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Page 1 金沢大学学術情報州ジトリ 金沢大学 Kanaraพa University
Title
フランシス・ポンジュの『窓』について: その読解と翻訳のために
Author(s)
内田 , 洋
Citation
金沢大学教養部論集. 人文科学篇 = Studies in Humanities by the
College of Liberal arts Kanazawa University, 14: 49-100
Issue Date
1977-03-10
Type
Departmental Bulletin Paper
Text version
publisher
URL
http://hdl.handle.net/2297/39598
Right
*KURAに登録されているコンテンツの著作権は,執筆者,出版社(学協会)などが有します。
*KURAに登録されているコンテンツの利用については,著作権法に規定されている私的使用や引用などの範囲内で行ってください。
*著作権法に規定されている私的使用や引用などの範囲を超える利用を行う場合には,著作権者の許諾を得てください。ただし,著作権者
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,各著作権等管理事業者に確認してください。
http://dspace.lib.kanazawa-u.ac.jp/dspace/
49
フラソシス・ポソジュの『窓』について
−その読解と翻訳のために−
内 田
洋
R
6
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へ
SURLAFENETREDEFRANCISPONGE
Plan:I
TEXTE(ORIGINAL)
〃
I
I
PREFACE
I
Ⅱ
PARAPHRASE,ECLAIRCISSEMENTET・・・
Ⅳ
TEXTE(TRADUIT)
V
REMARQUES
〃
I
ここに掲げるテキストはFrancisPonge:Pieces(Coll.《《Po6sies''Gallimard,1971)所収のものに従っ
ているが,他にLeGrandRecueil,Tomelll,Pieces(Gallimard,1961)所収のテキストを比較参照した。
これ以前に1955年PierTeCharbonnierのドライ・ポイント版画2葉をそえて単独で発表されたテキス
ハ
トLAFENETRE(Paris,J.Devoluy)があり(MarcelSpada:FrancisPonge,Coll.Po6tesd'aujourd'hui,Seghers,1974のBibliographieによる),これが初版ともくされるが,参照できなかった。ただし前
ハ
ニ者の巻末の所収作品リストによれば,LAFENETREの制作年代は1929-1953とある。
ところで,われわれのテキストとLeGrandRecueilにおけるテキストとの間に,若干の異同がゑられ
るので,それを指摘しておきたい。
へ
第一に,単なる活版印刷技術上の差異ともゑなしうるのだが,前者の間投詞Oは,後者ではアクサン・
シルコンフレックスが無い(Opr6posbesauxcieux…/Opunchs!/Oponches!)。
第二に,Barbe-Bleue-le-JourのJは後者では小文字。
〃
第三にPARAPHRASEETPOESIFにおいて,われわれのテキストで《…nouspouvonslesvoilerde
l'int6rieur…》とある部分は,LeGrandRecueilでは《…nouspouvons"ozdslesvoilerdel'interieur…》
とある。
第四に,その数段下《恥signons-nousdeslors…》は,後者において《R伽ノ〃ows-nousdeslors…》と
ある。
、
〃
なおPOEMEは,両者とも1ページ全体を占め,ページをめくってPARAPHRASEETPOESIFが読
まれるようになっている。(以下のテキスト余白の数字は,叙述の便宜のため注釈者によって付された。)
内田
50
洋
ハ
LAFENETRE
M4RZATYOMSAM4NT刀遮j伍
一
Haremnombreuxdujour
1l
Humilianttribut
〃
Nichesaucielvou6es
araisond'unmillierparrues
八
〃
Opr6poseesauxcieux
.
2
avecvostabliers.
Bleuescontusions
Fant6mesimmobiliers
34
Ecchymoses.
Appareilsdufaux-jour
etdel'imparfaiter6flexion
Foyersd'ardeurs
5
deflammesfroides.
Nouvelatre.
Att6nuationaupossibledesmurs.
.
6
Aufonddechaquepiece
.
7
detoutehabitation
sedoitaumoinsunefen6tre,
Ensoiedeparavent
Unfoyerd'ardeurs
.
8
deflammesfroides,
dedouceetplaintiveharmonie
.
9
Lecorpsplaintifd'unefemme
1
0
.
deBarbe-Bleue-le-Jour
(IIGiorno).
Partoncorpsenquartiers
111.
abras-le-corpstenu
tusubisunepassionaintemp6ries
八
Opunchs!
.
2
フランシス・ポンジュの『窓』について
51
八
Oponches!
Ponchesdontjouretnuit
flamboielabarbebleue!
D6tenueaufonddechaquepibce
sousunependerie,
.
3
Parl'h6tedontlessoins
.
4
oppos6salanue
t'aurontletempsqu'ilvit
laveeentretenue
ク
ノ
repareesanscesse
maintenue.
ParlepropremaCon
porteauxruinesouverte.
.
5
Sousunvoiletuaspoingsli6s
6
surlemilieuducorps
etdegrandsyeux61argis
jusqu'al'extr6mecadredetoncorps.
Lorsqued'untourdemain
III1.
jed61ietapoign6e
〃
Emuintrigu6
lorsquedetoijem'approche,
Jet'ouvreenreculantletorse
.
2
commelorsqu'unefemme
veutm'embrasser.
Puistandisquetoncorps
.
3
m'embrasseetmeretient,
Queturabatssurmoi
toutunenclosdevoilesetdevitres,
tumecaresses,tumed6coiffes;
Lecorpspos6surtonappui
monespritarriveaudehors.
4
52
内田
洋
即E』値
OHBLEUSPARTOUTLECORPSDESBASTIONSAUXCIEUX1.
TRACESDESHORIONSDEL'AZURCURIEUX
DETOUTEHABITATIONTUINTERROMPSLEMUR
.
2
PARLEPROPREMACONPORTEAUXRUINESOUVERTE
CONJOINTESOUSUNVOILEAUXROISEXTERIEURS
PAGEDEPOESIEMAISNONQUEJELEVEUILLE
.
3
● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ●
PONCHESDONTJOURETNUITFLAMBOIELABARBEBLEUE4
LACLARTEDUDEHORSM'ASSOMMEETMEDETRUIT
RIENQUEN'ENPOINTEMETTREETQU'ELLESOITLASEULE5.
FAITQUEJELASUBIS.
フランシス・ポンジュの『窓』について
53
MRA〃班ASEETMESE
CarrementavouesaucielsurlesfaGadesdenosbatisses,nous
pouvonslesvoilerdel'int6rieur,cesfautesmoinsqu'ademipar-
d
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nousunenecessiteinCluctable,etl'afficheaugrandjourdenos
f
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.
Qu'onencompteuneaumoinsdanschaquepiecedenosdemeuresnousobligeamultiplier,pourlesr6partirreguli6rementdans
nosmurs,cesappareilsdufaux-jouretdel'imparfaiter6flexion.
Pagesdepo6sie,maisnonquejeleveuille...
R6signons-nousdeslorsalabrillanteopportunit6d'unvitrage
moinscapablededefinirsonobjetquederestituerparrefletsinfranchissablesalafoisnotreimagesensibleetsonidee.
Pourl'h6teaudemeurantn'6tantmeilleursystemedes'enremettreaujourquiledoiteclairer,
Lemanqueseuld'unmot,rendantplusexplicitel'att6nuationau
possibledesmurs,fassedevotrecorpsuntextetranslucide,6pr6pos6esauxcieuxavecvostabliers!
Faiblessenondissimul6e
.
1
Q
へ
Q
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Bienqu'ellesoittoutaccordee
Auxregardsdetropdepareilles,
ハ
LAFENETRE
.
2
DETOUTSONCORPS
八
RIMANTAVECETRE
MONTRELEJOUR
Puisnousaidantarespirer
Nousconjurel'airp6netr6
.
3
Deneplustantyregarder
Pargracealafinentr'ouverte.
I
I
Carr6mentavou6eaucieldanslesfagades...
前書(prSface)とよばれるものは,一つのテキストという構築物の前面におしだされ,
多少とも広がりある読書の可能性の空にむかって,最終的に(最後的に)読まれるべきも
54
内田
洋
のを予告し,告白(avouer)するものだとすれば,ここではフランシス・ポンジュの『窓jこ
そ,事実上・権利上の前書であり,建物正面(fafade)であって,人はそこから入り,その
奥に開かれたもう一つの『窓』から出ることによって,この建物がある錯雑した空間の創
造であることを体験するだろう,ちょうどこのテキスト自身が,ポンジュの『窓」から入
り,また出るための,その空間の長々しい祐僅の軌跡であるように。空にむかって壁にし
つらえられたこの穴,〈窓>は,人の出入のための門扉と全く同じものではないとはいえ,
少くとも光と風のための入口であり,したがってまた視線(regard)と精神(esprit)をめざ
マ ド
しての(のための)(envuede)装置<目門>なのだ(目は心の窓)。実際,この装置を通し
て(によって),〈わたし>たちの目と心が何らかの公の空に侵入し,参入するのでなけれ
ば,『窓』とは一体何であろうか?そして〈わたし>たちが共有しうる公の空は,あめ頭上
に広がる(空虚な)空などではなくて,実はただ,〈わたし>たちの視線の下におかれて白
熱化しつつくわたし>たちの実存全体をからめとっている網のごとぎテキストの中にしか
見出されないのかもしれない。つまりそれが書かれ,読まれ,見られ,聞かれる時に,一
語にしてそれがくわかる>時に。ここで共同主観的存在についてのポンジユのあの命題を
想起しよう。即ち,《わたしが語り,きみが聞く,故にわたしたちが存在する》(Jeparle,
tum'entends,doncnoussommes.)。
〈窓>とは何であるか(Qu'est-cequelafenetre?)。ポンジュにとっては,その存在(6tre)
を命名し,いくつかの意味と概念に還元すること以上に,あるいはそれと同時に,窓の存
在の多様性(vari6t6)を作ること,作りなおすこと(refaire)が問題だ。対象を説明す
ることよりもむしろそれを提示し,現前化する(presenter)ような,文字によるオブジェ
としての文芸作品(objetlitt6raire)を作ること。換言すれば対象の存在様態に等価な機能
装置を組み立てることだ。そのテキスト装置を,ポンジュは明確にも《偽りの光を当てる
不完全な反照装置》等々と命名していく。われわれとしてはこれを可能な限り充全に機能
させ,窓の観念において精神を一歩前進せしめるためにく読む>必要があった。事物がな
がめられ,使用され,享受されることではじめてわれわれの物となるように,書かれたこ
の物もまた充全に享受され,消費されることで,精神による新たな産出の糧,素材となら
ねばならない。こうして<読む>ことがおのずからく書く>ことへと導いた。読ゑつつ書き,
書きつつ読むこの過程の全体が,われわれには注釈および翻訳の作業としてあらわれた。
それは注釈〈と>翻訳であるが,また注釈<にして>翻訳であると言ってもよいように思
テキスト
われる。ただしそれは作業としての翻訳,つまり最終的・決定的(d6finitif)な,原文の定
義一描写たりえている〈原文としての翻訳/翻訳された原文>(textetraduit)に到達する過
程の作業なのだ。最終的な翻訳はおそらく存在しない。それはせいぜい,この《不完全な反
パラフラゼエクレルシール
照装置》と規定されたテキストの上に自分自身を映し出して,それを布延し開明しつつ,
その外を透視するための《未完結の省察》にとどまるだろう(Reflexionsimparfaites
フランシス・ポンジュの『窓』について
55
surcesappareilsdel'imparfaiter6flexion)。そこにr6flexion(反射・反照・反省)の
装置が関与しているかぎり,われわれはくりかえし《同じこと》を語らざるをえないだろ
う。従って,言うまでもなくわれわれのこの部屋(piece)の奥におかれた「窓』は,閉ざす
ためでなくその《同じこと》を語るためにこそ限りなく開かれつづけるべきなのだ。
Ⅲ
布延にして開明,そして…
Omaisons,6chateaux,
quellearchitextureestsansfenetre!
一篇のテキストは,国語の体系と歴史的・文化的全体を背景に負い,それを地(fond)と
し,コンテキストとすることによって,その前に立ちあらわれることができる言語的実践,
パロール
ことばの行使の形象(figure)である。従って,そこでの虚構性はまず第一にテキストに外
在的な機構との関係に由来する。第二に(とはいえ,それが決して二次的な重要性しかも
たぬというのではなく),テキスト自身の内的な構成によって生ゑだされるのであり,その
形式的特徴はより顕著な仕方で,われわれの前に読まれるべくさしだされている。テキス
トの内と外,両面からほぼ同時的に遂行される分析作業を,通常注釈とよぶものとすれば,
エッセー
われわれのこの試みも一つの注釈にほかならないのだが,それはいかなる資格において,
どのようにテキストに接近することになるのか。何をめざして一つのテキストについて(の
上で)語ることになるのか。一言でいって注釈するとはどういうことか,これこそが,こ
の種のあらゆる作業の初めに,予め含意される最終の(最後に答えられるべき)問題であ
ろう。
とりわけ,《説明不要の詩》(poemesnonaexpliquer)をめざして制作し,また,通常の
批評的言説による解釈・説明を忌避するばかりでなくそのような読解を挫折(dejouer)g
せ,不適格なものにしてしまうポンジュのテキストに対して,われわれはなぜ敢えて注釈
するか。いかにして可能か,どのような種類の注釈が可能か。《私は説明されるなどと考え
ただけで(防禦的に)全身の毛が逆立つような気がすることがある》(LeCarnetduBois
dePins,Tb"ceP"”たγ,P、378)*。《批評家どもよ’安心せよ。私の本はフランス語で書か
れてはいないのだ》(Nり""""Rec"e"p.34)。《私に関する無益な議論の数々はなくて済
む日が来よう》(〃彪肋06"s,P.42)。etc.われわれは一体,何でも解明してみせずにはおら
マ古二一
れない奇妙な偏執に陥っているのだろうか(われわれの弱味)?
ポンジュのこうした説明忌避は,実は一切の批評活動の拒絶などではない。むしろそれ
内田
56
洋
エクリチユール
自身極めて批判的な機能を発揮するポンジュの記述行為,そのテキストが,テキストの読
承方と,われわれの批評的言説のありかたとを改変するように迫っているのだ。ではポン
ジュによって許容されるような注釈をどのように書くことができるか。明らかにそれは,
〈ポンジュの流儀で>(alamanibredePonge)書くこと,ポンジュを模倣することであろ
う。対象とされたテキストを正当化したり,否定したりする以前に,まず対象を充全に機
バステ
能させ,享受し,わが物とするミメティックな批評,それは一種の引用とパロディー,模
イツシユ
作だ。
『窓』と題されたテキスト(数篇のテキストの構成体)が,この語の指示物,外部世界
の一対象(objet)でもなく,またテキストの記述者の何らかの主観(sujet)そのものでもな
く,テキストの世界で特有の機能と存在様態,独特な実在性を有する一個の物なのだとい
うことは自明の理だと言われよう(ただその自らの明らかさも,常に言表されてのちはじ
めて認知されるほかないのだし,明らかさそのものも常に他の多くの既に言表されたこと
の相互的な表面効果から,その間隙にもたらされるのだ)。そしてポンジュのテキストが,
その指示物自体になりすまそうと求めているのではないにしても,その物の名と観念に
とってかわり,それを具体化する物であろうとしているのである以上,われわれもまたこ
こで,一個の対象物としてのテキストの本性の描写・定義を試承よう。読者および注釈者
の対象は,テキストの対象でも主体でもなく,まずもってテキストそのものだ。言いかえ
れば,客観的なものの再現でも主観的なものの表現でもない虚構としてのテキストが問題
なのである。
掌(注)ポンジュの言葉の引用はすべて次の諸書によっている。Tomepremier(Gallimard,1965),
Methodes(Gallimard,Coll.《《Id6es'',1971),Pieces(Gallimard,Coll.<mPo6sie",1971),
Lyres(Gallimard,LeGrandRecueil,Tomel,1961),NouveauRecueil(Gallimard,
1
9
6
7
)
.
LAFENETRE
テキストの表題(titre)であり口実(pr6texte)であるこの語(mot)。それは何よりもま
ずフランス語辞典の内部で他の多くの語によって定義されることで,その安定した恒常的
な意味を付与されているようにみえる語であり,辞典的記述の一項目だ。われわれはそれ
を通じてこの語の指示物,対象そのものを定義しえたと錯覚するのだが,実のところそれ
は辞典的記述という言説のもつく再現的>(repr6sentatif)なく効果>によるのである。記
号の指示機能に従って,われわれが対象物の経験的知識(観念)とその映像を想起する時,
記号そのものは無垢で,自然で,透明な非存在に近い何かになってしまう。語はいわば事
オブジェ
物をねらい,のぞき見るための窓,その目的(対象)のために可能なかぎり自己を稀薄化
し,存在を気づかれないようにつとめている窓ガラスのようにふるまっている。事物存在
フランシス・ポンジュの『窓」について
57
への記号のこうした媒介機能が惑わしに満ちた一つの効果でしかないことに気づくために
は,複数の辞典的定義があって,そのつど語の指示物は多少とも異なった相貌でわれわれ
ア ン 。 エ フ エ
の意識にあらわれ,あるいはあらわれないことを想起すればよい。実際には(実効として
は),辞典は一つの語の他のもろもろの語の間での機能,存在様態,関係を規定し,個々の
事物・対象の普遍的・一般的な認識である概念を提示しているだけで,その特殊な感性的
なありかたは完全に脱け落ちてしまう。言語記号の本質からして,物の現存性(pr6sence),
その肉体は,そこに〈措定>(poser)も〈再現>(repr6senter)もされていないのだ。例え
へ
ばロベール仏語辞典におけるFENETREの項目の記述,
1)Ouverturefaitedansunmur,uneparoi,pourlaisserp6n6trerl'airetlalu-
miere.(空気と光を入れるために壁に穿たれ開かれた穴。)−開く窓。
Parext.Chassisvitr6quifermecetteouverture.(その穴をまく・ガラスをはめた枠。)
一閉じる窓。
2)Paranal・Espacelibrequ'onlaissedansunacte,unmanuscritpour6trerempli
ulterieurement.V.Blanc.(後で埋めるために残された,書類や原稿の空欄・余白。)−や
がて書き足され,追補され,接合されるべき窓。
Anat.Orificedansleparoiinternedelacaissedutympan.Fenetreronde,
ovale.(中耳の鼓室内壁にある孔。正円窓,卵円窓。)−耳の中にある丸い窓,卵形の窓。
かくの如く語の指示物は複数で,そのつどわれわれが具体的ないかなる表象をも得るこ
となく,ただ理解するのである。これは物の定義というよりもむしろ語の用法の社会的約
束の設定だ。
ポンジュはゑずからの企てを次のような新たなジャンルの創始として規定した。即ち,
《美的にも修辞的にも適正な定義一描写》(d6finitions-descriptionsesth6tiquementet
rh6toriquementad6quates)これは既に辞典や百科事典の中にできあがってしまっている
ことを,再びやりなおそうというのではない。彼には一つの語の定義とその指示物の描写
との間のズレ,余白(marge),差異(diff@rence)をうめることが問題なのだ。両者の美点す
なわち無膠性と簡潔さと事物の感性的側面の尊重とを兼ね備えた書きものをつくること
(』姥娩0‘たs,P.11)。もちろん,言語表現である限り,どんなに微細な感性的存在の描写であ
ろうと,個物の特殊性,個別性,唯一無二性はく定義上>とらえきれない。「特定個物を一
般化して表現するということは,言語の本質的な性格だからである」(時枝誠記)。従って
ポンジュが描写し,定義しようとするのは,しかじかの特定の窓の特殊性ではなく,任意
の窓,窓一般,<LA>FENETREの,他の事物存在に対してそれが示す差異性,独自性
(originalite)なのだ。つまり窓であるところのもの,窓存在,の機能と様態の言語表現であ
り,《文化という書物の同一ページにいる同時代のフランス人にとっての》窓の諸概念のア
クチュエルな内容を明らかにするような定義一描写だ。
内田
58
洋
言葉と物との窮極的な乖離,言語表現のこの不可能性が,ポンジュのこうした企てを予め挫
折と未完結に運命づけていることは明らかだが,もはや統一性も絶対の探求も,ポンジュ
のニヒリスムを苛立たせることはない。彼にとっての唯一の方策は,語の物質的な厚承を
資源として,対象の機能作用に等価な働き6eu)をもつ一個のオブジェないし装置一テキ
ストーを組み立てることだ。言いかえれば,テキストに対象の存在様態を模倣させること。
ポンジュにとって表現とはそのようなものでなければならない。《表現と認識の間の差異…
実のところ,表現は認識以上のものだ。書くとは,少くとも分析的な認識以上のもの,〈作
りなおす>ことだ。》(Diff6renceentreexpressionetconnaissance…Alav6rit6,
expressionestplusqueconnaissance;6crireestplusqueconnaitre;aumoinsplus
queconnaitreanalytiquement:c'estrefaire.)(cf.Tbw@e,彫"",p.228)事物とそれを
描写することばの機能・運動を可能な限り適合させ,対象の等価物を作ることによって対
象との同時的生誕(co-naissance)を果たすこと,ポンジュはこれを〈メタ・ロゴス的創造>
(lacreationm6talogique)とよぶのだが,それはまた彼にとってポエジーの名を許容しう
る唯一の場合であるだろう。
言葉の対象物の言葉による画定と,対象物としての言葉の言葉による描写,要するにそ
ことわざ
の言事の定義は,辞典におけるそれ以外にさまざまに可能であるだろう。ポンジュのテキ
ストは,まず第一に,それらく多様な>定義一描写の可能性の蕩尽としてあらわれる。
VARIATIONSAVANTTHEME
テキストの全体を3部に分けるこれら標題を見比べる時,それぞれが他の二つとの関
タイトル
連においてどのような独自の性格・機能を表示し,それぞれのパートにどんな資格を付与
しようとするのかを反省せずにはいられない。なぜなら,第1部から第3部へと,この順
序に読まれるべく配列されていると考えるのが当然だとすれば,VARIATIONS…は
POEMEの前に(AVANT)おかれているのであるからTHEMEとはPOEMEだとい
うことになるし,それは一篇のPARAPHRASEによって後から補強されていることにな
ろう。だが何らかの主題を前提せず,それに先立って奏でられる変奏曲というものが考え
られるだろうか。変奏とは常に必然的に一つの主題についての(に基づいた)変奏
(VariationssurunsUjet)ではないだろうか,たとえその主題が顕示されるにせよ,されな
いにせよ。そしてまた,少くとも標題を構成する語の配列の順序に従う限
● ●
りPARAPHRASEの後にやってくるPOESIEとは,POEMEに対してどのような関係
を保つのか。およそ一切の置換・代替を許さないものとみなされた詩篇の〈冗漫な敷術・
説明>であるようなものの後(ないし同時)に,なお何らかのPOESIEがありうるものだ
ろうか。
だが主題とは何か。theme<cequiestpos6>:SUjet,id6e,propositionqu'ond6ve.
フランシス・ポンジュの『窓』について
59
loppe(dansundiscours,unouvragedidactiqueoulitteraire).V.Fond,idee,sUjet(…);
cesurquois'exercelareflexionoul'activite.V.Objet,sujet.(Le凡"オRo6e")つまり
一般にはthemeという語とsujet,objetとはほぼ同意語として互換可能だ。しかしポン
ジュにあっては明確に識別されるべきものであるらしい。この点に関して,同じくHbces
〃
所収の一篇、、LELEZARD"の梗概(Argument)は参照にあたいしよう。《…Plusieurs
’
traitscaract6ristiquesdel'objetsurgissentd'abord,puissed6veloppentetsetres-
sentselonlemouvementspontan6del'espritpourconduireautheme,lequelapeine
enoncedonnelieuaunecourter6flexion""γ/Ed'otIsed61ivreaussit6t,commeune
simple6vidence,lethemeabstrait…》(下線は筆者による。)ポンジュ自身によって規定さ
オブジェ
れたテキストのこうした発展段階をあてはめて読んでみると,描写の対象であり同時にテ
シユジエ
キストの主体(主語)であるトカケ(unl6zard)が出現するための必要十分条件を明示する,
それ自体すでにかなり抽象的なく主題>部の直後に,<Etmaintenant,pourquoinepas6tre
honnete,α加s彪加〃Pourquoinepastenterdecomprendre?Pourquoim'entenirau
po6me,piegeaulecteuretamoi-meme?》と書き出されるいわゆる〈短かい省察>が続
く。してみると,先の主題部こそやはり,第一の読者たるポンジュにとっては,罠=詩篇
とみなされるものであるらしい。そしてこれを否定し,破壊する機能を〈反省・省察>が
にない,しかもこの否定作用の内懐から,いわば明白な事実として(のように)(comme
unesimple6vidence)第二の主題が出現する(事物存在,対象を消滅させ,より抽象化さ
れて)。こうしたテキストの運動過程全体は,ポンジュによれば対象=主体(objet-sujet)の
描写から一つの寓嶮(all6gorie)が発生し,それを精神が意図的にくのみこむ>(r6sorber)
経過を跡づけることになる。
ところで,仮に上のArgumentをわれわれのテキストに反映させてふるならば,窓とい
う対象=主体の<特徴的な種々相>が展開され,織りあげられるのがVARIATIONSであ
、
り,それはやがてTHEME=POEMEへと導く前段階としてのprC-poeme,ポンジュの用
語を借りるならばpro6me(緒言,序文の意あり)だということになろう。のみならず,
このtheme(罠とみなされる)への反省であり詩篇の解明・解体にしてその自由な敷術曲
、
にほかならないPARAPHRASEは,それ自体もう一つ新たなTHEME=POEMEであ
/
るようなPOESIEを産出し,新たなpro6me-variationsの機能を果たすことになる。逆に
言えば,VARIATIONSもまた詩篇にとっての一種のparaphraseなのであり,それは
詩篇の前に来ることも後に来ることもありうる。つまりテキストは常に断片化されており
(pieces),各断片,各テキストは相互に導きあい,接合され,書きつがれていくことをやめ
パースベクテイヴ
ないのだ。この視角のもとでは,作品「窓』は確かに三部構成ではあるが,先行の二つ
のパートが第3部自身の内部で小規模に反復され,映し出されることによって,テキスト
全体はいわば自乗された2辺の囲いこむ方形の空間(carr6,carreau)として見えてくる。
60
内 田 洋
VARIATIONSはしかし,対象の示差的特徴の枚挙,というよりむしろ他のもろもろの
事物との類似の総覧,暗嶮の氾濫という様相を呈しつつ,多様な虚構のモチーフを織りあ
げていく。そこでは類似性と暗楡の獲得が目的ではなく,単なる素材であって,それらが
相互にぶつかりあい,干渉し,否定しあうことによって言葉の次元で新たな結ぼれが生じ
ていく。そしておのずからいくつかの単位に区分される。まずこれらの語が形成する1行
.
の詩句,つぎに数行(時には孤立した1行)による節の形成,最後に2箇所のより広い行
間余白によって詩節全体が3章に分割される。即ち,I第1節∼第10節,II第11節∼第17節,
III第18節∼第21節。
それぞれの章がどのような統一性をもって,他から自己を分け隔てるか,多様な可能性
があるとしても,少くとも形式的には,第I章で対象が三人称的位置におかれ,叙述に常
に潜在する二人称的性格が(Opr6poseesauxcieux/avecvostabliers.を除いては)背景
に退いているのに対して,第II章では代名詞tuによって,対象が二人称として顕在化し,
さらに第1Ⅱ章は一人称代名詞jeの出現によって特徴づけられ,このjeとtuとの直接的
な,肉体的なかかわりあいが問題になる。つまりそれは,一つの虚構のドラマが,散乱し
動揺する言葉とイメージの群の間から,次第に明確な筋(intrigue)を露呈していく過程だ
と言えよう。
第1章第1節
Haremnombreuxdujourこの第1節,冒頭の3行にならんだ3つの四角い文字
(Harem,Humiliant,Niches)は,視覚的に描写対象を喚起している。丸い(あるいは卵形
、
の)文字Oについても同様だと言えよう(cf.Fenetreronde,ovale)。従ってPOEME冒頭
の間投詞OHの二重の価値が注目される。またページの上の活字配列を,文字の水準にせ
よ節の水準にせよ,白地に黒く穿たれた穴すなわち窓とみるならば,VARIATIONSの多
様性・複数性と相俟ってnombreuxの一語を適切なものとしている。修辞的には日光ない
し太陽(lejour)の擬人化が軸となって,一方ではアラビア回教世界の専制君主,他方では
キリスト教世界の天空(父なる神の御座)という,矛盾した観念がせめぎあい,その間に
あって窓は,異教の暴君に人身御供として捧げられる女,地上の人間世界から天界へと身
を捧げる聖女のイメージに変貌する。また天空の単一性と,何千何百もの窓をつらねた凡
俗で日常的な都市生活の光景との対比が,キリスト教的イデオロギーの,またその唯一神
の圧制的支配力をイロニックに暗示していると言える。いづれにせよ,自由な人間の国に
とっては,壁壼の中の聖女も後宮の女たちも,外異の暴政への屈辱的な貢物だ。暴虐と屈
辱,これは虚構を導く重要なモメントの一つとなる。
araisond'unmillierparrues:ruesは単数形であるべきところだが,あえておかされ
たこの文法的誤膠は,ポンジュのいわゆる〈語の殊更な濫用>と不適切語法の一環にほか
フランシス・ポンジュの『窓』について
61
へ
ならない。その結果たとえば,parruesは3行目のvou6esの影響でparues(paraitre
の過去分詞,女性複数)と読んでNichesの修飾語とみなす可能性を生じさせる。Niches
公
paruesaraisond'unmillier…paraitreは人目に立つこと,外見を虚飾することと考えら
れるが,書物が出版されることと考えればNichesは詩や文学作品の暗嶮と見えてくるoテ
キストの冒頭に,読書の空に向かってささげられているのは,実はnichesではなく二つの
aches(H)なのだが。
第2節
八
Opr6poseesauxcieux/avecvostabliers:前節で述べたように,間投詞Oは,それ自体
一種の象形文字とみなすことができるとすれば,prepos6esは女性複数形容詞,◎は女性的
存在の記号と化して,そのアクサン・シルコンフレックス(/へ)こそここでのtablierだと
いうことになろう。しかしここにはまず,カーテンや窓掛をエプロンとしたかいがいしい
L,でたち
扮装で,天国(ないし大空)への取次係を務めている受付の女=窓という擬人法を見るべ
きだろう。(cielがこの節ではcieuxにかわっている点に注意。)天国の前に配置されてい
る(prC-pos6es)と同時に,天国の窓口で受付その他の任務を担当する女(pr6pos6esaux
cieux)。第一節につづいて天空の平俗化・日常化がおしすすめられていると言える。次の
Bleuescontusionsは,その窓口からのぞいて見える青空,または建物の外部からながめた
場合,窓ガラスに映って見える空の青さであろうが,それが打撲傷や皮下溢血であるとい
うのはいささか唐突で,不可解な断定に見える。一体そこには想像力が辿ったどのような
迂路が隠されているのか。
まずHDces一巻にecchymoseの語はこの場所を除いてただ一度だけ"LAPAROLE
〃
ETOUFFEESOUSLESROSES''にあらわれる。そこではローズという名の娘にほかな
らない薔薇の花が,そのローブと太腿,コルサージュと乳房の区別がない肉体を二本の指
につままれ,もてあそばれる。そして人は彼女を意のままに《按配し,その身を半ば開き,
みつめる》(disposer,entr'ouvrir,regarder)ことができるし,またそうしたければ《ただ一
度の恐るべき皮下溢血で萎えしおれさせることもできる》(fletriraubesoind'uneseule
ecchymoseterrible)。その結果,これは愛の神がどの娘=花にも数ケ月をかけて遂行させる
仕事なのだが,残酷にも花はふたたび葉の状態にもどる。つまりここでは生物体の内奥で
生ずる,生殖作用に伴ったある種の溢血充血が問題なのであり,それはいわばuncoup
defoutreによる溢血,あるいはfoutreそのものの溢出なのだ。
一方,LtzR"E"/セ幼形ss""(1952)所収の《mLAMOUNINE''(1941)は,1941年5月の
朝9時頃,ポンジュが観光バスの《閉ざされた窓ガラス》を通して,エックスの近くでな
がめたプロヴァンスの青空の特異な印象,その《大空の恐るべき威圧感》(autorit6terrible
desciels)を探究したテキストで,『窓jの読解のために比較研究されるべき重要な作品で
内田
62
洋
ある。例えば,プロヴァンスのこの黒く見えるほどに深い青空,《閉ざされた空》の下で,
自然は生きようと試み,《空にむかって懇願している》(supplicationsauciel)ようだ。だ
が何の答えもない。それは透明なあまり《惑星間空間の夜》(lanuitintersid6rale)をのぞ
かせている《くもりのないガラス窓》(unefenetredevitreclair)であって,プロヴァン
スでは真昼に夜を体験することができる。《昼と夜の婚姻》(lemariagedujouretdela
nuit)に立ち会うことができる。そしてまた,この青く黒い,輝きに満ちながら同時に暗い
空は,無数の,あるいは《一枚の巨大な青いヴァイオレットの花弁の爆発》(1'explosion
d'uneimmensep6taledeviolettebleue)のようだし,その奥に身を隠した蛸が,そのスポ
イトで胸に溢れたブルー・ブラックのインクのごとぎ欲望を吐き出したようでもある
(Quelpoulpeasoupir6sonenvieauxcieux?Groscur,s'est6panch6?Quelco.
mpte-gouttesavid6soncTurgros?)(7bw@e"eWW,p.394)さらに決定的なのは,プロ
ヴァンスの空の輝きとは,奥深い宇宙空間の夜の金属板に打ちおろされた挙の一撃がめざ
めさせた光の振動にほかならない(Quelcoupdepoinga6t6donn6surlat61edela
nuit…?)ということであり,この《壮大なドラの一撃》(legrandcoupdegong)によって
空は《碧色の充溢の発作にみまわれ》(Cielblam6(…)Commefrapp6decongestionde
l'azur),この脳溢血の空の下で家々は顯頴をおさえて頭痛を耐えるようにその瞼を(つまり
窓や鎧戸を)閉じている(Lesmaisons,lestuilesserrbes,laissentclosesleurspaupi6r
e
s
)
。
これにさらに,助ces所収の他の一篇"LEsoLEILPLAcEENABiME''を読みあわ
せる必要があるだろう。このテキストでは太陽は《鞭打つべき独楽》(Lesoleiltoupiea
fouetter)であり(toupieは卑語で頭ないし女の意あり),同時に《挙固の一撃》(coupde
poing)だ,つまり殴るものであって打ち叩かれるもの(Ainsi,battonssoleilcommel'on
battambour!)なのだ。そしてその光と熱の照射(cescoupsdelumi6reetdechaleur)は,
穀物の穂や豆の英をはじけさせる《サディスティックな穀竿》(unfl6ausadique)だ。両性
具有の太陽はまた暴君であり芸術家であり,ネロか《赤鬚皇帝》(Ahenobarbus.Fr6deric
l世1125-1190の異名)であるが,また赤毛の娼婦であって,テキストの末尾で,詩人は
あたかも錯乱のあまりわが娘を凌辱する淫乱な父(Violeurdesesenfants)たる太陽に
とってかわったかのように,青インクの満ち溢れたそのペン軸でサド的な振舞におよぶの
八
である(OSoleil,monstrueuseamie,putainrousse!(…)trouvantenfind6slongtemps
ouverteslesporteshumidesdetoncentre,j'ye㎡onceraimonporte-plumeett'inon-
deraidemonencreopalineparlec6tedroit.)。ここで《soleil》の中心に位置する《漏れ
た門》(lesporteshumides)とは,詩人のペンの下でインクのまだ乾ききらない文字<o>
と<e>であることに留意しておこう。
以上の概略的な参照から,およそ次のように言うことができる。まず青空自体が青黒い
64
内田
洋
を身にまとい実に見せかけるもの,<simulacre>なのだ。つまりfan−はfen−の見せかけ
(feint)にすぎないということだ。言いかえればポンジユの『窓』は明らかにfant6meすな
わち虚偽の窓,(fenetrefeinte)であるということだ。だがまさにその明らかさが《虚偽の
光》によるものであるということを,テキスト自らが照明している。従って真の光をでは
なく偽りの光を当てる装置とは,人間の言葉による作品,とりわけ理性的な明るさをめざ
して書かれたもの一般だということになる。言語は人間にとっての人工照明の具であり,
またこれなくしては真の光さえも精神に明るくはないだろう。
ここでの虚偽性(fausset6)とはまた当を得ず適正でないということでもある。実際窓は
真の光の方向いかんにかかわらず,穴を穿たれた壁の方向から室内に光を射し入れるので
あって,事物はそこでは常に多少とも〈不当な光の当て方をされている>(6tredansun
fauxjour)し,一切は疑わしく,暖昧だ。われわれもまた一篇のテキストのありよう
(facond'6tre)を〈不当な光を当てて示す>(presentersousunfauxjour)装置を仕組んで
いるのかもしれない。いづれにせよ,人は足を踏みそこね,虚偽の意味を産出する(faireun
パロール
fauxpas,unfauxsens)ためにさまよい出ることができる。少くとも《ことばはもはや,
それが顕示している悲壮な,あるいは滑稽な誤膠(祐裡)によってしか(ポンジュを)感
動させない。その意味作用によってでは全くない》のだ(cf.PROEME,Ⅳb""""Rec"",
p
.
2
3
)
。
すると真なるもの,唯一の固有なるものは存在しないのか。《真理?私には何のことかわ
からない》・ポンジュによれば様々な存在様態(fafonsd'6tre)があるばかりでなく,存在そ
のものが複数化する。新たな人間はもはや,形而上学が永久に棄てきれないでいる唯一な
るものへのノスタルジーに無縁だ。彼は世界の無意味さと不条理を決定的に容認し,存在
論的問題に拘泥しない。〈希望>(マルロー)もないがく不安>(ハイデガー)もない。そし
て表現手段の不実性(I'infidelit6),自己表現の不可能性こそ不条理のうちでも最も重要な
ものだ。言葉は対象に対しても主観に対しても,それを再現・表現する透明なガラスでも
なく,それを忠実に,正当に反映する鏡でもない。書くとは,唯一の真なるものを前にし
てそれをくもりなく,明らかに映し出すことにはならない。ポンジュにとって,書かれた
ものテキストは,本来不完全な反射装置にすぎず,それはいわば半ば対象を現前させ,半
ば自己自身であるような半透明な窓ガラス,あるいはむしろ一つのめくら窓(fausse
fenetre)であるほかないのだ。
めくら窓は壁の一部であり,壁の変容である。その厚ゑを穿ち,それが囲いこんでいる
枠・限界の外へと口を開く(ouverture)身振,見せかけだ。この時,壁の物質性,その厚み
と材質とが,利用すべき資源となる。書くとはポンジュにとって,言語の物質性を素材と
して意味作用の複数性,多様性を産出し,対象の無言状態に等価な,それと無差別
(indiff6rent)な状態にまで言語を至らしめることなのだから。ただしそれは,事物の未知で
フランシス・ポンジュの『窓』について
65
多様な現存性をめざしたポジティブな無言状態への努力なのだが。テキストの内部で,言
語記号の意味作用が変化し,多様化していく,その過程全体がテキストの産出行為となる。
つまり記号の可変性を開発しつつジテキストはたえず自己を産出し,変換していく。テキ
ストは自己自身を読ゑつつ,つまり反省,反照しつつ書きつがれていかねばならず,変換
すべきものとしてそこにある。この操作・作業は,書くことが限りない開口,ふみこえの
試孜である限り,完了することがない。《未完結の反省装置》としてのテキストは,やはり
ここで自己自身の歩みを,自己を半分することによって,半ば(従ってまた)不完全に映
し出しているのだ。
第5節
ここでは何よりもまず<f>の執勘なたちあらわれ,瀝ぎまといに注目しなければなら
ない。fenetreのfant6meとしてのイニシアルFの反復に。Fant6me,Faux-jour,imparFaite,r6Flexion,Foyers,Flammes,Froides…このfには,どこか喉を掻き切られて吊る
された女(uneFemme6gorg6e)といった趣きがある。1951年にポンジュは《tR6flexions
surlesstatuettesfiguresetpeinturesd'AlbertoGiacometti''(LWes所収)を書いている
が,この中で,ジャコメッティのあの極端に細長い彫像を《妖怪》(spectre)と呼んだ後で,
それは一本の針金にまで還元された人間の孤独の姿だと,次のように述べている。《Le
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nonseulementn'aplusrien;maisiln'estplusrien;queceJE.Can'aplusde
nom…Qu'unpronom!C'estceJEquevousavezr6ussiafairetenirdeboutsurson
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figureentetedelaplupartdenosphrases・Cefant6meimpbrieux.(Voiraussi
"JOCASER畷Ⅳり""""Rec"e",pp.55-96)つまり』はジャコメッティの作品の形体的
特徴を喚起すると同時に,われわれの文章の頭に,まるで人間の最後の執念のようにつき
まとう<自我>の亡霊なのである。
この一節は比較的単純な,対象の暗嶮的描写だと言えよう。窓は光と共に熱を受容する
装置であって,そこには《冷たい炎》(=青空)が燃え輝いている。太陽熱利用の新型暖炉
だ。しかしardeursdeflammesfroidesという撞着語法は,ポンジュのあの有名な定式
《L'expressionestpourmoilaseuleressource.Laragefroidedel'expression》
(Pro6mes,刀'"e"e""",p、233)を連想させる。つまり青空が燃え輝くのは,既に見たよ
うに(第2節参照)表現への《冷静な激情》のゆえである。白いページという壁に注がれ
た詩人の,表現を熱望する視線。この点についてはまた《《LELEZARD''(Pibces所収)の次
の一節を参照することができる。《Pageparunviolentdesird'observationayinscrire
6clair6eetchauff6eablanc…》焦心の対象にしてその中心たる窓は,まさしく語の充全な
内田
66
洋
意味においてfoyerなのだ。またNouvelatreは次のような手続をへて,一種の綴り変え
的戯れ6euanagrammatique)となる。
nuvela:tr-'lav(u)ne:tr→lafne:tr(Lafenetre)
第6節
再び孤立した1行。そしてこれ自身,ただ1行の詩句にまで還元され,薄められた壁,
窓の幽霊だと言えよう。建築物の構造力学上,一定の壁面に対して窓のために許容しうる
最大限の面積というものがあるだろう,その範囲を超えては,建築物の全体が崩壊の危機
に瀕するとL,うような。同様にテキストの水準で,《壁》が白いページであるならば,そこ
に文字が書き記され,読まれうるために必要な行間,余白が是非とも残されなければなら
ない。さもないと白いページはただ黒いページに塗りかえられるにすぎないだろう。この
場合,書き記される言葉,文字が窓であり,そこを通して読書の空間に視線がざまよ↓、出
る。もし壁が,読者と記述者の間を,精神と事物の間を隔てる障壁としての言語であるな
らば,語と語,行と行の間の余白,さらには緊密な論理的,意味的連続性によって人を囲
いこゑ閉塞している言説(discours)の線状の流れ(cours)を中断する何らかの空隙・飛躍
こそ,一つの直観的合一のための開口(ouverture)となるだろう。日の目を見る子供たるテ
キストの読者が《'LEVOLET''(Pjbces所収)末尾にいたってその《行間に光を見る》
(ENTRESESLIGNESVOITLEJOUR)というのがまさにこの場合だとすれば,ここで
は余白が窓であり,語は余白を読ませ,そこに光を(おそらくは虚偽の)見させるための
装置を形成する。いずれにせよ,この効果としての開け(ouverture)が果されるのは,常に
地と図,文字と余白,連続と切断,書かれたものと書かれていないもの,言われうるもの
と言われえないもの,差異と類似の,相互的な戯れによってであって,一項による他項の
絶対的な排除によってではないのだ。言語という壁に囚われているわれわれ?これはまさ
しく"LEIFZARD''の主題の一つだ。《Lorsquelemurdepr6histoiresel6zarde,ce
murdefonddejardin(c'estlejardindesg6n6rationspr6sentes,celuidupbreetdu
fils),-ilensortunpetitanimal(…).Parcemurnoussommesdoncbienmalenferm6s.
Siprisonniersquenoussoyons,noussommesencorealamerci"/歓彪池"γ,…》われ
エクリチユール
われの現世代の庭を限る奥の壁,ポンジュの記述行為はまずこの限界を突破する可能性を
信じ,意欲するところに始まりうるのだし,その営為はこの壁に亀裂を,艫を入れる作業
なのだ。あるいはまた,この壁を可能な限り,極度に薄くすることでその《外》を見え透
かせること。書くとは,そこを通じて外へ出ていくための窓を穿とうとすることだ。しか
しその外とは,思考と言語表現の限界,その奥底(fond),その枠(cadre)の彼方ということ
であろうか?不可能なもの,考えられないものということであろうか?ポンジュはただ,
その外から,扉の下の隙間を通って忍びこんでくるものは《一つの威嚇のようでもあり同
フランシス・ポンジュの『窓」について
67
時に悪い冗談のようなもの》(alafoiscommeunemenaceetunemauvaiseplaisan.
terie》だと答えるだけだ。
この1行には,もう一つ別の照明の仕方がある。都市の景観を高い位置から見おろした
場合,ある種の建物はその壁や屋根の全体ないし一部が《半透明》(translucide)であると
いう点で特殊な様相を呈しているのに気づく。ポンジュによればそれが《、L'ATELIER''
(Pjbces所収)だ。そしてその場所では,都市の表皮が《極度に薄く弱くなっていて》
(aminci,att6nueal'extreme),真皮と表皮の間に《漿液が溢出し》(las6rosit66panch6e)
●
●
●
●
●
●
●
(これは例の皮下溢血だ),《イボとガラス張りの中間の,風変りな電球のようなもの》(une
vari6t6d'ampoule,entre〃〃γj@"eet"gγ7'"g)を,建物の肉体表面に形成する。仕事をする
手にできる,あの摩擦による水ぶくれだ。とりわけある特殊な種類の仕事場,芸術家のア
トリエでは,むしろそれは繭のごとぎものであって,その中で昆虫=芸術家は脱皮をくり
かえし,変態をとげ,《作品という自己の殼を形成しては脱ぎすてる》(I'artiste(…)〃@"eet
palpiteets'arracheses"uvres.Qu'ilfautconsidererd6slorscommedespeaux)。つ
まりポンジュのアトリエでは,《南向きの窓の前で》作品『窓』が一枚の薄い皮層として形
成されていく時(Eneffet,lorsquejecommencea6crire,devantunefenetreregar-
dantaumidi…)(cf.LESOLEIL,H@ces所収)二重,三重の意味での壁が極度に薄く
なっていくのである。
第7節
誰にせよ,この壁を破壊し,撤去すること,端的に穴をあけその外に出ることなど問題に
ならないだろう。なぜなら,それはそこに人が住まうための家でなければならないからだ。
ただ壁を薄め,艫入らせるだけ。それによってのみ,はじめて見えてくるような外と光と
がおそらく存在する。その作業・労働と壁そのものとの同時的な相関物であるような。窓
をとりつける(pratiquerunjour)−ある種の光の実践(Pratiqued'unjour)。
人間の住居であるようなあらゆるものの奥深くに,どの部屋の奥にも,少くとも一つは
窓が必要だ(sedevoir=6treoblig6?)。だがなぜ正面でも側面でもなく,奥なのか。おそら
く奥の奥,根底にこそ,真に穿つにあたいする壁,底の壁があるからだ。実際どのテキス
トも,Rbces所収のどの一篇も(chaquepiece),根底において(aufond)この奥の壁に奉
仕するべき(sedevoira=6treoblig6deseconsacrerd)窓でなければならないし,その
ような窓はこの壁に自らの存在(理由)を負っている(sedevoird)のだ。われわれのこの
テキスト自身,どんづまり(のおかげ)で半ば窓を開くことになるだろう(末尾の一句(Par)
gracealafinentr'ouverteを参照せよ)。
内田
68
洋
第8節
パロール
人間のあらゆる住居に(ただしことばこそ人間の被膜にして棲家なのだが−《O
hommes(…),vousn'avezpourdemeurequelavapeurcommunedevotrev6ritable
sang:lesparoles.》乃加gか忽加"",p.185)少くとも《一つ》必要なのは窓だけではない。
これを契機に窓は単数化されて,虚構は新たな局面を展開する。住居,家庭,その奥には
奥方が不可欠だ。男は妻を得ねばならない,少くとも一人は。だがどの部屋にも一人,妻
をおきたいと考える男い、る。こうして第10節の《青鬚》へと急速に収欽していき,それ
は第1節第1行のハーレムの主の名を明かす結果となり,一つの円環を閉じてしまうの‘で
ある。だが青鬚は意図して複数の女たちを妻としたのではなく,たえず一つの可能性を求
めつづけ,そのつど熱烈に女を口説いたのにちがいない。彼にとって女はそのつど,風よ
けの絹(カーテン)をまとった可能性の窓であった。しかし,シャルル・ペローの「青鬚』
では女は青鬚の豪壮な城の生活とその富に目がくらみ,おぞましい青鬚さえもさほど青く
はな↓、と信じるにいたって,結婚を決意するのだ。つまり彼女はその《衝立》(paravent)
の陰で,夫とは別のものを愛していたことになる。すると彼女に常に寄り添う青鬚こそ,
女の身を世の冷たい風から守るparavent(俗語で夫の目をくらますための見せかけの愛
人の意あり)だというのだろうか。
今や恋い焦がれる想いの的,しかも冷酷な心の火の焦点として,窓は第5節の意義の複
数性から,特殊な,そして単一な(singulier)自己を抽出していると言えよう。ほぼ同一の
語句がテキストの別の脈絡の中に織りこまれることによって,全く新たな機能と意味効果
を持つ。これはいわばヴァリエーションの中のヴァリエーションだ。
第9節
三たび孤立した1行。《楽音》(harmonie)とは,窓ガラスを打ち,鎧戸をきしませる雨
や風の音であり,同時に恋する男の求愛の声音,恋人の窓辺に奏でられるセレナーデであ
ろう。しかしその顛音はたちまち別な調子の女の声にオーヴァー・ラップする(ここでも
声=亡霊としての1行の蝶番的な役割は明らかだ)。
第10節
それは青鬚の7番目の妻の哀訴の声(あるいは逆に官能的快楽の極ゑのロ申き)であるば
かりでなく,窓ガラスを伝い流れる雨の滴,泣き濡れた顔を映し出す。窓(Fen-etre)=女
体(Fem-me)という暗嶮が,日光一青空一青鬚という換愉の媒介によってこうまで明らさ
まになった段階では,虚構は一段落せざるをえないだろう。
Barbe-Bleue-le-Jour,このトレ・デュニオンに結ばれた4語は,たちまち次の一節の
《四分された体》(toncorpsenquartiers)を導き出す手がかりとなるのだが,十字窓(la
フランシス・ポンジュの『窓』について
69
crois6e)を通してながめられた青空を喚起していると言えよう。日光ないし太陽が青鬚と
呼ばれうる理由については,第2節に関連して既に述べた。"LESOIEn''における《赤
鬚皇帝》(Ahenobarbus)を想起しておこう。問題はイタリア語IIGiorno(=lejour)の価
値と機能だ。<jour>と<nuit>を比較すると,その意味するところとは逆に,前者が暗く,
後者の方が明るい印象を与える語だというマラルメのあの有名な意見に従って,ポンジュ
はここでlejourを開放的な母音の響き(O)に富んだイタリア語によって,修正もしくは
補足する必要を感じたのだろうか。またイタリアの空の連想とその金色(giORno)で窓を
明るく飾る(orner)ことによって,あるいはまた<G>と<O>の丸い字形で太陽を象形す
ることによって。青鬚にとってはしかし,不吉な暗さの方がふさわしいのだが。
他の視点からは,フランス語に同化した外来語giornoの日常使用される唯一の機会
6clairageagiorno(真昼のように明るい照明)という言い回しを想起すべきかもしれな
い。つまりここでは人工的な手段によって,白昼の,〈自然な>,〈真の>光に等価な照明装
置を提示することこそ問題なのではなかったか。とすれば,この<Eclairageagiorno>と
いう語句への関心がポンジュをして窓を主題としてえらばしめたと仮設する可能性が生じ
てくる。その真為ははじめから問題でなく(ここは証明の場ではなく照明,開明の試みで
あるにすぎないのだから)ただテキストがそのような読ゑ方を試みうると示唆しているの
だ。作品『窓』の起源であるかのように,意味ありげに目くばせしている(IIGiorno)。少
なくともそこには<L'origino><Ol'origin(e)>が隠されている。(一方,BarbeBleueと
Ahenobarbusとの親近性に重きをおくなら,《《LESOLEIL''の制作期間1928-54と《《LA
FENETRE''のそれ1929-53とを考慮した場合,後者は前者の制作過程における派生的
な主題であるかもしれない,とも言える。)
第II章第1節
《四分された肉体》は,前節の直後におかれたこの詩行の機能として,まずBarbe-Bleue-le-Jourなのだが,しかしまた青鬚の肉体を映し,透視させている窓こそが,その
十字に組まれた桟によって分割され,両腕で腰を抑えられている。つまり窓のその透明な
肉体は青鬚の肉体に重なり合い,いづれとも分かち難く合一している。しかも,この第II
章全体を通して,青鬚の名も他のいかなる固有名詞も外見上は排除されている以上,どの
《おまえ》とよびかけられた女体に重なりあっている肉体は,端的に青鬚のそれだという
わけではないのだ。それは誰の肉体なのか。任意の男のか。つまり虚構は青鬚の名を消去
し(正確には《青い鬚》labarbebleueと普通名詞化し),窓を単数化し,それをtuと呼
ぶことによって新しい段階に入る。
抱きつかれ,男の体の下で身動ぎもならないでいる女は,苛烈な気候,秋霜烈日をしの
パッション
パッション
く・ように激しい一つの情念を蒙り,この受難を耐えねばならない。Objetとの戯れ0eu)
内田
70
洋
であるようなテキストobjeuがもたらす,激烈な快楽Ooie),テキストとして客観化され
た快楽objoieo対象の歓喜。とすれば,この〈窓>(語ないし観念)「窓』(テキスト)と
いう女体の上に重なりあっているのは,記述者そして読者以外の誰だろうか。実際,彼等
(われわれ)は,対象としての〈窓>『窓』をなぶり,弄び,戯れあって,対象との相互的
な享楽6ouissance)を尽くそうとしているのだ。
第2節
Opunchs!唐突なこの呼びかけは,一体何にむかってのものだろう。ここでのOにもま
た,第I章第2節におけると同様の象形文字的価値を認めるとすれば,やはり火をつけら
れて青い炎をあげるポンス酒の向う側に,青空をのぞかせる窓を想うべきなのだろう。た
だし窓が単数におかれているこの文脈では,複数名詞punchs(p3J)は四分された窓の肉
体の各部分の暗嶮だということになろう。だがpunchsとはまた本来英語からの借用語で
あることを考えれば,その英語における向耆異義語punchs(p"n小であっていけない理
由があろうか。なぜなら,第I章第2節においては,まさに青い打身の跡や皮下溢血が問
題だったのだし,前節の肉体と肉体の重なりあい,ぶつかりあい(abraz-le-corps-p
corps-a-corps)は四つのコーナーに分かれたリング上でのボクサーの,もつれあった肉体
(クリンチ)ではなかったのか。その時Oは青病に隈取られ,眉の下で大きく見開かれた
目となり,1はまさに痛烈なパンチの衝撃を示す記号にほかならな↓、。これは確かに一つ
の《受苦》(passion)にちがいない。
ポンス酒としてのpunchは,リトレによればponchとも綴られるペルシア語源(5を意
味するpanjから)の男性名詞で,またブリヤーサヴァランはこれをponcheと綴る。元来
はponcheと綴り,女性名詞とした,とある。つまりこれは単語の水準でのヴァリエーショ
ンであり,同一の指示物を透視させる男・女両性の語の肉体の重なりあいだ。だが3行目
でPunchsよりはPonchesの方が適切なものとして選びとられる理由が,何かあるだろ
うか。その青い鬚を問題とするなら,むしろ男性名詞である方が好ましいであろうに。ま
たポンス酒の杯から燃えたつ青い炎を,その青い鬚と見立てるとして,それが《昼も夜も》
燃えあがるのを見るためには,もはや窓もその青空のことも忘れて,青鬚の館での昼夜の
別ない大狂宴を想起すべきなのか。富の焼尽,言語と肉体の蕩尽であるような享楽の宴を。
そしてまた,全篇を通じてこの一節だけに現れた3つの(!)は,杯から立ちあがった炎
だと言えようか。いづれにせよ,言語と化し,テキストに変身した青空にも,酒の炎にも,
昼夜の別はもはやなくなることは確かだ。もし,ガラスの器の中の青い酒と炎poncheを通
して窓越しに見る昼の青空をあくまで見ようとするなら,jouretnuitの一句は無意味な
誇張法と化すか,さもなければ第1章第2節で言及したプロヴァンスの空の,夜に等価な
青黒さを想起して,《昼にして同時に夜》と考えるほかはあるまい。
フランシス・ポンジュの『窓」について
71
第3節
D6tenueは過去分詞とみると,この分詞構文の主語を提示すべき主節が全く欠如してし
あるじ
まう。頓呼法に用いられた名詞とみて,《主によって監禁された女よ…》(Detenuepar
l'h6te….)と読むことができる。これは既に第1章第7節で,家庭の主婦一清鬚の妻を導き
出した,部屋の奥のあの窓=女だ(ペローの『青鬚』では,禁断のあの小部屋は《長い大
広間の尽きたその奥》(auboutdelagrandegalerie)にある)。だがpenderieとは何か。
現代語では,衣服を掛けておく小部屋,ないし戸棚であって,garde-robeの同義語。『青
鬚』にはgarde-meubleはあるが,この語は見当らない。また古語ではpendaisonと同義
で,①懸けること。②絞首刑,首吊り,縊死を意味した。とすれば,殺された青鬚の妻た
ちが,古い衣服のように吊るし掛けられた奥の小部屋こそpenderieであって,chaque
piecesousunependerie,即ち《衣裳部屋をよそおったどの部屋の奥にも》と読める。また,
やや無理かもしれないが,souspeinedependaisonと考えれば《首を吊るすぞとの威嚇の
もとに囚われた女》となる。さらにpenderieから,換嶮法的に吊るされた衣服(カーテン)
を連想すれば,《吊るされた一枚の衣をまとった囚われの女》となる(cf.第6節Sousun
voiletuaspoingsli6s)。いづれにせよ,<penderieの下には>何らかのpendu(e)(吊る
されたもの)を感じとるべきだろう。
第4節
そのような読み方,つまり文字通りでない,書かれたものの余白を読むような読み方に
とっては,Parl'h6teはD6tenueparl'h6teでもあり,Pendueparl'h6teでもある。し
かしdont以下の異様なフランス語を(ポンジュはかつて,私はフランス語で書いたのでは
ない,と断言したが)どう読めるだろうか。まずsoinsと動詞opposerとの連合が異様だ。
この語にはprendre,avoir,donnerなどを結びつけるのが普通だろう。従って先の
《pr6pos6esauxcieux》の一変奏として《(lessoins)oppos6salanue>,即ち《空に対置
された(配盧)》−窓と読める(cf.Le凡"ノRobe":nueParext.Leciel,1'espace
nuageuxounon.)。同時にlanueは,前節で一枚の衣をまとった女を連想する限り,la
femmenueと考えることが可能となり,裸女に対して払われる主の数々の配慮を,以下に
提示することになる。(ただし,nue(雲)を,窓ガラス表面の曇り,よごれの暗楡とみる
こともできよう。)その配盧とは,洗い,愛すること(laver-love),維持扶養すること
(entretenir),修繕し,装うこと(r6parer-reparer),保持し,手に握ること(maintenir)
・いづれも窓である女は主によってそれにふさわしい世話をされ,彼の囲いもの,目掛け,
手掛けとなるのである。問題はletempsqu'ilvitの一句で,ここで仮に言説の流れを切断
して,aurontを4行目以下の過去分詞に結びつけないとすると,avoirは助動詞から本動
さ
詞にかわり,《彼(=主)の生きる時間をおまえのためにもつ(割く)だろう》と読めない
内田
72
洋
だろうか。第二の仮設としては,この一句をtantqu'ilvit(彼の生きてある限り)と読ん
で,主文の中途に挿入された従属文とふる。この場合も,主文の前未来に対してtantqu'il
vivraと未来形におかれるべきだろう。第三に,不順な気候のさまざまな苛酷さに身をさら
した窓(expos6eauxintempbries)との縁で,一種の装飾文字としてletempsqu'ilfait
(今日の天気)をもじったletempsqu'ilvit(主の生きるその日その日の天気)が添えら
れたとも考えられる。とにかくlessoinsを主語とした点が既に異常なので,この一節はポ
ンジュのいわゆる不適切語法,文法破格の組織だった援用を示す顕著な例だと言えよう。
第5節
語の配列について押韻定型詩のような拘束の下にないこのテキストにおいて,もし一つ
の語句,センテンスの内部での論理と意味だけが問題なのであれば,この二行は順序を逆
に書かれたであろう。Parlepropremaconが冒頭におかれなければならない理由は,一
つにはこれを前節冒頭のParl'h6teと平行関係におき,他方,…maintenueParle
propremafonと連続して読まれるべきだからではないだろうか。つまりこれによって,こ
の家,部屋の主こそ,窓をたえず磨き,繕い,維持しているばかりでなく,そもそも彼自
身が(enproprepersonne)壁に窓を開いたのだということが明らかになる。石工であり,
職人であり,つまりは芸術家である主。われとわが手で築きあげた石の家に住まい,その
窓をゑずから開き,たえずそれに手を加えている石工◎これはテキストとその制作者,詩
人の似姿以外のものではないだろう。
名詞に先行したpropreは,通常所有詞を伴ってその意味を弱めたり(Ex.:parsa
proprefaute),m6meやv6ritableの意になる(Ex.:C'6taitlapropremaisonde
Ronsard)が,ここには所有詞がない。(もしPartonpropremafon.…とあれば,その扉
自身の,扉固有の石工ということになろうが。もちろんそのような読みをも許容するよう
な意図された暖昧語法だ。)それを補って,Parlepropremafondel'h6te,parson
propremaonと考えることができるだろう。主自身の石工とは石工である主自身とい
うことであり,自己自身を築き,開く石工こそ,自己自身の主だということでもある。従っ
てl'amour-propre(自己自身を愛する心)にならってlemagon-propre(自己自身を築
く石工)を考えることもできよう。(maconにmafonnerの含意を充填して。因みにこの
語には,塀などを石(煉瓦)造りにする,のほかに,(戸,窓を)石(煉瓦)で塞ぐ,の意
あり。)だがその窓一扉が開かれるのは破滅と廃嘘にむかってなのだ。何故か。
まず,ポンジュにとって肝要なのは,何世紀来人間のことば,精神,現実が,いかに狭
苦しいメリーゴーラウンドの中を回転しつづけているかというその閉塞状況を理解するこ
とであって,そのためには脱出の欲望よりも任意の対象に注意力をあらためて集中しさえ
すればよい,事物は新しいもろもろの印象で人を満たし,無数の未聞の特性を差し出して
フランシス・ポンジュの『窓』について
73
/
くるだろう。ポンジュのこれら諸対象の観察と描写はそのようにして新たな人間へと人間
を引き出すためのものだ。(cf.INTRODUCTIONAUGALET,7b"@e'""",P.199)
そして彼は《内なる揚蓋を開き,事物の厚みの内部へ旅立つこと》を提案する。(Jepropose
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エクリチユール
つまりポンジュの記述行為は,対象と言葉の物質的厚みを切り開くこと(1'ouverture),
そこに穴を穿ち,掘り抜き,埋蔵された資源を明るみに引き出すこと(lamiseaujour)な
のだ。未だ言われえずに残されたこと,語られるのを待ち望んでいる事物の沈黙が日々累
積して岩のような量塊となり,人間の精神の門扉(porte)をふさいでいる(cf.UN
ROCHER,月り伽es所収)。これを除去しようと努力する詩人は,石工であり坑夫だ。坑
内で詩人は岩窟の壁を掘り崩し,突き破りしつつ,そこを住居としている。その時,彼の
作品(lelivre)とは大理石から彫りぬいた彫像とは逆に,岩の中に切り開き,彼がその内部
に留まっている部屋のようなものなのだろうか,とポンジュは自問する。それとも投げ捨
てられ,散乱した岩石の砕片なのか?(《Maislelivrealorsest-illachambreoules
mat6riauxrejet6s?>,NATAREPISCEMDOCES,Tbw@e力花"",p.147)実際,石の壁
を掘りぬいて開かれた窓はlafen6treという主題(sujet)の素材的.物質的可能性を遠慮
会釈なく消費し,汲象尽くし,同時にそのようにして記述者の主体(sujet)の内的な揚蓋を
開き,自己を掘りぬぎつつ,これらおびただしい数の言葉とイメージの群を散乱させたテ
キストなのではないだろうか。対象と主体との同時的な死・消滅に至るまで。つまり『窓」
および窓にほかならないテキストは,常にこの破滅の光景にむかって開かれる扉でなけれ
ばならないのだ。
第6節
もちろんここで《廃嘘にむかって開かれる扉》に関してだけなら,もう一度情鬚」の
レミニツセンス
投影を云々することも許される。累々たる屍の光影を展開する禁断の部屋の,それを開
くことによって身の破滅をもまねく扉を。けれどもそれは好奇心を抑えかねた一人の女に
よって開かれるのであって,いかなる種類の石工によってでもない。女は既に扉の向う,
部屋の奥に囚われている。ベールの陰で両手を縛られ・これは両開ぎ窓の中央の合わせ目
で錠をおろされた様について描写的な価値をもつし,また<fen-6-tre>という語の中央に
ある§をも喚起する。従ってまた,恐怖の余り大きく見張られた女の目は,《窓枠》(cadre)
以外に堅固な肉体をもたず,全身が目であるような窓の暗嶮であることはもちろん,やは
り<fEnetrE>の二つのE,あるいは,これもベールにおおわれているoやaだということ
になる。
内田
74
洋
してみると石工が扉を開いたのは,青鬚の妻たちと同じ破滅の危険を敢えて冒して,こ
の部屋の囚われ女に到達するためだったのだろうか。これがはたして最後の部屋の奥底の
壁なのか。少なくとも第2の虚構の本体(corps)はその枠組(cadre)の極限まで,ぎりぎり
一杯張り広げられ,展開されおわったのである。
第Ⅲ章第1節
しかしここで,新たな疑惑が生じる。石工がこの扉をこじ開け(forcerlaporte)たのは,
囚われの女を救い出すためであったのか,むしろもう一度女をその部屋の奥の窓としてこ
じ開ける(犯す)(forcerlafemme)ためではなかったのか。従ってまた,その囚われの女
とは,実は窓をなす(客を呼びこむ)(fairelafenetre)娼婦ではなかったか。こうして三
たび,新たな虚構の筋(intrigue)の端緒が見出される。
手のひらを返すように(返す間に)(enuntourdemain),部屋に入ってきた石工は《わ
たし》Oe)と入れ変わる。ゑごとな早業(tourd'adresse),手ぎわ(tourdemain)だ。実
際,石工の裏は《わたし》だったのだ。《わたし》とは詩人ポンジュ以外の誰だろう,そし
てテキストを読む《わたし》たち以外の。入れかわり立ちかわり,わたしたちはこの公共
の家(lamaisonpublique)に出入りし,公の窓,公の女(娼婦)(lafemmepublique
との快楽の遊戯に耽るわけだ。色事に巻きこまれる(intrigu6)わけだ。まずわたしたち自身
アプローチ
が,みずからテキスト「窓』に接近して,ゑずからの手と精神を働かして(tourdemainet
d'esprit)その《縛められた両手》(lespoingsli6s→lapoign6e窓の取手)をほどいて
やらねばならない。つまり《二重,三重に巻き閉められた意味作用》(lessignifications
boucleesadoubletour)(cf.《《LESOLEIL")の謎を解明してやらねばならない。肝心な
のはわたしたちがみずから手を下すことだ。テキストは万人によって書かれ,多様に機能
させられるべく人々をまねき入れている。さもないといかなる快楽も共有のものとならな
いだろう。《王たちは扉に手を触れない。それゆえ彼等は例の歓びを知らないのだ》(Les
roisnetouchentpasauxportes.IIsneconnaissentpascebonheur…)$4(LESPLAISIRSDELAPORTE,''Rz噸かfsmsmoses所収)。
第2節
《わたし》と《おまえ》とのこの性的な関係は,鏡面の反映像のようにテキストに映し
出されているのだろうか。いやむしろ半透明な窓ガラスの上の(についての)不完全な反
射だ。なぜなら,性戯の向うに(あるいはこちら側に),窓とそれを開くわたしとが確かに
透けて見える。これら二種の形象は,もはやどちらがどちらの反映像だというわけでもな
ければ,一方が他方の比喰形象なのでもない。それは今や無差別(1'indiff6rence)の状態で
同一平面上に交錯している。そしてさらに第三の形象,即ちわたしとテキストの間の戯れ
フランシス・ポンジュの『窓」について
75
がその同じ平面に交わりにいく。窓を開くこと,女の身を開くこと,そしてテキストを開
くこと。この最後のもののみが,テキストを鏡面とする真の反映像だと言えよう。
第3節
白いテキストの肉体の上に身を傾け,ページの壁の間に鼻をつっこみ,裏返してはまた
元の位置にもどすたびに,そよ風に顔を煽られながら,わたしたちの遊戯はいつ果てると
もしれない。テキストが読者を愛撫し,ひきとどめて離さないのだ。それにしても,この
紛糾を極める七転八倒(sensdessusdessous)の中で,《わたし》とは誰なのか,《おまえ》
はどこにいるのか,と最後の自己認定(1'identification)の本能が脳裡をかすめる。《おま
え》は確かにハーレムの女であり,青瘡であり,青鬚の妻であった。だがポンシュに変身
して青い鬚を生やし,青鬚自身との区別があやしくなった。ついで破滅への門となって,
男を誘い,ベール−枚の娼婦となった今,おまえはわたしの腰を抑えて離さない(me
retenir)。しかもおまえはベールとガラス,つまりおまえの半透明な肉体そのものでわたし
を囲いこみ,囚えこむのだ。おまえはわたしがねがえった途端に方針を変え,態度を変え
てわたしに襲いかかる(Tu"rabatssurmoi)。おまえはわたしの袖を引いただけでなく,
わたしの逃げ道をふさぎ,獲物みたいに狩出すのだ(rabatteuse(獲物の)狩出し人②
客引き)。すると《おまえ》は窓一女一テキストー青鬚であり,《わたし》は石工一記述者
一読者一囚われの女だということになるのだろうか。《わたし》は《おまえ》だ,と……?
一つの円環が閉じられようとしている。《わたし》の髪の毛以上にわたしの精神は混乱して
しまう。主体(sujet)と客体(objet)の相互転換あるいは同時的な死。
第4節
それはまたextase(脱我状態)への到達だ。自我の外への脱出?《外部》(dehors)と
は一体どこだろうか。記述者と読者,つまり《わたし》たちの,テキストによる現実世界
エクリチユール
ヘの送り返しが問題なのかもしれない。あるいは記述行為の果てに,築かれ同時に穿たれ
る壁,開かれつつ閉じ,閉じられつつ開く奇妙な窓の向うに,遂に言語化されることなく
沈黙のままにとどまっている《真の》と称される光が垣間見られるはずなのだろうか。そ
のような光に満ちた,言表可能なものの外が感じとられるべきなのだろうか。そもそもポ
ンジュを表現へとかりたてたのは,外部世界の対象物(objet)がもつ最も特殊な,それでい
ノfp−ル
て極めて明白な性質,人間にむかってことばを与えてくれるようにと激しく切望している
ように見えるあの側面なのであり,彼は何よりもまず《よく想念(理解)されないものこ
そ明らかに言表されること》を願望しているのだから(Quecequinesecongoitpasbien
s'6nonceclairement!)("Mycreativemethod",ル化娩α畑p.33)。けれども最も確かなの
は,〈窓>に身を支え,窓台(l'appuidefenetre)に身をのり出して,記述者=わたしがテ
内田
76
洋
キストという外在物を生孜出した(donnerlejourautexte)ということ,そしてまた読
者=わたしも『窓』に身を支え,それに肉体を重ね合わせて注釈とよばれる一つのテキ
ストを産むのであって,それは閉ざされた『窓』を解明する6eterlejoursurLA
A
FENETRE)ために再び窓を開くことにほかならないということだ。そのようにしてはじ
めて《わたし》たちの《精神》の内部で窓Oour)が開く(分かる)(Lejoursefaitdans
monesprit.)のであろう。ともかく,テキストの主要部分(corps)がかく述定されて(posE)
しまった上は,ひとまず虚構の枠一結構一の外へ出てしまうほかはない。これはしかし差
し当っての遁辞にすぎないが。
POEME
タイトル
表題をもたず,1ページ全体の白さの上にゆったりした余白をとりながらも一つの正方
形を描き出しつつ,すべて大文字の活字の配列で編まれたこのテキストは,確かに《詩の
タイトル
ページ》(PAGEDEPOESIE)だ。しかし人はどのような資格のもとにポエジーなるもの
プレテキスト
をおくのか,ポエジーとは何であるか?おそらくはLAFENETREの口実のもとに詩は
窓であるというのだろうかO.だがこれは一つの応答ではなく,窓とは何であるかというも
う一つの問の反照,反問にすぎない。まさにこのようにして,言語記号は互いに他項へ,
自己の外なるものへと回付しあい,参照しあって,最終的な存在規定を回避し,形而上学
と存在論的懸念に常に背を向けてしまう。ただ再現的・代表象的な透明性をもつものと考
えられた場合にのみ,言語はそれを通して,他のいかなる記号にすぎないものでもない何
らかの本質,絶対的で固有で一義的で真なるものを指し示すことができると考えられた。
外なる《現実》の世界をありのまま映し出し,内面の密かな《真実》を表出すると自称す
る鏡のごとぎ言語。ポエジーはこの真なるものの端女として,深く内在する単一な意味と
主観という神話に奉仕してきたのではなかったか。注釈は従ってまた,単に唯一の真理を
飾り立てた記述,装飾であり付加物にすぎないと目された詩的言説から,《固有の》意味を
あばき出し,解読することを自らの責務とゑなした。ポンジュはこのような《ベトベトし
た》(patheuse)イデオロギーに明らさまに反抗してはばからない。一切は多様な表面効果
パ ロ ー ル
であり,世界の無意味性と無言状態に等価・無差別となるまで,決然とことばを行使しな
ければならない。《世界を説明しようという企ては,人間を落胆させることになり,諦めへ
導くだけだ。世界は説明不能だとか不条理だとか論証しようとする試承もゑな同じだ。だ
からわたしは一切の形而上学をア・プリオリに断罪する。存在論的関心は誤った懸念(un
ユ ニ テ
soucivicieux)である。宗教感情その他と同列の。》《一なるものへのノスタルジーを君たち
は云々する。否,多様なるもの(lavari6t6)へのだ。》(乃加9,〃"",p.223,p.255)
いわゆる《ポエジー》が,ポンジュにあって常に否定の対象,主要な攻撃目標となった
ことは言うまでもない。『窓』がその一部をなすところの書物一巻が《Po6sies>(詩集)
フランシス・ポンジュの『窓』について
77
ではなく《Pi6ces>(作品・断片・部品・部屋などの意あり)と題されているのも既に徴候的
だ。確かに表現という作業・労働の一瞬ごとに,言語は自律的な反応を示し,三次元のチェス
の駒とみなされた各語の固有の運動によっておのずから詩篇が形成されていく。ポンジュの
オブジエ
〈書物>はこうして自然および対象物から出発する一切の杼情詩にとってかわるはずのも
マグマ
のである。だが,あの生のままの類比性の岩漿を,今もって人が詩とよぶかぎりにおいて,
そのようなポエジーはポンジュの関心をひかない(Maislapo6sienem'int6ressepas
commetelle,danslamesureohl'onnommeactuellementpo6sielemagmaanalogiquebrut.)。彼にとって重要なのは,また人間の精神の一歩前進に必要なのは,むしろ対
象のもつ差異性なのだ。辞典の定義は嘆かわしいほどに具体性を欠き,小説や詩の描写は
余りにも不完全であるか,逆に余りにも細部の特殊性にこだわり,またひどく恋意的で偶
然に身を委ねているように見える。もっと対象に適合した,過不足のない表現に到達しな
ければならない。《私は詩人であることを望まない》Oenemeveuxpaspoete)《私は詩
マグマ
的岩漿を利用しはするが,しかし自分の精神からそれを厄介払いするためにだ》0'utilise
lemagmapo6tiquemaispourm'end6barrasser)し,また《私にとっては明快で非個人的
な定式に到達することこそ肝要なのだ》(ils'agitpourmoid'aboutiradesformules
clairesetimpersonnelles.)(cf.$!Mycreativemethod,''passim.ル伽加dなs所収)。
従って,一篇の詩を作るよりは一つの事物の認識において一歩を進めることを望むポン
エクリチユール
オベラシオン
ジュにとって,記述行為の場は極めて具体的な経験,方法的な操作を伴った行動,一種の
物理実験のような様相を呈するものとなる。《私としては,自分の仕事が詩的なものである
以上に科学的なものであることをますます確信するようになった。>(!6LeCarnetduBois
depin,"乃加e,〃〃"",p.381)
ポエジーおよび詩篇に対するポンジュの態度がこのようなものであるとする
と,POEMEと銘打たれた(inscrit)このページは,自分自身に差し向けられた皮肉なのだ
ろうか,自廟の身振なのだろうか。否,これは一つの実験作業にとって,通過すべき不可
避の一段階なのだ。そこから更に先へ行くために,次のページを切り開くために,予め否
定さるべき運命をもってテキストの中途に開かれたページ,これはそのような窓なのだ。
しかもそれはVARIATIONS…の経験から帰納された一成果であり,そこでのいくつかの
アレインジ
発見物(trouvailleo)を配合している(とりわけ第4行,第8行は全く同一文の再来だ)。
とはいえこれは,こうした運良く見つけたうまい言い回しをいくつも配合して詩を作るた
オブジェ
めに対象を犠牲にするなど決してしまいという,1941年におけるポンジュのあの断固たる
決意をひるがえすものではない(cf."BergesdelaLoire,''Zb"DePγ膠"",p.257)。《私は決し
イ詩の形式に立ちどまってはいない−ただし詩形式は私の対象研究のある時点では利用さ
れねばならない。なぜならそれは合わせ鏡の働きを按配することになって,見透せなかっ
た対象のいくつかの暗い側面を現れ出させることができるからだ…》(Nejamais
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合わせ鏡6eudemiroris)?確かに他人のにせよ自分自身のにせよ,他のテキストから,
テキストの他の場所から引用ざれ象嵌された語句は《本来》の,《源泉》のコンテキストに
ス 一 ヴ ニ ー ル オ ・ フ ォ ン
おける機能と意味の脚、出を伴って,新たなその表面へ(下から)到来する。(実はすべて
の語のそこでの出会いが,常に多少とも引用,象嵌ではないだろうか。)その結果新たな脈
絡が編ゑなおされ,その効果は先行するテキストへ反映される。未完結の反照装置−限り
ない相互参照,終りなぎ開口(Ouverturesansfin)。だがここに設定されて(pos6)いるの
は不完全な反照装置だ。なぜならVARIATIONSの末尾で(遂に)その《主要部(本体)
が述定され》(lecorpspos6)た以上,次には《主題》(letheme=cepuiestpos6)が,そ
アプストレ
れもより抽象的な主題(抜粋された述定)が来るべきだからである。
詩篇は,この場合もまた行間余白によって5節に分たれる。第3節は点線の1行を含む
2行として,全体が11行から成るものとする。
第1節
無言の事物と同等にここに静まりかえっている物,静物,一つの詩=対象(pobme-objet)
が,感嘆符もなく生きた声をそこに蘇らせることもない刻印された叫びOHによって口切
られる。唖然として開き,たちまち閉じられる口あるいは窓0国,あるいは白紙の上に叩き
刻まれた(frapp6)青黒い二文字,殴打の痕跡だ。しかしそれは防塞の壁面の至る所
(partout)につけられた青瘡への驚嘆の叫びとなるはずのものであった。《防塞》(bastion)
はbastille(alter.debastie)の牢獄めいて閉ざされた壁越しに,武器の打ち合わされる戦
闘(bataille,de加伽"e<battre>)の光景を垣間見させ,一方bastide(prov.bastida<batir>)の向うにはプロヴァンスの田舎家をうかがわせる。建てること(batir)と打ち
叩くこと(battre),打ち叩きつつ築きあげる壁。すると地上の城塞と天上の《奇妙な蒼空》
(1'azurcurieux)との間の何らかの闘争を想定しなければなるまい。いやむしろ《好奇心の
強い》(curieux)蒼空だ,なぜならそれは《あらゆる住居を穿鑿したがる》(curieuxde
toutehabitation)青鬚の妻の一人なのだから。これらの青瘡は,蒼空の殴打によって,大
空に(の中に,対して)建てられた壁塁に外側から印された(bastionsbatisdansunciel
d'azur,opposesauxcieux)。だが逆に,この城塞は天空の攻略のために築かれ,その壁は
内側から打ち叩かれたと考えることもできる。実際《azur》は,ポードレールとマラルメ
の思い出によって余りにも特権化された詩語<無限>であって(cf.<Descieuxspirituels
l'inaccessibleazur>(Baudelaire),この《好奇心をそそる》(curieux)蒼空を見たいあまり
フランシス・ポンジュの『窓」について
79
に,壁を叩き薄くしようとする《穿鑿好きな》何者かが’城塞に幽閉されているのだ,と。
それは一体誰であろう,もしオリオンの末喬(raced'Orioncurieuxdel'azur)あるいはオ
リオンの種属(racedesOrions)の者たちでないとすれば。
ギリシア神話のオリオンはボエオティアの美男の戦士にして猟人。女神デイアナを犯そ
うとして(一説にはそれ以前にオイニピオンの娘を犯そうとして盲目にされた),女神の
送ったサソリに刺されて南天の星になった。これは裸体のデイアナを脱ぎ見て死んだもう
一人の猟人アクタイオンの運命に,あまりにも類似していないか。またオリオンの二人の
娘は機織の天才と美貌とを授けられ,自発的に犠牲の死を遂げた彼女たちの灰の中からは,
血筋がたえてしまわないように二人の若者が生まれ出た。−するとわれわれはここで,戦
士オリオンの城塞と織り編まれたもの〈テキスト>,またその美を連想することが許されよ
う。そしてなによりも,美の猟人オリオンの絶えざる血筋,詩人たちを。
一方ではまた,穿鑿症のオリオンに加えられる殴打(horion,d'o噸此;a.fr.oreil-
lon<coupsurl'oreille>)の懲罰,猛烈な耳への一撃に目を向けることは興味深い。この一
撃によってオリオンは,盲目になるかわりに,加えられたそのHがきこえなくなってしま
うのだ。しかしオリオンの耳への一撃がここではまた壁への殴打でありうる理由は,壁に
は常に穿鑿好きの耳がある(Lesmursontdesoreilles)ということを誰もが知っている
からだ。
ところでHorionの一語が例の日一光一青一鬚IIGiornoに起源をもつアナグラムの産
物でないと言いきれようか(Giorno→Gorion→Horion),このような重ね合わせの可能性
を考えることによって,青鬚を昼のオリオン,オリオンを夜の青鬚として,彼等を同じ血
筋の者たちと承なすことができるのだから。
第2節
DETOUTEHABITATION.これをCURIEUXの補語として前節に接続させるとす
れば,TUはL'AZURととるほかはない。その時,確かにL'AZURは第1節を第2節か
ら,その壁塁の連続を中断する位置にあって,言表内容と事態とが完全に合致するのだが,
そうするためには読む<わたし>たち自身(=tu)がまさにTUの前で壁面を鱸割れさせ,
ひま
隙(日間)割らねばならない。つまりそのようにして読者自身の行為が言表されることに
なるのだ。しかしまた同等にTUは次行のPORTEを指すとみなすことができる。つまり
《廃嘘にむかって開かれた》この扉は,一連の掘鑿作業の産物として散乱したことばの断
片・廃嘘(VARIATIONS)にむかって,ここでの石工自身の手で,まさに今この壁面にお
いて開かれるのである。TUとよびかけられた《扉》は,自分自身を含む一行全体を映し出
す小さな鏡であり,一行全体がこのテキストを外へ,廃嘘としてのVARIATIONSへと密
通させる門扉の機能を果たす。ここには確かに合わせ鏡の働き,反復的無限後退(lamise
内田
80
洋
enabime)の構造がある。
《破滅》(RUINES)はしかし,ここでは《外部の王たち》(ROISEXTERIEURS)によっ
てもたらされるのだ。ベールの陰で(隠密に)彼等と《結合した》(CONJOINTE,配偶者,
妻の意あり)女の門を通じて。まずテキストのほとんど至る所(PARTOUTLECORPS)
に開かれた窓あるいは門<O>を数えたてる必要はないとして,この密通を表示している
ともいえる<O>と<I>の頻繁な接近には注目せずにいられない。bastlOns/horlOns/
habitatlOn/flambOIe/pOInt/sOItそしてとりわけこの第5行で一挙に三度も現われる性
シンボル
の表象,conjOInte/vOIle/rOIsこのすぼめられた口が急激に開く開扉の音(WA)。問題は
城塞のこの淫塵な割れ目から侵入してくる強直した王たちとは何者なのか,ということだ。
言いかえれば,虚構はここでいかなる外を参照し,導入しようとしているのか。
VARIATIONSにおいては,侵入者は《石工》とそれにすり替わった《わたし》だった。
するとここでは記述者と読者,つまり《わたし》たちが,遂にテキストに外在する王の地
アレゴリー
位を借称し,その主権をほしいままにしてテキストを廃嘘と化するという寓嶮を読みとる
べきなのか。もしそうなら,われわれとしてもそれにふさわしくふるまうことにしよう。
青鬚の城に侵入し彼を破滅に至らしめるのは,最後の妻の弟たち,二人の騎手(cavaliers
チェスのナイト)にすぎなかった。だがHORIONの痕跡の青さを通じて双生の兄弟たる
オリオン,つまりこの場合は《青黒い夜空のオリオンの痕跡》(traced'Oriondel'azur)あ
の南天の星座と化した死せるオリオンと結託するとしたら。(なぜならHORIONには
ORIONのみならず《外》(deHORs)も《王》(ROI)も《暗い》(NOIR)空もすべて抱き
こまれているのだから。外部の黒き王オリオンOrions,Roisnoirsdudehors!)
百科辞典によれば(導入される外部の光は,ここではLarousseencyclop6diqueという
わけだ),オリオン座は天球赤道上に位置し,裸眼では7つの星の群から成って見える。4
星は四辺形(quadrilatere)を形づくり,他の3星はその中央に斜めの一線をなして並ぶ。
これは地方によって時に《三人の王》(lesTroisRois)と呼ばれる!この夜空に開かれた窓
枠(cadre),四辺形(quadrilatere)(碁盤縞の織物textequadrill6?)の真中を,昼には太
陽がのぞき激しく打ち叩くはずなのだ。実際その位置,テキストの中央には三つの星
8tOIlesがまたたいていると言えよう。
第3節
これら幸運な発見物の配合(《わたし》たちにおける)は,しかし結局あの忌避さるべき
《ポエジー》に人を導いたのではないだろうか。詩的言語の病患は数多いが,不精確と幻
アン・レアリテ
視性とはその主要な症候だ。一体現実には,窓一扉がいかなる王たちと結びついてわれわ
れの住まう構築物を危殆に瀕せしめるというのだろう。星座なら天上に固定されて動かない
というのに。ここで虚構は余りにも対象の存在様態から逸脱して,幻想に身を委ねたよう
フランシス・ポンジュの『窓』について
81
に見える。虚構は空事を語るためにわざわざ構えられるわけではないのだ。従って,壁面
の連続はここで中断されねばならない。《わたし》の望まない詩のページ……これはテキス
トの内部に取りこまれた自己否定の意志,抹殺の願望の明言化だと言うことができる。ま
さにテキスト外から關入した一行,外部の王たちだ。けれども逆説的なことに,自己を否
定し,抹消するためにもやはり自己を言表し(s'6noncer)記入し(s'inscrire)なければなら
ない。テキストは織りつがれなければならない。この二行は実のところ,この詩のページ
全体を消したいと言っているのだ。少なくともこの二行が,書きこまれざるテキストの裂
け目となるために書かれているのだ。空隙の存在を目に見えるものとしている点線の一行
の効果が,それを端的に語っている。空隙のある詩篇,これはまさに《半ば(真中で)開
かれた》(entr'ouverte)窓一扉だ。両開き戸(laporteadeuxbattants)の接合部で,つまり
第1,2節と第4,5節を二つのbattants(打ち叩くもの)として二つのものの間で(entre
deux)開かれたテキスト。
ところで,対象に適合した表現を求めてやまないポンジュにとって,対象の名において
プレテクスト
(aunomdel'objet)その口実の下に発言する(prendrelaparole)その仕方には,一定の
オブジェシュジェ
規則などありえない。なぜなら対象(主題)に応じてそれは変化するはずのもので,オブ
ジェごと(詩篇ごと)に,最もふさわしい形式と修辞とが見出されねばならない(cf.
j勉加〃s,P.37)からだ。対象自体が詩篇の形式を決定し,指定するのだ。彼にとって,オ
ポエチツク
ブジェとは一つの詩法であり,それ自体一つの虚構であるところの《方法》(methode)も
また多様化するのだ。〈窓>の場合,壁に切り開かれた穴(ouverture)という非存在にこと
ばを与え(porterlaparole)なければならないので,語およびテキストは必然的・不可避的
に,この欠落を埋め閉じるガラス,非存在を被い隠すベールとならざるをえず,(たとえ疎
らに配列された大文字の字間余白一日間割一によって,このページを《半透明な》
(translucide)ベールにふせかけているとしても)そのようにしてのみ窓を開くことができ
タイトル
るのだ。表題をもたず,遂に対象を直接に名指すことなく現前させようとするこの詩篇は,
ペリフラーズ
このパラドクスに悩む一種の迂言法の書きものである。その意味で,第3節は詩篇全体の
限界(枠)を小規模に反映・反復している,窓の中に開かれた窓だ。
迂言法の詩篇である限りにおいて,各節の窓の暗嶮とみなされる単語が,なぜ複数
(BLEUS,TRACES,PONCHES)と単数(PORTE,PAGE)の間で揺れ動くのだろうか。
その理由は,第2節においてDETOUTEHABITATION…と,あらゆる住居の任意の窓
の<一つ>が注目されることによって,複数から単数へ移行せざるをえなかったという,
純粋に文法形式の要請によるものだろうが,その派生効果として,第2節はまさに出入口
としての《扉》の機能にふさわしく,《おまえ》と呼ばれる単一の対象を選び出し,それと
《わたし》との特殊なかかわりを導入することになる。この効果は既にVARIATIONSに
おいても認められたものである。それ故,ここでは任意の詩の一ページを問題にしうると
内田
82
洋
はいえ,何よりもまずくこの>ページ(cettepagedepoesie)が問題なのだ。MAISNON
QUEJELEVEUILLE(だが,わたしの望むところでなく…)。LEは中性代名詞とみるほ
かあるまい。PAGEを男性名詞ページ・ボーイと考えるとしても,PARAPHRASE…では
Pagegdepo6sie,maisnonquejeleveuille…とあって矛盾するので,やはりle=page
とは考えられない。従ってこの一行はPagedepo6siequejeneveuxpasの意ではな
フラーズ
く,leが指し示す何らかの節が不完全に提示され,点線に取ってかわられているとみなす
べきだろう。例えばVoiciunepagedepo6sie,maisnonquejeveuillequecesoitqa...
とか,Lafenetresetransformeicienunepagedepo6sie,maisnonquejeleveuille...
とかetc.
第4節
ふたたびVARIATIONSの一句の引用だ,しかも《わたし》(JE)の登場(1'entr6een
sc6ne)の直後に,ほとんど同時に。今かりに,第3節をそれが望んでいるとおりに空隙と
化し,抹消してしまうならば,PONCHESは第2節末尾のROISEXTERIEURSに接合
し,その同格語とみなしうるだろう(両開き窓の中央部は,そこで窓が開かれる裂け目で
あると同時に,そこで窓が閉じられる接ぎ目でもあるのだ。閉じられた窓に空隙はなく,
従って第3節が抹消される。開かれるとそれは現れるが、本来何も見えないものが見える
ようになるだけだ)。そこで外部の王たちとは,青鬚を輝かせるポンシュたちだということ
になる。そしてポンシュとはVARIATIONSでは青空に重なり合った窓の暗嶮だったし,
ここでもまたそうなのだが,ROIS=PONCHESという読承方にとってはまた窓の外の青
鬚をもつ者たちなのだ。即ち、日光青鬚,オリオン,星座の《三人の王たち》−そして
誰よりもまず(VARIATIONSで侵入者が石工に替わった《わたし》だったように)《わた
し》−記述者一ポンジュ。PONCHE=PONGE,いや窓としてのPoncheはPongeと同じ
響きをひびかせつつ(rimantavecPonge)わずかな緯=隙=日間を示し(montrerle
jour,lejeu),《わたし》Oe)を映し出す。Objetとobjeとを同時に提示する不完全な反照
装置としてのObjeu。この同一化は前節から周到に準備されていると言えよう。つまり
paGE-PO6sie-(JE)-PONcheという文字配列とGE/JE/CHEの音の接近によって。(こう
した言語遊戯の可能性のゆえに,そもそもpunchよりもponcheの方が好んで選びとられ
たのではなかったか。)
いづれにせよ,複数の論理が互いに他を排除することなく交錯する多元的テキストの内部
で,《わたし》もポンジュも複数化する以上,その青い鬚が《昼にして夜/昼も夜も》(JOUR
ETNUIT)輝くのはもはや不思議ではなくなる。
だが城塞の内に侵攻した王の一人たる青い鬚の《わたし》が打ち倒すのは,驚いたこと
に自分自身なのだ。まずポンシュの青鬚は日光であり,それは《外部の光明》であって(LA
フランシス・ポンジュの『窓』について
83
BARBEBLEUEとLACLARTEの接近した位置に注意),その圧倒的(assommante)
な光と熱の打撃にわたしは当てられる(assomm6)。ところでそのポンシュは外部の王たち
であり,わたしはそのひとりポンジュであり,彼等を導き入れる扉を開き壁を穿ったのも,
その扉に固有の石工(sonproprema9on)即ち窓を開くわたし自身だ。そして《わたし》は
maConnerする,つまり壁に窓を設け,開き,築く,と同時にそれを塞ぎ,閉じ,壊す。窓
を打ち叩く青鬚が窓を破壊する。打ち倒され破壊される窓は《わたし》だ(M'ASOMME
ETMEDETRUIT)。つまり《わたし》は己れを撲殺する。四辺形のテキストの舞台で演
イタチごつこ
レゾ
ぜられるケーム6eu),この一種の隅取遊戯(jeudesquatrecoins)は,こうして一つの響
ヌマン
和MAGONNER/M'ASSOMMERの媒介によって際限なく続けられるかのようである。
それにしても外部の光明,この《金色の光》LACLARTE(DU)D(EH)OR(S)が《わた
し》を圧倒(殴打)するassommer)のはともかく,それが《わたし》を破壊する(d6truire)
というのは言い過ぎではないだろうか,もし《わたし》が単に記述者ポンジュでしかない
のだとしたら。なぜなら《わたし》の破壊の後にもなおテキスト・は書きつがれているのだ
から,言表は事実によって裏切られることになろう。装飾的言説としての《ポエジー》に
とっては,そのようなくことばの綾・彩り>も許容されよう。そして実際このテキストを
エクリチユール
そのように読みつなぐ.ことも可能なのだ。だがポンジュの記述行為は,まさにかかる《ポ
エジー》の轍からの脱出であったはずだ。
ここでもう一度,外部の光明=青鬚があの王たちの一人,城塞=テキストの外からの侵
入者であることを想い起こすならば,文字通りに打倒ざれ破壊されうるものはテキストと
しての〈窓>,つまりこの詩のページ以外にはあるまい。対象としての窓を《わたし》とみ
プロゾポベ
なし,この一篇を擬人法の作品,窓みずからが発言(prendrelaparole)している作品と考
えることも全く首尾一貫した仕方で可能だ。しかしやはり,光によって窓が破壊されると
いうのは《詩的な文飾》でしかなくなる。それに対してテキスト〈窓>は,《外部の光明》
の出現以後,偽りなくこのページ限りで消滅するのだから。その光はテキストの終嶋を早
める機能を果しているのだ。
エクリチユール
ポンジュの対象研究とその記述行為の最終目標は,一篇の詩の形成ではなく,それを越
えて,ほとんどポエジーに〈逆らって>進み,遂に《明快で非個人的な定式》(formules
clairesetimpersonnelles)に到達することであった。文学作品というよりは文字による
オブジェ(lesobjetslitt6raires)を提出すること。それは外部世界の諸事物がもつ無言の
現
存
性
と
明
白
性
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に
等
価
な
走
オルミユール
式=表現を作るということだ。《人間の手で生ゑ出され,人間のために特別に作られ差し出
されるオブジェ,しかも自然の諸事物のもつ現存性や明白性と同時に,その外在性や複雑
性にも匹敵するようなオブジェが問題なのだ。しかしできれば,それは人間のものである
以上,自然物よりもっと感動的で,決定的で,人の称賛をかちうるものであってほしい》
内田
84
洋
(IIs'agitd'objetsd'originehumaine,faitsetposCssp6cialementpourl'homme,mais
quiatteignental'ext6riorit6etalacomplexit6,enmemetempsqu'alapr6senceet
al'6videncedesobjetsnaturels.Maisquisoientplustouchants,sipossible,queles
objetsnaturels,parcequ'humains;plusd6cisifs,pluscapablesd'emporterl'approエグジスタンス
bation.)(』彪娩0"s,p.17)ポンジュにとっては外界の諸事物の存在の方が自分自身の存
在よりも確かなものに思われる,〈外界が私の唯一の存在理由だ>とまで言われる。そして
雑多な事物(lavari6t6deschoses)こそが,沈黙の内に彼が存在することを可能にし,彼
を構築している(construire)のだ。《しかしそれらの事物のただ一つに対してでさえ,それ
●
ら一つ一つを特別に考慮の対象とし,その一つしか考察(注視)しない場合でも,私は消
● ● ● ● ● ● ●
● ● ● ●
え失せる。つまりその物が私を無きものにする。》(Maisparrapportal'uned'elles
seulement,eu6gardachacuned'ellesenparticulier,sijen'enconsiderequ'une,je
disparais:ellem'annihile.)(Ibid,p.13)つまりここでは,《わたし》ポンジュを抹消し昏倒
させるものが外部のオブジェたちだということになる。これを前節《外部の光明》に適用
すれば,それは外界の一事物としての窓の現存性と明白性であり,同時にその窓を明るく
輝かしている現実の光そのものであり,その圧倒的な明るさによってポンジュは破壊され
る=無きものにされる,というわけだ。しかし《無きものにする》(annihiler)とは,破壊
と全く同義なのではなく,<、M6thodes''の文脈においてはとりわけ〈無も同然の存在に帰す
る>ということだ。つまり無言の事物を前にしてのポンジュの唖然たる凝視,失語状態,
エグジスタンス
無力感が問題なのだ。このゼロ状態からの復活,唖者の言語訓練,《わたし》の存在の蘇
エクリチユール
生こそ,ポンジュの記述行為だった。
それゆえ,われわれとしてはむしろ『松林の手帳」(CarnetduBoisdePin)の次の一節
の光に照らして,外部の王たるオブジェの明白な無言の光による詩篇(テキスト)の破壊・
抹消を見るべきだろう。つまり窓による〈窓>の殺裁を。《否!G・Aは(明らかに)次の
ことを理解できなかった。松林の片隅で私は一篇の詩を生み出そうとしたのではなく,む
オブジェ
しろ(成功したとはとても言えないが)その対象による詩篇の殺裁を試みたのだ,という
ことを。》(Non!G.A.n'apascompris(evidemment)qu'ils'agit,aucoindecebois,
bienmoinsdelanaissanced'unpoemequed'unetentative(bienloind'etrer6ussie)
d'assassinatd'unpoemeparsonobjet.)(乃"@ep''ie"",p.378)テキストの光は今なお
外の光に等価ではない,それは《偽りの光》(lefauxjour)でしかない。
第5節
しかし1行が途切れ,壁の連続性が中断されるごとに,われわれは行間余白を飛躍しな
ければならない,視点を次々に転じなければならない。線状の論理的一義性はずたずたに
断ち切られ,多義化する。
フランシス・ポンジュの『窓」について
85
確かに《わたし》の破壊の後では虚無(RIEN)があらわれなければならないし,それは
ただテキストを完全に抹殺するために,そこに一つの点でしかないものを置く(NERIEN
METTREQU'UNPOINT)ために書かれる最終節だ。実際,句読点を全く欠いたこのテ
キストの末尾にだけ,終止符(unpointfinal)が打たれる。同時に(ET)しかし,それは夜
明けの光(pointdujour)を告知することにもなるのだ。なぜなら表明されるべき何でもな
い物(riena6mettre)の等価物たらんとしたテキスト〈窓>は,唯一の真の光(LASEULE)
〃
である外部の光(=ELLE)をこそ,それだけを放射すべき(NERIENEMETTRE
QU'ELLE)だったのだから。だが事実は,《わたし》は(それが記述者にせよ,窓にせよ,
またテキストにせよ)そんな光を点ほども発することがない(JEN'ENPOINTEMETS),
単にそれだけで(RIENQUE…)《わたし》はそれを受け入れ,その打撃を忍び,抹殺され
るがまま身を委ねなければならない。テキストについて(の上に)もはや述べる(延べる)
べき何物も残されてはいない(riena6mettre)(?)。
われわれとしてはおそらくなお余りにも多くのことが言い残されている。とりわけこの
詩篇の音韻組織,ポンジュのいわゆる《語の合奏》(leconcertdevocables)について。実
際,変奏曲と主題の関係を見た後で,さらにPARAPHRASEが問題になるとすれば(パラ
フレーズは音楽用語で,楽曲を非常に装飾的に書き直し手を加えたり,歌の曲から自由な
ポエム
ピアノ曲を作ったりすること。またその楽曲。)この《詩篇》をも主題であると同時に《交
響詩》(po6mesymphonique)として見なおしてみることもできよう。リストのいわゆる交
響詩は,文学的又は詩的内容を交響管弦楽によって表現しようとする,文学と音楽の結合
を意図した標題音楽の重要な一種だという。つまりここでは《窓》を標題とする交響詩。
sym-phonie音の共和一数々の音と語が一致共同して一点に集中し,そこに白熱したハー
モニーが形成されて視覚的ならざる窓を開くこともありえよう。VARIATIONSにおけるあ
の《甘美にして嘆くが如き楽音の》焦点(foyer)を想い起こそう。
blEUs,ciEUx,curiEUx,ext6riEURs,vEUille,blEUe,sEUle
cORps,hORions,interROMps,pROpre,dehORs
azUR,cURieux,mUR,RUInes,d6tRUIt,jOUR
bastlONs,horlONs,habitatlON,maQON,cONjointe,nON,pONche,dONt,
flAMboie,assOMme
conjOINte,vOIle,rOIs,flambOIe,pOINt,sOIt,rlEN
この表から次の二系列の支配的音韻が詩篇全体に散布されていることがわかる。
1)(d//:R/y:R/u:R/Ry/RO/OR/O:R)
2)(WA/WE/jg/j5/3)
第一の系列は,すぼめられ緊張された唇とその弛緩の母音,そして軟口蓋震動音Rによっ
内田
86
洋
ハーモニ−
て特色づけられ,<plaintive>な楽音を,第二の系列は開放されて響き高い,軟弱な母音・
鼻母音,および半母音によって<douce>な印象を醸していると言えようか。しかし視覚型
の詩人ポンジュの言語は,一つの楽曲の旋律とリズムを奏するには余りにズタズタに切り
裂かれた断片的語句の散乱のようにみえる。われわれはこの領域での検討を留保せざるを
えない。
PARAPHRASEETPOFSIE
詩のページの後に,その裏側に,書きつがれ読みつがれる別のテキストがやってくる,
しかもまずPARAPHRASEという資格で。即ち
1)D6veloppementexplicatifd'untexte.V.Commentaire,explication,inter-
pr6tation.2)D6veloppementverbeuxetdiffus.V.Amplification.3)Mus.
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はたしてこれは,先行する詩篇の(多少とも冗漫な)解説,われわれがこれまでなして
きたところのものと同種の注釈だと言えるだろうか。ところが事実は,われわれの注解と
は全く別異のテキストが編みつがれるばかりでなく,われわれはこれをもまた,解ぎほく・
し編ゑなおそうとしているのだ。それにまたわれわれ自身の注解が必ずしもこの
PARAPHRASEの示唆にもとずいて進められてきたわけでもない。一体,POEMEと
、
PARAPHRASEの身分規定,われわれの注解とPOEMEの関係,またPARAPHRASE
との関係はどうなるのだろうか。
ソクラテスは,詩人たちにむかって彼等がその詩で何を言おうとしたのか説明を求めた
が,作者以上にうまく説明できない者は誰もいないほど,詩人たちは自分の言っているこ
とを何も理解していなかった。彼等は理性に導かれているのではなく,占卜者と同様,自
然の霊感に従っているだけだ。故にソクラテスは自分の方が彼等に優越すると信じた。ポ
ンジュはこのエピソードを引いて(〃疹娩o"s,p.29∼32)そこから次の二つの考察を提出
する。
1)詩人にむかって,彼が何を言おうとしたのか尋ねるとは,何という考えだろう。ひ
とり詩人のゑがその詩を説明できないのは当然だ,彼は他に言いようがないゆえにその詩
を書いたのだから。ソクラテスは自己の無知を知るが故に無知であり,詩人はその詩をそ
のままの語句で知っているゆえに,それを説明できると称する何びとよりも詩がわかって
いる。
2)もし一篇の詩がそれ自体に明証性(l'Cvidence)を具えている(おのずから明らかな)
ものだったら,ソクラテスはその詩の説明を求めることなど思いつかなかっただろう。
かくしてポンジュは事物そのものと同様に自明な詩,何の説明をも要せず,無言のうち
に味わい楽しまれる一個のオブジェ,もはや詩とは呼ばれえないようなものをめざすのだ。
フランシス・ポンジュの『窓』について
87
今度はわれわれが,そこからどのような考察を引き出すことができるか。まず説明を要
しないほど明快で自明なテキストとは,ポンジュにとっては実は《説明不能》(inex-
plicable)なまでに明快だ,ということなのだ。明快(clair)ではあるがその明るさ(la
clart6)を説明しようとすると絶望的なまでに複雑で,おそらくは不可能であるようなテキ
ストだ。これを敢えて試ゑようとする注解は,常に余りにも錯雑冗長なものになるか,ま
たは余りにも単純すぎるもの、となるだろう。次に,事物の無言の明白性は,ど鮒の行使
に先んじて与えられているのではなく,行動と言語のある種の実践の過程で徐々に獲得さ
れていくのだ。しばしば事物との無言の接触や多様な経験(実験)の成果として。それゆ
え,一個のオブジェとしての詩の明白性も,われわれの側の忍耐強い,絶えまない,多様
な言語的実践を通じて徐々にわれわれの明白性となっていくだろう。徐々にそれについて
語る必要を感じなくなっていくだろう。第三に,そのような実践の歴史的展開によって,
一篇のテキストがその中に織りこまれ,立ちまじることになるコンテキスト,つまりテキ
ゲシユタルト
スト的オブジェの世界が,不断に変形され,進展していく。そしてその総体図形,布置
(configuration),地(fond)の変様につれて,相対的にテキストの図が歪み,機能が変化す
る。固定的で不易の意味をとらえようとしても無駄だ。テキストはその外部世界によって
たえず書きなおされ,接合される。光明は常に外からやってくるのだ。
従って最初のわれわれ自身の問に対して,次のように答えることができるだろ
,。PARAPHRASEはPOEMEに説明を与えるために,第一の読者たる記述者によって,
注釈者に先んじて書かれたのではない。彼は説明の欲求も必要も感じず,そうすることに
自己満足の快楽を求めたのでもない。ただテキストの自己否定的な運動によって,光への,
自明性への探求としてテキストは限りなく切り開かれつづけなければならなかった。それ
パラフ
は先行のテキストへの補足・増幅・展開,一言で言ってテキストの織りつぎとしての布
ラーズ
延なのだ。
われわれ自身の注解もまた,と言うべきだろう。なぜなら,これはテキスト「窓」を一
リテレール
フオルミユール
個の(文芸的)オブジェとして,それを定義する明快な定式=表現に達するまでの描写の
試承なのだから。ただしそれは,オブジェをいくつかの観念とその意味に還元する辞典的
定義をめざすよりも,まずそれを充全に機能させ,増幅させることで,何らかの余剰の価
値を産出することをめざす。つまりわれわれの言語の内部で,このオブジェに等価な明白
性・現存性・機能を具えた言語的オブジェを形成することだ。従って,われわれの作業全
体は徹底的にポンジュの窓に身を映し,その存在様態を模倣することで成り立ち,この過
程自身が,遅れてやって来るべき最終的な(翻訳された)テキストを産出する翻訳作業と
呼ばれうるのである。
Carr6mentavou6sauciel…《四角に》(carr6ment)とは,卒直に(franchement)の意
内田
88
洋
味では《丸く》(rondement)と同義となる。そこでO=H(OH),換言すれば四辺
、
(VARIATIONS-THEME=POEME-PARAPHRASE-POESIE)をもつ平方の(自乗さ
れた)テキストは,同時に円環をえがいて反復される。それはまたcarT6/carreau(de
vitre)/fenetreを,空にむかって《奉献する》(vouerauciel)テキストだ。わたしたちの
《建物の正面》(lesfagadesdenosbatisses)に設けられた窓一しばしば麗下的ニュアン
スを伴うbatisse(屋構え)のface(面構え)が正直に認めて(avouer)いる《欠陥》(fautes)
−それは不完全なテキスト〈窓>,窓としてのテキストだ。だが窮極のテキストなるものが
かつて書かれたことがあるだろうか。一切のテキストは常に何か別のテキストー外部
(dehors)−に先立たれた補説(remarque)であるか,あるいは来るべき別のテキストへの前
書(pr6face)でしかないのではないか。そして永遠に自己完結しえな↓、テキストのこれらの
欠陥を,われわれは《内側から》(del'intbrieur)ベールで被うことができる,ちょうど壁
の欠落としての窓に,内側からカーテンが掛けられるように。それは正直に,テキストと
自らの誤ちを認めて(cesfautescarT6mentavou6es)新たなテキスト/織物/カーテンを
、
書きつぎ,織りつく。ことだ。つまりここではPOEMEの裏(内)側にそのPARAPHRASE
…を書きつぐこと。だが奉献された窓(cesfen6tresvoubes)にせよ,認められた欠陥(ces
fautesavouees)にせよ,テキストは《avou6es>(女性複数)をそこに記入すべきではなかっ
たか,なぜ《avou6s》か?無限の空,公共の空にむかって身を捧げ,自己を告白している
(vouer/avouer)のは,《わたしたち》(nous)即ち詩人そしてテキストだというのか。もし
《それらの誤ち》(cesfautes)一窓/テキストーが公然と人目にさらされている(avou6es)の
であれば,これはまさにテキストの文法的《誤膠》(faute)だ。そしてこの誤膠は,記述者に
‘よって綿密に意図されたものではなかったか。なぜなら《打ち明けられた誤ちは既に半ば
許されている》(Fauteavou6eestademipardonnee)という諺があるとしても,(建物の
上ビヮレ
内壁やテキストの行文の連続を余りにしばしば中断する日間割(窓・余白)があってはそ
の構造自身が危うくなるゆえに,許容されるのはただ半分までだが)それでもやはり,そ
れはわたしたちにとって《不可避的必要物》(unen6cessit6in61uctable)なのだから。即ち,
1)今このテキストを書き,読むわたしたちにとっては,テキストがその言表通り,卒
直にその前面(faqade)に,一つの誤膠を認めるようにさせ,それがわたしたちによってや
がて内側から被い隠され,不可避な必要物とゑなされるために。
2)ものを書くわたしたち,記述者一般にとっては,とりわけテキストとしての〈窓>,
窓としてのテキストを書くわたしたちにとっては,先行するテキスト(それが一篇の
POEMEであれ何であれ)の欠陥・欠落が認知されることによって,それを補足・布延し,
被うように,それを己れの記述のpr6texte,pr6faceとして書き出すことができるために。
3)生活する人間としてのわたしたちにとっては,家屋の構造を弱める壁の鱸・空隙に
ほかならない窓が,わたしたちの光と空気への要求からして不可欠だ。…etc
フランシス・ポンジュの『窓」について
89
いづれにせよ,これらの誤ち・欠陥・欠落は,《白昼公然と》(augrandjour)《偉大な
光に対する》(pourlegrandjour)わたしたちの《弱味》(faiblesse)を暴露し,公示する
ものだ。確かに,わたしたちは光に目がない(nousavonsdelafaiblessepourlejour)If
かりでなく,欠落なく完全で,それ自体光であるようなテキストを書きえない。テキスト
は常に外部の光に劣り,それにむかって開かれねばならない。そしてまた何よりもまず,
パロール
語ること,《ことばそのものが(わたしたちにおける)何らかの弱味を打ち明けることにな
る
》
(
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。
ひ
と
り
太
陽
だ
け
が
,
パロール
語りたい何物ももたず,われわれによってことばを与えられることを懇望することなく超
然と輝いているように見える(cf.$4LESOLEIL,''Hbes,p.152)。
Qu'onencompteuneaumoins…不定代名詞uneは,前節の女性名詞fauteを指すと
みるほかはない。従って,わたしたちの住居の(batissesにかわって今度はdemeuresだ)
各部屋の中に(VARIATIONSではく部屋の奥に>aufonddechaquepieceだった。この
変化がおのずから,数節後でaufond<極まるところ>のかわりにaudemeurant<住ま
うところ>を導き出す)少くとも一つはそうした誤ちが数えられる。《数える》(compter)
ー計算する?たしかに,このPARAPHRASEにおいて算術の範列に属する語の一系列
を
指
摘
で
き
よ
う
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ま
る
で
わ
れ
わ
れ
の《弱味》が実はこの精綴な学科に対するものであるかのように。ところでどのpieceに
パラディグム
も少くとも(aumoins−ここでのmoinsの頻発,増殖ぶりも著しい)一つは数えられる欠
陥,それは窓とテキストだったが(なぜなら一個の作品pieceたとえば《<Pieces''所収の一
八
篇たるこのLAFENETREは三つのテキストの集合体だ),さらに微細にゑると各piece
の壁を形成する語句の連続が,いたるところで中断され,字間・行間の余白をつくり,そ
れは極めて《規則的に》配分され,増殖しつづける。その結果《わたし》たち読者は,割
れ目のないところにまで割れ目を入れて,その数をふやすよう強いられるようになる
(…nousobligeamultiplier)。たとえばQu'onencompteuneaumoinsdanschaque
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望
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…
か
く
オプタテイフ
して記述者が,外部の光への弱味から作品ごとに(chaquepi6ce)その壁を穿ち,偽りの
照明装置でしかないものを増殖しつづけて終ることがない(imparfaite)ように,読者もま
た各作品の不可避の要請に従って,その行文の論理の連続を切断しつづけ,筋目(pli)を倍
化し(multiplier),そこに重畳した意味を延べ広げ,明るゑに出そうとする。つまり彼はテ
キストに罐を入れ,その隙(日間)を大きく開け広げることによって,テキストを照明し
ようとするのだ(cesappareilsdufaux-jour)。そのようにして彼はそこに(余白に)日の
目を見る(生まれ出る)ことができる。ただしそれは,記述者が既に書くことにおいてな
した操作・作業のおそらくは不完全な反復でしかないのだが。
フランシス・ポンジュの『窓」について
91
はそれを〈窓>と名指されていないにもかかわらず,〈窓>以外の何物でもないことを知る
のだから),しかしそれ以上に言葉の他の様々な反映(reflets)によって眩惑されてしまう。
これこそが窓から射しこむ外部の光であるかのような,このきらめきに満ちた偽りの光を,
わたしたちの視線は《のりこえることができない》(infranchissable)のだ。またしても視
界を対象にむかって開くと同時に(alafois)閉じる,穿ちつつ塞ぎ,露呈しつつ隠蔽する
言葉の立ちあらわれ,とりわけこの言葉vitrage:ガラス,ガラス戸,窓のカーテン(透明
性と不透明性の共在)。これはfenetre(壁に穿たれた穴にして,その穴を閉じるもの)や
ma(Eon(壁や窓を築く者にして,それを壊し塞ぐ者)の同族だと言えよう。
Pourl'h6teaudemeurant…以下の奇怪な一節は実に巧妙に仕組まれた言語遊戯の罠
あるじ
だ。まず自らの《住まい》(demeure)にあっては,家の《主》(l'h6te)にとって《己れを
システム
明るく照明する光》(lejourquiledoit6clairer)に《頼るという以上に優れた方策》
(meilleursysteme)は存在しない。この場合6tantは存在をあらわしmeilleursyst6meを
主語とする(不定冠詞の欠落とみる)分詞法。次にl'h6teをl'6terと読んで,かつ否定辞
neを削除するという操作によって次の一文が得られる−Pourl'h6te,l'6teraudemeu-
rant(n')6tantmeilleursystemedese(en)remettreaujourquiledoit6clairer,…つ
まり,〈あるじにとっては,彼(le)をどかすことこそ,要するに自分(le)を照らしてくれる
べき光の当る場所に再び身を置くための最良の方策なのだから…〉となる。この場合§tre
は連辞,またmeilleursyst6meからは定冠詞leがおしのけ(6ter)られている。こうして,
ハ
この一節が《Ote-toideldquejem'ymette》という成句的表現(人をおしのけて栄達
をはかる者の標語)のもじりであると同時に,例のキニク学派の哲人ディオケネスの逸話
を改変したものであることがわかる。即ちI'h6te(ディオケネス)から光を遮っているle
(アレキサンドロス)を6terする(哲人は王にむかってこう返答した《Quetut'6tesde
monsoleil!>)と同時にleをその本来あるべき場所,meilleurの前へ置きもどす
(remettre)ことによって,l'h6teは6terとなる,つまり自らを6terとする(L'h6te
36te)。この遊戯はおのずから定冠詞leに照明を当てる(lemettreaujour)ことになり,
その存在・位置・機能を明るく照らし出す(lejourquiledoiteclairer)。伝説によれば
ディオケネスは贋金づくりのかどで追放された父に,自分も手を貸したことを誇りとし,
一切の人為・約束を排して自然の光を求めた。〈贋の光>をつくる詩人もまた。
ついで突然,行を改められるばかりか新たな段落を成すことによって,上の分詞法に応
ずる主文の主語Lemanqueseuld'unmotが,再び疑惑の視線をひきつけることになる。
つまり定冠詞leを欠いた<meilleursyst6me>の後では,これは《Leが欠けている》(Le
manque)とまず読まれねばならない。そしてこのleこそく欠けている一語>(Lemanque
d'unmot)なのだ。そしてこの《欠如の事実がただそれだけで》(Lemanqueseul),より
一層あの極度の壁の薄弱化たる〈窓>〈鱸>〈隙>〈日間割>の含意を露わなもの(explicite)
92
内田
洋
となし(折り畳まれ重ね合わされた鮫目を伸ばし),そうすることによって一篇の半透明な
あるじ
テキストが形成されるようにと願うのである,誰が?家の主が,しかも《大空の前に配置さ
れた前掛姿の女たち》の肉体から(Lemanque…fassedevotrecorpsuntextetrans-
lucide…);i6接続法の動詞fasseが上のような願望法を成すために,ここでもまた文頭に
Queが欠けていることに注意しよう(17世紀には許容されていた欠如とはいえ)。この欠如
がやはりこの文の言表そのものを事実たらしめているのだ。つまりテキストの穴,欠如,
誤膠のおかげで,それ自身が空虚としての空を見透させるばかりでなく(空欄・余白
としてのfenetre)、それが発動させるテキストの諸機能,つまり隠されていた諸々の意味
作用や時には書きこまれてもいなかった意味の空までが透視されるようになる。記入され
ていないものを見せるための無記入,無記入を見せるための記入,《半透明のテキスト》,
そして〈見る>(voir)とはとりわけ〈分かる>ということだ!
(注)これをさらにfacedevotrecomsと読ゑ,lemanqued'unmotの同格語と承なすこともできよう。
パラフレーズ〈と>ポエジー,すると布延の後で再び詩のページが開かれるのであろう
("LeGrandRecueil''においてはこのポエジーは確かに右側1ページを占有している)。し
モノロジツク
かしこのたびは,先の単論理的ならざるオブジェという性格を具えたPOEME-objetよ
エクスベリアンス
リも,一層抽象化された主題の提示,ほとんど言語表現の領域での一連の実験=経験から
フオルミユール
導出された公式の提出であるような定式詩Po6me-formule(ポンジュ自身の用語)だと
アプストレ
言うことができる。〈抽象的>とは,それがとりわけPARAPHRASEにおける一種の化
エクストレ
学反応から抽出されたという意味でもあるが,それ以上にテキストがここでは《その対象
を定義する》よりは《わたしたち(つまり記述者とテキスト自身)の姿を再構成する》の
に有能で,いわば《窓ガラス》としてのテキストの観念(sonid6e)に関わっているという
ことだ。その意味でPARAPHRASEのこの文言はPOESIFに対して説明的機能をもつ
し(POESIEに先立つPARAPHRASE),またPOESIEがこの言表を実現するべく産出
されたかのように機能する。
シユジェ
まずポエジー全体が唯一の主語LAFENETREをもつ一つづき(unepi6ce)であるこ
とに注意しよう。そしてこの部屋(piece)の中央には窓が開いていて,それは字間余白の
大きい大文字活字配列によって,密集した活字による上下の壁に対して比較的に半透明な
テキストをなしている。それは完全な開口(ouverture)ではなく,その空白・隙間を被う
ベール,前掛とも見えるが,同時にそこには窓自身(LAFENETRE)が映し出されている。
それはいわば自分自身の名を署名されたオブジェだ。しかし同時に,上下の壁の間に開かれ
た扉,もしくは(ページを横に見て)中央を左右に少し押し開けられた両開き窓を形象する
このテキストの配列は,小規模に作品『窓』全体を反復・再現・象嵌しているのだ(大文
字活字配列による詩のページPOEMEによって,作品全体が中間部を開かれていたentr'
ouverteことに注意)。
フランシス・ポンジュの『窓』について
93
第1節
Faiblessenondissimul6eこの一行はPARAPHRASEの《Carr6mentavou6s》と《nos
A
faiblesses》に直接に由来する。LAFENETREに同格。これをFaiblesse,non!dis,
simul6eと読めばわれわれの《弱味》を逆手にとって人間の強さに転換できよう。人間的尺
ヘ
シ ミ ユ
度を超えてゑえるもの(quinousparaitd6mesurbe)が,実際は弱点ではなく単に《装われ
し
た》偽りの弱さだとみなすことを意欲する人間の,光への欲求は《いかんともしがたい》
デ ム ジ ユ レ
《度はずれな》われわれの弱点だが,それを包み隠しようもなく表示している窓一壁の弱
点一を描写し表現する人間の明蜥な光への意志は強固だ。たとえ彼によって書かれたテキ
スト『窓』が《見せかけの》,(ベールで)《装われた》窓でしかないとしても,それを敢え
て公言せよ。少なくともそのようなテキストを書くという相対的成功と勝利を収めること
は,われわれの《能力範囲》(mesure)の内にあるのだ,…etc.なおd6mesurerはd6murer
(塞いであった窓・戸を開ける)という,magonnerの反意語を包み隠している。
Bienqu'ellesoit…以下auxregardsまでが挿入節となっていわばカッコに入れられる
と,2行目から4行目へ接続して,(…demesuree)auregarddetropdepareillesと読め
る。つまりau(x)regard(s)deは二重に読まれねばならない。pareillesとは類似の弱点,
つまりこれまで指摘してきたような窓の暗楡となりうる,また逆に窓がその暗嶮となりう
テルム
る数々の辞項を想起すべきだろう。なお2行目,3行目の押韻(d6)mesur6e-accordeeは
<mesure>(拍子)と<accord>(和音)で,意味の上でも<同調>(s'accorder)している。
第2節
へ
この一節はLAFENETREMONTRELEJOURがその骨子だが,2行目DETOUT
SONCORPSはRIMANTに対する状況補語(全身で韻を合わせる)ともMONTREに
対するもの(全身で光を示す)ともとれる。また現在分詞RIMANTは同時性(ひびきあ
いつつ)を示すとも,対立(ひびきあいながら)や,原因(ひびきあいによって)を示す
とも考えうる。ただここで重要なのは,fenetreと§treとの押韻関係が問題にされること
によって,fen-6treという語構成が意識されるようになるという点だ。つまりこれによっ
てfenetreの一語が中央に隙間(fente)を入れられ,半ば(で)開かれる(entr'ouvert)こと
によって〈窓>が隙=日間=割目のあるく存在>になる。lafenetre即ちl'6treafen(te)
割れ目ある存在,〈女〉。窓はすぐれて女性名詞だ。しかもこの名の正しさを根拠あるもの
にするのは窓がこの割れ目,日間,日目から(つまり窓の中央から)《日の光》(lejour)を
見せるということ,言い換えれば人はそこを通して《日の目を見る(生まれる)>(voirle
jour)という事実だ。一方ではまたfenetreはその全体で§treと押韻しながらも,その間
にズレ,つまりfen(te)という遊隙0eu)を生じてしまう。事実,あらゆるテキスト〈窓>
はその対象の〈存在>にぴったり重なり合い,適合するもう一つの存在となろうとしてあ
内田
94
洋
らゆる音と意味の《ひびきあい》(rime)=《共鳴》(r6sonnement)を開発してきた。しか
しどうしても還元しえない《ひびあい》=隙を,常にそのつど生じてしまう。その隙=遊
隙0eu)こそ,テキスト<objeu>の存在根拠なのだが。いづれにせよ日間割としての窓は,
同時に隙の有る存在,有との間に(と共に)隙をもつ有、あるいはまた有に隙、ひびを入
れる有,隙有だということができよう。日間割一隙有一ひまわり,そうだ−種のヘリオト
ロープとしての<窓>『窓』をわれわれは認知すべきではないだろうか。なぜならそれは,
システム
光に対するわれわれの断ちがたい弱味のゆえに,常に光へと,われわれの体系の太陽
(helios)の方へと首をめく・らし(tourner),言葉を言いめく・らす(tournure/trope)ことに
システム
よって壁を切り開く語の体系,テキストなのだから。それはただ一語の,窮極の名の不在
の故に編みつがれ,織りめく・らされつづける。
第3節
へ
この節はやはりLAFENETREを主語としてconjuredeneplustantyregarder...
とつづく。1行目は状況補語,respirerは自動詞ともとれるが,他動詞とすると目的語は次
行のl'airpbn6tr6である。この語の尋常ならざる位置が,割りこゑ侵入した(p6n6tr6)こ
の語自身の内容〈吹きこんできた空気>にふさわしい。l'airを外観・様子の意にとれば,
それにつれてrespirerはexprimer,manifesterの意となって,<感じ入ったような素振を
表わす>となる。それは伝統的ロマン主義的なく霊感>(inspiration)の観念の椰楡となろ
う。ここでわれわれの胸に吹き込まれ,吸い込まれるのは天啓でも恩寵(lagrace)でもな
く,ただ第1節と第2節の間に割って入った第2節,および第2行conjureとdeの間に侵
入した《l'airp6n6tr6》の一語にすぎないのだ。いかなる空気がわれわれの胸に現実に吹き
こむわけでさえない。そのことをわれわれはいぶかり怪しむだろうか。いやむしろ幻想と
胡散くさい魅惑とを剥奪するテキストの余りの徹底ぶりに《感じ入った様子》(1'air
p6n6tr6)を表わすだけだろう
ところで,窓が一体われわれに何を《懇願する》のか。もうこれ以上そんなにそれに(y)
注意を払わないでほしいと。yとは最終行alafinentr'ouverteであろう。だが《半
開きの終末》とは何か。テキストの半ば開かれた末尾?つまりこの最後のポエジーのこと
か。秘密はどうやら最終行の多義性にありそうだ。記述者はそこ,〈最終行に>(alafin)
《陰謀》(comuration)をめく.らしているようだ。おのずからわれわれの視線はそこに凝ら
される(tantyregarder)。
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finentr'ouverte…壁の連続,語の連なりを断ち切ることによって,わたしは〈なるほど>
(jevois)と納得する,見える,わかる,分ける。つまり〈窓>は,最終行に至って,そこ
おかげで,遂に半ば(で)開かれたテキスト=窓に,どうか,もうそんなに視線を凝らさ
内田
96
洋
O天国の門前に配された
前掛姿の取次女。
マドを射ち身の
青い溢血。
不動の財にまどい遍く幽霊。
偽りの光を当てる
不完全な反照装置。(Var.未完結の反省装置。)
冷静な炎の
ほど
熱情の火床。
まどい
新型の団居の暖炉。
囲いの壁の可能な限りの薄弱化。
あらゆる家屋の
どの部屋の奥にも
少くとも一つの窓は無しではすまぬ,
風よけの絹をまとった
冷酷に燃え盛る
熱情の的,
甘美にして嘆くが如き楽音の。
泣訴嘆願する一つの女体
日一光一青一鬚
青書光(IIGiorno)の妻。
両腕で一腰を−抑えられ
四分されたその肉体で
おまえは風雨荒れ狂うある激情を忍受する。
フランシス・ポンジュの『窓』について
へ
0ポンス酒!(Var.Oパンチ!)
へ
0ポンシュ1
昼も夜もポンシュの(Var.昼にして夜…)
青い鬚は炎と燃え輝く!
どの部屋の奥にも囚われているおまえ
吊るされた一枚の衣の下に,
あるじ
裸形を隠すべく主の配慮は
雲鬚に対置ざれ
彼の生きてある限りおまえは
洗いきよめられ目を掛けられよう
たえず装い繕われ
手を掛けられよう。
自分みずから石工になって
廃嘘にむかって開かれる扉。
ベールの陰でおまえは両挙を
体の真中に組ゑ合わせて縛られ
大きく見開いた目は
肉体の外枠いっぱい張り拡がる。
手をすばやくひとひねりして
おまえの取手の縛めを解いてやる時
胸はふるえ秘密な関係に巻ぎこまれるように
わたしはおまえに近づくと,
ひ
上体を退いておまえを開く
ちょうど女が
わたしにキスしようとする時のように。
それからおまえの肉体が
97
内田
98
洋
わたしを抱擁しつかまえて,
ベールとガラスの囲いを降ろし
わたしを閉じこめるその間に
おまえの愛撫でわたしの髪はくしゃくしゃになり,
体をおまえにのしかからせると
わたしの精神は外へ脱け出る。
詩篇
ロ亜々天空に対時した壁塁全体に及ぶ青癒の数々
穿鑿症の碧空の殴打の痕跡
あらゆる家屋の壁面をおまえは日間割る
己れ自身の石工によって破滅へと開かれた扉よ
く一ルの陰で外なる王たちに密通し
詩のページがしかしわたしの望むところでなく
● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ●
ポンシュたち昼も夜も燃え輝くその青鬚
外部の光明はわたしを打ち倒し破壊する
自から発すること些かもかなわぬ光
それのみが唯一の明らかさである限り
やむなくわたしはそれを忍受する。
Fly UP