芸誌である)15,ある
いは医学・科学の進歩を純粋に信じる態度16など,フーフェラントは18世紀から19世紀
前半という時代に寄り添うような,啓蒙主義的人物であった。一方素堂は,あと二十年もす
れば明治となり,日本がいよいよ異文化と直接のそして強烈な接触・軋轢を経験する,そん
『堀内素堂』:48頁。
『堀内素堂』:49頁。
14 『堀内素堂』:48頁。
15 このあたりの事情については,拙論:フーフェラントとヴィーラント −「[新]ドイツのメルクー
ル」誌掲載論文をめぐって In:「東北ドイツ文学研究」第54巻 東北ドイツ文学会 2012年,1-13頁を参照。
16 拙論:「ドイツのメルクール」誌上の医学論争 −『啓蒙』の諸相 − In:「山形英語研究」第12号 山形大学地域教育文化学部英語教育講座 2011年,35-45頁を参照。文芸雑誌に掲載された医学小説につ
いてのフーフェラントと著者のすれ違う医学議論が,フーフェラントの啓蒙主義者としての側面を見せ
ている。
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翻訳者としての米沢藩医堀内素堂
— 山形翻訳者の系譜(3) —
な時代にフーフェラントの原著を『幼幼精義』としてオランダ語から漢文へと翻訳した。む
ろん原文すべてを正しく理解するには手がかりとなる情報もあまりに限られている時代の翻
訳ではある。しかし門生への塾規として「思而後得,得而後施」17とした素堂は,自身実践
のひとであったのだろう,「天我医学を開くに意あり」と信じて,日本の医学の進歩を夢想
するのではなく実践的に自ら歩もうとしたのである。その素堂の医師としての姿は,他の蘭
学者たち同様,自分が読める蘭書を翻訳してヨーロッパ語に不案内な知識層にも当該書物を
届けようとする啓蒙家の姿でもある。蘭学から英学を中心とした洋学へと窓口は変わるとは
いえ,あるいは手にできる情報量が圧倒的に増加するとはいえ,江戸の蘭学とは明治以降展
開する日本の啓蒙主義的精神にまさに直結した,そのアウフタクトであったと,この米沢藩
医の翻訳『幼幼精義』は示していないだろうか。
17 『堀内素堂』:157頁。
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山形大学紀要(人文科学)第18巻第2号
The Translators of Yamagata (3):
Sodō Horinouchi – Medical Doctor in Late-Edo Yonezawa
Kenji KATO
(Faculty of Education , Art and Science)
As a prominent late-Edo ranpo-i, or doctor who learned and practiced European medicine
through the Dutch language, Sodō Horinouchi (1801-1854) was one of the limited number of
Japanese allowed to use a foreign language under the policy of national isolation then in place.
His translation Yōyō seigi (literally, "A Detailed Guide to Treating Children") is recognized as
one of the first translations of a European work on pediatric medicine into Sino-Japanese
(Kanbun). Although Yōyō seigi is known to be the translation of a Dutch version of a Germanlanguage pediatrics text written by the eminent German physician Christoph Wilhelm
Hufeland, there are in fact some misunderstandings about Sodō's translation itself.
Hufeland’s original work, Bemerkungen über die natürlichen und inoculirten Blattern (…),
was translated into Dutch by Jan Adriaan Saxe, a physician in Amsterdam. It was this Dutch
translation, entitled Waarneemingen over de natuurlyke en ingeënte Kinderpokjes (…), that
Sodō translated into Sino-Japanese. From an article appearing in the book review magazine
Vaterlandsche Letteroefeningen in 1803, one can conclude that Saxe’s translation was not a
word-for-word translation, but an at least partially rearranged version of Hufeland’s original
work.
A comparison of Yōyō seigi and Hufeland's Bemerkungen text shows that Sodō began his
translation with the first chapter of Part 3 of the original work, after which he goes on to
translate Part 1, while Part 2 of Bemerkungen is completely absent from the Japanese
translation. Besides this partial translation of the Bemerkungen text, Yōyō seigi also contains
the translation of a section of Enchiridion medicum, Hufeland's most famous work, along with
a section of an as-yet unknown author's book. Sodō's translation appears to be a generally
correct and appropriate representation of the original work, something that is even more
striking when one considers the translator's limited knowledge of European languages and
culture. His translation is also interspersed with notes converting European Gregorian years
into corresponding Japanese era dates and offering commentary on specific medicines,
illustrating what the translator himself knew of European culture and medicine at the time of
the translation.
A well-known episode in Sodō's career revolves around his encounter with a type of lichen
near his hometown, and his discovery that it could be of clinical use in the treatment of
patients. A quote attributed to him after this discovery, "God favors the further development
of our medicine!", and the motto that he instilled in his pupils, "Think and then learn, learn and
then try", demonstrates his positive and pragmatic approach towards medical progress in
Japan. Sodō’s attitude overlaps with that of Hufeland, who was an archetypal enlightened
intellectual of the late 18th to 19th century. Yōyō seigi is not merely one of the first Japanese
translations of a European pediatric medicine text, but also a work that shows rangaku, or
the study of European culture through the Dutch language in Edo Japan, to be a prelude to
the coming age of Japanese enlightenment in the Meiji era.
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