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見る/開く - 茨城大学

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見る/開く - 茨城大学
ROSEリポジトリいばらき (茨城大学学術情報リポジトリ)
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国立国会図書館法・議院法制局法・内閣法制局設置法-立法の論理(4)
佐藤. 晋一
茨城大学教育学部紀要. 教育科学(47): 247-269
1998-03
http://hdl.handle.net/10109/11644
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お問合せ先
茨城大学学術企画部学術情報課(図書館) 情報支援係
http://www.lib.ibaraki.ac.jp/toiawase/toiawase.html
茨城大学教育学部紀要(教育科学)47号(1998)247−269
国立国会図書館法・議院法制局法・内閣法制局設置法一「立法」の論理(4)
佐藤晋一
(1997年10月13日受理)
Logic of Legislati・n(4)
Concem with Nation紐1 Diet Hbrary Law, Giin−houseikyokuhou,
Naikakuhouseikyoku−settiho肥
Shinichi SATO
(Received October 13,1997)
lV.内閣法制局設置法(続き)
2)−3. 「議会の立法手続き等の報告に関する覚書」への日本側の反応
以上のような文書が再三提出されているのである。これを見ても,立法府の立法権の確立を日本
側が,如何におざなりに扱っていたかが推測できる。言ってみれば,1885年の法制局官制及び1889
年の内閣官制から敗戦まで,大日本帝国憲法に基づく立法行為に携わったのは法制局であったので
あり,それらは臣民であった。主権者としての立法行為を担い得る制度・機構は未だ確立せず,制
度・機構を支えるスタッフもまだ養成されていなかったのである。中野重治的に言うなら,人民の
目の届かないところで,人民に隠して,つまり,憲法は公布されるはずだし,事実スクープ等で国
民に公開されているから,この点では,隠しようがないが,その他の点では,とりわけ行政権にか
かわる事がらに関しての法律については,こういう方法があったということであろう。
法制局の機構そのものの革新的改革という構想は,日本側にはあったのであろうか。r議会制度
七十年史 第1巻憲政史概観』 (1963,執筆は大久保利謙)は書いている。「議会の立法活動そ
のものについても,十月二十二日付r議会の立法手続き等の報告に関する覚書』によって,あらゆ
る法案について,その全立法過程を明らかにすることが要求されたので,これに対し,法律案,議
事経過,公布の三段階について総司令部に報告した。しかし,その運用の実際においては,単なる
一方的報告のみにとどまらず,法律案の原案及び修正案については,総司令部側の事前の了解を取
りつけなければ提案できなかった。予算についても,十二月十二日付の覚書は,補正を含む一切の
予算の編成は,その修正または改訂を含み,議会提出に先だち総司令部の事前審査を受けるよう通
告していた。かくして総司令部は,その占領政策に適合するよう,直接間接に議会を監督したので
あって,これが議会活動に与えた制約は少なからぬものがあった。 (pp.469∼470)」また, r議
*茨城大学教育学部学校教育講座教育学教室(〒310−8512茨城県水戸市文京2丁目1−1)
248 茨城大学教育学部紀要(教育科学)47号(1998)
会制度百年史帝国議会史下巻』 (1990)は,次のように書いている。「ところで連合国総司令
部は,昭和二十年十月二十二日付r議会の立法手続き等の報告に関する覚書』によって,あらゆる
法律案について,その全立法過程を明らかにすることを要求してきた。そのため法律案の内容,審
議経過,公布の三段階についてそれぞれ総司令部に報告を行うことになった。しかし,実際の運用
においては,単なる一方的報告にとどまらず,法律案の原案及び修正案は,総司令部の事前の了解
を取りつけなければ提案さえできないことになった。
予算についても,十二月十二日付の覚書によって,補正を含む一切の予算の編成は,その修正ま
たは改訂を含み,議会提出に先立ち総司令部の事前審査を受けるよう要求された。このように総司
令部は,直接間接に議会を監督したため,議会活動は少なからぬ制約をこうむった。 (pp.802∼
803)」 (〈第89回帝国議会(臨時会)〉の項。)以上の記述が,日本側の公式の議会史の記述な
のであるが,極めて深刻な疑問を含む内容ではないのだろうか。
早くも1947年3月号r法律時報』で,末広厳太郎は,直接法制局の改革という形ではなかったが,
「立法事務局設置の提唱」をし,次のように主張したのである1)。「政府が内閣もしくは國會附属の
機関として立法事務局を新設して,今後の立法をもっと科学的ならしむべきことを提唱」した。「今
尚科学的に立法を行う学問的準備が殆どないのは勿論,政府の立法機構に殆ど何等進歩の後が認め
られないのは甚だ遺憾である。」「現に立法事業に参加せしめられてゐる法学者にしても,その多
くは解釈法学者であって,法律社会学的素養を持つものが非常に少ない。」 「法の規律対象である
社会との關係において法を考へることをしない。」「そのため,法令の立案に當ると,社會に關す
る体系的智識の不足と法的技術の貧困と,そうして彼らの力を借りる役所に十分な立法資料がない
こととのために,結局仕事が御座なりになり易く」なっている。「かかる欠陥を取除くためには,
一日も速やかに立法事務局を設立」すべきである。「この機關を内閣に附置すべきか,国會に附置
すべきかは,どちらでもよい。要は,政府と国會との中間に立って,今後政府の立案すべき法令も,
議員提出の法律案も,すべてこの機關の手を経るようにすればよいのである。」ちなみに,ここま
での記述には全く触れずにr内閣法制局史』 (r内閣法制局百年史』も同じ)は,これに続く部分
だけを次のように紹介した。「戦後間もなく,末広厳太郎教授は,法制局を全廃して新しい立法事
務局の設置を提唱されたことがあった。同教授によれば, r従来,政府が法令を立案する場合には
所管官廉が原案を立てた上,すべてこれを法制局の議に附してゐるけれども,現在の法制局は人的
にも物的にもその構成が不十分であって,高々技術的に法條の膿系を整えたり,各種法令間の矛盾
を調節するような働きをしてゐるに過ぎない。その上悪いことは,そこで仕事をしている人の全部
が,もともと各省において法的技術を繰ることに優れてゐた所謂法律家型の秀才である上に,既に
出身省を離れてから,相當の歳月を経てゐるために,とかく形式的な法律論に捉はれて,法の實膿
を實質的に考へる能力をもたない。その結果,原案を立てる所管官廉でも法制局がうるさいからと
いふような理由から,とかくあり来たりの形式を追うて保守的になり易いのである。この意味にお
いて,私は此際法制局を全廃して,法令立案の仕事をすべて私のいふ立法事務局に移すべきことを
提唱したい(のである)。』というのである。(pp.191∼2)」
末広は更に次のように指摘していた。「立法事務局の人的機構としては,内閣の更迭に関係なく,
永く法令立案のことに専念し得べき長官の下に,専任の優れた調査官を相當多数置く外,各省から
兼任者を出して各省との連絡に當らしめるような機構が必要である」こと。しかし「この機構は,
佐藤:国立国会図書館法・議院法制局法・内閣法制局設置法一「立法」の論理(4) 249
立法内容の實質を決定するよりは,むしろ他で決定された立法内容に形式を與へることを職責とす
るものであり,而もこの場合實質と形式との間には離るべからざる密接な関係があるから,この旨
の調節を十分ならしめるため,人的関係に於て特に次に二つのことが考慮される必要がある。」そ
の一つは「国會議員を委員とする常設の諮問委員會を置くことであって,これは法律最後の決定者
たる国會の意向が法令立案の過程に於て反映することは,立法の万全を期するにつき理論的にも實
際的にも是非必要であるという考慮に基づく」のである。第二には「各省で立法関係の委員會を置
く際には,必ずこの機關の調査官を参画せしめることであ」る。「立法内容の實質から遊離して形
式になりやすい弊を防ぎたい」からである。「この機關にとって最も大切な事項はその物的施設で
ある。先づ第一に,立法資料を平素から蒐集してそれを科学的な分類法に従って完全に整備してお
く必要がある。」 「各省その他民間の学者や研究所で研究調査した結果を平素から綿密に蒐集整備
しておく必要が」ある。「各省共具膿的に問題が起こると急に立法資料を集めるために大騒ぎをす
るが,さて仕事が済んで仕舞うと折角その際集めた資料も棚上げされて仕舞ふというような傾向に
ある」のである。こういう資料の整備は「優秀な専門の調査官を置くを要し完全な資料図書館を作
る位の心構えでことに當らしめる必要がある。」「第二に,この機構に,国内の法令はもとより,
廣く諸外国の法令を集めて,常にこれをアップ・ツー・デートに整備しておく必要がある。」そし
てこの外国の法令に関しては「十分比較法学的訓練を経たもの」が行う調査・研究を重視すべきで
ある。比較法学会を設ける必要もある。「更に,是非なさねばならないことは,施行された諸法令
の跡を追うて逐一實施成績を調査し,その結果に基づいて適時にその法令を改廃するよう絶えず資
料を整備しておくことである。」「絶えず法令を社會の実情に合うようにしておくためには,實質
調査を組織的に行って,この機關が法令改廃に関し気象毫的の役割を積極的につとめる必要があ
る。」
末広の主張は,むしろ,国会法に取り入れられて議院法制局,国立国会図書館の成立という形で
実現されたとも言えよう。国会法が,残念ながら日本側の積極的なイニシアティブで作成されたの
であるかどうかは問題があるとしても,国会法の存在は大きな意味があるのである。
一般的にいって,立法権の問題立法の論理が根拠するのは何か,どこか,ということと立法の
手続き・過程がいかに形式的な整合性を持つかということは別のことである。否,むしろ両者は矛
盾するのではないか。同時に両者を満足させる条件は存在するのであろうか。論理的に言えば,両
者は同一次元で論じられる事がらではない。とりわけ前者の問題を後者の問題に解消すること・還
元することは非論理的である。両者は論理性がそもそも異なっている。立法権の根拠は人間の生活
それ自体にある。人権というものは,単なる後天的な要請ではない。ア・ポステリオリな形での定
式化ではあるとしても根拠それ自体は人間の存在そのものの活動の中に存在する。即ち,存在する
ことそれ自体が自己決定権を要求するのである。自己決定権を持たない存在は存在ではないのであ
る。独立した存在であるということは自己決定権を有し,自己判断がなし得る存在であるというこ
とである。しかし,その判断なり決定が,常にデュー・プロセス的な意味での整合性を持つかとい
えばそうではないというだけのことである。持つべきであるかどうかといえば,持たないよりは持
った方がいいということはあるのだが,あらゆる場合に持てるかというと,残念ながら事実におい
てあらゆる場合にはそうではないと言わざるを得ないのであるが,しかしそれだけのことでしかな
い。
250 茨城大学教育学部紀要(教育科学)47号(1998)
かつての,1945年までの日本において,立法権の問題が,真剣に論じられたことはあるのだろう
か。司法権の独立論が論じられたのがせめてではないのか。これも,行政権からの独立ということ
が主眼であったはずだ。だから,「天皇制の行政権」の基本的問題点・矛盾にまでは論が及ばない
形でのものではなかったか。立法権の問題,そして更にはその手続きに関して,いかなる論議があ
ったのであろうか。
ところが,なぜ新憲法の公布・施行までの過程で,連合国総司令部の〈覚書〉が出されなければ
ならなかったのであろうか。この点に関しては上記の議会史は沈黙している。にもかかわらずく占
領政策に適合するよう,直接間接に議会を監督した〉とするのであろうか。日本の〈議会〉の手を,
占領軍が縛ったと言うような記述はまったく転倒した記述ではないのだろうか。日本側が真剣に主
権者の構成する議会の独立を考えていなかったのだから,つまり立法・司法・行政という機構を構
想し得ず天皇制度を手直しして存続させようとしていたのだから,〈国権の最高機関としての議会
の独立〉という事がらに関しては意識が十分ではなかったのだ。
当時の国会課長ジャスティン・ウィリアムズは,どう言っていっているか。「総司令部と議会の
関係には,単に議事手続きの変更,立法過程の総司令部による監視,議会活動の報告,そして議会
の格上げ以外のものも含まれていた。総司令部と日本の官僚が一緒に行う些細な仕事もあった。
(p.48)」 「(1945.10.22の)覚書で,民政局は日本政府に対し,総司令部に立法の進捗状況を報
告する手続きを確立するよう指示したが,その結果は,短期の第89帝国議会(11月25日から12月
18日まで)で審議された法案が総司令部に送られてきただけであった。(p.37)」「第90帝国議会
の開催直前,ホイットニー民政局長は総司令部の全部局に覚書を発し,日本の立法手続きに関連し,
民政局が提供を準備しているサービスについて通知した。ホイットニー局長は民政局は立法に関す
るすべての事柄について内閣,各省庁,議会の事務局と連絡を保っていると述べている。いかなる
省庁も起草中の法案名を公表し次第,それを民政局に知らせる。法案の骨子が関係省庁で合意され,
内閣によって承認される際は,その法案の概要が民政局に届けられる。最終草案は,衆議院,貴族
院いずれかに提出される3∼5日前に民政局に手渡される。委員会や本会議における法案の議決につ
いては,毎日,民政局に報告される。…・議員提出の法案は提出の2∼3日前に民政局に手渡され
る。かくして,民政局は,議会における法案の状況について正確な情報を提供し得る立場に立った。
次にあげる7つの部局が立法に関して民政局と連絡を取る担当官を選任した。すなわち,経済科学局
(ESS),天然資源局,公衆衛生福祉局,民間通信局,統計資料局, G−2(参謀2部),G一
4(参謀4部)である。
第90回議会の1946年6月20日開催を予測して,ホイットニー将軍は立法課に対し,議会での重要
なできごとに関する日報を総司令部内部で使用できるように準備せよ,と指示した。スウォープ中
佐は私にその仕事の実行を命じた。ホイットニー将軍が求め,期待する情報の内容,報告書の形式,
長さ,配布については,私の裁量に任されることになった。開会の翌日,二つの報告書がホイット
ニー将軍に提出された。いずれも一ページ前後のものであった。タイムリーであることが優先され,
秘密扱いはされず,事前のチェックもなかった。(p.43)」
その報告第一号は次のようなものであった。
「議会報告第一号1946年6月21日
・ 審議B程・首相が本日の演説で概要を表明(ママ)
佐藤:国立国会図書館法・議院法制局法・内閣法制局設置法一「立法」の論理(4) 251
吉田首相は本日午前10時から貴族院で,午後1時からは衆議院で演説の予定。演説のハイライ
トは次の通り。
憲法;r今会期の冒頭に,新生日本の礎石となるであろう憲法改正案が天皇の勅諭によって提出
された』
教育=r…・(ママ)政府は現在,軍国主義や超国家主義の痕跡を一掃し,将来におけるその復
活を阻止するために,教育政策と教育制度のあらゆる面で根本的な変革を進めている』
(P.44)」
「この報告書は,ついで,吉田首相の法と秩序,食料,農業改革,インフレ,労働争議,零細企
業,失業問題,復興に関する立場を要約している。多少の変更はあったものの,この形式は日本占
領中一貫して守られた。次の報告書のねらいは,・…日本の政党がどう衆議院を運営しているかを
知らせることに置かれた。・…この目的に役に立つのは,r根回しの交渉』,つまり各派交渉会で
ある,と述べている。25人以上の議員を持つ会派だけが委員会に代表を送る権利を持ち,すべての
決定は一致でなければならなかった。この各派交渉会は,新憲法草案の審議手続きを決定し,更に
衆議院の規則と手続きを改正するたあの特別委員会を設置した。
この報告書は,先に行われたスウォープ並びにその部下たちと樋貝衆議院議長との何回かの話し
合いに注意を喚起していた。その際,樋貝議長は予算上の難点とそれまでのしきたりに訣別するこ
とを恐れて,このような委員会の設置に気乗り薄だった。報告書はさらに続けて,衆議院議長と各
派交渉会は,議院法規調査委員会の設置についての考えを改めたように,25人に満たない議員しか
持たない会派の発言を封じるような慣行を緩和するだろう,と述べている。今後,衆議院議長の顔
ぶれもそのつど変わるかもしれず,それは,共産党の議員でも,執拗に(権利を)主張すれば,議
会での発言は許可されるようになるかもしれないことを意味した。
この報告書は,第6号から,他の部局で指名されている議会連絡担当官にも配布されるようになっ
た。第90会帝国議会の会期中,報告書は各号102部つつ作成されたが,そのうち85部がそうした他
部局の代表に配られ,民政局に配られる数はわずか15部に抑えられた。当初から予想されていたよ
うに,報告書の大半は,憲法改正案の議会審議を取り上げた。そのうちのひとつ, r憲法草案審議
の主要争点,天皇の地位』と題した第15号は,貴族院に属する多くの著名な憲法学者が,r天皇は
日本国の象徴である』という憲法草案第1条の『象徴』を『元首』と変えるべきだと提案している,
という内容だった。 (pp.44∼45)」
「ホイットニー将軍が報告書の中の字句に異議をさしはさんだのは一回だけだった。報告書の第
43号を読んでいたホイットニー将軍が,原本をマッカーサーの部屋から取ってこさせ,表現を変え
るよう求めたのである。この報告書は,衆議院憲法改正委員会の委員長である芦田博士が,皇室財
産について規定する第84条(現行の88条)をめぐって,吉田内閣と総司令部との間に見解の相違が
あると私に述べた意見について触れていた。ホイットニー将軍は,憲法(改正)論議に民政局職員
が加わっていることを示すような記述は,総司令部が憲法をめぐる議会審議に介入していると受け
取られかねず,それがひいては,ポツダム宣言の主旨に則り,自由に表明された日本国民の意思に
従って責任を有する政府が樹立されたかどうかに疑問を持たせることになる,と警告した。このこ
とがあって以後,報告書の中では不介入の原則が慎重に守られ(pp.45∼6)」た。
また,ウィリアムズによれば,議会改革に関する覚え書き一スウォープの覚え書きというものが
252 茨城大学教育学部紀要(教育科学)47号(1998)
ある。「日本を去る直前(1946.7.一旦民政局を離れるのであるが),スウォープは,エスマンの手
を借りて,9項目の議会改革を勧告する覚書を作成し,ケーディス大佐とホイットニー将軍の裁可を
得ていた。その覚書が求めていたのは,恒久的な常任委員会の設置,予算案の審議にもっと時間を
かけること,少数政党や会派の権利を保護すること,拘束のない討議,議員歳費の引き上げ,議会
による会期の決定,議員にそれぞれ秘書をつけて仕事を助けること,議会活動のための調査サービ
ス業務を行うこと,証人を召喚する権限の9点である。・…議員の給与水準は伝統的に大蔵省が内閣
法制局長官(この訳し方は厳密には間違いである。この時点では法制局はあっても〈内閣〉法制局
は存在しない。),主要な政党指導者と協議して決めることになっており,…・その給与は,勅任
官である二等官(次官か局長クラス)を下回らないようにすべきだといわれている,と(大蔵省給
与局の坂田泰二)は語った。 (p.46)」2)
ここでウィリアムズが触れている議院法規調査委員会については,当時の衆議院書記官の山崎 高
氏などの以下のような証言がある。日本「帝国議会は天皇の協賛機関だったわけだが,新しい国会
は国権の最高機関で唯一の立法機関となった。憲法草案は二十一年三月六日に発表になったが,こ
の時は議会は閉会中であった。(p.11)」「九〇議会が二十一年の五月十六日に召集になり,六月
二十日に開院式が行われた。(P.12)」「われわれ衆議院の書記官は,当時数人いたが,そうなる
と,どうしても従来の議院法に代わる新国会法を作らなければいけないということになり,
GHQ(連合軍最高司令部)との折衝が始まった。すると,彼らの考えがこちらに伝わってくる。こ
ちらも考えを言う。すると草案を作らなければならないということになり,草案をガリ版刷りで書
き書記官会議をやったりした。…・大池 真さんが書記官長,西沢哲四郎さんが勅任書記官,その次
が鈴木隆夫さんで,私は庶務課長だった。西沢さんが本会議関係,鈴木さんが委員会関係,私が国
会の付属法規の全部の章を担当した。当時,書記官の数が少なかったが,議会には法制局もなかっ
たので,われわれが法律案も書いた。 (p.12)」
「議会が二十一年六月に開会すると,同月十八日の各派交渉会でr議院法規調査委員会』という
のができた。旧議会には議院運営委員会というのはなく,各派交渉会というのがあって,各派の議
員がメンバーとなり運営を決めていた。私の記録だと,二十一年七月十五日には調査委で進歩党の
委員とGHQが会議をしている。出席した委員は犬養 健,井上友治,成島 勇,田中万逸, GHQは
GS(government secIion民政局)のソープという中佐のほか,エスマン,ウィリアムスだった。ここ
で会期,常置委員会,図書館,議会の予算,議員の地位,発言時間,出席率,開院式,質問,議院
法などについて話し合っている。GHQの側からは『議員は勉強しないから専門家を作ってはどう
か』というアドバイスもあったQ
七月二十六日にはGHQと自由党の委員一芦田 均とか葉梨新五郎という人がいた一が会い,新議
院法,議員の地位,歳費,議長の地位などについて話し合い,議員の地位をもっと高くする必要が
あるというような話があった。八月五日には,小会派とウィリアムスが会った。その時には議会及
び議員の能力発揮,議員立法などについて話し合っている。その後,この調査委は八月には三回,
十一月には四回,十二月にも四,九,十四,十八とあり,四日には共産党の徳田球一が共産党の国
会法案の説明をしている。
こうした調査委の基礎になる考えは,我々とGHQと話す間に,何回も彼らからサゼスチョンを受
け,われわれも勉強した。たとえば,…・向こうからr政府の人間が来て一議員というのは法律も
佐藤:国立国会図書館法・議院法制局法・内閣法制局設置法一「立法」の論理(4) 253
知らなければ,予算もなんにもわからないんだ一という。…・これじゃいけないんだ。こういうこ
とをやっているから戦争が起きた。議会はもっと勉強して強くならなければいけないんだ。』とい
う。rやはり常任委員会を置いて強化しなければいかん。アメリカには委員会にスペシャリストが
いる。日本もスペシャリストを置くようにして,議員をエキスパートにしなけりゃいかん』という。
これは国会法の中に生きた(「議員は少なくとも一個の常任委員となる」一国会法第四十二条二項。
「専門委員を置く」一第四十三条)。 (pp.12∼13)」 (帝国議会の常任委員会は両院に予算,決
算,請願,懲罰委員会。衆議院に建議委員会,貴族院に資格審査委員会があっただけである。)
〈議院法規調査委員会〉が実際にどういう会合を持ったかについては,こう言っている。 「二十
一年八月九日の議院法規調査委員会では自由党から,芦田 均,坂東幸太郎,葉梨新五郎,森 幸太
郎,大久保留次郎,進歩党から田中万逸,井上知治(ママ),社会党は中村高一,水谷長三郎,共
同党は松本滝蔵,宇田国栄,共産党は高倉テルといった皆さんが出てきて,名称,開会式,会期の
起算日及び延長など,臨時会の請求の手続き,歳費,国会予算,議員の不可侵権に対する例外をど
うするか,参議院の緊急集会など,また,八月十六日には定足数,秘密会,常任委員会などを勉強
した。八月三十日には,秘密会の記録をどうするかとか,弾劾裁判所,証人喚問をどうするかなど
を協議している。十一月十四日には委員会の公開,国会議員の国鉄の無賃乗車を協議した。後者は
帝国議会時代にもあったが,当時は列車だけが選挙の頼みの綱で切実な問題だった。十一月に十六
日は,常任委員会の関係,十一月三十日には,国会法に関する各党幹部打ち合わせ会を開いた。十
二月にはいって,徳田球一が共産党案を出したりして,大体草案が出来た。十二月九日には各条別
審議をして十二月十八日に提案説明を誰にするか協議している。 (p.17)」
やはり,立法権との関連で論理的には議会改革が先行していたのである。行政府の問題は,その
次の課題であったのである。議院法制局の設置と充実が最大の課題であったのである。ところが,
日本側はそれが十分には理解できない。そればかりか,立法権に関して官僚の〈抵抗〉が目にあま
る状況となっているのである。当初からそうであった。行政府の立法という感覚が抜けないのであ
る。この問題が集中的に現れたのが警察法と地方自治法,とりわけ前者に関してあったのであろう。
政治というものが,それまでは〈独立性〉をまったく持っていなかったのである。議会は衆議院は
輔弼機関・協賛機関に過ぎないのである。貴族院は輔弼機関以上の機関であった。立法が先行して
の行政であり,国民主権が実現されるためにこそ立法が必要なのである。その逆では,もはや,ま
ったくないのである。しかし,依然として,臨時的な法制作業は全体としてこの点を,明確にしき
れないのである。「二十一年には向こう側の人がわが国の議会のことを調べにやってきて,いろい
うな交渉があった。…請願はどうなっているのかなどと聞いてくる。五月十一日には民政局のホ
イットニー代将が各派との秘密会合で『追放令を実施してほしい』と申し入れたり,接触は多かっ
た。法律案,決議案,修正案などすべて(p.19)」,「予算も全部,OKが必要だった。(p.20)」
「それよりも膨大な議会の速記録をr全部翻訳してGHQに持って来い』というのには,本当に困
った。・…速記録のために翻訳課を作ろうとなって,嘱託の翻訳者を何人か置き,外務省から課長
を一人もらってきた。・…GHQはどうして速記録が遅れるのか,と(外務省からの)課長の所へい
ってくる。すると彼はrそれは衆議院のせいだ』と答える。ボクの所へ来たら,rいや,外務省の
せいだ』とやって時間かせぎをした。さらに本会議と委員会の記録の要約の速報をr翌朝までによ
こせ』といってきた。ウィリアムスが嘆くんだが,とにかくマッカーサーが朝目をさましたら, 『昨
254 茨城大学教育学部紀要(教育科学)47号(1998)
日の会議ではこんな事がありました』と,まくらもとに置いておかなくてはいけない,という。一
・・
d様がないから,渉外課に学生のアルバイトを入れ,議事堂の中で,宿直室をあてがって夜食を
準備して泊まらせた。そのころ,委員会が終わるのは,いつも夜だから,このアルバイトを委員会
室に入れて手で速記をとらせ,それを夜中じゅうかかって,翻訳して,翌朝届けた。
今から考えると無理難題だが,r議会で何やっているか,わからなければだめだ』という,向こ
うからすると当たり前かもしれない。(p20)」
更に,次のような重要なこともあった。rGHQとの話では,国会図書館を作るやりとりがあっ
た。図書館は衆議院貴族院にそれぞれあったのだが,まとめたものを作れというわけで,国会法
に一条を設けた。そこで,おざなりに国会図書館法だけをつくり,後でクラップ,ブラウンという
アメリカの使節団が来て,彼らの勧告によって,今の国立国会図書館を作った。(p.16)」どうし
ても国会法案の骨格を固めなければならないのである。立法機関の補佐機関を充実しなければなら
ないのである。
. 「(91議会は1946.11.25.から12.26.)この約一か月の間に国会法の趣旨弁明を田中万逸さんがし
て,…・。(p.22)」「(92議会は1946.12.27.∼1947.3.31.)この時二十二年二月一日に議院法規
調査委員会を開いて,国会法案は貴族院にはいろいろ意見はあろうが原案どうり提出して貴族院の
正式の意見を待って両院協議会をやろうということで,・…,可決して(貴族院に)送っている。
国会法はその後,貴族院から修正になって回付案がきたのが二十二年三月十八日。翌日に同意。国
会法の付属法一国会職員法,量院 。法,・A図童 法,議院に出頭する証人等の旅費及び日当
に関する法律,国会議員の歳費・旅費及び手当てに関する法律一は三月に十八日,可決になってい
る。 (pp.22∼23)(アンダーラインは引用者)」これに関して知野虎雄は言う。「当時,事務当
局が司令部に出した国会法案は,常任委員会と特別委員会,それに戦前たびたび計画して認められ
なかった常置委員会を織り込んだものを基本にしている。しかし,これは司令部との折衝の段階で
拒否された。(p.56)」
議員立法に関して山崎氏は証言している。「国会法の書記官案では,帝国議会の議院法を受けて
決議案は20人以上の賛成が必要ということにしておいた。ところが,GHQではr議員立法を重視し
ろ』という。提案に賛成者はいらないというので,rすべての議員は議案を発議することができる』
の一一本で行けということで,最初の国会法の条文となった。しかし,これで運営してみると,議員
立法はやはり制限すべきではないかということになった。それは予算を伴う議員立法が非常に安易
になってしまったからである。議員が選挙目当てのためとかで予算を伴う議員立法を出すことが多
くなり,このままではいけないということになった。 (pp.40∼41)」
参議院のことについて,参議院事務局にいた河野義克は,言っている。 「参議院の開設準備委員
長は貴族院書記官長の小林次郎さんだ。貴族院書記官はみんな開設準備委員というものを仰せつか
った。何をするかといえば,要するに,議会関係の法規の整備,その他,参議院を迎えるについて
のいろいろなことをやった。国会法の問題,議院事務局法,国会職員法,あるいは弾劾裁判所の関
係とか,訴追委員会の関係とか,大きいものとしては参議院規則の制定をやる。国会法の関係につ
いては衆議院事務局と密接な連絡を取り,司令部と折衝して作っていった。 (p.120)」
けれども,実務担当者はどう考えていたか。「新憲法を見て,私たちの間からもr法律が多くな
ってしょうがないそ』という声が出ていた。なにしろ,それまでは法律には大ざっぱな事だけを書
佐藤:国立国会図書館法・議院法制局法・内閣法制局設置法一「立法」の論理(4) 255
き,後は勅令,省令で処理していた。また文教関係は全部,勅令だった。その流れは明治憲法から
のずっと続いた歴史だった。それらが全部,法律案として提出される。それを新国会に際してどう
処理するか一法案の処理の能率ということも考えなければいけないということだった。
新国会は常任委員会を置き,そこに付託する。帝国議会では法律が出るたびに,本会議で特別委
員会を設け付託することで済んだ。常設の委員会は予算,決算,懲罰,請願,建議の五種に限られ
ていた。そこで新国会になって法律案が多くなったらどうやってこなすかというのが大きな課題と
なった。」現行の国会法の規定と構成が異なり, 「昔は両院とも同じ委員会の構成で,衆議院を通
った法案がスーッと同じ委員会に行くようになっていた(pp.37∼38)」(山崎証言。)
「旧憲法における委員会制度は,議会自身が天皇の立法権への協賛機関にすぎなかったし,首相
を選ぶわけでもなかったし,憲法上の地位がかなり低かった。それでも議院内閣制の下で行われて
いた本会議中心主義が建て前だった。すべて法案は三読会制で本会議で処理する建前だった。委員
会は全院委員会,常任委員会,特別委員会と三つあった。
全院委員会は制度としてはあったが,活用されず,第一,三,四回と十四回ごろに一回ずつ開い
ただけで,その後はまず動いたことのない,条文だけの委員会だった。常任委員会(略)。法案や
議案が出ると,一件ごとに特別委員会を設置した。したがって法案の数ほど特別委員会が存在する
というわけで,百以上もあったことがある。その後,同種の法案は同種の委員会に併託するという
方法で,だんだんとまとめてきて,やや常任委員会的な方向に進んだということだが,委員会は,
あくまで予備審査の機関でしかなかったし,権限も限られた。法案が出て来た時は,大体,・趣旨説
明から質疑までの大きなところは本会議でこなす。そして委員会から上がって来たら,また本会議
でやるという三読会というようなものでやっていたから,委員会そのものの地位は非常に低かった。
(p.54)」「昔は何と言っても内閣中心で,議会を,できるだけ政治から引き離しておこうという
意図があったと思う。 (p.54)」 (以上は知野証言。)3)
1945年までの法制局の実態がこれらの証言から,逆に伺えるであろう。衆議院の書記官に対して
法制局には参事官がいて作業に従事していたのである。法制局側は明らかにこの一連の動きを知っ
ていたのである。「当時法制局は管理制度の主管局の地位にあったから,昭和二十一年の夏頃から,
新憲法の趣旨に従って,行政機構行政運営及び公務員制度の民主化・合理化・能率化を志向する
研究・立案を手掛けていたが,rこれだけの大規模な作業となるととても(法制局だけでは)無理
だというので,いわば兄弟分の役所』(公務員制度今と昔[佐藤達夫論稿集】ll5頁)として,同年
十月二十八日内閣総理大臣〈第一次吉田内閣である一引用者〉の管理の下に, r行政機構及び公務
員制度並びに行政運営の改革に関する調査,研究及び立案に関する事務をつかさどる』行政調査部
が設置され(同年勅令490号,行政調査部臨時設置制),この調査部が総司令部に対する窓口になっ
た。」4)この調査部は,総裁斉藤隆夫国務大臣,主幹入江俊郎法制局長官,総務部長前田克己(大蔵
省),行政機構部長宮沢俊義(東大),公務員部長浅井清(慶応大学),行政運営部長山下興家
(運輸省)という構成で,5)部員が置かれ,法制局の鮫島眞男は兼任していたという。まさにこの
行政調査部で,内閣法が検討されるのである。6)〈内閣法〉に関しては,田中二郎の論文があるが,
これに関しては後に触れる。
けれども,ウィリアムズが書いているように改革は遅々として進まない。この点は,どう見たら
良いのであろうか。内閣が幣原内閣は1946.5.22総辞職同日吉田内閣が成立。11月3日新憲法公布
256 茨城大学教育学部紀要(教育科学)47号(1998)
されるという時点のことである。なお,この幣原内閣の時に次のようなエピソードがあったと山崎
は証言している。開院式でのことである。「陛下はお客さんだから,衆議院議長が先に式辞を読む。
そして陛下のお言葉があるというふうにしようと三人で話したが,今まで陛下に尻を向けたことは
ない。しかし今度は仕様がないじゃないかということにした。この式次第を作ってやってみたら,
みんなの評判がよかった。新聞記者諸君にrいいものをつくった』とほめられた。(p.23)」しか
しながらである。 「六回(1949)国会開会式で幣原喜重郎衆議院議長が先に読んだ式辞を抱えて,
陛下のところへつかつかと上がっていった。あれは元の位置に戻って秘書課長に渡す。そして陛下
のお言葉があったら,議長が上がっていって頂いてくる。ところが,この時は,自分の式辞を渡そ
うとして,途中で気がついて降りてきた。
ところがこれが問題にならない。昭和六十年初めの福永健司議長の場合(健康を理由に辞任)は
rリハーサルができないほど弱っていて大丈夫かなあ』といった,開院式の式典進行に支障が出る
のが原因というより,もっと全体的な判断があったように思われる。幣原さんの時はみんなも『議
長がまちがっちゃったよ』と笑ってすませた。これで問題にならなかった。(p.24)」
このことに関して当時参議院議員であった中野重治は,1960年になってであるが,書いている。
その時「ちょうど私たちは議員団会議を開いていた…・。私は,ほかの連中は議場へ入らぬらしい
ので,私が議場へはいってもいいかどうか議員団会議にたずねた。」「だれやらが,共産党議員は
天皇の出る開会式には出ないのだといった。イギリスでさえどうやらだとその誰かはいった。私に
納得が行かなかったが,そんなことをいっているうちに開会式の時刻はすぎてしまった。その開会
式でこそ,議長が一たぶん幣原だったと思う。一紙きれをまちがえて,議長の読む分を天皇に渡し
てしまっておかしなことがあったのだった。そんなことは政治ではない。しかし私は,それを自分
の目で見ておきたかった。文学の方のことは目で見なければ仕方がない。いまだに惜しいと思って
いる。」7)
lV−2.法務庁設置法の成立から法務府設置法への改正一法制局の解体
さて,結局マッカーサー書簡が直接の契機となり法制局が解体されるのである。しかし,r内閣
法制局史』は,以上に検討してきたような経過があるにもかかわらず「このような書簡が発せられ
るに至った経緯ないし理由は必ずしも明らかではないが(注1),総司令部民政局による一九四五年
九月から一九四八年九月までの三年間の占領行政に関する報告書r日本政治の再編成』 (Politica1
Reorientation of Japan, September l 945 to September 1948)によれば,当時の法制局が余りにも形式
的,論理的,反動的とみなされたためらしい(注2)。同書によれば,例えば昭ニー二 に,
法制局は公矛口制度の己 計画に関する 止書を総百A音民 局に提出したことがあったが,百
告書鑑,法制局が,わが国の政府機関において重要な地位を占めていること,政府提案の法律案
について,その形式についてばかりでなく実質についても影響を及ぼすべき地位にあることが記さ
れており,法制局の幹部には日本官僚政治の指導的人物が含まれていて,その影響はいつも決まっ
て反動的であり,民政局の示唆に対する法制局の反応は,政府主導型による実質的改革について楽
観的な期待を抱かせるようなものではなかったとしている(二四八頁)。もちろん,総司令部も,
佐藤:国立国会図書館法・議院法制局法・内閣法制局設置法一「立法」の論理(4) 257
法制局が法律案及び官制の審査を通じて内閣において極めて重要な地位を有することを否定してい
たわけではない(六八九頁等)。」としているのである。r内閣法制局百年史』は,この下線部分
の引用をカットしてしまっている。「ちなみに,同書は,その付録において,r内閣の補助部局』
としての法制局について詳細に触れている(D6,六八九∼六九二頁)。それによれば,法制局は,
今世紀二十年間は極めて強力なものであったが,戦時中はゴム印にすぎなかった,それにもかかわ
らず,同局職員は自分たちの重要性,不可欠性及び各省から自分たちに向けられているとおもわれ
る対抗意識(antagonism)を承知しているように見受けられるとか,法制局は,各省で準備される
法律または命令の審査に多くの時間をかけるので,ほとんどすべての職員は各省から選ばれる,と
いうようなことに始まり,欠員が生じたり,補充が必要なときは,法制局は,適当な省に人を指名
するように要求する,法制局に指名されることは一般に名誉と見られていること,職員は各省から
出向しても必ずしも昇進しないこと,職員については個人の質に重点が置かれていること,新規職
員は法制局において特別の訓練の機会は与えられず,一人前になるまでには約半年はかかること,
職員の半数は引き続き法制局の仕事を担当するが,他の半数は一般の移動で各省に帰って行くこと,
法律の実質については各省が責任を持ち,法的な面については法制局が責任を負うところから,各
省と法制局との関係は緊密な協力関係にあること,そして法制局は法律的な権限によってではなく
事の次第によるものではあるが,提案される法律または命令の実質に変更をもたらす力をもってい
ること等が述べられている。また法制局長官についても言及し,法制局長官は,提案された法令に
関し閣議で生ずるいかなる疑問にも答える責任がある,しかし,閣議内で低い地位を占めているこ
とは,閣議には出席できるけれども閣議室の特別なテーブルに座らなければならない点に端的に示
されている,などというような説明もされている。これらの記述からしても,当時,総司令部が法
制局に対してどのような感想を持っていたかは,推察するに難くない。(pp.127∼129)」 (なお,
r日本占領の使命と成果』では, 「全体主義的東條政権のゴム印の役割しか持たなかったふたあも
?iママ)の議会(pp.57∼58)」と言っている。板垣書店,1950。)
そればかりか,注1)でどう書いているかというと,「法制局の解体の理由について直接触れたも
のは,あまり見当たらないが,次のようなものがある。」として,三人の文献を引用している。ro
佐藤達夫「法制局あれこれ」法律のひろば(昭和二十七年一一月号)二十一頁。 r当時のわれわれ
の議論は,あくまでも法律論の枠内にとどまっていたにかかわらず,先方では法律論を武器として
占領政策に反抗するものと誤解していたらしい。昭和二十三年の法制局解散命令もこのような処に
その原因がっあたと思われる。』
○高辻正己「内閣法制局のあらまし一再建二十周年に寄せて一」時の法令(昭和四十七年八月三
日号)三七頁。r当時の法制局が,総司令部に対しても時に法理を楯に譲らなかったことが,災い
したのであろう。』
○今枝常男「雑録思い出すまま」r内閣法制局史』三二九頁。『総司令部がかような措置をする
に至ったのは,当時の法制局がtoo logica1, too legal, too technia1であるということにその理由があ
ったとか,また,さらにはtoo powerfulということも理由の中にあるとかいうことが伝えられてい
る。果たして司令部がかような語でもって,その理由づけをしたのであるかどうかを私は正確には
知らないけれども,少なくともこれらの表現は,総司令部当局が法制局について持っていた感想を
伝えるものとしては,多分にその真相を伝えているものであるということができるのではなかろう
258 茨城大学教育学部紀要(教育科学)47号(1998)
か。(P.129)」
また,注2)として上げられているのは佐藤達夫が昭和30年9月号のr自治時報』に書いた, 「法
案作りの四半世紀(Iv)」とういタイトルだけである。
なお,前記の内閣に置かれた行政調査部に大蔵省から部員として出向していた庭山慶一郎は,「日
本の官僚機構の中でそれまでトップの座を占めていたのは何といっても内務省その中でも警保局,
その次は大蔵省特に主計局,次は(内閣)法制局,別格で宮内省でした。したがって司令部の圧力
はこれらの役所に次々とかかりました。(p.36)」,と書いているのだが,この部分をr内閣法制
局史』もr内閣法制局百年史』も共にちゃんと引用している。内務省警保局と法制局とが並んで挙
げられていることに注意しなければならない。が,この庭山が,法制局は1952年になって「また元
の内閣直属の役所に帰りました(p.37)」8)とも述べている。同じく法制局参事官として行政調査部
の部員を兼任した鮫島眞男もこの報告書が「法制局が,政府提案の法律案等について,その形式的
事項についてばかりでなく,その実質的事項にまで介入したこと,法制局がわが国の官僚機構の中
で強い権限を有していたこと,余りにも形式的,論理的,反動的であったこと等(p.37)」9)に触れ
ていると書いている。またこの報告書についてはウィリアムズの記述も参考にされねばならない。lo)
r日本の政治的再編成』の中の一章「公務員制度」は報告している。「本報告書の他の諸章で,内
閣法制局が日本の統治機構の中で戦略的な地位を占めていたこと,それがしばしば法の形式のみな
らず政府提出立法の内容にまで影響を及ぼし,従って国会における人民の代表に対して最小の責任
しか負わずに国策の形成にかかわることにその地位を利用していたことが説明されている。法制局
の上級官吏には日本の官僚制の指導的な人物が数名含まれていた一かれらはすべて熟達した実務家
で,政府における法的形式主義の忠実な代弁者であった一ため,そのような影響力は常に反動的な
ものであった。かくて当然のことながら,民政局の示唆に対する法制局の対応は,政府のイニシア
ティヴに基づく実質的な改革を期待させるような楽観的ものではなかった。 (p.445)」m
1)法務庁設置法
遅々として改革は進展していなかったのであるが,1947年9月16日のマッカーサー書簡が出され
た後,12月17日には法務庁設置法が公布される(法律第193号)。施行は翌年2月15日。かくして
31日に内務省が廃止となる。 「法制局と司法省とが合体して新設のr法務総裁』の下に法務庁が設
けられることになって,法制局は,内閣から離れることになった。(p.130)」とr内閣法制局
史』・r内閣法制局百年史』は記しているが,詰まりは法制局の廃止なのである。 r内閣制度七十
年史』 (1955年刊行)はこう記している。 「法務庁が設けられることとなって,法制局は,内閣か
ら離れた。もっとも,この法務庁設置法第一条は,『政府における法務を統轄させるため,内閣に,
法務総裁を置く。』と規定し,特にr内閣に』を加えたところに,各省よりも内閣との結びつきが
さらに緊密であるという趣旨が認められるけれども, 構図的には,むしろ各省に並ぶものという
べきであったといえよう。(p.179)(一この部分の執筆は佐藤達夫である。アンダーラインは引用
者。)」また他方,これと同時に完全に司法省と内務省が廃止されたのである。「そして,更に,
法制局解体のわずか四日前の昭和二三年二月一一日,連合国軍最高司令部政治部ホイットニー准将
の名で,司法大臣あての書簡により, (片山首相宛の)書簡の趣旨及び『法制局が長い間非民主的
慣行及び方法の下に活動してきた事実』にかんがみ,法制局長官が法務庁法制長官として任命され
佐藤:国立国会図書館法・議院法制局法・内閣法制局設置法一「立法」の論理(4) 259
る得ることを唯一の例外として,法制局の一級または二級の職員は一人たりとも法務庁に転用して
はならないと厳命してきた(注1)。新憲法の制定から施行への苦しい作業を終えて,いよいよこれ
からという時期であったときだけに職員の受けた打撃は大きかった(注2)。このため,当時の佐藤
達夫長官の尽力にかかわらず,任命後日の浅かった参事官一人(真田秀夫)を除いて,他の参事官
はすべてその職を変えざるを得なかった。
注1)○連合国軍最高司令部
政治部
一九四八年二月十一日
宛先 司法大臣
件名 法務庁及び国家公安委員会に関する件
一 一九四七年九月一六日付け最高司令官から内閣総理大臣あての書簡の趣旨に従い,国会の
立法により一九四八年二月十五日日から発足すべきであるとされている法務庁は,遅滞なく
設置を完了するとともに,新庁舎に移転しなければならない。
二 最高司令官の書簡が,現在の(内閣)法制局が政府の能率経済の見地から廃止されること
を意図している事実にかんがみ,さらにまた法制局が長い間非民主的慣行及び方法の下に活
動してきた事実にかんがみ,法制局長官が法務庁法制長官として任命され得ることを例外と
して,法制局の一,二級官のうち一人たりとも法務庁に転用されてはならないと信ずる。
さらに,最高司令官の書簡に略述されているように,法務庁設置の構想は,内務省の基本
をなす思想と根本的に異なっているので,内務省の一,二級官のうち一人たりとも法務庁に
転用されてはならない。 (「内務省廃止の勅令の審査に当たって法制局ははげしい抵抗を示
した。そのことがGHQの不振を決定的にしたといわれる。」と谷 伍平は書いている。12)民
政局は「いくつもの錘壕に取り囲まれている官僚体制が,決して従わないと意を固めて抵抗
する」13)と,報告している。)
注2)今枝常男「雑録思い出すまま」前掲。r法務庁設置法・…(ママ)は昭和二十三年二月十
五日施行ということになって,当時の法制局員は,一せいに新しい法務庁に引き継がれるも
のと一同が了解し,各人の新しいポストの内定にまで至った。ところがその矢先,,総司令
部は,従来の法制局参事官が新しい法務庁に引き継がれることは一切まかりならぬと指示し
て来た。まさに晴天のへきれきで,一同すっかり面くらった。 (以下略)pp.130∼131.」
r内閣法制局史』
かくのごとく内務省と司法省の解体が,国会法,内閣法,警察法と地方自治法へと結果したので
ある。立法機関の充実が図られることとなる。また,教育に関しては文部省の解体も論じられ,教
育委員会法は,教育委員会制度の公選制度を掲げたのである。法務庁設置法との関係で次に内閣法
の制定についてみてみよう。それはどこが行い,そこでは「法制局」はどのように扱われていたの
か。興味深いのは,内閣法の構想と立案は国会法の構想及び立案過程とはそれぞれ別の担当者によ
ってなされたということであり,にも拘らず内閣法の審議過程の最中に内務省と司法省のく解体の
指示〉が明確となり,その時以降 「法制局」の構成に関しては後の法務庁の設置の方向へと転換
と変更を余儀なくされたということが浮かび上がることである。
260 茨城大学教育学部紀要(教育科学)47号(1998)
2)内閣法制定(1947)
実は,内閣法(1947.1.16.)と政令2「内閣官房及び法制局職員等設置制」 (1947.5,3)及び政
令3「総理庁官制」 (これも5.3.)が公布されていたのである。そして後者では職員の組織は変更が
ないということになっているのである。これは重大である。少なくとも憲法の施行までは政令(勅
令)による〈政治〉が実質的に,それ以前に「引き続いて」なされていたことは重要なことである。
国会法は,衆議院議院法規調査委員会が立案して,民政局国会課と折衝しながら作成されたので
あるが,内閣法はこれとは違い1946.7.3.の勅令348号・「臨時法制調査会官制」14)に基づいて設置
された臨時法制調査会(会長は吉田 茂,副会長金森徳次郎,幹事長は法制局長官入江俊郎,幹事は
法制局参事官のほか関係各省の局課長級数人,1947.5.21.まで存続)で審議・立案されたのである。
〈第1条 臨時法制調査会は,内閣総理大臣の監督に属し,その諮問に応じて,憲法改正に伴う諸般
の法制の整備に関する重要事項を調査審議する。〉に拠る活動である。原案(素材)はく幹事長及
幹事二於テ之ヲ作成スベキモ,当該法制所管官庁卜緊密ナル連絡ヲ保ツ様幹事ノ選任及事務分担二
付考慮スルコト〉とされた。この調査会設置は幣原内閣時代の同年3.12.閣議決定され,3.15.には,
運営方針を閣議決定した。5月には吉田内閣となる。そうしてこれは事実上,それまでの憲法問題調
査委員会(松本委員会)の廃止でもあった(調査委員会の〈使命〉は調査会に吸収される)。委員
は内閣が命じた。 「数回の部会,総会を開いて審議した結果,二十一年十月二十六日付けで皇室典
範改正法案要綱外十八件の法律案の改正又は制定の要綱が答申された。 (p.ll9)」15)なお,1946年
9月6日の閣議決定「行政機構及び公務員制度並びにその運営の根本的改革に関する件」により行政
調査部の設置が決められ,主幹は法制局長官となる(10月28日行政調査部臨時設置制,勅令490
号)のであるが,この臨時法制調査会の答申に関して,閣議決定はこう述べている。「嚢に,内閣
に設置せられた臨時法制調査会に於ては,目下,改正憲法施行に伴ひ必要な各種法制の整備に関し
審議研究を進め,政府はこれが答申に基き,成文化した後,次期の帝国議会に法案を提出する予定
の下に,内閣法,中央行政官庁法,地方行政官庁法,官吏法等,行政機構及び公務員制度に付いて
も,鋭意研究中ではあるが,改正憲法施行までの間に存する期間は僅少であって,その間の之が全
面的且つ根本的改革を立案実施することは極めて困難であるのみならず,かかる全面的且つ根本的
の改革を断行するには,仮すに相当の期間を以てし,十分科学的且つ慎重周到に調査立案がなされ
なくてはならぬ。
依って,現時法制調査会の答申に基づいて次期議会に提出すべき行政機構及び公務員制度の改正
は,改正憲法施行に伴ひ差当たり必要とせられる諸点とし,之が根本的改革は,左の要領に依り,
特別の機構の下に,これが研究,調査及び立案に当たり,今後約一ケ年を期し,改正憲法下に於け
る行政機構及び公務員制度並びにその運営に付,全面的且つ根本的改革の実施を断行し,その徹底
的民主化を図ることとしたい。」行政調査部は「部長,主幹,部員,主事,内閣事務官3人」から構
成され,部員は「学識経験者及び関係各庁官公吏並びに内閣事務官を以て之に充て民間の達識者を
充分活用する事とする。(pp.95∼6)」r内閣法制局百年史』。実際のメンバーは「総裁斉藤隆夫
国務大臣,主幹入江俊郎法制局長官,総務部長前田克己(大蔵省),行政機構部長宮沢俊義(東京
帝国大学),公務員部長浅井清(慶応大学),行政運営部長山下興家(運輸省)」16)などであっ
た。
更にまた,この調査会は,鮫島が指摘しているように,まだ廃止になっていない司法省に置かれ
佐藤:国立国会図書館法・議院法制局法・内閣法制局設置法一「立法」の論理(4) 261
た「司法法制審議会」(吉田内閣での閣議決定,1946.7.9.)との「重複設置ではないか(p.46)」且7)
という問題があるようである。入江も, 「当時司法省には司法制度改正審議会があり,他の省にも
所管の法制に関する調査会を持つものもあったが,それらは従来通り作業を進あてもよく,ただそ
れらも結局新設の前記調査会の傘下に統合することとして,最終的には同調査会がとりまとめ,同
調査会の答申とするということで運営された。この調査会の運営,答申要綱の準備等には,法制局
の全員がこれに関係(p.119)」18)した,と回想している。 r資料戦後二十年史 3 法律』日本評
論社,1966,によれば, 「このなかに臨時法制調査会第3部(有馬忠三郎部会長,司法関係担当)
の委員,幹事を含め,司法関係の法律の改正については,臨時法制調査会と司法法制審議会は共同
して審議に当たった(p.171)。」なお,本書には,司法法制審議会第一小委員会に配布された資料
が掲載されている。
制定当時の内閣法では「法制局は,内閣に置かれ(第12条第1項),r内閣提出の法律案及び政
令案の審議立案並びに条約案の審議その他法制一般に関することを掌る』 (同条第3項)ものとされ
た。条約案についても,これが明文化されたのは,・…参事院当時は別として,内閣法においてが
初あてであった。更に,法制局はr政令の定めるところにより,内閣の事務を助ける。』 (同条第
4項)ものとされた。ただ,このときの内閣法の規定で注目されるのは,従来,法制局の所掌事務の
中心であるべきf法律命令案を審査し,これに意見を附し,及び所要の修正を加えて,内閣に上申
すること』というような文言が見当たらないことである。これは,当時,総司令部の法制局に対す
る風当たりが強かったので,実際面においては従来のとおりとして,殊更これについて規定するこ
とを差し控えたためとされている。そして,内閣法に関する審議は,大日本帝国憲法下の第九一回
帝国議会において行われたが,法制局についての質疑は特段なかった。19)当時,田中二郎東京帝国
大学教授は,新憲法の下における内閣制度について定める内閣法に関連して,法制局について,次
のように述べておられる。r法制局の在来の地位は,必らずしも明瞭ではなかったが,おそらく内
閣総理大臣の補佐機関としての性質をもつものと解せられるべきであろう。ところが新しい内閣法
の下においては,法制局は,日らかにム議 としての の 且音。の一としての地位を占めるこ
とになった。このことは法制局の地位を従来よりも一段と高めることになるであろう。ことに法制
局が,その権限として,内閣提出の法律案の審議立案のみならず,条約案の審議に及び,その他の
法制一般に関することを掌ることを明示するに至った結果,法制の審議の名において,今後法制局
が各省に対して有する圧力と統制力は一段と強化されることとなるであろう。このことは内閣の一
体性を保障し且つこれを強化することを趣旨とする新内閣制度の建前からいって,或は当然の帰結
ともいひ得ようけれども,…』(「内閣法について一新憲法の下における内閣制度一」r法律時
報』1947年2月号,p.145)(pp.104∼5)(アンダーラインは引用者)」(r内閣法制局百年
史』)
この点に関して,別のところで,田中はこう語っている。20)「(林修三)(内閣の補助機関の
強化という問題)新憲法下の内閣制度ができたときに,内閣自体の補助機関としては,はじめは法
制局だけつくった・…。旧憲法時代の行政組織では,内閣部局は今の総理府か内閣かよくわからな
いような組織になって(いたので)新憲法下で内閣と総理府というものをはっきり分けようという
ことで,内閣自身の補佐機関としては,閣議の庶務をやる官房のほかは,法制局だけを置いた。と
ころがそれが内務省解体の一連のあおりで,明治官僚の牙城である法制局を解体して,司法省と一
262 茨城大学教育学部紀要(教育科学)47号(1998)
緒になって法務庁をつくれということになって,五長官制度の大きな組織が(1948.2に)でき一
その中の法務意見長官と法制長官は,もちろん内閣の法律顧問的な役割をするところで(あるが),
組織としては,その長の法務総裁を国務大臣とし,これを内閣法に言う主務大臣として,総理府あ
るいは各省に並ぶ組織というかっこうにして,内閣直属の補助部局・…にはしなかった。」「そこ
で(経済安定本部はあったが),内閣直属の機構は,(1948年に)法制局が法務庁になり(法務庁
は翌年法務府),その後1952年8月に再びもとの法制局にもどるまでのしばらくの間はほとんどな
かった。」兼子 一は法務総裁が「閣員ではあるが各省大臣とは別格な地位」で「内閣の法律顧問と
して,政府部内の憲法や法律の解釈を統一するという権限を持たせて」法務庁は「各省のような,
それ自体が一つのまとまった役所ではなくして,むしろ法務総裁が事務を行うところだという見方
で設置された。今までの各省大臣とは建前としては違っていた」と言っている。「(林)初めは最
高法務総裁といっていたのが国会で最高が削られて法務総裁になった。総理大臣の次という格だっ
た。」 (r内閣法制局史』によると「法務庁設置法の政府提案はr法務庁』をr最高法務庁』と,
r法務総裁』をr最高法務総裁』としていたが,他にr高等とか簡易とか下級の法務庁がないのに,
突然最高法務庁というのが出てきてはおかしい』 (1947.12.8.参議院下条康麿決算委員長)というこ
とで,いずれも原案にあったr最高』の文字が削られた。また,政府原案には,調査意見第一局の
事務として国際法制の調査までは予定していなかったが,r国内及び国外の法制のほかに,国際連
合のごとき国際関係の法制の調査も必要である』 (同年12.2.衆議院中村俊夫司法委員長報告)とい
うことで,国際法制の調査がその事務として付け加えられた。(p.135)」)「(兼子)次官を置か
ずに,法務総裁補佐官という形で法制,調査意見,検務,訴訟,民事行政の五長官を並べた。」
「(林)国家行政組織法が1949年に施行になったときに,行政組織は府と省に分けるということ
で,総理府と並べて法務府となり,・…格は各省並みだが各省とは少し組織をちがえて次官の代わ
りに長官を置き…・それまでの法制長官と法務調査意見長官とした・…この法制意見の仕事は総理
大臣にくっついている・…そこに中間に法務総裁という主任の大臣を置いておく…・。」「(兼子)
だから法務総裁は法律顧問…・行政部内のロイヤーは全部法務総裁の指揮下に入るべきだというよ
うな考え方があった・…。したがってむしろ各省の法律顧問にもなり,法律顧問を法務総裁が派遣
して各省に出向させておく。これによって政府部内の法律意見を統一するという考え方から,行政
部内のロイヤーを一本化するという考え方が最初だった。」「(我妻栄)法制意見局に対して,各
省から法律問題についての意見を聞いてきたときにそれらに対して与えたアドバイスを編集して本
になってい(る)…・ああいう仕事は法制局で・…。」「(林)やはり法制局がやって(いる)。
はじめは非常に親切であったかもしれ(ない)。それははじめ地方団体からの質問が非常に多かっ
たのですが,初めのうちは地方団体にも直接親切に答えていた。ところが内務省が解体したあと,
初め総理大臣官房自治課(が地方自治に関しては担当一引用者)だったのが自治庁になり自治省に
なって・…これは昔の内務省と違う(が),地方自治の元締め的な考えを持っており,こことの意
見調整という問題があるので,地方団体からの質問は自治省を経由して…・そうすると自治省が一
・・
蝠舶ェは回答してしまい…・件数が非常に減った。」「(田中二郎)法務庁ができ,その後法務
府…・に対する期待は,憲法を守るための政府の御意見番になること,時には政府の政策に反対す
る結果になってもある程度政府から独立の立場で,憲法上あるいは法律上はこうあるべきだという
ことをはっきりさせ,その意味で政府によって違憲違法な措置がとられないようにチェックする
佐藤:国立国会図書館法・議院法制局法・内閣法制局設置法一「立法」の論理(4) 263
役割を果たすことにあった・…。法務府というものを作り,法務調査意見長官というものを置いた
一つのねらいはそういうところにあた・…。少なくとも理念としては・…(ママ)。ところが,そ
の後,法務調査意見長官が廃止され,その事務が法制長官に統一され,その後,さらに,内閣の補
助部局としての法制局になり,(そしてまたその後現在のような一引用者)内閣法制局に変わって
きた経過を見(ると),いくらか独立した立場で,憲法に関する意見を述べるという立場から,内
閣の補助機関の立場に立って,意見を述べるというふうに,考え方そのものが変わってきたのでは
ないか。実際上にはあまり変わっていないかもしれ(ないが)・…立場上,政府に対して痛い文句
を正面切っていうというよりは,事前に意見を調整しているから…・内閣法制局長官などは,政府
のしたこと,しようとすることをいかに法律的に理由づけるかということに苦心(する)ようにな
ってきた…・。当初のねらいは,法制的な見地から憲法の番人という意味で法務調査意見長官とい
うものを置こうということだった・…。」「(我妻)そもそもこういう政治組織(内閣のこと一引
用者)の中にそういう御意見番のようなものがあり得るかという問題にはなってくる。内閣直属と
いうものなら,比較的納まりがいいが,そこから離して御意見番というようなものが特別に一つの
制度としてあるとなると,(内閣とのかかわりの一引用者)程度といっても相当違ったものになる。
そういうものがうまくおさまるかどうかは問題だ。」「(林)内閣の一部ということから,ちょっ
と矛盾してくる可能性もあり得ないわけではない。」「(兼子)最初われわれがやっているとき,
政府がこういうことをやりたいというときは,それをなるべくやらせるというテクニックを考えて
やるという態度を採った・…まったく第三者的な意味での裁判所と同じような立場で意見を出すと
いうことでは必ずしもなかった・…。すなわち,政府に法律的なあやまりをおかさせないという意
味で,これは問題になるからこうしなさいということをアドバイスするという方針ではあった。」
なかなか興味深い発言である。日本側では内閣法がいかなるコンテキストにおいて考えられてい
たか,そしてそれが,国会法,だから議院法制局法とは直接かつ十分な関連を有していなかったら
しいこともはっきりしている。どうやら,そもそもの初めから法制局は今度は「新しい内閣」に属
するものとして実質的な変更なしで行けるのではないか,というような意識があったようである。
が,そうは事が運ばなかったのである。けれども,1951年ごろから,事態は再び複雑な展開をたど
るのである。
r内閣法制局史』・r内閣法制局百年史』は,この間の日本側の対応の経緯を記している。
内閣法第3条は行政事務の分担管理については「別に法律の定めるところにより」行うと定めた。
そこで,行政官庁法(1947年4月18日法律第69号)が制定され(この法律は,1947年5月3日施
行の後1年を限りその効力を有するものとされた〈同法附則第2項〉が,その後,更に1年延長され
ることになった。というのは,それは元来国家行政組織法が成立するまでの暫定法であり,1948年
7月10日公布された国家行政組織法は,案の段階では施行を翌年年4月1日としていたが,国会で修
正案が出されてそれが可決されたため,6月1日施行となる。そこでその時点まで延長されたのであ
る。これは意味深長である。),これにより,内閣法12条の規定に対応する法制局の組織が定めら
れ, 「内閣官房及び法制局は,政令の定めるところにより,内閣総理大臣の管理する事務を掌るこ
とができる」 (第9条)とされ,内閣官房長官と法制局長官の設置についても同法により規定された
(第10条第1項)。また,「法制局に置くべき職員の種類及び所掌事務については,法律または政
令に別段の規定あるものを除くの外,従来の例による」(同条第3項)事とされた。そして,内盟宜
264 茨城大学教育学部紀要(教育科学)47号(1998)
一及び法制局職口 設置制(1947 A他2口)により,従・の法り.{Uは廃止され,法制局は
「この政令施行の際現に法制局の掌る事務を掌る」 (第7条)ものとして,法制局次長一・人及び内閣
事務官三十三人(専任)が置かれるとともに(第2条),長官の定めるところにより「部」を置くこ
とができるとされた(第6条第1項)。行政官庁法第9条の提案理由は(1947年3月19日衆議院行
政官庁法委員会)斉藤隆夫国務大臣が述べた。「内閣官房及び法制局に内閣総理大臣の所掌事務の
一部を掌らしめ得る途を開く規定であります。すなわち内閣官房及び法制局は, の戸 音
・でありますが,内閣総理大臣を補佐せしめることを便宜とする場合があるためであります。
(p.100)」 r内閣制度百年史(上巻)』は「〈行政調査部臨時設置制〉により設置された行政調査
部における行政組織に関する恒久的法律の立案は憲法の施行日までには間に合わなかったので,行
政官庁の組織権限等に関する基本事項について, 〈日本国憲法〉の原則に反しない範囲内で,従
’の例を水 し, Aの ☆を法’による定めとする 定法たる〈だ 官 法〉が制定され
(p.704)」たと,このように正直に書いている。この方針が国家行政組織法では更に徹底されて,
行政機関は府,省,そしてその外局である委員会,院庁の5種となり,それらの機関の設置,廃
止,所掌事務の範囲及び権限については〈別の法生蟹〉(原案では政金ヱ定逃となってい
た!)ことになった。その上,〈行政機関の内部部局として官房,局,部,課,係を置くことを例と
し,その設置及び所掌事務の範囲は政令で定める〉 <特に必要がある場合は審議会,協議会,試験
所等の施設その他の機関を置くことができる〉ことになった。政令以下の法令で内部部局の所掌事
務を規定することが,当然のこととなっているのである。明らかに日本側は行政組織に関してはア
ンダーラインの箇所にも見られるように,改革を志向してはいなかったのではないか。
ただ,法務庁設置法が公布されて,それに基づいて法務総裁が誕生したのであり,内閣法に基づ
く法制局が誕生したのではないことを強調しておこう。この状態が法制局設置法公布(1952.7.31.)
まで続くのである。上に引用した林の指摘はこのことを指している。立法権との関係で言えば,立
法のための「法制機構」(正確には「立法機関」と言うべきであろう)は存在しているのである。
内閣が,かつてのような法制局,それは「権限」でもあるが,を有していないということなのであ
る。立法府(議会)に対してのかつてのような権限を行政権が有していない状況が続いているので
あり,立法権との関係で見れば問題であるというのである。
行政権に係る基本的な法律である内閣法およびその附属法,とりわけ法制局に関する1947.5.3の政
令(上掲)については,総司令部が細かい指示をしたのかどうか,はっきりしないのであるが,当
時すでに条文的には憲法と内閣法及び政令の間の矛盾がはっきりしている。特に議員立法(発議),
それゆえ国会法・議院法制局法と内閣の議案提案,それゆえ内閣法・(内閣)法制局設置法との関
係はそうである。繰り返せば,憲法と法務庁法との間の矛盾はないのである。この点は極めて重要
な問題を含んでいるはずである。入江は,憲法条文の審議においては,「アメリカ側が交付案第64
条の場合に,政府が法律案を国会に提出し得るものであることをはっきり意識していたかどうか。
当時もしこの点を抜き出して打合わせると,或いは,アメリカ側は政府には法律案を提案する権限
がない,法律案は国会がみずから発案すべきものであるというようなアメリカの扱いを日本にも強
要したのではないかとも考えられます。」「その後憲法改正案も出来上がった後に内閣法を立案し
たときには,内閣法の中にr内閣提出ノ法律案予算案ソノ他ノ議案』という言葉を特に書いて司令
部に示し,そのときは司令部はこの点に特に反対もなく,了承しました。」2りと述べている。憲法
佐藤:国立国会図書館法・議院法制局法・内閣法制局設置法一「立法」の論理(4) 265
の草案作成ということが一方にありながら,他方では「行政権の連続性」が意識されていたという
他はないのである。なぜ,総司令部が〈政令行政〉に関して神経質・敏感であったか。立法手続き
に関しての指示等には繰り返して政令(勅令)への言及があるが,それはここに原因があったので
あろう。政令(勅令)による行政は国会を通らないのである。従って,この当時としてはGHQが,
政令の立案及び公布手続きに関しても,管理せざるを得なかったのである。皇室典範の扱い方の問
題もあったのである。なお,司法改革に関してはオプラーを参照されたい。22)
3)法務府設置法への改正
法務庁設置法はもともと上述のように「最高法務庁設置法(案)」として提案されたのである。
提案理由を鈴木義男国務大臣(法務総裁)が1947.11.23.の衆議院司法委員会で述べている。「・…
新憲法においては・…立法司法行政三権の分立を大原則として樹立いたしたのであります。・一・か
くて司法省の任務,その在り方がいかにあるべきかということが再検討されなければならぬことに
なりましたのは当然のことと存ずるのであります。ことにこのことは,去る九月十六日附マッカー
サー元帥から内閣総理大臣にあてられましたる書簡のうちに強く示唆されたのであります。・…こ
の機会に,新憲法下における行政権行使の適法性を確保するために,行政部全体における法律事務
を総合的に統轄して行くべき職責と任務とを有する新機関を設置することを構想したのであります。
・…
ュ府が新憲法及び法律の解釈適用を統一して,自主的に法に則つた政治を確保することがが絶
対に必要でありまして,このためには,政府に一元的な法務に関する統轄機関を設け,法律問題に
関する政府の最高顧問として,行政部門に対して法律上の意見の陳述または勧告をさせることが適
当と存ずるのであります。これがすなわちこの法案に所謂最高法務総裁でありまして、この最高法
務総裁の管理する事務は,最高法務庁でこれを掌るのであります。
こういう官庁は各省とは異なりまして,行政部全体にまたがる任務を遂行するのでありますから,
ひとつの省として考えられるべきではなく,独立総合的官庁として内閣に設置せられるべきものと
存ずるのでありまして,これを省と呼ばずして庁と名付けましたのも,そのためであります。
この制度を立案いたすにつきましては,英米におけるアトーニー・ゼネラルの制度が参酌せられ
たのでありまして,ことに米国のアトーニー・ゼネラルの制度が参考になったのであります。役所
を作るというよりは,行政部全体に対する最高法律顧問たる最高法務総裁というものを設ける,そ
してその最高法務総裁が仕事をしていく必要上,諸々の補助官府をもつという建前でありまして,
制度よりは人に重きを置くのでありますから,法案の建前は,先ず最高法務総裁をおく,これが最
高の権威と権限をもつという意味で,とくに最高法務総裁と名付けたのであります。そしてこの総
裁のもとに,・…五長官を設けたのでありまして,この五長官は,米国のソリサイター・ゼネラル・
アツシスタント・ツー・ザ・アトーニー・ゼネラル等に当たり,それぞれ主管事務について,最高
法務総裁を助けるのであります。・ (ママ)」(r内閣法制局史』pp.138∼9.)
法務庁設置法の成立の後「法務庁設置に伴う法令の整理に関する法律」(1947,法律195号)が
制定されて,「法制局は,これを廃止する(第2条第1項)」とされ,「関係各法令について所要の
変更を加える措置が講じられた。」「法務庁になってからの法制部内の第一回全体会議が開かれた
が,佐藤達夫法制長官は,法制局の新しい機能として,憲法の施行を確保すること及び法制を民主
化することの二点を挙げ,また,仕事の取扱いに関しては,法律顧問的な立場において必要があれ
266 茨城大学教育学部紀要(教育科学)47号(1998)
ば当方で立案を引き受ける」方針を示した。 (r内閣法制局史』pp.135∼6)
このように,日本側が行政権をどのように見ていたかということと,新憲法の実践の方向との間
にはズレがあるのである。そして,1948.7.10.に国家行政組織法が制定され(r議会制度七十年史
国会史 上巻』pp.145∼7,参照)行政組織・機構の再編成・簡素化が目指された。そして翌年4月
施行の予定が延びて同年6月に施行されることとなった。これに伴い,早くも1949.4.19.に「各省設
置法案」が提出される。 「法務庁設置法等の一部を改正する法律」もその一つである。衆議院内閣
委員会での提案理由はこうである。「行政機構簡素化の方針に従いまして,現在の五長官十六局制
を,三長官十一局に縮小し,かつ国家行政組織法の施行に伴いまして,法務庁の名称を法務府と改
めました。…・法務庁が設置されてから今日までの一年有余の経験にかんがみまして,法制意見長
官の指揮監督のもとに,・…四局を置き,大体現在の法制長官と法務意見長官所属の各局を統合い
たしました。」この法制局と法制意見局との統合に関しては5.14.の衆議院内閣委員会で「はなはだ
適当でないのではないか」との意見が出て殖田国務大臣は答弁している。「一緒にしたのは,何も
意見長官をやめて,法制長官一本に残したわけではありません。両方の長官を同等の意味において,
これをミックスしてひとつの長官にまとめよう,仕事は両方の仕事を十分いやっていこう,こうい
う考えであります。・…大体において各省の機構を三割減らそう,・…こういうことが根本方針で
きまりました。それにのっとりまして…・法制長官,意見長官をまとめるというひとつの考えが出
て参ったのであります。・…現在の状態におきましては,立法はまだまだ政府の手において立案さ
れることが多いのであります。将来はこれは国会で立法されることがますます多くなる。従って・・
・・
アれを議会に譲る。そのかわりに現在の意見長官のやっておりますファンクションがだんだんふ
えて参ります。こう考えておりますので,おそらく将来はこの長官は現在の意見長官の一つの発達
をしたもの,かわったものになるのではないかと考えております。…・これはわずか一年の運用の
成績でありますから,まだ確定的な批判を下すのは早いかと思うのでありますが,どうも意見長官
の仕事でありましても,現在日々起きておる仕事と接触して,例えば新しい法律ができる,・…こ
れはちゃんとつかみまして,これと,それから根本的な大きな憲法の問題あるいは外国の法制と
いうものを総括いたしまして,意見をたてる方が,意見も生きて参ります。またそれから,日々の
立法事業も,もっとレベルの高いものになる。…・今までの経験によりますると,それから行政機
構整備という観点からいたしまして,やはりこの際は,この二つの長官を一本にして,そうしてそ
の機能を少しも減損することなく、かえってより高いエフィセンシイを上げさせることができるの
ではないか(・…部分はすべてママ)。」(r内閣法制局史』pp.141∼2)同様の質疑は5.11.衆議
院内閣委員会,5.21.の参議院内閣委員会でもなされたという。
だが,1949.5.31.上記の「法務庁設置法等の一部を改正する法律」が公布され,「法務府設置法」
と改称される。この法務府設置法についてr内閣法制局史』は,こう述べる。「新憲法によってす
べての法律,政令及び行政処分が裁判所による審査に服することとなった結果,政府による法令の
立案,解釈及びその適用が憲法その他の法令に違反し,後日裁判所によって違憲の判断を受け,国
政上混乱を引き起こすことのないように,政府の最高法律顧問として行政各部に法律上の意見を陳
述又は勧告するものである。言い換えれば,これらの法律上の意見の陳述又は勧告は,いわゆる行
政解釈として最高の権威を持つものであって,あたかも,司法裁判所の法律解釈が終局的には最高
裁判所によって統一されるものと軌を一にするものである。この意見の陳述又は勧告は,純粋に法
、
佐藤:国立国会図書館法・議院法制局法・内閣法制局設置法一「立法」の論理(4) 267
律問題に限って行われるのであって,事実の認定や政策に関する問題を取り扱うものでないことは
いうまでもない(pp.142∼3)。」
この文章は大いに問題を含む。とりわけ,前段と後段とではほとんど論理の〈すり替え〉である
というべきものである。前段では,行政府が,憲法72条に言う「議案を国会に提出」する場合,ま
た73条に言う「法律を誠実に執行」する場合の原則を言うのである。ところが,それを「言い換
え」て「行政解釈として最高の権威を持つ」とするのは,いかにもおかしな記述である。しかも,
この記述が,四 法務庁(府)時代,1法務庁(府)時代の組織に続く2意見の陳述及び勧
告,の節で述べられているのである。そればかりではない。「最高権威」を裏づけようとして,法
務庁(府)の行う,意見照会への回答業務について触れるのである。その業務は, 「政府機関に対
すると同様,地方公共団体等に対しても」なされてきたが,地方公共団体からの照会が「1951年9
月15日までには(つまり,法務庁あるいは法務府の発足当時の話ではないのである!),ついに(政
府機関からのそれとの)割合が,一対二と逆転するに至った。このような事情では,政府機関に意
見を述べるという法制意見部門の本来の職責を遂行するのに支障があること,他方,地方公共団体
等からの照会に対して意見を述べることは,しばしば当該法令を所掌する他の政府機関の見解を覆
すことになる場合もあり,外部から見ていかにも政府部内が不統一であるかのように見える場合が
あることから,昭和二十六年八月二二日以降は地方公共団体からの照会はひとまず主管省庁にこれ
を回付し,当該主管省庁からあらためて照会があった場合においてのみ回答することに改められた
(p.143)。」更にこれらの取扱の変更は,「法務府の範とされた米国司法省におけるアトーニー・
ゼネラル(Attomey General)の意見事務が,政府機関に対してのみ述べられ,政府機関以外のいか
なるものに対しても意見を発表することがないという事情も考慮された。(p.143)」と追加してい
る。これらの間に何の関係があるというのか。むしろ,地方自治を如何に政府,いや後のく内閣法
制局〉の担当者が扱って来たか,その実態を示すものであろう。語るに落ちるというのであろう。
また,アメリカの例は比較すべき対象であるかどうかが問題である。こういう問題があるから,後
の「内閣法制局」の設置が当然なのだと言いたいのであろうか。
註
1) なお,末広・他「新憲法と国政の運用」『改造』1947.6., 『読本 憲法の百年(3)』作品社,1989,
所収をも参照のこと。
2)」.ウィリアムズ(市雄貴・星健一訳) 『マッカーサーの政治改革』朝日新聞社,1989、
3)読売新聞調査研究本部編r証言・議会政治の歩み 日本の国会』読売新聞社,1985.
4)鮫島眞男『立法生活三十二年一私の立法技術案内一』信山社,1996,p48.
5)入江俊郎「戦後一,二年の法制局」rジュリスト』Nα361(1967.1.L)
6) ここで検討されて,国会に提出されて成立した内閣法に関する分析には,田中二郎「内閣法について一
新憲法の下における内閣制度一」r法律時報』1947.3.,がある。
7) 中野重治「参議院議員の三年間」 r中野重治全集・第14巻』筑摩書房,1997,p.342.
8) 「占領期の行政機構改革をめぐって」rファイアンス』9巻(1963)3号,通巻91号.
268 茨城大学教育学部紀要(教育科学)47号(1998)
9)鮫島眞男r立法生活三十二年』前掲,p37.
10)ウィリアムズ『マッカーサーの政治改革』前掲。
11) 「戦後地方行財政資料・別巻2・占領軍地方行政資料』勤草書房,1988.,p445.
12)谷 伍平「洗脳の季節」 r証言 内閣法制局の回想 近代法制の軌跡』ぎょうせい,1985,,p.131.
13) ‘‘Polilical ReorientaIion in Japan”, P.136.
14) 「臨時法制調査会官制」 (勅令第348号・官報1946年7月3日)
第1条 臨時法制調査会は,内閣総理大臣の監督に属し,その諮問に応じて,憲法改正に伴う諸般の法
制の整備に関する重要事項を調査審議する。
第2条 調査会は,会長一人,副会長一人及び委員若干人で,これを組織する。
第3条 会長は,内閣総理大臣を以って,これに充てる。
委員は,内閣総理大臣の奏請により,内閣でこれを命ずる。
第4条 会長は会務を総理する。
副会長は,会長を補佐し,又,会長に事故があるときは,その職務を代理する。
第5条 内閣総理大臣は,必要に応じ,調査会に部会を置き,その所掌事項を分掌させることができ
る。
部会に部会長を置き,内閣総理大臣の指名により,副会長または委員を以って,これに充てる。
部会所属の委員は,会長が,これを指名する。
第6条 調査会は,その定めるところにより,部会の議決を以って調査会の議決とすることができる。
第7条 調査会に幹事長及び幹事を置く。
幹事長は,法制局長官を以って,これに充てる。
幹事は,内閣総理大臣の奏請により,内閣でこれを命ずる。
幹事長及び幹事は,上司の命を受け,庶務を整理し,会議事項について,調査及び立案を掌る。
第8条 調査会に主事を置き,内閣でこれを命ずる。
主事は,上司の指揮を承け,庶務を掌る。
附 則
この勅令は,公布の日から,これを施行する。
(出典はrGHQ日本占領史(14)法制・司法の改革』日本図書センター,1996.)
15)入江俊郎「戦後一,二年の法制局」前掲。臨時法制調査会設置に関しては,入江r憲法成立の経緯と憲
法上の諸問題』第一法規,1976.,鮫島眞男『立法生活三十二年』前掲,をも参照のこと。
16)入江俊郎r戦後一,二年の法制局」前掲。なお,入江『天と地の間』私家版,1977,も参照のこと。国
立国会図書館蔵。
17)鮫島眞男r立法生活三十二年』前掲,p.46.
18)入江俊郎「戦後一,二年の法制局」前掲。なお,「あれから二十年」rジュリスト』No.361.前掲,ま
た「ジュリスト」Nα100,p.17,も参照のこと。
19)r議会制度七十年史一帝国議会史(下)』は,こう書いている。「内閣に法制局のほか,予算局あるい
は人事局を置く意思はないかとただしたのに対し,法制局はこまかい仕事を持っているので,閣議の直接
の議論に不向きである・…。」p,112(L
20) 「あれから二十年」rジュリスト』No.361.前掲。
佐藤i:国立国会図書館法・議院法制局法・内閣法制局設置法一「立法」の論理(4) 269
21)入江r憲法成立の経緯と憲法上の諸問題』前掲,p237.またp248も参照のこと。
22)A,オプラー(内藤・納谷・高地訳) 『日本占領と司法改革』日本評論社,1990.
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