...

なにわ・大阪文化遺産学叢書9 長島侯増山雪斎独楽園賀詞帖

by user

on
Category: Documents
74

views

Report

Comments

Transcript

なにわ・大阪文化遺産学叢書9 長島侯増山雪斎独楽園賀詞帖
関西大学なにわ・大阪文化遺産学研究センター
຾
ߖ
‫ܠ‬
‫ފ‬
૘
ෛ
なにわ・大阪文化遺産学叢書 9
ഝෳ
ટ๿
ಥ
੦৆
なにわ・大阪文化遺産学叢書
ಿ ോġ ࢒ġ
௩५ୱल
関西大学なにわ・大阪文化遺産学研究センター
ඊ‫ٖ׬ڢ‬তಧ
9
『独楽園賀詞帖』外観
ごあいさつ
﹃独楽園賀詞帖﹄は、伊勢長島城内に新しく造られた庭園﹁独楽園﹂に寄題する賀詞集で、長
島藩五代藩主増山雪斎のもとめに応じて寄せられた三十七名の詩を収めています。
増山雪斎は名を正賢といい、書画にすぐれ、好学で詩文を能くする文人大名でした。また、
造酒家で文人・博物家の木村蒹葭堂が過醸事件に巻き込まれた際に、蒹葭堂を領内に呼び寄
せて庇護したことはよく知られています。詩を寄せたのは、柴野栗山を筆頭に、木村蒹葭堂や
片山北海など、京坂で活躍した文人たちが中心で、増山雪斎を軸とした文人交流の様子がう
かがえます。
当センターの学芸遺産研究プロジェクトでは、平成十七年度より調査をすすめ、このたび、
なにわ・大阪文化遺産学叢書の第九弾として、﹃長島侯増山雪斎独楽園賀詞帖﹄を発刊するこ
ととなりました。
博
本書が近世大坂の文人交流について考える契機になるとともに、雪斎の愛した﹁独楽園﹂
に思いを馳せていただく機縁になりましたら、これに過ぎる喜びはありません。
平成二十一年三月吉日
関西大学なにわ・大阪文化遺産学研究センター
センター長
髙 橋
目 次
ごあいさつ
カラー図版
単色図版
博
有坂 道子
髙橋
﹃独楽園賀詞帖﹄に見る文人交流
藤田 真 一
印章
作者解説・釈文
伊勢長島﹁独楽園﹂の成立と賀詞 増
―山雪斎と木村蒹葭堂 ―
論説
3
6
43
21
49
55
65
増山雪斎略年譜・増山家当主一覧・略系図
関西大学総合図書館所蔵 増山雪斎作品
例
・表紙写真は﹃独楽園賀詞帖﹄中の木村蒹葭堂の賀詞である。
・増山雪斎略年譜・増山家当主一覧・略系図は、中尾和昇が執筆した。
・作者解説および釈文は、 有坂道子が執筆した。
・図録の編集は、有坂道子、藤田真一、中尾和昇が担当した。
・賀詞の釈文は、原則として異体字を新字に改めた。
・図版は、一部カラーで掲載した。図版の掲載順は原本通りではない。
・図版および印章は、原寸で掲載した。
侯増山雪斎独楽園賀詞帖﹄について、図版と解説を付したものである。
・この図録は、関西大学なにわ・大阪文化遺産学研究センターが所蔵する﹃長島
凡
70
72
カラー図版
.柴野栗山
︵柴邦彦︶
1
︵縦二一・五㎝ 、横一三・五㎝ ︶
6
長島侯増山雪斎独楽園賀詞帖
.葛子琴
︵葛張︶
2
︵縦二三・九㎝ 、横一四・〇㎝ ︶
7
カラー図版
.岡公翼
︵岡元鳳︶
3
︵縦二三・九㎝ 、横一四・三㎝ ︶
8
長島侯増山雪斎独楽園賀詞帖
.片山北海
︵片猷︶
4
︵縦二三・九㎝ 、横一三・四㎝ ︶
9
カラー図版
.江村北海
︵江
6
綬︶
頓
邨
︵縦二四・一㎝ 、横一三・六㎝ ︶
10
長島侯増山雪斎独楽園賀詞帖
.赤松滄洲
︵赤松鴻︶
8
︵縦二四・〇㎝ 、横一四・〇㎝ ︶
11
カラー図版
.木村蒹葭堂
︵木孔恭︶
9
︵縦二三・九㎝ 、横一三・五㎝ ︶
12
長島侯増山雪斎独楽園賀詞帖
.十時梅厓
︵十時賜︶
10
︵縦二四・九㎝ 、横一四・〇㎝ ︶
13
カラー図版
.皆川淇園
︵皆川愿︶
11
︵縦二四・九㎝ 、横一三・八㎝ ︶
14
長島侯増山雪斎独楽園賀詞帖
.冨士谷御杖
︵冨士谷成寿︶
13
︵縦二三・八㎝ 、横一四・七㎝ ︶
15
カラー図版
.岩垣竜渓
︵巌垣彦明︶
15
︵縦二一・一㎝ 、横一三・七㎝ ︶
16
長島侯増山雪斎独楽園賀詞帖
.篠崎三島
︵篠応道︶
17
︵縦二四・〇㎝ 、横一三・七㎝ ︶
17
カラー図版
.中島雪楼
︵中島漁︶
19
︵縦二一・三㎝ 、横一三・四㎝ ︶
18
長島侯増山雪斎独楽園賀詞帖
.藤井樗亭
︵滕世衡︶
26
︵縦二四・〇㎝ 、横一三・九㎝ ︶
19
カラー図版
.高安蘆屋
︵高昶︶
27
︵縦二三・九㎝ 、横一三・六㎝ ︶
20
長島侯増山雪斎独楽園賀詞帖
.片山弘道
︵片文貫︶
5
︵縦二四・〇㎝ 、横一五・〇㎝ ︶
21
単色図版
.伊藤君嶺
︵伊藤栄吉︶
7
︵縦二三・八㎝ 、横一三・九㎝ ︶
22
長島侯増山雪斎独楽園賀詞帖
.皆川篁斎
︵皆川允︶
12
︵縦二三・八㎝ 、横一三・九㎝ ︶
23
単色図版
.皆川成均
14
︵縦二四・〇㎝ 、横一五・〇㎝ ︶
24
長島侯増山雪斎独楽園賀詞帖
.清田竜川
︵清勲︶
16
︵縦二五・五㎝ 、横一三・八㎝ ︶
25
単色図版
.松本愚山
︵松本慎︶
18
︵縦二四・〇㎝ 、横一三・八㎝ ︶
26
長島侯増山雪斎独楽園賀詞帖
.僧浄
20
︵縦二三・九㎝ 、横一三・七㎝ ︶
27
単色図版
.秦主膳
︵秦修美︶
21
︵縦二三・六㎝ 、横一三・五㎝ ︶
28
長島侯増山雪斎独楽園賀詞帖
.横尾紫洋
︵黄符︶
22
︵縦二一・四㎝ 、横一三・三㎝ ︶
29
単色図版
.僧浄芳
︵蘭洲︶
23
︵縦二四・三㎝ 、横一五・一㎝ ︶
30
長島侯増山雪斎独楽園賀詞帖
.図南
24
︵縦二三・九㎝ 、横一三・六㎝ ︶
31
単色図版
.神吉東郭
︵神吉世敬︶
25
︵縦二三・八㎝ 、横一四・〇㎝ ︶
32
長島侯増山雪斎独楽園賀詞帖
.曾谷学川
︵曾之唯︶
28
︵縦二四・〇㎝ 、横一四・〇㎝ ︶
33
単色図版
.野紹順
29
︵縦二四・〇㎝ 、横一三・六㎝ ︶
34
長島侯増山雪斎独楽園賀詞帖
.今枝
30
濕
︵縦二三・九㎝ 、横一四・六㎝ ︶
35
単色図版
.山敬之
31
︵縦二三・八㎝ 、横一三・九㎝ ︶
36
長島侯増山雪斎独楽園賀詞帖
.中村健
︵中
32
健︶
頓
邨
︵縦二三・九㎝ 、横一三・六㎝ ︶
37
単色図版
.崗謙
33
︵縦二二・七㎝ 、横一四・一㎝ ︶
38
長島侯増山雪斎独楽園賀詞帖
.関祐
34
︵縦二四・七㎝ 、横一三・八㎝ ︶
39
単色図版
.長崎天雨
︵張天雨︶
35
︵縦二五・七㎝ 、横一四・四㎝ ︶
40
長島侯増山雪斎独楽園賀詞帖
.士綽
36
︵縦二一・三㎝ 、横一四・〇㎝ ︶
41
単色図版
.徳竜
︵釈徳竜︶
37
︵縦二二・六㎝ 、横一三・四㎝ ︶
42
﹃独楽園賀詞帖﹄に見る文人交流
はじめに
有坂 道子
﹃独楽園賀詞帖﹄︵関西大学なにわ・大阪文化遺産学研究センター所蔵︶は、
伊勢長島城内に新しく造られた庭園﹁独楽園﹂に寄題する賀詞集で、時の長島
藩主増山雪斎︵一七五四∼一八一九︶の求めに応じて寄せられた三十七名の詩
一 賀詞の成立と独楽園
﹃独楽園賀詞帖﹄は、縦三〇・四㎝ ×横二一・八㎝ 、絹地を用いて書かれた漢
詩 一 篇 ず つ を 集 め て 折 帖 仕 立 て と し た も の で、 外 題 は 無 く、﹃ 独 楽 園 賀 詞 帖 ﹄
の名称を通称としている。現在の装訂になったのがいつかは不明で、おそらく
近代に入ってからと推測されるがこの点については後述する。
はじめに賀詞の成立に関し述べておきたい。便宜上、三十七篇の賀詞には巻
頭から順に番号を付しておく。
︺ ∼︹
賀詞の作成契機は、﹁勝地新営独楽園﹂︹ ︺すなわち長島城内に新しく独楽
園が造成されたのを受けてのことであり、﹁長島侯命﹂︹ ︺・
︹ ︺や﹁長島侯
需﹂︹
︺ の 言 葉 が 示 す 通 り、 増 山 雪 斎 の 依 頼 に よ っ て 賀 詞 が 詠 ま れ
︺や﹁名園擬洛陽﹂
︺・
︹
︺・
︹
︺
︺ に 明 ら か な よ う に、 北 宋 の 司 馬 光 が 洛 陽 で の 閑 居 時 代 に 造 園 し た 独 楽 園
たことがわかる。独楽園の園名は、
﹁司馬温公独楽園﹂
︹
︹
を ふ ま え て い る。 園 が 造 ら れ た 時 期 は は っ き り し な い が、︹
35
を収める。詩を寄せたのは京坂で活躍した文人が中心で、十八世紀後半におけ
24
継いで五代藩主となった。藩主時代に加番︵大坂城の警備を担当する大番の補
︵一七八三︶五月には長島城内に完成していたものと考えられる。
2
人に画を学ばせるなどしている。また、雪斎と親しかった造酒家で文人・博物
たほか、南画家の春木南湖を江戸詰の御抱画師とし、長崎に遊学させて来舶清
子城の北隅に独楽園有り。亭有り、迎香と名づく︹公が記したり、因って并記
有 り。 殿 の 西 北 に 蕉 亭 有 り︹ 公、 芭 蕉 を 四 面 に 植 え、 以 て 憩 息 の 処 と 為 す ︺、
⋮⋮城は西外面村に在り。東門を表と為し、西門を裏と為す。中央に殿堂庁衙
志﹄の中に、わずかながら独楽園について言及がある。
家の木村蒹葭堂が過醸事件に巻き込まれた際には、蒹葭堂を領内に呼び寄せ屋
す︺
、一時四方の名士題を寄せる者多し。殿南に門有り、黒門と名づく。黒門
︵寛政五年︿一七九三﹀成立︶
、囲碁に関する﹃観奕記﹄
︵享和三年︿一八〇三﹀
1
成立︶
、
煎茶書である﹃煎茶式﹄
︵文化元年︿一八〇四﹀刊︶
、
さらに﹃長洲鳥譜﹄、
﹃虫豸帖﹄などの博物画譜がある。
し周匝千丈に盈たず。⋮⋮
︵原漢文。
︹ ︺中は割注。傍線筆者︶
と名づく。其の他ᢣ楼四、門五、東西に散置す︹水門二か所数に入れず︺、蓋
を距てること十歩、楼有り月観と名づく。月観を距てること数十歩、楼有り巽
敷地を与えて庇護したことはよく知られている。
好学で雅事を好んだ雪斎は、長島の文化振興に大きな役割を果たした。大坂
から十時梅厓を招いて藩儒に迎え、藩校文礼館を再興して新たに孔子廟を設け
寛政元年︵一七八九︶につとめ、この間在坂している。
佐にあたる役︶を四度、すなわち安永七年・天明元年︵一七八一︶
・天明三年・
の詩に記される﹁癸卯五月﹂を手掛かりにすれば、﹁癸卯﹂すなわち天明三年
9
る増山雪斎を軸とした文人交流の様子がうかがえる貴重な史料である。
増山雪斎は名を正賢といい、書画に優れ、詩文や煎茶を能くする文人大名で
あり、雪斎、長洲、松秀園など多数の号を持つ。宝暦四年︵一七五四︶に江戸
15
現在、長島城の跡地は桑名市立長島中学校となっており、往時の姿をうかが
う こ と は で き な い。 だ が、 長 島 藩 儒 と な っ た 十 時 梅 厓 の 著 述 と さ れ る﹃ 長 島
で生まれ、安永五年︵一七七六︶父の死により二十三歳で伊勢長島藩二万石を
1
23
13
30
3
18
この記述によって、独楽園は長島城の子城の北隅にあり、園内には迎香と名
付けられた亭があったことがわかる。そして、一時四方の名士の題を寄せる者
43
享和元年︵一八〇一︶四十八歳で致仕して後は巣鴨の下屋敷に隠棲し、文政
二年︵一八一九︶六十六歳で亡くなった。著作に、
書論を述べた﹃松秀園書談﹄
長島侯増山雪斎独楽園賀詞帖
3
が多かったというのは、
﹃独楽園賀詞帖﹄に収められている賀詞の篇々がまさ
にそれにあたるであろう。園内の迎香亭については、別の史料に、
迎香亭 迎
―香書斉、長島城中有閑園名独楽園、中構小斉方丈余計、置詩文
集諸子百家風流之集書、喬木覆屋上池水流窓前
5
思われる。
と、可能性があるのは本丸の北東部分、水手門から内堀に張り出した付近かと
江戸期の長島城を描いた城絵図はいくつか存在するが、独楽園が描かれたも
のは無く、その位置を断定することはできない。梅厓の記述に照らし合わせる
4
とあって、詩文集や諸子百家、風流の書を置いた書斎であったことが知られる。
論説
図 「長島城図」(部分、東京大学史料編纂所所蔵模写)
二 独楽園に寄せる賀詞
さて、実は独楽園に寄題する賀詞は、﹃独楽園賀詞帖﹄に収められた詩以外
にも存在する。現在までに確認できたものは、以下の五篇である。
①細合斗南
父 は 伊 勢 河 曲 郡 江 島 の 人。 大 坂 へ 出 て 菅 甘 谷 に 学 び、 清 の 考 証 学 を 修 め る。 詩 を 能 く し
漢 学 者・ 漢 詩 人・ 書 家。 名、 離・ 方 明。 字、 麗 王。 号、 斗 南・ 半 斎 な ど。 京 都 生 ま れ。
細合斗南⋮⋮享保十二年︵一七二七︶∼享和三年︵一八〇三︶享年七十七。
奉寄題長島侯独楽園
長島城開滄海瀕 楽山還属世家仁 読書平日課師友 観政移風和士民 綺席竜
蛇萃翰走 芳園魚鳥玉琴親 子遺如定帰田計 余沢或蒙封土隣
﹃合子天明後稿﹄一巻・詩録︵寛政十年︿一七九八﹀刊︶所収
混沌社に参加、また学半塾を開いて儒・書を教えた。天明六年︵一七八六︶から一身田
高田専修寺の文史をつとめた。
②白井重行
農政改革を行う。文化二年︵一八〇五︶藩校致道館を創設し、祭酒兼司業となる。同五
庄内藩士・漢学者。はじめ加賀山桃李に、ついで江戸で松崎観海に学ぶ。郡代をつとめ、
白井重行⋮⋮宝暦三年︵一七五三︶∼文化九年︵一八一二︶享年六十。
寄題長島侯独楽園
大海遥循長島廻 楼台高出彩雲開 閑居不厭繁酬応 藻思移観坐蘚苔 園林春
満黄鸝囀 琴瑟調成白鶴来 知是神工饒楽地 外臣何日夢徘徊
﹃東月集詩﹄︵成立年未詳︶所収
年中老。
44
③渡部種徳
市河寛斎⋮⋮寛延二年︵一七四九︶∼文政三年︵一八二〇︶享年七十二。
漢 詩 人 。 嗣 子 、 米 庵。 江 戸 生 ま れ 。 林 家 に 入 門 し 、 天 明 三 年 ︵ 一 七 八 三 ︶ 湯 島 聖 堂 の 啓
事役となるが、同七年辞職。詩文に優れ、江湖詩社を興し多くの詩人を育てた。寛政三
年︵一七九一︶富山藩儒となる。
①の細合斗南は、大坂の著名な儒学者で混沌社の社友であり、賀詞が﹃独楽
園賀詞帖﹄に収められてもおかしくないが、何らかの理由で洩れたようである。
②∼④にあげた白井重行、渡部種徳、重田道樹の三名はいずれも庄内藩の文
人である。雪斎はこの三人の他にも庄内藩の藩士・文人たちと交流を持ってお
た。詩文に長じる。生没年について、
﹃荘内先賢詩選・前集﹄では享保四年︵一七一九︶
∼寛政三年︵一七九一︶とするが、﹃新編庄内人名辞典﹄︵一九八六︶では墓碑の碑文な
り、雪斎が江戸藩邸で過ごしていた時期に江戸在勤の彼らと知り合って交遊が
8
ど か ら 寛 延 三 年︵ 一 七 五 〇 ︶ 生、 天 明 二 年︵ 一 七 八 二 ︶ 十 二 月 八 日 没 と し て い る。 後 者
始まったものと思われる。次に挙げる史料は、庄内藩の文人・国学者である池
︵ 相 良 儀 一 は ︶ 一 と た び 東 都 に 扈 従 し て 南 上 せ し よ り、 真 竜 禅 師 に 随 身 し
て琴を学び、長島侯に詩を聞き、大いに発明するところありて、︵中略︶
長島侯の書画、大泉︵庄内藩︶に伝ふるは皆淑卿︵相良儀一︶のたまもの
なり
︵︵ ︶内は筆者注︶
9
とあって、雪斎が庄内藩の文人と交わり、彼の地の文化に大きな影響を与えて
一八〇四︶の略伝を書いたものであるが、
で 琴 の 名 手 と し て 知 ら れ る 相 良 儀 一︵ 宝 暦 七 年 ∼ 文 化 元 年、 一 七 五 七 ∼
田玄斎︵安永四年∼嘉永五年、一七七五∼一八五二︶が、同じく庄内藩の文人
7
を採れば、独楽園への賀詞は天明三年以前に詠まれていたことになる。
渡部種徳⋮⋮生没年に二説あり。庄内藩士。儒を以て聞こえ、命により藩中の子弟を教え
寄題長島侯独楽園
遙聞新館倚園林 想見琴書楽抱襟 座久閑雲生遠岫 地幽緑径穏鳴禽 盤旋豈
仮追陪侶 逸興時吟大雅音 既誦輿論忻慕切 献芹聊擬野人心
6
﹃荘内先賢詩選・前集﹄
︵致道館、
﹃自適集﹄シリーズ第十二輯︶所収
④重田道樹
庄内藩医。庄内藩医重田道達の長子で、寛政元年奥医、同十一年侍医。若年より書を能
重田道樹⋮⋮宝暦二年︵一七五二︶∼文化八年︵一八一一︶享年六十。
寄題長島侯独楽園
長島浮烟多度雲 晩風吹払海天分 座右図書映東壁 亭中杯酒対西㈋ 弾琴竹
苑禽来舞 洗筆蓮池鵞作群 園成総厭今時客 更有前賢能楽君
﹃荘内先賢詩選・前集﹄
︵致道館、
﹃自適集﹄シリーズ第十二輯︶所収
くし、漢籍に詳しく、藩校致道館が設立されると助教に任ぜられて司業を兼ねた。
いた様子を知ることが出来る。上記三名の独楽園への賀詞は、こうした交遊を
背景に生まれたものである。彼らの詩が﹃独楽園賀詞帖﹄に収められていない
のは、
﹃賀詞帖﹄が当時京坂にいた文人を中心にまとめられていることによる
ものだろう。⑤の市河寛斎も江戸の人であり、﹃賀詞帖﹄に入らなかったのは
同様の理由と思われる。
参考までに、独楽園への賀詞が寄せられた天明三年の、作者各人の居所と年
齢を表にあげておく︵ 頁︶
。
45
⑤市河寛斎
王右軍十七帖中事︺此際独遊多楽事 不須招隠賦新詩
︵︹ ︺中は割注︶
﹃寛斎摘草﹄巻之三・七言律︵天明六年︿一七八六﹀成立︶所収
46
寄題長島侯独楽園︹長島隷伊勢︺
使君風尚在園池 暇日逍遥興可知 煙水晴分東海道 閑雲晩擁北山陲︹園北有
多度山︺月窺墜露煎茶夜︹劉夢得試茶歌木蘭墜露香微似︺花掩来禽展帖時︹用
長島侯増山雪斎独楽園賀詞帖
三 ﹃独楽園賀詞帖﹄の成立
︺ 岩 垣 竜 渓︵ 巌 垣 彦 明 ︶ の 名 が 無 い
楽園賀詞帖﹄は三十七の賀詞を収めている。そこで三陽が掲げる三十六葉の氏
名と見比べると、唯一、﹃賀詞帖﹄の︹
られたと考えられよう。三陽の記述では、彼が見たものがどのような体裁だっ
安永五年に家督せる伊勢長島侯増山河内守正賢は、性文雅を好み詩画を善
が妥当かと思われる。いずれにしても、独楽園の新造を機に増山雪斎のもとに
少なくとも現在の折帖のかたちではなかったことは間違いない。
そうすると、今の帖仕立てになったのはいつのことであろうか。時期の特定
は困難だが、三陽の没年︵昭和二年︶からすれば昭和に入って以降と考えるの
た の か よ く わ か ら な い が、 作 者 名 の 順 も﹃ 独 楽 園 賀 詞 帖 ﹄ と は 異 な っ て お り、
くせり。此頃︵天明三年︶諸方の詞人に嘱してその独楽園に寄題する詠を
は四十を超える賀詞が集まり、そこから﹃独楽園賀詞帖﹄が生まれることになっ
大坂
〔29〕野紹順
大坂
12
① 細合斗南
大坂
57
② 白井重行
庄内※
31
③ 渡部種徳
(庄内)※
④ 重田道樹
庄内※
32
⑤ 市河寛斎
江戸
35
〔37〕徳竜
大坂
〔35〕長崎天雨
大坂
〔32〕中村健
京都?
〔30〕今枝顕
〔31〕山敬之
〔33〕岡謙
〔34〕関祐
〔36〕士綽
※当時の正確な所在地は確認できない。
また、渡部種徳は故人の可能性あり。
聚む。予︵市河三陽︶前年その真蹟三十六葉を寓目してその詩を抄し置け
〔28〕曾谷学川
たのである。
24
大坂
大坂
〔27〕高安蘆屋
斎摘草を閲するに及びて先生も亦応募の一人なるを知る。尚逸するものも
〔26〕藤井樗亭
〔1〕柴野栗山
京都
48
〔2〕葛子琴
大坂
45
〔3〕岡公翼
大坂
47
〔4〕片山北海
大坂
61
〔5〕片山弘道
大坂
〔6〕江村北海
京都
71
〔7〕伊藤君嶺
京都
37
〔8〕赤松滄洲
京都
63
〔9〕木村蒹葭堂
大坂
48
〔10〕十時梅厓
大坂
47
〔11〕皆川淇園
京都
50
〔12〕皆川篁斎
京都
22
〔13〕冨士谷御杖 京都
16
〔14〕皆川成均
京都?
〔15〕岩垣竜渓
京都
43
〔16〕清田竜川
京都
34
〔17〕篠崎三島
大坂
47
〔18〕松本愚山
京都
29
〔19〕中島雪楼
〔20〕僧浄
京都
39
おわりに
28
あらん。茲には落款に見えたる氏名のみを挙ぐ。正賢は後の雪斎君選にし
30
ここで改めて独楽園に賀詞を寄せた作者たちを見てみよう。
十八世紀後半は、
古文辞学の流行を受けて作詩文が盛んとなった時期であり、
三都を中心に詩社を結成して文人活動を行う者が多く現れた。賀詞の作者たち
赤穂?
長島・大坂
増山雪斎
46
〔25〕神吉東郭
大坂
︵︵ ︶内および傍線は筆者による︶
京都
〔23〕僧浄芳
〔22〕横尾紫洋
10
て此年三十歳。
大坂
天明三年の居所・年齢
つまり、市河三陽は実際に独楽園に寄題する詩を目にしているのだが、注目
すべきはそれが﹁三十六葉﹂だったということである。既に示したように、﹃独
〔21〕秦主膳
り。絖絹に書しその大さ普通詩箋の如し。後荘内藩白井重行の詩を得、寛
述がある。
市河三陽︵明治十三年∼昭和二年、
一八八〇∼一九二七︶の﹃市河寛斎先生﹄
は、寛斎の事績を年譜風にまとめた書であるが、天明三年のところに以下の記
単なる数え間違いではないことは明らかである。従って、三陽が見たものには
ことがわかる。三陽は三十六名の名を挙げてその詩を書き留めたといっており、
15
ところで、⑤にあげた市河寛斎の曾孫にあたる市河三陽が著した﹃市河寛斎
先生﹄の中に、
﹃独楽園賀詞帖﹄の成立について示唆を与える重要なことがら
〔24〕図南
岩垣竜渓の詩が含まれておらず、後の段階で加えられて﹃独楽園賀詞帖﹄が作
50
が記されているので、
﹃賀詞帖﹄そのものの成立について考えておきたい。
論説
46
もみな、作詩文を能くする者たちである。大坂を代表する詩文結社・混沌社の
︺
、京都で賜杖堂
盟主である片山北海︹4︺をはじめ、社友の葛子琴︹2︺
、岡公翼︹3︺、木村
蒹葭堂︹9︺
、篠崎三島︹ ︺
、細合斗南︹①︺
、曾谷学川︹
を開いた江村北海︹6︺、三白社を作った柴野栗山︹1︺、赤松滄洲︹8︺、皆
︺、図南︹
︺、今枝顕︹
︺、山敬之︹
︺についてはさらに不明であるが、作者たちは
︺、野紹順︹
︺、士綽︹
︺、岡
秦主膳︹ ︺、僧浄芳︹ ︺、中村健︹ ︺、長崎天雨︹ ︺らは、大坂の人
で漢詩文をたしなんだ文人であるが詳しくはわからない。本名や経歴が明らか
で な い 僧 浄︹
︺
、関祐︹
三島、細合斗南は古文辞学派の菅甘谷に学び詩社に参加した者たちで、片山北
盟主の片山北海は赤松滄洲とは宇野明霞の同門であり、葛子琴、岡公翼、篠崎
に結成され、
独楽園の賀詞が詠まれた天明三年は活動の最盛期にあたっていた。
き、接することがあったはずである。しかし、賀詞の作者は以前から交流のあっ
以前にも加番として大坂に赴任しており、そうした機会に京坂の文人の名を聞
合い、どれほどの交遊を持ったのかは明らかでない点が多い。雪斎は天明三年
﹃独楽園賀詞帖﹄全体を通して見ると、作者の並び順は比較的関係の近い人
びとを集めているようだが、それぞれの人が増山雪斎といつ、どのように知り
︺
、甥の冨士谷御杖︹ ︺
、弟の皆川成均︹
︺など
14
う関係もある。
作者同士が師弟の関係にある者には、皆川淇園とその門下の岩垣竜渓︹ ︺、
松本愚山︹ ︺
、赤松滄洲と門下の神吉東郭︹ ︺
、片山北海と門下の藤井樗亭
︹ ︺
、曾谷学川、木村蒹葭堂などが挙げられる。藤井樗亭は書を趙陶斎に学ん
15
︺は長島藩儒に登用さ
でいるが、趙陶斎は増山雪斎の書の師でもあった。そしてその陶斎に従って雪
斎のもとに出入りしたことがきっかけで、十時梅厓︹
10
れている。菅甘谷門であった高安蘆屋︹ ︺も、書家として知られている。
27
22
交遊があったが、高芙蓉は印聖と称された篆刻家で、葛子琴や曾谷学川、柴野
19
栗山、木村蒹葭堂らは芙蓉に学びまた交遊した人々である。片山北海と同郷の
37
︵ ︶
海を師とする木村蒹葭堂は、作詩文を中心とした蒹葭堂会の活動を経て混沌社
詩文に優れた文人としてある程度は相識であったと思われる。
謙︹
31
35
30
32
29
23
24
た文人ばかりではなく、例えば木村蒹葭堂はこの賀詞の作成がきっかけとなっ
︺
、江戸で江湖詩社を興した市河寛斎︹⑤︺ら、詩社を結んで積極
36
21
20
の創立に加わった人物である。木村蒹葭堂が柴野栗山や皆川淇園、江村北海ら
川淇園︹
34
28
﹃蒹葭堂日記﹄に現れる
て雪斎との交遊が始まったと推測される一人である。
るものではなかった。
皆川淇園の子皆川篁斎︹
13
25
がそうである。加えて皆川淇園は、伊藤君嶺の義父伊藤錦里が師にあたるとい
12
また、片山弘道︹5︺は片山北海の養子であるが、作者同士に親子や親戚の
つながりも見受けられる。江村北海の弟清田竜川︹ ︺と甥の伊藤君嶺︹7︺、
16
政六年︵一七九四年︶雪 斉 勝賞書千松秀園の議語にある拓本﹂があげら
れている。この史料の所在を確認できていないが、﹃長島町誌﹄の翻刻︵上
巻、一四六頁︶に従い該当部分を示した。
︵4︶長島城絵図としては、①﹃長島町誌﹄上巻一三六頁に掲載される﹁長島
︵ママ︶
よれば天明四年︵一七八四︶ごろとされる。
︵3︶﹃長島町誌﹄︵前掲注2︶には、当時の城中の状況を知る史料として﹁寛
︵1︶山口泰弘﹁増山雪斎の中国趣味﹂︵
﹃江戸の風流才子 増山雪斎展﹄図録、
三重県立美術館、一九九三︶
。
︵2︶成立は、﹃長島町誌﹄上巻︵長島町教育委員会、一九七八、一四五頁︶に
︻注︼
と京坂の文人との新たなつながりを生み出す契機になったと考えられよう。
﹃独楽園賀詞帖﹄は、天明三年当時の京坂で詩文において活躍していた文人
のつながりを具体的に示すとともに、独楽園の新造に伴う賀詞の作成が、雪斎
よりも時期が早まると考えられる。
詞において自らを﹁臣﹂と表現していることから、従来言われている天明四年
に、雪斎に招かれて長島藩儒となった十時梅厓の仕官時期については、この賀
雪斎の記事を見ると、天明三年以後に親しい交際がうかがえるからである。逆
11
的に作詩文活動を行った者たちが多い。このうち混沌社は明和二年︵一七六五︶
33
17
と広く交遊していることからもわかるように、相互の交流は詩社内部にとどま
11
18
徳竜︹ ︺はたまたま京坂に来遊していた巡り合わせで賀詞を寄せたものであ
ろう。
47
26
亀山藩儒をつとめた中島雪楼︹ ︺は﹃雪楼詩鈔﹄のある詩文家であり、同
じ亀山藩儒には皆川篁斎も就いている。横尾紫洋︹ ︺は赤松滄洲や高芙蓉と
長島侯増山雪斎独楽園賀詞帖
城図﹂︵模写。原図は長島中部小学校蔵︶、それとほぼ同図の②東京大学
史料編纂所所蔵﹁長島城図﹂︵長島村山内熊三蔵本の写︶、③内閣文庫所
蔵﹁勢州長島城図﹂
︵
﹁日本分国絵図﹂のうち︶の三種がある。いずれも
︵ 一 七 〇 二 ︶
詳 し い 作 成 年 代 は 不 明 で あ る が、 ① は 表 題 下 に﹁ 元 禄 十 五 壬 午 年 九 月 朔
日 増 山 兵 部 少 輔 ニ 賜 ﹂ と あ り、 模 写 年 代 は﹁ 皇 紀 二 千 六 百 年 八 月 ﹂ す な
わち昭和十五年︵一九四〇︶、②の模写年代は大正九年︵一九二〇︶四月
である。③は﹁日本分国絵図﹂全体の書写年代から、十七世紀後半ごろ
の様子が描かれていると推定されている。
︵5︶独楽園の位置については、年報﹃なにわ・大阪文化遺産学研究センター
雪 斎 の 芳 し か ら ぬ 行 跡 に も 言 及 し て い る が、 玄 斎 は 山 水 画 に 関 し て 雪 斎
ぶ膨大な文人記録であるが、その三五冊目に﹁増山侯の御事﹂があり、
玄 斎 が 相 良 儀 一 か ら 聞 い た 話 と し て、 儀 一 が 初 め て 雪 斎 の と こ ろ へ 行 っ
た時の様子が次のように記されている︵
︵ ︶内は筆者注︶
。
初而参候節、御書斎へ扣候様御取次先達ニて入見候ヘハ、不残唐風の
御坐敷ニて亀甲の石を敷、あたりハシツクヒ︵漆喰︶ニ而殊之外奇麗
也、長押ニは唐画山水花鳥の額或は硝子の蛮画等色々の珍画を掛置た
り、助右衛門︵相良儀一︶には円坐を敷せ夫々坐したり、増山様は曲
禄︵ᱏ︶へ御腰懸させられ色々の御物語有之、御吸物御酒も出たり、
器物は勿論箸の類まて皆華物ニ而結構至極の事共也、極御懇意の御方
ニは女中も不残唐の衣服ニて当時清朝の風俗を擬し裾の広き袴を着御
酌に出候と也、助右衛門は初而の事ゆへ御給仕は御近習ニてありし
右の記事からは雪斎の相当な中国趣味が見て取れる。この他、浪費など
︵9︶池田玄斎の随筆﹃弘采録﹄
︵酒田市立光丘文庫所蔵︶は、全一三九冊に及
︵8︶同右、四〇∼四一頁。
氏に感謝申し上げる。
︵7︶坂本守正﹃瘞琴碑について﹄
︵荘内人物史研究会、一九八一︶四二頁。
二〇〇六﹄︵二〇〇七年刊︶の中で、本丸南東に位置する下屋敷内の泉水
が そ う で は な い か と 推 定 し た が、 十 時 梅 厓 の 記 述 は 城 内 の 様 子 を 描 い て
いると考える方が妥当であり、位置を推定し直した。
︵6︶現在入手困難な本書について、関係部分を複写下さった致道博物館犬塚
論説
を高く評価し、
﹁山水の画ハ此侯︵雪斎︶と其臣南湖︵長島藩の御抱画師
である春木南湖︶にとゝめたり、︵谷︶文晁等か及所にあらす、玄斎常に
慕ふ処にして近来の名家と称すへし﹂と書いている。
︵ ︶引用は﹃復刻市河寛斎先生﹄
︵あかぎ出版、一九九二︶による。本復刻版
は、
﹁三省堂﹃書菀﹄に連載された市河三陽氏の遺稿・萬機校による﹁市
河寛齋先生﹂に市河三次氏が再校を加えコピーで私家版として合本とし
たものを原本として復刻したもの﹂︵同書あとがきより︶である。
︵ ︶有坂道子﹁増山雪斎と木村蒹葭堂﹂︵﹃混沌﹄三〇号、二〇〇六︶
10
11
48
増山雪斎と木村蒹葭堂
伊勢長島﹁独楽園﹂の成立と賀詞
一 大名庭園の環境
藤田 真一
江戸時代は、庭園文化の歴史に新たな展開をもたらした。
寝殿の前面に築かれた貴族好みの州浜式庭園の平安期、禅思想と将軍の庇護
を背景にした枯山水の室町期、武家の豪壮趣味と茶の湯文化をとりいれた池泉
庭園の安土桃山から江戸初期と、おおざっぱなとらえ方ながら、庭園は時代と
ともに様式や形態をかえながら発展してきた。いずれのスタイルも、その時代
くない。江戸期に修造された大名庭園には、いまなお名園として伝わるものが
少なくない。たとえば、後楽園・六義園などの東京の庭園をはじめ、金沢の兼
六園や水戸の偕楽園、あるいは熊本の水前寺公園や高松の栗林公園といった地
方の名園は、いずれも観光地また市民の憩いの場として、現役の役目を果たし
ている。その一方、尾張藩の戸山荘や松平定信の浴恩園は、時代の波にさらわ
れ消え去った。独楽園も消え失せた大名庭園のひとつに数えられる。
しかし近年、長島藩にかつて﹁独楽園﹂と称する庭園があったことを証明す
る遺品が出現し、関西大学なにわ・大阪文化遺産学研究センターの所蔵に帰し
た。それがこの﹃独楽園賀詞帖﹄である。ここでは、その複製にあたって、書
誌的データを示して、資料の概要を報告する。あわせて、独楽園および賀詞帖
の成立に関わる私見を提示することとする。
二 ﹁独楽園賀詞帖﹂の書誌
・ ㎝
まず、﹁独楽園賀詞帖﹂︵以下﹁賀詞帖﹂︶の現状の書誌データを略記する。
布地。黄褐色。桔梗菱形繋ぎ。 ・ ×
一のものとみられる。ただし、︹ ︺︹ ︺は墨面の状態がやや不良。
各自筆。金砂子地に、墨書された絖絹を貼り込む。布地の絖絹は同
ぬめぎぬ
二十折。墨付き十九折、三十七面︵頁︶。
折帖。
なし。
なし。
中央に題簽。外題無記入。
﹁独楽園賀詞帖﹂は仮題である。
8
21
の文化や思潮を写す鏡のような役割をもった。
江戸の泰平の世になり、将軍・大名を機軸にした幕藩体制が整うにつれ、各
地の大名たちが競うようにして庭園を築くようになる。池泉回遊式の様式を基
本としながら、それまでにない宏大無辺の大庭園をもつようになったのが、こ
の時代の最大の特徴といってよいだろう。尾張・紀伊・水戸の三親藩はもとよ
り、譜代も外様も、こと造園に精を出すという点ではほとんど違いはなかった。
あるいは柳沢吉保や松平定信といった権門勢家も、大規模な庭園を築いて誇り
とした。各大名は、江戸に数ヶ所の屋敷地を拝領していた。江戸城に最寄りの
表紙
題簽
内題
序跋
装丁
丁数
墨面
4
貼り込まれた布地の周囲は、金地で縁取られる。
22
誌をよむ﹀ことから、作業をはじめようとおもう。
らわれたすがたを分析・解明することが、独楽園に近づく最善の道だろう。︿書
庭園そのものが失われているだけでなく、関連資料も乏しいなか、独楽園を
さぐる唯一にして、絶好の手がかりが、この賀詞帖にほかならない。ここにあ
30
15
上屋敷のほか、中屋敷・下屋敷など複数の別邸を賦与されており、そこにさま
ざまに意匠を凝らして庭造りにいそしむことが、
江戸期を通じて大流行となる。
最大、江戸には諸侯三百余藩で、およそ千もの庭園が存在したとされる︵白幡
洋三郎﹃大名庭園﹄講談社︶
。かれらは江戸だけでなく、国元の城下にも、大
小さまざまな庭園をこしらえた。
に消滅して、現在その跡地に中学校が建てられ、往時をしのばせる縁はまった
49
本稿の主役増山雪斎も、石高わずか二万石という小大名ながら、伊勢長島の
1
本国に庭園をしつらえた。その名を﹁独楽園﹂といった。庭園そのものは早く
長島侯増山雪斎独楽園賀詞帖
墨筆の布地は、各面に一葉ずつ貼り込まれており、周囲を金で縁取り、さら
に金砂子の厚紙でていねいに装丁がほどこされている。絖絹の素材は同一と認
頁の表を参照︶。幅は詩文のサイ
揮毫者リストをながめると、当時の住所・在留地域としては、ほぼ大坂と京
都に二分される︵ 頁の表を参照︶。赤穂在かと推測される神吉東郭や、所在
︺の皆川愿︵淇園︶、
地が不明の者もあり、慎重な判断が必要だが、おおかたは京坂界隈の範囲で賀
︺∼︹
︵2︶
詞を求めたとしてよいだろう。注目されるのは、︹
︺︹
ズに合わせてあり、成り行きとみてよい。問題になるのは、天地の大小である。
︺︹
皆川允︵篁斎︶、富士谷成寿︵御杖︶、皆川成均の四名である。篁斎は淇園の実
︺︹
平均的には ㎝ 前後におさまっているが、なかに特大サイズ、また極小サイズ
︺︹
子、御杖は淇園の甥、成均は不詳ながら、いずれ一族とおもわれる。こういう
︺は極大型、
︹
14
たとは考えにくい。三十七名に揮毫を依頼するにあたって、各々別仕様の布地
なる。いずれも﹁癸卯夏五﹂とあり、天明三年五月ということがわかる。この
取ることが予想されるばかりか、こぼれのおきることすら考えられる。
ヽ ヽ ヽ
第二は、先の揮毫者や賀詞の内容を目にしつつ、自作を案じられるというゆ
とりができるという便宜がある。とはいうものの、一のばあいよりさらに手間
確で、おそらく一定期間内に集めようとするばあいは実効性に乏しい。
ていいときは、ぴったりの方法といえる。しかし本賀詞帖のような、目的が明
ながら、投宿先で記念に亭主から一筆を願うというような、ゆるゆる気随にし
かたみ
確実に集めて回れるのは、第一の方式だろうが、当該の者が不在であったり、
事情によって即応できなかったりするおそれがある。行脚俳人が各地を経巡り
右三方式のうち、もっとも簡便で粗漏が生じにくく、合理的なものはどれだ
ろうか。
送してもらうなりする方式。
三、それぞれ別途に素地を送って、揮毫を願い、仕上がれば回収するなり、返
てもいいが、多ルートには及ばない程度。
順に揮毫してもらうというもの。
これも複数の回覧があっ
二、布地を回覧して、
あってもかまわない。
では、揮毫を求めるとき、どのような方式をとったと考えられるか。とりあ
えず、以下のような三パターンを想定するところからはじめる。
が用意されたと仮想するにはむりがあるだろう。
9
︺ 長 崎 天 雨、 こ れ ら 三 名 の 賀 詞 末 尾 に し る さ れ た 年 次 が 有 効 な 手 が か り と
3
年 次 記 入 が、 ど の 段 階 で あ っ た の か に よ っ て、 全 体 の 成 立 時 期 が 左 右 さ れ る。
︹
つ ぎ に 賀 詞 帖 の 成 立 年 次 に つ い て 考 え た い。 序 跋 は む ろ ん、 奥 書 や 識 語 な
どはいっさいないので、内部徴証としては、︹ ︺岡公翼、︹ ︺木村蒹葭堂、
ばあいは一人、たとえば淇園に頼んでおけばすむだろう。しかし、たいていは
︺︹
︺は極小型
め ら れ る が、 天 地 と 幅 は ま ち ま ち で あ る︵
46
に属する。おおよそ三分類されるサイズだが、揮毫当初から布地の大きさに区
36
個別に依頼しておくのが、むしろ効率的ではないか。先に想定した三方式のう
22
別があったのか、それとも裁断や表装など、のちの処理のしかたで生じた差な
19
ち、第三を基本として、ケースによっては、一・二の併用もありうるとするの
15
11
54
1
のか、現状からは判然としない。ただ、素材が同一で、見たところ、墨面は違
36
が穏当だろう。
16
和感なくしぜんな姿に納まっており、揮毫時からばらばらのサイズの布地だっ
が混じっている。
︹
24
一、だれかが使者となって、揮毫者の許を回って集めるやり方。使者は複数で
論説
三 雪斎と蒹葭堂
点をうつす。
みずから絵筆をとれば、花鳥画に山水画にと、絵師そこのけの絵画をえがい
独楽園を整備したのは、伊勢長島藩主増山正賢︵号雪斎︶である。かれは安
まさよし
永五年︵一七七六︶
、父正贇の跡を継いで、第五代藩主となる。
ましやままさかた
さらに、この推定を支える胆どころに、木村蒹葭堂の名が出ることに着目す
ると、もう一歩推論を進めることができるかもしれない。次章では、そこへ論
からざる時期ということは動かないだろう。
れをもって、完成時を即断することは慎重を要する。いずれにしろ、前後、遠
するならば、天明三年五月を賀詞帖成就の下限とすることができる。むろんこ
認められる。これをもって、本画帖完成の時期とされている。その考えを適用
︵3︶
蕪村の﹁宜風﹂に﹁明和辛卯八月写/謝春星﹂と、全二十図中、唯一の年記が
こ こ で 思 い 合 わ さ れ る の が、 池 大 雅 と 与 謝 蕪 村 合 作 の ﹁ 十 便 十 宜 図 ﹂ で あ る。
35
50
︵4︶
しまれるが、おそらく現状と大きな相違はなかったとしてよいだろう。
さて、地方の小大名が、上方の儒者・詩人をこれだけ揃えるに至る事情を考
えなければならない。これほどの顔ぶれの賀詞が実現するには、大名といって
た。また、
はやりの煎茶をたしなみ、﹃煎茶式﹄という本を上梓するほどだった。
顕彰して、﹁蕉翁信宿処﹂の石碑を建立した。さらには、寛政二年春、過醸の
も、それなりの下支えが必要だったにちがいない。仲介者なり、まとめ役がな
あるいは、よく知られる事蹟として、領内の大智院という寺に投宿した芭蕉を
咎で謹慎の罪科をえた木村蒹葭堂の身柄を迎えて、しばらく領内に庇護したこ
くてはなしがたい為業である。
し わ ざ
ともあった。かく、風流韻事にたけた、典型的な文人大名が、増山雪斎という
︺
﹁奉寄題長島侯独楽園﹂
、︹
右 の 寛 斎 先 生 伝 に、﹁ 諸 方 の 詞 人 に 嘱 し て そ の 独 楽 園 に 寄 題 す る 詠 を 聚 む ﹂
とあるが、賀詞題の表現からこれを裏付けることができる。たとえば、︹ ︺﹁右
寄題独楽園敬応長島侯﹂、︹
︺
﹁奉寄題長島賢侯
︺﹁恭奉命遥寄題長島侯独楽園﹂は、雪斎の下命に応じた
ことを示すとともに、直接的な受け渡しではないことをうかがわせる。
︹ ︺
﹁遥
のだろう。また、
︹
独楽園﹂などといった書き方から、三陽は﹁独楽園に寄題する詠﹂と判断した
35
人物だった。
そんな大名が、
自領に庭園をと望んでもふしぎではない。
安永五年︵一七七六︶
に藩主となって、数年にして、独楽園の築造に手をつけることとなる。造園に
1
ヽ ヽ
︺
﹁越後処士片猷頓首再拝謹書﹂も、事
ヽ ヽ
上するという断りは、しょせん風流韻事といい条、社会の基本的枠組みをふみ
いた。そんな人物が、外臣という分際の身柄を明らかにしたうえで、詩文を呈
旨を明記するものである。栗山本人は、京に居住したままで阿波藩に仕官して
署名のしかたにも注意が必要だ。たとえば、︹ ︺﹁外臣阿波国御儒者柴邦彦
再拝上﹂は、柴野栗山が阿波藩に仕える身分にあって、長島藩侯の命に応ずる
か﹂というには難がある。
なく、
心理的落差をも示唆することばである。京と大坂の地域差を、単純に﹁遥
寄題長島侯独楽園﹂にもある﹁遥﹂の文字は、空間的距離感をあらわすだけで
16
関する記録はほとんど残っていないが、
伊藤重信著
﹃長島町誌 上巻﹄︵一九七八
年改訂版︶に引用される、十時梅厓の﹁長島誌﹂の一節につぎのようにしるさ
れる︵表現・表記はすべてママ︶
。
子城の北隅に独楽園あり。亭有り迎香と名ずく
︵公が記たり因りて併記す︶
一時四方の名士題を寄する者多し。
かなり杜撰な文章だが︵読み下しに難があるか︶
、独楽園の実在を伝えるだ
けでなく、
賀詞帖の存在も示唆する点で注目に値する。原典の所在は不明だが、
この記事は天明四年ころに著されたとされており、重要な証言といってよい。
また、市河三陽著﹃市河寛斎先生﹄︵一九九二年二月二十日あかぎ出版刊の
復刻版による︶をひもとくと、天明三年寛斎三十五歳のくだりにも、以下のご
1
すからみても、表装はいずれ近代出来のものと判断される。また、
﹁詩箋﹂の
たことを暗示している。三陽は、明治十二年生まれ、昭和二年没。装丁のよう
順序の相違は、現在のすがたに張り込められたのが、三陽寓目以後のことだっ
にこれを寓目したというが、その正確な時期はわからない。とはいえ、両者の
番と、一年交替ながら、都合四度にわたって勤めた。通常、一、二万石程度の
︵ 一 七 八 一 ︶ に 山 里 加 番 、 同 三 年、 寛 政 元 年︵ 一 七 八 九 ︶ に は 再 三 の 中 小 屋 加
する役目をになった。雪斎は、安永七年︵一七七八︶に中小屋加番、天明元年
藩主としての雪斎は領内を治めるだけでなく、幕府の御用も拝命することが
少なからずあった。大坂加番︵在番とも︶という役目で、度たび大坂城を警護
たんに人数の多寡にとどまらず、地域的にも、身柄からしても、多様な人士
に賀詞を嘱するのは、雪斎の側からみても容易なこととはおもわれない。
藩の枠からフリーの立場にあると考えてよいことになるだろう。
情こそ違え、同様の処し方をみせる。逆にいうと、このような表示のない者は、
はずさないことを表明したものだ。
︹
4
とき文面が見られる。
9
大名から選ばれた。足高による追加の役料が、小藩にとっては具合がよかった
う詩箋こそ、
この賀詞帖に該当すると考えてよいだろう。三陽は﹁前年︵先年︶﹂
6
ようだったという証言も見逃せない。個々のサイズについて言及のないのが惜
51
15
此頃諸方の詞人に嘱してその独楽園に寄題する詠を聚む。予前年その真蹟
三十六葉を寓目してその詩を抄し置けり。絖絹に書しその大さ普通詩箋の
如し。
この文章のあとに、まさにその三十六葉の詩人が列挙されている。︹ ︺の
岩垣竜渓の名がなく、また掲げられる順序が大きく異なるが、三陽が見たとい
長島侯増山雪斎独楽園賀詞帖
︵8︶
の儀礼を終えて、翌三日から六日のあいだに旧番の者と交替するとされる。中
七月十五日から十八日に四加番それぞれ江戸を発し、上坂後、八月二日に交替
賀詞帖の天明三年は、ちょうど三度目の加番として在坂していた時期にあた
る。だが、ここには日程的に微妙な問題がからんでくる。加番の交替時期は、
なかったようだが、交渉がすでに開始されていることを告げているという点で、
二十七日冒頭に﹁東役所行﹂とあり、外出不在ゆえ、蒹葭堂との面会は果たせ
呂 見 竜 は 父 の 代 か ら 長 島 侯 に 仕 え た 儒 医 で あ る︵﹃ 長 島 町 誌 ﹄ 上 ︶。 日 記 三 月
は許されないので、直接の訪問ではなく、代理が立ったということだろう。野
ある。﹁増山河内守内過訪ス。野呂見竜不遇﹂とある。天明元年八月以来、雪
小屋加番は八月五日にはいる。とすると、賀詞帖にある年記、天明三年五月に
見逃せない記事である。それは賀詞帖のまさに前年にあたり、およそ一年後に
という事情もあったのだろう。
はまだ大坂に着任していないことになる。天明元年の加番のあと、在国してい
は賀詞帖が成就している。蒹葭堂の賀詞に﹁名園新結構﹂とうたわれる詩句は、
斎は山里加番を勤めており、在坂したのは確実だが、勤番中は城外に出ること
たか、在府中だったか未調査だが、上方にいたとは考えがたい。そういう境遇
たんなる修辞以上に、造園の新機軸を承知したうえでのものだったかもしれな
届くところにいた人物いってよい。京都については、かねて交友のあった皆川
きないものの、秦主膳や長崎天雨は﹃浪花郷友録﹄中の人物で、蒹葭堂の手の
樗亭・高安蘆屋などが、日記にも登場する面々である。直接的な接触は確認で
わずに列挙すると、柴野栗山・江村北海・十時梅厓・皆川淇園・僧浄芳・藤井
るいは、﹃蒹葭堂日記﹄になじみの人名も少なからず見える。交際の時期を問
みな、混沌社の活動をともにした仲間である。声をかけるのにわけはない。あ
賀詞帖のなかに見える、葛子琴・岡公翼・片山北海・篠崎三島・曾谷学川らは
好意ではなしがたい配慮だ。そこに、賀詞企画への寄与という一項を介するこ
咎を蒙った人物の身柄を引き受けるというのはたいへんなこと、ちょっとした
他郷の一町人という、社会的身分の差異を超越する付き合いがあったとはいえ、
るのも、賀詞帖という契機を考慮するとしぜんな成り行きともいえる。藩主と
かかった災厄にあたって、身柄を自領に引き取るといった格別の計らいをみせ
後身分の壁をものともしない親密な交際だけでなく、寛政二年、蒹葭堂にふり
りを考えるうえでも、賀詞帖の企画は重要なエポックだったようにみえる。以
厳密な意味でこれを裏付ける資料はないが、この仮説を前提とすれば、全体
の状況を難なく合理的に説明できる。また、こののちの雪斎・蒹葭堂の親炙ぶ
い。賀詞帖の成立に蒹葭堂が寄与した可能性は、じゅうぶん考えられる。
淇園が仲介者の役目をになったことも想像にかたくない。複線的経路があった
とによって、両者のあいだになめらかな流れができることになる。
という仮説は成りたつだろう。
そこで問題になるのは、当の雪斎と蒹葭堂との接触である。とくに安永末年
から天明初年にかけての交流情況である。これに関してはすでに、有坂道子氏
ぎり、両者面晤の初見は天明三年八月二十六日とされる。蒹葭堂が、雪斎の城
ている。注意すべきは、そこでの署名を﹁臣十時賜頓首再拝﹂として、雪斎に
伊勢長島の藩儒をつとめた十時梅厓は、再興された藩校﹁文礼館﹂の祭酒と
なって、長島藩文教の基礎をつくった功労者である。その梅厓も、賀詞を寄せ
の﹁増山雪斎と木村蒹葭堂﹂
︵
﹃混沌﹄三十号︶に報告済みだが、日記に見るか
内にある屋敷を訪問した記事である。しかし、それより早く八月一日には、十
臣下の礼をとって名乗っていることである。有坂氏の説くように、従来は天明
︵6︶
時梅厓が雪斎の使者に立って、蒹葭堂のもとを訪れており、両者の関係はさら
四年に仕官したとされるものが、
一年は引き上げられることになる。そもそも、
︵7︶
に早まる。だが、これらを以て交流の開始とすると、賀詞帖には間に合わない
日記のなかで、雪斎の名が見える初出は、天明二年三月二十七日のくだりで
りもさらに遡って随従の時期を想定しておく必要があったのだ。その前の、同
天明三年八月一日の日記に、﹁十時半蔵︵梅厓︶
、増山侯使﹂とあった、それよ
ことになる。
四 ﹁独楽園﹂の意義
ことも予想されるが、全体を束ねるキーパーソンとして、木村蒹葭堂を宛てる
この時代、上方にあって、もっとも広い交際範囲をもつ人物といえば、木村
蒹 葭 堂 を お い て ほ か は な い。 し か も か れ は、 賀 詞 帖 の 参 加 メ ン バ ー で も あ る。
︵5︶
のなかで、これほどの詩文を収集するのは至難の業だろう。
論説
52
このあとほどなくして、長島侯の御用をつとめる関係になったと推測される。
年二月四日の記事では、﹁十時半蔵﹂
とのみあって特別の扱いはなされていない。
楽園記﹂にちなんで命名されたのはまちがいない。ひょっとして、梅厓か蒹葭
楽しみに過ぎないのだ、というところに趣意がある。独楽園の名が、この﹁独
樹含園景﹂といかにも見てきたかのような叙景句や、
︹
︺
﹁遊覧偏慕前賢意﹂、
︺
﹁逍遙林下風﹂などと散策を愉しんだかのような記述が見られる。しかし、
26
園や偕楽園のような主君と人民が和楽することを謳った命名、あるいは浴恩園
ところで、﹁独楽園﹂という命名は、江戸の大名庭園としてはやや奇異に感
じられる。よく見られるのは、六義園や育徳園のような徳義による命名、後楽
しらない。もし先駆だったと仮定するならば、増山雪斎の偉業はもとより、改
しとなっていたのか、あるいは雪斎の﹁独楽園賀詞帖﹂が先蹤となったのかは
うの精彩を放つことはまちがいない。玄人はだしの画技をもっていた雪斎のこ
は、あまりに意表を突いた命名にもみえる。
﹁独楽園﹂の語は、
中国・北宋の司馬光︵温公︶作﹁独楽園記﹂に由来している。
この文章は、﹃古文真宝後集﹄
に抜粋のかたちでも収録され、
きわめてポピュラー
古文真宝の本文がくる。一節を書下しで掲げる。
く く
これ
⾀⾀たり、洋洋たり、知らず天壌の閒、復何の楽しみ有つてか以て此に代
ふべけん。因つて合はせてこれを命けて、独楽と曰ふ。
ここで﹁独楽﹂のいわれが説かれることになる。さらに、
君子の楽しみとは、
人とともにする楽しみをいうので、けっして﹁独楽﹂ではないだろうという議
論があるが、愚陋なるおのれが楽しむのは、世間が見捨てたものを自分ひとり
︵3︶佐藤康宏﹁蕪村が謝寅になるまで﹂︵MIHO MUSEUM編﹃与謝蕪
河成均のことで、皆川淇園の弟とされる。
﹃独楽園賀詞帖﹄に見る文人交流﹂
︵本書所掲︶によると、小
︵2︶有坂道子﹁
もったとされる。
︵1︶享和元年︵一八〇一︶、藩主を退いたのち、江戸・巣鴨の隠居地にも庭を
︻注︼
雪斎の偉業として賞賛されることになるにちがいない。
するものとなる。おなじく消滅の憂き目にあった大名庭園として記憶に刻まれ、
なれば、松平定信の﹁浴恩園﹂にふたつながらそなわる、賀詞と絵図にも匹敵
と、専門絵師に自慢の庭園を描かせたいと願ってもふしぎではない。もしそう
ゆかり
められており、いずれにしろ周知の文章だったはずである。
な文章となっている。全文となると、
﹃司馬光文集﹄や﹃事文類聚続集﹄に収
﹃独楽園賀詞帖﹄が出現して、江戸庭園史に新たな一項目が書き加えられよ
うとする今、願わくは、絵図が発見されることにでもなれば、独楽園がいっそ
めて木村蒹葭堂の存在感に思いをはせないわけにはいかない。
詩人たちに、﹁白河城外南湖詩二十韻﹂の揮毫を嘱した。こういう催しは慣わ
9
の園として、白河城外に南湖庭園を築造した。造園からしばらくして、諸国の
最後に、庭園を築いた大名が、それを記念して詩文を求めた事例を瞥見して
おく。老中首座を退いたあと、松平定信は、享和三年︵一八〇三︶、四民共楽
とだっただろう。
わざわざ長島くんだりまで旅することなく、賀詞を案じることはわけもないこ
がしかの情報を与えられていたことが考えられる。その程度の知識があれば、
32
われ独りの愉楽、というの
のような君恩を讃える命名などである。
﹁独楽﹂ ――
くまい。
い。まさか、上方の京・大坂から、この長島の地までツアーをくむわけにもい
一人ひとりに、できあがった庭を見てもらうというのは、並大抵の事業ではな
これらの表現をもって、
現地を訪れた証拠とはなしがたい。
これだけのメンバー
︹
15
揮毫を依頼された者たちは、とうぜん文意を知悉している。︹ ︺
﹁国政知無
事 侍臣或好文﹂とか、
︹ ︺﹁君侯運意自風流﹂などの表現は、これをふまえ
たものにほかならない。竹林や蓮池などといった庭園の結構については、なに
堂あたりが、書物を広げ、いわれを示して、名号を促したかとも想像される。
14
いずれにしろ、かれもまたかねてより、蒹葭堂の周辺人物だったことは注目に
あたいする。
11
さて、賀詞帖に寄せられた三十七の詩文は、造成された庭園を実見したうえ
で工案されたものだろうか。
︹ ︺
﹁蓮香夏晩涼﹂
、︹ ︺
﹁竹樹名園勝﹂、︹ ︺﹁緑
1
楽しむだけだと述べる。君主としての独楽ではなく、独立自尊のたった独りの
53
19
冒頭、
﹁独楽﹂の語が﹃孟子﹄に由縁あることを述べ、衆楽・独楽、王侯の楽・
貧者の楽など、さまざまな﹁楽﹂のありようをめぐって理屈を説く。そのあと
長島侯増山雪斎独楽園賀詞帖
21・5
13・5
柴(野)邦彦 【1】 落
〔2〕 葛張
葛子琴
坂
23・9
14・0
葛張 【15】 関・落
〔3〕 岡元鳳
岡公翼
坂
23・9
14・3
岡元鳳 【12】 落
〔4〕 片猷
片山北海
坂
23・9
13・4
片(山)猷 【4】 関・落
〔5〕 片文貫
片山弘道
坂
24・0
15・0
片(山)文貫 【22】 関・落
〔6〕 江伋綬
江村北海
京
24・1
13・6
江邨綬 【7】 落
〔7〕 伊藤栄吉
伊藤君嶺
京
23・8
13・9
伊藤栄吉 【17】 落
〔8〕 赤松鴻
赤松滄洲
京
24・0
14・0
赤松鴻 【14】 関・落
〔9〕 木孔恭
木村蒹葭堂 坂
23・9
13・5
木(村)孔恭 【24】 落
〔10〕 十時賜
十時梅厓
坂
24・9
14・0
十時賜 【3】 関・落
〔11〕 皆川愿
皆川淇園
京
24・9
13・8
皆川愿 【2】 関・落
〔12〕 皆川允
皆川篁斎
京
23・8
13・9
皆川允 【5】 落
〔13〕 冨士谷成寿 冨士谷御杖 京
23・8
14・7
富士谷成寿 【10】 関・落
皆川成均 【6】 落
13・7
落
〔16〕 清勲
清田竜川
京
25・5
13・8
清(田)勲 【13】 落
〔17〕 篠応道
篠崎三島
坂
24・0
13・7
篠(崎)応道 【9】 関・落
〔18〕 松本慎
松本愚山
京
24・0
13・8
松本慎 【8】 落
〔19〕 中島漁
中島雪楼
京
21・3
13・4
中島漁 【21】 落
〔20〕 僧浄
僧浄
23・9
13・7
僧浄 【23】 落
〔21〕 秦修美
秦主膳
坂
23・6
13・5
秦修美 【35】 関・落
〔22〕 黄符
横尾紫洋
京
21・4
13・3
黄道符 【16】 関・落
〔23〕 蘭洲
僧浄芳
坂
24・3
15・1
蘭州芳 【11】 関・落
〔24〕 図南
図南
23・9
13・6
【26】 関・落
䇚図南 麓
〔25〕 神吉世敬
神吉東郭
赤穂? 23・8
14・0
神吉世敬 【29】 落
〔26〕 滕世衡
藤井樗亭
坂
24・0
13・9
滕世衡 【18】 関・落
〔27〕 高昶
高安蘆屋
坂
23・9
13・6
高昶 【27】 落
〔28〕 曾之唯
曾谷学川
坂
24・0
14・0
曾之唯 【20】 関・落
〔29〕 野紹順
野紹順
24・0
13・6
野紹順 【31】 関・落
〔30〕 今枝濕
今枝顕
23・9
14・6
今枝顯 【25】 関・落
〔31〕 山敬之
山敬之
23・8
13・9
山敬之 【34】 落
〔32〕 中伋健
中村健
23・9
13・6
中村健 【19】 落
〔33〕 崗謙
岡謙
22・7
14・1
崗謙 【30】 関・落
〔34〕 関祐
関祐
24・7
13・8
関祐 【32】 落
〔35〕 張天雨
長崎天雨
25・7
14・4
張天雨 【28】 関・落
〔36〕 士綽
士綽
21・3
14・0
士綽 【33】 落
〔37〕 釈徳竜
徳竜
22・6
13・4
釈徳竜 【36】 関・落
京?
坂
坂
坂
*名前の表示は、原本、通名(本書併載の有坂道子「『独楽園賀詞帖』に
見る文人交流」の表記に準ずる)、市河三陽著『市河寛斉先生』
(p80)
掲出名の順とする。「印」の「関」は関防印、「落」は落款印を表わす。
0
いないと考えるのが妥当だろう。
15・0
21・1
︵7︶八月一日は﹁八朔の祝い日﹂にして、加番交替儀礼の前日。大坂着到後、
24・0
京
わずかの暇を縫って使者を送ったことになる。
京?
岩垣竜渓
﹃蒹葭堂日記﹄翻刻編には、﹁増山河内守様過訪ス﹂とあるが、訂正の報
︵8︶
皆川成均
〔15〕 巌垣彦明
告がなされている。
〔14〕 皆川成均
重 田 道 樹・ 市 河 寛 斎 の 賀 詞 が 確 認 さ れ て い る が、 揮 毫 は べ つ の 機 会 に 依
京
頼された可能性もあり、ここでは除外して考える。
柴野栗山
︵5︶﹃大阪市史﹄第一、および﹃大坂城誌﹄中による。四加番はいずれも玉造
〔1〕 柴邦彦
口にほど近いところに、並んで置かれている。
印
に一部が収載さ
︵9︶白河市歴史民俗資料館編﹃定信と庭園 南
―湖と大名庭園﹄
れる。また、先掲﹃市河寛斎先生﹄文化八年の条に、題と作者名が列挙さ
居所 縦(cm)横(cm) 『市河寛斎先生』
︵6︶雪斎の在番期に重なる安永八年の日記には、雪斎・蒹葭堂の接触を匂わ
通名
れている。寛斎は、雪斎のみならず、定信のためにも賀詞を寄せていたのだ。
原本
す 記 事 は な い。 日 記 の 欠 本 の せ い で は な く、 こ の こ ろ ま だ 相 識 に 至 っ て
表
村 翔
―けめぐる創意﹄二〇〇八年︶などに指摘がある。
︵4︶有坂先掲稿の報告によると、ほかに、細合斗南・白井重行・渡部種徳・
論説
54
作者解説・釈文
*経歴については、岩波書店﹃国書人名辞典﹄に多く拠った。
その他の参考文献については、該当箇所に掲出した。
結んだ。該博で、書を能くし、篆刻に秀でた。安永四年版﹃浪華郷友録﹄では
医家の部と作印の部に名が出る。また笙や篳篥も能くした。
別院珍蔵古書法
︹釈文︺
元文元年︵一七三六︶∼文化四年︵一八〇七︶享年七十二。
.柴野栗山
︵柴邦彦︶
漢学者。名、邦彦。字、彦輔。通称、彦助。号、栗山・古愚など。
讃岐牟礼の人。父、柴野平左衛門。母、於沢︵葛西氏︶
。高松藩儒の後藤芝
山に学んだ後、江戸に出て林家に入門、昌平黌に学ぶ。明和四年︵一七六七︶
君侯心画有誰如 竹林多少製毫
兎 蓮沼浮沈呑墨魚 西鎮擁旄行
数壮 東関述職歳何虚 幾時独楽
園亭上 拝灑雲煙興有余
葛張拝
阿 波 藩 儒 と な り、 江 戸 で 世 子 の 侍 読 も つ と め た。 京 都 堀 川 に 住 み、 天 明 四 年
︵ 一 七 八 四 ︶ に は 赤 松 滄 洲・ 皆 川 淇 園 ら と 詩 社・ 三 白 社 を 結 成 し た。 同 八 年
.岡公翼
︵岡元鳳︶
元文二年︵一七三七︶∼天明六年︵一七八六︶享年五十。
︵ 一 七 八 八 ︶ 五 十 三 歳 の 時 松 平 定 信 に 招 か れ て 昌 平 黌 の 教 授 と な り、 朱 子 学 を
正学とする寛政異学の禁を実施した。尾藤二洲・古賀精里とともに寛政の三博
元文四年︵一七三九︶∼天明四年︵一七八四︶享年四十六。
漢詩人・医者。本姓は葛城、修姓して葛。名、張・湛。字、子琴。通称、貞元。
.片山北海
︵片猷︶
侯家亭子是仙寰 城裏園成官事閑
満架書編消日日 一窓吟夢繞青山 林
花做趣開時落 郡鳥無心去復還 独楽
温公師友在 能令着緒出人間
癸卯夏五
岡元鳳頓首拝題
長島君侯独楽園
︹釈文︺
た︵頼春水﹃在津紀事﹄︶。
︵一七八五︶﹃毛詩品物図攷﹄を出版している。人となりは温藉で家法厳正であっ
に加わる。本草・物産学に通じ、自宅の小圃には薬草を植えていた。天明五年
河内の人で、大坂北堀江宮川町に住し、医を業とする。菅甘谷に学んで詩に
長じ、宝暦年間には木村蒹葭堂が主催する詩会に参加、のち片山北海の混沌社
魯庵・慈庵など。
漢 学 者・ 医 者・ 本 草 家。 名、 元 鳳。 字、 公 翼。 通 称、 元 達・ 尚 達。 号、 澹 斎・
外臣阿波国御儒者柴邦彦再拝上
.葛子琴
︵葛張︶
独楽名園裡 四時楽未央 水明観
月概 鳥掠対花觴 竹韻寒宵
静 蓮香夏晩涼 能客芻雉往
幽意更応長
右寄題
独楽園敬応
長島侯命
︹釈文︺
士と称された。
3
享保八年︵一七二三︶∼寛政二年︵一七九〇︶享年六十八。
4
号、螙庵・小園・御風楼など。
北海が主宰する詩社・混沌社の中心として活躍し、頼春水や岡公翼らと親交を
55
1
2
大坂の医家橋本貞淳の子。菅甘谷・兄楽郊に古文辞学を学ぶ。京都で医を学
んで帰坂、堂島玉江橋北詰の居宅御風楼で医業を開く。一方で詩名高く、片山
長島侯増山雪斎独楽園賀詞帖
漢学者・漢詩人。名、猷・徽猷。字、孝秩。号、北海・孤雲館。通称、忠蔵。
のち大坂に移り居宅を孤雲楼と名付ける。明和二年︵一七六五︶佐々木魯庵が
諸友とはかって詩文結社の混沌社を結成し、その盟主となった。門人に木村蒹
葭堂・平沢旭山・佐々木魯庵・岡田南山らがいる。
混沌社は明和・安永・天明期の京坂を代表する詩文結社として活発に活動し、
社友には北海の門人を始め、葛子琴・細合斗南・岡公翼・篠崎三島・曾谷学川
︹釈文︺
卜築新題牓
詩筆試多文
拝弦堪甘送
駐駕消連日
泉石狎鸕㖊
此中幽趣足
琴書供独楽
鴻穿北嶺雲
烟霞籠松竹
新花雨一籬
片文貫拝
園亭景趣分
蓮蝕西池月
不必歎離群
省耕余暇時
古井苔三尺
不使外人知
綬︶
.江村北海
︵江
生没年未詳。
おり、賜杖堂の繁栄がうかがえる。大坂の片山北海、江戸の入江北海と併せて
り、三男が清田儋叟の養子となり清田竜川を名乗った。
丁目の医家であった︵寛政二年版﹃浪華郷友録﹄
︶
。
︹釈文︺
﹂︵﹃京阪文藝史料﹄第
多治比郁夫﹁詩人の誕生 幽
―蘭社・賜杖堂・混沌詩社 ―
一巻、青裳堂書店、二〇〇四︶
多治比郁夫﹁片山北海年譜攷﹂および﹁片山北海の家庭生活﹂
︵﹃京阪文藝史料﹄
第一巻所収、青裳堂書店、二〇〇四︶
長島建牙地 小亭幽意存 応栽召伯樹
恭奉
命遙寄題
長島侯独楽園
山恭順である。恭順は茨木平井氏の子で、名は蘊、字は子敬といい、道修町五
おその後、天明八年四月までに、二人目の養子として北海に迎えられたのが片
片山北海の最初の養子。岡山の人。天明三年︵一七八三︶はじめごろ頼春水
の仲介で北海の養子となるが、同六年中に何らかの理由で関係がとぎれる。な
三都の北海と称された。実兄は伊藤錦里、実弟は清田儋叟。北海には三子がお
古稀の際の献詩集﹃東山寿宴集﹄
︵天明三年刊︶には二百三十五人が入集して
帰京。室町四条下ル、釜座下立売下ル町に住し、詩社賜杖堂を結んだ。北海が
︵一七五八︶藩主青山家の美濃郡上への移封を機に致仕を願い出、同十三年に
嗣 子 と な り、 跡 を 継 い だ。 寛 保 二 年︵ 一 七 四 二 ︶ 京 都 留 守 居 役、 宝 暦 八 年
み、享保十九年︵一七三四︶伊藤家と親戚で宮津藩儒をつとめた江村毅庵の養
福井藩儒伊藤竜洲の次男。伊藤家は代々在京のまま福井藩儒をつとめた家で
あった。母は、明石藩士川村氏の女。母の実家で育ち、京都に戻って勉学に励
漢詩人。丹後宮津藩儒。名、綬。字、君錫。通称、伝左衛門。号、北海。
正徳三年︵一七一三︶∼天明八年︵一七八八︶享年七十六。
邨
頓
らが加わった。来会者には頼春水や尾藤二洲、中井竹山などもいる。しかし、
メンバーの入れ替わりや死去により天明末年には事実上会の活動を終えた。
︹釈文︺
.片山弘道
︵片文貫︶
多度山南長島城 芙蓉池館翠簾明
薫風已鮮群黎慍 縹帙殊開独楽情
春駐筆床花五色 雲香 閣月三更 提
封政理心無事 何擬菟裘因老営
越後処士片猷頓首再拝謹書
芸
名、文貫。字、弘道。号、大観。通称、右門。
5
6
新 潟 の 農 家 に 生 ま れ る。 父 は 片 山 黙 翁、 母 は 三 村 氏。 室 は 野 衛︵ 河 原 氏 ︶。
十八歳のころ京都に遊学し、
宇野明霞に入門。この頃の同門に赤松滄洲がいる。
作者解説・釈文
56
何数辟疆園 林上瑤琴響 壁間香墨痕
非嫌与衆楽 聊此避塵喧
北海江村綬拝
.伊藤君嶺
︵伊藤栄吉︶
ている。致仕の後上洛し、京都で詩作を通して交友を広げ、天明四年︵一七八四︶
には柴野栗山・皆川淇園らと詩社・三白社を結んだ。晩年は赤穂に帰った。門
下に神吉東郭らがいる。
延享四年︵一七四七︶∼寛政八年︵一七九六︶享年五十。
︹釈文︺
﹃赤松滄洲﹄︵赤穂市立歴史博物館企画展資料集、二〇〇五︶
漢学者。福井藩儒。初め塩田氏。名、栄吉。字、士善。通称、文四郎。号、君
嶺。
伊藤錦里の養嗣子。播州北条村の人。京都に遊学し、錦里の女婿となり、そ
の跡を継いで福井藩儒となった。伊藤家は在京の福井藩儒で、上小川通本阿弥
.木村蒹葭堂︵木孔恭︶
名園知幾処 先説在東州 花月明林
表 山池接案頭 雄風宜避暑 春気可
乗秋 閑適有余興 還思桂樹幽
右奉寄題
長島侯独楽園
播磨赤松鴻拝草
之辻子に住した。江村北海・清田儋叟の甥にあたる。
︹釈文︺
恭寄題
長島侯独楽園
邦国原知政理良 名園勝事属時康 花
亭月席遊倶遍 馬埒弓場武益彰 沼豁恩
魚穏浮泳 林深仙鶴恣翺翔 公余歓予同臣庶
更有図書独楽長
伊藤栄吉拝
元文元年︵一七三六︶∼享和二年︵一八〇二︶享年六十七。
商家・文人・博物学者。初名、鵠、のち孔恭。字、初め千里、のち世粛。通称、
吉右衛門、隠居後は多吉郎・太吉郎。号、巽斎・遜斎。蒹葭堂は居室の堂号。
父、吉右衛門重周。母、法名妙祐。室は示︵森氏︶・房︵山中氏︶
。
大坂北堀江五丁目の造り酒屋坪井屋に生まれる。本草学を津島如蘭︵桂庵︶
・
小野蘭山に、画を大岡春卜・柳沢淇園・鶴亭・池大雅に、篆刻を高芙蓉に学ぶ。
句読・詩文は片山北海に学び、初名を授かっている。宝暦八年︵一七五八︶よ
享保六年︵一七二一︶∼寛政十三年︵一八〇一︶享年八十一。
酒造株・酒造道具を没収され、町年寄の役を召し放たれた。そのため、交流の
年︵一七九〇︶、家業を任せていた支配人が規定を超えて造酒したために、造酒・
り自宅で詩会を開いており、混沌社創設の際には中心メンバーの一人となる。
漢学者。赤穂藩儒。初め船曳氏、
のち大川氏。両氏ともに赤松氏より出たので、
あった増山雪斎の勧めで一時長島藩領内の川尻村に身を寄せた。のち帰坂して
書籍・標本類の収集で知られ、好事の文人として幅広い交遊を持った。寛政二
著述の上では赤松氏を用いる。名、鴻。字、国鸞。通称、良平。号、滄洲・静
奉寄題
長島賢侯独楽園
︹釈文︺
呉服町に住し、文房具を商った。
.赤松滄洲
︵赤松鴻︶
9
思翁。
赤穂藩儒に登用され、宝暦十三年︵一七六三︶に致仕。その間、藩校設立の建
言をおこない、安永六年︵一七七七︶赤穂城塩屋門外に藩校博文館が建てられ
57
7
8
播磨三日月藩医船曳道益の次男。赤穂藩医大川安碩︵玄東・耕斎︶の養子。
京都に出て、医学を香川修庵、儒学を宇野明霞に学ぶ。延享四年︵一七四七︶
長島侯増山雪斎独楽園賀詞帖
名園新結構 山水愜清心 自
有高人楽 寧須迂叟吟 窓
南多竹樹 亭北宿文禽 想
像端居暇 優遊書与琴
癸卯夏五
木孔恭頓首拝
.十時梅厓
︵十時賜︶
.皆川淇園︵皆川愿︶
恭題独楽園亭子応
命
臣十時賜頓首再拝
臨沼新亭子 吾侯此会文 恩
波霑若雨 翰墨湧如雲 山色窺
簾入 荷香繞檻薫 微臣同思楽
幸得采其芹
︹釈文︺
陳養山に書画の技法を学んだ。書画に名声があり、詩文・篆刻も能くした。
礼 館 の 祭 酒 と な る。 寛 政 二 年︵ 一 七 九 〇 ︶ 長 崎 に 遊 学 し、 来 舶 清 人 の 費 晴 湖・
明三年︵一七八三︶ごろ伊勢長島藩儒に登用され、同五年に再建された藩校文
大 坂 の 人。 儒 を 伊 藤 東 所 に、 書 を 大 谷 永 庵・ 趙 陶 斎 に 学 ぶ。 師 の 趙 陶 斎 が、
在番で来坂中の増山雪斎に招かれた際、ともに出入りしたことがきっかけで天
半蔵。号、梅厓・顧亭・天臨閣など。
漢学者・画家・書家。長島藩儒。名、初め業、のち賜。字、季長・子羽。通称、
寛延二年︵一七四九︶
︵一説、享保十七年︶∼享和四年︵一八〇四︶享年五十六。
10
塾を開く。開物学と称する独自の経学で知られ、三千余人ともいわれる多くの
父、皆川成慶︵春洞︶。母、塩釜氏。子、皆川篁斎。京都に生まれる。初め
大井蟻亭、さらに三宅牧羊・伊藤錦里らに学ぶ。中立売室町西入町に住し、私
漢学者。名、愿。字、伯恭。通称、文蔵。号、淇園・筠斎・有斐斎など。
享保十九年︵一七三四︶∼文化四年︵一八〇七︶享年七十四。
11
門人を擁し、諸大名にも敬重された。文化二年︵一八〇五︶自邸内に学館弘道
館を設けた。また詩文に優れ、柴野栗山・赤松滄洲らと三白社を結んだ。書画
においても才を発揮し、当時文人の第一として世に名高かった。国学者の冨士
谷成章は実弟で、成章の没後はその子冨士谷成寿︵御杖︶を教えた。
︹釈文︺
平安皆川愿再拝書上
竹樹名園勝 政間茲予遊 舜琴論六律
晋帖玩雙鉤 魚躍池光動 鹿鳴山色幽
自多賢者楽 何必問鄙叟
右寄題
長島侯独楽園
.皆川篁斎︵皆川允︶
皆川允再拝書上
.冨士谷御杖
︵冨士谷成寿︶
長島侯需
園亭真意足 宛類野人居 山翠邀清景 林禽
適暇余 琴伝中散曲 鵞換右軍書 不識蓮池
裏 幾群呑墨魚
右寄題独楽園応
︹釈文︺
求めにより藩士に講説。のちに丹波亀山藩儒となる。
皆川淇園の子。母、松平氏。京都に生まれ、家学を嗣ぐ。父淇園と共に近江
膳所藩主本多氏に招かれ、藩校尊義堂の創設に関わる。肥前平戸藩主松浦氏の
漢学者。亀山藩儒。名、允。字、君猷。通称、融蔵。号、灌園・篁斎。
宝暦十二年︵一七六二︶∼文政二年︵一八一九︶享年五十八。
12
明和五年︵一七六八︶∼文政六年︵一八二三︶享年五十六。
13
作者解説・釈文
58
京都の人。富小路夷川上ル町に住す。宮崎筠圃、伏原宣条、皆川淇園に学び、
古注学を修めて博通であった。松蘿館詩社を主宰し、社中には地下官人や医者、
漢学者、漢詩人。本姓、三善。名、彦明。字、亮卿・孟厚。通称、長門介。号、
冨士谷成章の長男。京都中立売西洞院西・猪熊一乗南に住す。筑後柳川藩京
都留守居役。
父成章は柳川藩京都留守居役の冨士谷家に養子に入り、国学をもっ
儒者が集った。安永二年︵一七七三︶大舎人寮に出仕、官位は従六位下、長門
国学者。本姓、藤原。名、初め成寿、のち成元、文化八年︵一八一一︶ごろか
て仕えた。はじめ父に家学を受けたが、安永八年︵一七七九︶父が亡くなると
介。寛政三年︵一七九一︶大舎人権助となり、翌年辞官し従五位下に昇叙。黒
竜渓。
伯父皆川淇園、叔父小河成均について学んだ。和歌を広橋兼胤、日野資枝に学
谷山に隠棲し、栗原野翁と称した。
ら御杖。通称、千右衛門。号、北辺︵父の号を継ぐ︶
・北野など。
ぶ。言霊倒語説と称される特異な神道的歌道説を立てた。文政四年
︵一八二一︶、
多治比郁夫﹁巌垣竜渓と﹃落栗物語﹄の作者﹂︵﹃京阪文藝史料﹄第三巻、青裳
平安巌垣彦明拝
.清田竜川︵清勲︶
独楽園
百里山川煙景清 熙々風教
殖民生 遊覧偏慕前賢意
園囿還呼独楽名
恭応
長島藤侯需寄題
︹釈文︺
堂書店、二〇〇五︶
不行跡により藩から譴責され無禄となる。
︹釈文︺
平安冨士谷成寿再拝謹書
政暇常無塵俗牽 幽亭燕坐独思玄 緑稠院落
煙籠竹 紅浄池塘露涵蓮 檻外松風促琴曲 簷
前蘿月入詩篇 北山便合名姑射 封内仍聞報有年
右寄題独楽園応
長島侯需
.皆川成均
小河成均︵皆川淇園の弟で、冨士谷御杖の叔父︶にあたると思われる。
︹釈文︺
緑樹含園景 華亭幽経通 臨
池論墨妙 授簡試文雄 首浄遊魚
外 山明啼鳥中 玉琴時寸鼓 長此
楽南風
.岩垣竜渓︵巌垣彦明︶
寛保元年︵一七四一︶∼文化五年︵一八〇八︶享年六十八。
寛延三年︵一七五〇︶∼文化八年︵一八一一︶︵一説、文化五年︶享年六十二。
漢学者。福井藩儒。初め江村氏。名、勲。字、公績。通称、大太郎。号、竜川。
江村北海の三男。初め他家に出ていたが、次兄の死により江村家に戻り、の
ちに父北海の実弟である清田儋叟の養嗣子となる。京都に住し、養父の跡を継
いで福井藩儒となった。
︹釈文︺
林園近在郡城隈 中用元戎小隊
遙寄題
長島侯独楽園
59
15
16
14
右寄題独楽園恭応
長島侯需
平安 皆川成均拝稿
長島侯増山雪斎独楽園賀詞帖
来 竹塢禽啼苦径滑 蓮池月白
水亭聞 逍遙独楽郊卛趣 教化誰
争周邵寸 況復琴書為政隙 胸懐
不敢受繊埃
清勲拝
.篠崎三島︵篠応道︶
元文二年︵一七三七︶∼文化十年︵一八一三︶享年七十七。
漢学者。修姓、篠。名、応道。字、安道。通称、長兵衛。号、初め郁洲、のち
三島。
社友となり、田中鳴門・葛子琴・尾藤二洲・頼春水らと親しく交わる。安永五
年︵ 一 七 七 六 ︶、 四 十 歳 で 家 業 を 辞 め て 儒 者 と な り、 家 塾 梅 花 書 屋 を 開 い た。
︹釈文︺
雄鎮東南勝 名園擬洛陽 竹稠高
日薄 蓮綻脱風香 清暇臨池静 妙
音流水長 応追真率会 千乗自相
忘
寄題
松本慎拝書
長島侯独楽園
.中島雪楼︵中島漁︶
延享二年︵一七四五︶∼文政八年︵一八二五︶享年八十一。
漢学者。丹波亀山藩儒。修姓、島。名、漁。字、潜叟。通称、僊太夫・仙太夫。
号、雪楼。
丹波の人。岡白駒・那波魯堂に学び、京都高倉丸太町下ル町で講説した。亀
山藩主松平信岑に招かれて亀山藩儒となり、以後藩主五代にわたり侍講を兼ね
賜された。
た。寛政十一年︵一七九九︶
﹃史徴﹄を校訂し、その功を賞されて五十石を加
︹釈文︺
奉寄題 長島侯独楽園
︹釈文︺
人物詳細不明︵印刻は﹁竺﹂﹁浄﹂︶。
.僧浄
南面視朝罷 逍遙林下風 図書高閣
静 花竹細泉通 交友同迂叟 鳴禽
伴酔翁 閑園時独座 楽意属年
豊
亀山儒学中島漁拝書
恭賦一律寄題
長島侯独楽園
︹釈文︺
.松本愚山︵松本慎︶
宝暦五年︵一七五五︶∼天保五年︵一八三四︶享年八十。
漢学者。名、慎。字、君厚・幼憲。通称、才次郎。号、愚山。
京都の人。室町松原下ル町・四条東洞院東に住す。皆川淇園に学び、のち大
坂で教授した。詩文・韻学を能くした。
20
18
美人為政海雲郷 間暇偏憐野趣長
開苑孤吟供日渉 忘機独楽有年
穣 田々荷葉廻池館 裊々花枝払石
牀 長隝城中春自秘 何時侍燕酔
流觴
篠応道頓首再拝
奉寄題
長島君侯独楽園
書画を能くした。養嗣子、篠崎小竹。
19
17
篠崎静心の次男。静心は伊予から大坂に出て、紙問屋の伊予屋を開いた。宝
暦七年︵一七五七︶家業を継ぎ、その傍らで兄楽郊、菅甘谷に師事。混沌社の
作者解説・釈文
60
新築名園五瀬辺 君侯勝事遠相伝
西池 萏南林竹 暮嶺雲霞朝市煙 為
政城中甘独楽 読書窓下友群賢 長洲
預卜菟裘地 一代風流無所牽
僧浄拝
.秦主膳︵秦修美︶
函
蒸
蒸
︹釈文︺
君侯機務暇 遊息此亭中 羊
酪罇罍貯 牙籤棟宇充 फ़荷開
一水 花竹繞千叢 好是遺軒冕
蕭然独嘯風 寄題
独楽園
栄郡黄符
.僧浄芳︵蘭洲︶
?∼天明五年︵一七八五︶
生没年未詳。
医家。名、修美。字、子将。号、夫山・五美館。
名、浄芳。字、蘭洲。
九島蘭洲芳檪寿
.図南
奉寄題独楽園
城主典雅最翩々 勝地新
営独楽園 聴事閑暇遊
燕日 琴書更慕昔人賢
月山麓図南拝
︹釈文︺
人物詳細不明。
司馬温公独楽園
擬戎中島感主恩
琴書暇日会文雅
千歳風流今似存
︹釈文︺
大坂九条島にある九島院の十三代住持。
詩文や書を能くし、葛子琴と親しかっ
た︵頼春水﹃在津紀事﹄
︶。
大坂天満市之町に住す︵安永四年版﹃浪華郷友録﹄
︶
。
︹釈文︺
奉寄題独楽園
浪華 秦修美拝
侯国風流本数奇 城頭曾
見万年枝 内新荘弄月華
在 応賦敬亭独坐詩
.横尾紫洋︵黄符︶
享保十九年︵一七三四︶∼天明四年︵一七八四︶享年五十一。
漢学者。勤王家。肥前佐賀藩儒。修姓、黄。名、道質・道符。字、孟篆。通称、
文助・文輔。号、紫洋。
日山で子弟を教育した。安永五年︵一七七六︶再び上京して九条家の侍講とな
る。 高 芙 蓉・ 赤 松 滄 洲 ら と 交 友。 天 明 三 年︵ 一 七 八 三 ︶ 一 条 家 に 仕 官 し た が、
藩命に背いて帰国しなかったため捕えられ、翌年死罪となった。
副島廣之﹃勤王の先駆者 横尾紫洋﹄
︵善本社、二〇〇一︶
24
61
23
21
22
佐賀郡川久保村の人。家は代々鍋島の神代家に仕える医。佐賀春日山高城寺
の松嶺師鶴禅師、ついで長門の滝鶴台に従学した。京都に遊学し、帰国して春
長島侯増山雪斎独楽園賀詞帖
.高安蘆屋
︵高昶︶
生年未詳、寛政年間没。
.神吉東郭︵神吉世敬︶
宝暦六年︵一七五六︶∼天保十二年︵一八四一︶享年八十六。
︹釈文︺
聞説高亭望不窮 使君幽興四
時同 फ़荷水暖遊魚出 松柏林
深呦鹿通 秋色入影叢桂緑春
風所酔百巻紅 還知富広閭閻
美 自在悠々独楽中
右寄題
長島侯独楽園 赤穂 神吉世敬再拝書上
.藤井樗亭︵滕世衡︶
宝暦十年︵一七六〇︶∼文化七年 ︵一八一〇︶享年五十一。
医者・書家。名、元肅・世衡。字、子穆・銓卿。通称、鴻平・洪平・東祇。号、
樗亭。
大坂の人。尼崎町一丁目に住す。片山北海・頼春水に学んで詩文を能くし、
書を趙陶斎に学んだ。木村蒹葭堂と親しく、俳諧も能くした。
︹釈文︺
風流愛幽意 開室接山雲
国政知無事 侍臣或好文
揮毫転北極 度曲迎南薫 高
臥多詩賦 亦教吾輩聞
浪華滕世衡頓首再拝
大坂の人。もと商家。屋号は今田屋か。菅甘谷、中井竹山に従学し、書を能
くした。寛政四・五年頃まで富商であったが零落し、筆耕で生計を立てた。大
言壮語の癖があり、また妻は娶らなかったが、両親によく仕えた︵頼春水﹃在
津紀事﹄︶。
︹釈文︺
寄題
長隝侯独楽園
政夢多余暇 園亭召野甸 芻
蕘随径入 雉兎隔歳賦 時学蘭
亭帖 更張流水弦 高情喜蕭
散 何必玩林泉
御津高昶拝草
.曾之唯︵曾谷学川︶
長島賢侯閣下独楽園
奉寄題
環海府城千里流 他山秀色
人長洲 最憐新築誇煙雨 満
樹清風六月秋
︹釈文︺
京都の人。儒学を片山北海、篆刻を高芙蓉に学ぶ。大坂高麗橋一丁目に住み、
詩文を能くし、混沌社に参加した。
学川・曼陀羅居居士・九水漁人・毛必華など。
漢詩人・篆刻家。名、之唯・子唯。字、応聖。通称、忠介・忠蔵・字作。号、
元文三年︵一七三八︶∼寛政九年︵一七九七︶享年六十。
28
26
号、蘆屋・半時庵。
書家。修姓、高。名、昶。字、載陽・春民。通称、庄次︵治︶郎・荘次︵二︶郎。
27
漢学者。名、世敬。字、子与。通称、主膳。号、東郭。
25
赤穂藩医神吉泰常の子。赤松滄洲に学ぶ。各地を遊学して儒と医を修めた後、
帰国して赤穂で観善舎を開塾、
藩主森忠賛の侍医と藩校博文館の督学を兼ねた。
作者解説・釈文
62
.野紹順
浪華寓生曾之唯頓首拝
人物詳細不明。
︹釈文︺
野紹順拝草
身禄深衣薄世栄 園名独楽養幽
情 此心不管無人識 欲倣迂者早
解縷
右寄題
長島侯独楽園
.今枝
長島賢侯独楽園
聞説名園独楽遊 城中為築小僊楼 猗々
緑竹坐来興 灼々紅蓮随処幽 東海風雲
凭檻起 他山煙靄入杯流 知君政暇耽文
事 不譲当年柳々州
山敬之拝
健︶
.中村健︵中
生没年未詳。
漢学者。名、健。字、子順。通称、順庵・順蔵。号、停雲社。
大坂の人。近江町松屋町東入・船越町・内淡路町に住す︵寛政二年版﹃浪華
郷友録﹄および文政六年版﹃続浪華郷友録﹄﹃浪華金襴集﹄、同七年﹃新刻浪華
︹釈文︺
人物誌﹄、嘉永元年版﹃浪花当時人名録﹄︶。
今枝世顕、名、世顕。字、孔陽。通称、栄顕。号、六有。新町押小路北に住す
長島侯独楽園
.崗謙
浪華中村健拝草
芸
蓁々場圃近経営 春日喈々百鳥声 樹擁
三山薬欄馥 月浮五瀬羽觴清 縹嚢書
︹釈文︺
人物詳細不明。
33
︹釈文︺
奉寄題
︵文化十年版および文政五年版﹃平安人物志﹄
︶
。
﹃平安人物志﹄にあがる医家の今枝世顕︵栄顕︶にあたるかと思われる。
邨
頓
新築園亭照勢州
君侯運意自風流 牙籤玉軸 窓裡
綺席金樽月沼頭 衆楽元非先
独楽 人憂那得比吾憂 遙知置酒
招賢士 酔後揮毫耽唱酬
奉寄題
.山敬之
人物詳細不明。
31
︹釈文︺
63
濕
32
29
30
名園依勝概 独楽愜幽期 花暖
徴歌処 竹深対局時 茶儀閑裡
老 觴政興来奇 坐嘯風流趣 優
右寄題
遊歳月遅
独楽園謹応
平安今枝顕再拝上
長島侯命
長島侯増山雪斎独楽園賀詞帖
活竜蛇影 翠蟆風飄蛺蝶情 揮筆吟詩
千古事 怡然独楽謝宣城
崗謙再拝
.関祐
蒼
湛
.張天雨︵長崎天雨︶
右寄題
長島侯独楽園
関祐拝稿
藩侯休沐地 嘉植愛松筠 山為名
園秀 亭依碧沼新 停絃聴野
︵滄カ︶
鳥 飛翰賜家臣 長島 波外予
遊入夢頻
︹釈文︺
人物詳細不明。
34
名園独在彼
藩侯 卜築封中拠二州 多度山雄俯
環水 長洲城壮涌層楼 記今麗筆温
公楽 政旧瑤琴単文遊 鐘愛風流
書画富 夜称彩鷁米家舟
関谷 張天雨拝草
癸卯夏五
奉寄題
長島賢侯独楽園
︹釈文︺
大坂高麗橋一丁目に住す。詩文を能くした︵安永八年版﹃日本詩選続編﹄お
よび寛政二年版﹃浪華郷友録﹄
︶
。
文人。修姓、長。名、天雨。字、伯竜。通称、亀五郎。号、驪橋・驪Ⅼ。
生没年未詳。
35
.士綽
君侯何独楽 日夜在新詩
越後十二童釈徳竜九拝
多度当城秀 白雲連海淮 松巣千
歳鶴 池隠万齢亀 倚雨風生処 褰
簾月出時
奉寄題
長島侯独楽園
︹釈文︺
東詩集﹄に十歳で入集している。
で教育に専念し、
講師職となった。詩文に優れ、天明二年︵一七八二︶刊の﹃大
に戻って講義した。各地で布教を行ったが、天保六年︵一八三五︶以降は学寮
を訪問。享和元年︵一八〇一︶無為信寺の住職となったが数年で退職し、学寮
越後水原の人。順崇の次男。母、佐藤氏。高倉学寮に入り、また諸山の碩学
について学ぶ。天明三年︵一七八三︶十二歳の時京坂に遊び、同郷の片山北海
真宗僧。法諱、徳竜。字、召雲・少雲。幼名、伝記麿。号、不争室・香樹院。
明和九年︵一七七二︶∼安政五年︵一八五八︶享年八十七。
.徳竜︵釈徳竜︶
謹賦 浪華士綽拝具
長島侯独楽園応高徴
遙憶名園勝 琴書事々
宜 फ़荷薫綺席 松柏映
清池 多度四時翠 醴泉
千古奇 夕陽長臥閣 高
興入雄詞
︹釈文︺
人物詳細不明。
36
37
作者解説・釈文
64
関防印
.片山弘道︵片文貫︶
綬︶
邨
頓
落款印
落款印
*印章は原寸大で掲載した。
.江村北海
︵江
5
.伊藤君嶺
︵伊藤栄吉︶
関防印
落款印
.柴野栗山
︵柴邦彦︶
.葛子琴
︵葛張︶
.岡公翼
︵岡元鳳︶
関防印
.片山北海
︵片猷︶
65
2
3
4
6
7
1
印章
長島侯増山雪斎独楽園賀詞帖
落款印
落款印
落款印
落款印
印章
.皆川淇園︵皆川愿︶
13
.赤松滄洲
︵赤松鴻︶
関防印
11
.皆川篁斎︵皆川允︶
関防印
.冨士谷御杖︵冨士谷成寿︶
関防印
.木村蒹葭堂
︵木孔恭︶
.十時梅厓
︵十時賜︶
落款印
8
9
10
関防印
落款印
落款印
12
落款印
落款印
66
落款印
長島侯増山雪斎独楽園賀詞帖
.皆川成均
20
.岩垣竜渓
︵巌垣彦明︶
.松本愚山︵松本慎︶
落款印
落款印
落款印
.中島雪楼︵中島漁︶
67
19
.僧浄
落款印
.清田竜川
︵清勲︶
関防印
.篠崎三島
︵篠応道︶
21
落款印
.秦主膳
︵秦修美︶
関防印
14
15
16
17
落款印
18
落款印
落款印
印章
24
22
23
関防印
.横尾紫洋
︵黄符︶
25
.僧浄芳
︵蘭洲︶
関防印
.図南
.神吉東郭
︵神吉世敬︶
.藤井樗亭
︵滕世衡︶
26
関防印
関防印
落款印
.曾谷学川︵曾之唯︶
28
落款印
落款印
落款印
.高安蘆屋︵高昶︶
関防印
27
落款印
落款印
落款印
68
長島侯増山雪斎独楽園賀詞帖
.野紹順
.今枝
.山敬之
.中村健
︵中 健︶
32
31
29
30
濕
邨
頓
関防印
関防印
落款印
落款印
落款印
落款印
35
.徳竜︵釈徳竜︶
37
関防印
.崗謙
.長崎天雨︵張天雨︶
.士綽
36
33
関防印
関防印
.関祐
34
落款印
落款印
落款印
落款印
69
落款印
増山雪斎略年譜・増山家当主一覧・略系図
増山雪斎略年譜
一七七八年
一七七六年
一七七一年
天明元年
安永七年
安永五年
明和八年
三十
二十八
二十五
二十三
十八
三たび大坂城加番。八月二十六日以降、しばしば大坂城内の自邸などで蒹葭堂と面会︵天明三年八月二十七日、十月十六日、十二月
ふたたび大坂城加番を命じられ、大坂に赴任︵﹃大坂城加番記録﹄︶。
大坂城加番を命じられ、大坂に赴任︵﹃大坂城加番記録﹄︶。
四月五日、父対馬守卒︵五十一歳︶。五月晦日、遺領を襲封。
十二月十八日、従五位下河内守に叙任。
年 齢
出 来 事
十月
十四
日、伊勢長島藩主正贇の長子として江戸の藩邸で生まれる。幼名千之丞、勇之丞。
一
一七八一年
天明三年
西 暦
和 暦
一七
五四年 宝暦
四年
一七八三年
十二日、天明四年一月五日、閏一月十一日、二月二十日、三月二十二日、四月四日、五月一日、六月二日、九日、十七日、七月九日、
天明五年
三十四
三十二
六月三日、尾張鳴海の素封家下郷学海のために、学海所蔵の池大雅﹁十便帖﹂の冒頭に、﹁聯璧﹂の二字を書す。
八月、藩校文礼館を再興。長︵祭酒︶は梅厓。十月一日、長子正寧生まれる。
七月十七日 以上﹃蒹葭堂日記﹄︶。
この年までに十時梅厓を臣下に迎えていたか。
一七八五年
天明七年
大 智 院 に﹁ 蕪 翁 信 宿 処 ﹂ の 碑 を 建 立。 元 禄 二 年、 松 尾 芭 蕉 が 奥 州 旅 行︵ 奥 の 細 道 ︶ の あ と、 同 院 に 投 宿 し た こ と を 記 念 し た も の。 正
一七八七年
面碑文は雪斎、裏面撰文は梅厓による。大坂城加番を命じられ、大坂に赴任︵﹃大坂城加番記録﹄︶。七月二十九日、大坂着。蒹葭堂
一七九〇年
寛政五年
寛政二年
四十八
四十
三十七
七月、致仕して、巣鴨の下屋敷に隠退。長子正寧が襲封。このころより巣丘山人を名乗る。長島藩には、江戸に上中下の屋敷のほか、
書論﹃松秀園書談﹄
︵三巻三冊︶を著す。
春、支配人が起こした過醸事件で町年寄役を召し上げられ謹慎していた蒹葭堂を、領内川尻村に呼び寄せる。
三十六
一七八九年 天明九年
︵寛政元年︶
一七九三年
享和元年
が出迎える。
一八〇一年
一八〇二年
享和三年
享和二年
五十
四十九
三月三日、姫路藩主酒井雅楽頭の江戸屋敷で宴。庭に曲水を掘り、蘭亭曲水の趣向のほか、明楽などの演奏もあった。雪斎、一亭に
四月十八日、大応寺︵現大阪市天王寺区餌差町︶に蒹葭堂の死を悼む碑文を撰する。
海沿いの平井新田︵現江東区東陽町あたり︶に町並屋敷があり、雪斎は屋敷内の銜遠亭にしばしば文人を招いた。
一八〇三年
座して作画作詩。
一八一三年
一八一一年
一八〇四年
文政二年
文化十年
文化八年
文化元年
六十六
六十
︵一巻︶をなす。
五十八 ﹃筆端遊心﹄
︵一冊︶を著す。同書中に、木村蒹葭堂より譲られた売茶翁茶具二品の図がある。蒹葭堂は売茶翁茶具を八品所持していた。
五十一 ﹃煎茶式﹄
囲碁について﹃観奕記﹄
︵一冊︶を著す。
一八一九年
文政四年
七月、雪斎の遺命で勧善院に﹁虫塚﹂が建てられる。正面に﹁虫塚﹂の二字が題され、その下に葛飾因是の撰文が大窪詩仏の書で題
一月二十九日、雪斎没。増山家の菩提寺上野東叡山勧善院に葬られる。﹁慈雲院殿雪斎道智大居士﹂。墓碑には葛飾因是による撰文。
の法要が行われる。
一 月、 新 田 侯 の 席 上、 大 田 南 畝、 市 河 寛 斎 ら と 詩 を 賦 す。 九 月 二 十 五 日、 蒹 葭 堂 の 養 子 石 居 の 主 催 に よ り、 大 応 寺 で 蒹 葭 堂 十 三 回 忌
一八二一年
される。裏面には詩仏および菊池五山の題詩。
『特別企画展 増山雪斎∼大名の美意識∼』
(桑名市博物館、二〇〇七年十月)を参考にした。
70
※『江戸の風流才子・増山雪斎展図録』
(三重県立美術館、一九九三年六月)
、
長島侯増山雪斎独楽園賀詞帖
増山家当主一覧・略系図
正賢︵ ま さ か た ︶ 宝 暦 四 年 ︵ 一 七 五 四 ︶
正任︵ ま さ と う ︶ 延 宝 七 年 ︵ 一 六 七 九 ︶
正弥︵ ま さ み つ ︶ 承 応 二 年 ︵ 一 六 五 三 ︶
文政二年︵一八一九︶
正贇︵まさよし︶ 享保十一年︵一七二六︶ 安永五年︵一七七六︶
正武︵ ま さ た け ︶ 宝 永 二 年 ︵ 一 七 〇 五 ︶
天保十三年︵一八四二︶ 享和元年︵一八〇一︶∼天保十三年︵一八四二︶
延享四年︵一七四七︶
延享元年︵一七四四︶
宝永元年︵一七〇四︶
安永五年︵一七七六︶∼享和元年︵一八〇一︶
延享四年︵一七四七︶∼安永五年︵一七七六︶
寛保二年︵一七四二︶∼延享四年︵一七四七︶
宝永元年︵一七〇四︶∼寛保二年︵一七四二︶
寛文二年︵一六六二︶∼宝永元年︵一七〇四︶
当 主 名
生 年
没 年
長 島 藩 主 在 任 時 期
正利︵まさとし︶ 元和九年︵一六二三︶ 寛文二年︵一六六二︶
正寧︵ ま さ や す ︶ 天 明 元 年 ︵ 一 七 八 一 ︶
明治二年︵一八六九︶
天保十三年︵一八四二︶∼明治二年︵一八六九︶
正修︵ ま さ な お ︶ 文 政 二 年 ︵ 一 八 一 九 ︶
1
正弥
正寧
6
2
正任
正修
7
3
正武
正同
8
正贇
4
正同︵まさとも︶ 天保十四年︵一八四三︶ 明治二十年︵一八八七︶ 明治二年︵一八六九︶∼明治四年︵一八七一︶
正利
5
正賢
※長島藩主としては、二代当主正弥が初代である。
※系図は、
﹃新訂 寛政重修諸家譜﹄第二十一︵続群書類従完成会、一九八五年八月︶を参考にした。
71
関西大学総合図書館所蔵 増山雪斎作品
関西大学総合図書館所蔵 増山雪斎作品
●﹁黄初平図﹂寛政八年︵一七九六︶
︹双幅︺
●﹁筆端遊心﹂文化八年︵一八一一︶︹冒頭部︺
72
図録編集
有坂道子 藤田真一 中尾和昇
解説担当者
有坂道子(京都橘大学文学部准教授、関西大学なにわ・大阪文化遺産学研究センター研究員)
藤田真一(関西大学文学部教授、関西大学なにわ ・ 大阪文化遺産学研究センター研究員)
中尾和昇(関西大学なにわ・大阪文化遺産学研究センター R.A.)
協力者・協力機関(五十音順・敬称略)
松本 望(関西大学なにわ・大阪文化遺産学研究センター非常勤研究員)
関西大学総合図書館・東京大学史料編纂所
文部科学省私立大学学術研究高度化推進事業
オープン・リサーチ・センター整備事業(平成 17 年度∼平成 21 年度)
なにわ・大阪文化遺産の総合人文学的研究
ߥߦࠊ࡮ᄢ㒋ᢥൻㆮ↥ቇฌᦠ 長 島 侯
増山雪斎
独楽園賀詞帖
平成 21 年 3 月 31 日 発行
発行所 関西大学なにわ・大阪文化遺産学研究センター
〒 564-8680 大阪府吹田市山手町 3-3-35
関西大学博物館内
TEL:06-6368-0095
mail:[email protected]
印刷所 株式会社 廣済堂 大阪事業部
〒 560-8567 大阪府豊中市蛍池西町 2-2-1
Fly UP