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バイオエシックスの道徳理論(1)-功利主義の立場とその発想-

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バイオエシックスの道徳理論(1)-功利主義の立場とその発想-
バイオエシックスの道徳理論(1)-功利主義の立場とその発想-
松井 富美男
1.はじめに
「功利主義」という言葉からすぐに「最大多数の最大幸福」という標語を連想するぐら
いに、両者は切っても切れない関係にある。しかし英米を中心とした現代功利主義の立場
からすれば、このような見方も一面的な解釈だとされる。例えばシジウィックはベンサム
とミルの功利主義を「心理的快楽主義」(Psychological Hedonism)の典型と見ているし、ま
た H.ラシュドール、G.E.ムーアらは「最大多数の最大幸福」という標語すら退けて、代わ
りに「最大多数の最大善」を功利主義の原理として採用している。1さらに具体的な場面で
どの行為がなされるべきかといった行為の価値選択においては、状況倫理の方向で臨機応
変に行為の選択を変えるべきだとする「行為功利主義」(Act Utilitarianism)と、逆にいか
なる状況であろうと、常に一定の規則に従って行為すべきだとする「規則功利主義」(Rule
Utilitarianism)とが挙げられる。このように功利主義はミル以降も適当な修正が加えられ
少しずつ発展してきた。そうすることは現代の諸問題に応えうるための必要な歩みであっ
た。そこでこれらの現代功利主義と便宜的に区別するために、ベンサムとミルの功利主義
を一括して古典的功利主義2と呼ぶこともある。では源流に遡って彼らの考え方から検討し
よう。
2.功利の意味とその原理
まず功利の意味から見よう。この言葉の原語は'Utility'であるが、同じ原語が経済学で「効
用」と訳される所為であろうか。
「功利」という訳語は、
「最大多数の最大幸福」と同じに
見られる「功利主義」という訳語ほど一般に流布していない。それにこの漢語が「手柄」
と「儲け」という意味からなるために、この意味に惑わされて功利主義の基本的なところ
が誤解されないとも限らない。そこで始めに、この思想の要となる'Utility'の意味を確認し
たい。功利主義の提唱者ベンサムは『道徳及び立法の諸原理序説』3の第 1 章で次のように
述べている。
「功利とはある対象の性質であるが、その性質によって対象は当該関係者に利
1
Cf. Phlip P Wiener, ed. Dictionary of the History of Ideas (NewYork: Charles
Scribner's Sons, 1973). 『西洋思想大事典2』(平凡社 1990) 186 頁参照。
2 Cf. John Rawls, A Theory of Justice
(Cambridge, Mass: Harvard Univ. Press, 1971),
pp.22-27.
3 Jeremy Bentham, An Introduction to The Principle of Morals and Legislation (New
York: Hafner Publishing Co. 1948). 以後、本書からの引用・参照箇所に関しては、ML と
略記して本文中に明記する。
益、便宜、快、善、幸福(差し当たりこれらはすべて同じものであるが)を産み出す傾向
を持つか、それとも損害、苦、悪、不幸(これらもすべて同じものであるが)を防止する
傾向を持つ」(ML.2)。ここから理解されるのは、功利は利益、便宜、快、善、幸福のどれ
とも同義ではないから、これらの言葉に直ちに還元されえないということである。この一
文からでも、功利が慣用としてではなく用語として意識的に使われているのが読み取れる。
功利とは人間に総じてプラス傾向を産み出す対象の内在的性質である。この定義からする
と、
「功利」という訳語よりも「効用」という訳語の方がよく原義を伝えていると思われる。
というのも後者の場合には、「使い途」や「効き目」といったその漢語の意味から、対象に
具わるある種の力や能力が暗示されるからである。実はこの点が非常に重要である。今日
の経済学では、'Utility'は「人間の欲望を充たしうる財の能力」4というように定義されるが、
この定義に当て嵌めてみても、
「効用」という訳語なら肝心な点は押さえられている。この
ような訳語の問題はともかくとして、ベンサムの功利概念は取り敢えず次のように解釈さ
れうる。その内在的性質のゆえに「財」となる、ある対象が獲得されることによって利益、
便宜、快、善、幸福などがもたらされるから、功利はこうした欲望を産み出す対象の有用
価値である。したがってそれは人間の快や幸福と直接には結び付かない。
これに対してミルの功利概念はどうであろうか。結論から先走って言えば、彼はベンサ
ムのような曖昧な定義を避けて、直截に功利=幸福=快=苦の不在という公式を立てる。そこ
でこの点を裏付けるために『功利主義論』5から彼の言葉を少し拾ってみよう。
「功利説を主
張したエピクロスからベンサムに至るすべての著者は、功利という言葉によつで快とは別
のものではなく快そのものを意味した」(UT.209)。「幸福とは快及び苦の不在であり、不幸
とは苦及び快の欠乏である」(UT.210)。「幸福は目的として望ましい唯一のものである」
(UT.234)。引用はこの程度にするが、先ほどの公式はここから直ちに導出されうる。そう
すると問題になるのは、ベンサムとミルの功利概念の差異である。前者の場合には、功利
は対象の性質ないし有用価値であり、それが原因となって結果的に快や幸福が人間にもた
らされた。後者の場合には、功利は飽くまでも人間の内に産み出される幸福や快であり、
対象はそれを得るための手段である。つまり両者においては、功利の存する場所が一方は
対象、他方は人間といった具合に異なるのである。とはいえ功利主義は行為の過程よりも
結果を重視するから、幸福や快が実際に獲得されることが重要である。この点では両者は
同じであるが、それでも対象の選択肢は異なる。ベンサムの場合には、その享受者が誰で
あろうと、その性質のゆえに対象は一律に選択されるのに対して、ミルの場合には、快や
幸福が確実に得られることを前提にして、その享受者ごとに対象が選択される。この場合
理解しやすいのはミルの方だが、逆にその直截的なところが禍してムーアの痛烈な批判を
千種義人『新版経済学入門』(同文舘 1962) 59 頁参照。
John Stuart Mill, Utilitarianism. In J. M. Robinson ed. Essays on Ethics, Religion and
Society (London: Routledge and Kegan Paul, 1969). 以後、本書からの引用・参照箇所に
ついては、ML と略記して本文中に明記する。
4
5
浴びることにもなる。その中身についてはいずれ問題にするが、'Utility'の訳語が経済学と
倫理学とで異なるのは、この点が少なからず影響しているからであろう。このようにベン
サムの功利概念を継承者のミルが歪曲して簡素化したことは、ある意味で不幸なことであ
った。しかし別様の見方をすれば、功利主義の原理がそれだけ馴染みやすくなったのは確
かだ。彼が功利の意味をよく検討せずに功利=快としたのは問題が残るが、この点は評価
できよう。それにまたベンサム自身が功利の概念とその原理とを区別せずに両者を混同し
ている箇所も見いだされる(Cf.ML.3)。ということはベンサムにも落度があるから、こうし
た点も考慮すれば、彼らの差異をこれ以上問題にする必要もあるまい。
さて次に功利の原理を見よう。これもやはりベンサムの言葉である。
「功利の原理は、そ
の当該関係者の幸福を増大ないし減少させるように思われるその傾向に従って、どんな行
為もすべて是認または否認する原理を意味している」(ML.2)。やはりここでも晦渋な表現
のために、全体の意味が見通しにくくなっている。がその反面、一つ一つの言葉が丁寧に
取り扱われることで、ベンサムの苦労の跡が逆に窺われる。見通しにくさの原因は「思わ
れるその傾向に従って」という、余り聴き馴れぬ言葉遣いにある。それだけにこの言葉遣
いに注意する必要があるわけだが、この箇所は概ね次のように理解すればよい。功利主義
においては行為の結果が重視されるから、この結果を予見・予測しつつ、事態が関係者全
員の幸福を増大させる方向にか、あるいは彼らの不幸を減少させる方向に進むと思われる
場合にはその行為は是認され、そうでない場合には否認される。こうした基本線を押さえ
ておけば、「思われる」や「傾向に従って」といった言葉の意味も理解されうる。ところで
是認と否認という原理の内包的性格については、F.ブレンターノの心的現象における志向的
関係の一つである「判断作用」が想起される。6表象されたものに対する第二の志向的関係
は、それを承認(是認)するか否認するかである。ベンサムはブレンターノのように客観的原
理の正当性の根拠を主観の作用の内にまで推し進めていないが、
〈客観性中心〉対〈主観性
中心〉といった両主張の奥には案外共通の根があるのかもしれない。重要なことは、正邪
の観念に先立って是認と否認の判定(作用)が存するという点であろう。功利の原理に照らし
て是認される行為はすべき正しい行為であるが、否認される行為はすべきでない不正な行
為である(Cf.ML.4)。すなわち功利の原理が正義の観念に先行するのである。これは自然法
から正義を導出するブラックストーンらの自然法論とも、また正義を直覚的に把握するシ
ャフツベリやハチソンらの道徳的感覚論とも異なり、新たな原理の導入を意味する。
続いてミルの規定も見よう。彼は功利の原理について次のように述べている。「功利ない
し最大幸福の原理は、諸行為が幸福を促進する程度に比例して正しく、また幸福の逆を産
み出す程度に比例して不正であるということを意味している」(UT.210)。表現は多少異な
6
ブレンターノによると、心的現象は志向的関係の差異によって「表象作用」
「判断作用」
「情意活動」に三区分され、表象作用が第一の志向的関係であるのに対して、判断作用は
この表象されたものを承認ないし否認する第二の志向的関係であるとされる。Cf. F.
Brentano,Vom Ursprung sittlicher Erkenntnis (Hamburg: Felix Meiner, 1955),
pp,17-18.
るが、これは前述のベンサムの焼き直しである。彼もベンサムと同様に、幸福や快を促進
する行為は正しいと考える。原理の内容に関しては、どうやら両者にずれはなさそうだ。
したがってどちらの規定でもよいが、われわれはこれをもって古典的功利主義の原理と見
なしうる。
しかしここにも問題がないわけではない。それは功利の原理を巡る妥当性の問題である。
ベンサムもミルも功利の原理は「第一原理」であるから、直接証明は不可能であるし不要
であると言う(Cf.ML.4/UT.205)。確かにいかなる科学といえども無前提ではありえず、そ
の中に必ず何らかの前提が潜む。そして道徳科学も例外ではないから、「道徳の根本原理」
(UT.207)すなわち「究極の基準」(UT.207)を持たねばならない。ここまでは一応理解され
うる。問題になるのは、このような原理の内に実質が含まれる点である。この点はカント
と対照的である。彼の場合は、まず道徳の最高原理は自然法則と同様に厳密な普遍性と必
然性を充たすアプリオリな総合的命題になると仮定される。そのうえで完全性の原理であ
れ、幸福の原理であれ、これら一切の実質的原理はこの要件を充たしえないとして排除さ
れ、最終的に「行為の合法則性」という形式のみが取り出された。7これに対して、功利主
義は幸福(快)の追求という実質を道徳の原理の内に積極的に取り込んでいる。それゆえここ
で考慮すべきことは、
「諸行為はXを促進する程度に比例して正しく、またXの逆を産み出
す程度に比例して不正である」といった正・不正の判定基準ではなくて、'X'がまさに行為
の目的にされる点である。言うまでもなく、'X'は目的として望ましいものでなければなら
ない。というのも目的として望ましくないものを目的にするのは、不合理だからである。
ではこのような目的はどのような性質を有するのであろうか。それはもはや他の目的のた
めの手段としての善(外在的善)ではなくて、それ自体において善なるもの(内在的善)すなわ
ち「究極的目的」(UT.207)である。
ここから明らかのように、功利主義はそれ自体では証明されえない「道徳外」(nonmoral)
の価値を始めに究極目的として仮定し、そのうえでこの仮定された目的に対する手段の妥
当性を論じる目的論的理論である。8こうした理論を歴史的に導入したのはもちろんアリス
トテレスであるが、彼においては究極目的は「即自的善」や「最高善」と等位関係にあり、
これらの概念と共に「幸福」(eudaemonia)に還元される。もっともその場合に、幸福は快
そのものであるとする古典的功利主義の主張と、幸福は「究極的な卓越性に即して活動す
ること」9であり、快はこの目的が達成されたときに得られる満足感であるとするアリスト
テレスの主張とは、内容的に区別されねばならない。ともあれミルはアリストテレスの概
念をここに援用して究極目的=快とし、その証明として通常の厳密な意味とは異なる広い
意味での証明を試みる。それは理性に訴える説得力の問題つまり根拠付けの問題であるが、
拙論『普遍性の形式主義的原理の限界と発展方向』(広島哲学会編『哲学』第 31 集 1979)
155-167 頁参照。
8 Cf. William K. Frankena, Ethics, 2nd ed. (Englewood Cliffs, N. J.: Prentice-Hall, 1973),
pp.16-18.
9 アリストテレス『ニコマコス倫理学(上)』(高田三郎訳) 岩波文庫
1973 46 頁参照。
7
ミルはそうした「合理的根拠」(UT.208)として、快を求めて苦を避けるといった人間本性
の心理的事実を挙げる。詳細はムーアの批判に譲るが、この手続きはのちに悪しき自然主
義の典型と見なされる。
3.快の価値
前述のミルの原理に「程度に比例して」という表現が見いだされる。この意味はわれわ
れの行為の正・不正が獲得された快・苦の総量に比例して評価されるということである。
これを具体的に説明すると、快・苦の総量を算定する尺度と正・不正の程度を決定する尺
度とが函数関係にあり、前者が二倍の快の量を表示するとき後者も二倍の正を表示し、前
者が三倍の苦の量を表示するとき後者も三倍の不正を表示するといった比例をなすと考え
られる。これは質的判断を量的判断によって基礎付けようとする試みにほかならない。こ
のような試みは善と悪、正と不正という通常の二値的な道徳的判断に変更を迫るものであ
る。善、悪といっても、どの程度の善でどの程度の悪であろうか。また正、不正といって
も、どの程度の正でどの程度の不正であろうか。場合によっては、人は数々の善行の中か
らより善い行為を、数々の悪行の中からより悪くない行為を選択するように強いられもし
よう。このような場合に、従来の倫理学は諸行為をランク付けることはできないから、こ
のようなランク付けを可能にして道徳科学を成立させるところに、快計算が導入された意
図がある。それゆえ諸行為は共感と反感という「気まぐれ」(ML.13)な主観感情によるので
はなく、理性の客観的基準に照らして「利害関係のない好意的な傍観者」(UT.218)の立場
から中立的に判定される必要がある。
このような意図が誤解される所為であろう。快計算の発想は功利主義の評価を却って悪
くしている。事実、功利主義に対して「豚の幸福」や「豚の人生」といったミルの言葉を
捩った批評もないわけではない。10しかし「最大多数の最大幸福」という標語が功利主義の
原理として受容されるかぎり、
「最大」の意味を検討するためにも快計算は必要である。こ
こで「最大」とは全体の総量が最も大きい状態を言う。功利主義はその根底に利己主義的
な考え方を含むが、この考え方にとどまるものではない。11もし最大量の個人利益のみが追
求されるならば、それは利己主義と何ら変わりないし、逆にもし最大量の社会利益のみが
追求されるならば、それは利己主義の犠牲の上に成り立つ体の良い利他主義にほかならな
い。12それゆえ功利主義はこのような両極端を避けて個人利益と社会利益との調和を図るが、
10
Cf. John Hospers, Human Conduct: Problems of Ethics, 2nd ed. (NewYork: Harcourt
Brace Jovanovich, 1982), pp.48-49.
11
B.ラッセルは、誰もが自分自身の快のみを追求するならば、なぜ人類一般の快が追求さ
れうるのか、と疑問視している。Cf. Bertrand Russell, A History of Western Philosophy
(New York: Touchstone, 1972), pp.777-78.
12
ミルは利他主義が推奨される社会を「非常に不完全な状態」と見なして、利他主義は「人
この調和そのものが可能なためには、社会が実体的存在としてではなく「擬制体」(ML.3)
として把握されねばならない。現実に存在しているのはモナドとしての個々人であり、国
家に代表されるような社会ではないのである。ここから社会利益とは個人個人の利益の総
計を意味し、
「最大多数の最大幸福」とは「すべての人を一人と数えて、誰も一人以上に数
えない」(UT.257)という前提の下に、その個々の利益の総計が最大になることを意味する。
では、この計算自体はどのようにして行われるのだろうか。その方法についてベンサムも
詳細に論じているわけではないので、解釈も織り交ぜて考えると、計算は大体以下の要領
で行われる。まず個々の快・苦の価値を算定する物差しとして、
「強さ」(intensity)、
「 持
続性」(duration)、
「確実性/不確実性」(certainty/uncertainty)」
「遠近性」 (proprinquity or
remoteness)、
「多産性」 (fecundity)、
「純粋性」(purity)、
「範囲」(extent)という七つの価
値尺度が設定され、各尺度に従って快・苦の量が計算される(Cf.ML.30)。次に各尺度ごと
の快・苦の量がすべてプラスマイナイスされて合計される。その場合にこれは一人分の算
定にすぎないので、同様の手続きは関係者全員に亙って行われる。こうして最終的に関係
者全員の快・苦の総量が算定されるとき、快計算は理論的には終了する。13そしてこの総計
の結果、もし快の量が苦の量を上回れば行為は善い傾向にあり、逆に苦の量が快の量を上
回れば悪の傾向にある(Cf.ML.31)。したがって仮に持続性以外の尺度ではすべて等しいA、
Bという二つの快があるとして、Aの快は二日間、Bの快は一週間持続する場合、われわ
れの目指すべき快がBになるのは当然である。これは事態を非常に単純化して見た場合で
あるが、快・苦の価値は個々のこうした諸手続きから割り出される。
しかしこのような快計算は現実には不可能である。というのも快の強さや長さの程度は
人間タイプによっても、人のその時々の生理的・心理的状態によっても異なり、そう簡単
に割り出せないからである。14それに七つの価値尺度がすべて同列、同単位に扱われるとこ
ろにも問題があろう。15快の中には、強さでは他に劣るが持続性では他に優る快もあれば、
逆に持続性では他に劣るが強さでは他に優る快もあろう。さらに強さ、持続性では他に引
けを取るが確実性、遠近性では他を圧倒する快もあろう。同一の価値尺度で複数の快を比
較する場合と同様に、この場合もそう一概には答えられない。結局、この問題は快の質差
の問題へと発展せざるをえない。ミルはこうした点を修正すべく「満足せる豚より不満足
な人間の方が善く、満足せる愚者よりも不満足なソクラテスの方が善い」(UT.212)と語り
類がなすべき模範」ではないと言う。Cf. J. S. Mill, op. cit. p.217.
13
このような快計算について、ベンサムも「厳密に遂行されると期待されえない」と断っ
ている。Cf. J. Bentham, op. cit. p.31.
14
ミルが快そのものの質差を問題にしたのに対して、ベンサムは人間の側の「感受性
sensibnity」の量の差を問題にしている。Cf. J. Bentham, op. cit. pp.43-44.
15 C. D. ブロードは「持続性」
「強さ」
「遠近性」などを快の諸要因としてではなくて、快
と同列の独立した諸価値として扱っている。Cf. C. D. Broad,“Remarkson Psychological
Hedonism." In Wilfrid Senars and John Hospers, eds. Readings in Ethical Theory
(Englewood Cliffs, N. J.: Prentice-Hall, 1970), p.686.
ベンサムの快計算を揶揄する。肉体的快よりも精神的快を高級と見るこうした思想は、洋
の東西を問わずどこにでも見られる考え方である。われわれ人間は他の動物と異なり「尊
厳の感覚」(UT.212)を有すると言われるが、精神的快はこの感覚とほぼ比例関係にあり、
これを通じて発見され獲得される。ミルもやはり精神的快の獲得こそが幸福であるとする
エピクロス流の逆説を支持する。16
もっとも、こうした考え方を積極的に推し進めていけば、必然的に功利主義の自壊にも
繋がろう。ミルの思想内容はベンサムの思想内容を補完するどころか、むしろそれを破壊
しかねない。ベンサムは道徳の質的判断を快の量的判断に還元しようとしたが、ミルは快
の質的判断をもこれに加えようとする。それはベンサムの方法論を結果的に無効にするこ
とだ。恐らくミル自身はこうした事態の深刻さに気付いていなかったのであろうが、快の
中に質差を取り入れて精神性の優位を強調することは「最大多数の最大幸福」の意味を却
って分かりにくくしてしまう。例えば質の面から二つの快が比較されるとき、それらの価
値の高低はどのように決定されるのだろうか。ここでは少なくとも快計算は意味をなさな
いであろう。これに対し彼は次のように答えている。「もし両方の快の経験がある人の全部
か、大半かが道徳的義務感とは無関係に圧倒的に一方の快を好むなら、それはより望まし
い快である。もし両方の快に通暁する人が好きな方の快よりも、相当不満を伴うと知りつ
つも、もう一方の快を遥かに高く評価し、好きな方の快をいくら与えられてももう一方の
快を捨てたがらないなら、われわれはその選ばれた享楽が質的に優っていると言ってよい」
(UT.211)と。ベンサムにとっては誰が判断しようとも倫理的判断が同じになることが重要で
あり、そのために客観的基準が必要とされたが、ミルはこのような基準を持ち込むことな
く、倫理的判断の根拠を快経験者の経験の内に求めている。これは一種の循環論証である。
なぜならここでの問題は質的に価値の高い快、高級な快の認識方法に関してであったが、
ミルはこの快に通暁する経験者の判断に従うように指示するだけで、その経験者自身がど
のようにして快の質差を意識するようになったのか、そしてそれがどうして客観性を持つ
のか、といった肝心な点をはぐらかしているからである。もっともこの文脈からであれば、
「経験から肌で感じる」といった返事が予想される。しかしそうなると、さらに厄介な問
題が生じてくる。同じような経験をしても感じ方は人によって異なるもので、低級な快に
空しさを覚えて高級な快に新たに目覚める人もいれば、その低級さに気付かずにこれこそ
快の真髄だと思い込む人もいよう。経験の感じ方というのは実に千差万別である。したが
って高級な快が感じられるかどうかは感じる側の能力の問題でもあり、高級な快に対する
「高級な能力」(UT.212)を本人が所持するかどうかが新たに問われる。これは道徳的感覚
を拒否しで快計算を導入したベンサムの考え方とも矛盾し、功利の原理の代わりに道徳的
16
エピクロスは精神的に安定した快の獲得を理想としたために、むしろ通俗的な快から遠
ざかって「隠れて生きよ」をモットーとした。
『エピクロスー教説と手紙一』
(出隆・岩崎
允胤訳 岩波文庫 1974)69-74 頁参照。
感覚を第一原理に据えることである。要するに、それは直覚主義17を全面的に容認すること
にほかならない。
このように、ミルはベンサムと比べると精神性、内面性を一層重視し直覚主義的な傾向
を色濃く打ち出している。このような傾向は制裁の見方にも現れている。制裁とは功利の
原理を遵守させる拘束であり、一種の足伽である。ベンサムはこれをさらに物理的制裁・
政治的制裁・道徳的制裁・宗教的制裁の四つに分けて、この中でとりわけ政治的制裁を重
要な柱に据える(Cf.ML.24-28)。これに対してミルは外的制裁と内的制裁の二つにしか区分
していないが、ベンサムの外的制裁重視の方向に反発して、後者の「良心」の呵責をより
重視する(Cf.UT.227-33)。ここでも二人の差異を見て取ることができよう。18
4.功利主義批判とその検討
今日の倫理学研究は二方向に大別される。すなわち、それは「どのような行為が正しい
のか」とか「どのような行為の原理が善いのか」とか「われわれはどのような行為をすべ
きか」とかいった行為に関する研究と、このような研究の中で暗黙の裡に了解されている
「正しい」
「善い」
「すべき」などの言葉の意味を検討する道徳言語に関する研究である。
これらは一般に規範的倫理学とメタ倫理学と称されるが、以下で取り上げるムーアの批判
は後者の立場からなされる。前述のように、ミルは功利=幸福=快=苦の不在という公式
を立てて快楽主義を擁護しているが、この快は同時に「諸行為はXを促進する程度に比例
して正しく、またXの逆を産み出す程度に比例して不正である」という功利の原理の中の'
X'すなわち究極目的として位置付けられる。その際に、この目的はアリストテレスの「即
自的善」に匹敵する証明不可能な、目的として望ましい対象であった。では快が目的とし
て望ましい対象であるということ自体はどのように正当化されるのであろうか。実はこの
点がムーア批判の最大のポイントである。以下においてその批判内容を見よう。
最初に批判の手懸りとしてミルの言葉が取り沙汰される(Cf.PE.66)。「ある対象が見える
(visible)ということに対して与えられる唯一の証明は人々が実際にそれを見る(see)という
ことである。ある音が聞こえる(audible)ということの唯一の証明は人々がそれを聞く(hear)
ということである。……同様に何かが望ましい(desirable)ということを証明しうる唯一の証
拠は人々が実際にそれを望んでいる(desire)ということだ、と私は思う」(UT.234)。ここで
問題になるのは'desirable'という言葉の意味である。ムーアによれば、'visible'や'audible'
G. E.ムーアによると、
「直覚主義」(Intuitionism)には二通りの立場があるとされる。す
なわち、人間は善をアプリオリに認知しうると考える立場とこのような能力は不問に付し
て、善は定義されずに直覚されると考える立場である。この区別に従うならば、この箇所
は前者の意味である。Cf. George Edward Moore, Principia Ethica (Cambridge:
Cambridge Univ. Press, 1971), preface x. 以後、本書からの引用・参照箇所については PE
と略記して本文中に明記する。
18 両者の差異を簡潔に表現すれば,ベンサムの「他律的」に対してミルは「自律的」である
と言えよう。
17
といった形容詞はそれぞれ'able to be seen'や'able to be heard'に置換可能なのに対して、
'desirable'という形容詞は「望まれるべき」という意味を有し'able to be desired'に置換不
可能とされる(Cf.PE.67)。それは「望ましい」という言葉が暗に善概念を含み「それを望む
ことが善いもの」という意味だからである。そうすると、「望んでいる」と「望ましい」と
では意味が異なってくる筈である。ところがミルはそうは考えずに、
「望ましい」から「望
まれうる」へ、さらに「望まれうる」から「望んでいる」へと二重に還元して、望ましい
対象と人々が実際に望んでいる対象とを同定している。これはムーアの指摘する「自然主
義的誤謬」(PE.10)、すなわち「善」という言葉の意味や定義の代わりに「善なるもの」の
事実的・自然的性質を問題にすることであり、価値問題を事実問題に転化することにほか
ならない。19
次に問題になるのは、ミルが望ましい目的として快のみを挙げている点である。言うま
でもないことであるが、ムーアがこの点を執拗に取り上げるのは、快以外に美、愛、知識、
徳などもここに算入すべきだ、という反論がその根底に存するからである。そのために彼
は始めにミルの主張を「快はあらゆる欲望の対象であり、あらゆる人間の活動の普遍的な
目的である」(PE.68)と簡約してこれを議論の仮定に据え、そのうえで快と欲望との間に「あ
る種の必然的、普遍的関係」(PE.68)が成立するかどうかを検討する。もしこの関係が成立
するならば、ミルの主張は揺るぎないものとなり、心理的快楽主義は正当化されるであろ
う。他面、「必然的、普遍的関係」ではなく部分的関係しか成立しないならば、逆にミルの
主張が修正されねばならない。ムーアの議論の要はこの辺りにある。そこで彼はこうした
方向を念頭に置いて、快は欲望の原因であるがその対象ではないという自説を立てる
(Cf.PE.69)。ワインの例で説明すると、ミルの場合にはワインを飲むときに起こる非現実的
な快の観念が欲望の対象であるのに反して、ムーアの場合にはこうした欲望を引き起こす
原因として、過去の記憶によるワインの現実的な快がまず必要とされる(Cf.PE.70)。両者の
差異は非常に微妙なので、ムーアはこの点をより明確にするためにブラッドリーの概念を
ここに援用している。それによると、前者は「快についての思考」(the thought of a pleasure)
で後者は「快い思考」(a pleasant thought)であるとされる(Cf.PE.70)。もっとも後者の場
合は、快といっても欲望の原因としてのそれと、欲望の満足結果としてのそれとは区別さ
れねばならない。20両方が予想通りに一致する場合もあれば、一致しない場合もあろう。い
ずれにしてもこのような区別によって、ムーアは「快はあらゆる欲望の対象である」とす
るミルの仮説を覆し、代わりに「ある快は欲望の原因である」と主張する。このことはす
19
事実と価値の記述の区別を最初に指摘したのは、ヒュームであると言われている。Cf.
David Hume, A Treatise of Human Nature, vol.2 (London: Everyman's Library, 1972),
pp. 177-78.
20 ブロードの議論もこれと重なる。彼は欲望の原因としての快と欲望の満足結果としての
快とを区別して、前者を「一次的欲望」(primary desire)、後者を「二次的欲望」(secondary
desire)と命名している。Cf. C. D. Broad, op. cit. pp.687-88.
べての欲望が快に裏打ちされるのではなくて、それとは無関係に成立する欲望も存するこ
とを意味している。
さらにまた、ムーアの批判は「幸福は人間行為の唯一の目的である」(UT.237)というミ
ルの主張にも向けられる。ミルはこの主張の一方で、徳や金銭も同じように即自的に善き
もので、それ自身のために望まれると主張する(Cf.UT.235-36)。そのために幸福や快などの
唯一の望ましい目的と徳や金銭などの望ましい目的との差異が問題になる。ここで「唯一
の」という付加語が無意味な言葉でないとしたら、後者が前者と同じ意味で「望ましい目
的」とされるのは矛盾である。そこでミルはこの矛盾を避けるために後者は「幸福の部分」
(UT.235)として望ましいと言う。もしそうであれば幸福=快という別の規定から、徳や金
銭は「快の部分」(PE.71)であるという結論が必然的に得られよう。だが、その当然の帰結
だとはいえ、金銭が感情の部分であるというのは余りにも馬鹿げている。結局、これは「望
ましいものという意味での目的」と「望まれるものという意味での目的」とが区別されず
に、目的と手段の関係が取り違えられたことに起因する(Cf.PE.72)。ここでもやはり言葉の
問題が中心になる。
ムーア批判のポイントは以上の三点であるが、ここで注意すべきことはこのような批判
によって快楽主義的な主張が直ちに無効にされるわけではないということである。ミルは
「快のみが目的として善である」という根本命題を根拠付けるのに人間の心理的事実を挙
げるが、前述したようにこれ自体は厳密な証明ではない。この批判からはそうした根拠付
けの無意味さが指摘されうるだけである。そこで以下においてはこの点を中心に考えてみ
よう。
これまでの説明で明らかなように、ベンサムやミルは善と快とを同定して快楽主義的功
利主義(一元論)を提唱したが、ムーアやブロードらは快のほかに道徳的特性、知識、美、
愛などをも善のリストに加えて理想主義的功利主義(多元論)を提唱した。21このように善
の内容規定に限って言えば、快楽主義と理想主義との差異は非常に明瞭で、両者は相容れ
ないかのように見える。がそうした反面、両者に共通の特徴として、「善=def.X」という
具合に善の定義項が提出されている点も見落とされてはならない。もっともこの点はどの
規範倫理にも共通する特徴なので蛇足でもあるのだが、このこと自体は重要な意味を有す
る。というのもムーアによれば、善は黄色と同様に単純観念で分析不可能であるから、も
し善が定義されるとしたら、「指示的定義」(ostensive definition)22 だけが可能で、これ以
外はすべて「自然主義的誤謬」とされるからである(Cf.PE.7-9)。したがって倫理学に残さ
れた方向は、シジウィックのように善を直覚的に把握する方向とエイヤーのように善の定
義を不可能と見てすべての規範的倫理学を拒否する方向の二つである。23功利主義の場合、
Cf. J. Hospers, op. cit. pp.52-68.
近藤洋逸・好並英司『論理学概論』(岩波書店 1984) 16-21 頁参照。尚、この言葉自体は
ムーアからの引用ではなくて筆者の挿入である。
21
22
23
Cf. Alfred J. Ayer, Language, Truth and Logic (New York: Pelican Books, 1971),
その規範的性格から言って前者が選択されるが、そうなれば快楽主義と理想主義とを対立
させることにどれだけの意味があるだろうか。この場合には対象の価値は直覚的に把握さ
れるのでその検証の仕様がないから、快楽主義と理想主義は共に有効な仮説と見なされう
る。すなわち論理的には、ムーアの批判は快楽主義の心理学的基礎付け(心理的快楽主義)
にのみ向けられるので、「快のみが善である」という仮説自体はこれによって反証されるわ
けではない。この仮説の根拠については、例えば快の「内在的価値」が直覚されるといっ
た異説も可能であろう。いずれにしても功利主義は目的論的理論の出発点に「内在的善」
を仮定するが、この善内容が快であろうとなかろうと、それによって功利主義の意義が損
なわれるわけではない。功利主義の意義は正邪の判定基準が設定されたところに存する。
善の探求はむろん倫理学に欠かせない仕事であるが、功利主義はその善をまず「第一原理」
として仮定するので、これに対してはミルが行ったような証明や根拠付けは不要である。
とはいえ善の対象は既にアプリオリに決定されているわけでも、また経験から闇雲に抽出
されるわけでもないから、その対象を仮定するのにおのずから最大公約数的な常識が必要
になる。ミルは何が常識かは人間の心理的事実から容易に導出できると確信していたよう
であるが、そもそも彼に過ちがあるとすれば、ムーアが指摘したようにその方法上のミス
が挙げられる。それゆえ快楽主義的功利主義の大枠をはずさない程度にその先鋭さだけを
取り除くとすれば、快と幸福とを同定する代わりに、「満足感」を意味する新たな幸福概念
をここに導入する必要がある。そうすれば抹消的な問題に捉われて功利主義の意義を見誤
ることもないであろう。
5.現代功利主義とバイオエシックス
規範的倫理学においては、行為の原理の確立とその理論的基礎付けとが重要な課題にな
る。それと共に忘れられてならないのは、原理の有効性を確認するという作業であろう。
特殊な状況下で具体的な行為が問題にされるとき、原理から導出された行為が事態に旨く
即応するかどうかの検討が必要である。このような作業は古来より「決疑論」
(casuistry)
と称され応用倫理学に収められてきた。アリストテレス倫理学はこの決疑論を積極的に取
り入れたことでも有名である。英米系哲学も一般に反形而上学的な性格を有し決疑論を重
視する傾向にある。こうした傾向はバイオエシックスにおいても見られる。バイオエシッ
クスとは 1970 年代にアメリカを中心にして起こった、生命科学や生命医療に関する倫理の
体系的研究を言う。今日、その研究対象は遺伝子操作、リビングウィル、脳死と臓器移植、
体外受精などの生命医学に関する諸問題のほかに環境問題や人口問題にまで及んでいる。
この背景には現代科学技術の飛躍的な発展があるが、それと同時にこれらの諸問題に具体
的に対応できない伝統的倫理学の不毛性も指摘されている。24例えばこのような問題に対し
pp.136-58. W. K. Frankena, op. cit. pp.102-07.
24
加藤尚武『伝統的倫理学は現代の諸問題に応えうるか』(『転換期における人間(8)一倫理
て善とは何か、正義とは何か、死とは何かといった具合に言葉の定義や意味から議論が開
始されるとすれば、このような議論からは恐らく実りある成果は期待されえない。そのこ
とはムーアの分析結果を見れば容易に察しがつく。だがこのような問題を突き付けられた
ときに何よりも危倶されるのは、われわれが問うことも答えることも諦めて懐疑的、静観
的な態度を執ることだ。もちろん態度の保留が重要な意味を持ってくる場合もあろう。し
かし医療の場に直結するバイオエシックスにおいては、このような態度は認められないし
許されない。ではどうずれば多少なりとも生産的な議論に与れるか。それはまず議論の「第
一前提」を承認することである。快楽主義的功利主義の善=幸福=快という前提は少し粗
雑だが、人間身体を直接の対象とする医療の場ではそれなりに有効である。ここでは全部
でないにしても、かなりの比重で功利の原理が有効的に作用していると考えられる。それ
ゆえ患者は誰しも幸福を願いつつ、できるだけ苦痛の少ない治療を期待しているとまず仮
定するのである。もっともこの見解に対して、そもそも人生の目的などは存在しないしま
たその必要もないのに、なぜ敢えて幸福を追求する必要があるのか、また欲得ずくの幸福
は「求不得苦」をもたらす悪しき源泉にならないか、といったニヒリスティックな疑問を
呈することも可能である。確かにこれはこれで人生の断面的真理を射当てた見解として傾
聴に値するが、医療の原則から言えば、このような見解が認められる筈はない。快楽主義
的功利主義が医療の前提に据えられるのが本道であろう。
さて功利の一般的原理を特殊な状況に適用する際に、功利主義は行為功利主義と規則功
利主義の二方向に大別される。両者の違いは一般的原理を行為に直接に当て嵌めるか、そ
れとも規則に当て嵌めるかの違いである。25すなわち、どちらも結果を考量する点は同じで
あるが、前者は自分の行為がもたらす結果を考量するのに対して、後者は皆が同じ規則に
従うと仮定してその規則がもたらす結果を考量する点で異なる。この点について具体的に
説明しよう。例えば「医の倫理」を巡るものに、医師は患者に常に真実を語るべきかどう
かという深刻な問題がある。26この場合に行為功利主義に従えば、患者によって臨機応変に
真実と嘘を使い分けるのが最善とされる。これに反して規則功利主義に従えば、いかなる
患者に対しても常に真実を語るのが最善とされる。もっとも同じように真実を語るにして
も、この二つの主張と端的に義務からそうすべきだとする義務論27の主張とはまた別レベル
で区別されねばならない。ところで行為功利主義と規則功利主義の結果がそれぞれ予測通
りであったと仮定すれば、後者よりも前者の方が善の総量をより多くもたらすと推定され
る。なぜならば医師は、「嘘を言うな」という規則に従うよりもそれを反古にする方が善の
とは一』所収 岩波書店 1989)
25
245-65 頁参照。
Cf. Tom L. Beauchamp and James F. Childress, Principles of Biomedical Ethics, 3rd.
ed. (Oxford: Oxford Univ. Press, 1989), pp.30-36.
26 この具体例として末期癌、ハンテントン舞踏病、エイズなどが挙げられる。
27
このような義務論はカントや Sir D. ロスらによって唱えられた。拙論『定言命法はアプ
リオリな総合的命題か?』(福山大学教養部紀要第 13 巻
1989)
1-17 頁参照。
総量をより多くもたらす、という結果を予測していた筈だからである(功利の原理より)。28
しかしここで問題になるのは、行為功利主義者のこのような予測が「最も幸福な行為」
「最
も賢明な行為」に基づくという点である。29およそ人間であるかぎり誰しも全智全能ではあ
りえないわけだから、誤差のない完全な予測は不可能である。たとえありとあらゆる情報
を駆使して入念な思慮を巡らそうとも予測範囲におのずと限りがある以上は、その結果に
狂いや誤差が生じたとしても不思議ではない。その場合には、規則功利主義に従う方がも
う一方に従うよりも善の総量をより多くもたらすかもしれない。というのも「嘘を言うな」
という規則の価値のほどは歴史的に証明されているから、この規則に従う行為の方が個別
的に決断された行為よりも結果の予測においてより確実だからである。ここではまさに結
果を予測しうる確率がどの程度かが問題になる。行為の結果を考量する際に、確実性や遠
近性を重視するか多産性や範囲を重視するかは議論の分かれ目になるが、行為功利主義と
規則功利主義はそれぞれ前者と後者に対応する。
このように原理の応用論に関しては、功利主義の信奉者たちの間に必ずしも意見の一致
は見られず、このほかにも煩頑な意見が様々な形で提出されている。30が、基本的にはこの
二つである。裏を返して言えば、このことは特殊な状況では「最大多数の最大幸福」を得
るための予測がいかに難しいかという事実を物語っている。行為功利主義の状況倫理的な
方向は複雑な現代社会に対応するために必要な突破口であるが、それだけ個々人に掛かる
負担が大きくなるのは否めない。それゆえこうした負担を軽減するために、今日では逆に
規則功利主義の方向も見直されつつあり、最終的にはこの二方向をどう調和するかが重要
である。
6.結語
28
ミルによれば、功利主義の理想は「己の欲するところを人に施せ」というイエスの黄金
律だとされる。そうすると個々の行為はその行為者の「好み」(preference)によって決定さ
れるから、行為者の好みと他人の好みが食い違う場合も予想される。行為功利主義者は規
則功利主義者以上にこのジレンマに悩まされ、ひょっとして自分の理想を他人に一方的に
押しつけているだけなのかもしれない。このような批判を行為功利主義者に向けるのは可
能である。しかし彼のために一言弁護するなら、そのような場合は客観的な予想が極端に
不可能なときか、それとも彼自身が単に無知なときである。いずれにしても、これをもっ
て行為功利主義への批判とするのは当たらない。Cf. J. S. Mill, op. cit. p.218. R. M. Hare,
Freedom and Reason (Oxford: Clarendon Press, 1963), pp, 112-36.
29
Cf. J. Hospers, op. cit. pp.142-44.
30
例えばフランケナはこれ以外に「普遍的功利主義」の名前を挙げている。そして彼は規
則功利主義をもその内容によって「素朴規則功利主義」
「現実的規則功利主義」
「理想的規
則功利主義」に三区分している。Cf. W. K. Frankena, op. cit. pp.35-43.
現代では、生命科学や生命医療の分野における研究行為や医療行為そのものが倫理的に
問われようとしている。今日のような複雑な状況では、一般大衆はもとより専門家たちで
さえ将来を予想しにくくなっている。例えば遺伝子組み換えや体外受精などの先端技術は
人類の夢や希望を無限に叶えてくれるという期待とは別に、その危険性も同時に懸念され
ている。こうした技術開発の根底にあるのは功利主義的な発想であるが、その具体的な応
用となると難しさがあるようだ。殊に現代人のみならず未来人も同じ福利に与るとしたら、
現代の幸福基準がそのまま未来に妥当するかどうかは疑わしいから、幸福計算もそれだけ
複雑で難しくなる。バイオエシックスが直面している諸問題は、いずれもこのような状況
にある。それゆえ今現在われわれに求められているのは、法律、文化、道徳、宗教、社会
慣習などの既成の観念に捉われない豊かな想像力を持つと同時に未来社会への責任を自覚
しながら、間主観的な判断を形成していくことであろう。
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