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オランダのイエナ ・ プランに関する考察

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オランダのイエナ ・ プランに関する考察
2009年度学位論文
オランダのイエナ・プランに関する考察
一受容過程における変容に注目して一
兵庫教育大学大学院 学校教育研究科
学校教育学専攻 教育コミュニケーションコース
M08002C 池ヶ谷 隼世
目次
序 章 問題意識と研究の目的・・・・・・・・・・・・・・・・・・…
1
第1章 オランダの学校教育
第1節 3つの自由思想とその背景・・・・・・・・・・・・・・・…
9
第2節 競争の排除と個別教育・・・・・・・・・・・・・・・・…
16
第3節 学校の自律性と保護者、生徒の権利H・・・・・・・・…
第各節 学校の質の維持と格差・・・・…
24
。・・・・・・・・…
32
第2章 ドイツにおけるイエナ・プラン
第1節 イエナ・プランとP.ぺ一夕ーゼン・・・・・・・・・・・…
38
第2節 イエナ・プランの理念と外的組織・・・・・・・・・・・…
47
第3節 基幹集団と子どもの学習・・・・・・・・・・・・・・・…
53
第4節 保護者の位置付け・・・・・・・…
.・・・・・・・・…
61
第5節 小括・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…
64
第3車オランダにおけるイエナ・プランの受容と変容
第1節オランダにおけるイエナ・プラン・・・・・・・・・・・・… 65
第2節 無学年制(米)からの影響とそれによる変容・・・・・・…
76
第3節 幼児学校(英)からの影響とそれによる変容・・・・・・…
90
第4節 フレネ教育(仏)からの影響とそれによる変容・・・・・…
100
終章 オランダのイエナ・プランの独自性と今後の課題・・・・・・…
資料・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…
引用・参考資料一覧・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…
108
114
い・134
序章 問題意識と研究の目的
日本の学校教育における特徴の1つとして、目標・方法・評価・教材などの
<画一性>の高さが挙げられる。これは、日本の学校教育が、中央集権的なも
のであることを意味する。それは、日本において、<私立学校の学校総数に占
める割合>が初等教育では1%、中等教育では15%と少なく、公立学校が多くを
占めることからも読み取ることができる(註!)。
国家主導による、<画一性>の高い教育は、教育内容とそれを受ける機会を
平等に国民へ提供してきた。それらは競争原理と相侯って、エリート育成に大
きな役割を果たした。歴史的な経緯を見れば、近代日本が欧米列強の脅威にさ
らされるなかで、富国強兵のスローガンの下に産業を発展させ、国力を増大さ
せるためには必要かつ効率的なやり方であった。今日の日本の経済的な繁栄を
考慮すれば、これらのやり方が正しい選択であったとも言える。
しかし、日本の経済的な豊かさは、大人の労働形態を変化させ、子ども遠を
取り巻く状況をも大きく変化させた。物は溢れ、大学も<全入>と言われる時
代にな=った。こうした時代において子ども達が、自分の将来の見通しを持って、
身につけたい知識や技能を、自らの判断によって選択すること。つまり、子ど
も遠の多様な二一ズに応えることができる教育の仕組みが必要なのではないか。
<画一性>の高い学校教育が、そうした子ども遠の多様な二一ズに応えるこ
とは困難である。確かに、規範意識や基礎学力など、自立し社会で生きていく
ために講もが学ぶべきものはあるだろうが、目の前にいる子どもは、多様な考
え・価値観を持ち、学習の到達段階も各々で異なる。
不登校や学習意欲の低下といった、近年目本においてよく取り上げられる現
象は、そうした学校教育に対する疑問や不満が表面化してきたものと考えるこ
ともできよう。そうした不満や疑問は、PISA2003において白紙解答のものが多
いこと、またそのアンケートで、学校は時間の無駄であった、学校の勉強は将
来全く役立たない、という質問に対しYESと答えた子どもの割合がいずれも0ECD
平均を上回り、学校の勉強は将来全く役立たないという質問に関しては、平均
の4倍の数値を示していることなどから伺うことができる(註2)。
一方、学校教育において〈多様性>を積極的に認めている国の1つにオラン
1
ダが挙げられる。それには、人間は一人ひとり違うのだから、それぞれの二一
ズにあった教育が行われるべきであるという考えが根底にある。それにより、
同国では学校設立の自由、学校選択の自由、が認められており、<私立学校の
学校総数に占める割合>が初等教育では69%、中等教育では72%と高い数値を示
している。さらに、目標・方法・評価・教材に関しても各私立学校と公立学校
を置く各自治体に全てが任され、それらに関して私立・公立に関わらず、その
保護者や生徒に強い権限が認められている。また2001年度のWH0のアンケ』ト
調査において、子どもが学校での課題や学習によって最もストレスを感じない
国である、という報告がされながらも、PISA2003においては日本と同等の学力
水準を示し、読解力と数学的リテラシーでは日本を上回る結果となった(詩3)。
子どもの二一ズに応えるため、<多様性>を認めたオランダにあって、1960
年代以降イエナ・プランが多くの学校に浸透した。
20世紀初頭、国際的名声も高かったぺ一夕ーゼン(P.Peters㎝)により提唱
されたイエナ・プランは、第二次世界大戦の影響や戦後イエナ大学が共産主義
政権による統一的な教育体制を敷く東ドイツの領域となったことなどから、ド
イツではあまり大きく発展することはなかった(註4)。
他方、オランダでは、新教育連盟(NEF)のオランダ支部に当たる養育・教育
刷新新研究会(WVO)の書記をしていた、S.ブロイデシタール(S.Freudentha1)
の熱心な普及活動によって、イエナ・プランは1960年代以降の学校教育に浸透
していくことになる(誌5)。イエナ・プランがオランダに普及することができた
背景には、1917年の憲法23条改正によって教育の自由が確立しており、市民団
体でも独自の理念や方法に基づいて学校を作り、公立学校と同様に補助金を得
て教育活動を展開できる条件が整えられていたことが挙げられる。
こうしてドイツで提唱されたイエナ・プランは、オランダの学校教育にて展
開されていくわけだが、その受容過程において、イエナ・プランはいくらかの
変容を遂げることとなる。オランダのイエナ・プラン協会は、その変容に関し、
無学年制学校(米)・幼児学校(英)・フレネ教育(仏)の3者のイエナ・プラ
ンヘの影響を述べている(謡6)。同協会は、オランダのイエナ・プラン教育とし
て共有する基本的な理念・方法について明文化したものを、1966年には<8つ
のミニマム条件>として発表し、さらに1990年には<イェナ・プラン20の原
則>へと発展させている。
しかし、こうして示された条件・原則は、具体的な学校教育のあり方や内容、
方法などを規定するものではい。そこには、教育は教員・保護者・子どもとい
った現場にいる当事者が、それぞれの状況にあった教育実践を創りあげるべき
だという、オランダの教育理念や制度による影響が見られる。
これまで日本では、オランダのイエナ・プランについて、リヒテルズ直子ら
によって活動の様子などの紹介がなされている。例えば、リヒテルズはオラン
ダでイエナ・プランが発展した経緯や、オランダのイエナ・プラン学校の教員
や子どもとの交流を通して分析した現地の子どもの学習の様子など、オランダ
のイエナ・プランの全体像について紹介している。さらに久保は、それに加え、
オランダのイエナ・プランにおける教員研修の内容や子どもの成績評価の詳細
について触れている(言圭7)。しかし、ドイツでぺ一夕ーゼンが提唱したイエナ・
プランが、オランダに受容されていく過程について紹介したものは、リヒテル
ズ以外は見当たらない。そこで、イエナ・プランのオランダヘの受容過程につ
いて彼女が紹介したものを、以下にまとめる(註8)。
<オランダにおけるイエナ・プラン教育の母〉とも呼ばれるS.ブロイデシタ
ール(S.Freud⑧ntha1)は、1955年、新教育連盟(肥F)のドイツ支部の総会で、
ハインリッヒ・ボレ校長が運営するドイツのイエナ・プラン校の紹介スライド
を見る。その後、ブロイデシタールはボレ校長の運営する学校を訪れ、1956年
にはオランダのユトレヒトで行われた新教育連盟(NEF)の会議にボレ校長を招
く。この時、新教育連盟(NEF)のオランダ支部に当たる養育・教育刷新新研究
会(WVO)の中心的な立場にあり、<フレネ教育(仏)〉の影響を強く受けてい
た、G.ハルテミンクが出席していた。彼はまた、オランダのプロテスタント系
小学校協会の指導的立場にもあった。そしてハルテミンクは、ボレ校長の運営
するイエナ・プラン校を訪間し、感銘を受けオランダに帰ってくる。
1959年5月、ブロイデシタールとハルテミンクの2人は、20万円程度の自己
資金を用意し養育・教育刷新新研究会(WV0)のサブグループとして、ワークグル
ープ(イエナ・プランを勉強する場)を設置する(メンバーはこの2人と教貴
12名)。
3
1960∼61年の1年間、夫ハンスの仕事の関係でブロイデシタールは、アメリ
カに滞在する。この時彼女は、<無学年制>の主張をしていたJ.クラッドラッ
ド(John.I.Goodlad)、R.アンダーソン(Robet.H.Anderso逼)らと交流し、意見交
換や庸報の収集に努める。
その後の1964年オランダで開かれた養育・教育刷新新研究会(W0)の総会
での、上記のイエナ・プランのワークグループが中心となった講演を通して、
彼女は、オランダにおけるイエナ・プラン教育運動で中心的な役割を担うこと
となるクリス・ヤンセンと出会うことなる。彼は、カトリック系の学校を統括
している組織の職員であり、その後、1970年にオランダ文科省が発表した、<
新初等教育法>の草案準備委員会に参加する。これまでは、ドイツでわずかな
がらに実践されていたイエナ・プラン教育の関係者との交流に集中していたワ
ークグループの活動は、この総会をきっかけに、オランダの学校現場で実際に
使える教材や授業形式を開発するための研究に集中していく。また、研究だけ
ではなく、オランダで部分的にイエナ・プランの方法を取り入れた学校の教員
達が、それぞれの経験談や問題を持ち寄って話し合う機会を提供するようにな
る。そして、1966年にそのS.ブロイデシタールを中心としたワークグループは、
イエナ・プラン教育における<8つのミニマム条件>を発表する。これはイエ
ナ・プラン教育関係者の共有財産、アイデンティティの拠り所となる。
1969年、ワークグル』プは養育・教育刷新新研究会(WV0)から独立し、独自
にイエナ・プラン教育財団(SPJ)を設立する。その財団の議長はクリス・ヤン
セン、書記はブロイデシタール、会計はハルテミンクが務めた。この組織はオ
ランダにおいて独自の教育活動をしていたカトリック、プロテスタントという
宗派の枠を超えてイエナ・プラン教育の開発のために協働する一方で、各々の
既存の組織力を生かし、それぞれのやり方でイエナ・プラン校の普及に尽力し
ていくものとなった。またイエナ・プラン教育財団(SPJ)は、月刊誌の発行や
学校に配布するパンフレット作り、イエナ・プランに関係する書籍を集めた独
自の図書館を設置した。
そして、1985年にオランダのイエナ・プラン協会(Nedar1anse Jenap1an
Ver㎝igi㎎)が設立される。この協会の活動費は、協会への参加校の会費によ
り維持されていく。そして同協会は、1990年に<イエナ・プラン20の原則>を
4
発表する。
このように、リヒテルズ(2006)は、イエナ・プランがオランダに受容される
過程での主要人物名や彼らの行い、<8つのミニマム条件>や<イエナ・プラン
20の原則>、<イエナ・プラン教育における、良い教材の条件>などについて
も、その内容を紹介している。また、無学年制(米)・幼児学校(英)・フレネ
教育(仏)の3者に関しても、イエナ・プランがオランダヘの受容される過程
で、それらが関わったであろうと、読み取れる文章を記述している。しかし、
それら3者がどういった内容のもので、オランダのイエナ・プランにどのよう
な影響を与え、なぜ取り入れられたのかに関しては述べられていない。従って
本研究では、イエナ・プランのオランダ学校教育への受容過程における、3者の
影響による変容に焦点を当て、オランダのイエナ・プランの独自性を明らかに
することを目的とする。
オランダのイエナ・プランが上記に示した3者から、どのような影響を受け、
それらをなぜ取り入れる必要があったのか、といった問題について考察するこ
とは、オランダの教育やそこでのイエナ・プランをより深く理解する上で意義
のあることと思われる。
本論ではまず、第1章でオランダの学校教育の概要について紹介し、第2章
ではドイツでぺ一夕ーゼンが提唱したイエナ・プランについて述べていく。次
に第3章では、そのイエナ・プランがオランダの学校教育に受容される過程に
おいて、無学年制(米)・幼児教育(英)・フレネ教育(仏)の3者がどのような
影響を与えたのかについて考察する。最後に終章にて、第3章での考察結果を
もとに、ドイツで提唱された時のものとは違う、オランダのイエナ・プランの
独自性を明らかにする。
本論にて使用する主な資料は、第1章のオランダの学校教育の概要ではリヒ
テルズ直子(2004)を、第2章のドイツで提唱されたイエナ・プランに関して
はぺ』ターゼン(1984)を用いる。第3章のアメリカの無学年制・イギリスの
幼児教育・フランスのフレネ教育の3者に関しては、それぞれ、クラッドラッ
ド・アンダーソン(柴沼晋・柴沼晶子:訳) (1986)・田口仁久(1992)・フレ
ネ(石川慶子、若狭蔵之助:訳)(1979)を用いる。またオランダのイエナ・
5
プランに関しては、リヒテルズ直子(2006)とオランダのイエナ・プラン協会
HP(英文)を主な資料とする(註9)。これらのなかで、特にオランダのイエナ・
プラン協会HP(英文)は、先行研究においても翻訳、分析がされていない。よ
って、筆者が翻訳したものを巻末に資料として添付した。
6
註
(1)近年では、こうした日本の学校教育の<画}性>を打破しようとする動
きも見られる二例えば、1987年に臨時教育審議会が発表した第4次答申
には、周知の通り、日本の学校教育の画∵性、硬直性、閉鎖性を打破し、
個性重視の原則を確立することが示されている。また、日本の学校現場
では、中高学習指導要領の総則(第4:指導計画の作成に当たって配慮す
べき事項の第7項)に基づき、習熟度別学級を編成するなど、従来の学
級の枠を超えた取り組みも見られるようになった。しかし、日本の学校
教育における<画一性>は様々な側面で残っている。
(2)鬼沢真之、佐藤隆 『学力を変える総合学習』
明石書店 2006年 P.6
(3)リとテルス直子(共著) 『うちの子の幸せ論一個性と可能性の見つけ
方、伸ばし方一』 ほんの木 2007年 P.165
(4)リとテルス直子 『オランダの個別教育はなぜ成功したのか一イエナプ
ラン教育に学ぶ一』 平凡杜 2006年 P.148∼150
(5)同上P.163
(6) http://戦ww,jen8plan.n亙/
Nederlandse
Jenaplan
Verenigin9
(イエナ・プラン教育協会HP,2009年10月現在)
(7)久保礼子 『オランダにおけるイエナ・プラン教育の展開一自立と協動
を育む教育一』 福岡教育大学修士論文 2008年 P,23∼27
(8)リヒテルズ直子 『オランダの個別教育はなぜ成功したのか一イエナプ
ラン教育に学ぶ一』
平凡杜 2006年 P.160∼182
(9)・リヒテルズ直子 『オランダの教育一多様性が一人ひとりの子供を育て
る一』 平凡杜 2004年
・P.ぺ一夕ーゼン 『学校と授業の変革一小イエナ・プランー』
明治図書1984年
・クラッドラッド・アンダーソン(柴沼晋・柴沼晶子:訳)
『学校革命一無学年制による改造一』 明治図書 1986年
7
・田口仁久 『イギリス幼児教育の史的展開』 酒井書店 1992年
・フレネ(石川慶子、若狭蔵之助:訳)rフランスの現代学校』
明治図書1979年
・リヒテルズ直子 『オランダの個別教育はなぜ成功したのか一イエナ
プラン教育に学ぶ一』 平凡杜 2006年
・http://www,je撮aplan.n1/
Neder1andse
Jenaplan
Vereniging
(オランダのイエナ・プラン協会冊、2009年10
月現在)
8
第1章 オランダの学校教育
第1節 3つの自由思想とその背景
1 3つの自由思想
オランダの学校教育の特徴として、3つの自由思想が挙げられる。それは<学
校設立の自由>、<教育理念の自由>、<教育方法の自由〉、である。このこ
とは、オランダの社会における様々な集団が、それぞれ固有の宗教的、イデオ
ロギー的または教育的信念に基づいて、学校を設置できる権利を有している、
ということを意味するものであり、教育に対する国民の積極的かつ能動的な自
由を意味する。これらは、オランダの1917年改正後の憲法23条によって保障
され、現在もオランダの学校教育の柱になっている。
まず1っ目に、<学校設立の自由〉についてである。これは、どのような宗
教倫理、教育理念に基づくものであれ、講でも私立学校を設立することができ
る、ということである。さらに、一定の条件さえ満たせば、設立者は公立学校
と同様に補助金を受けることができ、学校の校舎や施設の提供は各地方自治体
に責任がある。その条件は、以下の通りである(註1)。
一、当該地方公共団体の住民数に応じての最低生徒数を上回っていること。正
確には、住民数2万5千人以下の場合は120人・5万人∼10万人の場合は
160人、10万人以上の場合は200人というものである。生徒数は毎年10月
1日に国に報告し、登録児童数に合わせて補助金が確定する。
二、教育計画・授業時間表を教育監督庁に提出すること。(教育監督庁について
は第1章の第4節にて説明)
三、教育目的を達するにふさわしい施設・設備を具備していること。
四、ティームティーチング・スタッフは教職適格性を有すること。
こうしたことを反映し、オランダに存在する初等学校のうち、公立学校が3
割前後で、残り7割前後の子どもたちが、教育について何らかの主義・立場を
9
明らかにした私立学校に通っている。この様にオランダでは、私立学校が多数
存在する。そのため、オランダの年間の国家予算のうち教育に対する予算はほ
ぼ2割を占め、その教育予算のうち65%が私立学校に支出されている(詩2)。ま
た、0ECD(経済協力開発機構)が2009年に公表した「図表で見る教育08年版」
によれば、オランダ(2005年)の教育予算(註3)の対国内総生産(GDP)比は
4.6%になる(註4)。一方で、この統計によれば日本の教育予算(2005年)は、
対国内総生産(GDP)比は3.4%(前年比0.1ポイント減)と、OECD加盟国中最
低であった(誌5)。このことから、日本と比較してオランダが、国全体で教育
の為に力を入れていることが分かる。こうした違いは、序章に示したように、
<私立学校の学校総数に占める割合>において、日本に比ベオランダでは多く
の私立学校が存在することにも表れている。
学校の設置権が、国・地方公共団体、法人や教会等の団体に限らず、親や市
民にも認められ、一定の条件さえ満たせば国から補助金が得られるというシス
テムは、憲法23条の教育の自由を保証する大変重要なものである。
2つ目に、<教育理念の自由〉についてである。上記の通り、オランダの初等
学校のうち7割を占める私立学校は、どのような宗教倫理・教育理念に基づく
ものであっても良い。
結果としてオランダには、様々な宗教による学校や日本ではあまり見られな
いような、特別な理念を掲げた私立学校が多数存在する。宗教的理念に基づい
て設立される私立学校は、オランダ国民の多くがキリスト教徒であることから、
カトリックとプロテスタントのキリスト教学校が大多数だが、イスラム教学校
とヒンズー教学校がわずかながら存在する。そして、特別な理念を掲げた私立
学校としては、本論文で扱うイエナ・プラン学校をはじめ、モンテッソーリ、
ドルトン・プラン、シュタイナー、フレネ学校などがある。このような学校は、
総じてオールタナティブ・スクールと呼ばれる。こうした学校は日本的概念で
は私立学校ではあるが、一定の条件さえ満たしていれば公費で運営され、授業
料なども徴収しない点では、公立学校に近いといえる。(註6)
これに対し、無宗教の学校が公立学校であるが、特別な理念を掲げたものは
存在する。それらの多くは、オールタナティブ・スクールの影響を受け、例と
しては、モンテッソーリやアンネ・フランク学校などである。
10
最後、3つ目に<教育方法の自由>についてである。オランダには文部科学省
が定める大まかな基準(目標・科目・時数)はあるものの、それを達成するた
めの方法は、公立・私立を問わず各学校に自由が認められている。
その大まかな基準とは、1993年に施行された中核目標(初等教育)と基礎形
成の中核目(中等前期)により、全国一律のおおまかな達成目標と教科の内容
が規定されたことである。これらを考慮し、学校ごと自由に教育課程を編成す
るのだが、目標達成のための方法や教科の授業方法は自由である。また、目標
は初等教育であれば、4歳∼12歳までの8年間の全学年を通じての1つの目標
であり、目標達成のために定められた、教科に割かれる時間は全体の7割であ
る。このことは、学年にこだわらない教育内容が可能になったことを意味し、
定められた教科に割く時間以外の残りの3割は、学校ごとに自由に実施してよ
いということである。
こうした基準を設けた背景には、多様な学校が存在するオランダにあって、
時代の流れにより転校する生徒が増加し、その際の生徒と教師の負担が大きい
ことや、子どもの中等学校への接続が困難である、ということが挙げられる。
しかし、目標の設定は教員を怠慢にさせるという多くの反対意見があり、その
後1998年、2003年と目標項目は減少した。
猿E日(2005)によれば、1998年のオランダの初等教育のための中核目標は、
科目横断的中核目標と科目特殊的中核目標に分けられている。さらにその中で、
前者は作業態度・計画に沿う活動・相互に異なる学習戦略の利用・自己像・社
会的態度・新しいメディアの6項目に分けられ、各項目を合わせてもA4判用紙
1枚に収まる程度で項目ごとの説明が書かれている。後者は、オランダ語・フ
リース語・英語・算数/数学・人間と世界に関する指導科目(地理・歴史・社
会・技術・環境・健康的、自助的態度・自然科学)・体育・芸術指導科目の6
項目に分けられ、項目ごとA4判用紙1枚から2枚程度で説明されている(註7)。
こうした中核目標を見ても、各項目の申で、いっ、どのようにして教えるのか
といった記述はなく、目標達成の為の方法はあくまで学校ごとに任されている。
さらに何を達成するのかということに関しても非常に概略的に書かれてある。
このような<教育の自由>を柱にしているオランダの政治的・歴史的背景を
以下に説明する。
11
2 〈教育の自由>の歴史的背景
まず政治的背景についてである。オランダの政治体制は立憲君主制であり、
国家元首は国王が務めている。2008年現在、国家元首はベアトリクス女王であ
り、王室はオラニエ・ナッサウ家である(註8)。
また内閣は責任内閣制であり、憲法上は国王に任命されるが、実質的には議
会の多数党から任命される総理大臣と各省の大臣が、内閣を構成し行政権を持
つ。議会は衆議院、参議院の両院からなり、小党分裂傾向が強いオランダでは
連立政権をつくることが多い。2008年現在、政権(与党)は、第一党にキリス
ト教民主連盟(衆41・参21、中道右派)、第二党に中道左派の労働党(衆33・参
14、中道左派)、第三党にキリスト教連合(衆6・参4、右派)で構成され、衆
議院150議席のうちの80議席、参議院75議席のうちの39議席を与党で占める。
また主な野党としては、自由民主党(衆22・参ユ4、右派)、自由党(衆9・参O、
右派)社会党(衆25・参12、左派)、左派グリーン左派党(衆7・参4、左派)
がいる(註9)。
このようにオランダには様々な政党が存在し、政権が3党以上で構成される
ことがほとんどである。多数の政党が乱立する背景に、オランダの選挙制度が
比例代表制をとっている、宗教・宗派に応じて、生活のあらゆる領域において
小グノレープ化している、ということが挙げられる。このようなオランダの政治
的背景は、<教育の自由>を掲げ、多様な教育が認められている学校教育に対
して少なからず影響はあると考えられる。
次に1917年に憲法が改正され、<教育の自由>を掲げる現憲法ができるまで
の歴史的な流れを説明する。
16世紀半ば当時のオランダは、低地諸国と呼ばれ国の形を形成しておらず、
現ベルギーと共にカトリック教国であるスペインの支配下にあった。しかしオ
ランダに住む人々の多くは、勤労精神を称え、蓄財を否定せず、質素で堅実な
生活態度を教えるカルバン派プロテスタントであり、アムステルダムがヨーロ
ッパの物資集散地として栄えていたこともあり、海運業者をはじめとした商人
らは富を蓄え、生活が豊かであった。そのため、16世紀後半カトリックのスペ
イン王国は、活発な海運商業で栄えていたオランダに対し、その覇権をますま
12
す広げようとする。それに対し、カルバン派の考えが浸透していたオランダ商
人達は、カルバン派プロテスタンティズムを緕東の基盤として抵抗し、後に80
年戦争と呼ばれる戦争となる。このようにオランダでは、人やモノの多様な交
流、つまり多様なものと触れ合う機会があった、また、大国スペインの宗教的・
政治的圧力にも屈せず、自らの価値観のもと抵抗をしてきた。こうしたことは、
教育において様々な価値観を認め、<教育の自由>を掲げるオランダの、1つ
の基盤になったと考えられる。
オランダは17世紀に入ると、国全体でヨーロッパの様々な地域からプロテス
タントの思想家やデカルトやスピノザといった、宗教による偏見を排除し、特
定の宗教にとらわれない申立性や合理性を重視する啓蒙主義の思想家など、
様々な価値観を持っ思想家に活動の場を提供していく。それによりオランダは、
17∼18世紀にかけて西欧において近代市民社会の形成を推進することとなった、
啓蒙主義発展の1つの重要な土壌となる。これらの時代、教育と名のつくもの
は、教会による私立のものであり、学校に行くことができるのは、社会的地位
の高い者か宗教関係者の子弟に限られていた。
その後、フランス革命の多大な影響を受けたオランダは、1801年の<すべて
の人に開かれた全国的に共通の公教育>という考えに基づいた教育法が初めて
成立した。その後も王803、ユ806年と教育法が改正されたが、啓蒙思想とフラン
ス革命の影響は大きく、これらの教育法はいずれも、公教育において宗教性を
強調することは避けるべきとの考えが基になっていた。そのため、キリスト教
の教会が設立する私立学校においても宗教性を排除し、中立性の高い教育を行
うものでなければ学校の設立を認めなかった。また、私立学校が設立されても、
国からの財政援助は受けられなかった。
ナポレオン支配後の1814年、伝統的なカルバン派の王家を受け入れ、ネーデ
ルラント王国が誕生。その後1848年の改正憲法により、第一院(名士)は、第
二院(国民代表)を通過した法案のみ審議する、近代的な議院制民主主義が確
立。しかしこの時、選挙権が与えられたのは国民の25歳以上男子における、ご
く一部の高所得者層(1858年時点で10.7%)に限られていた。そのため、新興
工業者や大土地所有者を支持母体とする自由党が台頭した。自由党は、国家と
宗教・宗教と教育の分離を主張し、それらが公立学校を通じて世俗化すること
13
を目指した。自由党の第一党(議員50%前後)としての地位は、20世紀にはい
るまで続いた。
しかし、19世紀半ばになると、自由党の政策に危機感を持った宗教派は、プ
リンステラーを中心として宗教立の学校教育の自由を保障するために、財政援
助の平等を主張した。また1887年の選挙権拡大(26,7%)とともに、労働者層
を支持母体とする、カトリックとプロテスタントの連合政権が誕生する。そし
て、1917年に男性の普通選挙が認められ(女性は2年後)、比例代表制が導入さ
れると、数多くの政党が乱立するなか自由党は姿を消した。
このように1848年の議院制民主主義の確立以後は、選挙権の制約もあり、ブ
ルジョワジーを支持母体とする自由党(申立)が台頭し政権を担っていた。し
かし、選挙権の拡大や比例代表制の導入などにより、労働者層を支持母体とす
る宗教派が議席を伸ばし、20世紀前半は宗教派が政権を担当するようになった。
19世紀後半から20世紀前半にかけて、政権の主導権がブルジョワ階級から労働
者階級へと移行したことが例える。
そして1917年の憲法改正によって、公立小学校と私立小学校間の政府補助金
の平等の原則が記載されるに至る。中等学校、高等学校においてもその他の法
律により整備されていく(註10)。
14
註
(1)結城忠 「オランダにおける親の教育の自由と学校の自律性(1)」
『季刊教育法』 第150号2006年P,82
(2)桑原敏明 『国際理解教育と教育実践一西ヨーロッパ諸国の社会・教育・
生活と文化一
エムティ出版 1994年 P.119
(3)「教育予算」
0ECDでは小中高校や大学などの教育機関に対する全支出を、公的な財
攻負担と、家庭など私費での負担に分けて算出。このうち公的な財政負
担分が「教育予算」に該当し、大学などへの国の補助金や教職員の人件
費などが含まれる。学費などは私費負担分に当たる。
(毎目新聞 2008年9月10日 東京朝刊)
(4)http://eduon.jp/news/agencies/20080910−000379.ht触!
教育情報ポータルサイト 2009年9月現在
(5)同上
(6)太田和敬 「オランダの教育と一教育の自由一(上)」
『教育』 第44号 国土杜 1994年 P.98
(7)猿日ヨ祐嗣 『理科教育の内容とその配列に関する総合研究』成果報告書
2005年P,80∼82
(8)桑原敏明 『国際理解教育と教育実践一西ヨーロッパ諸国の社会・教育・
生活と文化一』
エムティ出版 1994年 P.118
(9)http://www.minbuza.n1/history/
「オランダの歴史」外務省2009年10月現在
(10)憲法23条ができるまでの歴史的背景は以下の資料を参照
・リヒテルズ直子 『オランダの個別教育はなぜ成功したのか一イエナ
プラン教育に学ぶ一』 平凡杜 2006年 P.29∼37
・杉浦恭 rオランダにおける民主主義の発展」
『愛知教育大学研究報告書』 第53号 2004年 P.188∼191
15
第2節 競争の排除と個別教育
学校教育における<競争>は、私達目本人にとってはぺ一パーテストや授業、
部活動、進学など、あらゆる場面で見られるものである。日本のような画一性
の高い学校教育における<競争>というものの存在は、学習の動機形成を容易
にし、これまでもエリート育成に大きな役割を果たしてきた。近代目本が、欧
米列強の脅威にさらされるなかで、植民地化されないために産業を発展させ、
国力を増大させるためには必要かつ効率的なやり方であったであろうし、今日
の日本の経済的な繁栄を見れば、これらのやり方が正しい選択であったと認め
ざるを得ない。
しかしその反面、画一性の高い学校教育での<競争>は、人間の持つ一部の
能力(属性)を過大評価するものである。また、これらのやり方は、学校や人
間、さらには、それぞれ違った役割を果たすことで社会の成立を担っている、
職業に至るまで優劣をつけ、序列化を生み出すという側面を併せ持っている。
こうした状況の中では、子ども達が、自分という固有の存在を認め、学校や
社会の中で自分らしく生きていくことはできないのではないか、自分を振り返
る間もなく、大人や社会が良いとする学校歴や職などを目指して進んでいるの
ではないか、と懸念される。
一方、オランダでは、学校教育において<競争>というものが存在しないと
される。また、画一性の高い学校教育とは反対の、<個別教育>が徹底されて
いる。この背景には、人間は一人ひとり違うのだから、それぞれの二一ズにあ
った、個に重点をおいた教育が行われるべきである、という考えがある。これ
は、第ユ節で示したような<教育の自由>にも反映されていることである。
1 競争の無い学校制度
オランダの学校教育において、<競争>が無いということについては、それ
はぺ一パーテストや授業、進学などの際に、子ども達が他者と競うことがない
ということである。それはまた、受験というものが存在しないということも意
味する。オランダでは、5歳∼16歳までの12年間が義務教育期間であり、その
16
うち最初の8年間を初等教育学校、残りの4年間を中等教育学校に通うことと
なる。初等教育学校には、就学義務のない4歳児もその99%が通っているため、
実質9年間過ごすことになる(註1)。中等教育学校は、6年の<大学準備コース
>、5年の<高等職業専門学校準備コ]ス>、4年の<中等職業訓練学校準備コ
ース〉といった、いずれも中高一貴の3コースに分けられる(註2)。〈大学準備
コース>は大学へ進学し、研究者や政治家、高級官僚になるなどいわゆるエリ
ート育成コース、<高等職業専門学校準備コース>は高等学校へ進学し、教員
などかなり高い知識や技術を会得するための育成コース、<中等職業訓練学校
準備コース>は進学もでき、そのまま職業に就く場合も想定したコースである
(註3)。
このようにコースは大別されるものの、オランダではロース選びの際の受験
競争がない。そのため中等教育学校のコース選びは、C工TOと呼ばれる文部科学
省が実施する全国一斉の学力テスト等の、客観的な資料を用いて初等学校の教
師、本人、保護者で相談して決められる。ただ、このテストを受けるかどうか
は自由で、イエナ・プラン学校をはじめとするオ]ルタナティブ・スクールは、
ほとんどがこれを実施していない(註4)。また、このテスト結果はあくまで客観
的な一資料でしかないため、進学の際には、最終的に保護者や本人の意見が優
先される。ところが進学の際、このように保護者や子ども本人の意見が優先さ
れるということもあり、保護者の子どもへの過剰な期待から、子どもの持つ能
力以上の学校へ行かせようとする者もいる。そのためオランダでは、中等教育
学校の始めの2年間であれば、準備コースの変更・移動を可能にし、その2年
間は1コース間で共通性の高い内容を学習するようにしたり、学校内に2つの準
備コースを併設したりするなどの工夫をしている。
当然、上から<大学>、<高等職業専門学校>、<中等職業学校>の3つに
大別された高等教育学校に進学する際も受験競争はない。これらの学校に進学
できる条件は、それぞれの学校の準備コースの卒業資格を得るか、1つ上のレベ
ルの準備コ』スの卒業資格を得ることである。例えば、<高等職業専門学校準
備コース>の卒業資格を得ていれば、<高等職業専門学校>と、1っ下のレベル
の<中等職業学校>に分類される学校に、進学することができる。もちろん、
中等教育学校の各準備コースで卒業資格を得るために、他者と<競争>すると
17
いうこともない。また、卒業後に1つ上のレベルの準備コースの卒業資格が欲
しい場合は、その卒業資格が取れる学校に途中の段階(上から5年生、4年生)
から入学することも可能である。これにより、自分に合った準備コースで学習
することができ、卒業後の進路変更も可能になっている。このように進学の際
の受験がないため、一般的に学校には定員がなく、年によって学生数が変動す
る。ただし大学の医学部においては、定員で切られることがあり、選考はくじ
引き、又は、ボランティアなど入学希望者のこれまでの活動が評価される(註5)。
オランダの学校教育では、進学や就職の為に学校を選ぶ際、他者と<競争>
するということが一切なく、すべては本人次第といっても過言ではない。その
ため、無理して大学へ行くということもなく、自分に合った生き方を選ぶのが
一般的である。こうしたことからオランダの社会には、大学へ行った者が勝ち
組で、そうでない者は負け組である、といったような価値観は無い。
18
以下は、オランダの学校教育の体系について、リヒテルズ(2004)の図を参考
に筆者がまとめたものである(言圭6)。
オランダの学校体系
大学
学士課程は最
高
低3年間。
高等職業専門学校
中等職業訓練学校
(1∼4年間)
等
*教職課程は4年間
(1∼4年間)
教
育
大学準備コース
(6年間)
中
高等職業専門学校準備
等
コース
教
(5年聞)
中等職業訓練学校準備
育
コース
*中等教育の最初の
(4年間)
2年間は移行可能
初
等
教
育
小学校8年間(9年間)
義務教育期間は満5歳∼満16歳までの12年間。
義務教育では、小学校は8年間であるが、ほとんどの子どもが満
4歳になると入学するので実質9年間を小学校で過ごす。
19
2.個別教育
オランダの〈個別教育>についてである。オランダの学校では一斉授業を廃
止し、<個別指導>、<自立学習>、<共同学習〉の3要素で授業を構成して
いる。オランダではこの3要素を考慮して、できるだけ子ども達がそれぞれの
能力やテンポにあった方法で学ぶことができるような、環境づくりや指導を打
っている。
1つ目の、<個別指導>とは、その子の発達の度合いや過程を考慮して、その
子に見合った課題を達成するために、先生が子供の能力に合わせて適切な方法
や教材を選び子供のテンポに合わせて援助すること、である。オランダではよ
く<個別教育>のことを、その子のサイズに合った教育、という。(註4)これに
は、人間の発達には単に知識や技能といった認知的な発達だけではなく、社会
情緒的な発達、運動能力の発達といったものもあり、これらがバランスよく発
達することが重要という考えがある。
2つ目の、<自立学習>とは、短い指導で分かった子ども達が復習や挑戦的な
課題に挑んだりするなどして、その新しい知識や技能をより確実なものにする
ためのもの、である。学校では、自立した学習ができるようにするために、子
どもの個人差にあった多様な教材が用意され、その教材は教員が説明しなくて
も自分で学習方法が分かるものになっている。もし行き詰ってしまっても、教
員が目の届くところおり、すぐに支援をすることができるため、誰かに合わせ
るのではなく、自分に見合ったぺ一スで自ら学んでいく環境が整えられている。
3つ目の<共同学習>とは、他の子供たちとの相互作用を通じて、他の子ども
達との関係の築き方や役割分担の仕方を学ぶためのもの、である。そのため学
校では、グループを作って学ぶ場を積極的に設けている。しかし、そのグルー
プは、集団への同調を強いるものではなく、あくまで自立した個人の集まりと
して検るもので、お互いがそれぞれの意見を尊重し率直に話し合うことができ、
共通の目的に向かって役割分担しながら協力していく場である。子ども遠の相
互作用からなる偶然の発見や、異なる関心に触れることは、良い学習のきっか
けになる。こうした共同学習を可能にするのも、教員と子どものマンツーマン
の関係の申で、普段から自分の気持ちを素直に表現できる場が用意され、自立
20
学習によって自分のすべきことを自覚し、自分に与えられた課題に責任を持っ
て取り組むよう習慣付けられているからである(註7)。
こうした<個別教育>の利点を、一般的な学校での様子から考えてみる。
まず1つ目に、学校の教員は、何か新しい知識や子供たちに教える場合には、
数人の子供たちを対象にして普通の話し声で、また手を伸ばせば届くような距
離で指導をする(註8)。このことの利点としては、教員は自分が担任をしている
子ども遠の進度をしっかりと把握することができ、その観察に基づいて個々の
子どもそれぞれに、相応しい方法や教材を選びながら指導することができる。
また、少人数で、普通の話し声で会話ができる環境にあるため、子どもにとっ
ては発言しやすく、先生と生徒のコミュニケーションが取りやすくなる。
2つ員に、学校では1人1つの机ではなく、数人が1つのテーブルを利用す
るなどして、数人のグループを基本に共同で行う授業が多くある(註9)。そのた
め、子ども同士の意見交換や教え合い、情報交換が活発に行われる。このこと
の利点としては、先生に「教えてられたことを学ぶ」(単線型)という事だけで
なく、自ら疑問を持ち自発的に何かを学んだり、他の子どもの意見を参考に自
らの考えを修正したり、それをきっかけに新たな情報を探索したり、というよ
うに多様な学びを見て取ることができる。また、子ども同士の相互作用を刺激
する申で毎日の学びを繰り返すうちに、子ども達は次第に集団の中での行動の
仕方を身に付け、共同性を養っていくことができる。
個に重点を置いた教育は、ソフト面だけでなく、ハード面においても日本と
は少し違ったものを見ることができる。それは、<リュックサック制度〉と呼
ばれるものである。これは、障害のある子どもに対し全国共通の基準によって、
多子どもの補助金額を決定し、その子が選んだ学校にその金を持っていくとい
う制度であり、それにより、今までは特殊学校に行く事しかできなかった子ど
もも、普通学校に行ける可静性が大きくなった。第3節セ詳しく触れるが、オ
ランダには子どもと保護者に<学校選択の自由>が認められており、先に触れ
た中等教育学校のコース選びはもちろん、初等教育学校選びにおいても子ども
と保護者で決めることができる。しかし、公立学校は入学拒否ができないもの
の、私立学校はそれができるため、私立学校の障害者の受け入れは経済的な面
で困難であった。そのため、学校側が障害のある子どもを受け入れやすくする
21
ため、障害のある子どもには通常より上乗せして補助金を支払うという、この
制度が導入された(註10)。
このようにオランダの学校教育には、<競争の排除>と<個別教育の徹底>
という面が見られる。
22
註
(1)桑原敏明 『国際理解教育と教育実践一西ヨーロッパ諸国の社会・教育・
生活と文化一』 エムティ出版1994年P.122
(2)リヒテルズ直子『オランダの教育一多様性が一人ひとりの子供を育てる
一』 平凡杜 2004年 P.97
(3)同上P.96∼97
(4)同上 P.100∼ユ04
(5)・同上 P.108∼111,P.122∼126
・太田和敬 rオランダの教育と教育の自由(上)」
『教育』 第44号 国土杜 1994年 P.99∼101
・太困和敬 「オランダの教育と教育の自由(下)」
r教育』 第45号 国土杜 1995年 P.112∼五13,P.119
(6)リヒテルズ直子 『オランダの教育一多様性が一人ひとりの子供を育て
る一』 平凡杜2004年 P.127
(7)「個別教育」の三要素の説明に関しては以下の資料を参照
・リヒテルズ直子 『オランダの個別教育はなぜ成功したのか一イエナ
プラン教育に学ぶ一』 平凡杜 2006年 P.26∼37
(8)同上 P.23
(9)同上P.24
(10)同上P.41∼44
23
第3節 学校の自律性と保護者、生徒の権利
1 学校の選択権
オランダの学校教育では、憲法23条により<学校設立の自由>、<教育理念
の自由>・<教育方法の自由〉が各学校に認められている。つまり、教育の信
条や理念、内容、方法、学校の規模などは各学校で違うということである。そ
のため、オランダには校区がなく、実際にその学校に通うこととなる子どもと
その保護者に、学校を選択する権利が認められている(誌1)。ただ若干の都市に
おいては、生徒数に偏りが生じないよう校区を設定して、子どもと保護者の学
校選択の権利を制限する例も見られるようである(註2)。
オランダでは、子どもが初等学校に入学できる4歳になったら、市からその
案内とともに、市内にある初等学校のリストが送られてくる。小さな地方都市
であれば新聞形式のガイドが、大都市であれば数十ぺ一ジにもわたる冊子が、
送られてくる。このリストには公立・私立を間わずすべての学校が含まれてい
て、各学校が用意した学校の紹介文が詳しく記載されている(詩3)。このように、
学校側には、子どもと保護者の学校選択権を保障するために、当該学校におけ
る教育目標や方針・カリキュラム・学校の組織編成などの情報を保護者に提供
する義務が課されている(註4)。またオランダの文部科学省からは、初等学校に
通う予どもを持つ保護者の為のガイドブックが配布され、そこには学校を選ぶ
際に保護者はどういったことを考慮すべきか、公立学校と私立学校の違いは何
か、各々のオールタナティブ・スクールの特徴は何か、などといったことにっ
いて説明がされている(註5)。
こうした情報をもとに、子どもと保護者は直接学校を訪れ校長先生と話し合
うなどして学校を選択する。ただオランダの自治体は、子ども達が歩いて通え
る距離に、いくつかの学校が存在するよう配慮する義務を持っている。その最
低基準は、公立・私立を間わず、4キロ以内に最低2校の初等学校がなければな
らず、努力目標としては、2キロ以内にいくつかの学校が存在することである(註
6)。そのため、どんなに小さな町でも歩いて行ける位の距離に小学校が3つや4
つ存在するため、就学義務が課されている保護者にとって学校選択は一大行事
24
である(誌7)。しかし、保護者の中には、歩いて行ける距離に満足する学校がな
い、という場合もあるようである。そのためオランダでは、遠方の学校へ通学
する場合は交通費を支給したり、学校経営に保護者の意見が反映される<学校
経営参加評議会(M.dez.gg㎝schap Raad)>(2学校経営へ参加する権利、に
て詳しく説明)を各学校に義務づけたりするなどの工夫をしている。ただ保護
者の就学免除もあり、その条件として、精神的・肉体的に通学に向かない子ど
も、一定の住所を持たない、オランダに居住しているが外国の学校に通う子ど
も、家庭から通える範囲のすべての学校教育に親が異議を唱えた場合、がある(註
8)。
オランダにある社会文化計画局という公的機関が行った調査によると、オラ
ンダの保護者の80%が現在自分の通っている学校に<満足している>と答えて
いる(註g)。こうした結果は、保護者に学校の選択権が認められているだけでな
く、それを保証するために国や学校が一体となって、一人ひとりの子ども達に
適した教育を提供できるよう、努めてきた結果ではないだろうか。
保護者による学校選択権の影響は、子ども遠の学校での生活に限らず、私生
活にも大きな影響を及ぼしている。リヒテルズ(2004)はオランダの子ども達
が置かれている日常世界を、日本の子ども達が置かれている日常世界と比較し
て<開放された子どもの世界>と称している(註10)。
それは、上にも示したように、オランダでは校区がない。そのため、近所に
住んでいる子どもの多くは、それぞれ別々の学校に通っている。子どものこと
だから、顔見知りになれば、同じ学校に通っていなくても、近所の子ども達は
一緒に遊ぶようになる。市内のスポーツクラブなどに行けば、そこでまた様々
な地域の様々な学校の子ども達と接するようになる。そこでは、子どもだけで
なく、指導してくれる専門の先生や子ども遠の面倒を見てくれる父兄などの大
人達とも知り合いになる。こうしたことに加えて、オランダの初等学校には宿
題がなく、中等学校にクラブ活動はほとんどない。子ども達は、学校が終わる
と宿題や塾、クラブ活動に追われることなく、個別で自由な時間を存分に楽し
むことができる。また、クラブ活動がある学校であっても、他校と試合をした
り、県大会・全国大会に出場したりするというようなことはしない。オランダ
ではそうした形で、学校間の競争を偏るようなことがないようにしている(註1
25
1)。
一方で日本の子ども達は、日本に校区制がある限り、同じ地域の子ども達は
同じ学校に通う。さらに小学校でも宿題があることは珍しくなく、地域差こそ
あれ塾に通う小学生は多い。中学生にもなれば、多くの子どもが学校のクラブ
活動に属するようになり、高校受験が控えるため、小学校時に比べて塾に通う
子どもは増加する。このように、日本のほとんどの子ども達が、学校が終わっ
ても放課後は、宿題をしたり、塾に行ったり、そうでなくても、同じ学校で行
われるクラブ活動に参加したり、同じ学校の子どもと遊んだり、という様に過
ごしている。リヒテルズ(2004)はこうした日本の子ども達が置かれた日常生
活を次のように批判している。
「重層的で反復的な社会関係しか持たない日本の子供たちは、学校や地域の外
の社会に接したり、他の学校の子どもと交わったりする機会がオランダの子
供たちに比べて大変少ないように思います。学校の成績があまりよくなくて
目立たない子どもが、同じ仲間内でクラブ活動をさせられてそこでもストレ
スを溜める、ということはよくあることではないでしょうか。子供でも接す
る仲間や場所を変えることで、自分なりに生き生きとできる場を得たり、学
校では得られない人間関係をはぐくむことができるはずです。」(註12)
日本の子ども遠の多くは、同じ学校の子どもと遊び、同じ学校に通う子ども
達から構成される学校の部活に所属する。また、受験競争があることからも幼
いころから宿題や塾に、日々の生活を追われる子どもも少なくない。こうした
ことを踏まえると、オランダの子ども達は、日本の子ども達に比べ、学校や私
生活の過ごし方における選択の幅が広いと言える。
2 学校経営へ参加する権利
これまで、子どもと保護者による学校の選択権について述べてきたが、彼ら
には他にも学校経営へ参加する権利が認められている。これは、1992年に制定
26
された教育参加法に基づいて、保護者や生徒、教員の学校教育への参加制度と
して設けられた。一般的に保護者が参加する会というのは、<学校運営理事会
>、<学校経営参加評議会(MedezeggenschapRaad、以下MR)>、<親の会>、
の3つがある。保護者はこうした会に参加することによって、学校を選択する
というだけでなく、実際に子どもが通う学校で行われる教育に対し直接的な影
響力を持つことができる。
このなかでも、最も重要なものが<学校経営参加評議会(MR)>であり、保
護者と生徒、教員にも学校経営にかかわる様々な権利が認められている。これ
は、教育参加法によってすべての学校に設置が義務付けられており、私立学校
の最高決議機関である学校運営理事会と、公立学校の最高決議機関である市町
村地方自治体の決定に対し、いくつかの事項において<同意権>あるいは<勧
告権>という強い権限を行使することができる。
まず、<学校経営参加評議会(MR)>の構成員については、およそ6人∼18
人からなり、初等教育段階では保護者と教員の半々で構成される。そして中等
教育段階になると、半数が保護者、もう半数は生徒と教員から構成される。こ
こには、学校経営の責任者である校長は参加できない。これらの構成員は、毎
年1回教員と保護者、全員からなる選挙によって選出される。
次に、<学校経営参加評議会(MR)>が持つ<同意権〉についてである。学
校の最高決議機関である学校運営理事会(私立)と市町村地方自治体(公立)は、
教育参加法が示す9項目に関しては、<学校経営参加評議会(眠)>の同意が
なければ実施できない。その9項目とは、以下の通りである。
一、教育目標の変更
二∼四、授業・指導規則・試験規則などの
学校教育計画・指導計画の決定や変更
正、校則の変更(校則がある学校の場合)
六、学校ガイドの決定や変更
七、保護者の援助活動を募集する際の方針の決定や変更
八、生徒達への安全・健康管理・福祉面の規則の決定や変更
九、地方自治体の計画と指導によって選ばれるモデル校への参加決定や変更
27
2つの最高決議機関は、これらのことについて、必ず<学校経営参加評議会
(服)>の同意を必要とする。
そして、同じく<学校経営参加評議会(㎜)>が持つ<勧告権>についてで
ある。これは、<同意権>ほどの強制力はないものの、学校の最高決議機関で
ある学校運営理事会(私立)と市町村地方自治体(公立)は、教育参加法が示す
18項目に関して、<学校経営参加評議会(㎜)>から勧告を受けた場合、再検
討しなくてはならない。その18項目とは、以下の通りである。
一、学校の基本的な設置原理の変更
(他の学校との併合や私立から公立への変更など)
二、時間割の変更
三、資金の用途、
四、学校活動の停止・縮小・拡大
五、学校の譲渡・移転・併合
六、他の機関との協力活動の開始や解消
七、教育実験プロジェクトヘの参加または停止
八、学校組織の方針
九、学校運営の関係者及びその他の教職員の任命と解雇の決定とそれについて
の方針
十、学校運営の役割分担
十一、学校運営に関する定款
十二、生徒の受け入れ方に関する方針
十三、国内外からの生徒の受け入れ方に関する方針
十四、休暇規則
十五、校舎の新・増・改築と維持について
このように、オランダでは教職員の任命や解雇といった決定に関するものに
まで、保護者や生徒に一定の権限が認められている。これらは、オランダにお
28
いて教員の移動がなく、採用も解雇も学校単位で行われることも意味する。な
お、この制度は、保護者や生徒だけに学校経営に関する権限を与えるためのも
のではなく、<学校経営参加評議会(MR)>の構成員のなかに当該学校の教員
が含まれていることからもわかるように、教員の労働条件の保護という側面も
ある(註13)。
第3節では、全体を通して保護者や生徒の権利を述べてきたが、このことは
憲法23条により<教育の自由>が保障され、第4節で述べる、一高い自律性を持
つ学校の<質の維持>に、間接的にではあるが大きく貢献している。
29
註
(1)リヒテルズ直子 『オランダの教育一多様性が一人ひとりの子供を育て
る一』 平凡杜 2004年 P.11
(2)結城忠 rオランダにおける親の教育の自由と学校の自律性(1)」
r季刊教育法』 第150号2006年P.83
(3)リヒテルズ直子 『オランダの教育一歩榛性が一人ひとりの子供を育て
る一』 平凡杜2004年P.17
(4)結城忠 rオランダにおける親の教育の自由と学校の自律性(1)」
『季刊教育法』 第150号 2006年 P,84
(5)リヒテルズ直子 『オランダの教育一多様性が一人ひとりの子供を育て
る一』 平凡杜2004年 P.18
(6)太田和敬 「オランダの教育と教育の自由(上)」
『教育』 第44号 国土杜 1994年 P.98
(7)・結城忠 rオランダにおける親の教育の自由と学校の自律性(1)」
『季刊教育法』 第150号 2006年 P.83
・太田和敬 「オランダの教育と教育の自由(上)」
『教育』 第44号 国土杜 1994年 P.17
(8)桑原敏明 『国際理解教育と教育実践一西ヨーロッパ諸国の社会・教育・
生活と文化一
エムティ出版1994年P.121∼122
(9)リヒテルズ直子(共著) 『うちの子の幸せ論一個性と可能性の見つけ
方、伸ばし方一』 ほんの本2007年P.176
(10)リヒテルズ直子 『オランダの教育一多様性が一人ひとりの子供を育
てる一』 平凡杜 2004年 P.52
(11)同上P.52∼54
(12)同上P.55
(13)「2 学校経営へ参加する権利」は以下の資料を参照した。ただし、「学
校経営参加評議会(MR)」が持っ胴意権」及び「勧告権」の項目内容
に関してはリヒテルズ(2004)のP,182より引用。
30
・太目ヨ和敬 「オランダの教育と教育の自由(上)」
『教育』 第44号 国土杜 1994年 P.102∼104
・結城忠 「オランダにおける親の教育の自由と学校の自律性(2)」
『季刊教育法』 第151号 2006年 P.81∼82
・リヒテルズ直子 『オランダの教育 多様性が一人ひとりの子供を
育てる』 平凡杜2004年P.179∼183
31
第4節 学校の質の維持と格差
1 学校評価
これまで述べてきた通り、オランダでは各学校に多岐に渡る自由が保障され
ている。こうした状況の申、オランダでは各学校の価値観を最大隈尊重させつ
つ、教育の質を維持するためのものとして学校評価がある。この学校評価は、
大きく分けて内部評価と外部評価に区別される。
まず内部評価についてである。これは、各学校は当該学校での教育活動全般
に渡り自ら定期的に評価し、その質を保証するというものである。各学校では、
自らが作成する教育目標などを示した学校計画書や、年次プランを示した年次
活動計画書で、内部評価組織の設置を始めこれに関わる基本的な事柄について
定めることとなる。こうした計画書と、実際の教育活動を照らして自己評価を
していくわけだが、その評価をどのようにして実施するかは、各学校に委ねら
れている。しかし、学校計画書と年次活動計画書は学校経営において非常に重
要なものであるため、内部評価だからといって手を抜くことはできない。なぜ
ならこれら2つは、保護者や子どもによる学校選択に際しての、<学校教育契
約>だからである(註1)。
次に外部評価についてである。この外部評価は、オランダの文部科学省下の
準独立機関である教育監査庁が中心となり、そこに属する教育監査官が実際に
すべての学校を訪れ、監査を行う。しかし、オランダでは<教育の自由>が認
められているため、こうした監査も、国が支持する教育方針に従っているか否
かを審査するものではない(註2)。
教育監査官はまず、4年に1度発行され、学校の教育目標を示した学校計画書
や、毎年発行される保護者向けの学校ガイドなどによって、あらかじめ各学校
の情報を得る。次に、教育監査官は実際に学校を訪間し、授業観察に加え、校
長や教員、保護者、生徒の代表との意見交換を得て、「(1)質の維持、(2)テス
ト、(3)教材提供、(4)時間、(5)教授・学習のプロセス、(6)学校の雰囲気、
(7)生徒指導とガイダンス、(8)成果」(註3)の8分野において全国統一の監
督基準に則って診断する。それは、科目の種類・就学時間など文部科学省の最
32
低限の取り決めがなされているか、生徒の成長、二一ズをよく理解しその期待
に適切に応えられているか、生徒の成長に十分な配慮をしているかなどである。
監査の周期は、平均して2年に1度とされているが、問題が多い学校ほど頻繁
に訪れ、改善方法などをアドバイスする(註4)。こうしてできた診断書は、学校
の異議申立てを受けた後、2000年以降はインターネット上に一般公開され、い
つでも見ることができるようになった(註5)。
なお、「教育監督庁は学校の教育計画や活動計画について一切の変更命令権は
有しておらず、これらの計画は提出されたその瞬間から『学校の固有の立法』
として妥当し、その限りにおいて、それは国家レベルでの規律に代置する」(註6)
とある。つまり教育監督庁による各学校の評価は、あくまで公の客観的資料と
して一般に公開するためのもの、もしくは、それを基に各学校にアドバイスす
るためのものであると言える。
また、各学校が自律的に教育の質を保証できるように、多くの支援機関が存
在している。主要なものとしては、初等教育学校に対しては学校支援サービス
が、中等教育学校に対しては教育センターなどがある。前者は全国的なネット
ワークを形成しており、後者は教育領域・宗派・公私別に設置されている(註7)。
最近ではそのほとんどが民営化されており、今まで地域の生徒数に応じてサポ
ート機関が国や自治体から受けてきた補助金は、2006年からは各学校が受ける
ことになった。これにより、いつ、どこで、どのサポート機関を利用するかは
各学校の自主性に任せられることになった(註8)。
2 間接的効果
あらゆる面で自由度の高いオランダの学校が、その質を維持するために間接
的にではあるが、大きな効果を発揮する制度がある。それは、第3節で紹介し
た、<学校の選択権>と<学校経営に参加する権利>である。前者は、校区が
ない中で子どもと保護者が自由に学校を選択できる権利、後者は、子どもと保
護者による学校経営者の様々な決定に対する同意権・勧告権である。第3節で
はこれらを、子どもと保護者の権利、または学校の自律性という側面で述べて
きた。しかし、これら2つの制度は同時に、学校の質の維持という側面にも大
33
きな効果を発揮している。
これまでオランダの各学校には、教育理念や教育方法において高い自由が認
められていると紹介してきた。しかし、オランダでは学校の存続の条件として、
「当該地方公共団体の住民数に応じての最低生徒数を上回っていること」(詩9)
と設定している。この条件における最低生徒数は、第1節の学校設立の為の条
件として紹介したものと同様である。つまり学校は、それぞれどんな教育をす
るかは自由だが、一定の生徒を確保することができなければ廃校となる。
こうした状況下にある学校に対し、子どもと保護者には、<学校の選択権〉
と〈学校経営に参加する権利>が認められている。
オランダにおいて、子どもと保護者が転校するということは、頻繁に起こる
ということではないが、珍しいものでもない。オランダのある学校では、役所
の担当者を交えて問題のある教師の指導を求めたが、校長の指導力がないこと
に学内が騒然とし、在籍していた生徒の3分の1が他校へ移るということもあ
った。保護者は、学校側と話し合う努力はしても、学校が子どもに合わないと
判断すると躊踏なく学校を替えるようである(註10)。
またオランダの子どもと保護者には、学校経営者の決定に対して同意権・勧
告権が認められているが、勧告権に関しては決定の再検討を要求するだけの権
利であり、同意権ほどの強制力はない(註11)。しかし、学校存続の条件が一定
数の生徒の確保であり、子どもと保護者に学校の選択権が認められていること
から、勧告権すらも、学校経営に対し非常に大きな効力を発揮する。つまり学
校の経営者は、学校経営に関わるあらゆることに関して子どもや保護者の意見
を無視できないのである。
このように、学校経営者である校長や教員は、常に子どもと保護者から魅力
的な学校として認められるだけの力量を求められている(註王2)。子どもや保護
者の二一ズに応えることが、必ずしも学校の質を高めることに繋がるわけでは
ないが、学校経営に外部の評価が反映されるというのは、学校の質の維持に一
定の貢献をしていると言える。
34
3 学校間格差の考察
教育全般が各学校に任されているオランダには、学校間格差というものはあ
るのだろうか。それについての資料は見当たらないが、リとテルス(2004)は、
現在オランダには、<分離現象>というものが存在し、オランダ文化やオラン
ダ語を知らない移民や難民の子供が、全生徒数の90%以上を占める学校(フラ
ックスクール)が増えており問題である、と紹介している(註13)。このような
現象や、いわゆる人気校、不人気校の存在はオランダにもあると考えられる。
しかし、現在までの文献研究により筆者は、学校間で<人気>という面で若干
の偏りはあるにしても、学校間に何らかの顕著な格差を見出すことはできない
のではないかと考える。そうした考えに至った根拠を、これまで紹介したオラ
ンダの学校教育をまとめる意味でも、以下に示す。
一、初等教育段階で行われるCIT0テストなどのテストは、あくまで子供の発
遠の度合いを客観的に見るためであり、学校平均を出すものではなく非公
開であること。
二、運営に関し各学校の自由度が高く、保護者の学校選択権が認められてい
ることから、どの学校も経営努力を惜しまない、ということ。
三、どの学校にも学校運営に関し、保護者・子どもにも強い権限が与えられ
ており、その意志が反映されやすい構造になっていること。
四、教育監督庁が公表する診断書は、様々な角度から総合的に監査したもの
であり、一様の尺度で学校間に優劣をつけられるものではないこと。
五、学校運営をサポートする民間の機関が多数存在し、学校をサポートする体
制が十分に整っていること。
六、この国の進学条件が卒業資格の取得であり、進学先の学校を選ぶ際の競
争がないこと。
七、中等教育学校への進学は、本人や保護者の意見が優先されることに加え、
ほとんどの中等教育学校が準備コースを併設していること。
八、この国(ヨーロッパ)の一般的な思考として、無理して勉強するよりも、
自分にあった道で早く自立することに価値を見出す、ということ。(=学
35
歴志向ではない)
九、オランダでは土地政策がかなり徹底していて、自由に住宅を建設するこ
とはできない。従って、民間合杜が自由にマンション群を建設して、急
激に人口が増え、子どもが増えて学校に押しかけるという事態にはなら
ない。オランダの土地は国家による埋立地なので、住宅建設も国家の計
画に従っており、その場合始めから学校計画も含まれている(註!4)。
オランダの学校では、それぞれが独自の教育理念や教育方法を持ち、学校運
営をしている。そして、それに共感した子どもと保護者がその学校に通い、進
学の際の競争もなく、子ども達は自分のぺ一スで成長していけるよう支援され
る。また、各学校に対するサポート機関も充実しており、学校運営が困難にな
った場合には国が様々な面からバックアップするようになっている。
このように各学校で価値観も違い、手厚い支援も受けられるオランダの学校
間に、何らかの格差を見出すことはできないのではないか。
以上、第1章ではオランダの学校教育制度とその背景について、まとめた。
36
註
(1)結城忠 「オランダにおける親の教育の自.由と学校の自律性(2)」
『季刊教育法』 第151号 2006年 P.78∼79
(2)リヒテルズ直子 『オランダの教育一多様性が一人ひとりの子供を育て
る一』 平凡杜 2004年 P.190∼193
(3)吉田重和
「オランダにおける『教育の質の維持』のメカニズムーオル
タナナィブスクールから見た教育監査と全国共通学力テスト
山」
『比較教育学研究』 第35号 1990年 P.150
(4)同上
P.149∼王50
(5)リヒテルズ直子 『オランダの教育一多様性が一人ひとりの子供を育て
る一』 平凡杜2004年 P.203∼204
(6)結城忠
「オランダにおける親の教育の自由と学校の自律性(1)」
『季刊教育法』 第150号 2006年 P.86
(7)結城忠 「オランダにおける親の教育の自由と学校の自律性(2)」
『季刊教育法』 第151号 2006年 P.80
(8)リヒテルズ直子 『オランダの教育一多様性が一人ひとりの子供を育て
る一
平凡杜2004年 P,205∼207
(9・)太目ヨ和敬 「オランダの教育と一教育の自由一(下)」
『教育』 第45号 国土杜 1995年 P.工15
(10)太目ヨ礼子 r多様な人間関係で育つ個人主義」
『世界のこどもたち』 第10巻
P.111
(11)リヒテルズ直子 『オランダの教育一多様性が一人ひとりの子供を育
てる一
平凡杜 2004年 P.182
(12)太困礼子 「多様な人間関係で育つ個人主義」
『世界の子どもたち』 第10巻 P.111
(13)リヒテルズ直子 『オランダの教育一歩榛性が一人ひとりの子供を育
てる一』 平凡杜 2004年 P.214∼22
(14)太田和敬 「オランダの教育と一教育の自由一(上)」
『教育』 第44号 国土杜 i994年P.101
37
第2章 ドイツにおけるイエナ・プラン
第1節イエナ・プランとP.ぺ一夕ーゼン
1 ぺ一夕ーゼンの生涯
イエナ・プランとは、ドイツの教育学者であるぺ一夕ーゼン(Pet・r
Petersen)が、イエナ大学での実験学校での実践を通じて提唱したものであ
る。ぺ』ターゼンとは、「現代の教育科学と学校教育学のもつ本質的に重要な
諸問題は、ぺ一夕ーゼンの影響を除いては考えられない。」(註1)、「ぺ一夕ー
ゼンの教育科学に見られるように土着の概念によって、その体系が根底から
構想されたような教育理論、そしてまたイエナ・プランの企画とその具体的
な実現に見られるように広く深く教育理論に影響を及ぼした教育理論、その
ような教育理論は、ドイツ語圏においては、ヘルバルト(J,F,Herbart)以来、
今まで存在しない。」/註2)と言われるほど、ドイツでは高い評価を得た教育
学者であった(註3)。
ここでは、ぺ一夕ーゼンの生涯について以下に説明する。
ぺ一夕ーゼンは、1884年6月26目、ドイツの北部、デンマークと国境を接
するフレンスブルクという小さな町に、農家の子どもとして生まれた。この
町がある地域はかつて、デンマーク王国下の一部であったことなど、権力者
の抗争によって国境が揺れ動いた地域であり、歴史的には、自由と独立の雰
囲気に恵まれた町であった。また、ぺ一夕ーゼンが農家の子どもとして生ま
れたことは、ぺ一夕ーゼンが生涯を通じて基調となった、教育と自然との結
合、教育と手作業で働く人々の生活との結合、という思想を育むこととなっ
た(註4)。
ぺ一夕ーゼンは、フレンスブルクのギムナジウムを卒業すると、1909年ま
での間にライフチッヒなどの大学で、宗教や哲学、歴史などを学んだ。彼は
ライフチッヒ大学在学中に、ウィルヘルム・ウ“ソト(Wilhei㎜Wmdt)やカ
ール・ランプレヒト(区ar1L。㎜precht)から影響を受けた。ウ“ソトは、初
めて心理学実験室を開き、心理学における実証主義を提唱、実践した人物で
38
ある。ランプレヒトは、実証が不可能な歴史学において、過去の事象につい
ての実証に代わるものとして、その時代の社会心理から歴史事象の分析を行
うことの重要性を説き、ドイツ社会史の先駆をなした人物である。リヒテル
ズ(2004)によれば、ぺ一夕ーゼンが、後に、子どもの学びにおいて、〈発
見〉、<探求>を重視したことは、彼ら2人の影響がある(註5)。
そして、1909年から1923年のイエナ大学の教授に至るまでの14年間は、
現場の教師として活躍する。その間には、ぺ一夕ーゼンが学校改革へ深い関
心を寄せるきっかけとなった、rショーンドルフ南ドイツ田園教育舎」(註6)
への視察や、労作学校運動の主要な提唱者であるゲオルグ・ケルシェンシュ
タイナー(Georg Kerschensteiner)との出会いもあった。また、ドイツ学校
改革連盟の理事や、ドイツ教育・教授委員会の幹事を歴任し、多くの新教育
運動の指導者と交流する機会を得てきた(註7)。
こうした中で、彼は1920年にハンブルクのリピトフルク・シューレの校長
に招かれる。この学校は、国家により初めて承認された新教育の実験学校の1
つであり、学校の協同体的自主管理、生活共同社会学校の創設、という歴史
的課題を果たしてきた教師集団によって構成された学校である。同校に集ま
ってくる教師は、当時の社会に対する批判的観点を重視した教育を模索し、
授業を改革しようとする姿勢は共通していたものの、彼らが持つ世界観や政
治的信条は多岐にわたり、各々が関心を寄せる事柄も異なっていた。そのた
め、多くの教師がそれぞれの主張をするばかりで、新しい学校像は不鮮明で
あったという。こうした状況を打破するために、確かな学問的基盤の上に、
新しい教育を推進できる人物と評価されたぺ一夕ーゼンは、リピトフルク・
シューレの教育理念の構築者として期待され、校長として招かれたのである。
彼はここで、新しいカリキュラムの考案や科目により分離されていた学習内
容の統合、放課後のグループ活動(註8)、子どもごとに指導法を変えるなど、
様々な新教育の実践を試みた。また彼は、ほぼ同時期にウ“インターフデに
ある諸学校共同体の会長としても活動し、初等教育の充実、早い時期からの
作業学校理念の実現、初等教育と中等教育との連続性、女子教育・男女共学
の検討、という4つの課題について保護者らと議論を重ねてきた。このよう
な彼の経験は、イエナ・プランの創始へと繋がる重要なものとなった(註g)。
39
1923年8月、ぺ一夕ーゼンは、教育学教授であったヘルバルト派のライン
(肌Rein)の後任として、イエナ大学に着任する。彼は、教育科学研究施設
の創設やフレーベル(F.Frobe!)幼稚園の設置、大学付属実験学校校長への
就任などを通して、学校改革の実践を展開していった。そして、1926年のス
イスのロカルノで開かれた新教育連盟(NEF)の会議を通して、ぺ一夕ーゼン
が提唱したイエナ大学実験学校での教育は、<イエナ・プラン>と呼ばれる
ようになった。その後、第二次世界大戦下でのナチスや、戦後、中央集権的
なソビエト・東ドイツによる圧力と闘いながら、イエナ大学や150カ国以上
の国々で、講義やセミナー、国の教育政策への助言など様々活動を行ってい
った。しかし、1950年にイエナ大学実験学校が閉鎖を余儀なくされると、ぺ
一夕ーゼンは1951年に大学を辞め、西ドイツやスイスで講演活動を続けるよ
うになる。そして、翌年の1952年に68歳という比較的若い年齢で亡くなる
こととなった(註10)。
2 ぺ一夕ーゼンの思想の根底
ぺ一夕ーゼンが、社会や学校、そこで生活する人間、または彼自身が共感
したドイツ新教育、というものをどのように捉えていたのか、という彼の思
想の根底を理解することは、イエナ・プランを理解する上での基盤となる。
従って、以下ではそれらについて述べていく。
まずは、ぺ一夕ーゼンがドイツ新教育運動への深い関心を持つようになっ
た、きっかけについてである。
ぺ一夕ーゼンの学校改革運動(ドイツ新教育運動)への積極的な関心を持
つようになったきっかけは、1912年のショーンドルフ南ドイツ碩園教育舎へ
の視察であった。ショーンドルフ南ドイツ因国教育舎とは、リーツ直系のド
イツ田園教育舎が組織拡大するなかで、そのモデルとなった代表的な学校の1
つである(註11)。
19世紀末から20世紀初頭にかけてのドイツでは、様々な教育改革の実践が
試みられた。この教育改革のIつの潮流が、国園教育舎運動である。渡蓬(2000)
によれば、ドイツにおける目ヨ国教育舎系自由学校の起源は(それは同時にシ
40
コーンドルフ南ドイツ田園教育舎の起源でもある)、1898年にリーツがハルツ
山地のイルゼンブルクに設立した、ドイツ田園教育舎に求めることができる。
リーツが同校に求めた3つのコンセプトは以下の通りである(註エ2)。
一、学校が、大都市ではなく由国にあること
二、知的な教授よりも人格的な教育を重視すること
三、通学制の学校ではなく、寄宿舎において生活共同体を形成すること
リーツがドイツ田園教育舎に求めたこのようなコンセプトは、ぺ一夕ーゼ
ンの思想、そして、彼がイエナ・プラン学校に求めたものに大きな影響を与
えたと思われる。
次に、こうしてドイツ新教育運動への深い関心を持つようになったぺ一夕
ーゼンは、当時の社会や学校、ドイツ新教育というものをどのように捉えて
いたのかについてである。
ぺ一夕ーゼンが、ショーンドルフ南ドイツ田園教育舎を視察した時期は、
いわゆるドイツ新教育運動が最高潮に達した時期である。彼は、ドイツ新教
育運動をヨーロッパ精神の中に見、「中世から啓蒙期を経て現代に至るヨーロ
ッパ精神の必然の結果である」(註13)と捉えている。彼によれば、産業革命
そのものの発展は、やがて搾取と経済的世界制覇という市場を到来せしめ、
生活の向上を願い、人間の幸福を実現すべく求められた機械文明の諸成果が
人間にもたらしたものは、人間の自己喪失に他ならない。この矛盾の生成過
程において、中世ヨーロッパ世界の統一原理としてのキリスト教は次第に姿
を消し、神を忘却した傲慢な生活と、世俗化した物の文化が世界を支配する
に至ったのである。こうした人聞の自己疎外化の抵抗として、学校に現れた
のがドイツ新教育運動である、と彼は捉えている(註14)。
ぺ一夕ーゼンの、ドイツ新教育運動のこうした位置づけの下に、イエナ・
プランに基づく学校の中心に<共同社会(ゲマインシャフト)>を据え、学校
は何よりも家族学校であるべきだ、と主張したのである。その意味は、以下
の通りである。
41
「学校は単に知識・技能の伝達の場としてではなく、子ども達が将来、それ
らの知識・技能を使って、社会に自立的に参加していくための社会的な能力、
すなわち、人間関係の築き方について学ぶ場であるべきである。また、学校
では深い内的な意味において、家族の養育を補完し、さらに進めて、文化生
活全体とより密接に結合させることで、若い世代の人々が有機的に国民社会
の中に参加し成長していくことを目指した機関であるべきである。」(言圭王5)
また彼は、イエナ・プラン学校の中心に据えた<共同社会(ゲマインシャフ
ト)〉について、次のようにも述べている。
r共同社会こそ、我々にとって第一であり、そこから、そして、そこにおい
てのみ、人間は生にめざめ、かつそれを通してのみ、人間は、人間であるこ
とにまで達し得るのである。」(註16)
ぺ一夕ーゼンは、このような学校のあるべき姿を主張する一方で、従来の
学校に対して以下のように批判している。
「従来の学校は大人からの学校である。大人は学校を利益社会の機能と考え
ている。そうした学校は、子どもの権利を無視した利益社会の為の施設であ
り、その時代の経済的・政治的欲求に対して必要な成員を生産する為のもの
である。」(註17)
つまり、彼が捉えた従来の学校は、子どもの個性を育み、子ども達が次の
社会を担っていけるよう教育するのではなく、あくまで利益社会(ゲゼルシ
ャフト)が求める人間をつくり出すことを目的とした実験施設である、とい
うことである。それはまた、従来の学校においては、教育内容の発信源が、
現場にいる教員や子ども、保護者側にあるのではなく、あくまで社会側にあ
る、ということでもある。
次に、ぺ一夕ーゼンの考える、教員や保護者、子どもの人間関係はどうあ
るべきか、に関してである。
42
彼は、権威的なイメージを持つ教師という言葉を嫌う。それは、教師とい
う言葉が持つ、力や知識をより多く持つ存在、未熟な子どもに対して一方的
に教える存在、というイメージに対して否定的なのである。よって彼は、教
育者、養育者、グルーブリーダーという言葉をよく用いる。彼は、教育者と
子ども、子ども同士の関係は、<人間的なもので、より高貴な基本的な態度
に基づくものである>としている。また教育者の役割は、子どもが学校での
仕事(勉強)の完全な担い手になるための、方向づけをすることである、と
している(註18)。
彼はまた、教育者と保護者との関係において、互いに対等に語り合える関
係で稼げればならない、としている。なぜなら、どちらか一方が、権威的な
態度を持って相手を従わせようとすると、平等な人間としての関係が破壊さ
れ、両者の間に距離が生まれるからである(註1g)。
ぺ一夕ーゼンは、教育者、保護者」子どもの3者は、いずれも平等な人間
であり、相互に対等な関係であるということを主張した。また、当時の学校
では一般的であった、規律やしつけについて以下のように批判している。
「罰や惚れ、強制によって生み出される〈よい行動>というものは、一人の
人間である子どもの個人的な生においては何の意味もないものであり、社会
にとっても意味のないことである。」(詮20)
つまり、他から強制されたりして良い行動をすることを学んだとしても、
長期的に見れば、それは、子どもにとって意味のないことであるばかりか、
そのように人から強制されてはじめて良い行動をとる人からなる社会など、
意味のある発展には繋がらないということである。
従ってぺ一夕ーゼンは、学校という対等な人間関係の上に成り立つ場所で、
子ども達が規律やしつけによってではなく、自立的に、また、他との関係を
通して学ぶべきであるとしたのである。
第1節では、ぺ一夕ーゼンの思想やそれに影響を与えたものについて述べ
た。第2節以降では、彼が提唱したイエナ・プランの基本理念及び、それが
具現化されたイエナ・プラン学校について説明していく。
43
註
(1)・天野正治 『現代に生きる教育思想5』
ぎようせい 1982年 P.201
(2)同上 P.201
(3)・同上 R201
・リヒテルズ直子 『オランダの個別教育はなぜ成功したのか一イエナ
プラン教育に学ぶ一』 平凡杜 2006年 P.143
(4)・天野正治 『現代に生きる教育思想5』
ぎようせい 1982年 P,203
・リヒテルズ直子 『オランダの個別教育はなぜ成功したのか一イエナ
プラン教育に学ぶ一』 平凡杜 2006年 P.144
(5)・天野正治 『現代に生きる教育思想5』
ぎようせい 1982年 P.203
・リヒテルズ直子 『オランダの個別教育はなぜ成功したのか一イエナ
プラン教育に学ぶ一』 平凡杜 2006年 P.146
(6)渡邊隆信 r田園教育者運動の史的再構成一『ドイツ自由学校連盟』
の創設と活動に着目して一
『教育学研究』 第67巻 第3号 2000年 P.323
(7)・天野正治 『現代に生きる教育思想5』
ぎようせい 1982年 P.204
(8)このグループ活動は自由参加で、子ども達がスポーツや園芸、音楽
などの中から好き猿プログラムを選び、放課後に集団で取り組むもの
である。当時からドイツでは、子どもは午後には帰宅するのが「常識」
であり、放課後活動は子どもを家庭生活から引き離すものであると批
利される申で、ぺ一夕ーゼンはこの活動を意義のあるものであるとし
て続けた。なぜなら、彼は当時のドイツは急速な都市化のなかで青少
年の人間形成に欠かすことのできない自然や仲間との連帯が失われ、
また、仕事の忙しい保護者が放課後の子どもの生活を充実させるのは
難しいと判断したからである(小林万里子 「ハンブルク学校改革運
動における学校共同体の様相一ぺ一夕ーゼン校長時代のリピトヴァル
44
ク校を中心に一
『福岡教育大学紀要』 第55号2006年P.44)。
(9)・小林万里子 「ハンブルク学校改革運動における学校共同体の様相一
ぺ一夕ーゼン校長時代のリピトヴアルク校を中心に
’」
『福岡教育大学紀要』 第55号2006年P.41及ぴP.45∼46
・リヒテルズ直子 『オランダの個別教育はなぜ成功したのか一イエナ
プラン教育に学ぶ一』 平凡杜 2006年 P.146∼147
(10)・天野正治 『現代に生きる教育思想5』
ぎようせい 1982年 P.204∼214
・リヒテルズ直子 『オランダの個別教育はなぜ成功したのか一イエ
ナプラン教育に学ぶ一』
平凡杜 2006年 P.148∼150
(11)・ぺ一夕ーゼン(三枝孝弘:訳) 『学校と授業の変革一小イエナ・
プランー
明治図書P.61
・渡蓬隆信 「日ヨ国教育舎運動の史的再構成一『ドイツ自由学校連盟』
の創設と活動に着目して一」
『教育学研究』 第67巻 第3号 2000年 P.323
(12)渡邊隆信
咄国教育舎運動の史的再構成一『ドイツ自由学校連盟』
の創設と活動に着目して一」
『教育学研究』 第67巻 第3号 2000年 P.322∼323
(13)ぺ一夕ーゼン 『学校と授業の変革一小イエナ・プランー』
明治図書1984年P.61
(14)同上P.61
(15)リとテルス直子 『オランダの個別教育はなぜ成功したのか一イエ
ナプラン教育に学ぶ一』
平凡杜 2006年P.153∼154
(16)ぺ一夕ーゼン 『学校と授業の変革一小イエナ・プランー』
明治図書1984年P.62
(17)同上P.61
45
(18)リヒテルズ直子 『オランダの個別教育はなぜ成功したのか一イエ
ナプラン教育に学ぶ一』 平凡杜 2006年 P.五54
(19)同上P.155
(2C)同上 P.155
46
第2節 イエナ・プランの理念と外的組織
1 基本理念とその考察
第1節でも示したように、ぺ一夕ーゼンにとって従来の学校は、国家によっ
て生命が与えられた、非自立的で活気のない施設である。そこでは<利益社会
(ゲゼルシャフト)>が要求する人間の育成が第一とされ、子どもの持つ内的
欲求や権利に合致した教育は無いに等しいものであった。こうした状況を打破
しようと、ハンブルクでの経験やこれまでの理論と実践の成果を生かし誕生し
たのが、ぺ一夕ーゼンが提唱するイエナ・プランである(註1)。
ぺ一夕ーゼンがイエナ・プラン学校に求めたものは、<自由で一般的な民衆
学校>の建設である。彼の言う<自由>とは、いかなる外的権力によっても支
配されないという意味である。それは教会学校や国家学校に見られる教会や国
家による教育支配、言い換えれば、特定の宗教や国家権力、政治権力による学
校の占有、からの自由である。次に<一般的な>とは、子どもの階層、性別だ
けでなく、あらゆる個性(普通児・知能遅滞児・優秀児)をも包摂した学校の
組織化、という意味である(詩2)。
ぺ一夕ーゼンは、<自由で一般的な民衆学校>の中心的な理念として、第1
節で示した<ゲマインシャフト>を据えた。<ゲマインシャフト>とは、対馬
(エ987)によれば、「倫理的精神的価値を賦与された共同体ないし共同社会であ
る、ここでは人間は目的の為の手段ではなく、目的そのものである。またそれ
は、精神的なるものの育成と保護なかんずく新たな精神的なるもの山切の創造
に奉仕する人間の実質的な結合体」(註3)、である。一方、<ゲマインシャフト
>と対比的に用いられる<ゲゼルシャフト>とは、「利益社会として、種の労働
形態・財産・性別それに家庭を基盤にして成立する依存関係の総体である。ま
た実際的な要求の充足を目標にした生活上の必要が生み出し、自己擁護の闘い
に合致しているかぎり助けあう争いの為ための結合体」(註4)、である。これら
をまとめれば、<ゲマインシャフト>では人間の間に有機的で実在的な繋がり
があるが、<ゲゼルシャフト>においては、その繋がりが観念的で機械的なも
のでしかない、とも言える。
47
ぺ一夕ーゼンは、利益社会の上に成り立っていた従来までの学校は、<ゲゼ
ルシャフト>であったとした。そして、それを克服するため、イェナ・プラン
学校に求めた<自由で一般的な民衆学校〉の中心的理念に<ゲマインシャフト
>を据えた。
そこで、イエナ・プランに突き付けられた課題は<偶々のあらゆる差異(個
性)が肯定された共同体の申で、子どもの持つ内的欲求や権利を尊重し、子ど
も達にどのような<働きかけ>をすればその共同体の為に子ども達が、積極的
役割を担える成員(個性から人格)へと成長することができるのだろうか>、
ということである。これを別の言い方にすれば、<人間がそこでさらにそれを
通じて、個性を人格にまで完成し得る教育共同体・態(ゲマインシャフト)は
いかに形づくられなければならないか>ということである(註5)。
上記の<働きかけ>とは、ぺ一夕ーゼンの示す<教育的状況>を包摂するも
のである。ぺ一夕ーゼンは、すべての人間関係の場は、<状況からの呼びかけ
>が生じる場であると考え、教育におけるそのような状況を<教育的状況>と
呼んでいる(註6)。
つまりこの<働きかけ〉とは、教員らによる直接的な指導だけを指すのでは
なく、学校側が創り出す外的組織や基幹集団に支えられた、<ゲマインシャフ
ト(学校共同体)>という<教育的状況>が自然と引き起こす刺激をも意味す
る。また、これまで述べてきたぺ一夕』ゼンの思想やイエナ・プランの中心的
理念から、イエナ・プランは次のようにも言えるのではないだろうか。<イエ
ナ・プランは、意図的な刺激(直接指導)よりも、学校側が創り出した学習環
境(共同生活)によって子ども達に生じる、無意図的な刺激に多くの期待をし、
その刺激に教育の活路を見出している。そこでイエナ・プラン教育とは、その
刺激が子ども達に何らかの効果(学習・成長のきっかけ)を与え、その反応と
しての学習・成長を導くことを重視した教育である。>
以下からは、こうした課題を持ったイエナ・プランにおける理想の共同体(ゲ
マインシャフト)は、どのようなものなのかについて、ぺ一夕ーゼンが示した
ものを説明していく。
48
2 外的組織とその考察
ぺ一夕ーゼン(1984)は、イエナ・プランにおける<外的組織>について、
その理想をいくつか言及している。ここでは、それらについていくつか説明し
ていく。
まず、学校の<校舎>についてである。建物は、平屋建てかなるべく2階建
てで、周りには遊び場、運動場、児童用の学校花壇があり、全集団がそれぞれ
固有の部屋も持つことが望ましいとしている。また、製作技術の為の総合的な
大部屋、自然科学的な作業の為の部屋、体育館、及び音楽・学校行事・演劇の
為の集会場などが必要である。加えて、可能ならば、有機的准関連を持った幼
稚園が併設されていればなお良い、としている(註7)。
2つ目に<設備>についてである。部屋には、子ども自身の手によって容易に
移動させることのできる机と椅子が必要である。それは、常に部屋での活動の
状況に応じて自由に配置できるようなもの、野外で頻繁に行われる授業の為に
15分程度の道のりであれば容易に運ぶことができるもの、牧草地や採石場など
あらゆる場所に持っていくことができるもの、が良い。そして机は、時にユ人
で、時に集団でというように、子ども達が自由に活動できるよう、1つの部屋(40
人学級を仮定)に4人掛け用のものが8つと、正人掛け用のものが8つ、が望ま
しい。また、十分なスペースを持った作業用棚が用意され、窓際の物置台は、
水槽や花、そして子どもが自分達の部屋に置きたいと願う物のために自由に使
えるようにしなければならない。なぜなら共同生活(ゲマインシャフト)をす
る部屋に対し、すべての子ども遠を内的に強く結び付けなくてはならないから
である(詩8)。
3つ目に、<活動の場>についてである。授業などでも、絶対的に固定された
場は存在しない。場は、その時々の個々による活動や集団作業の活動性の中か
ら、子ども達が自ら考え自由に選択することができる。こうして子ども達に真
の活動の自由が認められると、子ども達に典型的な本性(強情、がんこ、親し
みやすいetC)が現れる。子ども達が本性をありのままに現わすことができるよ
うにすることは、集団生活及び外的組織の課題であり、大切なことである。従
って、学校でも部屋でも、あらゆる場面で子ども達が自由に活動することがで
49
きなくてはならない。ぺ一夕ーゼンは、「活動は成長しつつある児童の身体の栄
養であり、それを束縛することは児童の健康に対する犯罪である。」(註g)とま
で言っている。しかし、子どもが自由を乱用することを許すわけではない。イ
エナ・プラン学校では、子どもが部屋のどこで誰と活動しようと、部屋を出て
トイレに行こうと自由だが、静かに話す・歩くなど、他者と交際する上での望
ましい習慣を身に着けることを、子どもに要求する。自由を乱用した子どもは、
静かに観察している教員や集団によって制限される(註10)。
最後に〈休憩>についてである。子どもも教員も同様に、彼らは活動を始め
てから105分後に初めて疲れを感じる。従って、午前申の活動は100∼105分ず
つの活動が2つとなり、その間に40分程度の休憩をとる。この休憩もまた1つ
の活動であり、体操をしたり、軽い朝食をとったり、自由に遊んだりと、何を
するかは各集団に割り当てられている(註11)。
ここまで、外的組織について4項目に分け説明してきた。以下には、ぺ一夕
ーゼンの示した外的組織から読み取れるものを述べていく。
ぺ一夕ーゼンは、<校舎>や<設備>において、野外施設と子ども達が作業
をする施設の充実や、それらを子ども達が利用しやすいよう机や椅子の大きさ
についても言及している。ここには第2章の第ユ節で触れた、教育と自然との
結合、教育と手作業で働く人々の生活との結合、というぺ一夕ーゼンの思想が
反映していると思われる。また、上に述べた机と椅子の大きさの規定や、<休
憩>においては、活動時間と休憩時間の具体的な規定もしている。これらには、
理論を実践に応用しただけではなく、実践そのものを対象化し、そのことから
教育科学の体系を吟味しなおすという研究方法論の開拓をし、「幻想なき教育科
学の発展」(註/2)を目指したぺ一夕ーゼンの思想が見られる。
加えて<活動の場>において、ぺ一夕ーゼンは、学校で真の活動の自由を提
供することにより、子ども達はその本性を現すことができる、としている。子
ども達が本性を現すことができるとは、子ども達が自身の持っ内的欲求を開放
し自身(権利)の主張を素直にすることができる、ということであろう。また
それは、その共同体の申では多子どもの差異(個性)が肯定されている、とい
うことでもある。本性を現し、自分の自由に生活できるこうした活動の場は、
子ども達にとって非常に心地よいものであるはずである。しかし共同生活をす
50
る以上、ある子が自由を乱用し、他者に迷惑をかけるような時には、周りの子
や教員から責任を間われることになる。これにより、子ども達が自由を乱用す
ることはなくなっていく。ここでは、子どもの持つ内的欲求や権利が尊重され、
あらゆる差異(個性)が肯定された共同体の申で、自分がどのように成長して
いけばその集団の一員としての役割を果たすことができるのか、ということを、
子ども達に学ばせる状況を学校側が創り出している、と考えられる。これは、
上(P.48)に述べたイエナ・プランの課題を解決するため1つの解決策であろ
う。またこの<活動の自由>という解決策は、イエナ・プラン学校の持つ<校
舎>や<設備>によっても支えられている。
第3節では、ゲマインシャフトの理念が反映された、イエナ・プランの特徴
とも言える基幹集団について述べていく。またイエナ・プランにおける子ども
の学習についても説明する。
51
註
(1)伊藤暢彦 「イエナ・プランにおける教育学的リアリズム」
『京都大学教育学部紀要』 第38号 1991年 P.324∼325
(2)助川晃洋 「ぺ一夕』ゼンの『小イエナプラン』における『教育的状況』
の概念」
『宮崎大学教育文化学部紀要』 第19号 2008年 P.14
(3)対馬達雄
「ぺ一夕』ゼンにおけるゲマインシャフトの理念と学校共同
体の形成」
『教育学研究』 第54巻 第2号 1987年 P.149
(4)同上 P.149
(5)・伊藤暢彦 「イエナ・プランにおける教育学的リアリズム」
『京都大学教育学部紀要』 第38号 199工年 P.326∼327
・伊藤暢彦 「ぺ一ター・ぺ一夕ーゼンにおける『精神化』としての教育」
『日本教育学会大曾研究発表要領』第51号 1992年 P.n8
(6)助川晃洋 rぺ一夕ーゼンの『小イエナプラン』におけるr教育的状況」
の概念」
『宮崎大学教育文化学部紀要』 第19号 P.工3,P,2ユ2008年
(7)ぺ一夕ーゼン(三枝孝弘:訳) 『学校と授業の変革山小イエナ・プラ
ソー』明治図書1984年P.114
(8)同上 P.115∼116,P.129
(9)同上 P.117 より重引
(10)同上P,116∼117,P.126∼127
(11)同上P.118∼119
(12)同上P.16 より重引
52
第3節 基幹集団と子どもの学習
1 基幹集団
イエナ・プラン学校では、1つの集団(学級)を、1つの年齢からなる子ども
達だけで構成するのではなく、異なった年齢の子どもから構成している。また
この集団(学級)には、子どもの性別・階層・才能の違いも同一集団内に混合
することが理想であるとしている。こうした集団(学級)をイエナ・プランで
は<基幹集団>と呼ぶ(註1)。
イエナ・プラン学校では、従来の年齢別学年学級の廃止とそれに代わる<基
幹集団>の設置によって、現実の社会にも見られる様々な差異を、実際に学校
の申に持ち込むことを可能にしたのである(註2)。ぺ一夕ーゼンは、年齢別集団
と基幹集団との相違は、前節で述べた<ゲゼルシャフト>と<ゲマインシャフ
ト>の相違に等しいとしている(藩3)。
ではぺ』タ』ゼンは、その基幹集団をどのように編成しているのだろうか。
上にも述べたとおり、基幹集団は様々な差異を持つ子どもを皆一緒にするのが
望ましいとしている。ぺ一夕ーゼンは集団において、どの年齢の者を一緒にす
るのが良いか、年齢の幅はどの程度にすべきか、という実験を重ね、基幹集団
の編成を以下のように示している(註4)。
下級集団は第1∼3学年、中級集団は第4∼6学年、上級集団は第6∼8学年、
青年集団は第8∼10学年の子どもから編成される。こうした個々の集団の人数
は、下級・中級集団では40名が、上級・青年集団では30∼35名が限度である
(註5)。そして、各集団の申で3年間の学習を終えると、1っ上の学年へ移行す
る。ここで第6学年と第8学年が集団をまたいでいるのは、子どもの<人間的
な成熟(人間的な態度)>によって、その学年でも1つ上の集団へ移行するこ
とが認められているからである。<人間的な成熟(人間的な態度)>の内容と
は、その子どもが小さいが完全なる人格として、次の段階の集団の申で一人の
人間としてどのような自覚を持ち、確かな地位を占めるであろうか、それゆえ
この点でその子どもの人格的存在のうちにどのような成長がみられるのであろ
うか、ということである。またこの移行に関し、子ども達は拒絶する権利を特
53
っている(註6)。
この移行を決定する基準が子どもの<知能程度>ではなく、<人間的な成熟
(人間的な態度)〉であったところにも、<個性を人格へ>というイエナ・プ
ランの思想を伺うことができる(註7)。ただしぺ一夕ーゼンによれば、第4学年
の子どもを下級集団の子どもと混合してはならない、しかし、第3学年の子ど
もを10月以降であれば次の集団に移行しても良い、としている(註8)。
毎年入れ替わる人数が全体の3分の1にした理由として、ぺ一夕』ゼンは以
下のように述べている(註9)。例えば、入れ替わるのが全体の2分の1であった
とすると、入れ替わった新しい者が容易に強い部分となりえてしまうし、また
つり合いが壊れ、誤った方向へ移ってしまうかもしれないからである。それに
対して、入れ替わるのが全体の3分の1であると、従来の良い習慣とその陶冶
的・教育的価値が生き続けることを残った3分の2が確実に保証するからであ
る。
こうして、それぞれの基幹集団の3年間の間に、子ども達は<徒弟>、<職
人>、<親方>という、違った3つの役割を体験することとなる(註10)。この
ことは、子ども達が教えたり助けたりする立場、教えられたり助けられたりす
る立場を、交互に体験する、ということでもある。このように、ぺ』ターゼン
は基幹集団のメリットとして、自身が示した「集団の10の利点」(註11)のなか
で言及している。以下では、これについて解釈したリヒテルズ(2006)と伊藤
(1991)の、<基幹集団におけるメリット>についての見解をまとめる。
リヒテルズ(2006)によれば、子ども達のこうした基幹集団での体験は現実
の人間関係により近いものである。それは、同じ年齢集団の中で、一見優れて
いるように見える子どもが他の子どもを導くよりも、同じ集団で経験を積んだ
年長の子どもが年少の子ども遠を教えたり助けたりする方が、人間関係として
はより自然である、ということである。また、こうした立場をそれぞれの集団
の3年間の間に交替して体験することは、自分以外の立場の人を理解する助け
となり、人間関係の築き方の訓練にもなる(註12)。
また伊藤(1991)によれば、このような集団において学習することの意義と
して重要なのは、相互評価に基づく正しい自己の位置付け及び真のリーダーシ
ップの形成である。彼によれば、指導的な役割を担う子どもと他の子どもとの
54
間で自然な扶け合いが起こる時、真のリ』ダ』シップが可能になる。なぜなら、
一種の恩恵として他者に接したり、相手の自尊心を損なうような形で指導に当
たったりする時、そのような援助や指導は相手に受け入れられないので、彼ら
は不遜な態度を捨て、全く人間的な態度で人と接することを、身をもって学ぶ
ことになるからである(註13)。
こうした<基幹集団におけるメリット>は、前節の<活動の場>で述べたよ
うに、子ども達に活動の自由が認められていることが前提となる。子ども達が
活動の自由を認められることにより、お互い親しいとか、人間的に気が合うと
かを根拠にして、自由に集まってくる机の集団が形成される。あるいは、共通
の関心ごとに基づいて形成されたり、集団の指導的な子どもによってまとまっ
たりなど、子ども達が自分の作業の共通的性格に気づかされて集まってくる。
それは、子ども達が共通に作業することの利点を認識することによって、机の
集団が形成されるということである。こうした集団は、作業の内容によって、
子どものあらゆる組み合わせが表れる。例えば、Aという作業の集団では指導的
な役割を担っていた子どもが、Bという作業の集団ではでは単に積極的な1メン
バーでしかなかったり、Cという作業の集団では消極的な1メンバーであったり
するのである。こうした机の集団は年度中に繰り返し変化する(註14)。
このように子ども達は、それぞれの基幹集団内だけでなく、その集団の中に
できる、さらに小さな机の集団内においても、その作業内容・所属した机の集
団によって、様々な立場・状況を経験する。こうしたことによって、ぺ』タ』
ゼンあるいはリヒテルズ(2006)、伊藤(1991)らによる<基幹集団におけるメ
リット>が言えるのである。
2 授業と学習形式
ぺ一夕ーゼンによれば、「授業は、それ自体が1つの教育的な共同体である学
校共同体の申に組み入れられるべきものであり、常にその申では第2義的なも
のとみなされなければならないものである。それゆえ、生命への畏敬を伴い、
教育理念の下で技能や知識や意識性へと導くような計画的にかつ有意義に行わ
れるものの総体が、教育学的な意味において授業と呼ばれるのである。」(註15)
55
としている。こうしたことは、授業における活動の出発点が、共同体の申で自
然に行われる学習、または自由に行われる陶冶に求められるということを示し、
あらゆる技術的な=学習、課題の学習は、できる限り共同体の申で自然に行われ
る学習と結び付けられ、そこでの形式や状況が取り入れられなければならない
ことを示している。よって各教科領域での学習において、すべての子ども遠の
進度を無理に同一にしようとすることは許されず、各個人または小集団で学習
が行われるべきである(詩16)。
これはっまり、前節で示したような、学校側が創り出すゲマインシャフト・
外的組織・基幹集団といった<教育的状況>が子ども達に対して自然と引き起
こす刺激を考慮せずに、授業は成り立たないということを意味する。
以下には、イエナ・プラン学校の授業において考慮すべきこととして、ぺ一
夕ーゼンが指摘したものをいくつかまとめる(註17)。
一、子ども達にはまず、あらゆる教科、技術の「基本」が与えられなければな
らない。(それは各授業において、新たなテーマ・鎮域が始まる最初の段階、
ともいえる)それを与えられることによって、当該の教材領域への接近を
果たしうるし、子ども達が独力で学んでいけるようになる。
二、工作作業について。下級集団では、子どもの想像力に重点が置かれる。従
ってテーマを定めたりはしない。中級集団では、子どもの自主性は一定の
制約を受け、技術の習得の為の訓練が主となる。そこでは、何らかの対象
を造ることから離れ、各々異なった材料の残り物とそれに見合う道具を用
いて、技術的知識及び基礎的能力を身につける。上級集団では、中級集団
で身に付けた知識・技術の範囲内であらゆるものの使用が許され、それら
を応用し自由にモノを造ることが許される。
三、集団授業上の手法について。子ども達によって最良の学習方法が運用され、
自由に形成される机の集団内で偶人的な進展及び共通の進展がみられるよ
う、教師は知識上・方法上の基本的な事柄を子ども達に伝えなくてはなら
ない。(一と同意義)そのために、授業の始めに「円座形式(サークル)」
で集まり教師は子ども達にそれらを伝える。学校において共同で行われな
ければならないことはすべて旧座形式(サ』クル)」で集まり行う。
56
四、学校では作業(教科などの学習領域)があまり細かく分けられていない方
が良い。よってイエナ・プランでは、学習領域が主に基礎学習過程。文化
的領域・自然科的領域・造形製作的領域・共同体形式に分けられている。
これらの学習リズムはそれぞれ、一週間単位が望ましいとしている。ただ
し、子どもの読み書きが悪いなどの時には、訓練課程・練習過程が該当す
る子どもに導入される。このような課程に限っては、週1回を3ヵ月単位
で行う往ど、状況に応じたものにするのが良い。
これらをまとめれば、①各学習内容(各学習単位)の始めにサークル形式で
教師が子ども達に基本を教える、②工作作業においては、年齢順に想像力、基
礎知識、応用力に重点が置かれる、③子ども達と集まって何かをするときはサ
ークルになってする、④学習領域は細かく分けない、⑤1週間単位の学習内容が
望ましいが、個々の子どもの状況によっては個別に学習内容を設定し、それに
ついての学習期間も変える、ということである。
次に、イエナ・プランで行われる学習活動の全体像を掴むために、学習活動
を雀つの形式に分類したものを説明する。
イエナ・ブランにおける学習活動は、<談話〉、〈遊び>、<作業>、<行
事>、の4つの基本形式に分類することができる。それぞれの内容について以
下にまとめる(註18)。
まず<談話>についてである。これは、円座形式(サークル)での集まりや、
休憩の際の朝食や散歩、授業などあらゆる活動場面において、教員と子ども・
子ども同士・教員同士・教員と保護者の<話し合い>を、奨励することを意味
する。ここでは、すべての人が自由に自分の意見を表現することが認められ、
互いに理解し合う中で学校の活動を進めていくことが員指されている。
2つ目に<遊び〉についてである。これは休憩時間や体操やスポーツだけでな
く、文法や計算などの様々な学習においても材料を用いて遊戯形式のものを積
極的に取り入れるということである。ぺ一夕ーゼンは、<遊び>は子どもにと
って感情表現の1つであり、それによって子どもは成長し情緒的な発達を遂げ
る、と言っている。
3つ目に<作業>についてである。文法や計算、造形などのあらゆる学習、そ
57
して学校花壇や教室の整理整頓がこれに当たる。ぺ一夕ーゼンによれば、人は
皆、何かを達成すること、知ること、理解すること、何かをできるようになる
ことを望んでいる。従って学校は、子ども達のそうした欲求を満たすように課
題を与え、〈作業>をする機会を子ども達に与えるのである。このように<作
業>が子どもの自己表現になる同時に、他者の為に意味のある事をしていると
いう自覚に繋がるようにすることも大切である。よって<作業>では、他の子
どもと協力する姿勢や、自ら課題を選択し計画する力、作業の質を高めるため
に努力する姿勢が評価される。
最後に<行事>についてである。これは、仲間の誕生祝いや夏祭り、クリス
マス、新入生歓迎会、毎週行われる学芸会などのことである。リヒテルズ(2006)
によれば、<行事>の主な目的は、学校という共同体の申で子ども達が、人と
しての感情を共有する機会を増やすことにある。またぺ一夕ーゼンは〈行事>
に関し、それぞれ異なった領域に関する<作業>から成り立っていたり、ドラ
マチックな形態をとるきっかけとなったりするような<行事>が望ましいとし
ている。
ぺ一夕ーゼンはこのように学校の活動を分類するなかで、各学校は立地する
地方の習慣や風俗に応じて、別の様式で行われるのも差し支えないとしている。
ここまでイエナ・プランにおける授業の形態や手法、および、イエナ・プラ
ン全体の活動を4つの基本形式に分類したものについて述べてきた。イエナ・
プランは、子ども遠の学習活動に関し一定の示唆はしているものの、学習内容
や方法に詳細な取り決めをしているわけではない。このようなことから、ぺ一
夕ーゼンが提唱したイエナ・プランは、教育における1つのコンセプトである
ということが例える。
第4節では学校という共同体を形成し、学校が家族学校であるために不可欠
である<保護者(親)>の、イエナ・プランにおける位置付けを述べていく。
58
註
(1)ぺ一夕ーゼン(三枝孝弘:訳) 『学校と授業の変革一小イエナ・プラ
ソー』明治図書 1984年P.120
(2)伊藤暢彦 rイエナ・プランにおける教育学的リアリズム」
『京都大学教育学部紀要』 第38号 1991年 P.327
(3)ぺ一夕ーゼン(三枝孝弘:訳) 『学校と授業の変革一小イエナ・プラ
ソー』明治図書 1984年P.120
(4)同上 P.120∼121
(5)助川晃洋 「ぺ一夕ーゼンの『小イエナプラン』における『教育的状況』
の概念」
『宮崎大学教育文化学部紀要』 第19号 2008年 P.18
(6)ぺ一夕ーゼン(三枝孝弘:訳) 『学校と授業の変革一小イエナ・プラ
ソー』明治図書 1984年P.122
(7)伊藤暢彦 「イエナ・プランにおける教育学的リアリズム」
『京都大学教育学部紀要』 第38号 1991年 P.327
(8)ぺ一夕ーゼン(三枝孝弘:訳) 『学校と授業の変革一小イエナ・プラ
ソー』明治図書 1984年 P.121
(9)同上 P.138∼139
(10)伊藤暢彦 「イエナ・プランにおける教育学的リアリズム」
『京都大学教育学部紀要』 第38号 1991年 P.327
(11)ぺ一夕ーゼン(三枝孝弘:訳) 『学校と授業の変革一小イエナ・プ
ランー明治図書1984年P.137∼140
(12)リヒテルズ直子 『オランダの個別教育はなぜ成功したのか一イエナ
プラン教育に学ぶ一』
平凡杜 2006年 P.90∼91
(13)伊藤暢彦 「イエナ・プランにおける教育学的リアリズム」
『京都大学教育学部紀要』 第38号 1991年 P.328
(14)ぺ一夕ーゼン(三枝孝弘:訳) 『学校と授業の変革一小イエナ・プ
ランー明治図書 1984年P.123∼124
(15)同上 P.148
59
(16)同上 P.148
(17)同上 P.149∼161
(18)<談話〉、く遊び>、<作業>、<行事>、の内容については以下の
資料をもとにまとめた。
・同上 P.163∼164
・天野正治 『現代に生きる教育思想5』
ぎよう章い1982年P.224∼225
・助川晃洋 「ぺ一夕ーゼンの『小イエナプラン』における『教育的状
況』の概念」
『宮崎大学教育文化学部紀要』第19号2008年P.19∼20
・リヒテルズ直子 rオランダの個別教育はなぜ成功したのか一イエナ
プラン教育に学ぶ一』
平凡杜 2006年 P.128∼134
60
第4節保護者の位置付け
学校共同体(ゲマインシャフト)を目指したイエナ・プランの組織における
特徴の1つに、子ども・教員・保護者の3者からなる学校自治がある。これは
つまり、既存の権力による管理ではなく、子ども・教員・保護者の3者が協力
し自主的に管理するという新しい学校形態の展開を意味するものである。ぺ一
夕ーゼンがイエナ・プラン学校に求めた<自由で一般的な民衆学校>は、この
考え方に負うところが大きい(註1)。
そこで、イエナ・プランにおける保護者の位置付けはどのようなものであっ
たのだろうか、ということについて以下に説明する。
第1節でも示したように、イエナ・プランでは学校が真に人間の学校となる
よう、ヨハン・ハインリッヒ・ペスタロッチ(Joham Heinrich Pesta1ozzi)
以来の伝統を持つ<家族学校>が強調されている(註2)。ぺ』ターゼンにとって
学校は家庭教育を補充、発展させ、より密接に文化生活全体と結合する組織で
あった。よって、イエナ・プランでは<保護者の教育権(以下、両親権)>が
最大限に尊重され、学校は常に保護者に開かれ、保護者は子どもと教師の共働
者として授業を始めとする全ての行事に参加することができた。また教室は居
間として機能することが求められた(註3)。
ぺ一夕ーゼンは、イエナ・プランにおける保護者の位置付けに関して以下の
ように述べている。
「父母団は、呼びかけられた時にはどんな場合でも、児童に相応した最良の教
育や人間陶冶の点からそのような理念を援助するために作業を行い、負担を背
負い、犠牲を払う一あれこれの児童ないしは児童集団のために一ことを拒んで
はこなかった。このように私が父母団に言える時、その時から真の学校共同体
の始まりが感じられるのである。」(註4)
「教師と父母が共働し、学校と家庭は一致協力し、そして最良の提携がなされ、
それに守られて一般に学校はうまくゆくことができる、つまり学校共同体とな
ることができるのだ。」(謹5)
61
このようにぺ一夕ーゼンは、学校が共同体(ゲマインシャフト)となり家族
学校であるためには、保護者が学校のあらゆる活動に参加し〈共働者>となる
ことが不可欠であると指摘している。
こうしたイエナ・プランにおける<両親権>の反映は、1920年のハンブルク
の「リピトフルク・シュ㎞レ」(註6)でのべ一夕ーゼンの経験が基になっている
と考えられる。
ハンブルクのリピトフルク・シューレは、他の実験学校と同じく、教師と子
どもと保護者の3者が共働し、それぞれが当事者意識を持ちながら学校のあり
方を模索していく学校共同体の思想が根底にあった。リピトフルク・シューレ
は校区を設定せず、ハンブルク全体から子どもを受け入れるなかで、こうした
実験学校に子どもを通わせようとする保護者は、学校にとって大切な支持者で
あると同時に、教育理念を共有する存在でもあった。こうした理由もあり、学
校は保護者との共通理解を深めるべく、クラスでの保護者会や家庭訪間、授業
参観などが多く設けられた。またこの時代の背景には、子どもの教育を保護者
の自然の権利として国家的に認めた、ワーイマール憲法の規定とその精神があ
ったことも忘れてはならない(註7)。
このようにリピトフルク・シューレでの経験もありぺ一夕ーゼンは、イエナ・
プランにおける<両親権>を認め、それを学校共同体(ゲマインシャフト)を
構成するための重要な要素とした。しかし上にも述べたように、保護者は、学
校の<共働者>となることが求められているのであり、保護者の意見が学校の
取り決めにおいて、絶対に優位するというわけではない。それは、「保護者の関
心事は多岐に渡り、それは教育問題に限定されたものばかりではない。現状に
合わない内容の議論は、職業的に修業を積んだ教師によって修正される必要が
ある。教師と保護者の密な連携・議論はすべて子どもの教育のためである」(註8)
と、ぺ一夕ーゼンが述べていることからも読み取ることができる。
62
註
(1)三枝孝弘 「イエナ・プランの研究一ドイツにおける学校の共同体自主
管理にかんする思想および運動の序論的考察一」
『岡山大学教育学部研究収録』 第18号 1964年 P.2
(2)近代教育に最も深い影響を与えた人物の1人であるペスタロッチは、健
全な家庭生活こそ、あらゆる真の文化の永遠にして唯一の基礎であるこ
とを強調し、保護者(両親)の持つ教育的機能を重視している。これら
は、「両親権」の優位の主張に繋がる思想であるといえる(三枝孝弘 「イ
ユナ・プランの研究一ドイツにおける学校の共同体自主管理にカ)んずる
思想および運動の序論的考察一」 『岡山大学教育学部研究収録』 第
18号1964年P.5)。
(3)伊藤暢彦 rイエナ・プランにおける教育学的リアリズム」
『京都大学教育学部紀要』 第38号 1991年 P.327
(4)ぺ一夕ーゼン(三枝孝弘:訳) 『学校と授業の変革一小イ干ナ・プラ
ソー明治図書工984年P.10ユ
(5)同上 P.145
(6)rリピトフルク・シューレ」に関しては第2章の第1節を参照
(7)・小林万里子 「ハンブルク学校改革運動における学校共同体の様相一ぺ
一夕ーゼン校長時代のリピトヴアルク校を中心に一
『福岡教育大学紀要』 第55号 2006年 P,44
・三枝孝弘 「イエナ・プランの研究一ドイツにおける学校の共同体自主
管理にかんする思想および運動の序論的考察一
『岡山大学教育学部研究収録』 第18号 1964年 P.4
(8)・小林万里子 「ハンブルク学校改革運動における学校共同体の様相一ぺ
一夕ーゼン校長時代のリピトヴアルク校を中心に一」
『福岡教育大学紀要』 第55号 2006年 P.44
・ぺ一夕ーゼン(三枝孝弘:訳) 『学校と授業の変革一小イエナ・プラ
ソー 明治図書1984年P.95
63
第5節 小括
第5節では、第2章を通して述べてきたイエナ・プランについてまとめる。
繰り返しになるが、イエナ・プランにおける根本の課題は、以下の通りであ
る。
一、あらゆる差異が認められる共同体の為に、子ども達が積極的な役割を果た
せる人間になるために<どのような働きかけ>をすればよいのか
二、子どもの個性を人格へと発展させるために、<共同体(ゲマインシャフト)
はどのように構成されるべき>であるのか
これまで述べてきたことをまとめれば、一の<どのような働きかけ>に対す
るイエナ・プランの答えは、<学校共同体(ゲマインシャフト)の形成。そし
て、その学校共同体(ゲマインシャフト)という教育的状況が生み出す子ども
達への刺激と、そこから導き出す学習>ではないだろうか。そして、二の<共
同体(ゲマインシャフト)はどのように構成されるべき〉に対するイエナ・プ
ランの答えは、<これまで本論で述べてきた校舎の造りや、基幹集団の編成に
おいて3学年の子どもを混合するなど、様々な角度から示されたイエナ・プラ
ンの内容がそれに該当するであろう>。
つまり、ぺ一夕ーゼンが提唱したイエナ・プランでは、校舎や基幹集団、両
親権などによって<学校共同体(ゲマインシャフト)>が形成され、そのく学
校共同体(ゲマインシャフト)>による様々な働きかけによって、子どもが共
同体の為に積極的な役割を果たせる人間になる(二個性から人格へと発展でき
る)、と言えるのではないだろうか。
第2章ではぺ一夕ーゼンがドイツで提唱したイエナ・プランについて述べて
きた。第3章では、オランダにおけるイエナ・プランの基本的な内容及び、そ
の成立に影響を与えたとされるく無学年制(米)〉、<幼児学校(英)>、〈
フレネ教育(仏)>の3者について述べていく。また同時に、その3者がオラ
ンダにおけるイエナ・プランの成立に関わって、どのような影響をもたらした
のかについて考察する。
64
第3章 オランダにおけるイエナ・プランの受容と変容
第1節オランダにおけるイエナ・プラン
1「8つのミニマム条件」と「イエナ・プラン20の原則」
序章でも示したように、べ一夕ーゼンがドイツで提唱したイエナ・プランは、
オランダヘと受容される際にいくらかの変容を遂げることとなる。それについ
てオランダのイエナ・プラン協会は、オランダにおけるイエナ・プランは、<
アメリカの無学年制>、<イギリスの幼児学校>、<フランスのフレネ教育>、
の3者の考えを取り入れだとしている(註1)。しかし当協会からは、それについ
ての詳しい説明はない。また、それらについてリヒテルズ(2006)がいくらか
言及はしているが、その3者がオランダのイエナ・プラン成立の際になぜ取り
入れられ、どのような影響を与えたのかという点については、十分な検討がな
されているとは言えない(註2)。よって第3章を通して、これらの点についての
考察をする。
そこでまず第1節では、オランダのイエナ・プランが掲げる基本原則につい
て以下に述べていく。
1966年、スース・ブロイデシタールはイエナ・プランが教育に求める最低の
条件としてく8つのミニマム条件>を示している。これは、オランダにおけるイ
エナ・プラン教育の発展の初期段階で、これに関わる者を繋ぐ基本原則となっ
た(詩3)。
「8つのミニマム条件」(註4)
1、受容的思考に向けた養育(ほかの人々の存在や考えを受け入れるように、
子どもを育てていくこと)
2、学校のあり方を人間的なものとし民主化すること
3、対話の重視
4、学校は経済・政治・宗教またはほかの利害やその団体の道具となるべきでは
ないこと
65
5、学校の真正性(詩5)
6、生と学びの共同体において共有された自立的な秩序に基づく自由
7、批判的思考に向けた養育(自分で考え判断できるよう子どもを育てること)
8、創造性の重視
この<8つのミニマム条件>は、発表されてから20年余りの間、オランダに
おけるイエナ・プラン関係者の共有財産、アイデンティティの拠り所となった。
しかし、オランダのイエナ・プラン協会が教員養成コース(註6)を設置した
り、現職者の研修を行ったりする中で〈オランダのイエナ・プランとは何か>
という共通認識を明らかにする必要が一段と高まってきた(註7)。イエナ・プラ
ンが個別の状況や条件の申で、教育者の自由裁量を積極的に認めているだけに、
この教育の原則的な共通理解を示しておくことが求められるようになった。そ
の結果、1990年に作成されたのが以下に示す<イエナ・プラン20の原則>であ
る(註8)。
「イエナ・プラン20の原則」(註9)
A.人について
!、各人はユニークである。つまり、たった1つの存在であり、すべての子ども
とすべての大人はそれぞれ、かけがえのない価値を持っている
2、各人はその人がその人らしく発達する権利を持っている。その人らしい発達
とは、次のようなものによって特徴づけられる。すなわち、独立性、自分で
(批判的に)判断する意識を持つこと、創造性、社会的正義へ向かう姿勢。
この権利は、人種・国籍・性別〕性的傾向・社会環境・宗教・信条または障
害の有無によって左右されるものでは一切ない
3、各自はその人がその人らしく発達するために次のようなものと独自の関係を
持っている。すなわち、ほかの人々、自然や文化について感得できる現実、
および感覚によっては経験できない現実と
4、各人は常に1人の人格を持った人間として認められ、可能な限りそのように
待遇され、話しかけられるべきである
5、各人は文化の担い手、また、文化の改革者として認められ、可能な限りその
66
ように待遇され、話しかけられるべきである
B.共同社会について
6、人は、各人のかけがえのない価値を尊重する共同社会を目指して働くべきで
ある
7、人は、各人のアイデンティティ(個性)を発達させるための場と、刺激が与
えられる共同社会を目指して働くべきである
8、人は、お互いの間の相違や変化を、公正と平和と建設性に基づいて受け入れ
る共同社会を目指して働くべきである
9、人は、地球と世界空間を尊重しかつ注意深く守る共同社会を目指して働くへ
きである
王O、人は、自然資源と文化資源とを、将来の世代のために責任を持って用いる
共同社会を目指して働くべきである
C.学校について
工1、学校は、関係者の、自立的で共同的な組織である。学校は、社会によって
影響を受けると同時に、それ自体が社会に対して影響を与えるものである
工2、学校において大人たちは、先に示した入と共同社会についての原則を、自
らの教育学的な出発点として、仕事を行う
13、学校で教えられる教育内容は、子ども遠の生の世界と(内的な)経験世界
から、そして、「人」と「共同社会」の発達にとって重要な手段であるとみ
なされる、われわれの社会の中の文化資源とから、引き出される
14、学校では、教育は、教育学的な道具を用いて教育学的な状況において実施
される
ユ5、学校では、教育は、対話・遊び・仕事(学習)・催しという基本活動がリズ
ミカルに循環する教育形態で行われる
工6、学校では、子どもが互いに学び合い助け合うという目的のもと、年齢や発
達のレベルに違いのある子ども達のグループが慎重に考えれたうえで造ら
れる
17、学校では、自立的な遊びや学習が、指示されたり指導されたりする学習に
よって捕捉されながら、両者が交互に行われる。指示的・指導的な教育は、
特に、レベルの向上を目的としている。これらすべての学習において、子
67
ども自身のイニシアチブが重要な役割を果たす
18、学校では、基本的な経験、発見、探求と共に、ワールドオリエンテージョ
ンが中心的な場を得る。
19、学校では、子どもの行動や成績についての評価は、可能な限り、その子ど
もの発達の経緯から、また、その子どもとの話し合いを通じて行われる。
20、学校では、変更や改善は、普段のプiコセスとみなされる。このプロセスは、
行動と思考との首尾一貫した交換作用を通じて遂行される
この他にも、オランダのイエナ・プラン協会は、「教員がサークル対話を効果
的に進めるための手引書」(註10)や、「教員が子どもをよく指導できたかを自己
診断する為の手引き」(註11)などを示している。
こうした内容を踏まえて、1966年に示された<8つのミニマム条件>と1990
年に示された<イエナ・プラン20の原則>はどの点でぺ一夕ーゼンが示したイ
エナ・プランを継承し、どの点で変化が見られるのかという点について以下に
述べる。
まず<8つのミニマム条件>についてである。ここで記述されている8項目は、
オランダのイエナ・プランを短い文章に要約してある。しかし、それらはすべ
てぺ一夕ーゼンが示したイエナ・プランから読み取れるものであると思われる。
まず、「2、学校のあり方を人間的なものとし民主化すること」、「4、学校は
経済・政治・宗教またはほかの利害やその団体の道具となるべきではない」に
ついては、第2章の第1節で述べた<自由で一般的な民衆学校>の内容に一致
するものであるし、「6、生と学びの共同体において共有された自立的な秩序に
基づく自由」についても<共同体(ゲマインシキフト)>に関わるものである。
これら3つはこのようなイエナ・プランの中心理念のなかから読み取ることが
できる。
2つ目に、「1、受容的思考に向けた養育」、「3、対話の重視」、「7、批判的思考
に向けた養育」についてである。これらは、イエナ・プランにおいて頻繁に行
われるサ㎞クル対話や、そのなかでの他者の意見を尊重すること、そしてその
うえで自らの意見を主張することといった、サークル対話での約東事などのな
から読み取ることができる。
68
3っ目に「5、学校の真正性」についてである。この内容は、ぺ一夕ーゼンが
「教師と生徒、生徒と生徒との間の関係は、純粋に人間的な基礎、及びより高
尚な基礎の上に立脚される必要がある」(註12)と述べていることからも読み取
ることができる。
最後に「8、創造性の重視」についてである。この内容については、ぺ一夕ー
ゼンがその著書の申で随所に使用している「生徒たちが学校作業の完全なる担
い手とならなければならない」(註13)という言葉からもわかるように、子ども
連の活動が指示的な教師のもとに成り立つのではなく、彼ら自身が今自分は何
をすべきか、何をしようか、といった創造することを重視している点から、読
み取ることができる。
次に<イエナ・プラン20の原則〉についてである。これら全体を通して言え
ることは、すべてぺ一夕ーゼンの理念に通じるものであるが、彼の理念やイエ
ナ・プランとして記述したものに比べ、いっそう具体的な内容になって述べら
れているということである。ただこれらには、ぺ一夕ーゼンが使用していなか
った言葉や概念がいくつかある。
まず1つ目に、ぺ一夕ーゼンが使用してはいなかった言葉についてである。
第2項における、人種、国籍、宗教、信条、障害といった言葉は、ぺ一夕ーゼ
ンは用いてはいなかった。また、第8項に見られる公正、平和という言葉や、
第10項に見られる自然資源、文化資源(第13項にも見られる)といったこと
に関しても、ぺ一夕ーゼンは特に言及してはいなかった。もちろん彼の生きた
時代や、彼が提唱したイエナ・プランが目指したことなどからも、彼がこれら
の事柄に関し一切の認識がなかったとは言えない。しかし、オランダのイエナ・
プランでは、ぺ一夕ーゼンが特に言及してはいなかったような言葉を、彼らが
共有し基本となるべき条文のなかに盛り込んでいる。ここには、ぺ一夕ーゼン
が生きた19世紀後半から20世紀前半にかけての時代とは違う、20世紀後半ま
たはこれから21世紀に向かうといった時代背景の影響が見られるのではないか。
つまり、2度の世界大戦の経験により、あらゆる側面での人間差別の撲滅や世界
の平和というものを一層意識せざるを得なくなった20世紀後半の世界的背景が、
<イエナ・プラン20の原則>のなかには反映されているのではないか。よって
第2項における言葉も、現在の時代背景を反映し、彼の用いた子どもの「階層」
69
(註14)という言葉を拡大解釈したものではないだろうか。
2つ目に、第16項に見られる子どものグループ編成に関してである。ぺ一夕
ーゼンは、子どもの発達の違いを認識してはいたものの、イエナ・プランにお
いて、基幹集団(学級)は3年齢ずつの子どもで構成するものとしていた。し
かし、ここでは3年という言葉はなく、慎重に考えられた上てとしか述べられ
てい住い。ここには、基幹集団(学級)をはじめとしたグループ編成に関する
何らかの影響があったと考えられる。
3つ目に、第18項に見られるワールドオリエンテーションについてである。
これは、オランダのイエナ・プランにおける中心的なカリキュラムの1つであ
るが、ぺ一夕ーゼンのイエナ・プランではこうしたカリキュラムは存在せず、
オランダのイエナ・プラン独自のものである。
ここまで<8つ一のミニマム条件>と<イエナ・プラン20の原則>について述
べてきた。これらのことをまとめると、<8つのミニマム条件>については、そ
の内容が短く表現され大まかな概念であることもあり、ぺ一夕ーゼンの理念や
彼が提唱したイエナ・プランから、すべて読み取れるものであると考えられる。
しかし、<8つのミニマム条件>に比べ詳細に述べられた<イエナ・プラン20
の原則>については、内容の大枠はべ㎞ターゼンの理念やイエナ・プランと共
通するものであるが、1つ1つの言葉や概念を見ると違いがいくつか見られる。
それは、20世紀後半という時代背景を反映しべ一夕』ゼンの言葉を新たに解釈
して表現したため、または、無学年制(米)、幼児学校(英)、フレネ教育(仏)
などから影響を受けたためと考えられる。
2 オランダのイエナ・プラン協会HP
オランダのイエナ・プラン協会は自身のHPにて、オランダのイエナ・プラン
に関していくつか説明をしている。しかし、これまでそれについて日本語で紹
介したものは見当たらない。そこで、2009年11月現在のオランダのイエナ・プ
ラン協会HPについて筆者が翻訳したものを<資料1>(註15)として巻末(P.114)
に付しておく。また、オランダのイエナ・プラン初等学校の様子を写真に収め
70
たものも、噴料2」(註16)として巻末(P.126)に付す。
オランダのイエナ・プラン協会は、オランダのイエナ・プランについて大き
く、①オランダのイエナ・プラン学校(イエナ・プラン学校の概要・教育哲学)、
②子どものグループ(ホームルームグループ、様々な方法のグループ分け、中
級ステドジ、上級ステージ)、③カリキュラム(ワールドオリエンテーション、
8つの経験フィールドからなる枠組み・構造)、④基本的な活動とリズミカルな
週案(基本的な活動、リズミカルな週案、対話、学習、遊び、催し)⑤学校の
教室(教室、サークル、教室の隅)、⑥基本的指針(イエナ・プラン20の原則)、
⑦組織(基礎、協会、監査官、広報)の7つに分けて説明している。
これらの内容も、上に示した条件や原則と同じく、ぺ一夕ーゼンの提唱した
イエナ・プランと大枠は共有している。しかし、これも細かな点においてはぺ
一夕ーゼンの提唱したイエナ・プランといくつか異なる点がある。
1つ目は、②子どものグループ(P.115)において、4∼6歳の幼児教育を対象
としている点である。
2つ目は、②子どものグループ(P.115)の基幹集団(学級)編成において、
構成する子どもの年齢の幅を変更するなど、新たな基幹集団(学級)の形を模
索している点である。新たな基幹集団(学級)の形を模索している点に関して
は、<イエナ・プラン20の原則>の第16項に関連することであると考えられ
る。
3つ目は、③カリキュラム(P.117)において、ワールドオリエンテーション
という新たな学習カリキュラムを導入している点である。これも、<イエナ・
プラン20の原則>の第18項に該当するものである。
ここまで、ぺ一夕ーゼンの提唱したイエナ・プランについては彼の訳本や先
行研究を、オランダのイエナ・プランについては<8つのミニマム条件>、<イ
エナ・プラン20・の原則〉、<オランダのイエナ・プランHP>を基に比較し、両
者の共有する点と異なる点について述べてきた。両者の異なる点については、
大きく分けて①使用している言葉、②幼児教育について、③基幹集団(学級)
編成、④カリキュラム(ワールドオリエンテーション)の4点があると考える。
そのうち、①使用している言葉、については、上で述べたように時代背景の違
いによる影響が考えられるが、残りの3点については、それでは説明がつかな
71
いものである。よって、その3点の異なる点については、無学年制(米)、幼児
学校(英)、フレネ教育(仏)の3者号こよる何らかの影響があると考える。それ
について、第2節以降考察する。
72
註
(1) http://www.jenaplan.n1/en/index.htm1
Nedarlanse Jenaplan Vereniging
(2)リヒテルズ(2006)のオランダにおけるイエナ・プランの受容過程につ
いては、序章を参考
(3)リヒテルズ直子 『オランダの個別教育はなぜ成功したのか一イエナプ
ラン教育に学ぶ一』 平凡杜 2006年 P.185
(4)同上 P.185
(5)「真正性」という言葉を言い換えれば、「ホンモノ」ともいえる。イエナ・
プランでは、学校における大人と子どもを、授業を与えるものとそれを
受けるもの、という関係には捉えていない。イエナ・プランではそれを
「人間・大人」と「やがて大人になろうとしているもの・子ども」との
出会いと捉えている。学校での様々な学びを通して大人になる準備をし
ている子どもに対してイエナ・プランでは、r.大人である教育者は自分自
身を役割や地位の陰に隠してはならない、教育者は教育の場面において、
『ホンモノ』の大人でなくてはならない」としている。教育者といえど
も迷いや、自分自身が学ぶこともある。イエナ・ブランでは、そうした
ことも踏まえて、自分を信じて話しかけてくれる子ども達に対して正面
から向き合い、対話をする心構えの大切さを説いている。これが「真正
性」の意味するところである(同上P.186 より重引)
(6)・「教員養成」
教員養成は高等職業訓練専門学校が行う。通常教員養成コースは4年
間であり、そのうち4分の1(1年間)を教育実習期間とし、学生は各々
の学校で教員の日常行務を同様に行うことが義務付けられている。授
業・学級経営・催し物・保護者面談と多岐にわたる実地研修内容を、教
員養成機関に入学するとすぐに、理論を学ぶのと同時進行で行う。また、
4年次進学の際には実地研修の最低半分(半年分)が終了していなけれ
ばならない。長期にわたる実地研修は、学生が実践の中で多様な教育を
学ぶ機会を保障すると同時に、受け入れる学校側に教員養成活動に参加
する機会を提供し、独自の教育を広めることにも繋がっている。こうし
73
た実地研修は、教員養成をはじめとする職業訓練系の学校では非常に重
要視されている(リヒテルズ直子 『オランダの教育一多様性が一人ひ
とりの子供を育てる一』 平凡杜 2004年 P.50∼52)。
・r学校に付設するイエナ・プラン教育コース」
1976年以来、全国にある7つの教員養成学校(高等職業専門学校HB0)
にイエナ・プラン教育コ]スが付設され、イエナ・プラン教育の教員
養成コースの内容が公的なものとなった。以後、4年制の教員養成課程
の3学年からの2年間、イエナ・プラン教育コLスの内容を受講でき
るようになった。これにより学生は、必修の一般的な教員資格を取得
すると同時に、イエナ・プラン教育コ]スの公式の修了証(1989年よ
り)を取得することができるようになった。また現在では、モンテッ
ソーリ・ダルトン・フレイネ教育についても同様の付設コースが設け
られている(リヒテルズ直子 『オランダの個別教育はなぜ成功した
の力)一イエナプラン教育に学ぶ一』 平凡杜 2006一年 P.!80∼182)。
(7)同上P.190
(8)同上P.190∼191
(9)同上P.191∼194
(10)向上 P.107∼ユ09
(11)同上 P.232∼235
(12)ぺ一夕ーゼン(三枝孝弘:訳)『学校と授業の変革一小イエナ・プラン
一』 明治図書1984年P.179
(13)同上 P.180∼181
(14)同上 P.120
(15)・http://www,jenaplan.n1/en/jenaplanschools.htm1
−Jθnaplansschool s in the Nether!ands一
・http://www.jenaplan.n1/en/grouping_children.htm1
−The grouPing chi ldren一
・http;//www.jenaplan,n1/en/curri culum.ht価1
−The curriculum一
74
・http://www.jenaplan.n1/en/schoo1_1ivingroom.htm1
−School l ivingroom一
・http://www.jenap!an.n1/en/basic_principles.ht㎜1
−Bas i c princ ipユes一
・http://wwwl jenaplan.n1/en/organization.htm1
−0rgani zat ion一
(16)久保礼子 『オランダにおけるイェナ・プラン教育の展開一自立と協
鋤を育む教育一』
福岡教育大学修士論文 2008年 P.25∼29
75
第2節 無学年制(米)からの影響とそれによる変容
1 アメリカの無学年制
無学年制における明確な理論付けと実際の運営にあたっての指針は、カリフ
ォルニア大学教授のJ.グラッドラツド(John.I.Goodlad)教授とハーバード大
学講座担任教授のR.アンダーソン(R・bet.H.Ander・㎝)教授の著書、<Th・
No㎎raded Elementary Schoo1(邦訳;学校革命一無学年制による改革一)>によ
って、1959年に初めて与えられた(註1)。
では無学年制とはどのようなものなのだろうか。端的にいえば、無学年制と
は一人ひとりの子どものあらゆる違い(子ども間及び多子ども内の領域毎に見
られる違い)に着目し、それぞれの違いにもとづく基準を設定し、画一的な学
年制の枠を取り払って、子どもたちの持つ潜在的な可能性を最大限に伸ばすよ
う工夫された学校組織である。そのために学校組織は、すべての子ども連の継
続的な、途切れることのない、進歩を可能にしなければならない(註2)。
以下には、グラッドラドとアンダーソンが、(I)無学年制を志向した理由、
そして、(1I)無学年制が主張する内容、の2点について述べていく。
まずは彼らが、(I)無学年制を志向した理由、を以下に示す(誌3)。
一、ディーイなどにみられる㌧教育目標を在来からの単に知的・道徳面からの
考察に加えで、子どもの健康や個性や社会的適応を重視していこうとする
広い視野からの考察
二、教授の目的を知識の獲得よりもむしろ思考の発達に置きその見地から教育
の内容を再編成しようとする学習理論の展開
三、子どもの間における身体的、社会的、知的発達の広い開きへの認識
四、学年制に伴う諸制度、とくに進級落第制度の諸検討
このうち、三と四の<子どもの間における発達の差>、<学年制に伴う進級
落第制度>に関して、彼らは自らの研究結果か一 轤「くらか言及している。
76
まずは、<子どもの間における発達の差>についての彼らの見解である。
彼らは、アメリカの平均的ないくつかの小学校における研究結果から、<子
どもの個人間及びひとり一人の子どものなかの領域毎の差の実態>を、①学習
への準備度(精神年齢)、②成績、③身体的発達度、④社会的熟成度、などの観
点で以下のように主張している(詩4)。
一、第1学年に入学する子ども.間には、①学習の準備度(精神年齢)には約4
年の差(3∼4年の差)がある。またそれは、第2学年に進むにつれてさら
に大きくなる
二、第1学年の子どもが学校の授業を受けるようになってから間もなく、子ど
もの②成績の差が、白身の①学習の準備度(精神年齢)の差に近づき始め
る
三、子どもが小学校中学年に達する頃には、子ども間の①学習の準備度(精神
年齢)と②成績の差(ほとんどの領域)は、その子どもの学年数と同じか、
それ以上になる
(つまり①学習の準備度(精神年齢)と②成績の子ども商の差は、上位と下
位で、第4学年であれば4年間以上、第5学年であれば5年間以上、第6
学年であれば6年間以上、あるということである)
四1個人内の領域間(教科間および同一教科内の)の差も大きく、特に成績上位・
下位にある子どもの方ボ平均的な成綾の子供よりもその傾向が強い
五、③身体的発達度、④社会的熟成度に関しても、同一の暦年齢の子どもであ
つても大きな差がある
(③身体的発達度に関しては体重・陸上競技、④社会的熟成度に関しては
ソシオメトリー(註5)による調査結果から)
六、ひとり一人の子どもは一定の速度で進歩するのではなく、ある時は急に進
度を速めたり、停滞するという様に不規則な形の進歩を示す
(①学習への準備度(精神年齢)、②成績、③身体的発達度、④社会的熟成
度、のすべてにおいて)
77
彼らの研究結果からは、暦年齢が同じ子ども同士でも①学習への準備度(精
神年齢)、②成績などにおいて、学年標準の上か下に大きく拡がっていることや、
個人の領域内においても同じように差ができる、ということなどが例える。
次に<学年制に伴う進級落第制度>についてである。学年制には、、個人差に
応じた教育的措置のようにみえる落第制度がある。しかし、それについて彼ら
は、それまで行われてきたい・<つかの先行研究も吟味し、それは子ども達にと
ってあらゆる側面において望ましくない影響を与える、としている。
根拠となった研究成果は以下の通りである(註6)。
一、落第生は上級学年の者と付き合う傾向がある
二、一般的にいって、落第生は正規に進級した者から社会的に認められず、受
け入れられない
三、落第生は友達付き合いが悪く、意地悪で、同級生をいじめるという評価を
受ける場合が多い
四、抽出した落第生の徹底的な分析によって、自信・自尊心・一般的幸福感を
驚くべきほど欠いていることが明らかである
このような結果から、落第した子ども達はその経験により、社会的適応とい
う面で大きな損失をこうむる、ということ読み取れる。
次に、(1I)無学年制が主張する内容、についてである。それについては、<
学年制の撤廃と同質性〉、<個人のカリキュラムと成績>の2つに絞って以下
に説明する。
まずは、<学年制の撤廃と同質性>についてである。上記の<子どもの間に
おける発達の差>に示したように、同一年齢の子どもであっても、発達の様々
な側面において大きな差(開き)があることが明らかになった。このことを踏
まえると、年齢別学年学級において5年生を担当する教師は、3∼9年生の子ど
も遠を同じくくりにして扱っているとも言える。従って、4年生や5年生という
呼び名は実質的には無意味なものであり、子ども遠の実態を考えた時、私たち
は子ども連の進歩は長い目で見なければならず、一定の期間に一定の内容を一同
r一
フ速度で学び進んでいくことを前提とする(それを要求する)<学年制>の
78
不合理さは明らかであり、子どもの実態と学年基準は両立しがたいものである
(註7)。
また、一般的に学級編成において同質性の高い子ども達で構成しようとする
(EX能力別学級)する試みがよく見られる。しかしこれについても、<子ども
の間における発達の差>に示したように、個人間や個人内の領域毎に大きな差
があることから、何らかの同質性を基準にして学級編成することは無意味に等
しい。ただ、読む、言語という能力は重要かつ他の能力とも深く相関している
ため、その能力を基準とした学級編成は一定の意味がある(註8)。
次に<個人のカリキュラムと成績>についてである。繰り返し述べてきたよ
うに、同年齢・同学年であれ子どもによって学習の到達段階は大きく異なる。
よって学年毎に到達目標を定めるのではなく、3年間なら3年目での、9年間な
ら9年目での全期間を通じた到達目標(概念・技能・価値)を定める。さらに
そこに到達するまでのカリキュラムは多子どもに合わせて設定する。そのため、
教師は何を何時数教えるかではなく、多子どもがどのような概念・技能・価値
をどの程度学んでいるのかを把握する必要がある。従って、優秀な子どもは、
学年のレッテルを無視して先に進むよう奨励される。ただ、どの程度指導計画
を個別化できるかは教師の裁量にかかっており、疑問もある。また、成績評価
に関しても個別化されたものになっており、無学年制の学校では、従来の数字
や記号のみの成績通知の方法に代わって、個別化され、文章や保護者との面接
による成績通知の方法をとっている(註g)。
2 基幹集団(学級)と無学年制の相違点
以下からは、クラッドラッドとアンダーソンの提唱した無学年制は、ぺ一夕
ーゼンの提唱したイエナ・プランがオランダヘと受容される際にどのような影
響を与えたのか、またそれは、オランダのイエナ・プランのどのような点に見
られるのか(変容の内容)について考察する。
まず、無学年制がべ一夕ーゼンのイエナ・プランのどの部分に影響を及ぼし
オランダのイエナ・プランとして変容したのかということに関し、筆者の仮説
を述べる。ぺ一夕ーゼンのイエナ・プランでは、基幹集団(学級)というもの
79
を提唱している。これについては第2章の第3節で示したように、ぺ一夕ーゼ
ンは、どの年齢の者を一緒にするのが良いか、年齢の幅はどの程度にすべきか、
という実験を重ね、下級集団は第1∼3学年、中級集団は第4∼6学年、上級集
団は第6∼8学年、青年集団は第8∼10学年の子どもから編成することが望まし
いとしている。これに対しオランダのイエナ・プランでは、<イエナ・プラン
20の原則>の第16項において「集団の構成に関し、学校では、子どもが互いに
学び合い助け合うという目的のもと、年齢や発達のレベルに違いのある子ども
達のグループが慎重に考えられたうえで造られる(P.67)」と述べている。また、
オランダのイエナ・プラン協会HPを見ると、基幹集団(学級)の編成は3年齢
ずつが基本になっているが、<いくつかのイエナ・プラン学校は学級において
は、構成する子どもの年齢の幅を変更し、上記に示したものとは違う新たな学
級形態を模索している。>と記されている。つまり、ぺ一夕ーゼンのイエナ・
プランでは、基幹集団(学級)を無条件で3年齢ずっとしていたのに対し、オ
ランダのイエナ・プランでは、ぺ一夕ーゼンのイエナ・プランを継承し、基幹
集団(学級)編成を基本的に3年齢ずっとしている点は例えるが、実際は学校
の当事者に委ねられ、その編成はべ一夕ーゼンのイエナ・プランに比べ、より
柔軟なものとなっている。この基幹集団(学級)編成の変容という部分に無学
年制の影響があると考えられる。
以下、それについて検討する。まずこの課題を考察するうえで押さえておか
なければならないことは、そもそもぺ一夕ーゼンのイエナ・プランが提唱され
る上で、無学年制からの影響はなかったのかということである。これについて
は、オランダのイエナ・プラン協会がオランダのイエナ・プランに影響があっ
たと主張する無学年制は、ぺ一夕ーゼンのイエナ・プランより数十年後に提唱
されたものであることから、すでにそこに無学年制の影響があったとは当然考
えられない。ただ、ぺ一夕ーゼンのイエナ・プランでは、上に示したように1
つの基幹集団(学級)において3年の年齢差がある子ども達が一緒に生活をし、
そこで3年過ごすと次の段階の基幹集団(学級)へ進学することを主張してい
る。このことからぺ一夕ーゼンのイエナ・プランは、従来の年齢別学年学級を
廃止し1学級を3年間としたこと、というその表面的な事実においては、無学
年制の先駆的なものであり類似したものである、と言えるかもしれない。また
80
その他にも、全体よりも個人に重点をおいた学習カリキュラムや、成績評価を
文書や面談によるものにしたこと、落第の廃止など、ぺ一夕ーゼンのイエナ・
プランと無学年制は類似した主張をしている。
では、基幹集団(学級)編成に関する部分はどうなのであろうか。ぺ一夕ー
ゼンのイエナ・プランにおいては、上にも述べたように年齢別学年学級を廃止
し1学級を3年間(3年齢)としたことに見られる。また無学年制においては、
年齢別学年学級の廃止に見られる。さらに無学年制は、学校に導入する際の初
期段階は3年間の無学年制度を敷くことが望ましいとしている。このような従
来とは異なる学級編成という点においても両者の主張は類似しており、その主
張内容からは無学年制がべ一夕ーゼンのイエナ・プランにおける基幹集団(学
級)編成に、どのような影響を与えたのかは考察しづらい。しかし、無学年制
がべ一夕』ゼンのイエナ・プランに影響を与えだということは、両者に何らか
の相違点があるということである。そこで、従来とは異なる学級編成のあり方
に関し類似した主張をしている両者の、その理論的根拠に注目してみたい。こ
の点で両者に明らかな相違点がみられれば、どのような影響があったのかにつ
いて明らかにできるはずである。
そこでまず検討しておきたいことは、年齢別学年学級を廃止し1学級を3年
間(3年齢)とした、ぺ一夕ーゼンのイエナ・プランの理論的根拠は何だったの
かということである。言い換えれば、ぺ一夕ーゼンはどのような理由(観点)
から、年齢別学年学級を廃止し、基幹集団(学級)を構成する子どもの年齢に3
年の幅を持たせたのか、ということである。
これまでも述べてきたように、ぺ一夕ーゼンは、年齢別集団と基幹集団との
相違は、利益社会(ゲゼルシャフト)と共同体(ゲマインシャフト)の相違に
等しいとしている。第2章でも触れたが、ぺ一夕ーゼンは利益社会(ゲゼルシ
ャフト)を打破し、学校を共同体(ゲマインシャフト)とすることを目指した。
つまりぺ一夕ーゼンは、学校共同体(ゲマインシャフト)を創設する為の1つ
の手段として、年齢別学年学級を廃止したのである。
では、基幹集団(学級)を3年間(3年齢)としたぺ一夕ーゼンのイエナ・プ
ランの理論的根拠、つまりぺ一夕ーゼンはどのような理由(観点)から1つの
基幹集団(学級)を構成する子どもの年齢に3年の幅を持たせたのだろうか。
81
これについてぺ一夕ーゼンは、3年とした理由(観点)を自らの観察と実験結果
からとしか述べていないので、その理由(観点)は利点として述べたもの以外
からは伺うことができない。
その利点については第2章の第3節でも述べたが、ぺ一夕ーゼンが示した「集
団の10の利点」のなかからそれに関する項目を以下に示す(註10)。
一、年齢差は、くりかえし緊張が過度に高められるようなことなく、陶冶差が
強められたものである。このことは、すべての集団のためにかなりの精神
的・一般的な刺激や助長を与えることを意味している。児童たち白身の中
には教育上及び授業上の指導者がかなりの程度存在している。このことに
よって、かの効果的な「陶冶落差」が生まれている。従来、下級集団にお
いてのみ行われてきた詳細な統計研究が、例えば次のようなことを明らか
にしている。すなわち、第2学年は新入学の第1学年の入門的指導(特に
彼ら自身が1年前に新入生として初めて学習した「作業手段」の使い方に
関する入門的指導)を引き受けたり、第3学年の生徒がかなり教育的な影
饗を果たしている間には「年長者」として先に進むことができる、という
ことを明らかにしている。
二、3つの学年は、相互に徒弟、職人、親方というような役割を演ずるのである。
あらゆる場合において、そのように対照しても正当であるような内的構成
員がそれぞれの集団のすべてに存在するのである。
三、真に(知的に)才能のある者たち(彼らは、年齢別学年学級では通常いつ
も「優等」とか「首席」だとかの役割を演ずることになり、そのことによ
ってしばしば容易に周知のような不遜さと誤った自己評価の特徴を示すご
とになる)は、4つの集団をもった10年制の民衆学校で一あるがゆえに、そ
こでは3回新たに編成しなおされ、より才能ある者たちと争わねばならな
いのである。
四、このことは真の「指導者」の発達にとっても価値のあることである。指導
的な立場にある生徒もまた、3度その地位を得なければならないし、道徳的
及びその他の特性(これらによって自らの指導者としての資格を得、毎回
くりかえし地位を得ることのできるような)として一体何が自分にはある
・82
のか、ということを示さねばならないからである。復活祭にみせかけの指
導者の仮面がいかに剥がされ、そのような不愉快なうぬぼれや知ったかぶ
りの者が自らの集団の中へいかに知れ渡るか、あるいはまた集団でのこの
ような教育がいかに有益であるか、等々の様子が毎年毎年感知されるので
ある。
五、毎年入れ替わる人数は、全体の2分の1よりも、全体の3分の1の方が良
い。なぜならば、2分の1であると、入れ替わった新しい者が容易により強
い部分となりえてしまうし、またつりあいが破れ、誤った方向へ移ってし
まうかもしれないからである。それに対して、入れ替わるのが全体の3分
の1であると、従来の良いr習慣」とその陶冶的・教育的価値が生き続け
ることを残った3分の2が確実に保証するからである。
六、新しい教育学校(Enziehu㎎ss.hule)においては、まさに次のようなこと
がかなり頻繁に確認された。すなわち、年齢別編成の児童たちは、相互に
ないしは教師とあまりに強く密着しすぎてしまうきらいがある、とりわけ
教育的理由から好んで求められるもの、例えば学級とか「自分の」学級と
かを完成させるような場合はそうである。それに対して、集団においては、
毎年全体の3分の1が移ってゆき、新しい3分の!とともに新たな刺激が
もたらされ教師と集団にとって新たな諸課題と諸責務もたらされるのであ
る。このような変化があるたびごとに、次第にはっきりと見えてくるよう
な諸力の移動や緊張、最良の意味における「新しい血」がもたらされるの
である。
これらのことから考えられるのは、ぺ』ターゼンが年齢別学年学級を廃止し、
基幹集団(学級)を構成する子どもの年齢に3年の幅を持たせたのは、学校共
同体(ゲマインシャフト)の創設と、そこから得られる子ども遠の学習への期
待、という理由(観点)からではないか。このことは、第2章で述べたように
ぺ一夕ーゼンのイエナ・プランの中心課題である、個性を人格にまで完成し得
る教育共同体・態(ゲマインシャフト)はいかに形づくられなければならない
か、ということからも伺うことができる。ただ、ぺ一夕ーゼンは、通常より発
達の早い才能児について言及している点や、基幹集団において移行措置(通常
83
より早い進級)を敷いていることからも、発達の早い子どもへの認識はあった
と考えられる(註11)。しかし、無学年制が明らかにしたような発達の遅い子ど
もをも含んだ子どもの発達に関する記述は見当たらないし、基幹集団(学級)
編成の1つの根拠となったと考える「集団の10の利点」のなかには、子どもの
発達に関する記述はない。
では、無学年制が年齢別学級の廃止を提唱する上での理論的根拠は、どうで
あったのか。それは、<同一年齢における子どもの発達の差(開き)>ではな
いだろうか。なぜなら、無学年制が主張した年齢別学年学級の廃止、個人カリ
キュラムの創設、成績評価の方法、といった事柄は、すべて子ども達一人ひと
りの発達の相違に基づくものだからである。またクラッドラッドは、無学年制
の基本概念として、「個人差に対応する為に学習者に期待される学業の幅を上下
にいっそう広げること、生徒の個性に適応した教育内容と教材を使用すること、
個人差と個性へ教育的配慮をすること、学年制学校における進級・落第による
調整をやめること」(註12)と述べている。このことからも、年齢別学年学級の
廃止をも含めた無学年制それ自体の根拠となったものが、あらゆる側面での子
ども一人ひとりの発達の差(開き)や違い(個性)であることが例える。
これらのことをまとめると、ぺ一夕ーゼンのイエナ・プランが年齢別学年学
級を廃止し、基幹集団(学級)を構成する子どもの年齢に3年の幅を持たせた
理論的根拠には、無学年制のそれとなった<同一年齢における子どもの発達の
差(開き)>という観点が見当たらない。つまりぺ』ターゼンのイエナ・プラ
ンでは基幹集団(学級)を組織する際、無学年制が示したような<同一年齢に
おける子どもの発達の差(開き)>という観点を十分に検討・反映していなか
ったのではないか。
ここから言えることは、ぺ一夕ーゼンのイエナ・プランはオランダヘと受容
される際、無学年制から<同一年齢における子どもの発達の差(開き)>とい
う新たな観点による影響を受けたのではないか。言い換えれば、オランダのイ
エナ・プランは、無学年制の<同一年齢における子どもの発達の差(開き)>
という新たな観点を取り入れたのではないか。しかし、ぺ一夕ーゼンのイエナ・
プランの基幹集団(学級)編成において見られなかった観点が無学年制には見
られたからといって、その観点が影響を及ぼしたとは言い切れない。ここで横
84
試すべきことは、その観点が影響を与える前の状態(ぺ一夕ーゼンのイエナ・
プラン)と、与えられたであろう後の状態(オランダのイエナ・プラン)を見
比べて、そこにその観点による影響が見られるかどうか、ということである。
3無学年制からの影響とそれによる変容に関する検討
無学年制がべ一夕ーゼンのイエナ・プランに<同一年齢における子どもの発
達の差(開き)>という新たな観点をもたらしたと仮定すると、その影響はオ
ランダのイエナ・プランの、どの部分に見られるであろうか。
上に述べたことを繰り返すが、べ一夕ーゼンのイエナ・プランでは、基幹集
団(学級)を無条件で3年齢ずっとしていたのに対し、オランダのイエナ・プ
ランでは、べ一夕ーゼンのイエナ・プランを継承し、基幹集団(学級)編成を
基本的に3年齢ずっとしている点は例えるが、実際にどうするかは学校の当事
者に委ねられている。つまり、影響後のオランダのイエナ・プランは年齢別学
年学級へと回帰することはなかったが、無条件で基幹集団(学級)編成を3年
齢ずっとすることはなくなった。この部分に<同一年齢における子どもの発達
の差(開き)>という新たな観点の影響があると考えられる。なぜなら、無学
年制が明らかにした<同一年齢における子どもの発達の差(開き)>という新
たな観点は、年齢別学年学級の廃止という点では理論的根拠となりうるが、べ
一夕ーゼンのイエナ・プランにおいて子どもの学習の段階を3年間ごととする
こと、つまり基幹集団(学級)を構成する子どもに3年の幅を持たせる、とい
う点では理論的根拠にはならないと考えるからである。
無学年制が明らかにした<同一年齢における子どもの発達の差(開き)>の
内容は、上に示したように、第1学年の子どもの間には学習の準備度(精神年
齢)と成績に関し約4年の差がある、中学年になるとその差は5年・6年とさら
に大きくなりうる、などといったものである。ここから、発達がそれぞれ違う
子どもに学年ごとの到達すべき基準を設けるのは非合理的であるとして、年齢
別学年学級を廃止するということは理解できる。しかし、入学した時点で4年、
中学年になるとそれ以上の種々の発達の差(開き)をみせる子どもに対し、無
条件で子どもの学習の段階を3年間ごととすること、つまり基幹集団(学級)
85
を構成する子どもに3年の幅を持たせるということは、非合理的であり理解で
きない。つまり<同一年齢における子どもの発達の差(開き)>という観点を
十分に反映するならば、子どもの学習の1段階を4年、5年、6年・・と設定す
ることも可能にするべきであろう。従って、べ一夕ーゼンのイエナ・プランが
示した基幹集団(学級)は、無学年制が明らかにした<同一年齢における子ど
もの発達の差(開き)>を十分に反映したものとは言えない。
これらのことを踏まえて、第3章の第1節で示したrイエナ・プラン20の原
則」を改めて見てみると、集団の構成に関しては、「16、集団の構成に関し、学
校では、子どもが互いに学び合い助け合うという目的のもと、年齢や発達のレ
ベルに違いのある子ども達のグループが慎重に考えられたうえで造られる」と
述べている。さらに、同じく第3章の第1節で示したオランダのイエナ・プラ
ンHPを改めて見てみると、べ一夕]ゼンのイエナ・プラン(その利点)を継承
し、基幹集団(学級)を構成する子どもに3年の幅を持たせているものの、「い
くつかのイエナ・プラン学校は学級においては、構成する子どもの年齢の幅を
変更し、上に示したものとは違う新たな学級形態を模索している。」と記されて
いる。
これまで述べてきたことを踏まえると、オランダのイエナ・プランは、〈同
一年齢における子どもの発達の差(開き)>という新たな観点の影響により、
べ一夕」ゼンのイエナ・プランでは見られなかった、基幹集団(学級)を構成
する子どもの年齢幅の変更を可能にしている、といえる。
従ってオランダのイエナ・プランは、無学年制がもたらした<同一年齢にお
ける子どもの発達の差(開き)>という新たな観点により、べ一夕ーゼンのイ
エナ・プランが示した、基幹集団(学級)を構成する子どもに3年の幅を持た
せることによる利点に注目はしつつも、各学級構成を無条件で3年齢ずっとす
るのではなく、その学校や子どもの実態を十分に吟味したうえでっくられるべ
きものへと、変容していったと言えるのではないか。このことは、ぺ一夕ーゼ
ンのイエナ・プランが、子どもの発達の違いを認めつつも共同体(ゲマインシ
ャフト)の創設を重視していたのに比べ、オランダのイエナ・プランは子ども
の発達の違いをより重視したものであると、考えられるのではないか。
第3節では、イギリスの幼児学校がオランダのイエナ・プランヘもたらした
86
影響とその変容について考察する。
87
註
(1)・柴沼晋 「『無学年制』の動向と展望」
現代教育科学 第11号 五968年 P.74
・クラッドラッド、アンダーソン(柴沼晋、柴沼晶子:訳)
『学校革命一無学年制による改造一』 明治図書 1986年 P.1∼2
(2)柴沼晋 「『無学年制』の動向と展望」
現代教育科学 第11号 1968年 P.75
(3)・同上P,76
・クラッドラッド、アンダーソン(柴沼晋、柴沼晶子:訳)
『学校革命一無学年制による改造一』 明治図書 1986年 P.30
(4)・柴沼晋 「『無学年制』の動向と展望」
現代教育科学 第11号 1968年 P.76
・クラッドラッド、アンダーソン(柴沼晋、柴沼晶子:訳)
『学校革命一無学年制による改造一』 明治図書 1986年 P,25∼52
(5) 周知の通り、ソシオメトリーとはアメリカの心理学者モレノ
(J.L.Moreno)が創始したもので、集団の中の人間関係を数量的に測定
することである。それにより集団内の人間関係をグラフで表したものが
ソシオグラムであり、ある個人を集団の成員がどのように受け入れてい
るかが示されている。著書では、ソシオメトリーという用語を使用して
はいなかったが、その調査方法はソシメトリーと同様のものであったの
でこの用語を使用した。
(6)・クラッドラッド、アンダーソン(柴沼晋、柴沼晶子:訳)
『学校革命一無学年制による改造一』 明治図書 1986年 P,60
(7)・柴沼晋 「『無学年制』の動向と展望」
現代教育科学 第11号 1968年 P.76
・クラッドラッド、アンダーソン(柴沼晋、柴沼晶子:訳)
『学校革命一無学年制による改造一』 明治図書 1986年 P.69∼77
(8)同上 P.39∼43,P.93∼95
88
(9)・柴沼晋
「『無学年制』の動向と展望」
現代教育科学 第11号 五968年 P.77
・クラッドラッド、アンダーソン(柴沼晋、柴沼晶子:訳)
『学校革命一無学年制による改造一』 明治図書 1986年
P.51, P.84, P.!55∼162
(10)ぺ一夕ーゼン(三枝孝弘) 『学校と授業の変革一小イエナ・プラン
一』 明治図書 1984年 P,137∼139
(11)同上 P.107
(12)クラッドラッド、アンダーソン(柴沼晋、柴沼晶子:訳)
『学校革命一無学年制による改造一』 明治図書 1986年 P6
89
第3節 幼児学校(英)からの影響とそれによる変容
1 イギリスの幼児学校
まずは本節で扱う幼児学校(Infant S・h・・ユ)のある、イギリスの学校教育体
系の概要を説明する。イギリスでは、1944年に成立した教育法(Butler Act)
によって、5∼14歳の子どもを対象にした基礎学校(e!㎝㎝tary schoo1)に代
わり、5∼11歳の子どもを対象にした初等学校(Primary schoo1)と工1∼14歳
の子どもが通う中等学校(Sec㎝dary Schoo1)が登場することとなった。それ
までの学校教育体系では11歳を転機にして、高等教育へ進学する子どもはパブ
リック・スクール(Public Schoo1)やグラマー・スクール(Gra㎜ar schoo1)へ、
進学しない子どもは基礎学校にそのまま在学していた。また同教育法によって
イギリスの学校教育体系であった、それまでの複線型学校システムは制度面に
関する限り終焉をむかえたと言える(註1)。
そして上に述べた、イギリスにおける初等学校(義務教育段階)の一部とし
て位置付けられているのが、本節で扱う幼児学校である。同校はイギリスにお
ける幼児教育機関であり、産業革命後に1コパート・オウエン(Robert Owen)が
ニュ』・ラナーク(N.w Lan.rk)に設けた幼児教育施設に端を発し、サミュエ
ル・ウィルダースピン(Samuel Wilderspin)らによって発展してきた。同校は
5∼7歳の子どもを対象としており、2∼4歳の子どもを対象とした就学前教育施
設としての保育学校(Nursery S.ho.1)の上に、初等学校の一部として位置付
けられている。初等学校(5∼11歳)は通常、幼児学校が2年と下級学校が4年の
合計6年である。ただ近年ではこの初等学校を、ユ967年のプラウデン報告
(P1owden Report)(註2)の趣旨に則して、幼児学校の年限を延長した3年また
は4年制のファーストスクール(First Schoo1)と、その後の中等学校への移行
課程としての3年または4年制のミドルスクール(Middle Schoo1)としたものを
導入している(註3)。
以下には、イギリスにおける幼児学校の歴史的背景について述べる。イギリ
スは/760年∼1830年代にかけて、世界に先駆けて産業革命を経験することとな
る。産業革命は大人のみならず、幼い子どもまでも安価な労働力として工場に
90
駆り立て、彼らを奴隷的な条件で就労させるという悲惨な現象を招いた。産業
革命期のイギリスには、いくつかの教育機関が存在したが、その数は非常に少
なく、教育内容は粗末であった。さらに長時間に渡る労働が影響し、ほとんど
の子どもが学校を利用することができないというのが現状であった。また、イ
ギリスでは幼児の教育は家庭でするという伝統的な考え方が存在し、それらの
学校では7歳以上の子どもを対象としていた(註4)。つまり幼児学校が対象とし
ている5∼7歳の子ども達は、当時イギリスでは教育の対象外であった。
イギリスにおいて、幼児学校運動の幕開けを告げたのはオウエンであった。
彼は1816年に、自らが統治するスコットランドのニュー・ラナークの工場に1性
格形成学院(The Insti加tion for the Formation of Character)を開設した。
そこでは、「害あるいは悪の大部分が、人生の非常に早い時期に子どもに学ばれ
るか身に付けられる。気性あるいは気質の大部分が、よくもわるくも、かれが
二歳になる以前に形成される」(註5)という思想を背景に、はじめから幼児教育
が不可欠な一部門とされた。オウエンは、幼児期が教育上絶対に無視できない
重要な時期であるとして、「やっと歩ける位の時期から六歳まで」(註6)の子ど
もを対象とする幼児のための学校の必要性を提唱した(誌7)。
イギリスで最初の本格的幼児学校であったオウエンの性格形成学院の概要に
ついては以下にまとめた(註8)。
∼ハード面∼
・1歳∼3歳までの第1組と、3歳∼6歳までの第2組。人員はともに30名∼50
名
・教室に動物の絵や地図、庭や畑や森からの自然物を備えさせる
・男女を問わず、2歳以上にはダンスを、4歳以上の子どもには音楽を教練とし
て課す
∼ソフト面∼
・教師はどんな理由があろうと子どもに手をあげたり、脅したりしてはいけな
い。罰は不必要である
・年長の4∼6歳までの子どもは、年少の子どもの世話をし、力を合わせて互い
91
が幸福になるように教えなければならない
・子どもたちが書物で苦しめられてはならない。身のまわりにあるモノの使い方
や本性・性質を、子ども遠の好奇心が刺激されそれらについて質問するように
なったときに、教師はうちとけた言葉で教える
・天候と体力の許す限り野外の空気の良いところで遊び、そこでの遊戯に飽き
たら教室に連れてこなくてはならない。教師は有益なものを、子どもの分か
る範囲で示し説明して楽しませなくてはならない
その後オウエンは、既成宗教の否定を公言していたなどの理由から、支援者
からの指示を失い、1824年に性格形成学院は閉鎖された。しかし同年、ロンド
ン幼児学校協会が結成され、数十校の幼児学校が誕生することとなった。そし
て同協会により幼児学校普及の委託を受け、イギリス全土に!0年間で150枝も
の幼児学校を開校させたのが、上に述べたスピタルフィールズ(Spitaユfie/ds)
の幼児学校校長であった、ウィルダースピンである。ウィルダースピンは、教
育実践の際に幼児に対して楽しく秩序正しく教育をするために教具を考案した
り、施設を整えたりした。しかし、彼は子どもに規律を重んじたことやその教
具を使用しながらも暗記中心の学習であったことから、注入主義の知識偏重と
批判的に評価されている(註9)。
その後ウィルダ』スピンは同協会から離脱するが、彼が普及させた幼児学校
は、児童中心主義のペスタロッチ(∫.H.Pestalozzi)やフレーベル
(F.W.A.Frobe1)などから多大な影響を受けた。そして、1870年の「イングラ
ンドとウエールズとに公立小学校教育を供給するための小学校法(Eユ㎝θntary
Ed㏄ati㎝Act of1870)」(註10)によって、幼児学校(5∼7歳)が公立小学校
教育制度において不可欠なものとなった(註1エ)。
以下に示すイギリスの幼児学校については、主に文部省大臣官房調査(1969)
がまとめた、プラウデン報告書(1967年)をもとに説明した(註12)。なぜなら、
同報告書にはイギリスの幼児学校の<独自性>が強調されていると思われるか
らである。
まずは、幼児学校への入学年齢についてである。イギリスの初等学校、つま
り幼児学校への入学年齢は満5歳である。「義務教育の始期を満5歳とする制度
92
は、1870年に発布された『小学校法』(E1㎝entary School Act)によって偶然
に定められたものである。しかし満5歳を義務教育の始期と定めている国は、
世界でもイギリスとイスラエル等の小国の国にすぎない。」(註13)
これらを踏まえて、P.128に示した「資料3」(詩14)を見ていただきたい。こ
の資料は、文部科学省(1975)が1974年当時の主要国(6カ国)の学校系統図を
示したものである。ここからは、主要国(6カ国)の義務教育の始期は、日本・
アメリカ合衆国・フランス・西ドイツの4カ国が満6歳、ソ連が満7歳である
のに対し、イギリスは満5歳と最も早いことが例える。
では義務教育の始期は満何歳程度が子どもにとって適切なのであろうか。そ
れについてプラウデン報告書では、子どもによって発達の速度が異なることか
らも、「5歳から7歳までの年齢の中のどれか1つをすべての児童に適した入学
年齢として画一的に定めることは不可能であろう。」(註15)としている。しかし
イギリスに関しては、r1870年から満5歳をもって初等学校への入学年齢として
いることから、この年齢の児童の諸要求にかなった教育の組織と方法が開発さ
れている。つまり初等学校の第1段階である幼児学校では、遊戯(p1・y)と創
作活動(。reative w.rk)が教育の中心にされている。これは6歳または7歳を
入学年齢としている他の国ではみられないことである」(註16)と報告している。
次に幼児学校の修業年限についてである。幼児学校では2年間の修業となる
が、同報告書によれば、同学校での修業期間が2年間であるのは短すぎるとし
て、3年間の就業期間を提唱している(註17)。その理由は以下の2点である。
またこれらは、上に述べたファ』ストスクールやミドルスクールを導入したこ
との根拠にもなっていると言える。
1点目は、幼児学校の特徴からその理由を述べている。「幼児学校の特徴は、
教員と児童との間の親密な関係にある。幼児学校は児童に遊戯(play)やお話
(ta!k)の機会を豊富に提供し、個々の児童に最もよく適った方法で学習を進
めていく。そして幼児学校の教員は児童とその両親について十分な情報を握む
に当たって恵まれた条件の下にいる。というのは、通常この段階の子どもたち
は無邪気で誠実であり、また彼らの両親は子どもたちの教育に対して最も熱心
であるためである。」(註18)しかし、こうした幼児学校の特徴を十分に発揮させ
るには、時間が必要である。2年間では、共同生活に自信をっけさせることはで
93
きないし、下級学校への入学の為に形成されつつあった人間関係も壊されてし
まう、としている(註19)。
2点目は読みという能力において、下級学校に入学した者の多くが幼児学校の
段階でその能力を十分に身につけていないということから、その理由を説明し
ている(註20)。
また幼児学校の修業年限を4年以上にしなかった理由としては、下級学校や
中等学校へ進学した際に子どもの年齢が適さないことや、幼児学校に在籍する
児童が10歳になる者もでてくることで幼児学校の良き特徴を維持することが困
難になるから、と説明している(註21)。
以上、イギリスの幼児学校に関する内容について述べた。
2 幼児学校の影響とそれによる変容に関する検討
ここでは、イギリスの幼児学校は、ぺ一夕ーゼンの提唱したイエナ・プラン
がオランダヘと受容される際に、どのような影響を与えたのか、またその影響
は、オランダのイエナ・プランのどのような点に見られるのか(変容の内容)
について考察する。
それに関しては、プラウデン報告書がイギリスの幼児学校の特徴として、そ
の就学義務が5歳からであり、このような早期からの就学は世界的にも珍しい
ことであると述べていることからも、ぺ一夕ーゼンの提唱したイエナ・プラン
に対し就学義務年齢に関する影響があったと考える。
以下、それについて考察する。
まずぺ一夕ーゼンの提唱したイエナ・プランにおける就学義務年齢について
である。これまでも繰り返し述べてきたように、ぺ一夕ーゼンの提唱したイエ
ナ・プランでは基幹集団(学級)編成に関して、下級集団は第1∼3学年、中級
集団は第4∼6学年、上級集団は第6∼8学年、青年集団は第8∼10学年の子ど
もから構成することが望ましいとされている。それを構成する子どもの年齢に
関してぺ一夕ーゼンは、r・・とりわけ年齢が9∼11,12歳の者、すなわちわれ
われの中級集団にある者にとって、・・」(註22)という言葉を記している。中級
集団は上に示した通り第4∼6学年で構成されるが、第2章の第3節でも示した
94
ように、子どもの<人間的な成熟(人間的な態度)>によっては、第3学年の
子どもを中級集団へ移行することを可能にしている。つまり、中級集団は第3
∼6学年で構成されうる集団であるということである。それにぺ一夕ーゼンの記
した子どもの年齢を当てはめると、第3学年は9歳・第4学年は10歳・第5学
年はn歳・第6学年は12歳であることがわかる。従って、ぺ一夕ーゼンの提
唱したイエナ・プランにおける就学義務年齢は、下級集団の第1学年であるこ
とから、その年齢は7歳であることが読み取れる。
ただぺ一夕ーゼンは、学校が家族学校となるためには幼児教育は不可欠なも
のであると考え、イエナ大学実験校の横にフレーベル幼稚園を設置したことで
知られている。(第2章の第1節参照)しかし、そこでの実践の詳細な様子は資
料がないため知ることはできない。
それに対して初等学校の一部である、イギリスの幼児学校の就学義務年齢は、
上に示したように5歳であり、このような早期からの就学は世界的にも珍しい
ことであるとされている。その点でぺ一夕ーゼンが必要不可欠と考えた幼児教
育の部分は、イギリスでは幼児学校として義務教育に位置付けられている。
また、19世紀後半から20世紀前半にかけてのイギリスの幼児学校は、ペスタ
ロッチやフレーベルから大きな影響を受けていることから、その実践の様子は、
ぺ一夕ーゼンが設置したフレーベル幼稚園とオランダのイエナ・プランにおけ
る幼児教育(幼稚園)(第3章の第1節)に、共通する点は多いと推測できる。
つまり基本的実践(理念)については3者とも共通するものが多いため、イギ
リスの幼児学校に新たな影響を与えたとは考えづらい。ただ、現在イギリスで
は1989年以降の全国共通カリキュラム(TheNational Curriculu⑱)導入以来、
イギリスの幼児学校に対しても英語・数学・科学・歴史・地理など11教科の学
習を課し、イギリスの幼児学校終了の年には英語・数学の2教科についてぺ一
パーテストによる全国カリキュラムテスト(Nati㎝al Curriculu㎜Test)を実
施している(註23)。しかしこの内容は、オランダのイエナ・プラン協会が説明
した、遊びを中心とし、文書作業は重要視されないという幼児教育(幼稚園)、
第3章の第1節)とは異なるものであることから影響を与えたとは考えられな
い。
では、イギリスの幼児学校の就学義務年齢(5歳)に関する影響は、オランダ
95
のイエナ・プランに見られるのであろうか。
まずオランダの学校制度についてである。これについては、第1章の第2節
に示したように、<オランダでは、5歳∼16歳までの12年間が義務教育期間で
あり、そのうち最初の8年間を初等教育学校、残りの4年間を中等教育学校に
通うこととなる。初等教育学校には就学義務のない4歳児もその99%が通って
いるため、実質9年間過ごすことになる。>とある。つまりオランダでの就学
義務年齢は5歳であるが、4歳からでも入学を可能にしているということである。
こうしたことを踏まえて、オランダのイエナ・プランにおける就学義務年齢
を見てみる。第3章の第1節に示したオランダのイエナ・プラン協会HPによれ
ば、<4∼6歳の子どもの為の幼稚園>とある。オランダの学校教育では数々の
自由を認めているが、それは主に学校設立・宗教や理念・教育方法にっいてで
あり、就学年齢はどの学校も一律である。従って、オランダのイエナ・プラン
においても、4歳からの就学を可能にしているが、就学義務年齢は5歳である。
しかしこれでは、ぺ一夕ーゼンの提唱したイエナ・プランがオランダヘ受容
される際に就学義務年齢の影響を与えたのは、オランダの学校教育制度、また
それを規定する1970年の新初等教育法ではないか、ということになる。
そこでリヒテルズ(2006)の著書に記されたものを見てみると、ブロイデシ
タールらが立ち上げたイエナ・プラン教育財団(SJP)の議長を務めていたクリ
ス・ヤンセンは、新初等教育法の草稿に準備委員会に参加していたと、記され
ている。さらにそこで、「SJPはとりわけ幼児教育と初等教育の接続・統合を熱
心に主張しました。」(註24)と記されており、オランダでは広く一般に新初等教
育法にはイエナ・プランの影響があるといわれている、とも記している(註25)。
つまり、ここからいえることは、少なくともオランダのイエナ・プランが幼児
教育を義務教育段階に取り入れたのは、オランダの学校教育制度(新初等教育
法)により実現したしたものであっても、そこから影響を受けたものではない、
ということである。
以上のことをまとめる。まず、ぺ一夕ーゼンは幼児教育が必要不可欠なもの
であると考えられながらも、ぺ一夕ーゼンの提唱したイエナ・プランのなかに
それを反映することはできなかった。これには当時のドイツの学校教育制度に
よる義務教育年齢が関係しているとも考えられる。次に、イギリスは世界でも
96
珍しく幼児教育を<幼児学校>として反映し、それを義務教育段階に位置付け
ていた。そしてオランダのイエナ・プランでは、ぺ一夕ーゼンの提唱したイエ
ナ・プランには見られなかった幼児教育に関係する5,6歳の子ども、あるいは
4歳の子どもをも対象としたものになっている。またそれは、ぺ一夕]ゼンの提
唱し本イエナ・プランを学び、それをオランダに普及させた者がオランダの学
校教育制度へ働きかけ実現したものである。
つまりオランダのイエナ・プラン協会が、オランダのイエナ・プランにはイ
ギリスの幼児学校の影響があります、と記した意味は、幼児教育を義務教育段
階に位置付けたこと、と考えられる。
従ってオランダのイエナ・プランは、イギリスの幼児学校を手本に幼稚園を
義務教育段階に位置付けるという試みを取り入れた。またそれは、かねてから
幼児教育の必要性を提唱していたぺ一夕ーゼンの主張と一致していた。よって、
オランダのイエナ・プランは幼児教育に関係する5,6歳の子ども、あるいは4
歳の子どもをも対象としたものへと変容していったのではないか。
第4節では、フランスのフレネ教育がオランダのイエナ・プランヘもたら
した影響とその変容について考察する。
97
註
(1)二宮衆一 rイギリスの教育優先地域プログラムに関する研究一リバプ
ール・プロジェクトにおける『コミュニティー思考のカリ
キュラム』の考察一」
愛媛大学教育学部紀要 第52巻 第1号 2005年 P.32
*イギリスの義務教育年限は1973年からn年(5∼15歳)に延長された
*イギリスの学校系統図については、「資料1」を参照
(2)プラウデン報告書の正式名称は「子ども達と初等学校(Childrenandtheir
Primary Sch・o1)」である。同報告書は、イギリスの教育科学大臣の諮問
機関である「イングランド中央教育審議会」が答申したものであり、当
時の会長がプラウデンであったことからプラウデン報告書と呼ばれる。
・二宮衆一
「イギリスの教育優先地域プログラムに関する研究一リバ
プール・プ1コジェクトにおける『コミュニティー思考のカ
リキュラム』の考察一」
愛媛大学教育学部紀要 第52巻 第1号 2005年 P.33
(3)・ヒータ]・カニンガム(山崎陽子、木村祐三:訳)
『イギリスの初等学校カリキュラム改革一1945年以降の進歩主義的理想
の普及一』 つなん出版 2006年 P.390
・山崎英則、片山宗二
『教育用語辞典一教育新時代の新しいスタングードー』
ミネルウ“ア書房2003年P.520
・http://www.mext.9o.jp/b_menu/hakusho/htm!/hpad197501/ hpad197501
_2_042.htm1 文部科学省 「我が国の教育水準」 1975年
(4)因口仁久 『イギリス幼児教育吏』
明治図書 1976年 P.7∼10
(5)同上P.13 より重引
(6)同上P.13 より重引
(7)同上 P.11∼13
(8)同上P.14∼16
(9)・同上 P.20∼21
98
・塚本佳代
「サミュエル・ウィルダースピンの幼児教育一その幼児学校
における実践に注目して一」
日本教育学会大曾研究発表要項 第61号 2002年 P.150∼151
(10)田口仁久 『イギリス幼児教育史』
明治図書1976年P.63
(11)同上 P.39,61,63
(12)文部省大臣官房調査課 『イギリスの初等教育計画一プラウデン報告
の概要一』 1969年
(13)同上P.39
(14)http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/htm1/hpad197501/hpad197501
_2_042.htm1 文部科学省 「我が国の教育水準」 1975年
(15)文部省大臣官房調査課 『イギリスの初等教育計画一プラウデン報告
の概要一』
1969年 P.39
(16)同上P.40
(17)同上 P.42
(18)同上 P.42
(19)同上P.42
(20)同上P.42
(21)同上 P.43
(22)ぺ一夕ーゼン(三枝孝弘:訳) 『学校と授業の変革一小イエナ・プ
ランー』 明治図書 1984年P.121
(23)山根徹夫 『諸外国の教育課程(2)一教育課程の基準及び各教科の
目標・内容構成等一』
国立教育政策研究所 2007年 P.67∼69
(24)リヒテルズ直子 『オランダの個別教育はなぜ成功したのか一イエナ
プラン教育に学ぶ一』 平凡杜 2006年 P.171
(25)同上 P.170∼174
99
第4節 フレネ教育(仏)からの影響とそれに関する考察
1 フランスのフレネ
フレネ(Cele.tin,Fr.inet)はフランスの教育家であり、当時のフランス公
教育に一般的に見られた権威主義などを批判し、<生活と技術>と自らが呼ぶ
新しい実践的教育論を生み出した(註1)。彼の教育は、「子供は自分が役立ち、
自分に役立ってくれる理性的共同体(学校)の内部で自己の人格を最大限に発
揮させる」(註2)という考えを基礎に、組み立て式の人間ではなく生きたダイナ
ミックな人間を育てていく、ということを目指したものである(註3)。
フレネは、1896年に南フランスのアルプマリティム(Alpes,Maritimes)に
ある村で生まれた。そこは地中海に面する二一ス(NiCe)の町から北の山岳地
に入り込んだ、農業と牧畜を営む小さな村であった。フレネの家族も農業と羊
飼いを営む農家であった。家業でもある羊飼いをしていたフレネは、やがて村
の小さな学校に通うこととなる。後に彼はその学校を、「・・新しい世界、私た
ちが生きてきた世界と全く違った別の規律、別の義務、別の興味、いやもっと
重大なことには、そこは劇的とも言えるほど興味の存在しない世界。・・」(註4)
と表現している。こうした彼の体験は、彼が現存の教育体系を根本から間い直
し批判する際の基礎となっている(註5)。
王913年にフレネは教員を目指し二一スの師範学校に入学するが、1年後の第1
次世界大戦の勃発によって、戦場へ赴くことになる。その後1920年に彼は、戦
争の影響によって、師範学校で教育理論や実習を経験することなく、故郷に近
い村で教員としての人生をスタートさせることになる。ここで彼が出会ったの
は、子どもの世界とかけ離れた教科書とその説明に終始する教師、そして、そ
の反復練習のためにすっかり学習意欲を無くした子ども達だった。また、彼は
戦争により喉と肺を負傷し、子ども遠の前で呼吸はしばしば困難となり、長時
間話すことができなかった。こうした状況のなかで、彼が落ち着かない子ども
遠を教えることは容易ではなかった(註6)。
しかし、ある目彼は、何の理論的根拠も持たないまま、子ども連を陰気な教
室から外へ散歩に連れ出した。そこで彼や子ども遠の興味をひいたものは地域
100
の人々の生活であった。散歩の後、教室に戻り子ども達が今見てきたことを自
由に文章で表現をし、話し合いをした。そして、それを彼が黒板にまとめて書
いた。しかし、それまであった子ども連の好奇心も活力もそこでストップして
しまった。なぜなら、子ども達は再び読み書きの学習のために、従来の教科書
を使用するしかなかったからである。そこでフレネは、周囲の散歩で発揮され
る子どもの活力をどうしたら学習の中に持ち込むことができるかを考えた結果、
教室に印刷機を備えつけ、子ども達が綴った文を印刷したものを新たな学習教
材(教科書)として使うことを考えた。これがフレネ教育の特徴的な内容の1
つである、<自由作文(テキスト)>の始まりである。これに関し彼は、「教科
書の断片的な文章に何の興味を持てず、読みも書きもできないはずの子ども達
でも、この体験を通じ、自分たちの口から出てきたテキストなら、スラスラと
自然に読むことができるし、またこれを自分のノートに書き写すこともできる。
しかも子どもたちはこのテキストに心からの喜びを感じているのだ。」(註7)と
記している。またこの<自由作文(テキスト)>を意味あるものにするために
は、学校を地域と結びつけること、言い換えれば、学校を家庭や村や地域の生
活の延長線上にあるような組織とすることが重要であるとしている。このよう
な子ども連の生活のなかから生まれる興味・関心を出発点とし、それを追究す
るという学習方法は、フレネ教育(註8)の基礎となった(註g)。
やがて彼は、生活を観察し、表現し批評し合うなかで生まれる興味の探究と
しての学習を実践するために、子どもの作品を集めた<自由作文(テキスト)
>(詩10)や協同学習カード(註11)、計算や読み書きのためのカードを開発し
た。そして、彼は1935年に子ども達と共に共同生活をする、フレネ学校を設立
する。彼はこの学校に、教室にあった教壇を取り除き、子ども達が共同で学習
や討議ができる大きな机や、個別で課題に取り組むための学習机を設置したり、
教室の周囲に小さなアトリエ(印刷室、木工室、実験室、資料室、など)を設
置したりした。さらに、彼は屋外に畑や動物飼育場なども配置した。そして彼
は、これらの学習材や学校間通信などの教育技術の裏付けを伴って、教科書に
よる一斉授業の廃止を提唱し、仕事を基礎とした個性化と協同化の2大原理に
よる実践を組織するに至ったのである。
このようなフレネの試みは、次第に公立学校に受け入れられていき、第2次
101
世界大戦後、現代学校運動として普及し、今日にも受け継がれている(註12)。
このフレネ教育を受け継いだ現代学校運動の指針となっているのが、学校運動
憲章である。その内容は、「①教育とは(子どもの人格や能力を)開花させるこ
とであり、高めることであり、知識の伝達、調教、あるいは条件づけではない。
②われわれはあらゆる教化的教育に反対する。③われわれは教育を条件づけて
いる社会的、政治的大潮流の外で教育そのものに自足しているような教育の幻
想を放棄する。④明目の学校は仕事の学校となるであろう。⑤学校は子どもに
中心をおかねばならない。⑥子どもはわれわれの援助によって自身で自分の人
格を築くのである。⑦実験的提案を基礎とすることは協同的作業によって学校
の現代化を図るわれわれの努力の第一の条件である。」(註/3)である。
これまで述べてきたような、理想的共同体内での子どもの人格の発展などに
見られるフレネの思想やその行いは、ぺ一夕ーゼンのそれと共通する点がいく
つか見られる。
2 フレネ教育の影響とそれによる変容に関する検討
ここでは、フランスのフレネ教育は、ぺ一夕ーゼンの提唱したイエナ・プラ
ンがオランダヘと受容される際に、どのような影響を与えたのか、またその影
響はオランダのイエナ・プランのどのような点に見られるのか(変容の内容)
について考察する。
リヒテルズ(2006)によれば、オランダのイエナ・プランが提唱したワール
ドオリエンテーションは、フレネによる影響を受けている。ワールドオリエン
テーションは、第3章の第1節に記したように、ぺ一夕』ゼンのイエナ・プラ
ンでは見られなかったものの1つである。
ワールドオリエンテーションとは、オランダのイエナ・プラン協会向P(P.117)
が示しているように、オランダのイエナ・プラン学校の中心的なカリキュラム
であり、理科、社会、環境、国語、数学、技術の分野を混合して構成したもの
である。このカリキュラムの目標、テーマ、教材、方法は各基幹集団(学級)
の子どもに合わせて、多様な例が考案されている。またこのカリキュラムは、7
つの経験領域(①作ることと使うこと②技術③コミュニケーション④共に生き
102
る⑤環境と地形⑥巡る1年⑦私の人生)に分けられている。この経験領域は、
子どもにとって日常の生活の中にきっかけを見つけることのできる、子ども白
身の経験につながる領域という意味である(誌14)。従ってワ』ルドオリエンテ
ーションは子ども達が実際に経験できる身の回りの事象のすべてを対象とした
ものであると言える。
リヒテルズ(2006)は、ぺ一夕ーゼンの提唱したイエナ・プランでは、文化
に関する子ども達のグループ学習、自然に関する子ども達のグループ学習とい
う考え方はあったが、上に述べたワールドオリエンテーションという概念は確
立してはいなかった、とも指摘している(註15)。ここで、ぺ一夕ーゼンが提唱
したイエナ・プランにおける活動別の項目を挙げると、基礎学習過程・文科系
集団活動・自然科系集団活動・造形学習・体育・共同体形式(行事など)など
に分けられる(註16)。ここにはリヒテルズ(2006)が指摘したような文化、自
然に大別された集団活動は見られるが、ワールドオリエンテ]ションに該当す
るような、子ども遠の生活全体(理科、社会、環境、国語、数学、技術の分野)
を混合したカリキュラムは見られない。ただ、ぺ一夕ーゼンの考え方、イエナ・
プランの教育理念には、子どもの学習や観察を尊重すること、また、子ども達
が共同で仕事をすることによって、お互いの相互作用の中から学び合ったり共
に協力して何かを作り上げたりすることが、学校教育において中心的な位置を
占めるとされてきた(註17)。
つまり、オランダのイエナ・プランが提唱したワールドオリエンテーション
は、ぺ一夕ーゼンが掲げた子ども自身の発見や観察の尊重といった理念を、彼
のイエナ・プランに比べ、カリキュラムとしてより具体化したものになってい
ると言えるのではないか。またこれは、イエナ・プランで文科系、自然科系と
分けられていたカリキュラムを包摂し、7つの経験領域として子ども遠の実際の
生活に関わる事柄すべてを対象としたより広範囲の分野に及ぶカリキュラムに
なっていると言える。ここに1つ、子ども遠の生活のなかから生まれる興味・
関心を出発点とし、それを追究するという学習を教育の中心として据えたフレ
ネの影響があるのではないか。
またリヒテルズ(2006)は自身が訪問したいくつかのオランダのイエナ・プ
ラン校の実践例のなかで「作文サークル」(註ユ8)というものを紹介している。
103
この内容は、子ども達が自分の書いた作文をお互いに声を出して読んで披露す
るなかで、子どもたち同士で感想を言つたり質問をしたりするものである(註1
g)。ぺ一夕ーゼンの提唱したイエナ・プランにおいても、事あるごとに輸(サ
ークル)になり、話し合いなどの活動をすることは奨励されているが、リヒテ
ルズが紹介したような作文サークルに関しては言及されていない。
上にも述べたようにフレネは、従来の教科書を廃止し、子ども達が自らの生
活を通して観察し、表現したく自由作文(テキスト)>を主な学習教材とし使
用した。これはフレネ教育における最も特徴的なものの1つである。つまり、
この作文サークルという活動もまた、フレネ教育の影響を受け実践されたもの
の1つと言えるのではないか。
オランダのイエナ・プラン協会が、オランダのイエナ・プランにはフレネ教
育の影響があります、と記した意味は、1つ目はワールドオリエンテーションを
創設し子ども連の実際の生活経験を学習教材としたこと、2つ目はオランダのい
くつかのイエナ・プラン校で見られる作文サークルの実践、と考えられる。
従ってオランダのイエナ・プランは、フレネ教育の影響を受け、ぺ一夕ーゼ
ンが掲げた子ども自身の発見や観察の尊重といった理念を、ワールドオリエン
テ』ションや作文サ]クルといったカリキュラムという形で具現化したものへ
と変容していったのではないか。
104
註
(1)菅沼嘉弘
「描画表現における子どもの主体性と指導の役割一フレネ教
育から学ぶもの一」
『美術科教育学会誌』 第1!号 1990年 P.146
(2)同上P.146 より重引
(3)フレネ(石川慶子、若狭蔵之助:訳)『フランスの現代学校』
明治図書 1979年P.56
(4)フレネ(宮ヶ谷徳三:訳)『仕事の教育』 明治図書 1986年 P.14
(5)同上P.12∼15
(6)同上 P.!5,19∼20
(7)同上P.22
(8)フレネ教育は、①子どもが現在もつ興味を学習への動機づけとしたこと
や②教育の内容として不自然で有害な知識偏重、道徳の押し付けを離れ
<生活の技術>を目指したことなどは、近代文化のあらゆる領域に大き
な影響を及ぼしたルソー(Jean,Jacques,Rousseau)に共通するものであ
る。(宮ヶ谷徳三 「ルソーとフレネー教育・科学・教師一」 『近代』
第60号P.123∼124)
(9)・同上 P.20∼22
・菅沼嘉弘 r描画表現における子どもの主体性と指導の役割一フレネ教
育から学ぶもの一」
『美術科教育学会誌』 第11号 1990年 P.146
・若狭蔵之助 『「フレネ教育」子どものしごと』
青木書店 1988年 P.22∼23
・フレネ(石川慶子、若狭蔵之助:訳)『フランスの現代学校』
明治図書 1979年P.54,70
・http://www011.upp.so−net.ne.jp/freinet/
フレネ教育研究会一フレネ教育法とは一 2009年12月現在
105
(10)フレネ学校の実践においては、同一のテーマで学習する場合であって
も他の教室の学習形態とは異なる場面があることが重視され、子ども
遠の学習の成果として他の教室あるいは学校間で<自由作文(テキス
ト>を交換、比較検討することもまた学習の一環として組み込まれた。
(山崎英則、片山宗二 『教育用語辞典一新教育時代の新しいスタン
ダ』ドー』 ミネルウ“ア書房 2003年 P.467)
(11)カ』ドを使用した実践の1例を述べる。子ども達は学んだことをカー
ドに書き表し領域ごとに分類されたケースに置いておく。これは自ら
学んだ知識をカードとして他の子ども達に発信する道具でもある。こ
のカードを他の子どもが利用した場合は、そこにサインをする。する
と、子ども達は自分のカ]ドを誰が利用してくれたのかが分かる。こ
うしたことが、お互いに顔の見える相手同士で情報を発信しそれを受
信じていく人間関係のネットワークを仲立ちとした知識の交流、言い
換えれば、研究や学びがそのまま人間関係のネットワークづくりにな
っている。(佐伯畔、中西新太郎、若狭蔵之助 『フレネの教室1学
びの共同体』 青木書店 1996年 P.100∼102)
(12)・菅沼嘉弘 「描画表現における子どもの主体性と指導の役割一フレネ
教育から学ぶもの一」
『美術科教育学会誌』 第11号 1990年 P.146∼147
・フレネ(宮ヶ谷徳三:訳)『仕事の教育』
明治図書 1986年P.69∼71
・http://wwwO11.upp.so−net.ne.jp/freinet/
フレネ教育研究会一フレネ教育法とは一 2009年12月現在
(/3)http://www01ユ.upp.so−net.ne.jp/freinet/
フレネ教育研究会一現代学校運動憲章一 2009年12月現在
(ユ4)リヒテルズ直子 『オランダの個別教育はなぜ成功したのか一イエナ
プラン教育に学ぶ一』
平凡杜 2006年 P.113∼114,120∼122
(16)ぺ」ターゼン(三枝孝弘:訳) 『学校と授業の変革一小イエナ・プ
ランー』 明治図書 1984年P,160
106
(17)リヒテルズ直子
『オランダの個別教育はなぜ成功したのか一イエナ
プラン教育に学ぶ一』
平凡杜 2006年 P.1王3
(18)同上 P.106
(19)同上 P1106
107
終章オランダのイエナ・プランの独自性と今後の課題
終章を執筆するにあたり、これまで述べてきたことをまとめてみたい。
第1章では、イエナ・プランがオランダで発展する上で土壌となった、オラ
ンダの学校教育についてまとめた。オランダでは、1917年の憲法23条成立によ
って、<学校設立の自由>、<教育理念の自由>、<教育方法の自由>、とい
う3つの自由が認められた。これにより、宗教倫理や教育理念を間わず、誰も
が公立学校と同様に補助を受け私立学校を設立することができ、それに則って
自由に教育を実践することができるようになった(第1節)。
オランダの学校教育では競争を排除し、徹底した個別教育を行っている。そ
のため、受験競争もなく卒業資格さえ得られれば、本人の意思で進路(コース)
を選択することができる。また子ども達が進路変更を容易にできるよう、中等
学校の最初の2年間は、複数のコースを併設した学校が多く見られる(第2節)。
オランダには校区が存在しないため、保護者や子どもは近所にいくつもある
学校の申からそれを自由に選択できる。また保護者と子どもには自身が通う学
校の経営に対する発言権があり、教育目標や校則の変更など多くの事柄に関し、
彼らの承認なしに行うことができない(第3節)。
オランダでは各学校に教育の自由を認めていることから、その質の維持を保
証する為、文部科学省が派遣した学校監査官による学校評価が定期的に行われ
ている。しかし、学校監査官には各学校に対して教育方法の変更を指示するな
どの権限はなく、学校評価はあくまで学校をサポートし客観的な基準に基づい
て、各学校の全体像を保護者など一般に公開するための制度である。またオラ
ンダでは、各学校に資金を出し民間のサポート機関を自由に利用できるように
している。さらに保護者や子どもに認められた、学校選択の自由や学校経営に
対する発言権もまた、間接的にではあるが学校の質を維持することに一定の貢
献をしていると考えられる(第4節)。
第2章では、ぺ一夕」ゼンと彼が提唱したイエナ・プランについてまとめた。
まず、イエナ・プランの内容に入る前に、ぺ一夕ーゼンの生涯と彼の思想の根
底にあるものについてまとめた(第1節)。
次に、イエナ・プランの中心理念である学校共同体(ゲマインシャフト)や、
108
イエナ・プランにおいて理想とされる校舎や設備、活動の場などに関する外的
組織について述べた。イエナ・プランにおいて貫かれた課題は、個々のあらゆ
る差異(個性)が肯定された共同体の中で、子どもの持つ内的欲求や権利を尊
重し、子ども達にどのような<働きかけ>をすればその共同体の為に子ども達
が、積極的役割を担える成員(個性から人格)へと成長することができるのだ
ろうか、ということである(第2節)。
イエナ・プランでは基幹集団(学級)を構成する子ども遠の年齢を3年齢ず
っとし、そこでは宗教や階層など様々な違いを持つ子ども連を混合することが
望ましいとされている。また、イエナ・プランにおける学習活動は、談話、遊
び、作業、行事、の4つの基本形式に分類することができる(第3節)。
学校共同体を目指したイエナ・プランの組織における特徴の1つは、子ども、
教員、保護者、の3者からなる学校自治である。これはつまり、既存の権力に
よる管理ではなく、子ども・教員・保護者の3者が協力し自主的に管理すると
いう、新しい学校形態の展開を意味するものである(第4節)。
イエナ・プランでは、学校を共同体とすることこそが教育の中心であり、イ
エナ・プランにおける外的組織や基幹集団などがそれを構成する要素である(第
5節)。
第3章では、ぺ』ターゼンの提唱したイエナ・プランが、オランダヘと受容
される際に影響を与えたとされている、無学年制(米)、幼児学校(英)、フレ
ネ教育(仏)の3者の内容と、その具体的な影響について考察した。その3者
の影響について考察する前に、まず、オランダのイエナ・プランが共有する原
則や、オランダのイエナ・プラン協会が示したオランダのイエナ・プランの内
容について分析した(第ユ節)。
ぺ』ターゼンの提唱したイエナ・プランは、無学年制(米)から<同一年齢
における子どもの発達の差(開き)>という観点の影響を受けた。それにより、
オランダのイエナ・プランでは無条件で基幹集団(学級)を構成する子どもを3
年齢ずっとすることをやめ、<同一年齢における子どもの発達の差(開き)>
という観点をより考慮した基幹集団(学級)編成へと変容している(第2節)。
また、ぺ』ターゼンの提唱したイエナ・プランは、イギリスで幼児教育が義
務教育段階に幼児学校(英)として位置付けられてきたことを受け、オランダ
109
のイエナ・プランでは4,5∼7歳の子どもをも対象としたものへと変容してい
る(第3節)。
さらに、ぺ』ターゼンの提唱したイエナ・プランは、フランスのフレネ教育
の影響を受け、子ども連の生活経験のすべてを出発点としたワールドオリエン
テーションの創設や、作文サークルを実施するようになった(第4節)。
以上のことを踏まえて、オランダのイエナ・プランの独自性について述べて
みたい。
ぺ一夕ーゼンの提唱したイエナ・プランに影響を与えた、無学年制(米)、幼
児学校(英)、フレネ教育(仏)の3者は、イエナ・プランの創始者であるぺ一
夕ーゼンの理念に共通するものがある。まず無学年制(米)が主張した<同一
年齢における子どもの発達の差(開き)>に対し、ぺ一夕ーゼンは才能児につ
いて言及したり、基幹集団において移行制度を設けたりしていることから、彼
は、それに対してある程度の認識はあった。また幼児学校(英)に見られる幼
児教育の義務教育段階への位置づけに対しても、ぺ一夕ーゼンは幼児教育の必
要性をかねてから主張していた。さらにフレネ教育(仏)が主張した子どもの
生活経験を出発点とした学習に対しても、ぺ一夕ーゼンは子ども白身の発見や
観察の尊重といった理念を持っていた。
このように無学年制(米)、幼児学校(英)、フレネ教育(仏)の3者が主張
した内容は、イエナ・プランの提唱者であるぺ一夕」ゼンにも類似した認識や
理念があった。しかし、彼はその認識や理念をイエナ・プランとして十分に反
映できていなかった。そのため、オランダという自由な教育の土壌の上に、ぺ
一夕ーゼンの認識や理念に沿った3者の内容を取り入れ、オランダ独白のイエ
ナ・プランが構築された。
それは、まず1つ目に、無学年制(米)が主張した<同一年齢における子ど
もの発達の差(開き)>を考慮し、オランダのイエナ・プランでは、基幹集団
(学級)を編成する子どもの構成を無条件で3年齢ずっとするのではなく、各
学校の当事者に委ねたことである。このことは、オランダのイエナ・プラン協
会が示した<イエナ・プラン20の原則>の第16項(P.67)に象徴される。こ
の点でオランダのイエナ・プランは、ぺ一夕ーゼンが主張したイエナ・プラン
110
に比べ、より柔軟なものになったと言える。
2つ目に、幼児教育を義務教育段階に反映した幼児学校(英)の影響を受け、
オランダのイエナ・プランにおいても、4,5∼6歳の子どもを対象とした幼児教
育を幼稚園として、義務教育段階に位置付けたことである。このことは、オラ
ンダのイエナ・プラン協会HPの<子どものグループ(P.115)>という内容に
見られる。
3つ目に、子ども遠の生活のなかから生まれる興味・関心を出発点とし、それ
を追究するという学習を教育の中心としたフレネ教育(仏)の影響を受け、オ
ランダのイエナ・プランでは、それをカリキュラムとして具現化したワールド・
オリエンテーションを創設したことある。また、子どもの学習活動の1つとし
て、頻繁に行われるサークル活動の申に作文サークルを導入したことも、フレ
ネ教育(仏)の<自由作文(テキスト)>による影響を受けた、オランダのイ
エナ・プランにおける独自性の1つである。
その他、4つ目として、第3章の第1節に示したように、オランダのイエナ・
プランとして共有すべき<イエナ・プラン20の原則>の中に、人種、国籍、宗
教、信条、障害、公正、平和、自然資源、文化資源、という言葉を盛り込み、
オランダのイエナ・プランに関わる者に、これらの言葉に関する事柄を一層意
識させたことである。これらのことは、オランダのイエナ・プランとして発展
した、20世紀後半の時代背景による影響があると考えられる。
この4つ目を加えるならば、ぺ」ターゼンの提唱したイエナ・プランとは違
う、オランダのイエナ・プランの独自性は、以下の4点にまとめることができ
る。
一、基幹集団(学級)を編成する子どもの構成を各学校の当事者に委ねたこと
二、4,5∼6歳の子どもを対象とした幼児教育を、幼稚園として義務教育段階に
位置付けたこと
三、ワールド・オリエンテーションや作文サークルなど新しい学習活動を創設
したこと
四、現代社会が抱える問題に対応しようとしたこと
111
しかし、上に述べたオランダのイエナ・プランの独自性は、本論を執筆する
にあたり入手できた資料の中から、状況証拠を用いて結論付けたものである。
さらに、オランダのイエナ・プラン協会HP(英文)などは用いたが、資料の多
くは日本語のものであり、実際にオランダのイエナ・プラン校へ赴き実践の様
子を見ることもできなかった。また、ぺ一夕ーゼンのイエナ・プランをオラン
ダヘと持ち込む際に解釈した人間の詳細なども、先行研究と同様、十分に明ら
かにすることが困難であった。今後はこうした課題を解決することで、オラン
ダのイエナ・プランの独自性がより鮮明に見えてくるものと思われる。また、
それにより、オランダのイエナ・プランが無学年制(米)、幼児学校(英)、フ
レネ教育(仏)の3者から影響を受けた、より詳細な内容が浮かび上がってく
るものと考える。
従って、本研究ではその多くが日本語の文献研究にとどまっているが、今後
はフィールドワークや、オランダ語、ドイツ語で紹介された文献研究も行って
いきたい。
また、本研究では、ぺ一夕ーゼンの提唱したイエナ・プランがオランダに受
容される際、どのような変容を遂げたのか、ということについては扱ったが、
反対に、そのイエナ・プランを受容することによって、オランダの学校教育が
どう変わっていったのか、ということについては見ることができなかった。今
後はこうした視点も取り入れることによって、オランダがべ一夕ーゼンの提唱
したイエナ・プランを受容したことに、どのような意義があったのか、という
ことについて見えてくるものと思われる。
さらに、オランダの学校教育やべ一夕』ゼンの提唱したイエナ・プラン、そ
してオランダのイエナ・プランの、日本の学校教育への導入可能性についても
検討したい。これらのすべてを日本の学校教育へ導入するということではない
が、何らかの要素を参考にすることは可能ではないだろうか。例えば、日本の
学校教育における<総合的な学習の時間>は、科目横断的な学習といった点で、
オランダのイエナ・プランにおけるワールド・オリエンテ』ションに共通する
ものである。よって、ワールド・オリエンテーションを研究することが、<総
合的な学習の時間>の新たな形態を模索することに繋がるかもしれない。また、
<総合的な学習の時間>や<特別活動>は、日本の他の教育課程に比べ、各教
n2
員の裁量に拠るところが大きいことや、その目標内容が示すように、これらは
子ども遠の多様な二一ズを酌み取ろうとするものである。従って、ここにイエ
ナ・プランの理念を一部取り入れた実践ができる余地があるだけでなく、これ
らをより充実したものにすることが、子ども連の多様な二一ズに応えることに
繋がるのではないか。(<総合的な学習の時間>と<特別活動>についてイエ
ナ・プランの理念を取り入れた活動案を<資料4(P.130)>として巻末に付す。)
イエナ・プラン、特にオランダの学校教育やそこで発展したオランダのイエ
ナ・プランについて研究されるようになったのは、日本ではまだ最近のことで
あり、数も少ない。従って課題は多いが、それらを1つ1つ解決することで、
それらがより鮮明に見えるようになるだけでなく、日本の学校教育に対しても
一石を投じることができるかもしれない。
113
<資料1> オランダのイエナ・プラン協会HP
オランダのイエナ・プラン学校
イエナ・プラン学校の概要
オランダにはイエナ・プラン学校が約200校存在する。それらの大部分は小
学校(4−12歳の子どもの為のもの)である。そして、それらのほんのいくつかは
中等学校(12−15歳の若年層の子どもの為のもの)である。イエナ・プランの学
校概念はドイツにあるイエナ大学の実験学校(プレサービス師範教育のための)
のべ一ター・べ一夕ーゼン教授(/884−1952)によって開発された。
オランダでは、最初のイエナ・プラン学校が1960年に始まった。また、オ
ランダのイエナ・プランの概念は、米国(クラッドラッド/アンダーソン)の等級
付けされない学校(無学年制)、イギリスの幼児学校、およびフレネ教育から影
響を受けている。
教育哲学
イエナ・プラン学校であるからといって、すべての学校が同じ教育をしてい
るわけではなく、その内容は様々である。それは、その学校が位置する、地域
の状況や歴史によって異なるということである。しかしイエナ・プラン学校は、
一般的な教育観と書式を与える一般的な枠組みにおいては、その哲学と共有し
ている。それは、
・学校組織
・カリキュラム
・基本的な活動と時間割
・学校の位置する地域の違いに応じた空間の使用法
である。
このホームページを読むことで、これらのイエナ・プランの基本的な構造と
機能が理解できるだろう。また、イエナ・プラン学校の基本原理とこれらの学
校の発展を支えるための、いくつかの組織(財団など)が説明されるだろう。
そして最後に、訪間者へのいくつかのガイドラインを与える。
114
子どものグループ
マルチエイジ・ホームルームグループ
子どもをグ]ループ分けする上で基礎となる重要な事柄は、それぞれの子ど
もの違いを積極的に評価することである。そうした基礎の上で子どもを分類す
る際には、精神面や行動面における一般的成熟、知的な達成度、興味関心、社
会的背景など多様なものを考慮して、最適なものを選ぶのである。
イエナ・プランにおいて最も重要なグループが、家族集団となることを期待
されたマルチエイジ・ホ』ムル』ムグループ(以下「学級」)である。それは、
以下の4つに分けて見ることができる。
それは、
①4∼6歳の子どもの為の「幼稚園」
②6∼9歳の子どもの為の「中級ステージ」
③9∼12歳の子どもの為のr上級ステージ」
④12∼15歳の子どもの為の「さらに上のステージ」
(なお「さらに上のステージ)は別の学校に組織化される」
である。
また、いくつかのイエナ・プラン学校は学級において、r構成する子どもの年
齢の幅を変更」し、上記に示したものとは違う新たな学級形態を模索している。
例えば、4歳の子どもだけからなる幼児クラスを創設し、「幼稚園」を5∼7歳の
子ども、「中級ステージ」を7∼9歳の子ども、「上級ステージ」を9∼12歳の
子どもで構成するというものである。
様々な方法のグループ分け・・
学級の中と外とで、様々なグループ化の方法がある。「幼稚園」の主な目標は、
子どもの社会的な技能を発展させることである。それは、働くことやグループ
の中で(他者と共に)生きることを学ぶことであり、彼らの感情的・知的・身
体的な感覚を養い巧みに扱う能力を発展させることである。遊びは、そうした
幼児期の子どもにとって、とても重要な活動である。(演劇・積み木・何かを件
115
る・ままごと・など) また彼らは、小さな仕事をどのように実行する(達成す
る)のかということを学ぶ。しかし、鉛筆を使った文書学習はここではそれほど
重要視されない。
中級ステージ
それの準備ができた子どもだけが、「読む」ことを学び始めるが、大部分は「中
級ステージ」でこの特定の学習過程(読む)を始めることができるようになる。
「中級ステージ」の主な目標は、子どもに「読み書き」ができるようするこ
とである。子どもは、3Rs(読み書き算)の機能を理解するとすぐに、3Rsの基
本的な技能を使用して自主的な調査で新情報を得るようになる。基本的な技能
は、学級の中でさらに小集団に分けられて子どもに教えられる。子どもは、毎
日約100分自分の席で自習課題にその基本的な技能を使用する。また子どもは
個別または、自由に選ばれたパートナーや3∼4人の小集団で、読書をしたり算
数のゲームをしたりして共に学ぶこともあるかもしれない。この間教師は、子
ども連の学習がスケジュール通りになる為という観点から教えはしないが、子
ども連の状況を注意深く観察し必要ならば援助する。
読者をしない子どもは、他の子ども達が形成する「読書サークル」での読み
台やその後の内容の討論会を見ることによって、読書への刺激が与えられる。
上級ステージ
イエナ・プラン学校では、「読む」ということに対し、機能的または言語経験
的アプローチを展開する傾向がある。そこにおいて、読むことを学ぶことは話
題一作業(学習課題)に密接に接続している。
ほとんどのイエナ・プラン学校におけるr上級ステージ」の算数の授業では、
授業に中間ステージに在籍する子どもの中から最も上位のグループを加えて行
う。(授業内容は、加えられたグループのできるだけ全員が達成でき、均一なも
のにしなければならない。)従って、基礎的な計算技能と時々スペルを教えるた
めのプランでは、子供はIQ一レベル(能力)によって分類されるのではなく、達成
水準で分類される。
またr上級ステージ」では、情報を必要としたり、特別な技術を必要とする
116
課題に取り組んだりしている子ども達(下のステージ)のために、彼らを援助
するプロジェクトに取り組んでいるグループもある。例えば、地図や地球儀の
解読・グラフの作成や解釈、そして異年齢混合集団でのダンス・音楽・芸術・
演劇・写真・撮影・物理学・化学・木工・印刷などである。
ただこうした活動は、教師と両親も参加や援助が可能なものに限る。両親は
原則としてイエナ・プラン学校で様々なボランティアをすることになる(営利
団体は任意)。通常、それらは1人3ヵ月間程度続き、いったんボランティア
として選ばれると彼らの出席は義務となる。
カリキュラム
ワールドオリエンテ』ション
イエナ・プラン学校の中心的なカリキュラムに、ワールドオリエンテーショ
ン(総合学習)というものがある。ワールドオリエンテーションは理科、社会、
環境、国語、数学、技術の分野を混合して構成される。
このカリキュラムは、言語技術、読書、数学、地図・地球儀の解釈技術、歴
史(利用できる時間、歴史の含んでいる方法論などによって制限される)、美術
の技術、質問の技術といったコース(学習領域)によって進化・発展されてい
く。
そこで、イエナ・プランのカリキュラムは大きく分けて、このワ』ルドオリ
エンテーションとその他のコース(学習領域)にある。イエナ・プラン学校で
はこの2つが密接に関係し、相乗効果が期待できるものになるよう考慮してい
る。イエナ・プランは、統合したカリキュラムヘ向けての1つのコンセプトで
ある。現在ワ]ルドオリエンテーションの内容は、再定義のプロセスにある。
8つの経験フィールドからなる枠組み1構造
これば、現在も設計され発展している。
①1年中、②私達の環境、③製作し使用すること、④テクノロジー、⑤コミュニ
ケーション、⑥共に生きること、⑦白.分の身体、⑧自分自身の生命
117
カリキュラム開発もまた、言語と数学(例えば、読むという学習のための枠
組みと材料)で行われる。
基本的な活動とリズミカルな週案
基本的な活動
イエナ・プラン学校には、さまざまな学習環境(シチュエーション)がある。
教室で共に行われる基本的なものは次のように呼ばれる。「対話」・「遊び」・「作
業」・「催し(祝い)」。「教育学的に意図された状況」というイエナ・プランの理
論において、これらはすべて基本概念の表現である。ある活動を行うために適
切な状態(ある程度の)をつくるという意味においては、その状況は計画され
うることではあるが、その状況において子ども達が何を選択し、どのような答
えを導き出すかということは講にもわからない(計画できない)。この教育学的
に意図された環境において、個人が導き出す実在的な返答(どうするのカ))は
重要なものである。
それゆえ多くの場合、教育学的計画は、「起こるべきこと」ではなく、「起こ
るかもしれないこと」のための計画となるであろう。この計画は、「自由放任主
義」的アプローチではない。なぜなら教師はこの特別な子どものグループに対
して、また、子ども連の幸福と発達の可能性に対して責任があるからである。
ある状況では、教師は個々の子ども達に対し、直接的でしっかりしたリーダー
シップを示さなければならない。
リズミカルな週案
4つの主な基本的活動が共に、そして循環しながらリズミカルな週案となって
いく。対話の典型的な形式は、会話を誰も支配することなく、みんながみんな
の顔を見られるようサークル(circle)になって行われる。サークルが形成さ
れているとき、すべてのテーブルを教室の隅へ置く。サークルがつくられた時、
その内部は原則として、絶対に民主的なものでなければならない。民主的なふ
るまいは、教師と子どもの両方に要求されるものである。毎週月曜日の朝に行
工18
われるサ』クルでは、そのグルー.プの1週間の計画が話し合われる。それは、
特別な企画、それに向けての準備、規律についての子ども遠の約束ごとに注意
を向ける、などのことである。そして週末になると、グル』プでその内容に関
して、この!週間はどうであったかという評価を行う。
対話(議論)
1週間の半ばに行われるサークルでは、時事について議論する。その時、その
場で率直に答えることのできない質問に関しては、学生ボランティアに委ねら
れる。この学生ボランティアは、ある時は個人に、ある時はパートナーとして、
またある時は小グループに対して、毎日設けられた自習時間においてそれらを
取り扱い、子どもたちに働きかける(補助する)役割をしている。
学習
子どもたちの学習が終わると、グルーブリーダー(教師)はその子ども(あ
るいはそのグループが)が作成したレポートが他の子ども(他のグループ)に
対して報告できるものになっているかを判断する。その後、まず最初に各学習
グループのメンバーが交互に報告をし、それからグループ内で出た質問に答え
ていく (評価サークル)。
「幼稚園」で行われる「聞.く・話すサークル」は、話す能力、聞く能力、コ
ミュニケーション能力さらには探究心・好奇心の習得において重要な機能を果
たしている。
「中級ステージ」における「学習」の内容は、基本的な技術を習得する為の
授業を受けたり、毎日の自習の中でその技術を磨いたり、ワールドオリエンテ
』ションにおいて個々の課題に取り組んだり、芸術的な訓練をしたりすること
などである。
「上級ステージ」の「学習」するということにおいては、個々の課題やワー
ルドオリエンテーションの課題に取り組むのと同じくらいに、他のステージの
子ども達が学んでいる基本技術の授業や自習に対して援助するスケジュールが
つくられている。
r上級ステージ」など高学年の子どものr学習」は、rなすことによって学ぶ」
119
という特徴がある。
遊びは、それ自体が重要往活動であり、ひとつの学習方法である
「中級ステージ」で運動の基本的スキルを身につける際は、その大部分は学
習ゲームを通してなされ孔イ干ナrプラン学校の「中級ステージ」での学び
(全体的な)は、一般に遊びによってもたらされるべきだ、と考えられている。
「幼稚園」の子どもにおける学び(全体的な)は、遊び、つまり普段大人が「遊
びに過ぎない」と考えているようなことによってなされている。このアプロー
チは、無言十画で時代遅れなものでは決してない。
催し
イエナ・プランにおけるr幼稚園」にある子ども達への教育は、イギリスの
幼児学校や小学校で見られるようなフレーベルの教育思想に基づいている。こ
れらの間にはほとんど違いはない。
「催し」は、キャラクターや内容、リーダーシップなどの要因から様々に変
化し、最終的には1つとして同じものはない固有のものとなる。イエナ・プラ
ン学校では、週の始めと終わりに学校全体もしくは学級ごとに集まる習慣があ
る。それらは、「催し」における祝いの場(誕生会など)や発表の場となる。
「催し」がどのような形で行われるのかというのは、その学校次第である。
つまり、言えばr催し」の性質は、状況によって様々に異なるということであ
る。例えば上記に示した誕生目の祝賀は、通常完全に子どもたちの手によって
行われる。
数年の間人々の関心は、社会の基本的活動において個人や精神の核となるも
のや、人として成長するための静寂や熟慮、綴密な観察の重要性に再び向けら
れつつある。
学校の教室
教室
生きること、分かち合うこと、共に働くということを学ぶことは、教室内の
120
家具や展示晶の配置、教室のメンテナンスや教室内での行動のルールに対して
責任を持つということをも意味する。これらにおける責任は、子どもと教師が
共に負っているものである。それらを遂行することによって、その教室はそこ
で生活する子ども達のグループにとって、ますます学校の「リビングル』ム(居
間)」となっていく。
サークル(輸)
学校の教室での家具の使用は、状況に応じて非常に柔軟に扱われる(配置な
ど)。単なる議論のためのサ』クルでは、椅子は輸になって使われるが、机は端
に寄せられる。しかし、観察をする生物の授業のサ』クルでは、よく机を使う。
またサークルは、黒板に行ったり子供の意見を他のグループの人にデモンスト
レーションしたりするために、馬の蹄のような形体にもなる。自主学習の時間
は、子どもたちは一人で、もしくはパートナーとだけで座りたがることもある。
こうした時も、子ども達がその状況にあった机や椅子の配置をする。
教室の肩(隅)
ますます多くの学校が、遊んだり作業したりするためのr学びコーナー
(1eami㎎c㎝ters)」を教室の角(隅)に設置している。ある学校では、いく
つかのr学びコーナー(1eami㎎centers)」(例えば、ホームエリア、組み立
てエリア、お絵かきエリアなど)を設置して様々な学習においてその場所の使
用を促している。
基本的指針
イエナ・プラン学校における学習の根本にある理念は、20の基本原理で定式
化されている。人間に関する5つの項目、社会に関する5つの項目、学校に関
する1Cの項目で構成される。すべてのイエナ・プラン学校は、自分たちの学校
の発展のために、これらの指針を基本としている。(基本的指針である以下の20
項目については、リヒテルズ直子 rオランダの個別教育はなぜ成功したのか
一イェナプラン教育に学ぶ一』 平凡杜 2006年 R191∼194を参照した)
121
人
1、すべての人はユニークである。つまり、人はたった1つの存在であり、それ
それ、かけがえのない価値を持っている
2、すべての人は自分らしく成長する権利を持っている。それは、独立性、批判
的に判断する意識を持つこと、創造性、社会的正義へ向かう姿勢などにおい
て特徴づけられる。この権利は、人種・国籍・性別・性的傾向・社会環境・
宗教・信条または障害の有無によって左右されるものではない
3、すべての人が自分らしく成長するためには次のようなものと独自の関係を
持つことが必要とされる。それは、物質、社会、文化、精神的な世界である
4、すべての人は常に1人の人格を持った人間として認められ、可能な限りその
ように待遇され、話しかけられるべきである
5、すべての人は文化の担い手、また、文化の改革者として認められ、可能な限
りそのように待遇され、話しかけられるべきである
社会
6、人は、すべての人のかけがえのない価値を尊重する社会を目指して働くべき
である
7、人は、すべての人のアイデンティティ(個性)を発達させるための場と、刺
激が与えられる社会を目指して働くべきである
8、人は、お互いの間の相違や変化を、公正と平和と建設性に基づいて受け入れ
る社会を目指して働くべきである
9、人は、地球と世界空間を尊重しかつ注意深く守る社会を目指して働くべきで
ある
10、人は、自然資源と文化資源を将来の世代のために、責任を持って用いる杜
会を目指して働くべきである
学校
11、学校は、それに関係するすべての人によって構成された自立的で共同的な
組織である
12、学校において大人たちは、上に示した人と社会についての原則を、自らの
教育学的な出発点として、仕事を行わなければならない
122
13、学校で教えられる教育内容は、子ども遠の生活と(内的な)経験世界から、
そして、「人」と「社会」の発達にとって重要な手段であるとみなされる、
われわれの社会の中の文化資源とから、構成されるものである
14、学校教育は、教育学的な道具を用いて教育学的な状況において実施される
15、学校教育は、対話・遊び・仕事(学習)・催しという基本活動がリズミカル
に循環する教育形態で行われる
16、学校では、子どもが互いに学び合い助け合うという目的のもと、年齢や発
達のレベルに違いのある子ども達のグループが慎重に考えれたうえでつく
られる
ユ7、学校では、自立的な遊びや学習が、指示されたり指導されたりする学習に
よって捕捉されながら、両者が交互に行われる。指示的・指導的な教育は、
特に、レベルの向上を目的としている。これらすべての学習において、子
ども自身のイニシアチブが重要な役割を果たす
!8、学校では、基本的な経験、発見、探求と共に、ワールドオリエンテージョ
ンが中心的な場を得る
!9、学校では、子どもの行動や成績についての評価は、可能な限り、その子ど
もの発達の経緯から、また、その子どもとの話し合いを通じて行われる。
20、学校では、変更や改善は、普段のプロセスとみなされる。このプロセスは、
行動と思考との首尾一貫した交換作用を通じて遂行される
イエナ・プラン学校は、教育学の「楽園」ではない。これらの学校の関係者
達は、学校のために最善を尽くして働いている。彼らは、イエナ・プランとい
う道を歩いている。
組織
イエナ・プランの基礎
オランダで最も古いイエナ・プランの組織はイエナ・プラン財団である。(そ
の財団は、新教育連盟のオランダ支部から発達した)。この財団の基礎の創始者
123
であり、この国で最も著名なイエナ・プランのパイオニアはスース・ブロイデ
シタール・ルッター(1908−1986)である。 このイエナ・プラン財団はまだ存在
しており、イエナ・プラン概念の開発に責任がある。
オランダのイエナ・プラン協会
オランダのイエナ・プランにおいて最も重要な組織は、学校自体から組織さ
れるオランダのイェナ・プラン協会(The Dutch Jenaplan Association以下、
NJpV)である。NJPVの主要な目的は、イェナ・プラン学校の内部開発のために
学校側の利益を守ることにある。このためにNJPVは、政府や議会、地域や地方
の当局から独立し、政治的な行動とっている。またNJPVは各地方で加盟学校を
組織することで、学校間の現職教員の交流・カリキュラムの発達・海外の学校
との繋がりを促進している。「イエナ・プラン教育学のためのセミナー」は様々
なイエナ・プラン学校の取り組みなどを紹介し、関係者が勉強する場となって
いる。
コーディネーター
国家規模に発展したイエナ・プラン学校は、国立の教育学センターによって
雇われたコーディネーターによって、イエナ・プラン学校の発展のために支援
される。このコーディネーターは学校のカリキュラム開発において一番に責任
があると同時に、イエナ・プラン学校を支援する地方の教育学センターや教育
大学にも援助をする。そして、教育学的な実一験研究こそが新たな教育体系の開
発に寄与する。
雑誌
オランダのイエナ・プラン普及活動などの際、一般の雑誌を出版する。こう
した際に、コ』ティネーターも、多くの小冊子と就業書類の公表の責任を持つ。
イエナ・プランの地方や地域規模での普及や紹介に関しては、地域の教育学
的センターや教育大学によって行われる。これらの大学のうちの4つは、イエ
ナ・プランの専門コースが設けられており、この期間、イエナ・プランの専門
的な事柄を学習する。
124
オランダの学校教育制度は、公立・私立を間わず、財政面でも同様の扱いで
あるということもあり、イエナ・プラン学校は公立と私立の両方において存在
する。そして、それらのなかには無宗教、カトリック、およびプロテスタント
の学校がある。
125
「資料2」
オランダのイエナ・プラン校の様子
一ドクター・スヘープマン初等学校(Dr,Schaep㎜an,Schoo1)一
3。し、.、
k¥
1.対話(サークル対話)
2.学習
ポ
126
3.遊び
4.催し
社会性 評
運動能力
’.船1描
言葉
読む力
雀会学習
一}舳_㎞{岬舳_苗一
計算カ
空間的理解
▲’■
裏編・音業・ダン州∴一二.・
5.成績表
127
23
r資料3」 学校系統図一主要6カ国の国際比較一
鍾琶一里撃籔察穣蟹一国融蛙敏一
綴
楽
アメ轡藷脅轟匿劃」
・醇蟻・
鱒鰺、潔灘一蔚籔・壌毒サ苗
鰹垣陶魯鰯一饅訓岬畠鰯鱒
フ 一・蓄 許豊
輩議
128
穣㌔・
撃簿
軍縮
ソ 拠
渥撃専旗
……
量
書・一
129
<資料4> 試案
Ex1 「自己紹介」
設定:中学校1年生のユ学期(30名)
内容:総合的な学習の時間の3コマを用いて、自分と子ども達が輸になりその
中心で自己紹介をする。1コマ目に発表内容を考え、2コマ(!00分)を
用いて発表をする。約束事として、「自分の趣味・頑張っていること」・「自
分の良いところ」・r1学期の目標」・r皆が居心地の良いクラスにするには
どうしたら良いか」の4項目を発表すること、1人3分の持ち時間を守る
こと。発表時の内容や服装は自由。
背景:「イエナプラン20の原則」
1.各人はユニークである。つまり、たった一つの存在であり、すべての
子供とすべての大人はそれぞれ、かけがえのない価値を持っている。
6.人は、かけがえのない価値を尊重する共同社会を目指して働くべきで
ある。
r総合的な学習の時間(中学校)」
目標:
・自ら課題を見つけ、白ら学び、自ら考え、主体的に判断する。
・問題の解決や探究活動に主体的、創造的に取り組み、自己の生き方
を考えることができるようにする。
指導計画の作成と内容の取扱い
(2)生徒の興味関心に基づく学習
(4)育てようとする資質や能力、態度については、自分自身に関
すること、他者や社会とのかかわりに関することなどの視点
を踏まえること。
130
意義:
「イエナプラン20の原則」の1を考慮し、発表項目の3つを「自分の趣
味・頑張っていること」・「自分の良いところ」・「1学期の目標」に設定し、
教員自身も一人の発表者として参加することとした。同様の6を考慮し、「皆
が居心地の良いクラスにするにはどうしたら良いか」の発表項目を設けた。
発表項目にはある程度の制約を設けたが、「総合的な学習の時間」におけ
る目標やその取扱いを考慮し、内容や服装は自由としてある。また制約を
設けた発表項目も、「総合的な学習の時間」の目標に近づくよう促すものに
してある。
個性の尊重とそれが生かされる学級づくりをしていきたいという意図で、
r自己紹介」という活動を設けた。しかし個性を尊重するといっても共同
社会において、ルールを守ることは大切なことである。約束事として設け
た1人3分という持ち時間を守ること、それもその一つである。
子ども達が皆に何を伝えたいのか考え、それを判断し、どのように表現
すれば良いのかを自ら考えられるよう、発表の内容にある程度の自由を持
たせ、服装に関しても自由にしてある。
また今回発表したことの成果(自己評価)や新たな目標などの発表の場
として、学期末にも同様の活動をしたいと考えている。
EX2 「クラス(部屋)づくり」
設定:EX1と同様
内容:特別活動のユOコマ程度の時間を利用して、クラス内の壁面を子ども達
自らが制作していく。班ごと、またはいくつかのグループに分かれて、
クラス内の各壁面の担当グノレープを決め、自らア』マを見つけて壁面
構想を図案化し、実際にづくっていく。なお、実際の作業に取り掛か
る前に、図案化した壁面構想をクラスで発表し承認を受けるものとす
る。(グループ決め→壁面決め→図案化→発表→承認→作業)
背景:
イエナ・プラン教育においては、クラスをリビングルーム(=学び
131
と生活の場)として捉えている。そのため、イエナ・プランの学校で
は各クラスで、担任・子供・保護者が一緒になり、教室を自分たちで
デザインするという習慣がある。教室の壁の色、机の位置、本棚、コ
ンピューターの置き方、読書コ』ナー、カーテンの色など教室の内装
は各学級で異なる。こうした教室の内装づくりの背景には、学校を子
どもと教員、保護者が共に参加してつくる共同体として捉える考え方
がある。(旧来の画一的な授業を行う学校の教室は、子ども遠の注意を
いかにして授業者である教員に向けさせるかということを基準にデザ
インされてきた。)
これらの活動は特別活動における学級活動の一環として行うことがで
きると考える。
「特別活動」
目標:
心身の調和のとれた発達と個性の伸長を図り、集団や社会の一員とし
てよりよい生活や人間関係を築こうとする自主的・実践的な態度を育
てる。
学級活動の目標:
学級活動を通して、望ましい人間関係を形成し、集団の一員として学級
や学校におけるよりよい生活づくりに参画し、諸問題を解決しようとす
る自主的実践的な態度や健全な生活態度を育てる。
学級活動の内容:
(1)イ 学級内の組織づくりや仕事の分担役割
(2)イ 自己及び他者の個性の理解と尊重
ウ 社会の一員としての自覚と責任
意義: イエナ・プラン教育の教室に対し「学びと生活の場」と捉えた諸活動
から、指導要領の内容にも則し、日本の学校において実際にできそうな
活動として「壁面づくり」を設定した。この活動とそれによってデサイ
ンされた教室を通して、自分たちのクラスに対する帰属意識や維持発展
132
に責任を持たせたいという意図がある。
少人数のグループ活動を取り入れることで、大人数に比べて子ども連の
積極的な相互作用が期待でき、人間関係を築く訓練となる。
壁面構想を図案化し、発表、承認という過程を置いたのには、①図案化
したそれがグループ内だけの考えだけでなくクラス全体の意見を考慮に
入れたものになっているのか考えさせること。②承認という過程を踏んだ
以上、クラスの子供たちが当該グループが作成する壁面に対し積極的に認
め、責任を持っていく態度を育てること。また日本の学校社会において、
民主主義というものが形骸化しているなかで、民主主義の態度を養うこと
にも寄与していると思われる。
133
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137
謝辞
本論文を終えるにあたって、筆者の論文作成に対して有形無形の様々なご協
力をしてくださった方々に、お礼を申し上げます。
まず兵庫教育大学大学院学校教育学専攻教育コミュニケーション1コースの諸
先生方には格別のお世話をいただきました。これから教育現場に出ていく筆者
に、理論を通してものを見ることの大切さを改めて認識させてくださいました。
改めて感謝致します。
特に主任指導教員の渡邊隆信先生には、本当にお世話になりました。論文作
成に関し素人同然の筆者に、資料の解釈、分析、理論化の方法など根気強く指
導してくださいました。また、筆者が論文を思うように執筆できない時にも、
温かい言葉をかけて励ましてくださいました。お忙しいなか、本当にありがと
うございました。
そして教育コミュニケーションコースの院生の皆さん、2年間という短い間で
したが、皆さんのおかげで充実した時を過ごすことができました。特に、同じ
渡邊ゼミの太田垣完二さん、山本真理子さんには公私にわたってお世話になり
ました。本当にありがとうございました。その他、兵庫教育大学のスタッフの
皆さまにもお礼を申し上げます。
また本論文を執筆するにあたり、資料を提供してくださった福岡県教諭の久
保礼子さん、同じコースに所属する池困英則さんに感謝の意を表したいと思い
ます。そして、私が本学に進学するにあたり、様々なご支援をしてくださった
文教大学の柳生和男先生に改めてお礼を申し上げます。
本論文が子ども遠の幸せと未来にわずかでも貢献することがあれば、それほ
どに喜ばしいことはありません。そう願いつつ、筆者を支えてくださったすべ
ての方に感謝を込めて、筆を置きます。
2009年ユ2月21目
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