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広場の足跡
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広場
群衆
祝祭性
キャパシティ
Research Journal Issue 01
スクエア[広場]
港千尋│ Chihiro Minato[写真家]
多摩美術大学情報デザイン学科教授。1960 年神奈川県生まれ。記憶とイメージをテーマに広範な活動を
続けている。オックスフォード大学ウォルフソン・カレッジ研究員(2002)、第52 回ベネチア・ビエンナーレ日
『マルチメディア・グランプリ』
本館コミッショナー(2007)などを歴任。主な受賞歴に『コニカプラザ奨励賞』
』台北ビエンナーレ 2012)モン
『サントリー学芸賞』
『 伊奈信男賞』
など。最近の展覧会に
『 Gourd Meuseum(
(2013)
など。近著に『ヴォイドへの
ゴル、ウランバートルでモンゴルと日本の作家による共同展『風景考』
(靑土社 2012『
) 芸術回帰論』
(平凡社 2012)
などがある。
旅』
記憶
Square
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港千尋│Chihiro Minato
スクエア[広場]
グーグルの地図は便利なだけでなく、面白い。特に目的がなくても眺
めているだけで、いろいろなことに気づかされる。世界の土地が連続
して眺められるようになったことで、
それまでの「世界地図」では見えな
かったような現実が、
地図のほうから読み取れるようになった。
たとえば欧米の町ならどこでも通りの名前で検索できるが、
日本の町
になるとそうはいかない。地名はあっても、固有名のない道路がほとん
どだから、
事情を知らない外国人は面食らう。
そうした違いは町の造りそのものにも表れている。欧米をはじめ、
アジ
アの大都市には必ずと言っていいほど、町の中心になる広場がある。
歴史上の重要人物や独立記念日の日付などが広場の名前になり、
そうでない場合は共和制広場などと呼ばれていたりする。地理にその
都市や国の歴史が介入しているのが普通である。
日本にはこうした名称の広場はほとんど存在しない。共和制広場がな
いのは当然だが、政治家をはじめ歴史上の日付が名前となっている
広場も見当たらない。東京で広場といえば、
まずは皇居前広場である。
全国的には駅前広場が一般的だろう。
それらは
「新宿西口前広場」
のように、駅名と改札口のセットで呼ばれている場合が多い。広場の
名に具体的な歴史が刻まれていることはあまりないと言っていいだろう。
判 断の空 間
それはとりもなおさず、
それぞれの都市の歴史に由来する違いであり、
特に市民がどのような歴史をたどってきたかを表している。
この点で
は、
「広い場所」
という言葉よりも、
「四角」つまり幾何学的な意味をもつ
「スクエア」のほうが分かりやすい。フランス語の「定規」
と同じ語源
を持つこの言葉は、
そこが広いというだけの、漠然とした空間ではなく
計画と設計をとおして作られた場所であることを示している。スクエア
は建築の一部である。
それはさまざまな意味で、
「はかる」空間でもある。はかるための場
所 ─こんどは日本語のほうが表しやすい。
ヨーロッパの村や町では多
くの広場に市が立つ。深夜、人気のない広場を横切ってホテルに到
着した旅行者が、
翌朝窓を開けてみると、広場を埋め尽くす朝市の賑
わいに驚かされることがある。賑わいのなかでは、
目方を計る人がいて、
金額を確かめる人がいる。新鮮な野菜が並び、
その土地独特の色彩
があふれる。田舎の村では昔ながらの天秤が健在だったりすることもあ
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港千尋│Chihiro Minato
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る。
さまざまな秤によって、均衡のとれた交換を成り立たせるため、計り、
測り、
推し量る。
こうした広場とは、
バランスの空間だと言えるだろう。
バランスが取れているときは市場も活気づき、村や町全体の雰囲気
もいい。だがバランスが崩れ、不均衡が続くようになると雰囲気も悪く
なり、逆の方向へ物事が動き出す。不満を募らせた人々は広場に向
かい、集会を開くようになる。市民はそこで、物事が正当に行われるこ
とを求める。たとえばモノや金が正当に分配されることを欲し、分配の
責任者に均衡を取り戻すことを要求するのである。
あるいは為政者の
ほうが市民に対して、
そのための決定を「諮る」
こともある。
いずれにしても個々人が、
それぞれの考えの中に公約数を見出して、
それを集団の意見として表せるのは、
その村や町で最大の人数を収
容できるような空間、
すなわち広場以外にはない。
こうして、
昨日まで日
常の経済が営まれてきた空間は、今度は市民による判断と要求のた
めの空間になるわけである。
その町や都市の中心となる広場に指導者や政治家の名、
あるいは
独立や革命といった歴史的な日付がつけられているのは、ひとことで
言えばそれが「判断の空間」だったということを示している。市民が、
そ
こで正当な分配が行われているかどうかを秤にかけて判断するだけ
でなく、均衡を取る能力があるかどうかを諮る空間でもあった。それら
の判断の積み重ねが歴史を作ってきた─という認識がなければ、
こ
うした名称が定着することはなかっただろう。
群 衆の力
広場をその固有名との関係で見たとき、以上のように日本の地図が
欧米とは大きく異なる歴史を背景にしていることは明らかだろう。日本
の広場に付けられた名のうちで、印象的なもののひとつに
「お祭り広
場」がある。1970 年の大阪万博に設置された中心の広場の名称だ
が、一時的な存在にもかかわらず、
「太陽の塔」
とともに記憶に残って
いる。日本では、広場が何よりもイベント性や祝祭性と強く結びついて
いる。判断の空間というよりは、
出来事の空間といったほうがいいが、
も
ともと前者は後者と別のものではない。
カレンダーの特定の日に広場は祝祭の空間になる。ほとんどの場合、
それは長い年月にわたって続いてきたもので、
その意味ではすべての
広場は、一年のうちに何日かは「お祭り広場」になるのである。
もし万
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国博覧会の「万国」が、
それぞれの祝祭を交替で演じるなら、
その広
場は恒久的なお祭りの空間になるだろう。
まさにそれが、大阪万博に
おける
「お祭り広場」だった。
踊り、歌い、歓声をあげるとき、人は一体感を得る。広場に集まる人間
は多ければ多いほどよい。そのほうが盛り上がるからだ。
ここでわたし
たちは、
「力」には二種類の異なる性質があることを思い出す。ひとつ
は、通常力といった場合に意味する、強度である。出力も権力も強さ
弱さによって、はかられる。だが力にはこれとは異なる一面がある。そ
れはキャパシティという言葉で表され、通常はどれだけ「許容」できる
かによって、はかられる。
「お祭り広場」
をはじめとして、
イベント会場に
使われるスタジアムやホールは、
それ自体は力を持たないが、
その許
容の限度が、
潜在的な力として考えられる。
祝祭に集まる人間が多ければ多いほどよいのは、
まさにそれがキャパ
シティとしての力を生み出すからだ。広場の本質のひとつは、
このキャ
パシティである。スタジアムやホールと違って、広場には決まった座席
あらかじめ決め
数がない。広さによって入ることのできる限度はあるが、
られた人数はあるわけでもない。祝祭にとって重要なのは、はっきりとし
た限度ではなく、
「どんどん増える」
ことのほうにある。増加しながら、空
間を緊密にしてゆくことが、
その場を盛り上げてゆく。その先に得られる
のが一体感で、
ひとたび広場がこの一体感を得ると、キャパシティは
パワーに転化する。文化を問わず、人々が「祭りのパワー」
と表現する
のは、
緊密な状態におけるこの一体感にほかならない。
同じことが集会やデモについても言えるだろう。1989 年にベルリンの壁
の崩壊をきっかけに起きた、
旧東欧諸国の革命を中心に扱った写真集
を、
わたしは
『明日、
広場で』
と題して公刊したことがある。広場の群衆は、
昨日まで朝市で普通に買い物をしていたふつうの市民である。
そのふつ
うの市民が広場に集まり、
その数を次第に増してゆき、
広場から溢れ市
内の路上に拡大してゆく様子を内側から見つめながら、
わたしはキャパ
シティがパワーに転化する瞬間の驚くべき
「力」
を知ったのだった。
ブリコラージュの 風 景
それから四半世紀近く経ち、
ベルリンはもとより世界の都市は大きく変
わった。景観の変化もそうだが、
おそらくそれ以上に見えない部分を支え
る条件が変わった。高度に情報化された世の中で、
かつて広場を歩
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いていたときには決して見られなかったような情景 ─ 相手が目の前に
いないのに喋っている市民の姿がふつうになった。携帯電話の惑星規
模での普及は、
確実に広場の光景を変えているのではないかと思う。
だが広場そのものは、判断の空間として、祝祭の空間として、
その力を
失ってはいない。2013 年の初夏、わたしはそのことをトルコの首都イ
スタンブールで目撃することになった。5 月から6 月にかけてトルコ全
土に拡大した抗議行動である。新市街の中心にあるタクシム広場は
ビジネスと観光の拠点として、
また公共交通の乗り換え地点として、
イ
スタンブールでももっとも賑やかな場所だが、
そこを市民が埋め尽くす
デモが連日開かれていたのである。
報じられたとおり、
それは隣接する
「ゲジ公園」
の再開発に反対する集
会から始まったものだった。公園は市内でも数少ない緑地のひとつで、
その意味では最後の
「市民公園」
としての憩いの場所を提供していた。
そこにショッピングモールを建設しようという政権側の計画に、
真っ向か
ら反対したのがほかならぬイスタンブール市民だったのである。
ゲジ公園の一角はすでに無残に破壊され、巨大な工事現場へと姿
を変えていた。だが滞在中わたしは、
その工事現場と広場とが、毎日
姿を変えてゆくのに驚いた。公園を占拠している人々と広場に集まる
人々が、
その環境をさまざまに変えてゆく。それは「パフォーマンス」や
「インスタレーション」
としか言いようのないもので、
あり合わせのもの
を工夫して作ってゆくという意味では、
「ブリコラージュ」である。創意
にあふれたインスタレーションは、広場に祝祭性を醸し出し、夜になる
と子供連れ、
家族連れの姿も見られるようになった。
タクシム広場に集まった市民が要求したのも、
やはり均衡であろう。や
みくもな再開発は、市民の目には幸せな日常生活に不均衡をもたら
すように映ったのにちがいない。広場が交換と判断の均衡に必要な
空間だとすれば、公園は心の均衡を保つのに必要不可欠な場所だ
からである。それは必ずしも、現在だけにかかわることではない。市民
にとっては子供のころ親に手を引かれて遊んだ場所であり、友人や
恋人と語らった場所である。過去もまた心の秤を支えている。記憶の
心の秤もその支点を失ってしまうだろう。
場所がなくなれば、
完全に解決したわけではないものの、ゲジ公園は破壊だけは免れ
た。広場はそのための、本来の役割を果たしたようである。わたしがそ
こで出会った人々も、明日また広場で、
と手を振り、
それぞれの家路へ
と向かったことだろう。
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