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ー5ーー6世紀ロシアにおけるホロープの解放と譲与

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ー5ーー6世紀ロシアにおけるホロープの解放と譲与
53
15−16世紀ロシアにおけるホロープの解放と譲与
ま え が き
ロシア・ソビエト史学には、15世紀とその前後にホロープが大量に解放された、という見解が
支配的であった。このいわば「大童解放説」は、革命前にバフルーシンが14−15世紀の遺言状に
よって導き出したものであるが、ソビエト史学に大きな影響力をもっていたグレーコフがバフル
ーシン所説をそのまま受けついだこともあって、15−16世紀のホロrプについて、「史料はホロ
ープの大量の解放を証している」(サハロフ)、「ホロープ労働力使用の大量縮少は15世紀から見
られる」(バジレーヴィッチ)、「奴隷労働力の使用は一層縮少され、ホロープの解放が大壷に行
なわれた」(マニコフ)などと、ソビエト史学を代表する研究者たちが異口同音に述べたのであ
る(1)。しかし、その後ソビエト史学には、この15世紀ホロープ大量解放説に対する批判が出て来
た。われわれも、かって15−16世紀のホロープについて「大量解放を結論することは許されな
い」と論じたチェレ∼プニンの見解(1960年)に言及したが、その当否について論断するを控え
たことがある(㌔バフルーシンおよびグレーコフほ、14115世紀ロシアの遺言状がホロープ解放
をほとんどつねに指示していること、しばしば自己のホロープ全員を解放していることに注目し
て、上のように結論しているのであるが、われわれにその利用が許されるすべての遺言状を注意
深く読み直してみると、ホロープ全員の解放を指示しているのは、特殊な状況におかれている遺
言者に限られているように恩われるし、また自己のホロープのかなり多数を、解放せずに息子た
ちに譲与している場合が16世紀でも依然として多いことに注目されるのである。かつ、16世紀末
ホロープ制変革の過程ですべてのホロープとその証文は国の帳簿に登録されることになったが、
今日にのこされている不完全な帳簿からでさえ、ホロープ所有の規模が16肛紀未においてもかな
り大きな場合もあることを兄いだすのである(3)。
ソビエト学界ではチェレープニン以後今日までに、寡聞の限りでは、少なくとも二つの論文が
15世紀ホロープ大量解放説に異論を唱えはじめている。一つは、アレクセーエフの小論「15世紀
ペレヤスラヴリ郡領主世襲領における農民とホロープ」(1964年)で、その史料的根拠はほとん
ど示されていないにかかわらず、「ホローブ解放は、当時特別な意味をもち得なかった。‥・・‥ホ
ロープは一般に、直系相続者がなく惟襲領が他人の手に移るときに、解放されている。」という
重要な発言をしているのである(4)。もう一つは、ソビエト史学でチホミロフ、チェレープニンら
とともに指導的立場にあるジーミンの論文「14−15世紀東北ロシアにおけるホロープ解放」(19
67年)であって、ここでジーミンは、15世紀大量解放説普及の因由になったグレーコフ所説を
「史料的根拠薄弱」ときめつけた上で、より多くの遺言状を引用して、ホロープ全員の解放は
「相競者のないこと」(8封MOPOqHOCTb)に関係あること、ホロープ解放は14−ユ5世紀の過程で
増加していないこと、15世紀末にはホロープの絶対数はむしろ多くなっているといい得ることな
54
15−16世紀ロシアにおけるホロープの解放と譲与(石戸谷)
どを結論しているのである(5)。ジーミン所説は、その論証の方法においてわれわれを完全に納得
させるものではない。しかし、かれの結論はその基本的なものにおいて支持さるべきであり、な
かんずくグレーコフ批判を真正面から取上げた点で、注目に価する。というのは、グレーコフお
よびこれに追従したソビエト史学は、ロシア史におけるホロープの役割を過少評価し、ときには
11世紀ホロープ大量解放説に傾いたり、ホロープ農奴化の時期をできるだけくり上げようとして
いたからである。われわれは多くの点でグレーコフに教えられながらも、むしろグレ〆コフ批判
の立場をとって来た。いま、チュレープこンについで、ジpミンさえも15世紀ホロープ大量解放
説に反対の立場を明白にしたことは、ホロープ問題検討の視角が更新される前触れとも考えら
れ、その意味でもジーミン所説が注目に価すると思うのである。
本稿は、15世紀とその前後にホロープが大量に解放された、というソビエト史学の従来の通説
にあえて反論を加えようとするものである。この問題についてソビエト史学が全く利用していな
い16世紀末のホロープ登録帳簿に検討を加えた上で、ソビエト史学で大量解放論者にもその反対
論者にも史料的根拠とされている遺言状を、可能な限り広く渉猟して、立論したいと思う。
116世紀末の木ロブー登録とホロープ所有の規模
1597年2月のホロープ法令(以下に1597年法令と略称する)は、スルジーラヤ=カバラアの登
録を今後とも実施することを公布するとともに、それまでの「古い証文」およびそれによって隷
属せしめられるホロープを1年以内に(遠隔地に勤務するホロープ主は3年以内に)すべて登録
を受けるように指示した。古い証文のなかには、身売り状・報告状・贈与状などのように完全ホ
ロープ(主人側の所有権もホロープ側の非自由身分もともに世襲される)として隷属させる文書
と、「主人の死」までという限定された期限での債務ホロープを生み出すスルジhラヤ=カバラ
ア(ただし、1597年以前のもの)とが含まれていた。さし当ってわれわれに必要なのは、この古
い証文の登録帳簿である。証文保持者によって提出された証文は、その重要事項が帳簿に写し取
られ、それにつづいてその時点で「奉公」しているホロープの名が列記される−これが一般の
形式であった。したがって、この種の帳簿から16世紀未のポロrプ所有の規模を最も貝体的に知
り得る筈である。ただ、残念なことに現在までに発見されているのは、ノヴゴロド地方での登録
の、それもどく一部にすぎない。ソビエト史学での通称によってあげれば、PHBXVIIの帳簿、
ラキエルの帳簿、BAHの帳簿、nOI4日の帳簿(以上公刊)、urAnA.KH.7の帳簿、urAnA・
KH.8の帳簿(ともに未刊)がこれである。公刊されている四つの帳簿は、これを合わせると、
1597年12月20日から1598年1月31日にまたがっての登録実施の結果を示し、登録された証文数は
1040通に達する。四つの帳簿のうちでは、PH6ⅩVIIの帳簿が最も大きいので(1597年12月20日∼
1598年1月23日まで、現存の帳簿はノヴゴロド地方ウォトスカヤ区での登録で、前後が散逸していることが確
認される)、以下この帳簿を中心に考察を進めたい。
われわれの関心は、16世紀末におけるホロrプ所有の規模であるが、上述のような事情で、ま
ずそれぞれのホロープ主が何通の証文を登録のために提出したか、を調べてみよう。同一のホロ
ープ主が目を異にして提出していることもあり、ホロープ主が兄弟の場合も少なくないので、、大
勢を知るために提出の件数(およそホロープ主家の数に一致する)を数えると、PHBⅩVIIの帳
簿では上記期間中に156件の提出があり、それぞれが何通の証文を提出しているかに注目すると
15−16世紀ロシアにおけるホロープの解放と譲与(石戸谷)
55
次のようになる:1通−57件(57通)、2通−33件(66通)、3通−21件(63通)、4通−12件(48
通)、5−9通−20件(135通)、10通以上(188通)。提出された証文数が実際に保持されていた証
文数に一致するとは限らない。しかし、証文提出が少ないホロープ主家は、その経済の規模が小
さかったと見てよいであろう。勿論、1通の証文は、スルジーラヤ=カバラアの場合でも2−3
人の債務ホロープを隷属させていたこと稀でなく、身売り状・遺言状・分配状などでは1通の証
文が5人以上の完全ホロープを拘束したのが一般であった。登録帳簿からホロープ所有の普及の
程度を察知することは困難であり、危険である。そこで16世紀末ロシアで多数の証文と多数のホ
ロープを所有していた主家があった、という事実の究明に焦点をしぼろう。
いわゆる「ラキエルの帳簿」は、現在その原本が紛失しているが、紛失前にこの原本を閲読し
たカラチョフは、この帳簿についての報告のなかで、多数の証文と多数のホロープを所有してい
た事例として、次の二つをあげている(6):
(1)スコベルツイン家。スルジーラヤごカバラア27通、報告状2通、身売り状・判決書・贈与
状・遺言状各1通。計33通の証文によって「死亡者を除いて100名以上」のホロープを隷属させ
ていた。
(2)ドブイギン家。スルジーラヤ=カバラア17通、贈与状1通。計18通の証文によって「逃亡
者を除いて60名をこえる」ホロープを隷属させていた。
われわれは、カラチョフのこの算出が正当かどうかを判断すべき手段をもたない。しかし、そ
の着眼には学ぶべきものがある。いま、PHBⅩVIIの帳簿のうち、さきに10通以上の証文を提出
した13件について算出を試みよう。この場合、13件を13のホロープ主家として数えると、なかに
は別の日に同一主家が別の証文を追加提出している場合もあるので、証文数の合計は202通とな
る。その証文の種類と数、およびホロープの種類と数を、主家ごとにあげると付表1のような結
果を得るのである。
PHBXVIIの帳簿の刊行の責任者であったラッポ=ダニレーフスキーは、証文の種類に注目し
て、ヴォイン=ノヴォクシェノフ(付表1の1)とイグナチェイ=チェルトフ(付表1の3の兄
弟のひとり)とを比較して、前者がスルジーラヤ=カバラア=カバラアよりも身売り状などの完
全ホロープに対する証文を多くもっているのに対し、後者では20通の証文のうち19通までがスル
ジーラヤ=カバラアであるため、ヴォイン=ノヴォクシェノフの経済は「古く、よく確立されて
いる」、イグナチェイ=チェルトフの経済は「新しく、なお確立に成功していない」、と判断した
(7)。これは、証文の種類にのみよった皮相な見方であって、イグナチェイ=チェルトフは、他の
2人の兄弟とともにわずか1通の分配状(1588年)で計92名のホロープを分けあっているのであ
る。解放したであろうホロープを除いてもなお92名のホロープを息子らに遺した父のあとを受け
たイグナチェイ=チェルトフの経済を「新しい」というのは当っていない。92名のうち、イグナ
チェイは28名を得た上、さらに弟オントンと32名を共有しているのである(PHBXVII,沌495、そ
の理由は不明、オントン幼少のためか)。ラッボ=ダニレーフスキーのあやまちをくりかえさないた
めには、証文の種類と数のみならず、それぞれの証文によって隷属せしめられたホロープの数を
算出しなければならないのである。
そこで付表1のホロープ数算出の根拠を若干の具体例をあげて明らかにしておこう。15−16世
紀におけるホロrプの実態もある程度推察できるであろう。(地はPHBXVIIの帳簿のそれを示
す。)
(あ)ヴォイン=ノヴォクシェノフ提出のスルジーラヤ=カバラア(1593年、沌361)。夫婦の債務
付表1
一
率ユ
43 7 50
クズ ミン ス キ ー家 3 兄 弟
8
フ ョー ドル = ブ ト ゥル リン
9 ーグ ロー トフ家 3 兄弟
10 カル マ トゾ フ家 兄 弟
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33
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387、388 、
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18
13
盲 1音
35
字
220− 232、
i 6
1 300− 312 、
21
372− 384、
− −】
11 1!ボ グ ダ ン =ス コベ ル ツ イン ・ 313− 324、
】
トゥイル コ フ家 3 兄 弟
12
5151 526 、
13 ワシ ー リ← = ムイ シ ェツ キ
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33
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4
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ノ 人 人
ーu−−の荘訂1ヾ¶芦計耳か斗□1寸日常溶け献血︵面刊戟︶
20
28 】7 35
1
人
人
人
12
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と 三イブ
二 ナ、
ドル
= スポ
ネ rリ ャニ
l 】垂42卜=219
チ
ェイ
= オポ
434 、
、
6
ン
小
12
124 − 144 、
竺 遇
売買状
状
345− 371 、
499− 501 、
::芸
判決書
墨
マ トフ ェイ = メ シ テ ェー ル
キー
:誓
誓
」
分配状
2
オ イ ン= ノ ヴ ォク シ ェ ハ
婚約書
1 げ
その他の正文とそれによるホロープ
正 文 番 号
(刊行者によって付け
られ、ノビェト史学で
通用)
告
(ホ ロ ブー主の名)
証文の合計
PHBXVIIの帳簿の
証文提出者の名
15−16世紀ロシアにおけるホロープの解放と譲与(石戸谷)
57
ホロープ身分においてフォカおよびオンドリューシカ生れたり」とある。つまり、計4人が登
録されたことになるのである。
(い)トゥルイコフ家兄弟提出のスルジーラヤ=カバラア(1584年、沌519)。当初は男子1人の
み。「ワスカはオヌシーツァと結婚せり、しかるにかれらのもとにホロープ身分において息子
センカ生れたり」と帳簿に記載される。つまり3人が債務ホロープとして登録されたことにな
る。
(う)マトフェイ=メシチェールスキー提出のスルジーラヤ=カバラア(1576年、沌141)。このカ
バラ了は成立年代も古く、その後の事情も複雑である。当初は父と3人の子がカバラアにあげ
られていた。しかし、1598年1月はじめの段階では、「父と息子は逃亡中」、娘2人のうち1人
は「捕虜オンドルクと結婚、かれらのもとに子ら:ミーシカとロマーシカ」、もう1人の娘は
「ボシャイと結婚、かれらのもとに息子イリューシカあり」という情況であった。つまり、2
人は逃亡中、7人がマトフェイのホロープ、という計算になる。
(え)ヴォイン=ノヴォクシェノフ提出の身売り状(1520年、沌346)。ヴォインの祖父が1人の男
を買ったときの証文で、当初のホロープの「曽孫」(女性)が某と結婚したことを、帳簿は記
載している。この他に、当初のホロープの「孫」4人の名、およびその1人と結婚した女性の
名を列挙して、かれらは「逃亡中」と記している。
(お)ザハレイ=ビピコフ提出の贈与状(1543年、沌459)。当初はグリーシカとその妻子。50年余
をへた1598年1月の段階で、グリーシカ死亡、妻生存、息子死亡、娘生存、息子の妻生存、息
子の子(グリーシカの孫)3人となっていて、何れも名を明記している。この場合は計6人が
ザハレイの完全ホロープとして登録されたことになる。
(か)ボグダン=スコベルツィン提出の遺言状(1588年、沌313)。遺言状に記されているのは15名
(4家族と独身者1人)。その後の結婚、出生などが詳しく記載され、6名ふえて計21名が「本
遺言状によりかれのもとに奉公しあり」としている。証文とそれによって隷属せしめられるホ
ロープとの関係が最も克明かつ正確に記載されている典型的な事例の一つである。
(き)ヴォイン=ノヴォクシェノフ提出の身売り状(1500年、沌345)とマトフェイ=メシチェール
スキー提出の贈与状(1554年、沌144)。前者は2人(兄弟)をヴォインの祖父が買ったとき作成
されたものであるが、身売り状の内容が記されるにとどまる。ほぼ1世紀を経てこの2人が独
身のまま生存しているとも考えられないので、ホロープ数としては加えるべきではあるまい。
後者は、5人の名が列記されているおよそ45年前の贈与状であるが、これについても1597−98
年までのかれらの結婚その他の事情が記されず、またその時点でヴォインに誰と誰が奉公して
いるかにも全くふれていない。慎重を期してホロープを0人とした。
およそ、以上のような算出のし方で数え上げたのが、付表1のホロープの人数である。付表1
について注目さるべき点を列挙してみよう。(1)13のホロープ主家のホロープ所有数は逃亡中の
者を含めれば759人、平均して1主家につき60人弱、逃亡者を除いても637人、平均して49人と
なる。15−16世紀の遺言状の場合の若干の巨大領主と比べれば、多いとはいえないが、PHBⅩVII
の帳簿は、ノヴゴロド地方ウォトスカヤ区に限られていることも念頭におかるべきであろう。
(2)証文1通による隷属ホロープの数は、スルジーラヤ=カバラアでは平均2.7人、その他の証文
では平均5.1人で、完全ホロープの方が1通あたりの人数が多い。(3)ホロープ7人のうち1人は
逃亡していることになる。しかも、債務ホロープは7%の逃亡率であるのに、完全ホロープでは
25%、とそのちがいが明白である。(4)全体として、債務ホロープが完全ホロープに数的に比肩
58
15−16世紀ロシアにおけるホロープの解放と譲与(石戸谷)
し、17世紀が「債務ホロープの世紀」になる傾向を暗示している。PHBⅩVIIの帳簿の証文561
通のうち382通がスルジーラヤ=カバラアなることを想起されたい。
要するに、PHBⅩVIIの帳簿は、15−16世紀の「大量解放」によって16世紀末にホロープが著
しく減少した、という結論を導き出すことをさし控えさせるのである。この点からも、大量解放
説に疑問をもたざるを得ないが、その根拠とされる遺言状の検討に移ろう。
2 遺言状におけるホロープの解放・譲与の指示のし方
15−16世紀ロシアの遺言状は、わが国中世の武将のそれとは性格を異にし、遺訓というよりは
むしろ財産(動産・不動産を含む)の「譲り状」および「寄進状」の性格を共通的にもってい
る。ただ、政治的に重要な地位にあった諸侯にあっては、財産の譲与・分配・寄進のほかに政治
の指針についても述べるのが一般であった。ポロープが遺言状のなかで取上げられたのも、まさ
に財産の一つと見なされたが故である。
われわれが直接にその全文を読み得るロシアの遺言状は、AIO(1838年刊、マイクロフィルムによ
る)rBHJl(1949年刊)月旦r(1950年刊)、AC:)H(全3巻、1952−1964年刊)、Ae3Ⅹ(全3巻、1951−19
61年刊)に収められているものにゲイマン紹介の1通(8)を加えて、計141通である。このほか、全
文ではないが、既掲の古い証文の登録帳簿に15通を兄いだす。計156通のうち、ほぼ3分の1に
近い63通は、ホロープについて何らの言及がない。63人の遺言者がすべてホロープを所有してい
なかったことは速断できない(9)。しかし、さし当ってわれわれの検討を必要とするのは、のこり
93通から12世紀と17世紀に属する2通を除いた91通である。ただし14世紀のものは6通のみ、そ
れ放、本稿は15−16世紀を中心に考察することになる。
さて、遺言状におけるホロープ関係の用語であるが、解放するホロープについては、「自由に
解放せり」(OTIlyC:HJIHa CBO60Ay)、「自由を与えたり」(几aJICBO60Ay)などと述べ、ときには
其々に「自由を」、其々を「自由に」と簡略に述べていることもあり、また「余の妻子に不要な
り(He HaJ106e)」、「余の妻子は干渉すべからず(He BCTyIlaTbe只)」などのいい方をすること稀
でない。他方、解放せずに妻子に分配・譲与するときには、「与う」(AafO)、「与えたり」
(AaJl)、「恵与す」(6JIarOCt乃aBJIIO)などの語を用い、ときに「委ねる」(npIイKa3bIBaIO)という場
合もある。では、ホロープ自身いかなる呼称であげられているかといえば、必ずしも「ホロー
プ」または「ローバ」(女性のホロープ、本稿でホロープというときはソビエト史学におけると
同様に、男女両性を含めている)なる語で示されているとは限らない。たんに「リュージー」
(刀的AH,原義は人々)ということもあり、とくにリュージーをいくつかに区分して列挙するこが
と多く、この場合にはホロープの職務・労役あるいはホロープになった契機によって分類してい
る。「ホロープ」「ローバ」以外の語で示されてし‘、ても、それらがまさにホロープを指したこと
については、われわれの見解とロシア・ソビエト史学の見解とは完全に一致する。
次には、ホロープの数の算出の方法である。ホロープの解放・譲与を指示している遺言状が全
部のホロープの名を列挙しているとは限らない。ただ、それが列挙されているときは、これによ
ってホロープ家族の数、独身者の数を算出することができる。すでにわれわれは、15−16世紀の
ホローブ労役を考察した際、若干の遺言状について、ポロ細プの数を示した(10)。ところが、ジー
ミンの前掲論文は、ホロープの数の算出においてわれわれと大きく食い違う結果をもとにしてい
15−16世紀ロシアにおけるホロープの解放と譲与(石戸谷)
59
るのである。例えば、15世紀末のイワン=ノヾトリケーエフの遺言状旦月r,地86)について、われわ
れは長子ワシーリーに譲与したホロープ36名、そのうち8名は家族を構成、と数えあげたのに、
ジーミンほ長子に35家族を譲与したと述べている。同様に次子イワンに44名、うち9名が家族を
構成、これがジーミンでは43家族となっている。問題は、ジーミンがホロープについて独身者を
も家族構成者としている点である。たんに名を記されているホロープが実際には家族を構成して
いたこともあり得る。しかし、これはむしろ控えめに数えるべきであって、イワン=ハトリケー
ェフの遺言状では家族をもつホローブについては、本人の名につづいて「妻とともに」「妻およ
び子らとともに」と明記されているのである。この遺言状のホロープ列挙は長子に譲与された者
だけでも全文を示すには煩雑すぎるので、他の事例からジーミンの過大評価を指摘しておきた
い。
ワシーリー=ウワ一口フの遺言状(1475年、AC3日.I.沌450)について、ジーミンは息子に4家族
のホロープが譲与されたとするが(11)、テクストには次のように記されている:「己れの息子ユー
リに与えたり、二手フォルカの2人の息子イワン=モナストゥイルとマルチヤンを、デミーナの
息子パブリツを妾フェドシーツァとともに、オレクセイの息子ザハレーツを。(中略)己れの息
子ユーリに与えたり、チェレミシンの息子エフィムを。」つまり、家族を構成していたのは、ノ1
ブリツなるホロープだけで、他の4人は独身者と考うべきである。この遺言状は、これとは別に
上記のホロープの父に当るニキフォルカ、デミーナ、オレクセイらを解放しているが、その際い
ちいち「妻および子らとともに」としてホロープの妻子の名まで克明に記している。たんに名の
みがあげられている上の人を妻帯者と考える可能性はのこされないし、兄弟のイワンとマルチヤ
ンを1家族と数えることも誤解を招くであろう。
ワシーリー=オスタフイエフの遺言状(1510年以前、AC三洲.III.沌473)は、妻子にホロープを譲
与しているが、その数をシーミンは7家族とする(12)。しかし、テクストでそれらのホロープの列
挙は次のようになっている:「ロマシカの息子ルキャネッ=コルマン、コスチンの息子イレイカ
ニゼレノィ、イワネッ、その妻フェチューハとともに、かれの姉妹マシーツァ、かれの兄弟ポリ
セーツ、ともにラリューコフの子ら、婦タンカ=コーザ、脾ナスティーツァ」。イワネッの妻フ
ェチュrハをのぞけば、まさに7人であり、イワネッのみが妻帯者である。1人の妻品者と6人
の独身者という場合と、7家族という場合とは、大きな相違がある。のみならず、イワネッの姉
妹(マシーツァ)と兄弟(ボリセーツ)とは、兄夫婦の家族に入っていたかもしれないのであっ
て、その場合には1家族と4人となり、7家族との開きはもっと大きくなるのである。
ホロープの家族数および独身者の数え方の複雑な事例を一つだけ示そう。これは、ジーミンに
よってもかなり詳しく考察されているステノヾンニラザレフの遺言状(1473年、AC3H.III.泥67a)の
楊ノ合である。ステパンには妻のほか、7人の息子と1人の娘があり、ホロープの全部の名をあげ
ているので、その数は明白である。結論的には1人を解放し、14人を妻子に譲与している。ホロ
ープの創こは、この場合夫あるいは父の名も付せられており、それを丹念に拾いあげて行くと、
解放・譲与の前には15人が4家族を形成していたことが知られ、その後の状態で数えると3家族
と5人が譲与され、1人が解放されたことになる。これを分りやすく表示すれば、付表2のよう
になる。
表に明らかなように、マカルコフの妻は解放され、息子1と、息子2および娘とは、別々に譲与
されている。このホロープ家族は分解された、と考うべきであろう。ジーミンは、遺言の前には
計5家族と数え、造言の後については妻の所有に帰したホロープのみに言及して3家族としてい
15−16世紀ロ シアにおけるホロープの解放と譲与(石戸谷)
60
解 放 ・譲 与前 の ホ ロー プ家 族 構 成
(遺言 状 か ら の逆 推 )
遺 言 状 に∴お け る 指 示
譲 与 (遺 言者 との続 柄 )
一ノー
一
一.
一
一
・
一
一
1 マ カル コ フの妻 ミク ー シ ャ
2 そ の息 子 1
3 そ の息 子 2
4 そ の娘 /一一一/一
解 放
解 放
長 男 に譲 与 さ る
妻に
(母 と 3 人 の子 )
5 ゼ ノ ー フ カ
6 そ の妻
7 そ の 娘 1 (父母 を そ ろ えた 家 族 )
妻に
(1 家 族 )
8 そ の 娘 2
9 そ の 息子 1
次男に
1 0 そ の 娘3
11
三男に
そ の息 子 2
12 イ ワシ コ の妻 (母 と息 子 )
三男に
(1 家族 )
(母 と娘 )
妻に
1 3 そ の息 子
1 4 パ ン フ ィル の 娘 (1 家 族 )
1 5 そ の娘
る。このステパン=ラザレフの遺言状の場合には、われわれの算出と数的には大きな差はない
が、その原則に問題がある。すなわち、妻の所有に帰したマカルコフの息子2と娘とをホロープ
1家族と数えている。われわれとしては、夫婦(子あるときを含む)、父子の場合に限って「家
族」として計算する。兄弟、姉妹が幼少の場合もあり得るからである。ジーミンが、遺言の前に
は5家族と数えた根拠にいたっては、全く理解できない。ジーミン自身、遺言前に14人(正しく
は15人)と断った上で「ゼノーフカなる者の家族は7人」と述べており、もう1家族がどこから
数え出されたが分らないからである(13)。
以上のように、遺言状のホロープについての指示から、譲与・解放の家族数や人数を算出する
ことは、個々のホロープの名が列挙されている場合でも、誤りをおかしやすい。われわれとして
は「家族」としてあげる場合は、上述のように夫婦、父子、母子のみに限定し、その他は、独身
者として扱い、「何家族と何人」という形で示すことにする。ステノ1ン=ラザレフのホロープの
ように、遺言状から譲与・解放の前のホロープ所有の規模が運推できることもあるが、この種の・
事例はむしろ稀であるので、遺言状に指示されている解放と譲与の区別に従ってホロープを数え
ることにする。
ホロープについての指示を含んでいる14−16世紀の遺言状91通(ただし、われわれが直接に利
用できるもの、既述)のすべてが、ロシア・ソビエト史学で検討されつくしているのではない。
大量解放説を唱えたバフルーシンやグレーコフは具体的にはわずか数通をあげているにすぎず、
15−16世紀ロシアにおけるホロープの解放と譲与(石戸谷)
61
これを批判したチェレープニンやジーミンでもおよそ40通前後にとどまる。これは、かれらが16
世紀の考察の直接的な対象にしなかったため、この世紀に属するおよそ50通の遺言状を放置した
からである(ジーミンは16世紀のもの4通に言及している)。16世紀の遺言状は形の上でホロー
プ全員の解放を拇示しているものがいっそう多くのこされていて、むしろ大量解放説に有利とさ
え思われるので、この世紀の遺言状を度外視して大量解放説を批判することは妥当でないように
思われる。
ホロープの解放と譲与という立場から14−16世紀の遺言状を大別すると、何らかの形で譲与さ
れたホロープの数を知り得るものと、ホロープ全員解放の指示もしくは事実上これに近い内容を
もつと思われるものとに分けることができる。大量解放説の根拠になっているのは後者であり、
われわれも後者にいう「すべてを解放す」「すべてを解放せり」の意味と内容に重点をおいて批
判しようと考えるが、順序として、まず譲与されたホロープの数を、とくに被解放者数と比較し
ながら検討しよう。
3 譲歩されたホロープの数
14−16世紀の遺言状の圧倒的多数は、多かれ少なかれホロープを解放している。この点では、
とくに15−16世紀がホロープ解放の世紀になっていることを認識しなければならない。ホロープ
解放に全く言及せず、自己のホロープのすべてを妻子に譲与していると見なされる遺言状は、わ
ずか数通にすぎない。そのうちモスクワ大侯イワン1世の遺言状(1399年ごろ、月月「.沌1)は、ホ
ロープの分配譲与について別に「大巻物」で指示しているので、その数は遺言状からは察知でき
ない。15世紀前半のマルテミヤンの場合も(rBHn.飽ユ44)、ホロープを妻子に委ねるとのみで、
同様である。この種の遺言状で譲与の数を算出できるものとしては、27家族(マリヤ=ペテリー
ナ、1440年、AC9H.I.沌228))、3人(ダリゴリー=リグォフ、1470年ごろ、AC3H.I.抽472))、5
家族(エリセイごビピコフ、Ae3XII.人ら.37)の3例にすぎない。
しかし、ホロープの一部を譲与し一部を解放している、ただし被解放ホロープの名は記されて
いない、という遺言状もある。この場合には、ホロープ譲与について個々または家族筆頭者の名
を列記したあとに、「その他は解放」、「この遺言状に記されていない者は解放」という形で示さ
れている。譲与と解放と何れが多かったかを知り得ないにしても、譲与されたホロープの数は算
出できるし、少なくともそれだけのホロープが所有され、解放されずに譲与されたということは
確認される。具体的にこれを示せば:
17家族(オスタフィ=アナニエヴィッチ、1393年、rBHn.沌110)、(14)5家族と12人(ボリスご
ワシーリエヴィッチ、1477年、几月「.地71)、24家族と39人(ワシーリー=モロゾフ1497年、AC3日.
I.飽612)、4家族と3人(ステンノヾン=オボブロフ、1558年、A◎3X.II.沌276)
かの登録帳簿に抄写されている遺言状は、ホロープ所有に関する部分のみに抄写が限定されて
いたので、他に解放されたホロープがあったかどうかを確認できない。(その大部分が16世紀後
半ということもあり、解放が全くなかったとは考え難い。)譲与されたホロープの数は必ずしも
多くない。帳簿ごとに示せば次のごとくである:
PHBXVIIの帳簿−2家族と3組の兄弟(イワン=オドドゥロフ)1580年、滝1)、3人(シェ
ストイ=レネフ、1595年年、爬47)、9家族とユ7人(イワンとアミーロフ、1533年、沌252)、4家族
15−16世紀ロシアにおけるホロープの解放と譲与(石戸谷)
62
と2人(イワン=スコベルツィン、1588年、沌313)、7家族と6人(セメン=カルトマゾフ、
1593年、沌374)、5家族と3人(ヤコブ=クラスノスレポフ、1595年、沌378,沌384)、2人(フョー
ドル=ノボクレシチョフ、1472年、沌499)
ラキエルの帳簿−3家族(ドミートリー=スコベルツィン、1575年、CTp.65)、1家族と8人(オ
リーナ、1577年、CTp・66)2家族(ナスターシャ、年代不明、CTp.67)
BAHの帳簿−1家族と1人(ヤコブ=ハルラモフ、1596年、几41)、7家族と3人(イワン
=ナシチョーキン、1593年、几43)、3家族と1人(イワン=クルタショフ、年代不明、几78)、7家
族と5人(トゥイルト7、1577年、几84)
これらのホロープ家族を与えられた者(遺言者の子ら)のなかには、1597−98年の段階ではか
なり多数のホロープをもっていたことが明白にされている。例えば、ボグダン=スコベルツィ
ン、カルトマゾフ家兄弗、トゥイルトフ家兄弟のどときである(既述、付表1参照)。いいかえ
れば、ホロープ所有の規模については、遺言状で譲与されたホロープをさらに越えることもあっ
たのである。
さて、バフルーシンやグレーコフらの大量解放説は、ホロープ全員またはそれに近いものが解
放されたと見ている。上にあげた事例は、ホロープの一部を譲与、一部を解放ということを察知
し得るにとどまるのが大部分であって、譲与・解放の何れかより多かったかを確認させない。し
かし、このことを可能ならしめる遺言状も少なくないのである。
すなわち、遺言状によっては、譲与と解放の両者についてホロープ個人名または家族筆頭者の
名を克明に記している場合がある。計15通に達するこの種の遺言状を、ホロープの数を中心に表
示してみよう。
譲与されたホロープと解放されたホロープの合計がそのままホロープ所有の規模に完全に一致
するのではないにしても、付表3によって大体の規模は知られる。まず、ホロープ所有の規模は
ホロープ主によって大きな差があったことをいい得る。ジーミンも、付表3の(1)イワン=ハト
リケ←エフ、(2)アンドレイ=ゴレーニン、(4)アンドレイ=プレシチェエフ、あるいはさきに
あげたワシーリー=モロゾフなどを「上層勤務人」「巨大領主」としている(15)。ただし、かれが
ホロープ所有の規模を巨大領主で70−100家族、ときには150家族に達したと述べているのは、当
っていない。具体的には、アンドレイ=プレシテェエフのもとに「ホロープ73家族」(われわれ
の算出では、付表3のように、38家族と43人)、ワシーリー=モロゾフのもとに「ホロープ60家
族」(われわれの算出では24家族と39人)と数え出しているのは、過大評価であろう。しかし、
一方で多数のホロープを所有していた者もあれば、また他方では、数家族にとどまる者もあった
ことが確認される。
ところで、われわれがさし当って問題とする譲与と解放と何れが多かったかについても、付表
3は重要な暗示を与えてくれる。15人の遺言者のうち、12人まではより多くを譲与し、わずか2
人がより多くを解放しているにすぎない。この2人の遺言者にはともに、男子相続者がなかった
ことにとくに注意を喚起しておきたい。平均して、譲与されたホロープは解放されたホロープの
ほぼ2倍である。ジーミンは、解放の比率を、巨人領主で5分の1ないし8分の1、中小領主で
3分の1ないし4分の1と見ている。この数字をそのまま信用できないにしても、56家族と105
人のうちから14家族と10人のみを解放しているイワン=ハトリケーエフ、38家族と43人のうちか
らわずか7家族と2人を解放しているアンドレイ=プレシチェエフなどの事例は、ジーミンの数
字に接近しており、大量解放説に大きな疑をいだかせるのである。とくに、ジーミンが、ホロー
付表3 *備考の○印は譲与されたホロープが被解放ホロープより多いことを、×印は解放より少ないことを、=印は同数なることを示す。
譲与を受けた者
要撃勘冨華菖彙錆屍
妻、息子2人
イワン=ハトリケーエフ
譲与されたホロ
ープ
42家族と95人
解放されたホロ
ープ
ホロープの合計
14家族と10人+α
56家族と105人
+α
アンドレイ=ゴレーニン
1482年ごろ
妻、息子1人、
娘1人
38家族と32人+逃
亡者(2人)
15家族と10人
A(p3X.Ⅱ‥博176
ダリゴリー=ワルーエフ
1543年
息子2人
23家族と32人
16家族と10人
39家族と43人
妻、息子4人
31家族と41人
7家族と2人
38家族と43人
妻、息子5人、
娘1人
妻、息子1人、
娘1人
6家族と33人+逃
亡者(8人L_−
7家族と2人
13家族と35人+
逃亡者(8人)
12家族と22人
6家族と10人
18家族と32人
4家族と2人
AC∋H.I.沌562
アンドレイ=プレシチェ
ここフ
A03X.Ⅱ.沌172
ドミートリー=ベレウr
トフ
AIO‥沌416
イグナチェイ=トルイジ
ン
1516年
AC:〕H.Ⅲ.沌67
アレクサンドル=ベレウ
ートフ
1472年
妻、息子3人
5家族と逃亡者
(2家族と5人)
AC三)H.Ⅱ.沌168
ナ ソ ン = イ リ イ ン
1455−75年
息子2人
8家族と逃亡者
(2家族と2人)
ワシーリー=ガリーツキ
1433年
妻、娘1人
2家族と2人
6家族と3人
8家族と5人
AC∋H.I.Nら450
ワ シドリ ー=ウワロフ
1475年
3家族と4人
3家族と4人
6家族と8人
AIO.沌417
イワン=アルフェリエフ
息子1人、
娘1人
息子1人、
諺息子1人_
4家族と5人
2家族と6人
6家族と11人
AC3日.I.沌251
エ フ ロ ー シ ニ ヤ
1454年
息子1人
3家族と5人
2家族と1人
5家族と6人
AC9日.Ⅲ.旭100
エシープ=オキンフォフ
1459年ごろ
1家族と7人
5家族と1人
6家族と8人
AC≡)H.I.Nら394
ヨ フ
1470年
妻、娘1人、
兄弟1人
息子3人、娘1
AC:)H.Ⅲ.沌67a
ステパン= ラザレフ
1473年
AC3日.I.沌108
15 通 の 平 均
人
妻、息子7人、
娘1人
9家族と2人+逃
亡者(2家族と5人)
8家族と4人+逃
亡者(2家族と2人)
1家族と10人+逃
亡者(4人)__−
1家族と14人+
逃亡者(4人)
4家族
4家族と1人
12家族と19人+逃
亡者
6.7家族と5人
18家族と21人+
逃亡者
ーu−完膚薄口で曇ハ哲耳か斗ロー戌㊦溜溶け献血︵剖u戟︶
Ae3X.Ⅱ.Nら15
53家族と37人+
逃亡者(2起し
64
15−16世薪己ロ
シアにおけるホロープの解放と譲与(石戸谷)
プは「減少していない」事例としてあげたベレウートフ父子のホロープ所有は、ジーミンのホロ
ープ数算出の過大評価を別とすれば、注目に価するものである。付表3の(5)ドミートリー=ベ
レウートフは、同(7)アレクサンドル=ベレウートフの息子である。父アレクサンドルは、自分
の妻と3人の息子に一括して5家族(逃亡者を除く)のホロープを譲与している(かれの所有し
たホロープの半ばを少しく越える)。ところが、子ドミートリーは70年後の遺言状からすると、
13家族と35人(逃亡者を除く)のホロープを所有するにいたっている。(ジーミンは、ドミート
リーひとりだけで30家族以上のホロープをもつにいたった、と算出している。)少なくともこの
場合には、ホロープは、けっして減少していないのである。勿論、このような事例をさらに求め
ることは困難である。しかし、父子2代にわたり、かつホロープの名を全部記している遺言状が
現存していないという史料的事情のためにこの種の事例を追加できないのである、といえよう。
要するに遺言状が、ホロープを全く解放せずにすべてを譲与していることは、まれである。多
くの場合、その一部を譲与し、一部を解放している。そして、何れが多かったかといえば、数字
的に確認される限りでは、譲与されるホロープが、ほとんどつねに多いのである。それ故、ホロ
ープ解放が時代の清々たる流れであり、16世紀にはもはやロシア社会は木ロープを必要としなく
なった、と考えることはできないのである。しかし、これに対しては大量解放論者から当然の反
間が提出されるであろう。いわく、ホロープ全員の解放を拇示している遺言状が最も多いではな
いか、と。節を改めて考えよう。
4 木ロープ全員解放の実態
われわれがホロープ全員の解放またはこれに近い処置というその意味を明らかにしておこう。
全員解放というのは、ホロープ譲与のことに全く言及せず、かつ「すべての」ホロープを解放せ
り、解放すべLと遺言状に記されている場合である。これに近い処置というのは、妻の持参ホロ
rプについて、かれらは妻のものとして「その他は解放」、一部を妻に与えて「その他は解放」と
いうように指示している場合、さらには自分の死後に子が生れない限り全員解放というように条
件を付している場合などである。ホロープ全員の解放またはこれに近い処置を指示している遺言
状は、われわれが読み得る91通の遺言状のほぼ半ばに達するのである。グレーコフが、全員解放
を指示している遺言状を数通引用するにとどめて、同様な事例は「枚挙にいとまがない」と述べ
ているのにも、理由がないわけではない。
そこで、グレーコフおよびかれに先立って大量解放を唱えたバフルーシンが、直接に依拠した
遺言状に注目すると、両者ともにまずモスクワ大侯イワン1世の遺言状がホロープ解放に言及な
く譲与についてのみ指示していることを指摘している(16)。それにつづいて両者が引用している遺
言状を合わせると:
モスクワ大侯セメン(1353年、皿皿r.沌3)、その弟大侯イワン2世(1358年、月月「.沌4)、イワン
2の孫大侯ワシーリー1世(第2の遺言状は1417年、月旦r.地21,第3のほ1423年、月旦「.沌22)、セ
ルプホーフ侯妃=寡婦エフプラクシャ(1433年、沌28)、大侯妃=寡婦ソフィヤ=ヴィトフブナ
(1451年、月月「.沌57)、ウォロックの侯ボリス=ワシーリエヴィッチ(1477年、月旦「.沌71)
以上7通の遺言状、6人の遺言者は、何れもモスクワ大侯、その一族の分領侯、もしくは侯妃
であり、かつ、6人のうち2人は寡婦、1人(大侯セメン)は相続者をもっていなかったことに
15−16世紀ロシアにおけるホロープの解放と譲与(石戸谷)
65
注目すべきである。また、セメンのほかにはモスクワ大侯が2人しかあげられていないが、この
2人の遺言状から大量解放をいい得るとすれば、他の大侯にもあてはまるのである。このこと
は、大量解放が代々くりかえされたことを意味する。そして、逆にいえば、ホロープが歴代のモ
スクワ大侯によって大量に使用されたことを意味するのである。ホロープ労役が「著しく縮少さ
れた」とは、いえないことになる。子なる大侯にホロープ労役が必要なことを知りながら、何故
歴代の大侯は解放したのか。この問いに、バフルーシンもグレーコフもついに答えなかったので
ある。それはようやく最近になってチェレープニン、ついでジーミンによって解答が用意され
た。ただし、両者の答えは、相互に異なる点をもつ。これについては、後に考察するとして、本
節では、従来のロシア・ソビエト史学が、ジーミン以外には深く追究しなかった大侯以外の一般
の遺言状について、大量解放、全員解放の問題を考察する。
われわれは、ホロープ全員の解放が15世紀前後のロシアに普及してきた、という見解に対して
大きな疑いをもつ。ある遺言者が自分のホロープ全員を解放したとすれば、それは自己の相続者
にホロープが必要ないと考えたことになる。しかし、父子2代にわたる遺言状のホロープ解放の
くりかえし、16世紀末のホロープ登録帳簿、1649年法典第20章の諸条項などから考えても、ホロ
ープの必要性は16−17世紀でもなおロシア社会にのこっていた。よほどの事情がない限り、父は
子のために1人のホロープをものこさずに全員を解放した、とは思われない。ここで考えられる
のは、アレクセーエフやジーミンも注目した「相続者がなかった」のではないか、ということで
ある。全員解放またはこれに近い処置を指示している遺言状を、この点を中心に一つ一つ検討し
てみると、大量解放論にとってはまことに意外な結果がでてくるのである。少なからぬ遺言者
は、相続者は勿論、妻さえもないのである。遺族=妻子との関係から四つに分類して、具体的に
考察しよう。
(1)妻子のない遺言者とその遺言状
ドミートロフの侯ユリー=ワシーリエヴィッチ(1477年、月旦「.沌68)、ヴォログダの侯
アンドレイ=ワシーリエヴィッチ(1481年、月旦r.抽74)、イワン=プレシチェエフ(1482
年、AC9日.I,沌499)、アンドリアン=ヤルルイク(1460年、AC∋H.II.沌361)、セメン=
ナクワーサ(1476年、AC9日.II.J喰474)、ドミートリー=フウォロスチン(1507−17年、
Ae3Ⅹ.II.沌40)、ウグリーツの侯ドミートリー=イワノヴィッチ(1521年、月月r.摘99)、
ダリゴリー=オプレチュエフ(1540年、A(p3X.II.沌157)、ピョートル=プーシキン(1550
年、A(p3X.II.抽225)、フヨ,ドル=ボロジン(1554年、A03X.II.沌253)、ワシーリー=
プーシキン(1556年、Ae3X.II.沌265)、イワン=チトチェフ(1558年、Ae3X.II.沌275)、
イワン=メチョフ(1567年、Ae3X.II.沌330)、 エリザリー=プロフツィン(1571年、
Ae3X.II.沌356)、ミャソエド=ヴィスロフ(1568−70年、AIO.入ら421)、イワン=クリ
ウォボールスキー侯(1513年、ゲイマン論文)
以上の17人の遺言者は何れも妻子をもっていない。その遺言状に共通して特徴的なのは、多か
れ少なかれ土地を教会または修道院に寄進していることである。その際、なき両親や妻、そして
自らの冥福供養を依頼している遺言状が多い。のこりの土地は、自分の兄弟・姉妹に遺贈してい
る。ジーミンが指摘しているように、土地についてのこのような処置は、かれらが自分の死後に
その「やしき」経済が解体されることを予期していたことを患わせる(17)。かれらの死後にはもは
や、土地も、やしきも、したがったホロープも必要でなかったのである。このような事情を無視
15−16世紀ロシアにおけるホロープの解放と譲与(石戸谷)
66
して、ホロープ全員の解放を指示している遺言状が多い、故にホロープは大量に解放されたと判
断することは、余りにも皮相な見解といわざるを得ない。
(2)妻あるも子のない遺言者とその遺言状。
イワン=サルトゥイク(1483年、AC3日.I.飽501)、ウォロックの侯フョードル=ボリソ
ーヴィッチ(1506年、月月「.腫98)、ピョートル=モレーチキン(1523年、A(p3Ⅹ.II.沌91)、
ワシーリー=エシポフ(1528年、A(む3X.II.沌97)、マトベイ=レワショフ(1545年、
A(p3X.II.抽183)、イワン=クルチョフ(1553年、A(p3X.工I.飽248)、ドミrトリー=プ
レシチェエフ(1558年、A(p3X.II.地274)、ワシーリー=クトゥーゾフ(1560年、A(p3X.II.
沌282)、ズベニゴロドスキー侯イワンとダリゴリー兄弟(1562年、Ae3X.II.沌299)、フ
ョードル=スペルチコフ(1580年、A(p3X.II.飽371)、ニキータ=ロストフスキー侯
(1548年、AIO.沌420)、
以上11通の遺言状のうち7通までが妻の持参ホロープに言及している。旧稿で考察したよう
に、持参ホロープは妻にその所有権があり、夫が何らの指示なしで死亡した場合でも妻は自分の
持参ホロープに対する所有権を何びとからも侵かされることはない(18)。他の4通も、とくにズベ
ニゴロドスキー侯兄弟については、持参ホロープがあったと考うべきであろう。自分のホロープ
の全員解放を指示するに当って、これら4通は持参ホロープが妻のものなることを特記するのを
省略したと思われる。
ところで、この11通をさらに詳しく検討してみると、遺言者たちが自分の死後における妻の生
活にある程度の配慮をしていること、しかし、その配慮の程度は相続者、とくに男子相続者ある
場合のこれに対する配慮とは大きな差があることがうかがわれる。男子相続者がなかったからホ
ロープ全員を解放した、ということを具体的に示している遺言状が上掲のなかに兄いだされるの
である。少しく立ちどまって見ておこう。
妻に所領の一部を譲与しながら妻の死後には教会に寄進さるべLといっているワシーリー=エ
シポフ、妻が再婚するときはその土地は自分の(遺言者の)兄弟のものたるべLといっている3人
(イワン=クルチョフ、ワーリー=クトゥーゾ7、およびフョードル=スコベルチコフ)、ある
いは土地は勿論やしきまで教会に寄進してただそこでの妻の居住権のみを認めているマトベイ=
レワショフなどは、妻の生存中の生活のみを考え、配慮さるべき子孫のない遺言者の特性を示し
ている。これらとは別に次の四つの遺言状に注目されたい。
(ア) イワン=サルトゥクの遺言状
遺言者イワンは、「大侯勤務」のため「ウグリーチに赴くに当って」遺言状を作成したのであ
る。それが出征か警備かは不明であるが、死を覚悟しての遺言ではあった。かれは、土地の一部
を修道院に寄進、一部を妾に譲与している。ホロープについては自分の出征後に「余の妻に余の
息子が出生するとき」という場合を予想して、「ダニーロフの子ら、シェルピャクの子ら、ワシ
ーリー=スホフの子ら」および3人、つまり最少限9名のホロープを息子に与えよ、と指示して
いる。その際、イワンは娘が生れた場合については何ら言及していない。少なくともこの遺言状
について明言できるのは、男子相続者がすでに出生していたならば、遺言者はけっしてホロープ
全員を解放しなかったろうということである。われわれが全員解放を男子相続者の有無に結びつ
けて考えようとする根拠、その一つがここに示されている。
(イ) ウォロックの侯、フョードル=ボリソーヴィッチの遺言状
侯は、土地を侯妃と修道院に譲与・寄進しているが、それとは別に自分の死後に侯妃に子が生
15−16世紀ロ シアにおけるホロープの解放と譲与(石戸谷)
67
れるとき与えるべき土地を指示している。子が生れないときは予定された土地は大侯にと述べ、
ている(フヨ←ドルはイワン3世の甥、この場合大侯とはワシーリー3世をいう、なおフョード
ルは7年後の1513年子なしに死没)。注目されるのは、侯が子の出生について「息子が出生する
とき」と「娘が出生するとき」とを区別し、かつ、あげられている地名とその数からすると、娘
の場合とは比較にならぬ土地が息子の場合には予定されている。その中には、本拠地なるウォロ
ック市も含まれている。現実に男子相続者があったならば、侯は所領とやしき経済の維持を当然
考えたであろうし、ホロrプ全員の解放を指示したかどうかはきわめて疑わしい、といわざるを
得ない。
(ウ) ピョートル=モレーチキンの遺言状
遺言者ピョートルは、自分の土地を妹や甥、また妻に(ただし妻の死後には修道院にという条
件づき)譲与している。しかし、息子が生れた場合にはこの事情は一変する。すなわち、「しか
るに、余の死後に、余の妻に息子が出生するときは、余のすべての所領は、息子に」と指示して
いる。また、娘の生れる場合のことにも言及している。しかし、娘の場合については、土地譲与
に変更はなく、「余の財産より80ルーブリをかの女に」と指示するにとどまっている。
(エ) ズベニゴロドスキー侯イワンとグリゴーリー兄弟の遺言状
遺言状の内容からして、弟ダリゴーリーには妻があったことが知られる。その妻に「息子が生
れるときは、すべての土地はかれに」、娘の場合には「財産とこく物から200ルーブリ」と区別し
ている点は、上と同じである。ただ、この遺言状では、ホロープ全員の解放を指示するに当っ
て、とくに「たとえ侯グリゴーリーに息子が出生しても」と断り書きを添えている。この点で
は、上渇の(ア)遺言者イワン=サルトゥイクと逆である。いまズベこゴロドスキー侯兄弟をめぐ
る諸事情は、これを審かにできない。思うに、息子があれば、その息子のためにホロープをのこ
すのが一般であったからこそ、この侯兄弟はこのように断り書きをしている、と考えることも可
能であろう。
要するに、妻があっても子のない遺言者は、持参ホロープを妻のものとして再確認するにとど
まっており、かれがホロープ全員を解放したからといって、その解放を過大評価してはなるま
い。子とくに、男子相続者があるという現実に直面しつつなお全員を解放する、というのが15−
16世紀ロシアの一般的現象であった、とは判断できないのである。
° °
(5)女性による遺言状
セルプホーフの侯ウラジーミル=アンドレーヴィッチの寡婦エフプラクシャ(1433年、
月月r.爬28)、モスクワ大侯ワシーリー1世の寡婦ソフィヤ=ヴィトフブナ(1451年、月月「.
沌57)、寡婦マリヤ=コープニナ(1478年、AC三)H.I.沌457)、イワン=エロープキンの妻
マリヤ(1533−35年、Ae3X.II.沌127)、ベズツォフ=フョードルスキー侯の寡婦アレク
サンドラ(1546年、AIO.地419)、イワン=ロストフスキー侯の妻アグラフェーナ(1568年、
A03Ⅹ.II.抽332)
以上6人のうち、4人までが寡婦である。このほかに女性による遺言状としては2通がのこさ
れており、ともに寡婦で息子あるいは孫息子にホロープを譲与している(既述)C19)。しかし、原則
としては、寡婦がホロープ全員を解放する可能性は充分あり得る。というのは、かの女が相当な
年令まで生きながらえたのであれば、息子は改めて母からホロープを譲与される必要のないほど
にやしき経済を確立していた筈であるから。上記4人のうち、マリヤ=コープニナと侯妃アレサ
ンドラとは、夫に先立たれたのみならず、子がなかった。のこる2人の寡婦のうち、侯妃エフプ
68
15−16世紀ロシアにおけるホロープの解放と譲与(石戸谷)
ラクシャについては、夫ウラジーミル=アンドレーヴィッチの生前の遺言状(1401年、月旦「.沌
17、侯は1410年没)によって侯がかなりの数のホロープを5人の子に譲与したことが知られ、かつ
侯妃が遺言状を作成した1433年の時点では、5人の子は何れも死没し、孫のワシーリー=ヤロス
ラヴィッチがあるのみであった。父ヤロスラフの遺言状はのこっていないが、ワシーリーにホロ
ープも譲与された可能性は大きい。このような状態において、侯妃はホロープ全員を解放するの
に躊躇を感じなかっ牢と思う。もうひとりの寡婦、侯妃ソフィヤ=グィトフブナは5人の男子を
生んだが、1451年には生きのこった末子のワシーリー(2世、モスクワ大侯)はすでに36才に達
していて、侯妃はかれにホロープを譲与する必要はなかったる(5のであ年後ワシーリー2世の
遺言状月却∴沌61.からも、かれが多数のホロープを所有していたことが知られる)。結局、女
性がその遺言状でホロープ全員の解放を指示しているとき、問題になるのは、夫在世中にもかか
わらず全員を解放したかのどとく読まれやすい次の2人の遺言状である。
(ア) イワン=ロストフスキー侯の妻アグラフェーナ
アグラフェーナ夫妻には子がなかった。これだけでも、かの女が遺言状によってホロープ全員
を解放する可能性が考えられるが、かの女が解放したのはまさにかの女自身のホロープ、すなわ
ち持参ホロープだけである。遺言者による自分のホロープ全員の解放、という表面だけにとらわ
れてはならない一つの事例でもある。
(イ) イワン=エロープキンの妻マリヤ
マリヤの夫イワンは、たしかに故人にはなっていない。しかし、かれはリトワに使したまま帰
国していないのである。出発が何年前かは知るよしもないが、夫イワンは、少なくとも土地につ
いては妻に指示をのこしておいたようで、この遺言状は、「夫の指示により」土地は甥の某に、
としている。ホロープの「すべてを自由に」とは指示しているが、それは「われらの死後」、つ
まりかの女だけでなく夫の死亡も確認されたときのことである。夫が生存していれば、かの女が
夫のホロープを解放できる筈もなく、このことは、遺言状に「わたくしの夫イワン=アンドレー
あるじ
ヴィッチがリトワの捕われより脱出するとき、わたくしの主イワン=アンドレーヴィッチは、自
己の所領と自己のリュージーに権利をもつ」とつけ加えられていることから明らかである。な
お、この夫妻にも子はなかった。
(4)ホロープ全員を解放した父とその遺言状
これまでに、妻子のない遺言者、妻あるも子のない遺言者、女性の遺言者を検討してきたが、
最後に子があるのに全員を解放している遺言者=父を検出して(ただし、歴代モスクワ大侯をの
ぞく)、その遺言状成立年代とともに示せば:
ウォロックの侯ボリス=ワシーリェヴィッチ(1477年、月月「.旭71)、ベレヤ=ベロゼー
ルの侯ミパイル=アンドレーヴィッチ(1486年、月月「.滝80)、オボレンスキー侯ユリー
(1547−65年、A(p3X.II.沌207)、フヨPドル=ラ∼チキン(1551年、A(p3X.II.沌236)、セ
メン=ステノ1ノフ(1569年、Ae3X.II.沌352)、イワン=ブヌコフ(1560年、A03X.HI.
沌8)
以上の6人の遺言者のうち、最初の2人を除いては、男子相続者あることが確認できない。ほ
かの4人のうち、オボレンスキー侯ユリーは、娘の持参物として貴金属など動産を用意し、土
地は、娘の結婚後子ができなければ母に返し、母(侯の妻)の死後には修道院に、という条件
で、一部が娘に与えられているにすぎない。フョードル=ラーチキンは、なお未婚の娘にのみ1
家族のホロープをのこし、妻には2家族のホロープを与えている。前者は娘の持参ホロープとし
15−16世紀ロシアにおけるホロープの解放と譲与(石戸谷)
69
て用意されたものであり、後者については妻の死後は解放さるべく、妻がフョードルの子を生ま
ずに再婚するときまた同じ、と指示している。フョードルは「この遺言状に記されざる、他のホ
ロープはすべて自由に」といっているが、その数は全く不明である。いちおう、ほとんど全員が
解放された部類に数えておく。ただし、それは、男子相続者のないことによる、と判断されてよ
いであろう。セメン=ステノ1ノフには、某侯に嫁いでいる娘があり、かの女や婿に若干の動産を
遺贈している。かれは「二つずつの店」を「妻と子ら」に譲与しているが、この中に男子相続者
があったかどうかは、確かめられない。イワン=ブヌコフは、土地を「妻と娘に持参物として」
与えている。これは、妻の管理下において、娘が結婚するときに役立てよ、の意味であるが、こ
こでも上のユリー=オボレンスキー侯の場合と同様に、この娘に子ができないときは、その土地
が教会に寄進さるべきことが指示されている。
このようにして、子がありながらホロープ全員を解放している場合があっても、それは子が娘
であって、男子相続者でないことに原因していると思われる。勿論、娘のみの場合でも、少数の
ホロープを解放せずに譲与していることもある。しかし、さきの付表3についていえば、解放さ
れるホロープが譲与されるホロープよりも多いという例外的現象は、まさに男子相続者がない場
合に見られるのであり、ホロープの全員解放も、より多くの(譲与に比べて)ホロープの解放
も、男子相続者の有無に結びついている、と考えられる。
ところで、上にあげた6人のうち、最初の2人、それも分蝕侯の地位にあった2人が男子相続
者をもちながら、全員解放を指示しているのは、いかに解さるべきであろうか。個々に検討しよ
う。
.(ア) ベレヤニベロゼール侯ミパイル=アンドレーヴィッチの遺言状
ミパイルは、モスクワ大侯ワシーリー2世の従弟にあたり、遺言状作成の1486年ごろはイワン
3世が大侯位についていた。ミパイルは、娘アナスタシャにさえ所領の一部を割いているのに、
息子ワシーリーにはホロープは勿論、所領さえも遺言状では与えていない。ここに問題を解く鍵
がありそうである。かれの遺言は、その末尾に次のように記している:「しかるに、余の息子な
° ° ° ° ° ° ° ° ° °
る侯ワシーリーが余のもとにありしとき、〔かれに〕与えたるもの、および余の〔息子の〕嫁な
るマリヤに与えたるものについては、余の遺言執行人は、目録に署名し、余の印章宮イワンは印
章を押すべし」(圏点、引用者)。いうところの「日録」のなかに、土地やホロープが含まれてい
たかどうかは断定でない。ミパイルが「余のもとにありしとき」というのは、息子ワシーリーが
イワン3世の中央集権化政策に反対して、3世と争い隣国リトワに逃亡する前のことを指してい
る(逃亡は1484年、この遺言状は1486年)(20)。息子ワシーリーにこのような事態が起らなければ、
父ミパイルが自分の遺言状で所領とホロープを譲与したであろうことは、まず疑を入れないであ
ろう。いいかえれば、男子相続者がありながらホロープ全員を解放したのは、この場合全く個別
▼ .
° ° ° ° °
的特殊事情によっているのである。
(イ) ウォロックの侯ボリス=ワシーリェヴィッチの遺言状
この遺言状は、さきには特別な検討を加えなかったが、大量解放説の根拠の一つとして、バフ
ルーシンによって利用されているものである。バフルーシンは、侯ボリスが自分の妻に「3人の
パン焼き人、炊事人、鷹師、村管理人、さらに9人または10人の家族もちのホロープ」を譲与
し、「その他をすべて解放した」と述べて、大量解放の、「侯の奴隷所有が著しく縮少された」
事例の一つとしているのである。たしかに、侯ボリスが妻に与えたホロープは多くはない。しか
し、妻にホロープを(村管理人も入っていることに注意)譲与すること自体、必ずしも一般的な
70
15−16世紀ロシアにおけるホロープの解放と譲与
現象ではない。それ故、ジーミンのように「ホロープ21家族」を侯ボリスが妻にのこした、と過
大に算出できないにせよ、男子相続者に対する何らかの配慮がこの遺言状に反映していると見
ることも可能である。その意味では、この遺言状を全員解放に近い解放を指示したものに加える
ことに問題があるように思う。侯ボリスはこの遺言状を兄イワン3世の命によってノヴゴロド遠
征に出発するに先立って作成しており、それは1477年10月のことである。遺言状にいわれている
° ° ° ° ° ° ° ° ° ° °
男子相続者としてのフョードルはその前年に出生したばかりであって、妻にある程度のホロープ
° ° ° ° ° ° ° ° ° ▼ ° ° ° ° ° ° ° ° ° ° ▼ t ° ° ° ° ° ° ° ° ° ° ° ° °
を追加・譲与することによって、幼児をかかえた妻を中心とするやしき経済は維持される、と考
えたのはあるまいか。侯ボリスが幼児とはいえ男性相続者なるフョードルのために、ウォロック
以下の所領を譲与しながら、ホロープをとくに譲与しなかったのは、このように理解さるべきで
あろう。成長したフョードルが自らのホロープを所有するにいたったことは、およそ30年後のか
れの遺言状(既述、かれには子がなかった)におけるホロープ全員解放の指示によって明らかで
ある。ここでもわれわれはホロープ労役の必要がなくなっていない一つの事例を見るのである。
以上、大量解放説の主たる根拠になっているホロープ全員解放またはこれに近い処置を指示し
ている遺言状を、遺族の構成によって分類して、検討をすすめてきた。結論的には、男性相続者
のない遺言者が、自分の死後にやしき経済が維持される必要なしと考えて、ホロープ全員を解放
している、ということが原則としては認められるであろう。われわれが14−16世紀ロシアの遺言
状を読むとき、ホロープ解放の指示が眼につく。いわく「すべて」を解放、いわく「その他」を
解放と。しかし、一方でホロープ護与の指示に眼をおおうべきでなく、他方で全員またはほとん
ど全員の解放を指示している遺言状が今[=こより多く伝えられているという事情に注目すべきで
ある。相続者をもたない遺言者は、土地を教会・修道院に寄進し、そこでは遺言状は土地所有権
証文としても保管される。このような事情が全員解放の遺言状を今日に多く伝えさせているので
あって(21)、いたずらにホロープ全員の解放、さらにはホロープ労役の「著しい減少」、その大量
解放を強調すべきではあるまい。男子相続者のない遺言者の遺言状がたまたまより多くのこされ
ていることを度外祝しては、正しい歴史的判断から遠ざかるばかりである。上にはとくに問題に
取上げなかったが、16世紀にホロープ全員解放の遺言状がより多く兄いだされるのは、16世紀に
それがいっそう普及してきたからではなくて、男子相続者をもたない者の遺言状が16世紀につい
てより多く保存されてきたにすぎない、というのは極論であろうか。
5 歴代モスクワ大侯のホロープ解放
遺言状によるホロープ全員の解放、またはこれに近い処置が男性相続者の有無と結びついてい
る、というのが上乗の検討の帰結であった。ところが、歴代モスクワ大侯の遺言状(22)については
この原則だけでは説明し切れない場合がむしろ多いのである。それ故、モスクワ大侯の遺言状が
男性相続者がありながらホロープ全員を解放しているのは何故か、果たして真実に解放されたの
か(チェレ細プニンの「遺族による再検討」説(23))、果たして遺言状は全員の解放を指示してい
るのか(ジーミンの「上層部のみの解放」説)について検討を加えねばならない。イワン1世
(1341年没)の遺言状(1339年、月月「∴陥1)が3人の息子に「大巻物」に記したホロープを譲与して
いるのに(解放について言及なし)、その子大侯セメソ(1353年没)の遺言状(1358年、月旦「.沌4)
15−16世紀ロシアにおけるホロープの解放と譲与(石戸谷)
71
が自分の全ホロープを解放したからといって、別に問題はない。セメンには男子相続者がなかっ
からである。セメンの弟イワン2世(1359年没)からイワン3世(1505年投)にいたるまでの5
代、およそ150年の問にモスクワ大侯によって作成された遺言状は、計8通(同一人が2度また
は3度にわたって遺言状を作成したことがある故)、その全部が男子相続者をもっているという
状況のもとに作成され、多かれ少なかれホロープを解放している。この8通をどのような角度か
ら分析すべきであろうか。もはや男子相続者の有無では割り切れない。ホロープを解放するとい
うことはどういう意味をもっているのか。それはホロープの労役と関係があるのであって、大小
すべてのホロープ主に共通しているのは家内労働(旧稿で述べた,ように広義の家内・手工労働)
であったから(24)、全ホロープを解放することは、それぞれの木ロープによるやしき経済を解体す
ることを意味する。この他、すべてのホロープ主についてではないが農耕、軍役に使用したこと
もあった。とくに巨大領主のもとでは管理職ホロープがあり、クリューチェフスキーはかれらを
ホロープのなかの「特権的階層」と呼び、ジーミンはホロープの「上層部」と呼んでいる。また、
解放とは、単なる身分上の変化だけではなく、モスクワ大侯の遺言状のことばをかりていえば、
「いずに趣くも、かれらに自由を与え」たのであって、被解放ホロープを失なうことを覚悟して
ホロープ主はかれらを解放したのである。われわれが、全員解放は「やしき」の解体であるとす
るジーミン所説をとるのはおよそこのような事情を念頭においてである。加うるに、モスクワ大
侯の場合には、全員解放は管理職ホロープを失なうことにつながり、チュレープニンが「行政職
員」を失なうような解放をモスクワ大侯や分領侯がする筈がないとして大量解放説に反対したの
も当然である。しかし、だからといって解放そのものに疑いをいだき、遺族による再検討の結果
多くのホロープが「従前の地位にとどまった」とするのは、行き過ぎのように思われる。また、
さきに分領侯ボリス=ワシーリェヴィッチの遺言状について述べたように、ひとしく男子相続者
といってもその幼少のときには母なる侯妃が後見人としての役割を果した筈で、この場合には侯
妃の地位と実力が関係してくる。まず、この点から考察をはじめよう。
大侯の遺言状が作成されたそれぞれの時点における男子相続者の年令を示せば、付表4のよう
になる(25)。すなわち、一般に成人年令15才に達している者が少ないが、とくにイワン2世、ドミ
ートリーの第1の遺言状の時点、ワシーリー1世の三つの遺言状の時点では、まことに幼少であ
る。これらの幼少な男子相続者にホロープを譲与しても、それは後見人に使用されるにすぎな
い。また幼少なるが故に当然母=侯妃と生活を共にした筈である。この点について大侯の遺言状
からは特別な記載を兄いだし難い。しかし、イワン2世の甥に当るセルプホーフの分領侯ウラジ
ーミル=アンドレーヴィッチの遺言状(1401年ごろ、几Ar.沌17)は、われわれに暗示を与えてい
る。侯ウラジーミルにはそのころ20才から7才までの5人の息子があり、ホロープは土地に結び
ついている養蜂者、菜園師などに対して土地を失うのを承知の上なら「他出」自由として解放し
ている(ジーミンはこの遺言状を、ホロープがほとんど解放されなかった事例の一つにあげてい
る)。5人の息子のほか侯妃エレーナ(出家してエフプラクシャ、その遺言状は既掲)にも所領が
分与されている。興味あるのはモスクワの「やしき」をもかれらに分配していることと、その分
配のし方である。すなわち、長男に「ズウォルイキンのやしき」と「イグナチエフのやしき」、次
男と三男には共同で侯の母なる「大侯妃マリヤのやしき」を与え、そして当時8才と5才の四男
と五男については、「余の侯妃に小なる子らとともに、己れのモスクワの大なるやしきを与えた
り」と述べていることである。モスクワ大侯の一族なる分領侯はモスクワにそれぞれ自分のやし
きをもっていたが(26)、いま侯ウラジーミルはそのモスクワにおける本拠地を侯妃に与え、そこで
° ° ° ° ° ° ° ° °
夢二墾壁歴史上アにおける ホロープの解放と譲与(石戸谷)
侯の名
遺言状の年代
庫
の沌
!
男 子相 続 者 の名 お よ び年 令
イ
ワ
ン
2 世
1358年
沌 4
ド ミー トリー
ドミ
ー ト リー
1375年
沌 8
ワシ ー リr 〝
1 38 9 年
沌 12
ワ シー リー 19 才 、
ユ リー 16 才 、
イ ワン
ア ン ドレイ
7 才、
ピ ョー トル
1才、
1406− 7 年
N邑
20
イワン
ワシー リー 1 世
〝
1417年
〝
ヮシ 小
2世
イ
ワ
ン
3 世
!
14 2 3 年
1 4 6 1− 62 年
5 才、
5才
ユ リー
2才
9 才、
1 1 才 (1 4 1 7 年病 没 )、
沌 21
沌 22
巨
9才、
イワン
61
匪
沌 89
序
ワシ ー リー
3 才、
ワシ ー リー
9 才、
ン諸
君 、 12 妄 !  ̄小 款
レ誉 ア請
妄 「 リ‡ メ誓 才 i 7 才 ご り; ン浩
言
r イ
㌻
13
ト リ ̄
1 5 04 年
幼少の子らと住むように指示しているのである。モスクワ大侯の場合にも幼少の子らについては
° ° ° ° ° ° ° °
同様であったろうし、とくに長男が幼少であるときは、それ以外のことが考えられない。
そこで、後見人としての侯妃の地位と実力が問われることになるが、一般人の寡婦と異なり、
侯妃はまさに巨大領主の列に属し、自らのやしき経済は勿論、自らの行政機構さえもっていたの
である。このことは上のフプラシャの遺言状や既掲ソフィヤ(ワシーリー1世侯妃)の遺言状に
よっても示されるが、諸侯の遺言状にも明らかである。大侯も分領侯も侯妃に少なからざる所領
を与えているが、加えてその裁判権を確立させている。「余の侯妃が裁く」「余の侯妃が郷司を
裁く」「余の侯妃または〔かの女の〕委任を受ける者が郷司、チウン、村管理人を裁く」などと
いわれているのがそれであり、ときには幼少の男子相続者に将来を戒めて侯妃に仕える貴族らを
尊重せよと述べていることもある。
モスクワ大侯がその遺言状においてホロープを侯妃に与えたということを特記しているのは、
ワシーリ11世の三つの遺言状以外には確認できない。しかし、上の分領侯ウラジーミルの遺言
状が侯妃へのホロープ譲与について何ら記していないのに、その寡婦エプラクシャは自分の遺言
あるじ
状のなかで「わたくしの主なる侯がわたくLに与えた」ホロープをも含めて解放していることか
らすれば、そのことを直接にいっていない大侯の遺言状を、侯妃にホロープを与えなかったとの
み断定はできない。とくに、幼少の相続者の後見人たるべき侯妃について、侯がそのことを無視
して自分のホロープを全員解放したとは恩われない。また、かなりの数が解放されたにしても、
それは男子相続者の存在を忘れ去ってのことではなく、侯妃に後事を託してのことである。その
侯妃が大きく木ロープ労役に依存していたことを想起すれば、幼少の男子相続者をのこきざるを
得ない事情でのホロープ解放は、たとえ全員またはほぼ全員の解放であっても、時代の傾向とし
ての大量解放、ホロープ労役の著しい縮少を示すものとはいえないであろう。
次に、大侯遺言状のホロープ解放の指示を、管理職ホロープと一般下層ホロープとをつねに含
15−16世紀ロ シアにおけるホロープの解放と譲与
73
んでいたと解すぎかどうかの問題。セメソとイワン2世の遺言状は、両者を合わせ列挙している
のに対し、そのあとドミートリーの第1遺言状は一般ホロープのうち購入ホロープのみをあげ、
ワシーリー1世の第1遺言状も同様である。またドミートリーの第2遺言状、ワシーリー2世の
遺言状およびイワン3世の遺言状は、管理職ホロープのみを「すべて解放」の対象にしている。
ワシーリー1世の第2、第3の遺言状は別として、モスクワ大便がとくに管理職木ロープの解放
を念頭においていたことが認められる。管理職ホロープは、かのルースカヤ=プラーヴダ以来の
伝統とはいえ、実際上の地位は非自由人に価しないものになっていた。イワン3世の1497年法典
は都市のクリューチこクの職についてもホロープでないと定め、さらにイワン4世の1550年法典
では村のクリューチニクおよびチウンに就いても報告状なしにはホロープたらずとされているg8)
モスクワ大侯の遺言状の管理職ホロープ(クリューチニク、チウンのはかに出納官、書記、村管
理人など)の解放は、このような立法の前提をなしたと考えられよう。かれらの解放は後見人た
るべき侯妃の管理職ホロープを予めいっそう強化する措置によって捕われたのである。ワシーリ
ーl世の第2、第3の遺言状は、管理職ホロープをとくにあげていない。しかし、「侯妃に与え
たるホロープ」と明記し、かつその中から「娘らに5家族ずつを与えよ」と指示している点で、
他の大侯の遺言状と異なっている。ここにいう「娘ら」とは既に他家に嫁いでいる3人の娘のこ
とである。このことに注目すれば、幼少のかつ唯一入の男子相続者のためにワシーリー1世が侠
妃に与えたホロープは、量的にも質的にも侯妃の経済と行政を強化するに足りるものであったと
思われるのである。
要するに、歴代モスクワ大侯が男子相続者をもちながらホロープの全員もしくはほぼ全員を解
放しているではないか、という問いに対しては次のように答えたい。まず、その男子相続者は多
くの場合幼少であり、後見人としての侯妃によって「やしき」は解体されずに維持された。ま
た、全員解放といっても重点は管理職ホロープにおかれており、一般下層のホローブが全員解放
と遺言状に確認されるのは、イワン2世の場合だけである。
む す び
以上、15世紀前後のロシアではホロープが大量に解放され、ホロープ労役が著しく縮少された
とする「大量解放説」を、史料に即して批判するように力めてきた。なお、意をつくせないとこ
ろもあるが、紙数の制約もあり、読者諸賢のど賢察に持ちたい。本稿の論点を要約してむすびと
したい。
(1)16世紀末のホロープとその証文の登録帳簿は、西北ロシアのノヴゴロド地方ウォトスカヤ
区について見ても、かなりの数のホロープが所有されていたことを示している。(2)15−16世紀
の遺言状は、一方で50−60家族と数10人を所有していたホロープ主、他方で2・3家を所有した
にすぎない者があったことを示す。(3)遺言状からホロープの解放・譲与の両者を知り得る場合を
とって比較してみると、ほとんどの場合は譲与されるホロープの方が多く、平均しては譲与2、
解放lの割合である。ホロープ労役が著しく縮少されたということにはならない。(4)たしかに
遺言状の圧倒的多数は多かれ少なかれホロープ解放を指示しており、その意味では15−16世紀に
ホロープ解放が普及したことを充分に認識すべきである。(5)また、全員解放もしくはこれに近
い処置を指示している場合がむしろ多い。しかし、そのほとんどは男子相続者がないため、「や
15−16世紀ロシアにおけるホロープの解放と譲与(石戸谷)
74
しき」の解体を意に介しなかったための全員解放である。この点に注目しないで、全員解放を指
示している遺言状の多いことだけを取上げて、大量解放、ホロープ労役の著しい縮少を強調する
のは、妥当でない。(6)男子相続者がありながらホロープ全員の解放を指示している遺言状のほ
とんどは歴代モスクワ大侯の遺言状である。その事情を検討していくと、相続者の幼少なこと、
後見人としての侯妃の役割の重さ、および侯妃がホロープに依存していたことが注目される。の
みならず、歴代モスクワ大侯の遺言状がつねにホロープ全員の解放を指示しているとはいえな
い。概していえば、管理職ホロープの解放に重点がおかれていたこ
註
*本稿では頁数制約のため、引用史料は原則として本文の中で示すにとどめ、またその略記(ソビェト
史学に通用のもの)の説明を省略する。
(1)ロシア・ソビェト史学の「15世紀ホロープ大量解放説」については、拙稿「ホロープ所有について
の法史的一考察」(奈良学芸大学、人文・社会科学 第10巻第1号)、とくにその「1.ホロープ問題の
展望」参照。
(2)拙稿「15・6世紀ロシアにおける非自由人(ホロープ)の労役」(史学雑誌、第70編第7号)。
(3)16世紀末のホロープ制変革および登録帳簿についてはこ拙稿「16世紀末のホロrプ法令と債務ホロ
ープ」(史林、第45巻第5号)、同「16世紀末のホロープ登録帳簿」(史学雑誌、第71編第6号)、「帳簿
に登録された15−16世紀ロシアの身売り状について」(奈良教育大学紀要、人文・社会紀要 第16巻第
1号)参照。
(4〕fO・r・AJIeZ(CeeB.KpecTh月IIHH H XOJ70IIB車eo』aJlbHO白BOTtlHHe XV B.nepeSlCJIaBCKOrO
ye3na.E〉KerO.男引接C rlO arpapHO員HCTOpHu BocTOtlHO蕗EBpOrIhl,1963r.,BI4JlbIiOC,1964,eTP・
145−150.
(5)A・A・3HMHH,OTrIyCIくXOJTOrTOB Ha BOノ江tO B CeBePO−BocTOtlHO崩PycH XIV−XV BB.Kpee・
Tb只HCTBO H KJ7aCCOBa5160Pb6a B d)eO且aJlbHO崩PoceHTl,C60pHHK CTaTe員rIaMflTH H・H・CMII・
PHOBa.AHCCCP.neHHHTpa孔1967.cTP.55−70.
(6)AHIOC.KH.2,rTOJ10BHHaI,1855,Ilpeノ叩CJIOBHe,CTp.23.
(7)PHB.T.XVII.1898.3armcHa月KHHra.BBe且eHHe,CTP.XXVIITXXVIII.
(8)B.r.I’e蕗MafT,HecztOJIbltO H〇BblX AaHHblX,ltaCaIOLuHXC月HCTOPHH”3aノIBOpHbIXJIHノIe員・”
C60pHHK CT.C.◎・IIJlaTOHOBy,1922.cTP.43−48.
(9)遺言状が土地についてのみ述べて、土地寄進状の代用をしている場合が多い(例えば、rBHn の
25通のうち13通)。ワシーリー3世の遺言状(1523年、月月「.沌100)も同様。ジーミンほ、ホロープ
に何ら言及しない場合には、譲与されたとさえ見ている、A.A.3HMHH,yKa3.COtI.CTP.61−62.
(10)’前掲拙稿「ホロープの労役」(史学雑誌70の7)、とくに1の(ロ)家内・手工労働。
(11)A.A.3HMHH,yICa3.COq.CTp.68.
(12)TaM〉Ke,CTp・68.
(13)TaM〉Ke,CTp.67.
(14)オスタフィの子フョードルの遺言状は、わずか1家族を解放し、その他は子らに半分ずつ分け与え
ている。ただし、数は不明(1435年、rBHn‥陥111)。
(15)A.A.31m脚,yKa3.COtL CTp.71.
(16)C.B.BaxpylⅡHrr,HayHble TPyAbl,T.II.1954.cTP.39−40.(ただし、1909年に発表された);
6.E.rpeKOB,KpecTb51He Ha PycH.K私I.cTp.26p27.
(17)A.A.3ImHH,yKa3.COq.CTp.64.
(18)前掲拙稿「ホロープ所有」(奈学大紀要、10の1.とくにその3.ホロープ所有権の諸基礎)、同「登
15−16世紀ロシアにおけるホロープの解放と譲与(石戸谷)
録帳簿」(史学雑誌、71の6)
(19)AC三)H.I.沌228,J喰251.
(20)A.B.3Iく3eMIIJl51PCKH員,BeJIHKHe H yEeJIbHhle KH兄3b51CeBepHO蕗 PycH B TaTaPCKI崩i
rIePHO几T.II.1891.cTP.336.
(21)大侯や分領侯の遺言状は、当初はともかく、17世紀からほ政府の文書を保管した「ポソーリスキー
=プリカーズ」にあった。月旦r.cTp.445−483.
(22)大侯・分領侯の遺言状の内容全般および作成の契機・年代については、Jl.B.qeperIHHH,Pyec−
KHe d)eO且aJIhHhIe apXl4BhIXIV−XV BeIくOB,q.I.Nl.1948,およびA.A.3HMHH,0ⅩpOHOJIOrHH
nyxoBII.H.AOrOBOPH.rPaMOT BeJ7HK.H y月eJlbZI.KH只3e員XIVpXV BB,≪npO6Jr.HcTOtlHHKOBe一
月eIIH兄》IV.1958.cTp.275−324.参照。本稿では、年代は月旦「.に従っている。
(23)Jl.6.tlepeflHHZi,06pa30BaHHe Pyccl(OrLOIleHTPaJIH30BaHHOrO rOCy属aPCTBa BXIV一XV
BelくaX,CTp.258−259.
(24)前掲拙稿「ホロープの労役」(史学雑誌 70の7)
(25)B.0.KJlIOtleBC頂摘,nO月yLllHa5IrI0月aTb H OTMeHa XOJIOTrCTBa B Poceli軋 erO《CotIHeHH51》
T.VII.cTp.370−372.
(26)諸侯およびその諸子の生年・没年については、A.B.3K3eMrIJIflPCKH員,yKa3.eOtJ.とくにその
付録のPoACJ王OBIla兄Ta6加qa参照。
(27)大侯・分領侯とモスクワ市との関係については、拙稿「14−15世紀モスクワ市への逃亡ホロープに
ついての協定条項」(奈良教育大学紀要、人文・社会科学第17巻第1号)参照。
(28)拙稿「イワン3世の1497年法典一本文試訳ならびに註解−」(奈良学芸大学紀要、第8巻第1
号)。 (1970年5月8日脱稿)
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