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完新世初頭における移動・居住形態の復元的研究: 北海道における石刃

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完新世初頭における移動・居住形態の復元的研究: 北海道における石刃
Title
Author(s)
完新世初頭における移動・居住形態の復元的研究 : 北海
道における石刃鏃石器群を例に
高倉, 純
Citation
Issue Date
1999-03-25
DOI
Doc URL
http://hdl.handle.net/2115/32658
Right
Type
theses (doctoral)
Additional
Information
File
Information
4586.pdf
Instructions for use
Hokkaido University Collection of Scholarly and Academic Papers : HUSCAP
学位請求論文(平成 1
0年度)
完新世初頭における移動@居住形態の復元的研究
一北海道における石刃鏡石器群を例に一
高 倉 純
北海道大学大学院文学研究科目本史学専攻(考古学)博士後期課程
同ロ
次
はじめに
第 I章
遺跡間変異と移動。居住形態の復元
3
。
円
。λMquAaFO
1 目的一
問題の所在一一一一………………一一一一一一一一一一一……… 4
中石器時代の自然環境と生業形態…………ー一……………………嶋 6
北西ヨーロッパの移動・居住形態研究
日本の移動・居住形態研究………一一一一一一一一一一一一一一 22
まとめ
第 E章
北海道における石刃鍛石器群の石器製作技術
一一一一 3
3
1 目的
45
2 検討対象
3 石刃剥離技術の検討
考察
まとめ
第盟章
石刃鍛石器群をのこした〈集団〉 の移動・居住形態
1234
罰的
検 討 資 料 一 一 一 一 一 一 一 一 … … … … … … … … … … … … … … … … 57
石器製作技術の比較検討一一一一一一一一………………………輔 59
向。円。
組成の比較検討…一一一一一一一一一一一一一………………… .
6
8
移動・居住形態の検討一一一一一一一一…一一一一一一一一一-7
5
まとめ一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一 8
1
第 N章
石刃鍛石器群の遺跡立地とその背景
8
3
l 目的…………-・ ・-……………………一一一一一一一一一一一 8
3
4
2 石刃鍛石器群の遺跡立地…………………………一一一一一……_.8
e
3 完新世初頭における北海道東部の海岸線…………一一一一一一… 9
1
4
遺跡間変異の問題と海岸隷…一一一一一一一一一一一一一一一 100
5
まとめ一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一一--101
おわりに
謝辞
1
0
8
註および引用・参考文献
1
0
9
はじめに
先史時代の(狩猟採集集団〉が、ある地理的範囲内で何らかの移動活動をおこなっていたこ
と、またそれが後らの生活や社会のあり方に重大な影響をあたえていたであろうこと、はここ
で強調するまでもなかろう。そのあり方はまた、彼らが対持していた自然環境に対する適応戦
略の結果を何らかのかたちで反映しているものと考えぎるをえないため、人間行動と自然環境
とのかかわりに関心を抱く考古学者にとっては、何よりも真っ先に取り組まねばならない課題
として認識されてきた。このように、移動にかかわる諸活動の復元は、先史考古学者にとって
重要かっ緊急性をもっ課癌としてうけとめられてきた歴史があるのである。
本稿では、
(狩猟採集集団〉がし、かなる地理的範聞をどのように移動し、広義の居住地点で
はどのような活動が繰り広げられていたのかを考察しようとする研究を、
(移動・居住形態研
究 ) と 呼 ぶ こ と に す る o こ う し た 移 動 ・ 居 住 形 態 研 究 は 、 第 1章 で 論 じ る よ う に 、 ヨ ー ロ ッ パ
や日本においてさまざまな研究が積み重ねられてきた。しかし、これまで多大で継続的な関心
がはらわれてきたにもかかわらず、なおそれらの研究においては、方法論上の問題が充分には
整理されていないように考えられる。
その大きな理由は、活動の全体のなかのある一部分の痕跡でしかない個別遺跡の分析だけで
は、移動・居住形態の復元に直接的に応えることはできなし、からである。不可避的に、複数遺
跡間の関係性について分析をおこなっていく必要性がでてくるのであるが、そのステップに進
もうとすると、ある地理的範囲内に分布するさまざまな遺跡を、同じ(狩猟採集集団)がのこ
した一連の地点群としてどのように認識していけばよいのか、という重大な課題に直面せざる
をえないのである。これまでの移動・居住形態研究が、一般的な予測ないしは可能性の指摘に
とどまっていた場合が多いのは、このような問題に対して一定の方法論的枠組みをもって対処
し、具体的な資料分析の実践を積み重ねていこうとする試みが少なかった結果なのではなかろ
うか。
本稿では、移動・居住形態研究にとって不可欠な複数遺跡聞の関係性について検討する際の
方法論的問題について議論をおこない、移動・居住形態に関する仮説モデ、ノレの性格について、
いくつかの提案をおこなう。さらに、北海道の完新世初頭に出現する石刃鍛石器群を題材にし
て、その実践を試みていくことにしたい。
"
'
'
N重量から成り立っている。第 I章 で は 、 遺 跡 間 変 異 の 議 論 か ら 移 動 ・ 居
本稿は、以下の I
住形態の復元へむかうための方法論的枠組みを確立するために、当該研究の基本的視鹿をあき
らかにする。そのために、北西ヨーロッパおよび呂本における更新世終末
完新世初頭を対象
とした移動・居住形態研究について総括的なレヴューを試み、問題点の整理とこれからの研究
の展望を考察する。
前述したように、本稿では、北海道の石刃鍛石器群をのこした集団の移動・居住形態の復元
をおこなっていくことにする。その具体的な作業を第
r
r
.
.
.
.
.
.
.
.
.
r
v主主において実施することにした。
移動・居住形態の復元のためには、遺跡聞における石器製作技術・石器組成・遺跡種別・遺跡
立 地 な ど の 比 較 検 討 を お こ な う 必 要 が あ る 。 こ れ ら の 検 討 を 第 E 章において具体的に展開し、
移動・居住形態に関する佼説モデルを提起する。ただし、その前段の作業として、石刃鍛石器
群 に お け る 石 器 製 作 技 術 の 全 体 像 を 把 握 す る 必 要 が あ る た め 、 第 E主主でその具体的作業を実施
することにした。
最 後 の 第 W章 で は 、 北 海 道 東 部 の 石 刃 鉱 石 器 群 が 発 見 さ れ て い る 遺 跡 を 網 羅 的 に 集 成 し て 、
遺跡立地の検討をおこなうことから、土地利用のパターンの解明を試みることにする。遺跡、間
における石器製作技術の比較作業をおこなうために、第回章でとりあげた遺跡、は、一定の点数
の石器がまとまって検出されているものにしぼらざるをえなかった。しかしながら、地理的
観内における集団の行動連鎖のパターンの解明には、あらゆる種別の遺跡の解析が重要な意味
をもつことはまちがいない。第百章では、地理的景観内のし、かなる地点がどのような活動をお
こなうことを自的として濯択されているのか、を具体的に検討していくことにする。また、移
動・居住形態の復元にとって重要な当該期の自然地形の変化、とくに旧海岸線と遺跡立地との
関係、についても分析をおこない、遺跡立地の検討であきらかにされた解釈の補足を試みていく
ことにしたい。
本稿の構成は以上のようなかたちをとる。ただし、この構成からもあきらかなように、移動
住形態研究の実践的側面に関しては、本稿ではきわめて限られた対象についてしか議論す
ることはできなかった。そのため、完新世初頭における移動・居住形態の全体像を示しえたと
は考えていないが、移動・居住形態の復元にあたって考慮されるべき方法論的諸問題について
は、一定の新展望を示しえたのではなし、かと考えている。
-2-
I
遺跡間変異と移動@居住形態の復元
1.目的
更新世終末から完新世初頭にかけての(狩猟採集集団〉が、いかなる地理的範囲をどのよう
に移動し、広義の居住地点ではどのような活動が繰り広げられていたのかを考察しようとする
(移動・居住形態
1)
)の研究が、当該期の先史考古学的研究における主要テーマのひとつであ
ることはまちがいない。移動・居住形態の復元は、その通時的・地域的な変化をたどることに
よって、自然的・社会的環境に対する人類の適応の様態を解明することに直裁につながるもの
と考えられる。それゆえに日本をふくめた世界各地で多くの研究が積み重ねられてきた。
た だ し 、 日 本 で こ う し た 研 究 テ ー マ に 重 大 な 関 心 が は ら わ れ る よ う に な っ た の は 、 1960 年
代 の 終 わ り 頃 か ら で あ る 。 一 方 、 ヨ ー ロ ッ パ で は 、 1950 年 代 前 後 か ら さ ま ざ ま な 研 究 の 試 み
がなされてきており、一遺跡の検討だけにとどまらない、広域の地理的範囲内に散在する複数
の遺跡聞の相互関係に視野をひろげた検討の積み重ねが認められるのである。また、日本では
貝塚や洞穴遺跡をのぞくとほとんど発見が期待できない動物遺存体が、ヨーロッパでは開地・
洞穴遺跡の両者から石器群と共伴した状態でみつかる場合が多く、生業活動の動向を十全にふ
まえた移動・居住形態の復元が可能となっている。
以上から、更新世終末
完新世初頭にかけての移動・居住形態研究の方法論的枠組みを議論
していくためには、日本における研究動向を整理するだけでなく、ヨーロッパでの研究の方向
性とその内容を把握しておく必要性があることがわかろう。そのために本章では、北西ヨーロ
ッパにおける諾研究を検討し、あわせて自本での研究の現状と課題を明確にすることによって、
当該テーマに関する今後の展望を考察してみたい。
本章では、北西ヨーロッパのなかでも、とりわけブリテン島と南スカンディナピアの中石器
時代研究を通観していくことにする。両地域においては、後期!日石器時代と比較すると多様な
生業活動が開始・本格化され、また移動活動にウェートをおいた行動のパターンから、定住的
なそれへの緩やかなシフトが進行していった時期とも考えられている。そこでは、さまざまな
資料を対象にした多角的な研究が試みられてきており、それら相互の比較をおこないつつ検討
をすすめていくのは、きわめて有効な作業といえるだろう。
もちろん、ここでの検討作業が、彼我の研究の優劣をあきらかにすることに目的があるので
はなし L あ く ま で も 、 そ れ ぞ れ の 地 域 で の 研 究 の 現 状 と 問 題 点 を 把 握 す る こ と に よ っ て 、 今 後
J
今
の研究の推進にとって有望な展望をえることを目的としたいのである。
以下の各節では、最初に移動・岩住形態研究の基本構図をあきらかにし、研究の視点を提示
す る ( 第 2節 ) 。 次 に 、 北 西 ヨ ー ロ ッ パ 中 石 器 時 代 の 自 然 環 境 や 生 業 形 態 を 概 観 し ( 第 3節)、
ブ リ テ ン 島 と 南 ス カ ン デ ィ ナ ピ ア に お け る 諾 研 究 の レ ヴ ュ ー を お こ な う ( 第 4節)。さらに、
それと対比させるかたちで、日本の後期旧石器時代から縄文時代初頭にかけての時期の移動・
居 住 形 態 研 究 に つ い て も 検 討 を お こ な っ て い く ( 第 5節)。
2
.問 題 の 所 在
先史時代の(狩猟採集集団〉の活動場所は、単一地点のみで完結するのではなく、必要に応
じた移動をおこなった結果、ある一定の地理的範囲内の複数地点にまたがるものである。その
ため、活動の一部の痕跡にすぎない単一地点(遺跡)の分析だけで、
(狩猟採集集団〉の活動
の全体像を復元するのはおよそ不可能なことであろう。くわえて、地点に応じて活動内容に変
異が生じている可能性を考慮にいれるならば、単一地点(遺跡)で復元された活動の単純な総
和が、
〈狩猟採集集団〉の活動の全体像というわけにはし、かなくなる。
ヨーロッパにおいては、個別遺跡の立地環境を詳細に分析する一手法として遺跡領域分析
(
s
i
t
ec
a
t
c
h
r
n
e
n
ta
n
a
l
y
s
i
s
) が、 1
9
7
0年 代 前 後 に さ か ん に 試 み ら れ た 。 そ れ ら の 分 析 は 、 民 族 誌 か
ら予測される日常的な活動範関を安定した条件とみなし、地形などから予測される利用可能な
資源の分布状況にもとづいて、遺跡の利用季節や生業対象を推定しようとするものであった。
しかし、 R
o
w
l
e
yConwy (
1
9
9
3
:1
8
7
) によって指摘されているように、移動・居住形態のなかで
制
の個別遺跡の位置づけがあきらかにされないかぎり、単純にそれぞれの遺跡の立地状況からな
されるだけの解釈では、容易に誤った結論を導きだしかねない危険性が予測される。
そこで重要な課題になるのは、
(狩猟採集集団)がのこしたさまざまな地点から読みとられ
る 活 動 の 内 容 を 、 遺 跡 問 変 異 (i
n
t
e
r
引t
e v
a
r
i
a
b
i
l
i
t
y) と し て ど の よ う に 統 合 し 解 釈 す べ き か 、 と
いう点である。移動・居住形態研究では、複数の地点間(遺跡間)の関係性を考察の対象にす
えるが、そこでは必然的に、ある地理的範囲内に分布するさまざまな遺跡を、閉じ(狩猟採
集団〉がのこした一連の地点群として接続していく作業の必要性が浮上してくる。こうした作
業 を か り に ( 遺 跡 間 接 続 2) ) と 呼 ぶ な ら ば 、 移 動 ・ 居 住 形 態 研 究 の な か で は 、 遺 跡 間 接 続 を お
こない遺跡間変異の実態を解釈するための適切な方法こそが、まず第一に論議されなければな
らない課題といえるだろうロしかしながら、実際に遺跡間接続の問題を論議しようとすると、
さまざまな困難が生じてくることは、これまでの多くの経験的事実が示すところである。
そうした盟難が生じる理由のひとつに、考古学的な時間枠が国有にもっている制約があげら
れるであろう。考古学的な時間枠は、一般的に編年というかたちで議論される。そうした繍年
は、型式論・層位論的操作によって導きだされるが、その場合の時間の刻みには(ある一定の
時間幅〉を見込まざるをえない、という事情がある。たとえ遺跡間の(同時性)が繍年的議論
によって確定できたとしても、それが(ある時間幅のなかでの同時性〉を指示するかぎり、遺
跡間接続の問題をそれのみで解決することができないのは自ずとあきらかといえる。つまり、
-4-
いくら細かい編年が設定できたとしても、それだけでは遺跡間接続の全面的な解決にはつなが
らないのである。もちろん、編年に関する知見は、検討対象をしぼりこんでいく際に重要な役
割をはたすものであり、移動・居住形態研究においても充分な考慮、がはらわれるべきことはい
うまでもなかろう。
ここで議論の筋道を明確にするために、考古学が復元の対象とする(行動)を、そのレヴェ
ノレの差に応じて区別しておくことにしよう。すなわち、①個々の遺物の製作や使用にかかわる
(個別行動〉、②仮設的に想定しえるある遺跡の(生活面〉を舞台にして共時的に繰り広げら
れていた(単位行動〉、③ある地理的範囲内で(狩猟採集集団)がある期間内に繰り広げてい
た(行動連鎖〉、のそれぞれを論理的に区別することが可能である。
本章で議論しようとする移動・居住形態は、まさに最後にあげた行動連鎖にかかわるもので
ある。原理的にいって行動連鎖とは、個々の遺跡の(生活面)を舞台にした単位行動の集合か
a
l
i
m
p
s
e
s
t
) の例をあげる
ら成り立っていることはまちがし、なし、。しかしながら、重複堆積物(p
までもなく、そうした単位行動が考古学的記録のなかにすべて分離された痕跡として常態的に
9
9
5
:
1・
2
) 。考古学的な議論の焦点のひとつと
残存していると考えることはできない(阿子島 1
なっている(生活面)ないしく文化層)には、語数の単位行動が折り重なっているものがふく
まれている可能性が高いのである。したがって、分離・区分された単位行動の痕跡を集積する
という婿納的なアプローチから、
(狩猟採集集団〉がのこした行動連鎖の全体像を把握しよう
とするのは、きわめて困難な作業といわねばならないだろう。単位行動の痕跡ごとの〈集団)
同定という問題もふくめて、のこされた課題は多い。
では、以上のような問題を勘案したうえで、現時点でどのような視点が移動・居住形態の復
元には有効なのであろうか。ここで注目すべきなのは、
(狩猟採集集団〉が、ある地理的範囲
のなかで複雑かっ多岐にわたって繰り広げた行動連鎖のなかに認められる何らかのパターンに
着目することによって、移動・居住形態の復元が可能になるのではないか、という視点である。
行 動 連 鎖 の ( 内 部 構 造 3) ) と で も 呼 び う る そ う し た パ タ ー ン は 、
(狩猟採集集団〉が対持して
いた資源状況と社会・文化的諸条件とに応じて、とりわけ諸活動の時間・空間的分化(季節的
分化を中心とする)と、それに対する人員・活動場所・運用技術・使用道具の時間・空間的
置の計画・組様化、というかたちで顕在化するものと考えられる。
i
n
f
o
r
d(
1
9
8
9
) が「行動における計画性の深度 (
p
l
a
n
n
i
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g d
e
p
t
h
) Jと
こうしたパターンは、 B
いう概念で言い表そうとしたことに、よく符号するものである。 B
i
n
f
o
r
dが論じているように、
それは、先史時代のあらゆる時期・地域に普遍的に認められるものではなく、人類の進化過程
のなかのある段階(とくに後期旧石器時代以降)になって、発現の条件がそろったものと想定
される。したがって、本稿で検討の対象とする更新世終末
完新世初頭の中・高緯度地帯では、
そうした何らかのパターンが行動連鎖に存在していたと考えたうえで、検討作業を推しすすめ
ていくプランをもつことは、妥当な前提と考えてよいであろう。
こうした視点が考古学的な議論にとって重要な意味をもつのは、以下のような予測を可能に
するからである。すなわち、そうしたパターンは、ある地理的範囲のなかで累積的に形成され
た考古学的記録のなかに、われわれが観察しうるような何らかの傾向性をのこすのではないか、
という予測である。一般的にそのようなパターンは、単位行動の振幅にもかかわらず、世代の
-5-
交代、個別の〈小集団)の違いを越えて存在していくものと考えられる(阿子島 1
9
9
7
:
(
0
5
)。
したがって、かりにそうした傾向性を考古学的記録のなかから摘出することができれば、近(以
{直的ながらも移動・居住形態に関する仮説モデルを提示することが可能となるであろう。
ここで近似値的と述べたのは、議論の対象となっているく集団〉が、厳密には個別の(小集
団)だけでなく、同じような行動連鎖のパターンをみせていたであろう複数の(小集団)にま
で範囲がひろげられているからである。いうまでもなく、移動・居住形態研究において行動の
軌跡を読みとるべき対象は、日常生活の基本的な単位となっていたと仮設される個別の(小集
団〉にちがし、ない。しかし、仮説モデルの復元的研究という手続きをとるかぎ、り、そうした
(小集団)を考古学的記録のなかから識別・摘出し、その詳細な行動僅元を試みていくのはき
わめて難しい課題といえるだろう。
いずれにしても、以上のような問題設定が可能になったので、考古学的記録のなかからどの
ようにして傾向性を摘出するのか、また、摘出した傾向性は(集団〉の行動連鎖のパターンを
どのように反映しているのか、という点に当面の議論の焦点をあてていかなければならない。
くわえて、そうした議論の展開過程で、遺跡間接続の問題をどのように論じることができのか、
という点についても充分な考察が必要となるであろう。以下の節では、北西ヨーロッパと日本
における諾研究を検討するなかで、こうした問題点に関する具体的な議論を吟味し、今後の展
望を探っていくことにしたい。
なお、ここで言及しておかねばならないのは、遺跡間における石器接合資料をめぐる問題に
ついてである o 遺跡聞における石器接合資料は、それが検出された遺跡相互間での何らかのつ
ながりを直接的に表示するものであるだけに、遺跡間接続の問題の解決に重大な寄与をなす可
能性があることはまちがいない。しかしながら、石器接合資料は、一母岩を消費する過程に介
在した何らかの個別行動のエピソードを反映しているだけである、という点を見過ごすべきで
はなかろう。つまり、そこで把握された個別行動のエピソードの単純な総和が、
(集団)の行
動連鎖のパターンであると短絡的に考えることはできないのである。たとえ検出例が量的に増
えたとしても、行動連鎖のパターンを理解しようとするかぎり、何らかの仮説モデノレを設定す
る手続きを避けることはできないであろう。いずれにしても、遺跡聞における石器接合資料の
検出が、遺跡間接続に対しでもつ検証手段としての有効性は、検証すべき仮説モデルの必要性
を逆に提起しているといってもよかろう。
3.中 石 器 時 代 の 自 然 環 境 と 生 業 形 態
現在、北西ヨーロッパにおける(中石器時代)の定義は、氷河期の終結から農耕・牧畜経済
R
o
w
l
e
y
C
o
n
w
y1
9
8
6
:1
7
) として一般的に定着しているようである。
の成立までの期間を指す用語 (
本題にはいる前にまず、当該期の自然環境と生業形態の概要について整理しておく。
1
2,
0
0
0
y
r
s BP前 後 の ヤ ン ガ ー ・ ド リ ア ス 期 を 最 後 に し て 娩 氷 期 の 寒 冷 気 候 は 全 ヨ ー ロ ッ パ で
終結をむかえ、後氷期初頭のプレ・ボリアノレ期から気候の温暖化が開始する。北西ヨーロッパ
の中石器時代は、まさに娩氷期が終了した後の混暖化の開始からその最盛期をむかえるにいた
-6・
る時期に対応する。気候環境の変化は、人間をとりまく自然環境のさまざまな側面を変化させ
ることになる。最終氷期の最寒冷期には、スカンディナピア半島からデンマークやブリテン
までをおおっていた氷床が北方へ大きく後退した結果、 1
0,
000"
"9,
0
0
0
y
r
s BP4I以 降 、 そ れ ら の
地域においても、人間集団による連続的な居住活動をおこなうことが可能になったとみられて
o
n
s
a
l
l1
9
8
9、 Bang-Andersen 1
9
8
9
) 。氷床の北方への後退後は
いる (Nygaard 1989、 Morrison and B
0
0
0
y
r
s BP前 後 ) を
次 第 に 森 林 植 生 へ 移 行 し て い き 、 温 暖 海 洋 性 気 候 の ア ト ラ ン テ ィ ッ ク 期 (6,
むかえると、カパ・マツ、さらにはナラ・カシ混合林を中心とする植生がひろく分布するよう
9
8
1
:
9
3
に な っ た こ と が 、 花 粉 分 析 や 植 物 化 石 の 検 討 に よ っ て あ き ら か に さ れ て い る (Simmons 1
1
0
2
)
こうした植生の変化に連動して、動物相も顕著な変化をみせる。娩氷期から後氷期初頭にか
けての南スカンディナピアやブリテン島では、
トナカイ・ウマといった草原系の大・中形動物
が動物相の中心であったが、ボレアノレ期・アトランティック期をむかえると、更新世において
は相対的に動物相中での比重が低かったアカシカ・エノレク・ノロジカ・オーロックス・イノシ
9
8
6
:1
0
4
・1
0
9
) が卓越するよ
シ と い う 、 草 原 よ り も 森 林 を 好 み 移 動 性 も 低 い 動 物 種 群 (Gamble 1
うになる (Grigson1
9
8
1
:11
2・
1
1
5
)。
氷河の消滅によって引き起こされた海水面の上昇は、湖であったバルト海に海水を流入させ、
千上がっていたブリテン島東部からスカンディナビア半島までのあいだに、現在みることがで
きるような北海を形成させるなど、大規模な地形改変をもたらすことになった。ただし、海岸
線の変化には地域的変異がみられるようで、それにはグレーシャルアイソスタシーなどによる
9
9
4
:
8
2・
8
4
) が大きく関連していたものと考えられる。更新世から
地殻隆起量の地域差(海津 1
完新世初頭にかけての急激な海水準変動の結果、本稿で検討対象とする北西ヨーロッパの沿岸
部には、多数の島や入り組んだ入り江が形成されるようになった (
L
a
r
s
s
o
n 1
9
9
0
:
2
5
9263) 。 そ
綱
うした沿岸部の地形環境が、さまざまな魚類や員類、鳥類、海獣類にとっての格好の生息場と
なったのである o
以上にみるような植生・動物相・地形環境の変化の結果は、当然ながら生業活動の内容にも
大きな変化をあたえることになった。研究者によって想定する変化の解釈はさまざまである。
後期旧石器時代終末のマドレーヌ文化期の場合 (
S
t
u
r
d
y1
9
7
5、 Bahn 1
9
7
7
) と同様に 5
¥ 大きな
群れをなして季節的に移動する大・中形陸棲動物を、集中的な狩猟対象とする生業形態が引き
続きおこなわれていたと想定するよりも、狩猟だけでなく植物質食料や水産資源も多角的に利
用されていたと想定される場合の方が多い。水産資源、が利用されていたことは、遺跡立地や道
具構成、員塚から検出される豊富な魚介類の遺存体から復元可能である。しかし、 C
l
a
r
k
e (197
6
) がかつて推定していた植物質食料の利用は、中石器時代に関するかぎり、炭化したハシバ
ミが検出される場合を除くとほとんど直接的な摸跡はのこされないため、具体的な利用状況を
P
r
i
c
e1
9
8
5
:
3
5
4
)。
復元することはきわめて難しい (
以上の状況からもあきらかなように、石器や動物・植物遺存体といった通常の考古学的記録
だけでは、生業活動の比率を論じていくのはきわめて難しいことなのである。生業活動の比率
を復元するためのあらたな手法としては、人骨の組織にふくまれる炭素・窒素安定同位体比の
分析が、近年デンマークを中心として積撞的に実施されており
-7
幽
(Tauber1
9
8
1、 P
r
i
c
ee
ta
l
. 1985、
P
r
i
c
e1
9
8
9、 R
i
c
h
a
r
d
sandM
e
l
l
a
r
s1
9
9
8
) 、一定の成果があげられている。ただし、このような分析
が実施されているのはまだ地域的にかぎられており、地域差・年代差を考慮にいれた食性の復
元までには達していない。今後のデータの蓄積が必要であろう。
4.北 西 ヨ ー ロ ッ パ の 移 動 ・ 居 住 形 態 研 究
(1) ブ リ テ ン 島 の 移 動 ・ 居 住 形 態 研 究
a. 動 物 遺 存 体 に よ る 研 究
ブリテン島の中石器時代研究が、いまだに生業活動や移動・居住形態の研究に関心をよせる
先史考古学者の注目をあつめているのは、スター・カー遺跡の発見・調査とその後の研究の展
C
l
a
r
k 1
9
5
4
) 。スター・カーの出土資料は、 1
9
8
0年 代 に い た る ま で
開によるところが大きい (
さまざまな角度からの再検討がおこなわれてきた。それは、発掘調査の精度の高さとその後の
研究につながる問題意識とを、 C
l
a
r
kの 研 究 が 当 初 か ら 備 え て い た こ と を 雄 弁 に 物 語 る も の で
あろう。現在にいたるまでの議論の潮流の出発点を刻印しているという点で、スター・カー出
土の資料にもとづいた移動・居住形態の議論から、検討をはじめていくことにしたい。
000'
"8,
5
0
0
y
r
s BP) と後
な お 、 ブ リ テ ン 島 と く に イ ン グ ラ ン ド の 中 石 器 時 代 は 、 前 半 期 (10,
8,
500'
"5,
5
0
0
y
r
sBP) と に 二 分 す る 見 解 (
J
a
c
o
b
i1
9
7
3:
2
37
・
238、 M
e
l
l
a
r
s1
9
7
4
:
8
1・
9
0
) が一般的
半期 (
である。スター・カーは、イングランド中部のヨークシャー州東部に位置し(図 1
・
1
)、編年
的には中石器時代前半期に属するため、のちの移動・居住形態に関する論議は、前半期に関す
るものがとくに多くなっている。
r
a
s
e
r and King (
1
9
5
4
:
9
3・
9
5
) は、アカ
スター・カーの原報告で動物遺存体の項目を担当した F
シカなどに関して現生種における角の成長・脱落の季節的サイクノレと、出土資料の分析結果と
をつきあわせることによって、同遺跡、が冬から初春にかけて居住されていたことを指摘した。
この報告をうけ C
l
a
r
k (1972) は 、 ブ リ テ ン 島 北 部 に 現 生 す る ア カ シ カ の 習 性 と し て 、 冬 季 は
雪を避けるため低地において大きな群れを形成し、夏季は比較的冷涼で蚊なども発生しない高
地へ小群に分散しながら移動する行動がみられることから、アカシカを主要な食料源として狩
猟していた人間集団も、アカシカを追尾するために冬季はスター・カーが位置するような低地
に居住し、夏季は高地に移動していたであろうという仮説モデルを提示した。
高地に立地する遺跡、の利用季節についてのデータは提示されなかったが、季節性を軸にする
と、高地・低地それぞれに立地する遺跡は、相互補完的位置をしめていたと想定されることか
a
l
t
i
t
u
d
i
n
a
lm
o
b
i
l
i
t
y
) もしくはトランスヒューマ
ら、高地・低地問を季節的に移動する標高移動 (
9
9
5
) と呼ばれる移動・厨住形態を、そこで復元したのである。また、多出
ンス型(向子島 1
し た 骨 角 製 狩 猟 具 や 掻 器 に 着 目 し ( 図 1・
2
) 、それらは狩猟活動とともに骨角器製作活動や動
物の皮の処理作業もおこなわれていたことを示していると考え、スター・カーは、
「バンド J
のような単位の集団が日常的な生活を営んでいた拠点的集落であったことも、あわせて指摘し
ている。
こうした C
l
a
r
kの 研 究 は 、 動 物 還 存 体 の 分 析 に よ る 遺 跡 利 用 の 季 節 性 推 定 の 結 果 を 援 用 し つ
-8-
O。
う
5
5
5
0
図 1
・1 スター・カー遺跡の位置
刷
9-
2
~ク
3 可ユ三Y 斗
V
弐~5
)
4
5
9
k1
r
a
1
C
2 スター ・カー 遺跡出 土の遺 物 C
図 1
0-1
つ、推定される生業形態と遺跡の分布・性格との関係を包括的に説明する仮説モデルを提示し
た点で、移動・居住形態の研究史のなかでも特筆されるべき位置をしめているといっても過言
ではない。遺跡の利用季節を推定し、季節性という軸で遺跡間のつながりを立証しようとする
視座は、
ドイツのマドレーヌ文化期を対象にした S
t
u
r
d
y (1975) の 論 考 の よ う な 、 後 期 旧 石 器
時代を対象とする研究にも引き継がれることになる。また、ブリテン島の中石器時代研究とい
う局面にかぎっても、 C
l
a
r
kの 指 摘 に 基 づ い て J
a
c
o
b
i (1978) ら は 、 イ ン グ ラ ン ド 中 部 の 高 地 に
おいて、中石器時代遺跡の摘出を試みるようになった。
しかし、その後の研究の経過をみてみると、仮説の温認というより、データの再吟味にもと
づいた批判が大勢をしめるようになってしまった。批判の第一点としては、仮説モデルの提示
の際に傍証として重視されたアカシカの動物行動学的知見に関して、さまざまな地域における
アカシカの行動の知見を整理してみると、地域の環境に応じて行動形態に多様さが認められる
ため、かならずしも高地・低地問の季節的移動がおこなわれていたという保証がないこと、さ
らに、スター・カーが属する時期は森林植生が展開するような時期に相当するため、森林植生
下でアカシカが長距離移動をおこなっていたとは想定しがたいこと、といったような見解が提
示 さ れ た の で あ る (LeggeandRowley-Conwy1
9
8
8
:
1
3
2
1、 Myers1
9
8
9
:
8
88
9
)。
幽
さらに、生業形態から予測される集団行動とは別に、仮説モデルの論拠になっている遺跡の
利用季節の推定方法にも疑義がはさまれた。 C
l
a
r
kらは、利用季節を推定するにあたってアカ
シカの角などを利用しているが、それらは道具の素材になりうるものであるだけに、人為的に
採取されたり保存されたりする可能性が高く、遺跡での利用季節を推定するための安定した指
P
i
t
t
s1
9
7
9
:
3
7、 G
r
i
g
s
o
n1
9
8
1
:1
1
9
) 。より安定した指標とし
標にはなりえないという問題がある (
て LeggeandRow1ey-Conwy (
i
b
i
d22・
3
9
) は、ノロジカやアカシカの歯の解析から死亡季節を推定
することによって、スター・カーが晩春から夏にかけて居住されていることをつきとめた。ま
た
、 C
l
a
r
kは 、 生 業 体 系 の な か で ア カ シ カ が 主 要 な 食 料 源 で あ っ た こ と を 前 提 に 仮 説 モ デ ル を
提示したが、スター・カーから出土した各種の動物遺存体の個体数をカウントし直すと、相対
的にアカシカの割合が低いこと、ノロジカなどもよく狩猟されていることがあきらかとなった
(P
i
t
t
s 1
9
7
9
:
3
8・
3
9
) 。遺跡の性格を理解するうえでは、アカシカ以外の断片的な痕跡しかのこ
さ れ て い な い 動 物 の 狩 猟 季 節 を も 加 味 す る 必 要 性 を 主 張 し た Andresen ら は 、 遺 跡 形 成 論 的 な 視
点から、スター・カーがある特定の季節だけではなく
1年 中 の さ ま ざ ま な 季 節 に 断 続 的 に 利
用されていた狩猟・解体のための地点であったのであろう、との指摘もあわせておこなってい
ta
l
.1
9
8
1:
3
2・3
3
)
る (Andresene
以上のような利用季節の推定に対する見直しは、スター・カーが拠点的な集落であったとの
C
l
a
r
k(
i
b
i
d
;3
1
) の見解にも修正を迫ることになった。具体的には、骨角製狩猟具や掻器が多出
していることからみて、拠点的な集落として理解するよりは、骨角製狩猟具の製作や動物の毛
i
t
t
s 1
9
7
9
:
3
2・
3
3
) 、という
皮 の 処 理 作 業 が 集 中 的 に お こ な わ れ て い た 遺 跡 と み た ほ う が よ い (P
意見がだされている。また、スター・カーから出土したアカシカやノロジカなどの遺存体の部
位別出現頻度が、 B
i
n
f
o
r
d (1978) が 報 告 す る ヌ ナ ミ ウ ト ・ エ ス キ モ ー の カ リ ブ ー 狩 猟 キ ャ ン プ
にのこされた動物骨の部位別頻度ときわめて類似することから、スター・カーは、狩猟キャン
プの性格を有していた遺跡なのではなし、か (LeggeandRowley-Conwyi
b
i
d69・
9
3) 、 と い う 想 定 も
欄
1
1
帽
提案されている。 Legge ら は 、 狩 猟 キ ャ ン プ で 狩 猟 ・ 解 体 さ れ た の ち 、 食 料 に 関 連 す る 部 位 が
選択的に本拠地へ持ち運ばれていたことを推測している。
以上のような批判を整理すると、スター・カーは、おもに夏季居住の結果のこされた遺跡で
あり、さらに拠点的な集落と理解するよりは、狩猟キャンプのような特定作業がおこなわれた
地点と想定したほうがよい、ということになるであろう。こうした理解が妥当ならば、低地と
l
a
r
kの ( ア カ シ カ 追 尾 モ デ ル 〉 は 、 抜 本 的 な 修 正 を
高地とを季節的に標高移動するという、 C
要することになったといえよう。
b.石 器 組 成 ・ 遺 跡 規 模 に よ る 研 究
動物遺存体とは異なる検討対象によって、ブリテン島における中石器時代の移動・居住形態
e
l
l
a
r
s (1976a) や Simmons (1979) 、 Myers (1989) である。このうち、
を考察しているのが、 M
Myers の 論 考 は 、 中 石 器 時 代 前 半 期 か ら 後 半 期 に か け て の 遺 跡 規 模 、 利 用 石 器 石 材 、 石 器 製 作
o
r
g
a
n
i
z
a
t
i
o
n of t
e
c
h
n
o
l
o
g
y
) 論の観点から説明しようとしたものである。
技術の変化を技術組織 (
Simmons の 論 考 は 、 高 地 に お け る 森 林 焼 却 と そ れ が 生 業 活 動 に お よ ぽ す 影 響 に つ い て 考 察 し て
いるものである。両者ともに、移動・居住形態の復元が、資料の具体的な分析・操作をともな
っておこなわれているわけではないため、ここでは上記の紹介だけにとどめておく。一方で、
M
e
l
l
a
r
sは 、 各 種 デ ー タ を 分 析 ・ 操 作 す る こ と に よ っ て 、 移 動 ・ 居 住 形 態 の 復 元 を お こ な っ て
いる。以下では、その論議の展開をおってみることにしよう。
M
e
l
l
a
r
s(
i
b
i
d
) はまず、動・植物相に関する古環境分析から復元される資源状況を考えると、
アカシカを主要な対象とした動物狩猟とともに、水産資源や植物質食料の獲得も生業体系のう
えでは大きな位置をどしめていたことが推測されることから、それら複数の部門を対象にした生
業活動に従事するために、集団がある季節には集合し、ある季節には分散する離合集散という
事態を想定する。とくに、資源が欠乏する冬季には、積雪量・気温・風などの条件がよい低地
でアカシカ狩猟や漁労活動に従事するために、比較的大きなサイズの集団が形成されていたの
ではないかと推測する。一方、植物質食料のように、量的に安定して資源の獲得地点が分散し
ている対象におもに依存する夏季においては、分配の必要性も生じないことから、集団サイズ
は冬季と比較すると相対的に小規模なものになることを推測する。そうした季節的な集団サイ
ズの差は、遺跡の規模に観察される類型的な差異に反映するものと考え、遺跡の規模から遺跡
での占地期間とともに居住していた集団サイズの推論もおこなっている。その結果、低地には
大規模な遺跡が、高地には小規槙な遺跡がみられる傾向があること、さらにハシバミや掻器の
出土を勘案することによって、低地もしくは沿岸域の遺跡の多くが冬季に数家族が結集して利
用されたもの、高地は冬季より分散した集団がおもに夏季に利用していたもの、と解釈した。
M
e
l
l
a
r
sは ほ か に 、 狩 猟 活 動 と 結 び つ い た 森 林 へ の 火 入 れ の 存 在 を 想 定 し (
M
e
l
l
a
r
s 1
9
7
6
b
)
それと移動・居住形態とのかかわりについても考察 (
M
e
l
l
a
r
s and R
e
i
n
h
a
r
d
t1
9
7
8
) をおこなって
いる。
ブリテン島の中石器時代遺跡のなかでは、スター・カーのように
な動物遺存体が検出さ
れている遺跡はきわめて少数である。 M
e
l
l
a
r
s らは、このような状況のもとで、古環境分析の
結果から想定される資源利用の状況に、遺跡規模や石器組成などの検討結果を照合することに
よって、移動・居住形態の仮説モデノレを提示しようとする。動物遺存体のような稀少な資料で
帽
1
2-
なく、普通的に認められる資料を検討対象にとりあげようとする指向性は、きわめて重要な意
味をもっていよう。また、遺跡規模、石器組成の差を機能論的観点から解釈したという点では、
ムステリアン論争における B
i
n
f
o
r
dら (
1
9
6
6
) の主張以降の潮流によく合致しており、遺跡間
変異に対する機能論的解釈が具体的に展開されているところでも、論議の展開が示唆的なこと
はたしかである。
しかしながら、解釈にいたるまでのプロセスには、さまざまな問題点を指摘することが可能
e
l
l
a
r
sは 動 物 遺 存 体 が 検 出 さ れ て い な い 遺 跡 に 関 し で も 利 用 季 節 の 推 定 を お
である。第一に、 M
こなっているが、そこでの季節性推定の方法は、あきらかに最密さを欠いているものといわざ
るをえない。その内容を具体的に述べると、検討の対象とした遺跡から揖器やハシバミが出土
した場合、掻器の出土は、良質な毛皮が獲得できる冬季の集中的な狩猟・解体作業の結果を示
し、またハシバミは、越冬用食料として保存されていたものと佼定することで、冬季居住の遺
跡と判定する (
M
e
l
l
a
r
s1
9
7
6
a
:
3
9
23
9
4
) といった具合である。
輔
a
l
i
m
p
s
e
s
t
) の存在を指摘しておきながら、遺跡規模の差異を主要な指
第 二 は 、 重 複 堆 積 物 (p
標にして設定された類型が、遺跡での占地期間や占地していた集団サイズの差異を反映してい
ると論じている点である U
b
i
d
:3
7
7
3
8
0
) 。こうした解釈は、しかしながら、累積的・回帰的に
跡が形成される可能性を考慮にいれるならば、いま一度再考が必要なことはあきらかであろ
う。遺跡規模の解釈をおこなっていくためには、すくなくとも遺跡の形成過程に関する行動と
痕跡のあいだの何らかのモデル化を試み、それに則った解釈の提示をおこなっていくべきであ
る
。
Ia
r
sは 遺 跡 間 で の 遺 跡 規 模 ・ 石 器 組 成 ・ 遺 跡 立 地 の 差 異 を 手 が か り に し て 、 移 動
第三に、 Mel
・居住形態の復元にアプローチしているが、そうした諾項目の差異が遺跡間接続の成立の必然
性を導きだすことにはなっていない点を指摘しておきたい。この点について詳しくは後考して
みたい。
(2) 南 ス カ ン ヂ ィ ナ ピ ア の 移 動 ・ 居 住 形 態 研 究
a.南ノノレウェーにおける研究
南スカンディナピアのなかでも、特異な地形環境のなかでの(集団〉の行動連鎖のパターン
が論じられている南ノルウェーの研究動向を最初に検討し、さらに補足的にデンマークの研究
についてもとりあげていきたい。
南ノノレウェーの中石器時代は、プオスナ I ・フォスナ H ・ネストベット I ・ネストベット E
に区分され、フォスナ文化期は 1
0,
000'
"
'
'8,
1
O
O
y
r
sBP、 ネ ス ト ベ ッ ト 文 化 期 は 8,
1
0
0'
"
'
'5,
2
0
0
y
r
sBP
と い う 年 代 観 (Nygaard1
9
9
0
:
2
2
9
・
2
3
1
) が あ た え ら れ て い る 6。
)
スカンディナビア半島の南部は、特異な地形的特性をもっている地域である。沿岸部では、
氷河の浸食作用によって形成されたフィヨルドが内陸奥深くまで達しているため、複雑に入り
組んだ海岸線がみられ、さらにそこには大小さまざまな島が点在しており、海岸沿いや島とい
っても外洋に接するエリアか内湾のエリアかで、自然環境に顕著な差が生じることになってい
る。くわえて、海岸線から半島の中央を南北に縦断する脊梁山脈までの距離が比較的近接して
いるため、短距離のあいだに標高が急、上昇し、それにともない自然環境も急激に変わることに
欄
1
3-
l グィステ洞穴
2 レルムーノレ E
3 ハランゲーノレピ 7
4 エノレテベレ貝塚
5 パネット・ノ6
ホノレメガード
7 リングクロスター
6
5
60。
し
l﹁
﹁
図1
・3 南スカンディナピアの遺跡
-1
4・
なる。
フォスナ文化期の沿岸部の遺跡においては、そうした多様な自然環境中の豊富な水産資源に
照準をあわせた活発な漁労活動がおこなわれていたとともに、小規模ながら狩猟活動もおこな
わ れ て い た こ と が 、 遺 跡 の 立 地 や 分 布 、 出 土 す る 石 器 組 成 か ら 推 定 (Bang
岨加 d
e
r
s
e
n 1
9
9
6
:
4
3
1)
されている。フォスナ文化期の遺跡では、ノルウェー南東のレノレムーノレ E遺 跡 に お い て 典 型 的
に復元されているように、短期間の居住活動しかおこなわれていなかったと考えられている
(
S
k
a
rand C
o
u
l
s
o
n1
9
8
7
) 。一方、次代のネストベット文化期になると、沿岸部における遺跡は、
フォスナ文化期の遺跡と比較するとその規模が大きくなっているため、遺跡における滞在時聞
が よ り 長 く な っ て い た 傾 向 が 指 摘 さ れ て い る (Nygaard 1
9
8
7
:
1
5
0
・1
5
2、 1
9
9
0
:
2
3
1 233) 。南西ノノレ
幽
ウェー沿岸部のネストベット文化期に属するヴィステ洞穴から出土した資料の分析では、漁労
や珪獣・海獣狩猟など各種の生業活動が通年的におこなわれていたことがあきらかにされてお
り (Mikkelsen 1978:88θ4) 、 定 住 化 へ の 動 向 を う か が う こ と が で き る 。 い ず れ に し て も 、 雨 期
を通じて基本的な居住活動は、沿岸部において営まれていたと考えてまちがいなかろう。
南ノルウェー中石器時代の移動・居住形態を理解していくためには、フォスナ・ネストベッ
ト両期を通じて存在する内睦の山岳・高地帯の遺跡の解釈が問題となる。内陸部で発見されて
いる遺跡からは動物遺存体が検出されていないため、具体的な生業形態を藍接的には把握でき
ない。しかし、当時の動物相に関する古環境的な知見と、現生トナカイの移動ノレートに近接す
る地点に遺跡が立地することからみて、
トナカイやエノレクを対象とした狩猟活動が内陸部でお
d
r
e
l
i
d1
9
7
5
:
1
4
1
6、 Bang-Andersen 1
9
8
9
:
3
4
7
) 。サケ科を
こ な わ れ て い た こ と が 考 え ら れ て い る ( In
対象とする内水面持、労がおこなわれていた断片的痕跡もみつかっているが、生業活動のなかで
のウェートは相対的に低かったとみられている。重要なことは、以上のように推定される資源
だけでは、内陸部のなかだけでの通年的居住を維持することが、この段階ではまだ困難であっ
l
n
d
r
e
l
i
d1
9
7
8、 Bang-Andersen1
9
9
6
)。
たことを示唆している点にある (
遺跡規模が小さく、石器組成には偏りがみられる(内陸部の遺跡、では石斧などがみられな
し、)、といった考古学的記録の傾向性が認められることの多い内陸部の遺跡は、短期間利用の
ための狩猟キャンプの性格を有しており、沿岸部からの季節的移動の結果のこされた可能性が
推 定 さ れ て い る (Mikkelsen 1
9
7
8
:1
06
・
1
1
0、 BangAndersen 1
9
9
6
:
4
3
34
4
0
) 。沿岸部と内陸部とを季
輔
帽
節的に移動するという行動連鎖のパターンは、比較的狭い地理的範囲内に異なる地形的景観が
接しているという、当該地域の特異な地形的・環境的条件を有効に利用しようとしたあらわれ
n
d
r
e
l
i
d(
1
9
7
5
:
1
6
)や M
i
k
k
e
l
s
e
n(
1
9
7
8
:J
0
4
) は、内陸部のなかだけ
とみることができる。また、 I
での通年的居住を想定することが困難になる傍証のひとつとして、沿岸部でのみ産出するフリ
ントが内陸部の遺跡においても石器石材の中心として利用されていることを指摘する。ちなみ
に、移動活動が想定されている沿岸部と内陸部のあいだの距離は、海岸線、が複雑に入り組んで
い る た め 50kmから 200kmまで前後することになる。
b
.デ ン マ ー ク に お け る 研 究
次に、デンマークの中石器時代における移動・岩住形態研究の状況を検討していこう。なお、
デ ン マ ー ク の 中 石 器 時 代 は 、 マ グ レ モ ー ゼ 文 化 期 (9,
500 "
- 7,
7
0
0
y
r
s BP) ・コンゲモーゼ、文化
-6,
6
0
0
y
r
s BP) ・エノレテベレ文化期 (
6,
600"
-5,
3
0
0
y
r
s BP) という j
唄で継起していっ
期(7, 700"
-1
5-
たと考えられている (
T
a
u
b
e
r1
9
7
2
)
エノレテベレ文化期では、沿岸部でも内湾に面する地点には、大規模な員塚や通年居住がおこ
なわれていたと考えられている遺跡が出現する。そして、内臨部の湖・河川沿いや湾内の小
などでは、陸獣・海獣・鳥を対象とした狩猟活動がおこなわれていた痕跡をのこす小規模な遺
跡が検出されている。それらの分布の傾向性から、沿岸部の内湾に面する地点に拠点的な集落
を配置し、内睦部や湾内の小島などに資源獲得のための小規模な派遣隊を繰り出す、という仮
説 モ デ ル (Rowl
e
y
C
o
n
w
y1
9
8
3
:1
1
8・1
2
6
) が提示されている。
このうち内陸部での状況は、ユトランド半島の内睦に所在するスカナボー湖畔に立地するリ
ンクロスター遺跡の動物遺存体を分析した結果、①利用季節が冬・春季であること、②遺跡の
9
9
3
:1
7
91
8
5
) ことにもとづい
性 格 が 狩 猟 キ ャ ン プ で あ る こ と 、 が 把 握 さ れ た (Rowley-Conwy 1
蛸
ている。②は、アカシカやオーロックスの部位別出現頻度が、グリーンランド・イヌイットの
カリブー狩猟キャンプの部位別出現頻度ときわめて類似していることから推定されており、こ
の場合、遺跡で実践におこなわれていた活動としては、アカシカなどが狩猟され解体作業がお
こなわれたのち、食料として利用される部位は、遺跡外に持ち出されていたことが考えられて
いる。
一方、内湾に面する地点に立地するいくつかの大規模な遺跡、は、その遺跡規模や検出された
動物遺存体の分析からみて、季節的に限定して利用されていたとは考えがたく、通年的に居住
活動が営まれていたであろうことが指摘 (
Rowley-Conwy 1
9
8
3
:
1
2
2
・
1
2
3、 Andersen a
n
dJ
o
h
a
n
s
e
n1
9
8
6
) されている。ただし、ヱルテベレ文化期末葉には、内陸部においても河川や湖沼の水産資
源に動・植物質食料を組み合わせることによって、通年的居住をおこなっていた集団が発生し
N
o
e
ていたのではないかとする見解が、プレステリンゲン遺跡などの分析からだされている (
9
8
3
:
1
3
9
1
4
0
) 。そのため、前記の仮説モデルが、エノレテベレ文化期全般にあてはまる
N
y
g
a
a
r
d 1
のかどうかは、予断を許さない状況にあるといえよう。
一方、前段階のコンゲモーゼ文化期では、明確な通年的居住の痕跡がまだ確認されてはいな
いが、同期に属するジーランドの入り江に浮かぶ島に立地していたと考えられているパネット
・ノーなどの調査によって、遺跡内の空間利用に明確なパターン化がみられることがわかって
P
r
i
c
ea
n
d8
r
i
n
c
hP
e
t
e
r
s
e
n1
9
8
7:
9
4
・
9
9、 8
r
i
n
c
hP
e
t
e
r
s
e
n1
9
8
9
:
3
2
83
2
9
) 。居住活動のなかでの空
いる (
岨
間利用の分割・規則化が進行していたことがうかがえる。こうした現象は、定住的な居住活動
が営まれる前段階の様相を示すものと評価することが可能かもしれない。コンゲモーゼ文化期
の遺跡、には、湖畔に立地するものと入り江沿いに立地するものとが認められる。だが、両者に
立地している遺跡は、いずれも検出された魚類や動物遺存体から夏季利用と推定されており
(
8
r
i
n
c
h P
e
t
e
r
s
e
n 1
9
7
3:
9
3・
9
8
) 、季節性を軸として補完的状況が復元されているわけではない。
マグレモーゼ文化期に属する内陸部の湖畔に立地するホルメガード遺跡は、長いことマグレ
P
r
i
c
e 1
9
8
0
:
2
2
2
)
モーゼ‘文化期のなかでも唯一冬季に利用されていた遺跡と考えられていた (
しかし、出土したイノシシの歯の分析によって、夏季に利用されていた遺跡と推定されること
Rowley-Conwy 1
9
9
3
:
1
7
9
・
1
8
4
) 。そのため、コンゲモーゼ文化期と同様にマグレモー
になった (
ゼ文化期の段階でも、内陸部の湖岸に立地するほとんどの遺跡は夏季に居住されていたことに
なり、明確に冬季利用が把握されている遺跡は、デンマークでは現在みつかっていないことに
-1
6-
なる。こうした状況を説明するために、マグレモーゼ、文化期の段階では旧海岸線が現在よりも
かなり低位にあり、当時の沿岸部の大部分は現在水没してしまっているため、いま海面下にな
っている大陸棚にこそ冬季利用されていた遺跡があるのではないか、という推定が提案されて
し
、
る (
R
o
w
l
e
y
C
o
n
w
y
I
9
9
3
:1
8
0
・1
8
4
)。
以上のように、海岸線の変化による遺跡の水没という事態が、デンマークのマグレモーゼ・
コンゲモーゼ雨期の移動・居住形態の復元に大きな制約をあたえているのはあきらかである o
デンマークと比較すると地殻の隆起が顕著であった南ノルウェーでは、旧港岸線と現在の海岸
線の位置がそれほど変わっていないため、沿岸部における遺跡、が水没を免れているのとはきわ
I
n
d
r
e
l
i
d1
9
7
5
:
1
1
1
4、 P
r
i
c
e1
9
8
5
:
3
4
23
4
5
) 。動物遺存体が検出されている遺跡
めて対照的である (
嚇
が多いため、一遺跡がもっている情報量は比較的豊富なのであるが、それに対して全体的な移
動・居住形態の復元がいまひとつ進捗していないデンマークの中石器時代研究は、海水面の変
化といったマクロな自然地形の変化が、遺跡の遺存状況、ひいては復元される移動・居住形態
像に大きな影響をあたえる可能性があることを示唆している。後氷期初頭の移動・居住形態研
究をすすめていくうえでは、そうした変化が遺跡の遺存にどのような影響をあたえているのか
について、つねに注意をはらっておく必要性があろう(第I
V章参照)。
(3)仮説モデノレの導出過程
ここまで、ブリテン島と南スカンディナピアにおける移動・居住形態研究について検討をく
わえてきた。以下では、提恕された仮説モデノレの導出過程をめぐる問題について考察していき
たい。
a.動物遺存体の検討にもとづく仮説モデノレ
l
a
r
kや デ
遺跡から検出された動物遺存体の分析にもとづいた仮説モヂルは、ブリテン島の C
o
w
l
e
y
C
o
n
w
yの 研 究 に み ら れ る よ う に 、 遺 跡 利 用 の 季 節 性 に 着 目 す る こ と に よ っ
ンマークの R
て、複数の遺跡間でのつながりをあきらかにしようとしているものである。彼らがとくに注目
しているのは、遺跡聞における〈相互補完性〉である。すなわち、ある任意の(地域〉が冬季
居住を示す遺跡によってしめられるならば、夏季居住を示す遺跡もしくは(地域〉とのあいだ
で、何らかの行動連鎖上のつながりが存在しなければならないからである。こうした(相互補
完 性 〉 の 指 摘 は 、 ま さ に 第 2節 で 述 べ た よ う な 、 行 動 連 鎖 の パ タ ー ン に か か わ る 傾 向 性 を 、 あ
る地理的範囲内の考古学的記録のなかから明解に摘出しているものといえるだろう。それによ
4 の aは 、 こ の 仮 説
って、季節的な標高移動の存在が端的にとらえられているのである。図 1
モデノレを理想、形に仕上げた状態を示しているものである。
また、ネガティブな手続きではあるが、動物遺存体の再検討によって標高移動を中心とする
移動・居住形態の仮説モデルが反証された場合、 i
設に一定の地理的景観内を範囲とする移動・
e
g
g
ea
n
dR
o
w
l
e
y
C
o
n
w
y(
1
9
8
8
:
9
4
・
9
6
) は、そうし
岩住形態を推定することが可能になる。実際、 L
た手続きによって一定地域内での短距離・周囲的移動という結論に到達している。 L
e
g
g
e らの
研究は、移動・居住形態を復元する論拠を動物遺存体の検討にもとづく遺跡の利用季節にもと
めた点で、結論はまったく正反対でありながらも、 C
l
a
r
kの 視 座 を 引 き 継 い で い る こ と は ま ち
がし、ない。
-1
7-
動物遺存体の分析にもとづく遺跡の利用季節の推定は、生物学的現象に高い一般性・汎用性
B
i
n
f
o
r
d1
9
7
7
) 、現生種のパターンを先史考古学
を認めるミドノレ・レンジ研究の視点にたって C
の資料解釈にも適用しているものであり、
(生物学的一般性)という枠組みに依拠して提示さ
れた仮説モデルとみることができる。動物の成長という〈生物学的現象)を、考古学的記録に
認められる傾向性の意味づけに適用することによって、移動・居住形態という(文化的現象)
を解釈しようとしている点に、上記した仮説モデルの特徴が集約しているとみてもよかろう。
1
a
r
kの 仮 説 モ デ ル に 関 し で も 、 い く つ か の 問 題 点 を 指 摘 す る こ と は 可 能 で あ る 。
もちろん、 C
C
l
a
r
kが 提 示 し た 仮 説 モ デ ル が 成 立 す る た め に は 、 ま ず 以 下 の よ う な 問 題 が 解 決 さ れ な け れ ば
ならない。すなわち、
トナカイやアカシカといった陸棲晴乳動物を対象とする狩猟活動が、特
定の季節だけに限定しているのではなく、通年的におこなわれていたことが前提条件として成
立している必要がある。さきにふれたように、考古学的記録に痕跡をほとんどのこすことのな
い植物質食料が、北西ヨーロッパの中石器時代の生業形態のなかで大きなウェートをしめてい
C
1
a
r
k
e 1
9
7
6
) 。植物質食料や水産資源を対象とする
たとする推論は、以前からなされている C
生業活動が、ある特定の季節に専従的におこなわれていたとすると、
(相互補完性)が成立す
る必然性にも修正の必要性が生じるのである。残念ながら、こうした前提条件に対する検証は、
これまで充分におこなわれておらず、今後に検討の余地をのこしているのはまちがいないであ
ろう
CRowleyConwy 1
9
8
7
:
7
5
) 。 生 業 体 系 の 解 明 、 と り わ け 第 3節 で ふ れ た 食 性 復 元 は 、 そ れ に
帽
対する有効な解決策のひとつになりうると考えられよう。
また、 C
1
a
r
kが 仮 説 モ デ ノ レ を 提 示 す る に あ た っ て は 、 当 時 の 資 料 的 な 制 約 も あ っ て か 、 ス タ
ー・カーからえられたデータ分析におもに依拠して議論を展開している。しかし、低地とされ
る(地域〉に分布する遺跡、高地とされる(地域)に分布する遺跡の両者において、仮説モデ
ルと整合的な傾向性がみられるのか否かの検証が必要なことはいうまでもなかろう。
b.石 器 組 成 ・ 遺 跡 規 模 の 検 討 に も と づ く 仮 説 モ デ ル
次に、動物遺存体以外の石器組成や遺跡規模を検討対象とした諾研究について考えてみるこ
とにしたい。ここでの議論は、第一に、石器組成や遺跡規模に関する遺跡聞での(相互補完
性)が成立するのか否か、第二に、
(地域〉の措定とそれにもとづいた移動・居住形態の復元
について、焦点をあてていくことにする。
M
e
l
l
a
r
s C1
9
7
6
a )がブリテン島における中石器時代の移動・居住形態を解釈するにいたった
論理展開をみてみると、遺跡間での大規模ー小規模遺跡の組合わせ、もしくは石器組成の変異
が同一集団の活動差を反映しているとの前提的な了解にたって、それらの組合わさりを介して
跡間接続を復元しようとしていることがわかる。こうした対象をあっかうときには、発掘調
査によってえられたデータが遺跡規模や石器組成の実態をどれほど反映しているのか、という
データ処理の場面での問題が無視できないのはいうまでもなしい¥しかしながら、より本質的
な問題と想定されるのは、石器組成や遺跡規模の変異から(集団)の活動差を読みとる際の方
法論的妥当性であろう。
M
e
l
l
a
r
sC
i
b
i
d
: 3
8
6
) が石器組成の変異として摘出しているのは、①細石器が組成中で卓越す
る石器群、②スクレイパーが組成中で卓結する石器群、③細石器とスクレイパーの両者がほぼ
同じ比率の石器群、の三類型である。それぞれの類型は、
酬
1
8-
(集団)が営んでいた行動連鎖のな
O
高地
夏季居住と推定された遺跡
A 冬季居住と推定された遺跡
低地
内陸部
沿岸部
a 動物遺存体の検討にもとづく仮説モデノレ (
C
l
a
r
kや Rowley-Conwyなど)
小規模遺跡
@断片的石器組成
成
組
跡器
遺右
模的
規羅
大網
Aぬ
低地
内陸部
b 遺跡規模や石器組成の検討にもとづく仮説モデル
C
M
e
l
l
a
r
sや B
a
n
g
A
n
d
e
r
s
e
nなど)
図 1
4 北西ヨーロッパの移動・居住形態仮説モデル
-1
9-
かの部分的な接跡を表示しており、部分相互をつなぎ合わせていくことによって、全体的な移
動・居住形態の復元が可能になると考えられている。なお、部分相互のつなぎ合わせにあたっ
ては、
〈本来的な石器組成〉なるものが仮定され、それが準拠枠となっていることは否定でき
ない。つまり、細石器やスクレイパーは、相互に性格がまったく異なる石器器種であるため、
そのどちらかが偏って検出されるのは、遺跡での活動の変異を示唆しているのであって、両者
が組合わさることで(本来的な石器組成)は構成されるのであろう、との坂定である。
しかしながら、ここで注意すべきなのは、こうした仮定が成り立ちうる諸条件について議論
が充分につくされているわけではない、という点である。前述したように、動物遺存体の分析
による遺跡の利用季節の推定に依拠した仮説モヂノレの場合、
(生物学的ー殻性〉という枠組み
を適用することによって、考古学的記録のなかからく相互補完性〉を示す傾向性を摘出するこ
とが可能であった。それに対し、石器組成や遺跡規模の検討による場合、どのような石器組成
の類型どうしが、あるいは、どのような遺跡規模の類型どうしが接続するのかに関して、有効
な指擦をあたえるような準拠枠は存在しないのである。
したがって、石器組成や遺跡規模の検討から移動・居住形態の復元を試みるときには、遺跡
間接続の蓋然性をできるだけ高めようと努めることが肝要である。そのために、対象にできう
るかぎりの時間的思定をくわえ、複数の遺跡において遺物の共伴関係を慎重に検討し、くわえ
て、石器製作技術、とりわけ剥片剥離技術の異向の確認がおこなわれるべきであろう。ただし、
B
i
n
f
o
r
d (1979) が 提 起 し た 「 技 術 的 組 織 (
o
r
g
a
n
i
z
a
t
i
o
n of t
e
c
h
n
o
1
o
g
y
) J 概念が示唆するように、
(集団〉が直面するさまざまな状況に応じて、遺跡内・間で石器製作技術に変異が生じる可能
性は、充分に想定しておかねばならない。対象とする資料が帰属していた地域的状況(石材環
をふくめた自然環境および社会的諸環境)の復元や、石器製作技術の比較をおこなった際に
利用した属性の性格の解明(おもに石器石材、剥離工程、剥離方法、製作・使用・廃棄状況の
それぞれに規定をうけている属性の摘出)が、ここで必要となってくるのである。石器製作技
術の比較研究に関するこれらの検討課題の見通しについては、ここで詳述することができない
ため、7:J
J
It
議会において論ずる機会をもうけたい。
次に、南スカンディナピアの中石器時代を対象とした移動・居住形態研究について考察して
し、く。
南 ス カ ン デ ィ ナ ピ ア に お け る 移 動 ・ 居 住 形 態 研 究 の 特 徴 と い え る 点 は 、 Mikkelsen (1978) あ
d
e
r
s
e
n (1996) の 議 論 に み る こ と が で き る よ う に 、 何 ら か の 地 理 的 景 観 に よ っ て
る い は BangAn
鴫
踊される(地域)を検討対象として先見的に措定し、そこから検討を出発させていることにあ
る。この場合、沿岸部や内陸部、低地や高地などがそうした(地域〉に該当することになる。
ブリテン島の中石器時代に関する C
l
a
r
kの 仮 説 モ デ ル に も 、 こ う し た ( 地 域 ) の 措 定 と い う 考
え方をうかがうことはできるが、南スカンディナピアにおける諾研究のほうが、それをより明
示的に議論の出発点にしているといえるだろう。
こうした(地域)の措定にもとづいて、南ノノレウェーにおける内陸部の遺跡を沿岸部の遺跡
と対比させてみると、①いずれも小規模(造物のひろがりおよび遺物密度)で、②石器組成に
偏りがみられる、という傾向が考古学的記録に認められることが指摘された。くわえて、古環
境に関する分析(植生や動物相の検討にもとづいて予測される資源量とその季節的変動)によ
-20-
って、内陸部のなかだけでの通年的な居住活動を維持するのは困難であったことも、あわせて
推定された。以上の結果をふまえて、沿岸部と内臨部とのあいだで季節的な標高移動がおこな
われ、とくに内陸部は夏季を中心にした期間にのみ利用されていたのであろう、との仮説モデ
ノレが提示されたのである。
南ノノレワェーの中石器時代研究において、沿岸部と内陸部とのあいだに認められる対照的な
考古学的記録の傾向性が、フォスナ文化期からネストベット文化期にいたるまで、すなわち、
中石器時代金般を通じて存在していたと指摘されている点は、注目すべきことである。これは、
内陸部で観察された考古学的記録の傾向性が、決して一時的な状況を示しているのではなく、
長期にわたって存在し続けたパターンの反映である可能性が高いことを示唆していると考えら
れよう。 Mikkelsen ら の 仮 説 モ デ ル が 依 拠 し て い る 考 古 学 的 記 録 の 傾 向 性 は 、 沿 岸 部 の な か だ
けで通年的な居住をおこなっていた人間集団が存在する可能性を、かならずしも排除している
わけではない。しかしながら、考古学的記録の傾向性から想定される内陸部の利用状況が、中
石 器 時 代 を 通 じ て 一 貫 し て 認 め ら れ る と す る な ら ば 、 Bang-Andersen (1996:429-440) が 「 沿 岸 部
o
a
s
t
/
i
nl
a
n
d i
n
t
e
r
a
c
t
i
o
n
) J と呼ぶ移動・居住形態のあり方は、南ノルウェ
一 内 陸 部 の 相 互 関 係 (c
ーの中石器時代における行動連鎖のパターンを考えるうえで、きわめて重要な意義宏もちうる
ことはまちがし、なかろう。
なお、 I
n
d
r
e
l
i
d (1975) や Mi
k
k
e
l
s
e
n (1978) ら は 、 南 ノ ル ウ ェ ー で の 石 器 石 材 の 利 用 状 況 に つ
いて検討そおこない、沿岸部でのみ採取可能なフリントが、内陸部の遺跡で石器石材の組成の
中心となっていることをあきらかにしている。この事例に関しては、交換などによる間接的入
手を想定しがたいだけに、内陸部のなかだけで活動が完結していたと考えることは難しいこと
を示唆していよう。先述したように、こうしたあり方は、季節的な標高移動の存在を支持する
傍証のひとつとなりうるものであり、他地域でも積極的に吟味されるべき対象といえる。
c.小 結
北西ヨーロッパの中石器時代を対象とした移動・居住形態研究の多くが、ある地理的範関内
の考古学的記録のなかから、
(集団)の行動連鎖のパターンを反映するような傾向性の摘出を
試みていること、それにもとづいて近似値的な仮説モデノレが提示されていること、がここまで
の議論によってあきらかにされた。具体的には、沿岸部と内陸部という異なる地理的景観のあ
いだで、動物遺存体や石器組成、遺跡規模などに認められる(相互補完性)に着目することに
よって、そうした傾向性の摘出がなされている場合が多く認められたのである。結果的には、
そうした(相互補完性)の把握によって、遺跡間接続の蓋然性を保証しようとしていたことが
わかる。
このような検討がおこなわれている際に、
(相互補完性)が成立している単位として、何ら
かの地理的景観によって画されるく地域)の措定がおこなわれていることは見逃すべきではな
かろう。すなわち、個々の(遺跡〉が基本的な説明の単位となっているのではなく、措定され
た〈地域〉が説明の単位となって移動・居住形態が復元されているのである。換言すれば、そ
れらの仮説モデノレでは、
(地域)と(地域)とのあいだでの行動上の関係が復元されていると
理解すべきなのである。
このような復元は、個別の〈小集団)によってのこされた移動の軌跡が、遺跡間接続によっ
輔
2
1-
てあきらかにされているというよりはむしろ、ある地理的範囲内で(小集団〉の違いをこえて
展開していた共通の行動連鎖のパターンこそが、そこで把握されていると考えるべきなのであ
ろう。必然的に、仮設される(小集団)のスケールからみれば、それらの研究では、近似値的
な移動・居住形態の仮説モデノレが復元されているにすぎないことになる。行動復元の解像度
(
G
a
m
b
l
e 1
9
8
6
:
2
2・2
4
) という点では、一定の粗さがのこされていることは否定しがたいのであ
R
o
w
l
e
y
C
o
n
w
y1
9
8
7
:
7
7
)。
る (
その一方で、北西ヨーロッパの中石器時代を対象とする移動・居住形態研究が、動物遺存体
の分析結果や古環境分析から推定される資源状況を議論の展開に組み込むことによって、活動
の季節性とその空間的配電を考慮、にいれた仮説モデノレが提示されていること、つまり、遺跡間
の差異を機能分有の観点から積極的に把握しようとしていることがあきらかとなった。季節的
分化を中心にして行動連鎖のパターンが組織だてられ、なおかつそれが、考古学的記録の空間
的なパターンに明療にあらわれていることをあきらかにした意義は大きい。考古学的記録の傾
向性の読みとりにあたって、まず何を重視すべきかという点で、北西ヨーロッパの諸研究がい
くつかの示唆的な分析視座を提供しているのはまちがし、ないのである。
5. 日 本 の 移 動 ・ 居 住 形 態 研 究
(1) 後 期 旧 石 器 時 代 の 移 動 ・ 居 住 形 態 研 究
ここからは、日本の後期旧石器時代における移動・居住形態研究を検討していく。日本の研
究もまた北西ヨーロッパの場合と間様に、どのような検討対象から立論をおこなっているのか
に応じて、研究動向を整理することが可能である。日本ではおもに、①石器製作工程の分析か
ら遺跡間の関係を議論しているもの、②石器組成の変異から遺跡聞の関係を読みとろうとして
いるもの、というこつの方向性が認められる。以下では、それぞれの具体的な内容について検
討していきたい。
a.石 器 製 作 工 程 か ら の 検 討
日本で移動・居住形態の研究が本格化しはじめたのは 1
9
6
0"
'
'1
9
7
0年 代 前 後 の こ と で あ る が 、
潤知のように、埼玉県砂川遺跡における調査・研究がその契機のひとつとなっている。砂川遺
跡の調査・研究の過程で示された接合資料や同一個体資料を用いる検討は、遺跡内の遺物集中
毘(ブロック)間の同時性や関係性をあきらかにするために開発されたものであった(戸沢他
1
9
7
4
) 。それによって、遺跡内から遺跡聞の問題に新たな視点が切り開かれたことは特記され
る べ き で あ ろ う 。 す な わ ち 、 石 器 製 作 工 程 の な か に そ れ ぞ れ の 「 同 一 個 体 資 料 Jを位置づける
ことによって、遺跡、から搬入された個体・搬出された個体を識別し、それを他遺跡から砂川遺
1遺 跡 か ら 他 遺 跡 へ の 移 動 活 動 の 証 左 と す る 安 蒜 政 雄 の 論 議 (1
9
7
7
) は、後期旧石器
跡へ、砂J
)
時 代 に お け る 移 動 活 動 の 存 在 を 立 証 し た 点 で 、 大 き な 意 味 を も つ も の で あ っ た 8。
しかしながら、砂川遺跡における調査・研究の成果からは、以下のような問題点が生じるこ
とになった。まず第一に、砂川型遺跡構造論のそデル(矢島 1
9
7
7
) が定式化されることによ
って、
「砂)1モデノレ J と 呼 ば れ る よ う な 遺 跡 間 の 関 係 性 が 、 研 究 全 般 の な か で 急 速 に 一 般 化 さ
欄
22-
れてしまった点である(野口 1
9
9
6
:1
0
8、 佐 藤 1
9
9
7
:
3
)
0
砂川モデノレ J と は 、 同 質 の 石 器 製 作
作業が複数の遺跡でなかば無限に連鎖していくような状態を想定するものである。いうまでも
なく、こうした復元は、特定の時期的・地域的様相が色濃く皮映しているものと考えられ、単
純に普遍化・一般化することはできないにちがいない(野口
前掲)。移動・居住形態研究の
一般的な方法論を考える場合には、遺跡間の関係性について個別事例からの性急な一般化をお
こなうのではなく、ある地理的範囲内の複数遺跡の分析をふまえて、柔軟に考古学的記録の傾
向性の摘出をおこなっていくことが重要であろう。
第二は、移動活動の範囲をめぐる問題点についてである。砂川!遺跡の調査とその後の研究段
階において、集団の移動活動の範囲そのものを商定することは、議論の直接的な自的にはなっ
ていなかった。しかしながら、砂川遺跡の調査成果に依拠しながら、後期!日石器時代の生活や
社会に関して言及がなされるとき、河川流域もしくは一台地を何らかのレヴェルの集団が領有
9
7
6
:
6
26
4、
していたのではないか、という命題が議論の出発点にすべりこむことになる(近藤 1
岨
小野 1
9
7
6
:
1
31
4、 戸 沢 1
9
8
4
:
6
2
6
6) 。 後 期 i
日石器時代における社会構成の重層性を描きだすため
・
の作業仮説として設定された、
(一河川流域もしくは一台地口何らかの集団の移動活動の範
囲〉という仮定は、しかしながら、図式の簡明さと説明の容易さから、充分な検証作業を経な
いまま、なかば自明視されるようにして、議論のなかで顔繁にとりあげられることとなる。
いうまでもなく、遺跡の空間的な集中から把握される(遺跡群〉が、集団の移動活動の範囲
とみなすべきアプリオリな提拠はない。遺跡の空間的集中をこえた地理的範囲を、集団は移動
の範囲にしていた可能性が充分に想定できるからである。あるいは逆に、ー河川流域よりも小
規摸な範囲を移動していた可能性も充分に想定可能であろう。したがって、移動・居住形態の
論議をおこなっていく際には、そうした前提を検証できるような分析が講じられるべきであっ
たのである。そのためには、複数の遺跡が実際に検討対象の姐上にあげられる必要があったが、
複数遺跡間の分析が具体化しはじめるのは、 1
9
8
0年 代 以 降 に な っ て か ら の こ と で あ る 。
砂川遺跡における調査・研究成果の公表以後、日本の後期!日石器時代遺跡における発掘調査
では、出土遺物の空間的・垂直的分布状態が詳細に記録されるようになった。そして、砂川遺
跡の調査・研究でとりあげられた同一個体資料にもとづく
f遺 跡 構 造 論 J 研 究 が 、 各 地 で 展 開
されるようになった。これにより、一遺跡内での石器製作作業の内容を、個体単位で把握する
ことが可能な資料が量的に増えた。さらに、自然科学のなかで石器石材の原産地推定方法が確
立されたことにより、遺跡から検出された石器石材がどこで採取されたのかについても、特定
が可能になってきている。この二つの方面での研究の深化が、遺跡、間のつながりを論議するた
めのデータ面での基盤を用意することとなる。
9
8
0年 代 以 降 あ ら わ れ る 。 そ の 新 た な 主 張
上記のようなデータを駆使した新たな主張が、 1
とは、石器石材の採取活動が、日常的な生業活動や移動活動のなかに埋め込まれていたとの観
点から、石器製作技術の遺跡間での比較によって、積極的に移動活動の軌跡を解釈しようとす
る も の で あ る 。 具 体 的 に は 、 近 畿 地 方 の 瀬 戸 内 技 法 を 対 象 と し た 山 口 卓 砲 (1
9
8
3、 1
9
9
4
) の所
論をあげることができる。二上山一帯のサヌカイト原産地遺跡とその周辺の遺跡とで、おこな
われている石器製作作業の工程上の内容に差が認められることに着眼した山口は、そのような
現象を「石器製作の異所展開 j と命名し、原産地遺跡と消費地遺跡との相互往復的な移動活動
-2
3-
を 推 定 し て い る 。 絹 川 一 徳 (1993) も ま た 瀬 戸 内 技 法 が み ら れ る 石 器 群 を 対 象 に 、 遺 跡 、 間 の 石
器 製 作 工 程 上 の つ な が り を 論 じ て い る 。 田 村 隆 (1990) は 、 後 期 旧 石 器 時 代 前 半 期 の 石 器 群 を
対象にした研究のなかで、北関東を中心とした黒色頁岩・黒色安山岩の原産地近傍・周辺の遺
跡では、石刃が大量に剥離されているのに対し、下総台地のような原産地から遠隔の河川下流
域では、単独搬入例の石刃が多く検出されているという傾向性を指摘した。こうした傾向性か
ら、原産地近傍・原産地周辺・河川下流域を領域範囲とする集団の周期的な移動活動が護元さ
れたのである。
ここでとりあげた諾研究に共通しているのは、石器製作作業の遺跡間における工程上の差異
にもとづいて、石器製作工程に関する遺跡聞での相互補完的状況が復元されていることである。
つまり、全体の石器製作工程のうち、ある一部分(たとえば二次加工の施された石器)だけが
遺跡で検出される場合、それ以外の工程(石器の素材を製作する工程)は、他遺跡で実施され
ていたと考えなければならない。こうした現象の把握は、遺跡間接続の蓋然性を支持する論拠
となりえよう。
石器製作の工程に関する相互補完的状況が、石器石材の原産地近傍・周辺とその遠隔地との
あいだで成立していると指摘されている点は、きわめて重要である。嬬在する石器石材の原
地近傍・周辺と、そこから遠隔の地域との相互往復的な移動活動が推定されているということ
は、すなわち、台地などのようなある特定の地理的景観内にとどまらない、複数の地理的景観
にまたがる移動・居住形態が復元されている、ということを意味していよう。くわえて、石器
製作作業の遺跡間における工程上の差異をあきらかにしているということは、
f砂川モデノレ j
で含意されているような、向質の石器製作作業が遺跡間でなかば無限に連鎖していく状況とは、
あきらかに異なるあり方が想定されているのである。
同じように遺跡関での石器製作工程のつながりに着眼した分析でも、南関東の後期間石器時
代後半期を対象とした場合には、検討対象があらかじめ台地単位で措定されているため、
(
集
団)が移動活動を実際におこなっていた範囲も台地内部に収数していたように見受けられる
(野口
1
9
9
5、島田 1
9
9
8 な ど ) 。 南 関 東 の と り わ け 武 蔵 野 ・ 相 模 野 荷 台 地 で は 、 N下
段階とされる時期を境に遺跡数が増加し
.v上層
あわせて台地内の河川沿いに遺跡群が形成されるよ
うになる(安蒜 1
9
8
5
) 。当該期のそうした遺跡分布の傾向、あるいは在地の石器石材が利用
される傾向などは、台地もしくはある特定の河川流域が、移動活動の範囲になっていたことを
9
8
6
:
8
0
・
8
3、 安 蒜 1
9
9
0
:
1
8
2
1、 須 藤 1
9
9
1
:
2
2 など)。
強く示唆するものと解釈されてきた(栗島 1
上記の移動・居住形態の解釈も、こうした領向に沿ったかたちで提示されていると考えられよ
。
つ
b.石 器 組 成 間 変 異 か ら の 検 討
次に、遺跡間における石器組成の変異にもとづいた移動・底住形態研究について検討してい
きたい。
日石器時代遺跡の調査をすすめていた加藤晋平らは、
北海道東部の常呂川流域で継続的な後期 l
「常呂川パターン j 仮 説 を 提 唱 し た 。 こ の 「 常 呂 パ タ ー ン J 仮 説 と は 、 い わ ゆ る 石 器 組 成 間 変
i
n
t
e
r
a
s
s
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m
b
l
a
g
e v
a
r
i
a
b
i
l
i
t
y
) が存在するとの視点にたって、常呂川流域に分布する遺跡のう
異 (
ち、直接的生産具(尖頭器・細石刃など)が多出する遺跡、間接的生産具(掻器・削器など)
制
2
4-
が多出する遺跡、石刃生産がおこなわれている遺跡とが、同一集団によってのこされたと想定
9
6
9、 加 藤 1
9
7
0
)。
するものであった(加藤・桑原 1
間一集団の地点に応じた活動差に着目するこの仮説は、石器群の差異を単純に時間差として
繍年的に解釈する従前の研究に対して、機能論的立場から批判的警鐘をなげかけたものといえ
る。その意味では、移動・居住形態研究の領域だけでなく、編年研究においても大きな意義を
もちうるものであった。また、同質の石器製作作業が複数の遺跡でなかば無限に連鎖していく
1モ デ ル j とは異なり、
ような状況を想定する「砂J
「常呂パターン j 仮 説 に お い て は 、 遺 跡 間
の差異を機能分有の観点から解釈することで、異なった活動がおこなわれていた遺跡の組合わ
さりをあきらかにすることが可能となっている。
r
砂川モデノレ」とはあきらかに異なる遺跡、問
の関係性が復元されているといえよう。
しかしながら、遺跡間接続することになる遺跡の摘出の局面では、石器(掻器)の微細な属
性 の 共 通 性 が f間 ー の コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン 下 の 人 間 集 団 J (加藤他 1
9
6
9
:
2
3
2
) のひろがりを示
す、という点から議論が組み立てられていることは注意しておきたい。すくなくとも、石器の
微細な属性の共有は、何らかのレヴェルで実在的な「集団 J を反映している、との命題を前提
に組み込むことによって、この解釈が提示されていることはまちがし、なかろう。
こ う し た 解 釈 の 前 提 に 対 し て は 、 な ぜ 掻 器 だ け が 単 独 で f人 間 集 団 J 弁JjJ
Iの 基 準 に な ら ね ば
ならないのか、という批判がすでにだされている(大井 1
9
7
3
:
1
9
2
0
) 。掻器のもっている属性
の共通性が、
Iの 基 準 に な り う る か ど う か の 蓋 然 性 は と も か く 、
「人間集団 J 弁JjJ
「常呂パター
ン J 仮説が、はたしてどのレヴェノレの「集団 J を 摘 出 し よ う と し て い る の か 、 不 明 確 な こ と は
指摘しておかねばなるまし」実在的な(小集団〉のレヴェルもしくはそれより上位の単位が想
定されているのか、あるいは、本稿で論じてきたような、ある地理的範囲内で共通した行動連
鎖のパターンをのこしていた〈集団〉が想定されているのか、議論の余地はいまだのこされて
いるのである。
「 常 呂 パ タ ー ン 」 仮 説 で 提 起 さ れ て い る 諸 問 題 の う ち 、 石 器 の も っ て い る 属 性 と f集 団 J 認
定とのかかわりという視座は、移動・居住形態とはまた別の新たな問題系を問うことを意味し
ている。ここで充分に紙数を割いてその問題について論議するだけの余裕はないため、早急な
結論をくだすことは避け、後日に理論面での可能性を検討してみることにしたい。
,,,..,..
C•
I
J、市古
すでに指摘(野口
1
9
9
6、 佐 藤 1
9
9
7
) されているように、日本の後期!日石器時代における移
動・居住形態研究の確立にとって、砂川遺跡の調査・研究がはたした役割が大きいのはまちが
いないといえよう。後期│白石器時代では、頻度や距離は別として移動活動が垣常的におこなわ
れていたこと、遺跡で確認できる活動の痕跡はあくまでも断片的なものであること、が実際の
資料によって確認された意義は大きい。次なる問題として認識されたのは、移動・居住形態の
復元という目的からいって、いかにして点(遺跡)から面へ分析の視点を拡張させていくこと
ができるのか、ということにあった。この課題に答えていくために、
B本 の 後 期 旧 石 器 時 代 の
移動・居住形態研究においては、おもに二つの方向からのアプローチがあったことを、ここま
での議論では示してきた o 以下では、それぞれのアプローチの性質と問題点を整理しておく。
遺跡間での石器製作工程のつながりを把撞しようとする視座は、遺跡間接続を把握するため
-2
5-
のきわめて有効な手段といえるだろう。なぜならば、石器製作工程という物理的に不可逆的な
進行を示さざるをえない現象に着目することによって、遺跡間接続の必然性をあきらかにしよ
うとしているからである。北西ヨーロッパの移動・居住形態研究を検討してきた脈絡からいえ
ば、物理的な現象の一般性の高さに依拠することで提示された仮説モデルと評価することがで
きる。このような原理の適用によって仮説モデルが導出されているため、未検証の先見的了解
をもちこまずとも、議論を出発させることが可能となっている。
石器製作工程の検討にもとづいた仮説モデルのうち、石器石材の原産地近傍・周辺とそこか
ら遠隔地とのあいだでの相互往復的移動が想定される場合、石器石材の原産地からの距離を基
準にして設定された(地域)が、そこでの分析単位とみなされている。<地域)相互の関係、を
介して行動連鎖のパターンが復元されるという点では、北西ヨーロッパで提示されている仮説
モデノレと共通点が多いといえよう。そのため、北西ヨーロッパの仮説モデルを検討した際に指
摘したように、
〈小集団)のレヴェノレからみれば、近似値的な仮説モデルが復元されていると
いうことになるのであろう。
ただし、石器製作工程のつながりに関する指摘をおこなっていく際には、以下のような問題
点が整理されねばならなし L その第一は、検討対象とする遺跡、間において、利用されている石
器石材や石器製作技術にどの程度の共通性がみられるのかどうか、を充分に吟味しておく必要
があることである。石器製作工程のつながりを?想定する以上、検討対象とする遺跡問において、
石器石材や石器製作技術に何らかの共通性が認められねばならない。ここで詳細な石器群の比
較研究が必要となる。
第二に、検討対象をどのように措定するのかという問題である。前に述べたように、遺跡の
空間的なまとまりによって画定される遺跡群をく集団〉の移動範囲とする前提から出発するか
ぎり、石器製作工程のつながりを指摘しえたとしても、それで(集団〉の移動・居住形態の全
体像が復元できたというわけにはいかない。入手・利用過程が充分には判明していない石器石
材の組成の傾向から移動範囲を画定してしまうのも同様に問題がある。
第三に、移動・居住形態の仮説モデノレにまで住上げようとするならば、石器の検討だけにと
どまらないで、北西ヨーロッパの諸研究が示しているように、遺跡分布・遺跡規模・遺跡立地
.古環境的分析から復元される資源状況などを包括的に説明する枠組みをつくることが必要で
ある。仮説モデノレの有効性の一端が、説明する事象の広範さによって決定されるとするならば、
石器の分析だけに偏りがちな日本の研究状況では、妥当かっ有効な仮説モデルは提示しがたい
にちがし、ない。各要素を仮説モデルのなかにどのように統合すべきかという点に、これまで以
上の関心がはらわれるべきであろう引。
者 は 第 4節 に お い て 、 石 器 組 成 の 変 異 を 把 握 す る だ け で は 、 遺 跡 間 接 続 す る こ と に な る 対
象の妥当な措定はできないことを、ブリテン島の中石器時代を対象とした M
e
l
l
a
r
s(
1
9
7
6
a
) ら
9
7
0
) が 提 示 す る 「 常 呂 パ タ ー ン J 仮説では、
の 研 究 を と り あ げ る な か で 指 摘 し た 。 加 藤 晋 平 (1
対象の措定を石器・(掻器)の微細な属性の共有からあきらかにしようとしているが、それが
f室主因 j 認 定 と ど の よ う な 関 係 を も つ の か に つ い て 、 細 部 で の 議 論 に 検 討 の 余 地 を の こ し て い
るため、議論の全体の当否を現時点で判断することはできない
ただし、遺跡間の機能分有をとらえていくうえでは、
船
26-
10)
。
「常呂パターン J 仮 説 が 示 し て い る よ
うに、各遺跡における活動差の内容を何らかのかたちで把握することが必要である。石器組成
の変異がその有効な指標のひとつとなりえることはたしかであるが、しかしながら、
〈石器組
成=その場での活動内容〉とは寵接的にはならないことに留意しておかねばならない。石器組
成からその場での活動内容を復元するためには、石器組成を構成する各器種の使用頻度、消耗
性、遺失性、再生可能性、移動・移住時の運搬性の検討、あるいは、石器組成が形成される過
程 で の 累 積 性 の 吟 味 が お こ な わ れ る べ き で あ る ( 白 石 1987、 小 杉 ・ 鶴 田 1989) 。 縄 文 時 代 の
石器研究において着手されているそれらの分析作業は、後期│白石器時代の石器組成に対しでも
実施される必要性が大いにあるといえよう。
(2) 縄 文 時 代 初 頭 の 移 動 ・ 窟 住 形 態 研 究
以下では、縄文時代を対象とした移動・居住形態研究をめぐる問題点について概観してみた
い。とりわけ、墓や貯蔵庫などを取り込んだ集落が出現する縄文時代前期(林 1
9
9
7
:
4
6
47)以
前の段階についてとりあげることにする。縄文時代研究における集落論もしくは領域論と呼ば
れる分野は、本稿でここまで検討してきた移動・居住形態研究と大きく重なる対象を議論して
いる。ただし、それらの多くは、縄文時代前期以降を対象にしているものが多く、そのためこ
こでの議論の対象からは除外することにしたい。ここでとりあげたいのは、とくに(定住論)
と呼ばれる潮流である。
縄 文 時 代 草 創 期 ・ 早 期 の 年 代 観 に 関 し て は 、 近 年 、 加 速 器 質 量 分 析 法 (AMS) を 適 用 し た 放
5,
0
0
0
y
r
s BP以 前 に 、 早 期 の 開 始 も 1
2,
00
射性炭素年代測定の結果、九州地方の草創期の開始は 1
9
9
4
) 。東日本に関しては、デ
O
y
r
s BP以 前 に さ か の ぼ る こ と が あ き ら か に さ れ て い る ( 北 川 1
ータの集積がまだみられないため、詳細は不明である。
a. ( 定 住 論 〉 か ら の ア プ ロ ー チ
縄文時代草創期や早期の居住活動に関するこれまでの研究は、南九州、!や南関東の資料をあつ
かっている場合が多い。近年の検出資料の増加と比較的整備された編年枠が、そうした議論の
成立を可能にしているのであろう。それらの研究は、多くが(定住論)というかたちで、定住
にいたる過程およびその要因を究明することに目的が設定されているのが特徴である。本稿で
検討してきたような、ある地理的範囲内の考古学的記録の検討によって、
(集団〉の行動連鎖
のパターンをあきらかにしようとする研究のほうが、むしろ少ないといえる。
南九州における定住化の確立が、縄文時代早期前半の貝殻文期に位置づけられるであろうこ
9
9
3
) 。さらに近年、竪穴住
と に つ い て は 、 多 く の 意 見 が 一 致 を み て い る ( 米 倉 1984、 雨 宮 1
居祉や土器・石器が多量に検出される事例が増加してきたため、草創期新段階においても定住
9
9
3
:1
013) 。 一 方 の 南 関 東 で は 、 草 創 期 末
化の高まりが想定されるようになってきた(雨宮 1
葉の撚糸文期から竪穴住居士止が多くみられるため、ここに定住化の画期が設定されている(原
9
9
3
:
8
5
) 。しかし、撚糸文期の集落にしばしばみられる竪穴住居祉の重複例から、集落の
田 1
反復的な利用も想定されており(小杉 1
9
9
8
:
3
2
1、谷口 1
9
9
8
:
11 ) 、 定 住 化 の 確 立 が よ り 後 代 に ま
で引き下げられる可能性もある。竪穴住居祉の床面積や堀形のプランなどが総合的に検討され
た結果によれば、南九州を除いた地域での定住的な集落の成立の画期は、早期中葉にもとめら
れている(林 1
9
9
8
)。
-27-
こうしたく定住論)では、分析対象とする遺跡が所与のものとして設定された定住にどれだ
け近づいているのかどうか、に論議の焦点があてられることになる。必然的に、
(定住ー非定
住〉という対立的な図式のもとで、そのどちらかに決するための判断基準を確定することに議
9
8
4、 雨 宮 1
9
9
3、原田 1
9
9
3 など)。このような分析視点は、
論が集約されることになる(米倉 1
たしかに〈定住)が成立するメカニズム、およびそれを考古学的記録からどのように読みとる
べきか、という点について一定の共通理解をもたらしていることはまちがし、ない。しかしなが
ら、このような視点だけでは、定住化のプロセス自体を充分に復元することは難しいであろう。
本稿でのここまでの検討結果を鑑みると、今後の研究の方向性としては、以下のような問題
の検討が必要なことが理解される。まず第一に、
(集団〉の行動連鎖のパターンを理解してい
くうえでは、これまでのようにかぎられた遺跡の検討だけで全体的な状洗を推測していくので
はなく、複数の遺跡間の関係性について充分な検討が必要であろう。遺跡の類型化などがまず
着手されるべき作業といえる。第二に、上記のような検討にもとづいて、移動活動の具体的な
内容、とりわけその頻度や距離、季節的パターンの有無などの解明がおこなわれるべきである。
定住が達成された段階にしろ、定住が達成されていない段暗にしろ、何らかの移動活動がある
地理的範囲内でおこなわれていたことはまちがいない。その特性をあきらかにすることは、生
業対象とのかかわりや活動空間を考えていくうえでも、定住化のプロセスの復元にとっては、
きわめて重要な課題となるにちがいないと思われる。
次に、以上のような課題の解明の端緒となりえる分析作業のいくつかについて、近年の研究
動向のなかから検討してみることにしたい。
b.移 動 ・ 居 住 形 態 復 元 の 可 能 性
桜 井 準 也 (1
9
9
5
:
5・1
1)は、南関東の隆起線文期を対象に遺跡や遺物集中部の類型化を、出土
物の分布面積や密度、それに遺構の検出状況・石器組成・土器出土の有無・遺物の分布構造
などを考慮にいれることでおこなっている。谷口康浩 (
1
9
9
8
) もまた、南関東地方の撚糸文期
の遺跡を、集悲の立地・竪穴住居構造の定型性・住居配置の計間性・竪穴住居の継続性・集落
・
5
) 。両者の試みは、遺物集中部間もしくは
の反復性などを指標にして類型化している(国 1
跡間でのいくつかの要素の差異を手がかりに類型化をおこなうことで、相互の関係性につい
ての具体的な解釈を可能にした点で、きわめて注自に値するものといえよう。
そうした遺物集中部もしくは遺跡の類型化作業が、集団の移動・居住形態復元の第一歩とな
ることはまちがいない。ただし、桜井準也の議論が代表するように、移動活動の範囲をあらか
じめ台地内に収数させている点については、検討の余地がありそうである。たとえば小杉窟
(1
9
9
8
:
3
2
03
2
2
) は、隆起線文期や撚糸文期において、低地である海浜と台地上との周回的な
剛
標高移動の可能性を指摘しており、台地上で移動活動が完結していたのかどうかについて疑問
1
3
1
4
) もまた、撚糸文期の武蔵野台地と下末吉台地・多摩丘
を呈している。谷口康浩(前掲:
陵とのあいだで移動・居住形態、が異なっていた可能性を模索しており、とくに後者においては、
台地から丘陵にまたがる移動活動の存在を推定している。これらとは別に、山間部における洞
穴 ・ 岩 陰 遺 跡 の 利 用 形 態 を 検 討 し た 栗 島 義 明 (1
9
9
8
:
1
2
0
1
2
2
) は、縄文時代草創期・早期の段
階において、山間部への移動にかかわる居住地もしくはキャンプ地として、洞穴・岩陰が利用
・
2
8
嶋
1曜器類型 2 e類裂
。類型 4認類型 5
@類室~
じ
く
図 1
・5 撚糸文期の遺跡の類型化(谷口 1
9
9
8
)
-2
9-
されていたことを推測している。栗島の指摘からは、台地上の開地遺跡と山間部の洞穴・岩陰
跡との関係を立証するために、今後何らかの分析作業が必要であることがあきらかにされた
といえよう。
これらの見解は、台地上の遺跡だけを検討の対象として最初に措定し、それにもとづいて移
動・居往形態の復元をおこなうことの問題点をあかるみにだしているものと考えられる。もち
ろん、海浜部と台地上とのつながり、または台地上と山間部とのつながりに関して、遺跡間接
続の見地からみるかぎり充分な立証がこれまでなされてきたとはいいがたく、そのため、上
の諸見解もまだ可能性の指摘にとどまっているというべきである。しかし今後は、海浜部と台
地上とのつながり、および台地上と山間部とのつながりにくわえて、その両者が一連のものと
なっていた可能性、すなわち、権浜部から山間部までが移動範圏となっていたことをも積掻的
に考患にいれて、相互の関連性を検証していく作業が必要であろう。
移動・居住形態の検討をすすめる手傾のひとつとしては、このように想定可能ないくつかの
状況を考慮、にいれて、考古学的記録の傾向性の吟味をおこなっていくことが有効である。当該
期の検討に関するかぎり、これまで看過されてきたといっても過言ではない、貝塚や洞穴・岩
陰からえられる動物遺存体の分析が、重要な知見をもたらすのではないかと予測される。動物
遺存体の分析にもとづく各遺跡、の利用季節の推定が可能になったならば、北西ヨーロッパの諾
研究をとりあげるなかで紹介したように、季節性を軸とした遺跡簡のつながりを立証する可能
性に途がひらかれよう。もちろん、台地上の諸遺跡で動物遺存体が検出される可能性は今後も
皆無に等しいため、すくなくとも、海浜部もしくは山間部が特定の季節に利用されていたのか
否かの額向性を摘出していくことが、当面は重要といえよう。
ただし、当該期の貝塚に関して注意を要するのは、その多くが縄文海進期の浸食作用によっ
て消滅してしまった、もしくは沖積作用の結果形成された厚い地層下に埋没してしまった可能
性があることである。関東全域をみても、縄文時代早期末葉の条痕文期と比較すると、草創期
末葉の撚糸文期の員塚数は梅端に少ない。ただし、三浦半島周辺でまとまって当該期の貝塚が
発見されているように (
T
o
i
z
u
m
ia
n
dN
i
s
h
i
m
o
t
o1
9
9
7
) 、海底地形や地殻の隆起によって、当該期
から現在にいたるまでの海岸線、がそれほど変化していない地域では、当該期の員塚が良好に遺
存している可能性がある。遺跡の分布をみていく擦には、こうした問題点について充分な考慮、
を は ら っ て お く 必 要 が あ ろ う ( 第 N 章参照)。
6.まとめ
本章では、最初に移動・居住形態研究の基本的枠組みについて整理し、そののち北西ヨーロ
ッ パ と 日 本 に お け る こ れ ま で の 移 動 ・ 居 住 形 態 研 究 の 問 題 点 を 検 討 し て き た 。 第 2節 で 提 示 し
たような、ある地理的範囲内の考古学的記録に認められる傾向性の摘出から、
(集団〉の行動
連鎖のパターンをあきらかにしていくという分析の枠組みは、これまでの移動・居住形態研究
を整理していくうえで、また今後の研究の展望を考えていくうえでも、有効であることが確認
されたといえる。移動・居住形態研究の領域においても、議論の枠組みを方向づける適切な前
開
3
0-
提を設定し、そこから検討作業のプランを導出していくことは、妥当かっ効率的な研究戦略と
みなされるべきであろう。
北西ヨーロッパの移動・居住形態研究を吟味するなかで、日本の当該研究においては見過ご
されがちであった、一遺跡、の分析・評価にとどまらない、広域に散在する考古学的記録のなか
に認められる傾向性に着目すること、活動の季節差とその空間的配置の把握によって、遺跡間
における機能分有の実態を復元すること、の重要性を確認してきた。それらの仮説モデルの提
示にあたって重視されている(相互補完性〉の摘出は、今後も遺跡、間接続の問題を考えていく
うえで、有効な分析視鹿のひとつとなりえるであろう。
ただし、これまでの北西ヨーロッパの諸研究を通観すればあきらかなように、沿岸部と内陸
部とのあいだでの季節的な標高移動を復元している仮説モデノレがきわめて多いため、結果的に、
そうした状況が一般化されがちである傾向は否定できない。移動・居住形態の復元にあたって
は、時期や地域に応じた自然環境・社会的状況の差異を考慮、にいれつつ、考古学的記録に観察
される傾向性を整合的に説明するような仮説モデノレを柔軟に組むことが肝要である。当然なが
ら、季節的な標高移動以外の行動連鎖のパターンの具体的なすがたについて、積極的に探求さ
れねばならないのである。
かりに仮説モデルの構築にあたって、どのような行動連鎖のパターンを念頭においているの
かという点が、考古学的記録の傾向性の読みとりに重大な影響をあたえる可能性を認めるなら
ば、所与の環境下での〈狩猟採集集団)が示す行動連鎖のパターンのバリエーションについて、
また、それが考古学的記録にどのような傾向性として残存するのかについて、議論を要する多
くの問題点がのこされていることはたしかである。こうした問題の体系的解明には、
(エスノ
アーケオロジー)からのアプローチが有用といえよう(阿子島 1
9
9
7
:
1
0
7
)。
本章では、ある地理的範囲内における考古学的記録の傾向性の摘出と、そこからの仮説モデ
ル提示という手続きに関して、積極的な立場から議論をすすめてきたことは事実である。場合
によっては、現実の考古学的記録がきわめて複雑な様態を呈すること、そのために傾向性の摘
出も容易でないことは、充分に視野にいれておかねばならない。しかしながら、傾向性の摘出
が困難なことが確認されたならば、逆に、なぜそのような現象が生じたのかを問うことによっ
て 、 あ ら た な 分 析 の 展 望 が 切 り 開 か れ る の で は な か ろ う か 。 第 5節 の 検 討 で あ き ら か に な っ た
ように、日本の既存の移動・居住形態研究においては、後期旧石器時代、縄文時代初頭を間わ
ず、捜数遺跡問の関係性に関する議論が実践されている時期・地域は、まだきわめて限定され
ている状況にある。今後、さまざまな時期・地域を対象とした事例研究の積み重ねが必要なの
であるが、その際には、日本列島の考古学的記録の特性に適合した仮設モデノレを構築するため
に、北西ヨーロッパとは異なる上述の視座からの検討プランをあわせてもっておくことが、と
きには必要といえよう。
以上の議論によって、移動・居住形態に関する研究の現状と問題点があきらかにされたと考
える。次章以下では、ここで指摘した諸問題を考慮にいれながら、北海道の若刃鍛石器群を対
象とした具体的な検討をすすめていくことにしたい。
北海道の石刃鯨石器群をとりあげたおもな理由としては、以下のような点があげられる。
-3
1-
① 北 海 道 に お け る 当 該 石 器 群 の 存 続 期 間 は 、 共 伴 す る 土 器 型 式 が 浦 幌 式 (女満別式や東釧路 E
- 盟 式 は 、 い ず れ も 浦 幌 式 に 伴 出 す る も の で あ る ) だけにかぎられるように、 きわめて短期
間 で あ っ た と 考 え ら れ る (沢 1
9
6
8 など)
時間的な限定がきわめて容易におこなえるとい
う利点がある。
②大陸・サハリンからの集団移住説が主張(木村 1
9
7
6、 梶 原 1
9
7
6、 吉 崎 1
9
8
6 など) されるよ
うに、石刃鏡石器群は、北海道の在地の縄文時代の系譜からは大きく逸脱しているものであ
る。石器製作技術の基幹的要素をなしている石刃剥離技術に代表されるように、石器群には
独自の特徴が多々認められるため、北海道在地の系譜をひく{也の縄文時代早期の資料からは
容易に区別・摘出することが可能である。
③第二次世界大戦前後から多くの研究者の関心をあつめてきたためか、発掘調査もしくは表面
採
によって、一定の分布のパターンをもちつつも、北海道東部のほぼ全域にわたって極端
な{馬りがなく遺跡は発見されている。 そのため、
跡間変異をおさえた議論が可能となって
いるのである。
このような理由から、移動・居住形態の復元的研究をおこなうにあたっては、北海道の石刃
鯨石器群が格好の題材となりえることが理解できょう。
次
では、石刃鉱石器群をのこした (集団)の移動・居住形態の復元にとって必要な石器製
作技術の復元をおこなうことにする。
暢
32-
H
北海道における石刃鍛石器群の石器製作技術
1.目的
本 章 の 目 的 は 、 羅 臼 町 オ タ フ ク 岩 遺 跡 第 E地 点 ( 涌 坂 ・ 豊 原 1
9
9
1
) 出土資料を主要な検討
材 料 に し て 、 石 刃 蟻 石 器 群 に お け る 石 刃 剥 離 技 術 の 具 体 的 な あ り 方 を 、 そ の 葦IJ離 工 程 ・ 方 法
1)
や利用石材に着目しながら復元することにある。同遺跡からは、石刃鍛石器群に属する良好な
資料が検出されているため、ここでとりあげることとした。
石刃鍛石器群の最大の特色は、多くの石器の素材が石刃剥離技術によって供給されているこ
とにある。したがって、遺跡間比較をおこなううえでは、どの遺跡においても量的に安定して
観察・検討ができる石刃剥離技術を分析対象にすえることがのぞまししリ}。このような観点か
ら、本稿では石刃剥離技術に焦点をしぼり検討をくわえていくことにする。そして最後に、今
後の研究の方向性について展望を示してみたい。
以下では、研究の現状を点検し問題点の整理をおこなう。
北海道の石刃鍛石器群における剥片石器の製作技術、とりわけその石刃剥離技術に関しては、
(真正な〉
・ (美麗な) ・ ( 完 成 さ れ た ) と い う 形 容 が 付 さ れ て 説 明 さ れ 川 、 石 刃 鍛 石 器 群 が
時 間 的 に 位 置 す る 縄 文 時 代 早 期 中 葉 4) の 北 海 道 東 部 の な か で の 特 異 性 が 語 ら れ る 場 合 が 多 い
9
8
6
:
3
0
1
3
0
3など)。こうした、いわば(イメージ)は定着している一方で、実際の資
(吉崎 1
料の技術的属性に吟味をくわえ製作技術の全体像を復元しようとした研究はきわめて少ない。
実際の資料に対して基礎的検討をこころみた研究例としては、石刃核の原形から石刃剥離にい
たるまでの工程の検討をおこなっている東山遺跡、の報告書(斉藤他 1
9
6
6
:
2
9
3
6) 、 剥 離 方 法 に
9
7
2
:1
1
) 、石刃核・石刃・調整剥片などについて要を得
つ い て 言 及 し て い る 加 藤 晋 平 の 論 考 (1
た 記 載 を お こ な っ て い る 木 村 英 明 の 論 考 (1
9
7
6
:
6
・
7
) 、などがわずかにあげられるのみである。
これらの研究以降は、新資料の蓄積がわずかであることも一因となって、石刃蟻石器群の石器
製作技術に関する議論は低調なままの状態がつづいている。
結果的に、第一に、石材がどのように採取され石器製作作業にくみこまれていったのか、第
二に、石刃核の原形から石刃が剥離されるにいたる流れがどのようであったのか、第三に、ど
のような剥離方法により石刃が剥離されたのか、という三点の問題に関して、これまで充分な
把握はなされてこなかったといえる。技術的属性の吟味にもとづいた石刃剥離技術の全体像の
把握が充分にはなされていないため、遺跡間・地域間(石刃鍛石器群が分布する北海道・サハ
d
J
,
内
、
今
リン・アムール川流域などのあいだ)での比較も石刃剥離技術の存在を指摘するといったレヴ
ェノレにとどまっており、石器群を構成する技術的属性のレヴェノレにまで分解しての比較はなさ
れていないのである。
本主主では以上のような問題を考慮、にいれ、石刃鍛石器群における石刃剥離技術の実態を把握
するための基礎的な検討作業をおこなう。本意でおこなう検討は、それぞれの遺跡での石器製
作作業の位置づけを評価するに際しての基準をつくりだすものであり、また遺跡間の比較研究
へむけての基礎的作業として位置づけられるものである。
2.検 討 対 象
北海道の石刃鍛石器群に関しては、これまで充分な接合資料がえられてはおらず、そのため
接合資料にもとづく石器製作技術の検討をおこなうことができない現状にある。接合資料によ
る石刃剥離技術の分析は別途おこなう予定であり、ここでは石刃核や石刃、関連する調整剥片
の属性分析に焦点をしぼり、それを通じて石刃剥離技術の吟味をおこないたい。計測を要した
属性については図 2
1 にその位農を示しである。
検討対象の遺跡としては、石核や石刃、調整!J<l
J
片等が多量に検出され、定量的な分析にもた
えられる遺跡、を選定しなければならない。ここでは、冒頭で述べたようにオタフク岩遺跡第 E
地点をおもな検討対象の遺跡、とする。ただし、石刃核の原形や石刃核に関しては、オタフク岩
9
7
3
) 、豊里
遺 跡 第 H地 点 だ け の 資 料 で は 充 分 な 観 察 が で き な い た め 、 湧 別 市 川 遺 跡 ( 木 村 1
遺跡(米村 1
9
9
2
) 、東山遺跡(斉藤他 1
9
6
6
) 、東神楽 1
4号 遺 跡 ( 岩 谷 ・ 斉 藤 1
9
5
9
) から発見
された資料をも適時、検討対象として利用する。
オ タ フ ク 岩 遺 跡 第 E地点は、 1
9
9
0年 に 羅 臼 町 教 育 委 員 会 に よ っ て 800r
r
iが 調 査 さ れ た 、 根 室
水 道 に 面 す る 知 床 半 島 の 海 岸 段 丘 上 、 標 高 40m の 地 点 に 立 地 す る 遺 跡 で あ る ( 国 2
2
) 。現海
岸線、からは 1
0
0m ほ ど の 距 離 の 崖 上 に 位 置 し て お り 、 海 と の 関 係 を 想 像 す る こ と は 容 易 で あ る 。
竪 穴 住 居 祉 が 5基 検 出 さ れ て お り 、 集 団 に よ る 一 定 の 居 住 活 動 が 営 ま れ て い た こ と は 間 違 い な
い。オタフク岩から検出された石器群の石器組成は、石器 1
3
4
0点 (
1
2.
42% ) 、 石 核 3
4点 (o
.
3
1 %)、石刃 8
3
9 点 0.77 %)、素1
I片 ・ 砕 片 8
5
8
0 点 09.5 % ) で あ り 、 石 刃 や 石 刃 核 、 素1片
・砕片が多量に出土していることからみて、遺跡内で石刃剥離から石器製作作業までがおこな
われていたとみて大過なかろう。
3.石 刃 事j離 技 術 の 検 討
ここでは石刃剥離技術を、原石から石刃核の製作、石刃剥離、石器製作そして石器の変形に
いたるまでに運用される技術と規定する。本章では、そのなかでも利用石材、石刃剥離にいた
る工程上の特徴、石刃剥離方法(打撃・加庄法)、石器の素材、以上の四点の検討をおこなう。
(1) 利 用 石 器 石 材 の 検 討
幡
34-
8
1.長さ
2
0幅
3.厚さ
4 打面幅
0
5
0 打面厚
6
. 打点直径
2
図2
・1 属
↑生
今
、
,J
J
OLZ
図2
・2
とりあげた遺跡の分布(ぬは黒曜石原産地)
-36
幽
IOOkm
オ タ フ ク 岩 遺 跡 第 E地 点 出 土 の 剥 片 石 器 に 用 い ら れ て い る 石 材 の 大 部 分 は 黒 曜 石 で あ り 、 ほ
かには頁岩やメノウがわずかに認められるのみである。黒曜石は央雑物が混じらない良賞のも
のが用いられており、なかには赤い縞がはいる特徴的な母岩もみられる。石刃核や石刃にみら
れる自然面はいずれも平担であり、円磨がすすんだ転様面ではない。したがって、石刃核に用
いられている原石は、河川中下流域ではなく岩脈の露頭ないしその近辺で採取された角礁と考
えられる。
15cm を こ す サ イ ズ の 石 刃 核 や 石 刃 が み ら れ る こ と か ら 、 人 頭 大 の サ イ ズ の 原 石 が
選択されていたと推定されよう。
オ タ フ ク 者 遺 跡 第 E地 点 に ど の よ う な 状 態 で 石 材 が も ち こ ま れ て い た の か を 把 握 す る た め 、
完形剥片の背面における自然面がどれほどの比率であるのか、という「外皮率 j をもとめてみ
る
。 2,
353 点 の 完 形 剥 片 の う ち 、 背 面 に 自 然 面 が み ら れ な い も の が 2,
038 点 (
8
6
.
6
1 %)、背面
に お け る 自 然 面 の 比 率 が 1"
'20%が 1
2
5点 (
5
.
3
1%)、 2
1"
'40%が 67点 (
2
.
8
5%)、 4
1"
'6
0 %が 4
1 点(1.71%) 、 6
1"
'80%が 5
6点 (
2
.
3
8%)、 8
1"
'1
0
0%が 26点(1.1%)である。
当然ながら、外皮率は石器製作技術や遺跡への廃棄の性質に応じて変化するものであり、絶
対的な基準の設定にもとづいて評価をおこなうことはできない。しかしながら、背面に自然面
がまったくない資料が約 8
6 % で 絶 対 数 が 2000点 を こ す こ と 、 自 然 面 が み ら れ な い も の と 外 皮
0 % を こ す 資 料 が 1 %前 後 で 絶 対
率 20 % 以 下 の も の を 合 わ せ る と 90 %をこすこと、タト皮率 8
数 が 26 点 で あ る こ と 、 以 上 の よ う な 分 類 結 果 を み る か ぎ 、 り で は 、 遺 跡 に 原 石 そ の も の が も ち
こまれて剥離が開始されたとは考えがたい。むしろ、ある程度剥離が施された石核の状態で遺
跡内にもちこまれたとみる方が妥当であろう。
以上のような外皮率の検討によって、遺跡内には原石そのものではなく、ある程度剥離がく
わえられた状態のものがもちこまれていたことが判明した。次に、それが具体的にどのような
状態であったのかを考えてみるため、石刃剥離工程の検討をおこない、石刃核の原形について
考えていきたい。
(2) 石 刃 剥 離 工 程 の 検 討
a.石 刃 核 と そ の 原 形
石刃核の原形
石刃核から目的剥片一石刃ーが剥離される以前の段階の資料を石刃核の原形と
呼ぶ。
北海道の石刃鉱石器群研究において、石刃核の原形に関する発言はきわめて少ない。わずか
4号 遺 跡 ( 岩 谷 ・ 斉 藤 1
9
5
9
) や東山遺跡(斉藤他 1
9
6
6
) で発見されたニ例の両面調
に東神楽 1
整石器が、石刃核の罪形に相当するのではないかと指摘されたことがあるのみである(斉藤他
間前 :
3
1・32、 木 村 1
9
7
6
:
7
) 。両例ともに表採資料であるが、両遺跡ともに石刃鯨石器群がか
なり単純にまとまって発見されていること、また以下に述べるように、石刃鍛石器群の石刃核
の原形である条件を充分に備えているものと判断されるため、ここでは検討対象にとりあげた。
両例は、両面に横位からの調整が施され、横断面形が厚手のレンズ状を呈する楕円状のもの
である。ニ{列ともに全長は 13cm を こ し 、 厚 さ は 7 cm 以 上 あ る 。 作 業 面 に 相 当 す る 部 分 に は
調整がすでに施されているが、打面相当の部分には調整がまだ施されていない。東神楽の資料
(
図 2
3 の 1) で は 両 面 に 調 整 が お よ び 自 然 面 は 部 分 的 に し か み ら れ な い の に 対 し て 、 東 山 の
-37-
o
5cm
1:東神楽(木村 1
9
7
6
)、 2:東山
図2
3 石刃核の原形
-3
8-
1
J
J
I (向上 2) で は 両 面 と も に 自 然 面 が み ら れ
とくに左側面は半分以上が自然面によってお
おわれている。
こうした石刃核の原形ではなし、かと指摘される両面調整石器から石刃の剥離を開始しようと
すると、稜形成調整痕付石刃、いわゆる稜付石刃が最初に剥離されることになる。後述するよ
うに石刃鍛石器群には多量の稜付石刃が伴出しており、稜付石刃の存在は、指摘されている両
面調整石器が石刃核の原形に相当することを強く示唆しているように考えられている。
4 号遺跡と東山遺跡、の両遺跡以外では検出
しかし、以上のような両面調整石器は、東神楽 1
されておらず、石刃核の原形としてどこまで一般化できるのか不明である。しかし、こうした
両 面 調 整 石 器 の ほ か に 石 刃 核 の 原 形 と 考 え ら れ る よ う な 資 料 は 、 オ タ フ ク 岩 遺 跡 第 E地 点 を ふ
くめてこれまで確認されてはおらず、そのため現状では石刃核の原形の実態に関して充分な検
討と言及をおこなうことができないo 石刃核の原形の実態について理解を深めようとするなら
ば、原形そのものを直接摘出するのではなく、石刃核や石刃といった他の資料を吟味すること
によって、再度考察をおこなう必要がある。
石刃核
石 刃 鏡 石 器 群 の 石 刃 核 は 、 図 24 に 示 し た よ う に 、 打 面 に は こ ま か い 調 整 が 施 さ れ 、
・
石刃剥離が相当に進行した結果、石刃の剥離面が作業面の全周をめぐるような円錐形を呈する
ものが多い。ただし、上方から打面部をみると円というよりむしろ椅円形に近く、作業簡はや
や角ばった部分を境にして面を構成している o 打面と作業面は相互に明確に分離しているため、
打面以外の部分はすべて石刃剥離作業面となるものが多いことになる。そのため、原形時の面
や石核調整がおこなわれた痕跡がそのままのこされているものは樫端に少ない。以下では、打
面や打面下の作業面に相当する部分に、打面調整や石刃剥離作業面以外のものが観察される事
例について検討してみよう。
石接調整に関連すると思われる痕跡がそのままのこされている事例を最初にあげてみる o 作
業面に相当する部分に連続的な横位調整が施され、直線的な稜線が作られているもの(図 2
4
の 1) が あ る 。 こ れ は 、 石 刃 剥 離 が 進 行 す る 過 程 で の 稜 の 再 形 成 に 関 係 す る も の と 考 え ら れ る 。
ま た 、 石 刃 剥 離 作 業 面 の す べ て の 陰 打 壌 が 加 撃 に よ っ て 切 ら れ て い る 事 例 も あ り ( 向 上 2)
これは打田の再生に関係する資料とみられる。これらの資料から、石刃鍛石器群の石刃剥離技
術においては、石績調整として打面再生や稜の再形成が介在していたことがわかる。これらの
石接調整技術の詳細については後述しよう。
原形段階での剥離面、すなわち原石の分割面などが石刃核の一部にのこされているものは皆
無 で あ る 。 一 方 で 、 石 刃 核 の 一 部 に 自 然 面 が 観 察 で き る 資 料 は 、 オ タ フ ク 岩 遺 跡 第 E地 点 や 湧
別市 )
1
1遺 跡 、 豊 里 遺 跡 、 で わ ず か な が ら 検 出 さ れ て い る 。 自 然 面 が み ら れ る 事 例 に は 、 以 下 の よ
うな三つのあり方が認められる。
a
石 刃 核 の 表 裏 の ニ 面 に 自 然 面 が あ り 小 口 部 分 で 石 刃 が 剥 離 さ れ て い る も の ( 向 上 3)
。
b
石 刃 剥 離 作 業 部 以 外 の 一 面 に 自 然 面 が の こ っ て い る も の ( 向 上 4)
。
c
。
底 面 に 自 然 面 が の こ っ て い る も の ( 向 上 5)
石刃核の一部には、自然面に石刃剥離がおよびつつもその途中で廃棄されているもの(向上
6)があるため、 aや bの よ う な 事 例 は 、 石 刃 剥 離 が 進 行 す る 途 中 で 何 ら か の 要 因 に よ り 廃 棄
されたものと理解してよい。
-39-
o
W百
羽
窃
命
一
一
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1
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、
、
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司
よ
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時 J
戸、。?、・ 1
-
t
み
i
1・3 :オタフク岩
2・
5・
6 :登塁
図2
4 石刃核
-4
0-
4 :湧別市 J
I
!
いずれにしても、石刃核に観察されるこうした自然面のあり方は、さきに示したような両面
に調整がおよぶものだけが石刃核の原形ではないことを示唆している。
a とした資料の場合は、
後述するように縦走する稜形成が石刃剥離の開始にあたり必要な手/1憤であったと考えるならば、
稜形成のための横位調整が稜周辺に限定され内部深くまではおよんでいないものも、石刃核の
原形にはふくまれていた可能性が生じるであろう。
b
.石 核 調 整 技 術
石核調整技術として、ここでは稜形成・再形成、打面調整・再生の検討をおこなう。
稜形成・再形成
稜付石刃(稜形成調整痕付石刃)とは、連続的に横位の調整を施すことによ
って、石刃核の作業面に予定されている部分に石刃剥離に適するような縦走する稜線を作出す
るために剥離されるものであり、剥離される石刃の規格性を決定づけるひとつの重要な条件と
考えられている
(
B
o
r
d
e
sa
n
dC
r
a
b
t
r
e
e1
9
6
9
:針 。 石 刃 鍛 石 器 群 に お け る 稜 付 石 刃 も 同 様 の 意 味 を
もっていたものと想定されており、石刃核の原形が製作されたのち最初に剥離される石刃と位
づけられている(斉藤地 1
9
6
6
:
3
2
) 。石刃核から最初に剥離されたものであるならば、稜付
石刃の資料の実際を観察することは、石刃核の原形の理解にもつながりうることと予測される。
こ こ で は 、 オ タ フ ク 岩 遺 跡 第 E地 点 か ら 出 土 し た 稜 付 石 刃 の 吟 味 か ら は じ め る こ と に し よ う 。
1 点 の 稜 付 石 刃 が 出 土 し て い る 。 図 2づ を 概 観 す る と あ き
オ タ フ ク 岩 遺 跡 第 H地 点 で は 計 7
らかなように、稜付石刃の横位調整に関しては変異に富む状態が観察できる。稜形成を中心と
した石核調整技術についてややくわしく記述している東山遺跡の報告書においても、稜付石刃
に 関 し て は 、 背 面 が 「 調 整 痕 j だ け の も の と f石 刃 の 剥 離 痕 と 調 整 痕 j が み ら れ る も の と い う
二種類を区別しているにすぎない(斉藤他
間前 :
3
2
) 。これでは変異に富む資料の状態を充
分に説明することはできない。
最初に、一次稜付石刃 (
P
r
i
m
a
r
yR
i
d
g
eB
l
a
d
e
)と 二 次 稜 付 石 刃 (
S
e
c
o
n
d
a
r
yR
i
d
g
e Bl
a
d
e
)と に 稜 付 石
刃を大きく区分する
(Owen 1
9
8
8
:
11
) 。一次稜付石刃は、背面にみられる横位の調整痕に陰打
稽 が の こ さ れ て い る も の ( 同 上 1~ 8) で あ り 、 横 位 調 整 に つ づ い て 剥 離 さ れ た 石 刃 と 考 え ら
れる。二次稜付石刃は、横位調整痕の陰打癌が石刃剥離面などによって切られているもの(同
"
'
"1
1
) であり、一次稜付石刃につづいて剥離された石刃と考えられる。したがって、二
上 9'
次稜付石刃は石刃核の原形の状態を藍接伝えるものではないが、逆に一次稜付石刃の吟味から
は、原形の状態、をうかがうことが可能と思われる。ここでは、おもに一次稜付石刃にしぼって
吟味をくわえてみよう。
以下では、まず稜付石刃の全体を分類する。
1類 を 一 次 稜 付 石 刃 と し 、
E類 を 二 次 稜 付 石 刃
とし、さらに以下のように細分する。
1A 類 : 一 次 稜 付 石 刃 で 、 稜 形 成 の た め の 横 位 調 整 が 頭 部 か ら 末 端 部 ま で 全 体 的 に お よ ぶ も
のであり、左右両側縁の双方向へむけて横位調整がなされているもの。背面の一部に自然面が
認 め ら れ る も の を 1A 1類 ( 向 上 1 ・ 2) 、 認 め ら れ な い も の を 1A 2類 ( 向 上 3)とする。
1B類 : 一 次 稜 付 石 刃 で 、 稜 形 成 の た め の 横 位 調 整 が 頭 部 か ら 末 端 部 ま で 全 体 的 に お よ ぶ も
のであり、左右のどちらか片側縁の単方向へむけて横位調整がなされているもの。横位調整が
み ら れ な い 片 側 縁 が 自 然 面 で あ る も の を 1B 1類 ( 向 上 4) 、 石 刃 剥 離 面 で あ る も の を 1B 2
類 ( 同 上 5) 、 剥 離 方 向 に 規 則 性 が 認 め ら れ な い 剥 離 痕 で あ る も の を 1B 3類とする。
-4
1・
マ一働側樹ム
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1
0
図2
5 オタフク岩遺跡第 E地点の稜付石刃
-42-
w
ζこ
〉
1
1C類 : 一 次 稜 付 石 刃 で 、 稜 形 成 の た め の 横 位 調 整 が 背 面 の 一 部 に 部 分 的 に と ど ま る も の で
あり、左右両側縁の双方向へむけて横位調整がなされているもの。横位調整以外の部分は自然
部 で あ る も の を 1C 1類 ( 向 上 6) 、 石 刃 剥 離 簡 で あ る も の を 1C 2類 ( 向 上 7) 、 剥 離 方 向
に 規 則 性 が 認 め ら れ な い 剥 離 面 で あ る も の を 1C 3類とする。
10 類 : 一 次 稜 付 石 刃 で 、 稜 形 成 の た め の 横 位 調 整 が 背 面 の 一 部 に 部 分 的 に と ど ま る も の で
あ り 、 左 右 の ど ち ら か 片 側 縁 の 単 方 向 へ む け て 横 位 調 整 が な さ れ て い る も の ( 同 上 8) 。 い ず
れも横位調整以外の部分は石刃剥離面である。
IIA類 : 二 次 稜 付 石 刃 で 、 稜 形 成 の た め の 横 位 調 整 が 頭 部 か ら 尾 部 ま で 全 体 的 に お よ ぶ も の
0
) 。いずれも横位調整は石刃剥離面によって切られている。
(向上 9 ・1
IIB類 : 二 次 稜 付 石 刃 で 、 稜 形 成 の た め の 横 位 調 整 が 背 面 の 一 部 に 部 分 的 に と ど ま る も の
(間上 11) 。 い ず れ も 横 位 調 整 は 石 刃 剥 離 面 に よ っ て 切 ら れ て い る 。
以上は、稜形成のための調整の状態を基準に稜付石刃を分類したものである。分類の基準の
ひとつとして、横位調整が頭部から末端部まで全体的に施されているか、背面の一部にとどま
る部分的なものかをあげたが、この基準は当然ながら完形品にしか適用できない。しかし、資
料の大半が欠損品であるため、最密な適用は分類そのものを成り立たせなくなってしまう。上
記の分類はあくまで傾向の把援のレヴェルにとどまるものであり、量的な解釈はその制約を充
1 に示した。
分に考慮、にいれたものでなければならない o 各 類 ご と の 点 数 は 表 2
一次稜付石刃は、石刃核における最初の稜形成を意図して剥離されたものと、石刃剥離が進
行する過程で稜の再形成を意図して剥離されたものとに区分することができる。さきに示した
分類のうち、
1A 1類、
1C 1類 は 、 自 然 面 が み ら れ る こ と か ら み て 最 初 の 稜 形 成 に と も な っ
て剥離されたものとみて間違いない。これらの稜付石刃によって、石刃核の原形には、両面に
連 続 的 な 横 位 調 整 が な さ れ て い る も の (1A 1類 ) 、 原 石 の 稜 線 に 散 発 的 な 横 位 調 整 が 施 さ れ
て い る も の ( 1C 1類 ) と が 存 在 し て い た こ と が わ か る 。
1C 1類 は 、 さ き に 示 し た 東 山 か ら
発見された両面調整石器のような、まだ大きな自然面がのこされている石刃核原形から最初に
剥離された稜付石刃と想定されるため、
I ち 2類
、
T B 3類
、
T C 2類
、
1A 1類 と 同 様 の 過 穏 を ふ ん で い る も の と 考 え て よ い 。
T C 3類
、
T0 類 は 、 先 行 す る 剥 離 商 が み ら れ る こ と か ら 、
稜の再形成にともなって剥離された可能性が高い。
1A 2類と 1B 1類 は 、 と も に 最 初 の 稜 形
成に関連するものである可能性は高いが、稜の再形成にかかわるものである余地もあり、判断
は保留し接合資料による検証に期待したい。
打面調整・再生
オ タ フ ク 岩 遺 跡 第 E地 点 か ら 検 出 さ れ た 石 刃 核 で は 、 石 刃 剥 離 作 業 面 の 陰 打
癌が打面再生によると思われる剥離の結果によってすべて切られているものを除くと、大半の
も の に は 打 面 に 調 整 が 施 さ れ て い る o ま た 、 オ タ フ ク 岩 遺 跡 第 E地 点 出 土 の 石 刃 の 打 面 を 観 察
9
6
.
7
し て み て も 、 打 面 が 観 察 で き た 石 刃 212 点 の う ち 、 複 数 の 剥 離 面 か ら な る 打 面 が 205 点 (
% ) 、 一 枚 の 剥 離 面 か ら な る 打 函 が 6点 (
2
.
8
3 % ) 、 自 然 面 の も の が 1点 (
0.
47 %)であり、
複 剥 離 打 面 が 96 % を こ え る こ と か ら み て も 、 ほ ぽ 例 外 な く 石 刃 剥 離 に あ た っ て は 打 面 調 整 が
なされていたものと考えられる。
オ タ フ ク 岩 遺 跡 第 立 地 点 で は 打 面 再 生 剥 片 が 4点 出 土 し て い る 。 し た が っ て 、 オ タ フ ク 岩 遺
跡、第日地点の石刃剥離技術では、打面を再生する作業が工程に組み込まれていたことはまちが
-43-
表 2・1 稜付石刃の分類
1A 1類 IA2類 1B 1主 1B2類 1B3類 1C 1類 1C2類 1C3類
数
1
4
%
1
9
.
7
2
1
.4
1
5
1
1
1
0
2
7
.
0
4
1
5
.
4
9
1
4
.
0
8
2
.
8
2
1
.4
1
ID類
IIA類
IIB類
2
2
2
1
2
2
.
8
2
2
.
8
2
2
弘5
8
2
.
8
2
表 2・2 石刃の背面構成
Ib
Ic
Id
Ie
If
Ig
IIa
IIb
IIc
IId
IIe
I
I
f
数
Ia
1
0
7
2
1
0
1
9
2
o
5
2
1
7
4
1
4
6
1
3
0
。
%
0
.
1
3 1
3
.
7
5 2
.
6
9
0
0
0
2.
44 0
.
2
5
6
6
.
9
6 9
.
5
1 1
.7
9 0
.
7
7 1
.6
7
0
表 23 打点直径(単位 mm)
・
。
<1
<2
く
3
<4 < 5
数
2
3
8
0
1
2
4
2
%
9
5
.
9
0
0
.
4
0
.
8
1
.6
0
.
8
-44-
<6
04
刷
IIg
い な い 。 打 面 再 生 剥 片 の 犀 さ は 、 湧 別 市 川 出 土 の 事 例 ( 図 2・6 の 1) に 端 的 に あ ら わ れ て い る
ように、打面部では薄く、尾部では庫い傾向が認められる。そのため、石刃核での再生剥片の
加撃部付近では打面と作業面のなす角度が鋭角になり、末端部ではその角度が鈍角になる。こ
うした傾向から、打面再生剥片は打面と作業面となす角度を補正するために剥離されたものと
推定される。
以上に検討してきた調整技術のほかに、石刃按の底部が石刃の末端部に付着して剥離される
ウートラパッセに着目し、それが底部調整の役割をはたしていたのではなし、かという見解もあ
9
7
3
:
2
8
) 。ウートラパッセは、石刃核の底部が尖っている場合に生じやすいもので
る(木村 1
あるが、石核の縁部から押圧具を離しすぎた(より石核内部に打点を国定した)場合に生ずる
のではないかという指摘もある (
C
r
a
b
t
r
e
e1
9
6
8:
4
6
6
) 。あるいは、打苗と作業部のなす角度を補
正する意図的な作業の結果剥離されたものとの考えもある(柳田・藤原 1
9
8
1
:
3
3
) 。若刃鍛石
器群の石刃剥離技術では、ワートラパッセが剥離されることによって、結果的に打面再生と同
様に石刃核の高さが減少することはあきらかである。ただし、ウートラパッセがいかなる要因
によって剥離されたのかは、類例の増加を待ってさらに検討し直す必要がある。
C. 石 刃 剥 離 の 進 行 状 況
ここでは打面転移の状況について検討してみよう。
オ タ フ ク 岩 で 検 出 さ れ た 24 点の石刃核のうち、
3点 は 上 下 両 方 向 か ら 石 刃 が 剥 離 さ れ て い
1 点が向一方向から石刃が剥離されている単設打面であった。 9
0
る両設打苗であり、のこり 2
度の打面転移は石刃核では認められない。ーケ所に打面を設定してそこから連続的に石刃を剥
離するのが、基本的な剥離の進行状況とみられる。こうした剥離の進行状況は、打面と作業簡
が相互に分離しているという面構成と円錐形という形状とに無関係ではなかろう。
この観察の裏づけを得るため、想定しえる石刃の背面構成について以下に分類をおこなった。
分 類 で は 、 背 面 に 自 然 面 の み ら れ る も の を I類 、 自 然 面 の み ら れ な い も の を H類 と 大 別 し 、 そ
の な か を さ ら に 細 別 し て い る 。 観 察 は 背 面 構 成 が 充 分 に 検 討 が で き る と 判 断 し た 全 長 4 cm 以
上 の 石 刃 778点 を 対 象 に お こ な っ た 。 厳 密 に は 完 形 品 に し ぼ っ て 観 察 を お こ な う べ き で あ る が 、
ほとんどの石刃が折れた状態で検出されているため、全体的な傾向を把握する目的で以下のよ
うに分類をおこなった。
1a類 : 背 面 す べ て が 自 然 面 で あ る も の 。
1 b類 : 背 面 の 一 部 に 自 然 聞 が あ り 、 腹 面 と 同 一 の 加 撃 方 向 を 示 す 剥 離 痕 が あ る も の 。
1 c類 : 背 面 の 一 部 に 自 然 面 が あ り 、 腹 面 に 対 し て 横 位 方 向 を 示 す 葦J
I離痕があるもの。
1 d類 . 背 面 の 一 部 に 自 然 面 が あ り 、 腹 面 の 加 撃 方 向 と は 逆 方 向 を 示 す 剥 離 痕 が あ る も の 。
1e類 : 背 面 の 一 部 に 自 然 面 が あ り 、 鰻 面 と 間 一 お よ び 横 位 方 向 を 示 す 剥 離 痕 が あ る も の 。
1 f類 : 背 面 の 一 部 に 自 然 面 が あ り 、 程 面 と 同 一 お よ ご 逆 方 向 を 示 す 剥 離 痕 が あ る も の 。
1g 類 : 背 面 の 一 部 に 自 然 面 が あ り 、 腹 苗 と 同 一 お よ び 横 位 ・ 逆 方 向 の 剥 離 痕 が あ る も の 。
I a鎖 : す べ て の 剥 離 痕 が 腹 面 と 同 一 方 向 の 加 撃 方 向 で あ る も の 。
I b類 : 腹 面 と 同 一 お よ び 横 位 の 加 撃 方 向 を 示 す 葦J
I離痕をもつもの。
I c類 : 臆 面 と 同 一 お よ び 逆 方 向 の 加 撃 方 向 を 示 す 剥 離 痕 を も つ も の 。
I d類 : 腹 面 と 同 一 お よ び 横 位 ・ 逆 方 向 の 加 撃 方 向 を 示 す 剥 離 痕 を も つ も の 。
-4
5-
︾
pu
R 12a
-46-
m
図 2・6 湧完J
I市川遺跡の打面再生剥片
I e類 : す べ て の 剥 離 痕 が 臆 面 の 加 撃 方 向 に 対 し て 横 位 方 向 を 示 す も の o
I
I f類 : す べ て の 剥 離 痕 が 槙 面 の 加 撃 方 向 に 対 し て 逆 方 向 を 示 す も の 。
I g類 : 腹 面 の 加 撃 方 向 に 対 し て 横 位 ・ 逆 方 向 を 示 す 奈J
I離痕をもつもの。
2
) をみてあきらかなように、
各類の点数と比率(表 2
I
I a類、 つ い で Ib類 が 圧 倒 的 に 多
いことがわかる。 腹 面 と 同 一 方 向 か ら の 加 撃 痕 だ け を 背 面 に と ど め て い る 両 類 だ け で 全 体 の 約
8 害1
1に達している。
1c
1 e • I b .I e類 は 稜 付 石 刃 に ふ く め ら れ も の が ほ と ん ど で あ り 、
打面転移の状況を示しているものではない。したがって、背面構成をみるかぎり、ほとんどの
石刃は打面転移がおこなわれないまま、 同一方向からの加撃によって剥離されていたと考えら
れる。 完 形 の 石 刃 を 対 象 に 分 析 を お こ な っ た の で は な い が 、 打 面 転 移 の 痕 跡 を 背 面 に と ど め て
いる石刃がほとんど皆無に近いということは、 実際の全体的な傾向も同様であったと考えられ
ょう。
(3) 石 刃 剥 離 方 法 の 検 討
ここでは打罰のサイズ、打癌の状態、 打点の直径についてのデータを吟味することによって、
石 刃 剥 離 方 法 (打撃・加圧法)を検討してみたい。
打面のサイズ
オタフク岩
跡 第 立 地 点 か ら 検 出 さ れ た 計 測 可 能 で あ っ た 250点 の
刃の打面
の サ イ ズ を 計 測 し た 結 果 、 打 面 掘 は 最 小 3.5mm、 最 大 22.82mm、 平 均 値 1
0.
42mm であり、 打 面
厚 は 最 小 0.59mm、 最 大 8.37mm、 平 均 値 3.58mmであった。 そ れ ぞ れ の ヒ ス ト グ ラ ム に つ い て は
図 2・
7 に示した。 打 面 厚 の サ イ ズ は 3 mm前 後 に 集 中 す る 正 規 分 布 を 示 し て お り 、 資 料 開 で の
ぱらつきが小さい。
打壊の状態
打癒の状態に関しては、 コットレノレとカミンガによる剥離の発生形式に関する見
図 2
8
)
角
平 (
C
o
t
t
e
r
e
l
la
n
dKamminga1
9
8
7
:
6
8
5
6
9
1、 1
9
9
0
:1
3
0・1
3
5
) を参考にして分類した (
I類 : 打 癌 が 明 瞭 に み ら れ る も の (S
a
l
i
e
n
t
)。
E類 : 打 癌 が 顕 著 に は み ら れ ず 、 打 癌 上 部 の 打 面 と 鰻 面 と が 接 す る 部 分 が 腹 面 側 へ 内 1
(
堕してい
D
i
f
f
u
s
e
)。
るもの (
F
l
a
t
)
田類:内傾・打癌ともに明瞭にみられず平坦なもの (
以上のような分類;))の結果を示すと、 オ タ フ ク 岩 遺 跡 第 E地 点 出 土 の 石 刃 で は 、
点 (
8
2
.
6
4 %)
I類 が 1
7
4
2点 (
5
.
6
9%
) であった。 明 瞭 な 打 癒 を も
E類 が 2
5点 (
11
.8
5 %)、 盟 類 が 1
つ l類 が 多 い と い う 傾 向 を 示 す 。
打点の直径
東北地方の後期!日石器時代石器群の比較研究をすすめている会田容弘は、 剥離方
9
9
2
:
2
4
5)。しかし、 これま
法を直接に反映する属性として打点の亘径を重視している(会田 1
I離 を ふ く め た 素1
1離 方 法 と の 対 応
で 肢 密 な 条 件 設 定 下 で 実 験 的 に 打 点 の 直 径 と 間 接 打 撃 ・ 押 圧 柔J
関係をあきらかにするデータが示されているわけではなく、経験的な判断に依存している部分
が大きい。
したがって、 現 状 で は あ く ま で も デ ー タ の 把 握 に と ど め 、 そ の 判 断 は 将 来 に 委 ね る
ことにしたい。 オ タ フ ク 岩 遺 跡 第 E地 点 出 土 の 石 刃 に は 明 確 な 打 点 が ほ と ん ど 観 察 さ れ ず 、 表
2
3に 示 し た よ う に 打 点 の 直 径
ommと 判 定 さ れ た 資 料 が
先述したように、 打面のサイズ、
9
0%をこしている。
と り わ け 打 面 厚 の サ イ ズ は 3 mm前 後 と 比 較 的 小 さ く 、 資
料 相 互 の ば ら つ き も 小 さ い 。 打面のサイズは、 石 器 を 構 成 す る 属 性 の う ち で も 人 為 的 に 制 御 可
-47-
(点数)
6
0
4
0
2
0
1
0
2
0 (mm)
打面幅
(点数)
8
0
3
0
4
8 (mm)
打面厚
図2
7 打面のサイズ
-4
8・
向
。
(
S
a
l
i
e
n
t
)
I類
門I
(
D
i
f
f
u
s
e
)
I
I類
門
日
副委員
図2
必打濯の状態
-49-
(
F
l
a
t
)
能 な も の と 考 え ら れ る 。 オ タ フ ク 岩 遺 跡 第 E地 点 か ら 出 土 し た 石 刃 の 打 苗 厚 の サ イ ズ の あ り 方
は、打面のサイズを制御しやすいような方法によって石刃が剥離されていたことを示していよ
う。複剥離打面が圧倒的に多いという、打面の種類に関してさきに示したデータは、そうした
剥離方法の性質と深く関係しているものと想定される。
(4 ) 石 刃 と 石 刃 素 材 の 石 器
ここでは、以上に検討してきた剥離工程・方法をへて剥離された右刃と、その石刃を素材に
した石器について概観してみよう。
石刃鍛石器群の石刃は、一般的に両側縁が並行し背面の稜線、は直線的であり、大きな反りが
みられず、また厚さは打面部から末端部にいたるまでほぼ均等であるものが多い。つぎ、にサイ
ズについてみておこう。石刃はほとんどが折れた状態で検出されているため、長さについては
有 意 な デ ー タ が 得 ら れ な い が 、 櫨 ・ 厚 さ に つ い て は 計 測 可 能 で あ る 。 図 2-9 は 、 検 討 可 能 で あ
った 727点 の 石 刃 を 対 象 に 幅 ・ j
草さを計測したものである。幅をみてみると、
前後までのあいだに値が集中している。分散は相対的にやや大きく、
10mmから 24mm
18mm 前 後 に や や く ぼ み
が あ る が 二"
1
華 を 示 し て い る と は い え な い 。 庫 さ は 3 m m から 7 m m 前 後 ま で の あ い だ に 値 が
中している。幅と同様に分散が二峰を示すことはない。
I器 ・ 掻 器 ・ 石 匙 や 一 部 の 右 鍛
石 刃 鍛 石 器 群 で 検 出 さ れ る 剥 片 石 器 の う ち 、 石 刃 銀 ・ 彫 器 ・ 自J
.t
柔錐器らは石刃を素材としている。尖頭器・石箆や一部の石蟻・探錐器は、石刃以外の不定
形剥片を素材としている。石刃素材の石器には、その器種に応じて異なるサイズの石刃が素材
に さ れ る 傾 向 が 指 摘 さ れ て い る ( 木 村 1976:15、 藤 本 1992:149・153) 。 具 体 的 に は 、 橋 狭 の 石 刃
は石刃鍛の素材にされ、幅広の石刃は彫器・掻器・削器の素材になっている。
オ タ フ ク 岩 遺 跡 第 E地 点 出 土 の 資 料 で も 同 様 の 傾 向 が 認 め ら れ る
D
ちなみに石刃鍛と彫器の
そ れ ぞ れ の 幅 の 平 均 値 を み て み る と 、 石 刃 鍛 は 1 .37mm (n=I23) 、彫器は1.9mm (n=86) であ
り、あきらかに差が認められた o なお、樋状剥離が一方の側縁から他側縁へぬけてしまってい
る彫器は計測しなかったので、両者の掘の計測値はほぼ素材となった石刃の幅のサイズを反映
しているものと考えて差し支えない。その計測値を t
-検 定 に よ っ て 検 討 し て み る と 、 有 意 差
5% (
t値
z
但
8.
3001) で 両 者 の 幅 に は 有 意 差 が あ る こ と が 検 定 さ れ た 。
以上のように、石刃鍛石器群の石器には石刃素材のものと非石刃素材のものが認められ、さ
らに石刃素材のものでも石器の器種に応じて異なるサイズの石刃が素材に選択されていること
がわかった行}。
4.考 察
(1) オ タ フ ク 岩 遺 跡 第 H 地 点 に お け る 石 刃 剥 離 技 術 の 特 徴
ここまで石刃素J
I離 技 術 を 構 成 す る 技 術 的 諾 属 性 の 分 析 を お こ な っ て き た が 、 以 下 で は 、 そ の
分 析 を も と に し て オ タ フ ク 岩 遺 跡 第 E地 点 に お け る 石 刃 剥 離 技 術 の 輪 郭 に つ い て 概 括 し て み よ
つ
。
-50-
(点数)
1
0
0
5
0
中
高
2
0
1
0
3
0
(mm)
(点数)
nHHHw
nHHU
!
、、,,,
e
a
a
5
1-
m
幽
m
図 2み 石 刃 の サ イ ズ
,
,、
‘
unHV
内
厚さ
石刃核の原材としては、人頭大サイズの角礁の黒曜石がおもに選択されている c オタフク岩
では石刃核の原形が直接検出されてはいないが、双方向に横位調整がなされている稜付石刃や
4号 遺 跡 ・ 東 山 遺 跡 の 事 例 を 参 考 に す る と 、 厚 手 の 両 面 調 整 石 器 が 石 刃 核 の 原 形 に な
東神楽 1
っていたのではないかと想定される。ただし、原形にされた両面調設石器のなかには、散発的
な横位調整が稜近辺のみに限定して施されている場合もあるようである。こうした石刃核を作
出していくにあたっての手法の差異は、原石の段階でのサイズや形状の差に応じたものと推察
されるが、この予測を具体的に検証するためには接合資料による分析が必要であり、ここでは
可能性の指摘にとどめ、検証作業は後日に期することにしたい。
以上の石刃核の原形に関する検討をみであきらかなように、横{立の連続的な調整によって作
出される作業面の稜線は、石刃剥離の開始のうえできわめて重要な要素であったことがわかる。
4号 遺 跡 の 石 刃 接 の 原 形 に 相 当 す る と さ れ て い る 両 面 調 整 石 器 ( 図 2
3 の 1) は 、 打
東神楽 1
)
填と
語調整がなされずに側縁部分の稜形成が終了した段階で廃棄されており、石刃核{乍出の手1
しても、稜形成のための横位調整は打面調整より先行していた可能性が高い。石刃核の原形は、
第一に稜線をどのように作出するのかに焦点をあわせて製作されたものとみられる。
打面調整が施されたのち稜付石刃が剥離され、つづいて石刃が連続的に剥離されている。石
刃の打面の種類、はほとんどが複剥離面打面であり、石刃剥離に先行しでかならず打面調整が施
されていたとみられる。石刃核は単設打面のものが多く、また石刃の背簡をみても臆面と同一
方向の加撃痕をのこしているものが大半をしめているため、打面転移は基本的にはおこなわれ
ず、打面は一端に固定されたままの状態で石刃剥離は進行していったようである。
石刃剥離が進行する過程で打簡や作業面の状況を補正する調整技術として、稜の再形成や打
面調整・再生がおこなわれている。作業面の状況を補正するための調整技術として、稜の再形
成を意図したとみられる連続的な横位調整が石刃核の作業面においてなされている。稜の再形
成のための横位調整は、石刃剥離作業面などを打面として剥離がくわえられるが、これは蝶番
状 剥 離 (h
i
n
g
e
f
r
a
c
t
u
r
e
) などによって悪化した作業面の状況を補正し、あらたに直線的な稜を
作出しようとしたものと想定される。稜付石刃をみるかぎりでは、横{立調整が作業面の頭部か
ら末端部までなされているものと、作業面の一部になされているものとのこ種類がみられる。
ニのような差は、補正しようとした石刃剥離作業面の状態に応じたものと推定される。また、
打面再生剥片が検出されていることからみて、打面再生技術を保持していたことは間違いない。
先述したように、打面再生剥片は、こまかな打面調整では実現できない打面と作業面との角度
の補正を呂的として剥離されたものと考えられる。
打 面 厚 の サ イ ズ が 3 mm前 後 に 集 中 し ば ら つ き が 小 さ い こ と か ら み て 、 打 面 の サ イ ズ を 制 御
できるような方法により石刃は剥離されていたとみられる。明確な打点がほとんどみられない
こと、直線的な稜線が観察されること、顕著な打癒をもつものが大半をしめること、などの諾
属性の傾向は剥離方法の性質を示唆している可能性がある。しかし、現時点では剥離方法の認
定に関して、実験的研究の実施により各種技術的属性と剥離方法との対応関係を把握しなけれ
ばならない段階にあり
7¥ 特 定 の 方 法 を 断 定 す る こ と は で き な い 。 実 験 的 な 研 究 の 推 進 に よ っ
て、石刃鍛石器群における石刃剥離方法についても再検証することが必要である。
以上にみてきた石刃剥離工程・方法により、両側縁がほぼ並行し、背面の稜線、は直線的な定
-52-
形 的 石 刃 が 連 続 的 に 剥 離 さ れ る こ と に な る 。 そ の 最 大 幅 の サ イ ズ は 、 10mm から 24mm 前後ま
'
で の 範 囲 に 集 中 が お さ ま っ て お り 、 そ の な か で 幅 狭 の 石 刃 は 石 刃 鍛 の 、 幅 広 の 石 刃 は 彫 器 ・ 自J
器・掻器らの素材になっている o 石刃は適度に分割されることにより石器の素材になっている。
オタフク岩遺跡第百地点出土の石刃鞍石器群の石刃剥離工程においては、各種の石接調整と
補正技術が駆使されることにより、定形的な石刃が連続的に剥離されていることがわかった。
これら各種の石核調整と補正技術は、いずれの状況をも関わず行使されているようであり、そ
れ が 「 定 式 化 し て い る か に 見 え る 製 品 の 量 産 J (木村 1976:15) を 保 証 す る 大 き な 要 因 と な っ
ていたと考えられる。石刃鍛石器群でみられた定形的石刃の量産は、このような各種の石接調
整と補正技術が駆使された剥離工程と制御可能な剥離方法により実現されたものと推定される
が、技術の成り立ちを考えるうえでは原材の問題も考慮にいれておかねばなるまい。すなわち、
良質で大形の角礁の黒曜石を原材として確保できたため、原材のサイズや性質の制約をある程
度うけることなく石刃剥離がおこなえたこと、この点も見逃してはならないであろう。
(2) オ タ フ ク 岩 遺 跡 第 E地 点 に お け る 石 器 石 材 の 利 用 状 況
こ こ で は 、 オ タ フ ク 岩 遺 跡 第 H地 点 に 石 器 原 材 が も ち こ ま れ た 状 況 を 検 討 し て み る こ と に し
たい。
本章では、
「外皮率 J と し て 、 出 土 し た 完 形 剥 片 の 背 面 に 自 然 面 が ど の 程 度 の こ っ て い る の
か を も と め て み た 。 そ の 結 果 、 オ タ フ ク 岩 遺 跡 第 E地 点 の 遺 跡 内 に は 、 原 石 そ の も の で は な く 、
ある程度剥離がくわえられた石核の状態で石器の原材がもちこまれていることが判明した。石
刃核の原材に利用されている黒曜石の角磯は、自然科学的な分析データはないものの、肉眼に
よるかぎり白滝産もしくは置戸産と考えられる。石刃核もしくは石刃にのこされている自然面
の状態を観察してみると、ほとんど転熊面が認められないことから、黒曜石原産地の露頭およ
びその近辺において採取された可能性が高いものと想定される。タト皮率からみておそらく、採
取地点近辺で原石に最初の剥離をくわえ、自然面を除去する作業がおこなわれていたと予測さ
れるつ自然面を除去し原石の内部を観察可能にすることによって、央雑物の状態や節理面の存
在を予見することができるようになったはずであり引、そうした意味で、自然面を除去する作
業はより良質の原材を選択するための行動と位置づけられよう。
白 滝 や 置 戸 の 露 頭 お よ び そ の 近 辺 で 採 取 さ れ た と 想 定 さ れ る 原 材 は 、 直 線 に し て 130km前後
2
) 。オタフク岩からは、本
の 距 離 が あ る オ タ フ ク 岩 遺 跡 第 H 地 点 に も ち こ ま れ て い る ( 図 2・
の冒頭で触れたように石刃核・石刃・各種の石器に多量の剥片・砕片が検出されており、遺
跡内において石刃接から石刃剥離、石器製作にいたるまでの作業がおこなわれていたのは確実
で あ る 。 は た し て 、 オ タ フ ク 岩 遺 跡 第 H地 点 か ら 検 出 さ れ た 多 量 の 黒 曜 石 製 石 器 は 、 ど の よ う
な過程をへてこの遺跡にもたらされたのであろうか。遠隔地からの石器石材の入手過程がここ
で問題となるのである。
1片 石 器 の ほ と ん ど が 黒 曜 石 に よ っ て し め ら れ て い る こ と 、 第 二 に 、 白 滝 や 置 戸 な
第一に、奈]
1・豊里などオホーツク権沿岸部の諾遺跡までの
どの黒曜石原産地から、オタフク岩・湧別市J
あいだに、集約的な石器製作作業がおこなわれている遺跡は見当たらないこと(詳しくは次
で 検 討 す る ) 、 以 上 の 二 点 か ら み て 、 オ タ フ ク 岩 遺 跡 第 E地 点 出 土 の 黒 曜 石 製 の 剥 片 石 器 が 集
-53-
回 間 の 交 換 等 に よ り 間 接 的 に 獲 得 さ れ た と は 考 え が た い 。 オ タ フ ク 岩 遺 跡 、 第 E地 点 に 居 住 し て
いた集団みずからによる直接的な採取を想定したほうがより妥当といえる。
以 上 に 示 し た 予 察 に は 、 な お 解 決 を 要 す る 問 題 点 が い く つ か あ る 。 オ タ フ ク 岩 遺 跡 第 E地 点
であきらかにされた石器石材の利用状況および石器製作作業の内容が、はたして他の遺跡にお
いても確認することができるのであろうか。本章では予察を提示したにすぎないが、資料の詳
細な吟味にたった具体的な検討作業が必要となろう。また、オタフク岩遺跡第宜地点とは異な
る状況を示す遺跡、がかりに存在していたとするならば、その具体的内容およびオタフク岩との
行動論上の関係について間われなければならない。いずれにしても、これらの課題は、石刃鍛
石器群をのこしたく集団)の移動・居住形態の復元作業がおこなわれるなかで、あきらかにさ
れることといえよう。
5.ま と め
ここまでオタフク岩出土資料を中心にして、石刃蟻石器群における石刃剥離技術の特徴を分
析してきた。その結果として、自滝や置戸といった黒曜石原産地の露頭近辺で採取される、大
形で良質の黒曜石の角磁を原材とし、原石そのものではなく、ある程度剥離がくわえられた石
核の状態でオタフク岩に原材がもちこまれていたことが想定された。また、石刃剥離工程には、
打面調整・再生、稜形成・再生といった各種の石接調整と補正技術が介在していており、石刃
核の原形には平面形が楕円状で、横断簡形が厚手の両面調整石器が利用されていることがあき
らかとなった。さらに、打面のサイズを制御することが可能な方法により、定形的な石刃が連
続 的 に 剥 離 さ れ て い る こ と が わ か っ た 。 最 後 に 、 石 刃 鍛 ・ 彫 器 ・ 掻 器 ・ 荷 IJ器 ・ 石 匙 や 一 部 の 石
撮・探錐器らの素材が石刃であることを確認し、石刃素材の石器でも種類に応じて異なるサイ
ズの石刃が選択されていることを再確認した。
ここで指摘した特徴は、{間別にとりあげれば石刃剥離技術がみられるどの石器群にも存在し
えるものであるが、相互に組み合わせてみると、きわめて特色のあるものということができょ
う。ここでえられた成果をもとにして、石刃鍛石器群が検出された遺跡間・地域間での石器製
作技術の比較研究と、それぞれの遺跡における石器製作作業の内容を見直してし、かなければな
らない。本章であきらかにされた諾特徴は、その比較作業に際して一定の基準を提供するもの
と考えられる。
-54
幽
直
石刃鍛石器群をのこした〈集団〉の移動@居住形態
1. 目的
(1) 本 章 で の 検 討 課 題
これまでの北海道の石刃鍛石器群に関する研究では、系統論もしくはその時間的位置づけに
多くの関心がはらわれてきた。すなわち、シベリア・極東地区に分布する石刃鍛石器群は、後
期i
白石器時代から新石器時代への移行期に出現し、新石器時代前半におもに隆盛をみたと考え
られている(木村 1
9
9
2
:
4
4
) 一方で、北海道の石刃鍛石器群は、現時点までに確認されている
資料をみるかぎりでは、時間的に縄文時代の早期中
後葉相当に位置づけられることが確実視
されている(沢 1
9
6
8
:
1
6、 佐 藤 1
9
8
3
:
4
7
4
9
) 。また、系統論的には大陸・サハリンからの集団移
住の結果もたらされたものと推定されており、北海道東部における在地の縄文時代の系譜から
は大きく逸脱していることが指摘されている(加藤 1
9
6
3
:1
7、 吉 崎 1
9
8
6
:
3
0
3など)。
こうした一方で、行動連鎖のパターンにかかわるような諸問題について、検討をおこなって
9
7
4
:
1
6
8、 杉 浦 1
9
8
9
:
6ふ6
いる研究者はわずかである。現時点までのところ、断片的な推定(沢 1
2
) や問題提起(戸沢・鶴丸 1
9
7
1
:
3
3
) がみられるのみであり、資料相互の関係をふまえた全体
像の復元にまでたちいったものはない。
9
8
6
:
1
0
0
) と 藤 本 強 (1
9
8
1
:
3
そ の な か で 、 遺 跡 、 間 の 関 係 に 対 し て 注 目 す べ き 見 解 が 佐 藤 和 利 (1
2
3“3
2
4
) により提示されている。佐藤(間前)は、沿岸部と内陸部という異なる地域に立地す
る遺跡が、それぞれ系統を異にする別集団によってのこされたものと解釈したのに対して、藤
本(同前)は、それらを生業活動をふくめた遺跡、での活動差によって解釈できるとし、同一集
団によってのこされたものと想定した。藤本は、オホーツク海岸のトコロ貝塚と内陸部の常呂
)
1流 域 に 立 地 す る 川 東 羽 田 遺 跡 と の 関 係 に つ い て の み 言 及 し て い る た め 、
「沿岸部一内陸部 j
としてどこまでの地域をふくめて考えているかは不明である。しかしながら、すくなくともこ
の両氏は、遺跡間の関係に対して異なる対照的見解をもっていることはあきらかであろう。
二つの異なる見解のどちらが妥当といえるだろうか。本章の目的は、考古学的記録、を多角的
に吟味することによって、そこから行動連鎖のパターンを反映する傾向性を描出し、的確な移
動・居住形態の仮説モデノレを提示することにある。この目的に達するためには、複数の地点を
(集団〉がどのように有機的に関連づけながら利用していたのか、という問題を資料から読み
n
t
e
r
s
i
t
e v
a
r
i
a
b
i
1
i
t
y
) から読みとられる移
と ら ね ば な ら な い 。 ( 集 団 〉 が の こ し た 遺 跡 問 変 異 (i
-5
5
酬
弱j ・ 居 住 形 態 の 仮 説 モ デ ル に つ い て 、 第 I章 で の 方 法 論 的 な 議 論 を ふ ま え つ つ 検 討 を す す め て
いくことにしたい。
(2) 検 討 の 視 点
上記のアプローチに着手するため、北海道の石刃鍛石器群を対象にして遺跡間の連関をどの
ように把握するのか、その手続きの方法を考えてみることにしよう。とりわけ論題にとりあげ
ねばならないのが、どのようにして検討対象を措定するのか、という問題である。
捜数の諸遺跡を検討対象に、その相互関係、から集団の行動を読みとろうとするものとして、
(遺跡群研究)がある。!日石器時代・縄文時代研究の諸論文のなかに散見される(遺跡群研
究)では、地理的景観
1)
にしたがって切り取られた地域、たとえば一台地・ー河川流域あるい
は複数台地などが検討対象として先見的に措定され、その地域内にひろがる遺跡群が分析され
るヱ)。こうした(遺跡群研究〉は、特定の景観内のどのような立地が選択的に利用され、それ
が時間的にどう変化したのか、もしくは遺跡数がどのように増減したのか(矢島 1
9
7
7
:1
0
6
ぺ0
7、
9
7
9
:1
0
0、 安 蒜 1
9
8
5
:
2
0
7
2
0
8、 柳 沢 1
9
8
5
:
8
8・
9
0、泉 1
9
8
5
:
5
0
・
5
2、 勅 使 河 原 1
9
9
2
:
1
0
2
1、 渡 辺 1
9
9
小野 1
・
2
7な ど ) 、 と い う 問 題 を 把 握 す る に は 有 意 な 研 究 と い え る 。
4
:
1
8
しかし、集団の移動・居住形態の復元を自的にするならば、
(遺跡群研究)は不充分なもの
といわざるをえない。かりに集団が移動する範囲が視覚的にとらえられる遺跡群の範囲内にお
さまるならば、
(遺跡群研究〉による分析結果も有意なものになる。しかし、集団がある地理
的景観をこえた範囲を移動していたならば、視覚的にとらえられる遺跡群を研究するだけでは、
的確な集団の行動の全体像を復元することは困難といえる。移動範囲を水系単位でとらえるか、
9
9
4
:
2
4
0
2
4
1
) 、集団
水系単位をこえた広い単位でとらえるかで議論がわかれるように(安川 1
が移動する範囲を決定できるだけの充分な根拠がすでにあたえられているわけではないとする
と、移動・居住形態の復元には別の視点からの検討が必要になろう。
こうした問題点を克服するためには、遺構や遺物に認められる何らかの属性に着目して、遺
跡間での差異と共通性から遺跡間のつながりを把握する必要がある。そこで柱目したいのが、
全体的な石器製作工程の痕跡がー遺跡内では完結的に観察されないという現象である。すでに
北海道の常呂川流域遺跡群の研究(加藤・桑原 1
9
6
9
:
3
2、 加 藤 他 1
9
7
1:
2
0
) や埼玉県砂川遺跡の
9
7
5
:
1
7
0・1
7
9
) において確認されているこうした現象は、一遺跡にとどまら
研究(安蒜・戸沢 1
ない複数の遺跡簡での石器製作工程のつながりをあきらかにし、遺跡聞の具体的な関連性を把
握する可能性を提起したといえる。しかしながら、可能性の指摘・一般的な推測をこえて、時
期的・地域的にさまざまに変化する移動・居住形態の具体的なすがたを復元しようとするなら
ば、一遺跡、の検討だけでは不充分であり、複数の遺跡を姐上にあげ、その相互間のつながりを
把握しなければなるまい。
そこで本章では、各遺跡、で検出された石器群が全体的な石器製作工程のなかのどのような位
をしめているのか、という問題の検討をおこなうことにする。かりにー遺跡内でおこなわれ
ていた石器製作作業が、全体的な石器製作工程のなかのある一部分でしかないとすれば、欠落
した製作工程は地遺跡にもとめざるをえない。その場合、同様の石器製作技術が観察される遺
跡、で、なおかつ欠落した工穫の作業がおこなわれている遺跡、があるとすれば、その相互にはな
-5
6-
んらかの具体的なつながりが存在していた、という仮説をたてることができょう。そうした仮
説モデルは、石器製作工程以外の石器組成や遺跡立地・種別といった諸現象をもっとも合理的
に説明できるものでなければならない。
以上のような観点から、本章では最初に遺跡聞での石器製作技術の比較検討をおこなう。そ
の際は、たんに同類の石器や剥離技術の存砲を指摘するだけでなく、それらを構成する技術的
諸属性のレヴェルにまで分解して比較をおこないたい。そして、問ーの技術がみられる遺跡間
の棺瓦を、石器製作工程のつながりという視点から吟味することによって遺跡間変異を解明し、
移動する(集団)の軌跡を読みとることにする。ただし、ここで採用する方法論では、間ーの
技術を保有していた(技術集団)のなかの、日常生活の基本的単位となっていた(小集団)の
行 動 連 鎖 の パ タ ー ン を 近 似 値 的 に 復 元 し て い る に す ぎ な い こ と は 、 第 I章 で の 検 討 か ら も あ き
らかである。
2. 検 討 資 料
石 器 製 作 技 術 や 石 器 ・ 遺 物 組 成 を 検 討 す る と い う 主 旨 か ら 、 図 31に 黒 印 で 示 し た 石 刃 鍛 な
・
どが単発で採集されている遺跡、を検討対象より除外する。単発に石刃鍛などが採集されている
遺跡の性格については、次章で論議することにしよう。
1) 豊 里 遺 跡 : か つ て の 網 走 湖 西 岸 、 現 在 は 網 走 川 流 域 西 岸 の 低 位 河 岸 段 丘 の 縁 辺 、 標 高 8 m
前 後 に 立 地 す る 遺 跡 で あ る 。 女 満 別 町 教 育 委 員 会 の 主 催 で 1956 年に第一次調査が、 1
9
9
1 年に
第 二 次 調 査 が お こ な わ れ 、 合 計 400r
r
fが 調 査 さ れ て い る ( 大 場 ・ 奥 田 1960、 米 村 1992) 。 二 次
に わ た る 調 査 で 、 石 刃 鍛 石 器 群 の 時 期 に 属 す る 計 8基の竪穴住居祉が検出されている。
2) 湧別市J11
遺跡:オホーツク海にそった低位段丘上、現海岸線から約 1
km、 標 高
5 m前後
r
fが、
に 立 地 す る 遺 跡 で あ る 。 第 一 次 調 査 が 1956年 に 北 海 道 大 学 毘 学 部 解 剖 学 教 室 に よ り 計 92r
l
l
l町教
第 二 次 調 査 が 1967年 に 北 海 道 大 学 北 方 文 化 研 究 縮 設 に よ り 、 第 三 次 調 査 が 1972年 に 湯 l
r
fの 面 積 が 発 掘 さ れ た ( 児 玉 ・ 大 場 1958、 北 海
育 委 員 会 と 札 幌 大 学 文 化 交 流 研 究 所 に よ り 750r
道 大 学 1967、 木 村 1973) 。 第 二 次 調 査 の 際 に 竪 穴 住 居 社 1基 が 検 出 さ れ て い る 。 本 稿 で は 正
式報告が公表され実見可能であった第三次調査の資料にしぼり検討をくわえる。
3) オ タ フ ク 岩 遺 跡 第 E地 点 : 知 床 半 島 の 根 室 水 道 側 、 現 海 岸 線 か ら 100 m ほ ど の 標 高 43 m
前 後 の 海 岸 段 丘 上 に 立 地 す る 遺 跡 で あ る 。 1990年 に 羅 臼 町 教 育 委 員 会 に よ っ て 800r
r
fが調査さ
9
9
1
) 。竪穴住岩土II:が 5基 検 出 さ れ て い る 。 前 章 で 石 器 製 作 技 術 の 復 元 を
れた(桶坂・豊原 1
試みた遺跡である
0
4) ト コ ロ 貝 塚 : オ ホ ー ツ ク 海 へ そ そ ぐ 常 呂 川 の 河 口 か ら 上 流 へ 約 1 .5km さ か の ぼ る 低 位 段 丘
2 m の地点に立地する。 1
9
5
9年 に 東 京 大 学 文 学 部 考 古 学 研 究 室 に よ っ て 調 査 さ れ た 。
上、標高 1
石刃鍛石器群関連の資料は、 A ' B ・E ' F ト レ ン チ で 検 出 さ れ て い る が 、 こ こ で は 層 序 的 に
他時期の資料から分離された状態で検出されている F トレンチの貝層下の資料を検討対象とす
る
。 F ト レ ン チ で は 竪 穴 住 居 社 1基 が 検 出 さ れ て い る ( 駒 井 編 1963) 。
5) 共 栄 B遺 跡 : 太 平 洋 の 現 海 岸 線 か ら 内 陸 へ 9 kmほ ど 入 っ た 低 位 の 梅 岸 段 丘 上 、 標 高 1
9
-57-
塚岩
川貝ク
コ
J4aw
市ロブ
回一一別コタ栄
曲一一一一湧トオ共
1 ・今ふ司
6
. 西達布
7
. 東山
8
.1
1
1東羽田
(
.
.
.
.:黒曜石原産地)
者三三十勝三肢
100km
図 3・
! とりあげた遺跡の分布(トーンは標高 100m以上)
-5
8・
m の地点に立地する。
1
9
7
5年 に 浦 幌 町 教 育 委 員 会 に よ っ て 282r
r
fの 面 積 が 調 査 さ れ た ( 後 藤 ・
大 槻 1976) 。 竪 穴 住 居 祉 が 2基検出されている。
6) 西 連 布 2遺 跡 : 富 良 野 盆 地 内 、 西 達 布 川 の 支 流 、 川 松 沢 )1に む か つ て 舌 状 に は り だ す 丘 陵
の 緩 斜 面 、 標 高 約 300m の地点に立地する。 )
1
1と の 比 高 は 約 4 mである。 1
9
8
8年 富 良 野 市 教 育
r
fの 面 積 が 調 査 さ れ た 。 竪 穴 住 居 祉 は 検 出 さ れ て い な い ( 杉 浦 1989) 。
委 員 会 に よ っ て 420r
7) 東 山 遺 跡 : 富 良 野 盆 地 内 の 西 違 布 川 に む か つ て 舌 状 に は り だ す 丘 陵 の 緩 斜 面 、 標 高 308m
の 地 点 に 立 地 し て い る 。 西 達 布 川 と の 比 高 は 約 36 m である。 1964 年 に 東 山 地 区 郷 土 研 究 会 の
1r
r
fの 面 積 が 調 査 さ れ た が 、 遺 構 は 検 出 さ れ て い な い ( 喜 藤 他 1966) 。
主催によって 6
8) )
11
東羽田遺跡:北見盆地内の常呂 J
1から 800m の 距 離 を お い た 丘 陵 斜 面 、 標 高 1
0
1 m 前後
の 地 点 に 立 地 す る 。 常 呂 川 と の 比 高 は 約 50 m である。 1967 年 に 明 治 大 学 文 学 部 考 古 学 研 究 室
によって計 1
1
0n
fの 面 積 が 調 査 さ れ ( 戸 沢 ・ 鶴 丸 1968、同 1971) 、 ま た 1986年 に も 北 見 市 教
育 委 員 会 に よ っ て 調 査 が お こ な わ れ た が ( 宮 ・ 太 田 1987) 、 ど ち ら の 調 査 で も 竪 穴 住 居 祉 は
確認されていない。ここではおもに明治大学調査分について検討をとおこなう。
3. 石 器 製 作 技 術 の 比 較 検 討
(1) 検 討 の 方 針
以下では、さきに掲げた諾遺跡、の石器製作技術の比較検討をおこなう。検討にあたっては、
石材、事j片 剥 離 、 石 器 の 素 材 、 以 上 の 三 点 の 特 徴 に 着 目 し 、 相 互 の 関 係 、 の あ り 方 を ふ ま え な が
ら吟味をすすめていくことにする。
(2) 石 材
石刃鍛石器群の剥片石器に利用されている石材は、ほとんどが黒曜石であり、ほかに頁岩と
メノウがわずかに認められるにすぎない。この傾向はいずれの遺跡においても認められる。
利 用 さ れ て い る 黒 曜 石 の 特 徴 を つ ぎ に 観 察 し て み よ う 。 い ず れ の 遺 跡 で も 15cm を こ す 黒 曜
石製の石刃接や石刃が検出されており、人頭大ほどのサイズの原石が選択されていたことが推
定される。石刃核や石刃にのこされている自然面は平坦なものが多く、円磨がすすんだいわゆ
る転模商が観察されることは少ない。したがって、河川中下流域で採取できる転喋ではなく、
岩脈の露頭やその近辺で採取できる角礁を、石刃剥離作業にあたっての原材に選択していたも
のと考えられるお}。
1 % (86 点)が置戸産、
東山遺跡出土の黒曜石製石器の原産地分析によれば、 8
点)が十勝三股産、
4 % (4
1% (1点)が近文台麗と推定され、 1
4% (
1
5点)が不明であった(藁
科 1
9
9
4
:
2
6
) 。ほかの遺跡では原産地推定の分析がおこなわれてはおらず、詳細を知ることは
できない。しかしながら、筆者の観察したところでは、本稿の検討対象の諸遺跡から検出され
ている黒曜石製石器の大半は、置戸産か白滝産ではないかとみられる。角礁を用いてるという
所見を加味すると、石刃器産石器群における石材採取ゾーンは、霞戸や白滝の岩脈の露頭ないし
その近辺に限定できるのではないかと推察される
4)
-59-
(3)言明片!J<l
J
離技術
石刃鍛石器群は、主計j片 剥 離 技 術 に 石 刃 剥 離 技 術 を も つ こ と を 最 大 の 特 徴 と す る が 、 し か し 石
刃剥離技術だけが石刃鯨石器群において観察される剥片剥離技術ではない。湧別市川遺跡、の調
査 に よ っ て 、 不 定 形 剥 片 が 最J
I離 さ れ て い る サ イ コ ロ 状 や 円 盤 状 を 呈 す る 石 按 の 存 在 に 注 意 が 喚
起された(木村 1
9
7
3
:
2
2・
2
3
) 。 か り に 石 刃 核 を I類 、 不 定 形 奉J
I片を葦J
I離 し て い る 非 石 刃 核 を E
類 と し よ う 。 筆 者 の 観 察 す る と こ ろ で は 、 報 告 が 公 表 さ れ て い る 遺 跡 で E類 石 核 が み ら れ る の
は
、 j
男知!市川とオタフク岩のみである。両遺跡を、 E 類 石 核 が 存 在 す る と い う だ け で 、 他 遺 跡
か ら 区 別 す る の は 適 当 で は な い 。 な ぜ な ら ば 、 E類 石 核 か ら 剥 離 さ れ る 剥 片 と 、
I類 の 石 刃 核
に調整をくわえる際に剥離される剥片とを、接合資料以外で厳密に区別するのは困難である。
したがって、
E類 石 核 が な い と い う だ け で 、 不 定 形 剥 片 を 剥 離 す る 技 術 が 他 遺 跡 で は お こ な わ
れていなかった、と断言することはできない。くわえて、こうした不定形剥片剥離技術の存在
が、遺跡聞の時間差や地域差、集団差を直接的に示唆するものであるかどうかは、なお現時点
で は 不 明 で あ る 。 す く な く と も 、 立 類 石 核 が 存 在 す る と い う こ と だ け を 根 拠 に し て 、 携 別 市 )1
とオタフク岩を検討対象からはずすのは妥当ではない。
以上の見地から本章では、どの遺跡、でも観察・検討できる石刃剥離技術の比較検討に重点を
おく。比較の手段としては、石刃核と石刃に観察される属性をそれぞれに分解し、その属性ご
とに定量的な比較をおこない、遺跡聞での剥片剥離技術の差異と共通性を把握する。
a. 石 刃 核 の 農 性 の 比 較
石刃鍛石器群の石刃核には、打面にこまかな調整が摘され、石刃剥離が相当に進行した結果、
石刃の剥離面が作業面の全周をめぐるような円錐形を呈するものが一般的であり、原形時の面
がのこされているものは少ない。石刃核の属性としてここでは、①打面の種類、②作業固と打
面の位置関係、の二点をとりあげる。
I離 面 ・ 単 剥 離 面 ・ 自 然 面 と 剥 離 苗 の 両 者 が み ら れ る も の ・ 自 然 面 の 四 種
打 面 の 種 類 は 、 複 事J
類に区分できる o 石刃剥離作業面の陰打癒をきるようにして形成されている単剥離打面をもっ
石刃核が存在するが、そうした資料は打面再生に関連するものと考えられるため、ここでの検
討からは除外する。そうすると、各遺跡、ともに例外なく石刃核の打面は複剥離面であり、打面
調整はかならず施されている。
次に作業間に対する打田の位置について検討をおこなう。石刃鍛石器群で検出される石刃核
のすべては、打面と作業面の位置が国定しているものであり、単設・両設のカテゴリーにふく
められる。豊里やオタフク岩では両設打面の石刃核が少数出土しているが、各遺跡、ともに圧倒
的に単設打面が多い(表 3
・])。この結果は、石刃剥離工程のなかで打面転移の頻度が低かっ
た可能性を示唆している。この点は、のちほど石刃の背面構成の分析にもとづいてさらに検討
をくわえることにする。
b. 右 刃 の 属 性 の 比 較
石刃の属性として、①石刃のサイズ、②打面のサイズ、③背面構成、④打面の種類、⑤打点
直径、⑤打癌の状態をとりあげる(図 3
2
)。
最初に石刃のサイズを検討する。石刃犠石器群における石刃の場合、折れている資料が一定
欄
60-
表 子 l 各遺跡の石刃核
i
単設打菌│悶打菌
塁塁史
2
3
1
9
6
.
6
%
湧
5
}
1
j
市)
1
/
8
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.
4
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。
4
9
1
0
0
i%
/fタフク岩
2
1
8
7
.
5
%
トコロ貝塚
3
1
2
.
5
。
。
。
。
8
1
0
0
%
l
D
1
0
0
共
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2
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1
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0
0
2
4
1
0
0
D
1
0
0
表3
2 各遺跡の石刃の背面構成
。
。
1a
Jb
1C
I1d
4
.
3
3 I0
.
3
5I
IiiOO~IJ
2
0
.
2
1 8
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.
6
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。
〆
〆
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.
1
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。
表 33 各遺跡の石刃の打面の種類
If
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1 I0
.
3
1 2
.
8
2
2
.
3
2
1
9
2
.
4
4 0
.
2
5
。
I
I
C
7
4
.
6
6 0
.
9
4 I0
.
1
2
o I8
3
.
2
6 8
I1
.8
7
。
/
/
!
i
1 活
0
/
O
ノ断
1e
。
。
。
。
8
1.長さ
2
0幅
3.厚さ
1¥
1
1
I
I
1
4。打面幅
ム打面厚
6 打点直径
9
2
函3
2 石刃の属性
-62-
数認められるため、有意な最大長のデータを得ることはできないが、最大幅と最大厚は各遺跡
で ま と ま っ た 点 数 を 計 測 す る こ と が で き る 。 各 遺 跡 の 石 刃 は 、 最 大 幅 で 14mmから 20mm前後、
3
) 。各遺跡では共通したサイズの石
最 大 厚 で 3mm から 4mm 前 後 の 数 値 を 示 し て い る ( 函 3・
刃が検出されていると判断できょう。
打 面 嬬 と 打 面 厚 を つ ぎ に 検 討 し て み る と 、 打 面 幅 は 8mmから 12mm前 後 、 打 箇 厚 は 3mmか
) 。打面のサイズについて
ら 4mm前 後 、 に 各 遺 跡 の デ ー タ が 集 中 す る 傾 向 が み ら れ る ( 因 子4
も、各遺跡から検出されている石刃はほぼ共通した傾向を示している。
背面構成については、議密には完形品を対象に検討をおこなわねばならないが、ほとんどの
石刃が折れた状態で検出されているため、全体的な傾向を把握する目的で背面が充分に観察で
き る と 判 断 し た 4 cm 以 上 の 石 刃 を 対 象 に 分 類 を こ こ ろ み た 。 全 部 も し く は 一 部 に 自 然 面 が み
ら れ る も の を I類 、 自 然 面 が み ら れ な い も の を 立 類 と 大 別 し 、 さ ら に 以 下 の よ う に 細 別 し た 。
1 a類 : 背 面 す べ て が 自 然 面 の も の 。
1b類 : 背 面 の 一 部 に 自 然 面 が あ り 、 腹 屈 と 同 一 の 加 撃 方 向 を 未 す 剥 離 痕 が あ る も の 。
1 c類 : 背 面 の 一 部 に 自 然 面 が あ り 、 腹 面 に 対 し て 横 位 方 向 を 示 す 剥 離 痕 が あ る も の 。
1d類 : 背 面 の 一 部 に 自 然 面 が あ り 、 腹 面 の 加 撃 方 向 と は 逆 方 向 を 示 す 剥 離 痕 が あ る も の 。
1 e類 : 背 面 の 一 部 に 自 然 面 が あ り 、 腹 面 と 同 一 お よ び 横 位 方 向 を 示 す 剥 離 痕 が あ る も の 。
1 f類 : 背 面 の 一 部 に 自 然 面 が あ り 、 腹 面 と 同 一 お よ び 逆 方 向 を 示 す 剥 離 痕 が あ る も の 。
1 g類 : 背 面 の 一 部 に 自 然 面 が あ り 、 腹 面 と 同 一 お よ び 横 位 ・ 逆 方 向 の 剥 離 痕 が あ る も の 。
na類 : す べ て の 剥 離 痕 が 腹 面 と 同 一 方 向 の 加 整 方 向 で あ る も の 。
nb類 : 腹 部 と 間 一 お よ び 横 位 の 加 撃 方 向 を 示 す 剥 離 痕 を も つ も の 。
nc類 : 腹 面 と 同 一 お よ び 逆 方 向 の 加 整 方 向 を 示 す 剥 離 痕 を も つ も の 。
nd類 : 腹 面 と 同 一 お よ び 横 位 ・ 逆 方 向 の 加 撃 方 向 を 示 す 剥 離 痕 を も つ も の 。
ne類 : す べ て の 剥 離 痕 が 腹 面 の 加 撃 方 向 に 対 し て 横 位 方 向 を 示 す も の 。
nf類 : す べ て の 剥 離 痕 が 腹 商 の 加 整 方 向 に 対 し て 逆 方 向 を 示 す も の 。
ng類 : 腹 面 の 加 撃 方 向 に 対 し て 横 位 ・ 逆 方 向 を 示 す 葦 離痕をもつもの。
各 遺 跡 と も に 圧 倒 的 に na類 が 多 く 、 つ い で nb類と 1 b類 が み ら れ る ( 表
f
J
3
2
)
0
I
I b類
は稜形成調整痕付石刃にふくめられるものが多いため、実質的に各遺跡で出土している石刃は、
腹面と同ーの加撃方向を示す剥離面を背面にとどめているものが 8
0% 以 上 を し め て い る こ と
になる。以上の分類は完形品を対象におこなったのではないが、打面転移を示す資料がきわめ
て僅少であるという傾向からみて、実際のあり方もこれに合致するものとみてよい。
打面の種類として、 A 類:複剥離面、 B類:単剥離語、 C類:自然面、 D 類 : 自 然 崩 と 剥 離
面がみられるもの、 E類 : 線 状 打 菌 、 と 分 類 し た 。 ど の 遺 跡 で も A 類 が 90 % 以 上 を し め て い
3)
ることが分類の結果わかった(表 3
打 点 甚 径 に 関 し て み て み る と 、 各 遺 跡 で 打 点 震 径 の 観 察 で き な い 石 刃 が 90 % 以 上 を し め て
4) 、 遺 跡 間 で 差 異 を 認 め る こ と は で き な い 。
おり(表 3
o
t
t
e
r
e
l
l と Kamminga (
1
9
8
7
:
6
8
5
6
9
1、 1
9
9
0
:
1
3
0
・
1
3
5
) による剥離の発生
打癌の状態については、 C
形式に関する研究を参考にし、打寵がみられるもの (
S
a
l
i
e
n
t
)を I類 、 打 癌 が み ら れ ず 打 寵 上 部
D
i
f
f
u
s
e
)を E類 、 内 傾 が 観 察 で き ず 打
の打面と腹面との境界部分が麗面側へ内領しているもの (
・6
3-
3
0
--+ー皇室 (
n
=
8
2
6
)
ー+ー湧別市 J
I
I(
n
=
6
6
2
) I
--f>ーオタフタ岩 (
n
=
7
2
7
)1
I
=
:
)
l
開 2
叩
-4一酉逢布
(
n
=1
2
2
)
-4
一東山 (
n
=
1
3
6
)
I
2
0 ト・・・・・・・・・・ー
(
9
6
)
判μ
4
0
>
3
2
)
m
(
>
2
6
>
2
0
喝
>
1
4
﹀
>
8
n
o
nυ
>
2
一-+-g塁 (n=826)
--<>ー湧 j
j
i
j市 J
I
I(
n
=
6
6
2
) I
ー唖ーオタフタ岩 (
n
=
7
2
7
),
・
. 0 ・・共栄 B(
n
=
3
0
0
)
ーや一首主主布 2(
n
=
1
2
2
)
-4
ー支出(
n1
3
6
)
@
(%)
之
r
..0¥..、...............・・・・・・ー・・・・・・・・.......・・・・・・・・・・ー・・・.‘・・・・・.....
2
0 ・
・
問
>
7
>
1
0
>
1
3
図3
3 石刃のサイズ(上・幡、下・摩さ)
嶋
64
ゆ
間
>
4
4
0
--+一堂義 (n~336)
一+ー湧 ~IJf有mCn怠256)
--f!-/t7フデ岩 (
n
=
2
5
0
)
・
・ 9 ・・共栄 B(
n
ぉ1
0
0
)
-<>-一宮i
君布 2(n~16)
--0ー烹山 (n~25)
(%)
)
2
)
1
0
>
6
)
1
4
)22
)
1
8
(
m
m
)
6
0
目
4一
安1e.(
n
'
3
3
6
)
--<>ー湧 ~U市 )11 (
n
'
2
5
6
)
¥
-唱ーオタフク者〈日 '
2
5
0
)
、
.u・‘共栄 B(
n
=
l
O
O
)
透布 2C
n
=16)
-0ー東山 (
n
=
2
5
)
一
+
a
(%)
甘μ
)
m
(
9
)
7
)
5
)
3
間3
4 石刃の打面のサイズ(上・打面幅、下・打面厚)
幽
65
欄
表 34 各遺跡の打点直径(単位 mm)
・
。
理笠
%
3
2
7
9
6
.
4
1
j
勇
%別市JlI
。
%
1
2
4
5
9
5
.
7
195.9
共栄 B
%
1
0
0
西遠布 2
i%
1
0
0
<3
<4
。。
。。
。。
。。
。
。
。
。
。
1。
。。。。。
。。。。。
。。。。。。
。。 。。。
。
。 。
。
。 。
D
1
.5
A
0
.
4
1
D
1
.9
0
.
4
2
0
.
8
4
1
.6
2
0
.
8
4
1
4
0
.
.
0
表 3-5 各遺跡の打濯の状態
I
I
I
1
l
I
%
2
6
3
3
3
3
.0
0
8
7
.
9
6:1
1
.0
4 1
j
勇別市川
%
2
6
4
9
0
.
7
2 7
.
2
21 2
.
0
6
i… 岩 l m 1 2 5 l 1 2
%
共栄 B
182.46111
.8
5
15
.
6
9
5i
4
%
~叫 19.45
融 問
I1
.3
9
西違布 2
%
18
6
.
6
6i
6
.
6
7 16
.
6
7I
東山
%
l
1
.5
1
91
.6
7
18
.
3
3
-6
6-
。
。
1
0
.
4
寵がみられないもの(引 a
t
)を 田 類 と 分 類 す る 。 分 類 結 果 を み て み る と 、 ど の 遺 跡 で も I類 が 安
0%前後みられ、 E類 が そ れ に 続 く 共 通 し た 領 向 が 認 め ら れ る ( 表 5
づ)
定して 8
c. 諸 属 性 の 吟 昧
石刃剥離技術の検討でとりあつかった諾属性は、剥離方法(打撃・加圧法)に関連する属性
と、最J
I離 工 程 に 関 連 す る 属 性 と に 区 分 す る こ と が で き る 。
比較した属性のうち、打面のサイズや打点直径、打癌の種類は、剥離方法に関連する属性と
I離 の 方 法 に よ っ て は 人 為 的 に 制 御 可 能 な 属 性
考 え ら れ る 。 打 面 の サ イ ズ の な か で 打 面 厚 は 、 最J
であり、遺跡間でほとんど差がみられないことは、共通した石刃剥離方法が各遺跡で採用され
て い た こ と を 強 く 示 唆 し て い る 。 大 沼 克 彦 と Bergman (OhnumaandBergman 1982) は 、 実 験 的 研
究により、剥片の打点や打撞にみられる変異が直接打撃の際の硬質・軟質ハンマーの差異によ
るものであることを指摘した。しかし、いくつかの成果 (
S
o
l
l
b
e
r
g
e
r and P
a
t
t
e
r
s
o
n 1
9
7
6
) は認め
9
8
ら れ る も の の 、 間 接 打 撃 や 押 圧 剥 離 を ふ く ん だ 同 定 研 究 は ま だ 開 始 さ れ て は お ら ず (Owen 1
8
:
7
) 、そのため、石刃鍛石器群の石刃に観察される打点や打濯の傾向が特定の剥離方法に対
比できるものと確言することは、現状ではできなし」したがって、ここでは資料の傾向を把握
するにとどめておくお)。ただし、すくなくとも打点や打癌の属性もまた打面のサイズと同様に
各遺跡、で共通した傾向を示していることは、同様の剥離方法が採用されていたという想定を裏
づける可能性があろう。
石刃接で観察した打面の種類・打面と作業面の位置関係、石刃で観察した打面の種類・背面
構成は、剥離工程のなかの打面調整と打面転移に関連する属性である。打面の種類の検討から
は、いずれの遺跡でも複剥離打面が圧倒的に多くみられるため、打面調整はほぼ例外なく臆さ
れていたことがわかった。また、腹面と問ーの加撃方向を背面の剥離痕は示す場合が圧倒的に
多い、という石刃の背面構成の分析結果にしたがえば、どの遺跡においても石刃剥離の進行過
程で打面転移はほとんどおこなわれなかったとみられる。
石刃剥離工程に関連するとした上記の諸属性は、遺跡間で定量的な比較ができる。しかしそ
れ以外に、定量的な比較はできないが、石刃剥離工程の特徴をあらわしている調整・補正技術
として、石刃核作業面の稜線の形成・再形成のための作業面での横位調整、打面の再生などが
あげられる。これらの調整・補正技術の存在を示す稜付石刃・打面再生剥片の検出状況は、
1東 羽 田 で は 検 出 さ れ て
跡、ごとで顕著な差をみせている。打面再生剥片は、西達布 2 ・東山・ J
い な い 。 稜 付 石 刃 に 関 し て み て み る と 、 西 達 布 2や 東 山 で は 二 次 加 工 が 施 さ れ て い る 稜 付 石 刃
は検出されているが、二次加工が施されていない稜付石刃は検出されていない。これらの遺跡
で打面再生剥片や二次加工が施されていない稜付石刃が検出されないのは、遺跡内での石器製
作 作 業 の 差 異 が 起 因 し て い る も の と 考 え ら れ る o この点は後述する。
最後に石刃のサイズだが、石刃のサイズという属性は、製作者の目的とするところが反映し
て い る と 考 え ら れ る と と も に 、 原 石 の サ イ ズ や 素J
I離 方 法 ・ 工 程 な ど の 諾 要 素 の 影 響 を う け て い
るともみられる。検討結果からは、いずれの遺跡でもほぼ共通したサイズの石刃が検出されて
いることがわかった。石材や剥離工程・方法に関する観察が妥当なものであることを前提とす
ると、各遺跡では共通したサイズの石刃が志向されていたものと判断してよかろう。
-67-
(4) 石 器 の 素 材
石器には石刃を素材にしているものと、不定形剥片を素材にしているものとがある。石刃鍛
I器 ・ 掻 器 は 石 刃 が 素 材 で あ る 。 石 鍛 や 探 錐 器 の 一 部 に は 、 厚 さ や 形 状 か ら み て 石 刃
・彫器・向J
J
片を素材としている。それらには、
素材と思われるものもあるが、多くは幅広・寸詰まりのff<l
立類石核から剥離された剥片を素材にしているものもふくまれているとみられる。全体形状が
縦長である石匙は、背面企{本が二次調整によっておおわれているが、腹函の状態からみて二次
加工による素材の変形がそれほど観察されないことから、石刃を素材にしていると判断できる。
i片 が 素 材 に な っ て い る ( 梶 原 1
9
7
6
:1
1
) 。これら盤状・横長剥
尖 頭 器 や 石 箆 は 盤 状 ・ 横 長 景J
片素材の器種の背面には大きな自然面がのこされている場合が多い。したがって、盤状・横長
剥片は、石器製作のなかでも早い段階に剥離されたものと考えられる。ちなみにオタフク岩で
は 、 石 箆 の 長 さ は 平 均 Ilcm 前 後 あ る 。 想 定 の 域 を で る も の で は な い に せ よ 、 石 刃 核 が 作 出 さ
れる過程では大ぷりの剥片が剥離される可能性は高いと思われ、それらの剥片が尖頭器や石箆
らの素材になっていたのではなし、かと推測される。
次に石刃を素材にしている石器をより詳細に観察してみると、石器の種類に応じてサイズの
異 な る 石 刃 を 選 択 し て い る こ と が わ か る 。 石 刃 蟻 ・ 彫 器 の 最 大 幅 の 平 均 値 は 、 石 刃 鍛 で Ilmm
前 後 、 彫 器 は 19mm 前 後 で あ り 、 遺 跡 ご と の 差 は ほ と ん ど な い ( 表 3・
6
) 。遺跡、ごとに石刃銑
と彫器の幅の計測値を
t
-検定によって検討したが、いずれの遺跡でも有意水準
5 %で 両 器 種
のt
l
TI¥には有意差があることがわかった(表 3
7
) 。 石 刃 鍛 や 一 部 を 除 い た 彫 器 付 )I
土、二次加工
によって l
隔がきわだって減少することは考えがたいことから、ここに指摘した最大幅の差は、
素 材 と し て 選 択 さ れ た 石 刃 の サ イ ズ の 差 を 皮 映 し て い る と 考 え て 差 し 支 え な い 。 藤 本 強 (1992
1
5
3
) は、アムーノレ川流域のノヴヌ「ベトロフカ遺跡や北海道のトコロ貝塚の資料を分析し
:
1
4
9・
て、石刃搬には細身の石刃が、それ以外の石刃素材の器種には太身な石刃が、その素材に利用
されていることを指摘した。ここでの筆者の検討は、藤本が指摘した素材選択のあり方が、北
海道のどの遺跡、の事例においても観察できることを示すこととなったといえよう。
(5) 石 器 製 作 技 術 に よ る 遺 跡 聞 の 比 較
ここまで遺跡聞での石器製作技術の比較をおこなってきた。その結果、原材に選択されてい
る石材、最1片素1
I離 技 術 、 石 器 の 素 材 選 択 の 三 点 に 関 し て は 、 各 遺 跡 を 通 じ て 強 い 甑 一 性 を 示 し
て い る こ と が わ か っ た 。 こ れ ま で 指 摘 さ れ て い る 細 部 調 整 技 術 の 共 通 性 ( 木 村 1976:15) とを
加味すると、遺跡ごとの石器製作技術の高い共通性は再度強調しておく必要があろう。
4. 組 成 の 比 較 検 討
本節では、石器・遺物組成の遺跡間比較をおこなう。
(1) 石 器 組 成
出現の有無をみてみると、石刃鍛、彫器、削器、撞器、探錐器、磨製石斧、砥石、石鋸は、
働
6
8-
石刃鍛(上) と彫器(下) の幅(単{立 mm)
表3
必
'.r;~ n-ゐ
最 小l
i
主
サンプル主主
川
崎
立F
Z
1
サンプル数
最小値
トコロ貝塚 FT
共栄 B
i!S遠布 2
東山
1
1
1京 羽 白
表3
7 石刃鍛と彫器の幅のト検定
遺跡
n
nz
闇
且
j
勇別市 )
1
1
オタフクをき
共栄B
首途布 2
3
長山
川家羽田
有意水準 0
.
0
5での
有意王室の有祭
tj
度
-L
-8
.
1
6
6
9
8
1
5
.
2
0
4
5
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.
3
0
0
1
7
-5
.
9
7
7
3
9
-3
.
4
2
6
4
2
-2
.
7
5
3
9
-4
.
6
9
1
6
8
十
十
十
十
十
十
-69
暢
“
ヮ
;;fタフク宕
1
9
.
4
2
0
.
3
1
9
0
2
0
.
1
1
9
.
7
1
8
.
8
1
7
最大値
24nu-bqο 内、υ Q d
つ
ム qdAaqd
つd d - 1 a
円
湧別市川
平均値
ウ
t n U 1 A A U Q d n O Q M 弓υ
141A1i-lA
内
υ dapnυnHUτ14n4υβhU J
t
戸
ウ4 虫υ
弓υ 1み
つ
“
塁
塁
塁
ウ'
1
1
1}在羽白
ゥ'oononEnMd
酒造布 2
東山
宅B
トコロ貝塚 FT
共栄 B
戸
オタフク岩
11
.6
1
2
.
9
1
3
.
7
1
0
.
8
1
0
.
5
1
1
.6
1
0
.
8
1
1
.7
最大値
'U7
4 1 A A - 4 5 4‘
っ
ム 市 i ワu
ウt n o
, Aa i
AaQd つiunL
ウt
噌 Fhu
pO i ? d 1 ょ 1 i 1‘
"D
主
主
.
e
!
.
i
努別市川
:;P: j~Jl復
ヮ“。ム司 i 1 1 1
“
ヮ
J
l
li
E
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│
、
様~偏差
2
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1
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.
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2
.
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1
1
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.
0
2
標準偏差
2
.
2
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7
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.
9
1
0
5
.
7
2
6
.
9
8
7
.
0
1
1
.6
4
ほぼすべての遺跡から出土している。一方で、尖頭器、石搬、石箆、石匙、石錘、磨石、石毘
・ 回 石 、 敵 石 は 、 一 部 の 遺 跡 で 組 成 か ら 脱 落 し て い る ( 表 3・
8
) 。石器組成表をみてみると、
尖頭器をはじめとして磨石、石血・凹石、設石などをもふくむ石器組成と、これらが脱落する
石 器 組 成 と が 認 め ら れ る 。 豊 里 ・ 湧 日 IJ市 川 ・ オ タ フ ク 岩 ・ ト コ ロ ・ 共 栄 な ど は 前 者 の 例 で あ る 。
トコロや共栄では、石匙や尖頭器などに一部脱落が認められるが、者鍛・磨石・石錘などは検
出されており前者の組成のうちにふくめることができょう。後者の例としては、西達布・東山
・J
I!東羽田などをあげることができる。大まかにみれば、沿岸部に位置する遺跡では前者の組
成が、内陸部に位置する遺跡、では後者がみられるといえよう。
ここで沿岸部と内陸部での石器組成の差に注呂すれば、内陸部の遺跡において石錘・磨石・
石血・凹石が脱落するのは、生業活動として撒労活動や植物性食料の加工作業が低調であり、
逆にそれらの石器が検出されている沿岸部の諸遺跡では、持、労活動や植物性食料の加工作業も
生業活動のレパートリーにくわわっていた、と解釈することができるかもしれない。実際、藤
本 強 (1
9
8
1:
3
2
4
) はそのような解釈を採用している。一般論として、組成の内容は活動地点の
放棄要因の影響をうける可能性が指摘されており
(
S
c
h
i
f
f
e
r 1
9
8
7
:
8
9
・
9
8
) 、ただちに「生業活
動j の解釈に結びつけるには問題がある。しかし、石錘・磨石・石血・凹石らのように、遺跡
近辺で原材が比較的容易に入手でき、なおかつ重量の点からみて携帯性が不適当な石器の場合、
その有黙は生業活動の性格を反映している可能性がある。生業活動の問題については、遺跡の
種別や立地といった(集団〉の移動・居住形態にかかわる全体的な輪郭があきらかにされた時
点で再度考えてみよう。
(2) 遺 物 組 成
・
9、図 3
・
5
)。
各遺跡から出土した石器、石刃、石核、剥片・砕片の組成を検討する(表 3
検出された剥片・砕片の比率・点数は、その遺跡での石器製作作業の性格を推測させるもの
として重要である。ここでいう「石器製作作業 Jは、器種の調整加工・再加工にかかわるより
は、むしろ剥片剥離にかかわるものである。剥片剥離作業にともなって多量の剥片・砕片が飛
散 す る こ と は 、 わ れ わ れ が 石 器 製 作 実 験 を 通 じ て 経 験 的 に 認 識 し て い る と こ ろ で あ り 、 最IJ片・
砕片が多量に検出された遺跡、では、事j片 剥 離 作 業 が お こ な わ れ て い た 可 能 性 が 高 い と 考 え て よ
い 。 石 器 や 石 刃 に 関 し て は 、 製 作 さ れ た 地 点 か ら も ち だ さ れ る 可 能 性 が あ る が 、 最IJ片 ・ 砕 片 が
もちだされている可能性はきわめて小さい。こうした理由から、剥片・砕片の比率と点数は、
遺跡の性格を考えるうえで重要な指標になることが了解できょう。
最IJ片 ・ 砕 片 の 比 率 と 点 数 を み て み る と 、 各 遺 跡 は 以 下 の よ う に 三 種 類 に 区 分 で き る 。
a類 ) 比 率 が 7
0% 以 上 、 点 数 が 千 点 以 上 : 豊 皇 ・ 湧 別 市 川 1・オタフク岩。
b類 ) 比 率 が 1
5% "
-30% 、 点 数 が 50点以上:トコロ・共栄。
C
類)比率が 1
5% 以 下 、 点 数 が 5
0点 以 下 : 西 達 布 ・ 東 山 ・ 川 東 羽 田 。
a .b類に区分された諸遺跡、では、葦IJ片 ・ 砕 片 の 比 率 や 点 数 か ら み て 剥 片 剥 離 作 業 が お こ な
われていたと考えられる。
a . b類 に ふ く め ら れ る 諸 遺 跡 か ら 検 出 さ れ た 剥 片 ・ 砕 片 に は 大 ・
中形のものが多いほか、先述のように打面再生剥片や稜付石刃が検出されていることからみて
も、遺跡内で剥片剥離作業はおこなわれていたと考えて大過あるまい。反対に、
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表:3必 石 器 組 成 表
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図 3-5 遺物組成
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72-
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0百
れた西達布
71
・東山・)1東 羽 田 で は 、 剥 片 剥 離 作 業 が お こ な わ れ て い た と は 考 え が た い 。 こ れ
らの詰遺跡からは、打面再生剥片や二次加工の施されていない稜付石刃が検出されてはおらず、
また検出されているわずかな剥片・砕片は、石器の調整加工および刃部再生の時点で剥離され
I片
た も の と 想 定 さ れ る か ら で あ る 。 実 際 に 東 山 で は 25 点 の 剥 片 ・ 砕 片 の う ち 4点が彫器の荷J
で あ り 、 ま た 彫 器 削 片 以 外 の 剥 片 ・ 砕 片 は 、 ほ と ん ど が 長 さ 3 cm 以 内 の 小 形 の も の で あ る こ
とからも、上記の想定は妥当性をもつものといえよう。したがって、これらの遺跡で検出され
た石器は、素材もしくは完成された状態で遺跡にもちこまれたものと推察される。
なお、間じように石刃剥離作業がおこなわれていたと考えられる諾遺跡でも、
a類と b類の
遺跡間には剥片・砕片の比率や点数に関して差異を認めることができる。この差異がどのよう
な要因によるのかは別の機会に検討するとして、ここでは当面、剥片剥離作業の有無を基準と
し て 導 か れ た a • b類と
C
類の二分を確認しておくことにしよう。
(3) 分 析 結 果 の 吟 味
石器組成や遺物組成のデータは、遺跡内での石器の分布状態や調査面積によっては、本来そ
の遺跡にのこされた組成とは大幅に異なったものになってしまう可能性がある。この点の吟味
をぬきにして、遺跡の性格を議論することはできない。次節では、遺物組成をもとに各遺跡、の
性怖について考察する予定のため、ここでは遺物組成のデータの吟味をおこないたい。
かりに石器、石刃、石核、剥片・砕片のそれぞれの遺跡内での分布に、常態的なかたよりが
み ら れ る と す れ ば 、 ほ と ん ど が 石 器 や 石 刃 で し め ら れ て い る 西 達 布 ・ 東 山 ・ )1東 羽 田 の 遺 物 組
成は、たんに分布のかたよりの一端が調査で把握されたにすぎないことになる。この問題を解
J片 ・ 砕 片 の そ れ ぞ れ が 充 分 に 検 出 さ れ て い る 遺 跡 で の 石 器
決するため、石器、石刃、石核、!f:J
の平面分布を検討し、分布にかたよりがあるかどうか確認しておく必要がある。
そこで、出土遺物全点の分布を再検討することができるオタフク岩の遺物分布を検討した。
石器、石刃、石核、剥片・砕片にわけ、それぞれの分布のかたよりが客観的に把握できる分布
6
) 。この図によれば、剥片・砕片の分布には、調査区の南西
密 度 の 等 高 線 を 作 成 し た ( 図 3・
5'
"
'
' 22列 ) に か け て な か に 粗 密 は あ る が 大 き な 集 中 が 認 め ら れ る が 、
部 分 (Bから F ま で の 1
I ・C 1
2・D 1
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ほ か に 北 東 部 分 に も 二 ケ 所 の 集 中 (E8 .E 9 ・F 8 .F 9と C I
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る 。 石 器 、 石 刃 、 石 核 の そ れ ぞ れ の 分 布 に は 、 調 査 区 の 南 西 部 分 (B から F ま で の 1
列 ) に 集 中 が み ら れ る 。 分 布 の あ り 方 を 相 互 に 比 較 し て み る と 、 調 査 区 の 北 東 部 分 で は 、 事j片
・砕片だけが単独に集中していることがわかる。それに対して、南西部分では最も集中してい
る場所にずれが認められるとはいえ、大きくみた石器と石刃、石核の集中と素,)片・砕片の集中
は、相互に重なっているといえよう。
I片 ・ 砕 片 の
オ タ フ ク 岩 で は 、 石 器 と 石 刃 、 石 核 の 分 布 は 、 単 独 で 集 中 す る の で は な く 、 素J
市川でも同様の傾向が認められる。報告
中とほぼ重なっていることがあきらかにされた。湧JSiJ
(木村 1
9
7
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8
・
3
2
) では、石器の集中部ごとの石器や剥片・砕片の点数を提示しているが、
これをみるかぎりでは剥片・砕片だけで構成されている集中部はみられなし、。この二つの遺跡
の事例からみて、以下のような傾向を導くことができる。つまり、石刃蟻石器群が検出された
遺跡では、遺跡内での分布のかたよりの結果によって、剥片・砕片だけが集中的に検出される
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4・
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遺物分布密
度
ことはあっても、石器や石刃だけが集中的に検出される可能性は低い、と。そのため、西達布
1片 ・ 砕 片 の 検 出 量 が 非 常 に 少 な い 遺 物 組 成 を 、 遺 跡 内
・ 東 山 ・ 川 東 羽 田 で み ら れ る よ う な 、 葉J
での分布のかたよりに起因するものと一方的に解釈することはできないことになろう。
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0 ばである。
これらの諾遺跡の調査面積は、西遠布が 4
このうち川東羽田では、遺物位含屠が安定して検出されているわけではないため、遺物の内容
が本来の組成をどれほど反映しているのか判断は難しい。そのため、川東羽田については判断
を保留にするが、西達布・東山では散漫にひろがる遺物の分布が調査の結果とらえられており、
遺跡の全容がほぼあきらかにされていると考えられる。したがって、遺物分布に関する上記の
検討を加味すると、さきに示した遺物組成のデータは、遺跡の性格を評価するうえで有意なも
のとみてよい。次節ではこのデータをもとに遺跡の性格を検討し、移動・居住形態の仮説モデ
ルの説明にふみこみたい。
5. 移 動 調 居 住 形 態 の 検 討
(1) 遺 跡 間 の 相 互 補 完 性
前節までに検討したように、石器製作技術に関連する諸属性には遺跡間で共通性が認められ
ながらも、石器組成や遺物組成には遺跡間で差異が確認できた。こうした差異と共通性が意味
するところを以下で考察してみよう。
前 節 で 遺 物 組 成 の 検 討 を お こ な っ た が 、 そ の 特 徴 か ら み て 各 遺 跡 、 は a類 . b類・
に区分できることを指摘した。
C 類の三つ
a . b類 に 区 分 さ れ た 豊 里 ・ 湧 別 市 川 ・ オ タ フ ク 岩 ・ ト コ ロ ・
共栄では、石器や石刃のほかに、石核や剥片・砕片が検出されており、遺跡内に剥片剥離作業
の痕跡、を確認することができた。一方、
C 類に区分された西達布・東山・川
i
東羽田では、検出
された石器群の大半が石器や石刃のため、剥片剥離作業の痕跡はほとんど確認できなかった。
したがって、
a .b類 に 区 分 さ れ る 遺 跡 と
C
類に区分される遺跡、は、全体的な石器製作工程の
なかで相互補完的な位置をしめていたということがうかがえる。
石器や石刃だけが検出され、剥片剥離作業の痕跡がほとんど認められない
しうるためには、
C
類の遺跡が存立
~J 片剥離作業の痕跡が確認されている遺跡とのあいだでなんらかの関係、が成
立していたと考えなければなるまい。
C
類 の 遺 跡 で 検 出 さ れ て い る 石 器 や 石 刃 は 、 第 3節 の 比
較検討であきらかにした石器製作技術の共通性からみて、
のと推察される。したがって、
C
a .b類 の 遺 跡 で 製 作 さ れ て い た も
類の遺跡で検出された石器や石刃は、
a • b類 の 遺 跡 で 製 作
されたものがもちこまれたと考えるのがもっとも妥当となろう。そのため、
C
類の遺跡は、
a
• b類 の 遺 跡 を の こ し た 集 団 が 移 動 し て き た こ と を 契 機 に 形 成 さ れ た の で は な い か 、 と い う 仮
説をたてることができる。石器製作作業の進行が不可逆的であることを念頭におけば、
a .b
類の遺跡を起点にした移動活動が想定されよう。
なお伴出する土器群の検討結果によれば、北海道の石刃鍛石器群は、比較的短期間のうちに
出現・消滅したと考えられている(沢 1
9
6
8
:
1
6
) 。土器群の検討にもとづく遺跡聞の時間的関
係については、いずれ詳細な議論を別機会におこないたいと考えているが、ここでは伴出する
寸
、
戸f
J
土器it.
s
'の 位 置 づ け か ら 、 遺 跡 聞 の 時 間 的 関 係 に つ い て 概 略 の み
及しておく。
石刃鍛石器群に伴出する土器には、器形が鉢形またはコップ形をなし、口縁部が平縁で、無
文や条痕文がみられるものが多いが、ロ縁部ちかくには絡条体庄痕文がよくみられる。いわゆ
る浦幌式と命名されたものである(名取 1
9
5
5
:
3
0
) 。浦幌式は、本稿で検討対象にした遺跡の
な か で は 、 )1東 羽 田 を の ぞ く す べ て の 遺 跡 に お い て 検 出 さ れ て い る 。
このほか型押文や円形の
、j
っ
スタンプ状の文揮を口縁部ちかくにもつものが、豊里やトコロでわずかに知られている。 し
ゆる女満別式やトコロ
しカ、しながら、
1
4類 と 命 名 さ れ た も の で あ る ( 大 場 ・ 奥 田 1
9
6
0
:
7
3、 駒 井 編 1
9
6
3
:1
6
9
)。
これらの土器と浦幌式は、
されている(駒井編
トコロ貝塚の遺構内で共伴して出土することが報告
5
5
) 。 同 様 に 、 縄 文 ・ 絡 条 体 圧 痕 文 ・ 組 紐 圧 痕 文 .H
占付隆起文の
間前:1
組合わさりを特徴とする東釧路 E ・皿式が、湧別市川・オタフク岩・網井で確認されているが、
これらの土器にも浦幌式との共伴が指摘されている(木村 1
9
7
3
:
3
3、 j
南坂・豊原 1
9
9
1:
6
8、 豊 原
1
9
8
1)。
以上に概観した範函では、 浦 l
幌 式 が ど の 遺 跡 で も 検 出 さ れ て い る こ と か ら (表ト 1
0
)
石刃
,
t
J
;
j
主石器 t
r
iが 検 出 さ れ た 遺 跡 間 に は 段 階 差 と よ べ る よ う な 顕 著 な 時 間 的 間 関 を 認 め る こ と は で き
な い ")。これは、
さきに指摘した遺跡問の移動に関する仮説と矛盾せず、 逆にその可能性を支
持するものとなろうつ
(2) 遺 跡 の 立 地
各 遺 跡 の 立 地 や 標 高 に つ い て は 、 第 2節 の 遺 跡 概 観 の 項 で 説 明 し た が 、 あ ら た め で そ れ を 本
節で整理してみよう。
1 の遺跡分布からもあきらかなように
函 3
豊 里 ・ 湧 別 市 川 ・ オ タ フ ク 岩 ・ トコロ・共栄は、
現海岸線にかなり接近した地点に位置している。
地し、 探
これらの
跡は、いずれも抵{立の段丘上に
タフク岩は、
襟
も オ タ フ ク 岩 日 を 例 外 に す る と 、 ほ と ん ど が 20 m 以 内 の 地 点 に 立 地 し て い る 。 オ
が 40 m と や や 高 い も の の 、 現 海 岸 を 眼 下 に お く 崖 上 に 立 地 し て い る こ と か
ま
;
治
、σ
コ 跡 と 間 接 の 立 地 傾 向 を み せ て い る と 考 え て 大 過 あ る ま い 。 一方で、 西達布・
らみて、 l
山・)1東 羽 聞 は 、 現 海 岸 か ら 100km 前 後 も 離 れ た 内 陸 部 の 丘 陵 の 緩 斜 面 に 立 地 し 、 標
0
0m を こ す と い う 傾 向 が 認 め ら れ る
は l
D
重要な点は、現海岸からの最短距離・標高・立地する地形によって把握される沿岸部と内陸
部との遺跡の区分が、石器製作作業の検討から把握された遺跡の区分と対応することであるっ
すなわち、
~ðJ 片剥離作業の痕跡が確認された遺跡は沿岸部に立地し、その痕跡が確認できなか
っ た 遺 跡 は 内 陸 部 に 立 地 し て い る の で あ る 。 濯 物 組 成 の 検 討 に よ っ て 設 定 し た a . b類と
の遺跡間で、集団は移動していたであろうという仮説を、筆者はさきに提起した。
C
類
ここまでの
検討をつけくわえるならば、そうした移動活動は、 沿岸部と内陸部という異なった地理的景観
をまたがるものであったことになる。
(3) 遺 跡 の 種 目j
沿岸部と内i
謹部という
なる地理的
ここでは遺構の,検出状況から
観のそれぞれを、集団はどのように利用していたのかっ
跡の譲別設定をおこなうことで、 この問題を検討してみようっ
-76-
豊里
湧別市川
オタフク岩
トコロ
共栄
西達布
東山
0000000
浦幌式
女満別式
トコロ 1
4
東釧路 E式
O
O
表3
1
0 各遺跡出土の土器型式
制
7
7・
O
O
石 刃 鉱 石 器 群 が 検 出 さ れ た 遺 跡 で 発 見 さ れ る 遺 構 に は 、 竪穴住居士止と土坑の二種類がある。
遺跡種別の設定の基準は、そのうち竪穴住居社の有無によることにし、 検出されている遺跡を
I種 、 検 出 さ れ て い な い 遺 跡 を E種と大別する。 豊 里 ・ 湧 別 市 川 ・ オ タ フ ク 岩 ・ トコロ・共栄
は 、 竪 穴 住 居 枇 が 検 出 さ れ て お り I種 に E分される。 竪穴住居士止が検出されていない西達布・
東山・ )
1
1東 羽 田 は 訂 種 に 区 分 さ れ る 。
竪 穴 住 居 祉 の 有 無 に よ っ て I種 と 立 種 の 遺 跡 種 別 を 設 定 し た が 、 竪 穴 住 居 祉 が 検 出 さ れ て い
ない日種とした
跡の場合、調査面積が極端に小さかったり、 予想される遺跡のひろがりを調
査しきれていないとすると、 本 来 的 に は 存 在 し て い た 竪 穴 住 居 祉 が 検 出 さ れ な い こ と も 予 測 で
1
tで指↓寵したように
きるつ 前 i
1
1東 羽 田 を の ぞ く 西 達 布 ・ 東 山 の 問 遺
日種とした遺跡、のうち、 )
日
弟
;
,
土 、調査によって遺跡の全容がほぼおさえられたと考えられるため、 そうした問題を考慮す
1
9
9
1年度におこなわれた豊里の調査(米村 1
9
9
2
:1
7
4
8
) や湧別
る 必 要 は そ れ ほ ど な い 。 また、
市)1 (北海道大
(駒井編 1
9
6
3
:1
4
9・1
5
0
) らの報告をみてみると、
穴住居
上
1
:は : 石 器 群 の 分 布 が も っ と も 集 中 す る 部 分 な い し そ の 近 辺 に お い て 確 認 さ れ て い る つ
竪穴住居
J
II:の京
トコロ
1
9
6
7
:1
)
r
m(I:J位 置 と 石 器 W
i
:分 布 と の あ い だ に 一 定 の 対 応 関 係 が あ る こ と を 認 め る な ら ば 、 遺 跡 、 の
全容がほぼ把握されたとみられる西達布・東山の両遺跡には、 竪穴住居祉は本来的に存在して
いなかった可能性が高いことになろう。
遺 跡 種 別 と し て ! 種 と H種 を 区 分 し た が 、 注 目 さ れ る 点 は 、 遺 跡 種 別 の 検 討 に よ っ て 把 握 さ
れた遺跡の区分が、濯物組成、さらには前節で検討した遺跡立地にもとづく区分と一致するこ
とである。 石 器 製 作 作 業 が 活 発 に お こ な わ れ て い た 沿 岸 部 の 諸 遺 跡 で は 、 竪穴住屠士止をともな
う居住活動が
まれていたことが確認でき、 ま た 石 器 製 作 作 業 の 痕 跡 に と ぼ し い 内 陸 部 の 諸 遺
山相]
(
b
a
s
e camp) の 性 格 が 、 後 者 の 遺 跡 の 場 合 に は 野
'
+
a
h
F
地
跡では、竪穴住居士止をともなわない活動が営まれていたとみられる。 前 者 の 遺 跡 の 場 合 は 本 拠
(tempormγcamp) の 性 格 が 想 定 さ れ よ
つ
。 ただし後者の遺跡のなかでも川東羽田は、 石器組成や遺物組成からみて、 より特殊な性格
をもっていたことが容易に想像できる。
さきにも述べたように出土状況が不明確なため断定す
ることはできないものの、土器が検出されていないこと、検出された石器の種類がきわめて少
ないこと、 石 器 組 成 の な か で も 石 刃 鍛 が 圧 倒 的 に 多 い こ と
、、,ノ
tρ
w
し
し
F3
ρw
nb
n
u
Hu
nド
m
a
定 の 活 動 場 所 (s
p
e
c
i
a
l
(90.66 %) な ど を 勘 案 す る と 、 特
も し く は 道 具 の 一 時 保 管 場 所 (cache)
あるいはその両
者が組合わさっていた性格が想定できょう。
以 上 の よ う な 遺 跡 種 別 の 設 定 に よ っ て 、 石刃鍛石器群が検出された各遺跡、は、 大 き く み て 本
他地と野
地に区別された。 こ こ で お こ な っ た 大 別 は 、 沿 岸 部 と 内 障 部 と い う 異 な っ た 地 理 的
観の相互で、 集 団 が ど の よ う な 行 動 を と っ て い た の か を 示 唆 す る も の と い え る 。 し た が っ て 、
ここまで検討してきたかぎりでは、本
の冒頭で差し出した遺跡間関係の解釈に関しては、藤
本 強 (1
9
8
1:
3
2
4
) による活動差という観点からの説明の方がより妥当なものとなる。
ただし注
しておくべき点は、 こ の 大 別 に よ っ て 特 定 の 地 点 で お こ な わ れ た 行 動 の す べ て の
性 協 が 説 明 で き る わ け で は な い こ と で あ る 。 た と え ば 本 拠 地 と し た I穫の遺跡は、 個 々 の 遺 跡
での i
監物出土
が膨大であること、
構相互に切り合い関係が認められることからも、 累
的
な行動がなされたことによって遺跡が形成されている可能性を予測することができる。 単位行
動が累績されることによって形成される回惜的な遺跡の場合、そこでおこなわれる単位行動の
欄
78-
性格には振幅がみられること、いわば本拠地的な利用と野営地的な利用とがなされる可能性が
B
i
n
f
o
r
d 1
9
8
2
:1
1・1
6
) 。遺跡形成の際の
あることは、民族誌の検討からすでに指摘されている (
個別行動を解きほぐして、その性格を究明することは、今後にのこされた課題といわねばなる
ま い 。 た だ し 、 こ こ ま で の 検 討 結 果 か ら す れ ば 、 E種 と し た 遺 跡 が い わ ば 本 拠 地 的 に 利 用 さ れ
ることはなかった、と結論づけることができょう。
な お 、 佐 藤 訓 敏 (1
9
8
3
:
5
2づ4
) が綿密に集成したデータからもあきらかなように、石器群が
まとまって発見されている遺跡以外に、石刃鍛などが単発で採集されている遺跡は数多いo 先
述したように、図 3
・iに黒印で示した遺跡、がそれらに相当する。これらの遺跡、に関しては、次
で検討してみることにしたい。
(4)移動・居住形態の仮説モデノレ
Iに 対 し て 検 討 を く わ え て き た が 、 そ の 結 果 、 集 団 は 沿 岸 部
以 上 、 遺 物 組 成 や 遺 跡 立 地 ・ 種 目J
と内陸部という異なる地理的景観をまたがるようにして移動をおこなっていたこと、また沿
部の諸遺跡は本拠地として利用され、内陸部の諸遺跡は一時的な野営地として利用されていた
ことが把握された。石器製作工程の進行が不可逆的であることを考慮にいれると、道具の準備
・補充にかかわる作業がおこなわれている沿岸部の遺跡を起点として、移動はおこなわれてい
たと考えられる。一方の内陸部の遺跡では、道具の素材を用意する作業はおこなわれてはおら
ず、もちこまれた石器・石刃の範囲内で道具の使用と補充はまかなわれていたとみられる。携
えてきた道具が消耗してしまうと、その補充をおこなうためには沿岸部の遺跡へ回帰せざるを
えない。内陸部のどの遺跡においても道具の素材を用意する作業がおこなわれていないという
現象は、内陸部の遺跡が非回帰的で占地もごく短期間であったことを示唆していよう。
こ の よ う に 復 元 さ れ る 移 動 ・ 居 住 形 態 は 、 第 1~震で紹介した Bang-Andersen (
1
9
9
6
:
4
2
94
4
0
)の
・
「沿岸部一内陸部の相互関係 (
c
o
a
s
t
l
i
n
l
a
n
d i
n
t
e
r
a
c
t
i
o
n
) J という仮説モデルときわめて共通する
ものといえる。彼は、南ノノレウェーの中石器時代において、沿岸部と内陸部という異なる地理
的景観をまたがるようにして(集団〉が移動し、沿岸部・内陸部間には生業差にもとづく遺跡
利用の季節差があった、という移動・居住形態の仮説モデルを提示している。検討に利用され
ている動・植物遺存体が限られているため、季節性に関する推定には今後の再検証が必要であ
るし、個別の遺跡、での形成過程を考慮にいれると、利用形態についての二者択一的な理解には
一部に検討の余地をのこすことになる。しかしながら、 B
a
n
gA
n
d
e
r
s
o
nや 筆 者 が 復 元 し た 移 動 ・
輔
居住形態の仮説モデルからは、地理的景観に応じて異なる活動を営む、という土地利用にあた
っての共通した傾向をうかがうことが可能である。北海道の石刃鍛石器群の場合、移動活動が
節的周期にしたがっていたものであったのかどうかは今後検討されるべき課題であるが、す
くなくともここに提示した移動・居住形態の仮説モデルは、占地を転々と移動するようなパタ
ーンとは異なるだけに、移動活動のサイクノレにはなんらかの規則性があったものと考えて差し
支えなかろう。
沿岸部の遺跡では、遺跡立地や石器組成からみて、その規模や性質は不明であるにしても、
水産資源の利用がおこなわれていたことはまちがいない(加藤 1
9
6
3
:
6
) 。もちろん、狩猟活動
や植物性食料の利用もおこなわれていたのであろうことは、出土している石器組成からあきら
-79-
かである。一方の内陸部の遺跡では、石錘や磨石・石皿類が石器組成から欠如していることを
生業活動の反映ととらえるならば、内陸部では狩猟活動によりウェートがおかれていたものと
想定することが可能である。このように想定される沿岸部と内陸部での生業活動の重点の差異
は、ここまで検討してきた移動活動が、たんに地形を含意するものとしての地理的景観を横断
するだけでなく、生業活動と密接に関連して、異なる生態環境ゾーンの開発・利用のために実
行されたものと理解されるべきことを示していよう。
(5) 石 器 石 材 の 入 手 と 移 動 ・ 居 住 形 態
最後に、石器石材の入手とここまで吟味してきた移動・居住形態との関係を検討してみようっ
とりわけ確認しておくべき点は、石刃鍛石器群が検出された遺跡聞における石器製作作業にか
かわる差異が、石器石材の原産地からの距離という条件によって説明可能であるのかどうか、
についてである。
オタフク岩の石刃鍍石器群における石材利用の傾向については前章で簡単に触れた。そこで
は、第一に、原石そのものではなくある程度剥離がくわえられた石核の状態で原材は遺跡にも
ちこまれていること、第二に、原産地の露頭およびその近辺での原石の自然聞を剥ぐような作
業が予測できること、第三に、石器石材は集団関での交換等による間接的獲得ではなく、直接
的な採取を想定した方が妥当であることを指摘した。
以上にあきらかとされた点とここでの到達点とをつきあわせて考えてみよう
D
遺跡分布を示
した図 3・1に は 、 主 要 な 黒 曜 石 の 原 産 地 の 位 置 も 示 し で あ る 。 黒 曜 石 原 産 地 と 沿 岸 部 の 諾 遺 跡
' 130km前 後 の 直 線 距 離 が あ る こ と が わ か る 。 図 3ぺ を み る か ぎ り 、 石 器
とのあいだには、 50"
製 作 作 業 が 集 約 的 に お こ な わ れ て い た と 考 え ら れ る I種 の 遺 跡 が 原 産 地 近 く に 位 置 し 、 石 器 製
作 作 業 の 痕 跡 が ほ と ん ど 確 認 で き な か っ た E種 の 遺 跡 が 原 産 地 か ら 離 れ て 位 置 す る と い う 傾 向
は認められない。むしろ、置戸の原産地により近距離の川東羽田では、石器製作作業がほとん
ど確認できなかったのに対して、それより遠距離の豊里やオタフク岩では石器製作作業がおこ
なわれていた痕跡が確認されたのである。したがって、遺跡内での石器製作作業は、石器石材
の原産地からの距離ではなく、遺跡の性格、この場合は移動・居住形態のなかでの位置に決定
的 な 影 響 を う け て い る と み て よ か ろ う 9)。また、第 3節 で の 検 討 結 果 に よ る か ぎ り 、 原 産 地 か
らの距離に応じて石器製作技術が変化をみせることも、基本的にはなかったことを確認してお
こっ。
遠稿地からの石器石材の直接的な入手を考える場合、 B
i
n
f
o
r
d(
1
9
7
9
) がエスノアーケオロジ
t
r
a
t
e
g
y
) J も考慮、にふくめて、以下のような
ー の 成 果 か ら 提 起 し た 「 埋 め 込 み 戦 略 (embeded s
状況を想定することが可能であろう。
①石器石材の採取を目的とした‘派遣隊'によって入手される。
品程で実施される生業諸活動に、石器石材の採取活動が組み込まれた状況。ただし
②移動する i
この状況でも、集団全体がかかわっていたのか、
‘派遣隊'のような集団の一部がかかわっ
ていたのか、には重大な差がある。
現状で把握されているデータだけでは、このうちのいずれかを決することは難しい。ただし、
跡 内 で の 石 器 製 作 作 業 の 量 的 ( 集 約 的 な 石 器 製 作 作 業 が お こ な わ れ て い た の か 否 か ) ・質的
・
8
0-
( 石 器 製 作 伎 術 が 石 器 石 材 の 原 産 地 か ら 離 れ る に し た が っ て 変 化 し て い る の か 否 か ) 側面に、
石器石材の原
地からの距離がまったく影響をあたえていないということは、上記した②の想
定のうち集団全体がかかわる状況は成り立ちがたいことを示唆していよう。埋め込み戦略の利
長は、 石 器 石 材 の 入 手 に か か わ る 労 力 の ロ ス を で き る だ け 軽 減 す る こ と に あ る と 考 え ら れ る 。
道具類の製作や補充を目的として、石器石材の採取活動が生業諸活動に埋め込まれていたとす
るならば、 ほ と ん ど 原 材 に 何 も 手 が く わ え ら れ な い ま ま 遠 隔 地 で あ る 沿 岸 部 に 原 材 が も ち こ ま
れている、
という石刃撮石器群に観察される現象は、埋め込み戦略における労力ロス経減の観
点からみて、 き わ め て 説 明 し が た い も の で あ ろ う 。 む し ろ 、 石 刃 鍛 石 器 群 の 場 合 、 原
地およ
びその近辺で採取された原材が、 そ の ま ま ダ イ レ ク ト に 沿 岸 部 の 本 拠 地 に も ち こ ま れ て い る 状
況を想定するほうが妥当といえよう。したがって、①のケース、 もしくは②のケースのうち
派遣隊'のような集団の一部が内陸部と沿岸部とを移動する過程で
付随的に石器石材の採取
活動もおこなっていたことが想定されることになろう。
6. まとめ
ある地丘Il的範囲内の考古
いう方向性にしたがって、
的記録から、 行 動 連 鎖 の パ タ ー ン を 反 映 す る 傾 向 性 を 摘 出 す る と
( 集 問 ) が の こ し た 遺 跡 間 変 異 (i
n
t
e
r
s
i
t
e v
a
r
i
a
b
i
l
i
t
y
) を充分におさ
えつつ、遺跡間のつながりを把握する検討を本意ではおこなってきた。
その目的を達するため、本主主の冒頭で略述したような、ある地理的景観内で視覚的に把握さ
れる
(遺跡群) を 検 討 対 象 と し て 先 見 的 に 措 定 し 研 究 す る の で は な く 、 共 通 性 が 高 い 石 器 製 作
技術がみられる遺跡聞を対象に、石器製作工程の検討からその連関をとらえるという議論をお
こなってきた。 そ の 結 果 、 従 来 、 一 遺 跡 の 研 究 か ら 可 能 性 が 指 摘 さ れ て い た 複 数 遺 跡 間 で の 石
器 製 作 L 住 上 の つ な が り そ ど 具 体 的 に 解 明 す る こ と が で き 、 ま た 、 特 定 の 地 理 的 景 鰻 内 の <J
室跡
群) だ け を 検 討 対 象 に し て い て は 論 議 が 困 難 な 、 異 な る 地 理 的 景 観 を ま た が る よ う な 移 動 ・ 居
住形態の仮説モデルを提示することができたのである。その結果、沿岸部と内器部という異な
る地理的景観をまたがるようにして移動活動がおこなわれていたこと、沿岸部・内陸部の遺跡
にはそれぞれ本拠地・野営地という性格が想定されることを指摘してきた。
しかしながら、資料の量的・質的な問題から起因する制約によって、提示した仮説モデルに
は未解決の課題がのこされており、
(集団〉の移動・居住形態の全体像がこれで説明づけられ
たというわけではない。とりわけ、移動の周期性や移動活動をおこなっていた際の集団サイズ
に関する問題は、それをどう実証するかをふくめて、今後にのこされた大きな課題といえる。
移動ルートの問題についても具体的な言及はおこなわなかったが、内陸部のうち上川盆地など
は道北部からの移動も想定できるため、道北部での資料の検出が今後必要となるであろう。
また、以上に提示した仮説モデルは、石器製作技術の遺跡間比較をおこなうために、一定
の石器が検出されている遺跡に検討の対象をしぼらざるをえなかった。そのため、わずかな石
器のみが発見されている多数の遺跡の評価をおこなうことはできなかった。
しかしながら、移
-8
1
崎
山
川
︺
動・居住形態の全体像を復元するためには、それらの遺跡についての位置づけを明確にし、
遺跡との関係についても把握しておくことが重要といえよう。
次章では、とくに後者の問題に関して遺跡立地の検討からアプローチし、ここで提示した仮
説モデルの補足を試みていくことにしたい。また、遺跡間変異にかかわる自然地形上の問題に
ついても述べていくこととする。
-8
2-
W
石刃録石器群の遺跡立地とその背景
1.はじめに
筆者は、前章において移動・居住形態の復元という観点から、第一に、北海道の石刃鍛石器
群をのこした集団が沿岸部と内陸部とのあいだで移動活動(季節的なパターンをもっていた可
能性がある)をおこなっていたこと、第二に、沿岸部の遺跡の一部は本拠地として、内珪部の
遺跡は野営地として利用されていたであろうこと、を仮説的に復元した。その際に、遺跡立地
の傾向についても若干の指摘をおこなったが、石器製作技術の比較という主旨から、検討対象
に と り あ げ た の が 8遺 跡 と き わ め て 少 な か っ た た め 、 躍 ら れ た 範 囲 の 遺 跡 に つ い て し か 言 及 を
おこなうことはできなかった。結果的に、量的にまとまった遺物・遺構がのこされていない遺
跡をふくめた全体的な立地状況について、そこで議論することはできなかったのである。
北海道東部
1)
の 石 刃 鏡 石 器 群 の 遺 跡 立 地 に 関 し て は 、 筆 者 の 前 稿 の ほ か に 、 藤 本 強 (1
9
8I
)
や 佐 藤 和 利 (1
9
8
6
) らも言及を試みている o 両氏ともに、遺跡立地の傾向から生業活動の内容
について大まかな見通しを示している。それによれば、後期旧石器時代の遺跡立地とは対照的
に、石刃鍛石器群では沿岸部に大規模な遺跡、がみられることから、漁労活動が生業活動のなか
で重要な位置をしめていたであろうこと、が明解に把握されたのである。ただし、両氏ともに
とりあげている遺跡が網羅的ではなかったため、土地利用の傾向を充分な量的裏づけをもって
論議するまでにはいたらなかった。本主主では、近年新たに発見されたデータを補足しつつ遺跡
の網羅的な集成を試みることによって、遺跡立地の傾向をさまざまな角度から考察していくこ
とにしたい。
遺跡立地の検討は、
(集団
2)
>の土地利用の傾向を把握していくうえで重要な意味をもっ検
討課題と考えなければならない。というのも、遺跡、が所在する立地条件の共通性を探ることに
よって、集団が占地しようとした際の土地に対する選択条件を復元することが可能となるから
9
9
2、 菊 地 1
9
9
6な ど ) 。 そ れ を 通 時 的 に 比 較 し て い け ば 、 大 局 的 な 生 業 活 動
である(小宮山 1
の傾向を推測していくのも可能となるであろう(鈴木 1
9
8
5な ど ) 。 ま た 、 遺 跡 の 立 地 は 、 検
出される遺物・遺構の分析とは異なり、比較的容易にあらゆる種別の遺跡に関して共通した視
点から吟味をくわえていくことが可能である。いずれにしても、集団の行動連鎖のパターンは、
綿密に発摺調査された地点だけでなく、地理的景観内にひろがる活動地点の総体の検討が、そ
の復元の鍵となることは明記しておかねばならない。
-8
3-
ここで注意を要するのは、石刃録石器群が当地において展開していた時期と現在とでは、自
然地形を構成する諸要素が大きく異なっていた可能性があることである。遺跡立地を解釈する
にあたっては、当然ながら、温去の時点での自然地形と遺跡、との関係をあきらかにしなければ
ならない。したがって、遺跡立地の研究においては、たんに考古学的事象を整理するだけでは
充分ではなく、地質・地理学その他の分野での自然地形史に関する研究の成果を組み込むこと
によって、はじめて妥当な考古学的解釈が可能になるといえよう。すくなくとも、こうしたア
プローチは、
2 、 3 の 指 摘 ( 沢 1974 な ど ) を 別 に す る な ら ば 、 石 刃 鍛 石 器 群 の 従 来 の 研 究 に
おいては、ほとんど配慮、されることがなかったといってもよいのである。
なお、北海道の石刃鏡石器群は、共伴する土器型式からみて縄文時代早期中
後葉に併行す
る こ と が 指 摘 さ れ て い る ( 沢 1968、 佐 藤 1983) 。 一 方 、 放 射 性 炭 素 年 代 測 定 法 や 黒 曜 石 水 和
層年代測定法などでは、上記の編年観と整合的な 7
,
6
0
0
y
r
s BP'
"
'
-7
,
1
O
O
y
r
s BPの あ い だ に お さ ま
る測定値が各遺跡、で提示されている~ I。 し た が っ て 、 こ れ か ら 自 然 地 形 に 関 す る 検 討 を お こ な
5
0
0
y
r
s BP前 後 の 段 階
っ て い く 際 に は 、 地 質 ・ 地 理 学 的 デ ー タ が ま と ま っ て 提 示 さ れ て い る 7,
について検討していくことにしたい。
2
.石 刃 鍛 石 器 群 の 遺 跡 立 地
(1) 北 海 道 東 部 の 地 形 の 概 要
最初に、北海道東部の地形について概観しておこう(図ふJ)
北海道の中央部には、ニ列の山地群が南北に帯状に分布する。西側の山地群は北から宗谷丘
陵・天塩山地・夕張山地、東側の山地群は北から北見山地・石狩山地・臼高山脈である。その
山地群のあいだには中央凹地帯として北から南に頓別平野、名寄盆地、上川盆地、富良野盆地
が 分 布 す る 。 そ の う ち 、 北 見 山 地 を 流 れ る 河 川 に は 、 頓 別 )1、 幌 別 川 、 幌 内 川 、 雄 武 )1、 興 部
)
1、渚滑)1、溝別)1、 常 呂 川 、 網 走 川 な ど が あ り 、 い ず れ も 北 東 に 流 下 し 、 流 域 に は 谷 底 平 野
や河岸段丘がひろがる。そして、これらの河川が流れこむオホーツク海の沿岸部には海岸段丘
が分布している。
北見・石狩山地と接するようにして北海道北東部から中央部にかけて、東部火山地域とよば
れる知床火山群、屈斜路・阿寒火山群、然別火山群、大雪山火山群が分布する。そのうち大雪
山火山群の南東には造盆地運動をうけて形成された十勝平野があり、平野を貫流する十勝川流
域沿いには河岸段丘や沖積低地がひろがっている。平野内には特徴的に扇状地形がみられる。
十勝平野の東には白糠丘陵・鶴居丘陵がつらなり、さらにその東には、根釘"台地と総称される
標高 2
0
0m以 下 の 広 大 な 台 地 が ひ ろ が っ て い る 。 根 釘1台 地 内 に は 段 丘 ・ 沖 積 低 地 が 認 め ら れ る
が、いずれも程伏の少ない地形を呈している。根釘"台地のなかでも釧路市や標茶町、鶴居村に
1路平野と呼ばれる場合がある。
か け て の 一 帯 は 、 釘1
(2) 遺 跡 の 分 布
こうした地形状況のなかで、石刃鍛石器群の遺跡がどのように分布しているのかを把握する
勝
84-
オホーツク海
日本海
。
3
4
図 4・1 北海道 東部の 地形
5-8
ために、遺跡分布図(図 4
2
) を 示 す 。 関 4・
2の作成にあたっては、北海道東部で発見されて
いる石刃鍛石器群の遺跡を網羅的に集成する必要がある。そこで、本章の末尾の付表に示した
ような集成をおこなうことになった。
北海道内の石刃鍛石器群の集成は、すでに佐藤郡│敏 (1983) に よ る 試 み が あ り 4)、今回はそ
の後の発掘調査の進展や、筆者らがここ数年道内各地で断続的に実施している分布調査によっ
8
6
) は、石刃鍛石器群の遺跡立地を比
て え ら れ た デ ー タ を く わ え る こ と に し た 。 佐 藤 和 利 ( 19
較分析する際に、石刃醸の点数を量的に検討するという見地から、石刃鍛が検出されていない
遺跡は原則的に検討対象から除外している。しかし本稿では、石刃蟻石器群が発見されている
遺 跡 を 網 羅 的 に 検 討 す る と い う 目 的 か ら 、 石 刃 鍛 石 器 群 の 一 般 的 な 石 器 組 成 を 構 成 ; ))すること
になる石刃鍛以外の特徴的な石器(彫器や描器)、;甫幌式土器等が発見されている遺跡、につい
1
0 の 遺 跡 を あ っ か う こ と と し た 引 。 図 4・
2は付表で集成
ても検討対象にとりあげ、最終的に 1
した遺跡の全体の分布を図示している。
概観した地形区分にしたがうならば、遺跡は平野もしくは台地とよばれている地域、あるい
は北見山地からオホーツク海へ流下する河川沿いの河岸段丘とオホーツク海沿いにひろがる海
岸段丘に密に分布していることがわかる o ついで多くの分布をみせているのが、中央田地帯を
構成するいくつかの盆地内である。山地群や火山地域がひろがっている一帯には、遺跡はほと
んど分布していない。
以上によって、大局的な遺跡の分布状況をとらえることができたが、より詳細な立地のあり
方について検討するために、次に立地に関する検討項目を設定して議論をすすめていきたい。
(3) 遺 跡 立 地 の 傾 向
付表に示した遺跡立地データのなかの標高や比高、水系の記載にあたっては、各報告書を参
照したほか、北海道教育委員会が所蔵している北海道埋蔵文化財包蔵地調査カードも参考にし
9
7
4
) による分類を参照して記載をおこなった。
た 。 ま た 、 地 形 区 分 に つ い て は 、 瀬 川 秀 良 (1
記載項目としては、①標高、②比高、③地形、④水系をあげた。このうち水系とは、現況とし
て遺跡が面しているのが海・河川・湖沼のいずれであるのかを示している。いうまでもなく、
この水系に関しては、若刃鏡石器群がのこされた時期の立地状況と現況とでは大きな異なりが
生じている可能性がある。この点については、当該期の自然地形、とりわけ│日海岸線の位置の
検討をおこなう次章において再考してみたい。
以下では、項目ごとの領向を検討していく。
①標高
標 高 を み て み る と 、 約 40% の 遺 跡 が 標 高 20m 以 内 の 比 較 的 低 標 高 の 地 域 に 集 中 し て
い る が 、 わ ず か な が ら ま ば ら に 400 m 前 後 ま で 遺 跡 が 途 切 れ る こ と な く 立 地 し て い る こ と が わ
9
9
3
) のように 1
,
600 m と い う 突 出 し た 標 高 に 立 地 す る 事
かる。なかには愛山渓登山道(氏江 1
例もみられるが、きわめて特異な状況を示していると考えてよかろう。付表を詳細にみてみる
と
、
o~
20 m の 標 高 の 遺 跡 が オ ホ ー ツ ク 海 沿 岸 ・ 釧 路 平 野 ・ 十 勝 平 野 ・ 根 室 海 峡 沿 岸 に 、 3
0
"
-60m の遺跡が網走湖岸・知床半島南岸に、 9
0.
.
.
, 1
3
0m の遺跡が北見盆地・名寄盆地に、 1
3
0
"
-200 m の 遺 跡 が 上 川 盆 地 ・ 名 寄 川 流 域 ・ 天 塩 川 上 流 域 に 、 230"
-400 m の 遺 跡 が 常 呂 川 上 流
-86-
。
2
4
1
。
5
4
1
。
4
4
1
。
3
4
1
O
。
5
4
オホーツク海
4
4
0
,
,
日本海
3
4
0
太平 洋
図 4・2 遺跡 の分 布
-87-
域・富良野盆地・石狩川上流域に、というように地域に応じた標高のまとまりを認めることが
できる。
標高をもとにみてみると、
o"
-40 m 前 後 の 標 高 を 示 す 海 岸 ・ 平 野 地 域 の 遺 跡 と 、 そ れ 以 上
の標高が認められる内陸絵地・山地の遺跡、とに大きく二分することができょう。
②比高
比高をみてみると、標高が
o"
-20m の 海 岸 ・ 平 野 地 域 の 遺 跡 は 、 一 様 に
1
5 m 以下と
いうように比高差が小さい。それに対して、内陸盆地の河川中・上流域に立地する遺跡には、
9
8
9
:
5
7
) が 富 良 野 盆 地 の 事 例 を と り あ げ て 指 摘 し て い る よ う に 、 20 "
- 60 m
す で に 杉 浦 重 信 (1
という相対的に比高差が大きい遺跡と、
5 m以下のきわめて比高差の小さい遺跡、とがある。前
者の典型伊!としては、富良野市の東山遺跡(比高差 36m) や 旭 川 市 の 旭 が 丘 遺 跡 ( 間 22m) 、
後 者 の 典 型 例 と し て は 富 良 野 市 の 西 達 布 2遺 跡 ( 向 4m) ・烏沼遺跡(同 3m) をあげること
ができる。
③地形
地形では、段丘(海岸・河岸)に立地するのが圧倒的に多く、丘陵上に立地する遺跡
は相対的に少ない。海岸・平野地域ではおもに段正に遺跡が立地するが、内陸盆地では段丘と
ともに丘陵にも遺跡が立地する傾向がみられる。ただし、丘陵に立地するといっても、いずれ
も河川の流路に近い地形変換点の縁辺に立地しており、河川に流れ込む沢の源流部付近に立地
するいくつかの遺跡をのぞくと、河川の流路から離れた地点に立地する遺跡は認められない。
この傾向は段丘に関しても同様である。微地形に着目してみると、海岸・平野地域の遺跡のほ
と ん ど は 段 丘 上 の 平 坦 な 地 点 に 立 地 す る 傾 向 が 強 い よ う で あ る が 、 内 陸 盆 地 の E陵 に 立 地 す る
遺 跡 の な か に は 、 )1東 羽 田 遺 跡 の よ う に 丘 陵 の 斜 面 上 に 立 地 す る 場 合 が 認 め ら れ る の は 注 目 し
てよい。
特殊な立地をみせる遺跡としては、山地に立地する遺跡や河川の氾濫原に立地する遺跡があ
げられる。また、河川との比高差がある崖面に関口する洞穴にも遺跡がいくつかのこされてい
る。ただし、それらでは石刃鯨が単発でみつかっているだけであり、長期間の居住活動をおこ
なっていた痕跡はのこされていない。
④水系
遺跡が面している水系には、海・河川!・湖沼のいずれもが認められる。海岸に近い平
野地域では、比較的規模の大きい河川(釧路川や網定川など)沿いに遺跡が立地しているのに
対 し て 、 内 陸 盆 地 で は 、 比 較 的 小 規 模 な 河 川 1 (西達布川や布礼別)1、 訓 子 府 川 な ど ) 沿 い に 立
地する場合から、大規模な河川(石狩川や天塩川など)沿いに立地する場合までさまざまであ
る。とくに小規模な河川沿いに分布するということはない。
遺跡の面する主水系が海・河)
1
1.湖沼のいずれでも、主水系に河川や小規模な沢が流れ込む
ことによって形成される合流地点近くに、約半数の遺跡、が立地する傾向が認められる。合流地
点以外でも、主水系に舌状に張り出す地形に遺跡、が立地する場合が多いようである。
(4) 遺 跡 種 別 と そ の 立 地
石刃鍛石器群が検出された遺跡を網羅的にとりあげ、立地の傾向について検討をくわえてき
た。ただし、ここで注意を要するのは、表面採集で石器が一点のみ確認されている遺跡から、
何千点という石器・土器が検出されている遺跡までが、前掲の集成には同列にふくまれている
ことである。そこで前章でおこなった遺跡の種別設定をふまえて、遺跡間での差異を摘出して
-88
帽
みることにしよう。
前章では、①石器製作(とりわけ剥片剥離)作業がおこなわれていたか否か、②竪穴住居士止
の有無、の二点を主要な手がかりにして遺跡の種別を設定した。すなわち、石器製作作業が集
約 的 に お こ な わ れ 竪 穴 住 居 士 止 が の こ さ れ て い る I種 の 遺 跡 と し て 、 豊 里 遺 跡 ・ 湧 5I
J
市川遺跡・
オ タ フ ク 岩 遺 跡 第 H地 点 ・ ト コ ロ 貝 塚 ・ 共 栄 B遺 跡 を 、 一 方 、 石 器 製 作 作 業 が ほ と ん ど お こ な
わ れ て お ら ず 、 竪 穴 住 居 社 も 検 出 さ れ て い な い E種の遺跡、として、西達布 2遺跡、・東山遺跡・
川東羽田遺跡をあげた。前者の遺跡からは、石刃鍛石器群を構成する基本的な石器組成が捕っ
て検出されているのに対して、後者の遺跡の石器組成は、そのうちのいくつかの石器(石錘・
敵石・磨石・石血・凹石・石匙・石箆など)が欠落しているのも特徴である。そして、
1穏 の
遺跡に関しては本拠地 (
b
a
s
ecamp) 、 H種 の 遺 跡 に 関 し て は 野 営 地 (
t
e
m
p
o
r
a
r
ycamp) と い う 性
格が想定できることもあわせて指摘した。
ここで注意を喚起しておきたいのは、本稿でさきに集成した諸遺跡のなかには、発掘調査に
よってほぼ全容が把握されている遺跡以外にも、表面・露頭面採集によって遺跡の所在が確認
さ れ て い る だ け の も の も ふ く ま れ て い る こ と で あ る 。 し た が っ て 、 遺 跡 種 目J
Iの 判 別 の う え で
要な指標となる遺構の有無の確認や石器製作作業の内容の評価を、すべての遺跡で同レヴェル
におこなうことができないのは明白である。そこで、ここでは発掘資料によって遺跡の概要が
把握されている事例を中心に議論をすすめていきたい。どの遺跡で発掘調査がおこなわれてい
るのかについては、付表を参照していただきたい。
発掘調査はおこなわれているものの報告書が公表されていないため、明示的な根拠を示すこ
とはできないが、概報等の記載を勘案するかぎり、東釧路遺跡第立地点(岩崎他 1
9
8
0
) ・網
9
8
]
) ・ ニ ッ 山 遺跡第 1地 点 ( 沢 1
9
6
8
) ・ ニ ッ 山 遺 跡 第 3地 点 ( 豊 原 1
井 遺 跡 第 2地 点 ( 豊 原 1
9
5
0
) は
、
9
8
5
) ・新吉野台遺跡(名取 1
1種 の 遺 跡 に 該 当 す る 条 件 を 満 た し て い る も の と 考 え
て よ い 。 前 章 で I種 と し た 遺 跡 、 と 、 こ れ ら の 遺 跡 を あ わ せ て 考 え て み る と 、 海 岸 ・ 平 野 地 域 に
分布する段丘の縁辺上の低標高な地点に、遺跡が立地する領向が共通して認められるのがわか
る 。 ニ ッ 山 遺 跡 第 3地 点 や 現 海 岸 線 を 眼 下 に お く 農 上 に 立 地 し て い る オ タ フ ク 岩 遺 跡 第 H 地 点
をのぞいて、いずれの遺跡も約 1
5m以下というように比高差が小さいのも特徴的である。以
上から、
I種 に 属 す る 遺 跡 の あ い だ で は 、 遺 跡 立 地 の 特 徴 を 多 く 共 有 し て い る こ と が あ き ら か
となった。なお、水系については遺跡関でバリエーションが認められるが、この点は次章で再
考してみたい。
なお、上記した遺跡以外にも鶴居村の下i
幌呂 1遺 跡 や ア シ ベ ツ 川 右 岸 遺 跡 ( 沢 他 1
9
8
7
)な
どは、
I種 の 遺 跡 に 属 す る 可 能 性 が 高 い が 、 表 面 採 集 で し か 遺 跡 の 概 要 が 把 握 さ れ て い な い た
め、詳細な検討をくわえることはできない。ただし、これらの遺跡も低標高の段丘縁辺に立地
している点からみて、
I種 と し た 諾 遺 跡 と 立 地 上 の 特 徴 を 共 有 し て い る 。
一 方 、 上 記 し た 以 外 の 発 掘 調 査 が お こ な わ れ て い る 遺 跡 は 、 E種 に 区 分 す る の が 妥 当 で あ ろ
う。その遺跡立地の特徴をみてみると、標高・比高・地形・水系のいずれにも多様性がみられ
る。それらの遺跡、は、海岸・平野地域と内陸盆地の両方に分布が認められるため、必然的にさ
まざまな標高を示すことになる。内陸盆地に分布する遺跡の比高に関しては、さきに指摘した
ように、比高差が小さい場合
(5m 以 下 ) と 比 高 差 の 大 き い 場 合 (20 '
"
'
- 60 m) と が 認 め ら れ
-89-
る。また、内陸盆地では段丘以外に丘陵・山地・河川の氾読原といった地形に、さらには洞穴
にも遺跡が確認されているのが、付表をみるとよくわかる。
E種 と し た 遺 跡 は 、 河 川 沿 い に 立
地する場合が多く認められるが、河川の規模をみてみると、規模が大きな河川沿いから小さな
河川│沿いに立地する場合まで、さまざまなバリエーションを認めることができる。
以上の概観から、発掘調査がおこなわれている遺跡にかぎっても、
立地の傾向に明瞭な差が認められることがわかった。すなわち、
I種 と 立 種 の 遺 跡 と で は
I種 の 遺 跡 間 で は 立 地 上 の 特
徴 を 多 く 共 有 し て い る の に 対 し て 、 E種 の 遺 跡 間 で は 標 高 ・ 比 高 ・ 地 形 ・ 水 系 の 各 項 目 に つ い
て共通性が認められなかったのである。図式的に説明すれば、
I種 の 遺 跡 は 比 較 的 共 通 し た 特
徴 を も っ 地 点 に の こ さ れ て い る の に 対 し て 、 E種 の 遺 跡 は さ ま ざ ま な 立 地 上 の 特 徴 を も っ 地 点
にのこされている、といえるであろう。
た だ し 、 発 摺 調 査 さ れ た E種 の 遺 跡 、 の な か で も 、 発 見 さ れ る 遺 物 量 に は 遺 跡 間 で 顕 著 な 差 を
み い だ す こ と が で き る o た と え ば 、 富 良 野 市 の 西 違 布 2遺跡や東山遺跡、釦iI路市の桜ヶ間遺跡
第 2地点や東鈎│路遺跡第 3地 点 の よ う に 、 石 刃 織 に 彫 器 ・ 掻 器 ・ 自J
I器 ・ 按 錐 器 ・ 石 鍛 ・ 磨 製 石
斧・石鋸・砥石・少量の土器などが伴って発見される場合がある一方で、常呂町トコロチャシ
1遺 跡 、 富 良 野 市 議 瀬 公 園 A 遺 跡 の よ う に 、 石 刃 銑 だ け が 単
南尾根遺跡や根室市別当賀一番沢J
発 で 発 見 さ れ る 場 合 も 認 め ら れ る 。 発 掘 調 査 さ れ て い る 42遺 跡 の な か で 約 25の 遺 跡 は 、 石 刃
銑のみが発見されているだけの後者の場合に属する o したがって、前者の遺跡と同様に、後者
の遺跡も量的に安定して存在しているとみてまちがいなかろう。
ここで強調しておきたいのは、 E種 の 遺 跡 の な か に こ う し た 区 分 を 導 入 し た と し て も 、 さ き
に H種 の 遺 跡 立 地 の 傾 向 と し て 指 摘 し た 事 柄 は 、 区 分 さ れ た ど ち ら の 場 合 に も 認 め ら れ る 、 と
いう点である。すなわち、石刃蟻だけが単発で発見されている遺跡のみならず、石刃鍛以外の
石器(彫器や掻器など)が伴って発見される遺跡までもが、遺跡数は相対的に少ないながらも、
内陸盆地から海岸・平野地域にまで分布がおよぶことにより、標高や比高、地形、水系に関し
て遺跡間で、バリエーションが認められるのである。ここでは、 H種 の 遺 跡 が 出 土 遺 物 の 組 成 や
を指標としてさらに細分が可能であること、しかしながら、指摘した立地状況は区分された
両者いずれにも等しくみられることを確認しておきたい。
(5) 小 結
ここまでの検討の結果、
I種 と し た 遺 跡 で は 立 地 上 の 特 徴 を 遺 跡 聞 が 多 く 共 有 し て い る の に
対し、 E種 と し た 遺 跡 で は 立 地 上 の 特 徴 に 関 し て 遺 跡 間 で 変 異 が 著 し く み ら れ る こ と が わ か っ
た。こうした状況は、何を意味しているのであろうか。
I種 の 遺 跡 、 が 居 住 活 動 の 拠 点 と し て の 本 拠 地 の 性 格 を も っ て い た で あ ろ う こ と は 、 前 章 で す
でに指摘した通りである。土地利用にあたっての地点選択に関して、そこでおこなわれる活動
の内容がその重要な規定条件になっていたと仮定するならば、
I種 の 遺 跡 が 立 地 上 の 特 徴 を 共
有しているということは、いずれの遺跡においても共通した活動が志向されていたことを物語
っていよう。すなわち、
I種 と し た 遺 跡 は 、 大 局 的 に は い ず れ も 共 通 し た 性 格 を も っ て い た 可
能性が高いこと、本拠地となる地点が選択される際には、同じような立地状況を示す地点が地
理的景観内のなかから選ばれていたこと、が示唆されるのである。
-9
0
刷
逆 に E種 の 遺 跡 は 、 地 理 的 景 観 内 の さ ま ざ ま な 地 点 が 選 択 さ れ て い る の が 特 色 と い え る だ ろ
う
。
1種の遺跡、について指摘した脈絡からいえば、 E種 の 遺 跡 の な か に は 、 さ ま ざ ま な 性 格 を
も っ て い る 遺 跡 が ふ く ま れ て い る こ と に な る 。 前 章 で は 、 E種 の 遺 跡 の 性 格 を 野 営 地 と 指 摘 し
たが、総体としてみれば妥当ではあるものの、さまざまな個別的活動が各地点で営まれていた
として、 E種 の 遺 跡 全 般 の 性 格 を と ら え 直 す こ と が 必 要 で あ ろ う 。 そ れ ぞ れ の 遺 跡 に お い て 、
たとえば狩猟の解体場、見張り場所、移動時の滞在地、というような個別的活動のいずれがお
こなわれていたのかを特定していくことは、現時点では難しいといってよい。しかしながら、
前述した遺跡立地の状況からは、地理的景観内に散在する各種の資源利用のために、本拠地か
ら の 派 生 的 な 行 動 の 一 環 と し て E種 の 遺 跡 が 各 地 点 に の こ さ れ た の で は な い か 、 と い う 解 釈 を
おこなうことが可能になるであろう。
前章で示した移動居住形態の仮説モデルに、本章での遺跡立地の検討結果を重ねてみると、
沿岸部の共通した立地状況を示す地点に本拠地がのこされ、沿岸部や内臨部での多角的な資源
利用のために、さまざまな立地状況を示す地点に本拠地からの派生的な活動の結果として、総
体としての野営地がのこされたと考えられる。
以上のような推定結果と第田章での検討成果をふまえて、石刃鍛石器群をのこした(集団〉
の 移 動 ・ 居 住 形 態 の 全 体 像 を 図 示 し て み る こ と に し よ う ( 図 4・3
) 。ポイントは以下のような
ところにある。
① 沿 岸 部 の 一 部 の 遺 跡 (1種 ) は 、 本 拠 地 と し て 利 用 さ れ て い た 。 共 通 し た 活 動 が そ れ ぞ れ の
遺跡で実施されていた可能性が高い。
②内睦部の遺跡(立種)は、沿岸部から移動してきた結果のこされたものであり、野営地とし
て利用されていた。
③ 沿 岸 部 に 分 布 す る 宜 種 の 遺 跡 は 、 間 じ 沿 岸 部 に 分 布 す る I種 の 遺 跡 か ら の 移 動 に よ っ て の こ
されたものであり、野営地として利用されていた可能性が高い。
④ 沿 岸 部 と 内 器 部 の 双 方 に 分 布 す る E種 の 遺 跡 で は 、 さ ま ざ ま な 活 動 が 実 施 さ れ て い た 可 能 性
が高い。
③ 内 陸 部 の E種 の 遺 跡 そ れ ぞ れ が 、 ダ イ レ ク ト に I種 の 遺 跡 か ら の 移 動 に よ っ て の こ さ れ た の
か、完J
Iの E種 の 遺 跡 を 経 由 し た 移 動 の 結 果 の こ さ れ た も の か ど う か は 不 明 で あ る 。
⑤石器石材の組成の中心となっている黒耀石の採取活動は、沿岸部からの直接的な‘派遣隊'
によって採取された、もしくは内陸部への移動活動の際に付随的に採取されたかのどちらか
の可能性が高い。
3
.完新世初頭における北海道東部の!日海岸線
(1)旧海岸線の位置をめぐって
本節では、石刃鍛石器群の遺跡立地を考察していくのに必要な当該期の自然地形に関して、
とりわけ旧海岸線の位置をめぐる問題を検討してみたい。自然地形を構成する諾要素のなかで、
当該期から現在にいたるまでの過程でもっとも変化しているのが、!日海岸線の位置ではないか
-9
1・
900m
600m
300m
50km
l
⑧
O
│沿岸部
i種の遺跡
O 日種の遺跡
A
黒曜石原産地
沿岸部内での移動活動
図4
3 北海道の石刃鍛石器群をのこした(集団〉の移動・居住形態仮説モデル
-9
2-
司 /dP1
一
!U
内陸部
IOOkm
一 d
x
/
f¥
一
150km
と予測されるからである。なお、以下では説明の便宜上、
r
1
1
3海 岸 線 J と は 、 石 刃 鍛 石 器 群 が
北海道東部に展開していた時期の海岸線を指す用語として使用していくことにする。
いうまでもなく、更新世から完新世初頭にかけては全地球的に海水準が上昇し、各地の海岸
線の位置はそれに応じてさまざまな変化をみせていたと考えられている。最終氷期最寒冷期で
8,
0
0
0
y
r
sBP前 後 か ら 、 縄 文 海 進 最 盛 期 の 6,
000'
"
'
"
'5,
5
0
0
y
r
sBPにいたるまで、海水準は上昇傾
ある 1
向 を 示 し て い る が 、 最 近 の 研 究 に よ れ ば 、 8,
O
O
O
y
r
s BPを 境 に し て そ れ 以 前 の 上 昇 量 は や や 緩 や
かになる傾向があることが指摘されている(斉藤ほか 1
9
9
5
) 。なお注意を喚起しておきたい
9
9
7
) の変調であるボンドサイ
のは、更新世のダンスガードーオシュガー・サイクル(多田 1
9
8
:
3
5
9
) 。この
ク ノ レ が 、 完 新 世 に も 存 在 し て い た 可 能 性 が 指 摘 さ れ て い る こ と で あ る ( 揺 沢 )9
ボンドサイクルの詳細な解明は、今後の研究の進展に待っところが大きいが、海岸線の位置を
めぐる議論にどのような影響をあたえるのかについて、これから注視していかねばならない問
題のひとつである。
更新世終末から完新世初頭にかけての時期を対象とする研究においては、とりわけ遺跡の立
地や分布の領向から行動連鎖のパターンに関する妥当な推定をおこなっていくためには、海岸
練の位置を確定することが重要な意味をもつであろうことはまちがいない。北海道の石刃撒石
器群の場合、冒頭でもふれたように時間的には縄文時代早期中
後葉に併行するものと考えら
れており、一般的には梅進ピーク時からやや先行する時期に位置づけられる。したがって、ど
の地域において海進がどのような推移で進行していたのか、が遺跡立地の解釈にからんで重要
な問題に発展すると思われる。
日本列島周辺の海水準の変化に関しては、第四紀学のなかで膨大な研究の蓄積がみられる。
それらの最近の研究動向をみてみると、地域的な海水準変動の差異が詳細に解明されるべきで
ある、という考えが重視されるようになってきている。地域的な梅水準変動の要因としては、
局地的な地殻の隆程や沈降の存在が介在していた可能性が高い(遠藤・小杉 1
9
9
0、 海 津 1
9
9
4、
9
9
4など)。北海道東部といった範囲の旧海岸線に関しでも、その範囲のなかを一律
中田他 1
的に理解するのではなく、そのなかのより細かな地域ごとの差異に注意をはらわねばならない、
といえるだろう。考古学的事象の解釈にとっては、そうしたローカルな現象により着目する必
v
a
nA
n
d
e
l 1989) 。 そ の た め 次 で は 、 石 刃 錬 石 器 群 が 実 際 に 展 開 し て い た 時
要があるのである (
期の旧海岸線の位置について、北海道東部のなかにいくつかの地域を設定し、そこでの寵元作
業から全体のパターンを通観してみたい。
(2) 各 地 域 に お け る 旧 海 岸 線
海岸線の位置決定には、ボーリング試料の収集や露頭の観察によって把握される海成層の分
布が重要な基準となる。海成層であるか否かを判定するには、対象となっている層準から産出
する海棲生物の化石の存在が有力な指標となる。そのなかでも員殻は、徴化石と比較すると移
動しにくく、肉眼でも確認が可能で、なおかつ水深の推定をおこなうことも可能である、とい
う特性をあわせもっている(下山 1
9
9
4
) 。多くの分析で貝化石が利用されているのはこうし
た理由による。さらに、構成層の分布と微地形の観察をつきあわせることによって、かつての
海岸線を復元することが可能になる。
-93-
石刃鍛石器群の場合、北海道東部に展開した時期は海溝ピーク時よりもやや時間的に先行す
ることから、海進の開始からピーク時にいたるまでの推移が充分に復元されている地域を中心
に議論をすすめていくことが得策である。そこで、石刃鍛石器群に属する遺跡が密集して発見
され、なおかつ!日海岸線の位置の推移が復元されている地域を検討対象にとりあげてみたい。
こ こ で は 、 ① オ ホ ー ツ ク 海 沿 岸 の サ ロ マ 湖 か ら 網 走 湖 に か け て (A地 域 ) 、 ② 知 床 半 島 (B地
域 ) 、 ③ 根 室 海 峡 沿 岸 (C地域)、④釦iI路平野 (D地 域 ) 、 の 4 地 域 を 対 象 に 設 定 し て 概 観 す
る
。
最 初 に A 地 域 に お け る ! 日 揮 岸 線 の 位 置 で あ る が 、 こ の 地 域 に つ い て は 大 嶋 和 雄 ら (1996) が
完新世初頭からの!日海岸線の位置の推移を復元している。それによれば、サロマ湖を中心とし
た地域でのボーリング試料や周辺地形、および内湾性堆積物と考えられるマガキを産出する粘
土層の堆積状況などの検討から、完新世初頭には溺れ谷に海水が進入してきた結果、現在の常
呂平野をふくむいくつかの内湾が形成され、現海岸線よりもかなり内陸の奥深くまで海岸線が
進入していたことをあきらかにしている。
ここで指摘されている現象は、常呂川下流域における常呂平野の形成過程を、微地形や沖積
層堆積物(とくに内湾あるいは潟れ谷の底に堆積したと考えられる泥質堆積物)の検討からあ
き ら か に し た 海 津 正 倫 (1983) の 研 究 結 果 と も 整 合 的 で あ る 。 海 津 正 { 命 の 復 元 成 果 を み て み る
0,
0
0
0
y
r
s BP頃 か ら 海 が 内 陸 へ 進 入 を は じ め 、 石 刃 蟻 石 器 群 が 当 地 で 展 開 し
と、常呂平野では 1
ていた時期には常呂平野に内湾が形成されていたことが指摘されている。こうした地形の形成
過程に対する想定を裏づけるようなデータとしては、常呂平野内で採取された試料から、坂口
ta
l
. 1985) が マ ガ キ ・ フ ジ ツ ボ を 採 取 し た 麗 の 直 下 か ら 約 9,
2
0
0
y
r
sBPの 年 代 躍
ら (Sakaguchie
ta
l
.1
9
8
5
) が 海 生 珪 藻 の 産 出 す る 層 準 か ら 約 8,
9
0
0
y
r
5 BPの年代{直を、
を 、 浜 野 庸 子 ら (Hamano e
それぞれ放射性炭素年代測定法によって報告しているのが注目されよう。
網 走 湖 周 辺 に 関 し て は 、 前 田 保 夫 ら (1994) が 網 走 湖 大 曲 で 収 集 し た ボ ー リ ン グ 試 料 か ら え
られたマガキの年代を測定した結果、 8,
0
0
0
y
r
5 BPに は 現 在 の 網 走 湖 に も 海 水 が 流 入 し て い た こ
と を あ き ら か に し て い る 。 ま た 、 愛 宕 誠 治 (1998) は 、 網 走 川 が 美 楳 川 と 合 流 し 絹 走 湖 に そ そ
ぐまでの地域を綿走川下流低地とよび、この地域の沖積層の形成過程について検討を試みてい
る。それによれば、すくなくとも 7
,
3
0
0
y
r
5 BP に は 網 走 川 低 地 の 中 部 ( 女 満 別 町 内 部 ) ま で 海
岸 線 が お よ ん で い た こ と が 、 中 部 泥 層 (MM層 ) と よ ば れ る 海 津 (1983:5) が 梅 進 の 痕 跡 と 判
断した層の分布によってあきらかにされている。
以上の諾見解をあわせて考慮にいれると、サロマ湖から常呂平野、網走湖にかけてのオホー
ツ ク 海 沿 岸 で は 7¥ 現 在 沖 積 層 が 分 布 す る 地 域 を 中 心 に し て 、 い く つ か の 内 湾 が 形 成 さ れ る よ
うな問様の海道状況がみられたと考えてよかろう。大鳴ら(前掲)の復元をもとにした復元図
4
)。
を示す川(図 4
次l
こ B地域と C地 域 の 両 者 を み て い こ う 。 知 床 半 島 (B地 域 ) の 沿 岸 沿 い の 海 底 地 形 を み る
,
000m に 達 す る 海 底 谷 が 沿 岸 近
と あ き ら か な よ う に ( 図 ふ 1) 、 大 陸 棚 が 櫨 端 に 狭 く 、 水 深 が 1
く ま で 迫 っ て い る 。 そ の た め 、 大 嶋 ら (1994) は 、 完 新 世 初 頭 か ら 現 在 に い た る ま で 海 岸 線 の
位 置 は ほ と ん ど 変 化 し て い な か っ た と 考 え て い る 。 逆 に C地 域 で は 、 野 付 崎 や 根 室 半 島 か ら 国
後島にかけての一帯に広く 1
0 m から・20 m 前 後 の 大 睦 棚 が 発 達 し て お り 、 大 鳴 ら ( 前 掲 ) は 、
-94-
7
.
5
0
0
y
r
sB
P
e
020km
函4
4 A地域の海岸線
-9
5・
そうした海底地形に野付崎周辺のボーリング試料の分析をつきあわせることによって、当該地
域 は 当 時 ぺ om 前 後 の 海 水 準 に な っ て い て 、 野 付 崎 か ら 国 後 島 に か け て は 陸 地 化 し て い た こ と
5
0
0
y
r
s
を 報 告 し て い る 。 野 付 崎 の 形 成 と 根 室 海 峡 の 成 立 は 、 5,
B
Pの 縄 文 海 道 最 盛 期 以 降 の こ と
と考えられている o 大 嶋 ら の 復 元 を も と に 旧 海 岸 線 の 復 元 図 を 示 す ( 図 4づ)。
D 地域の劃iI路平野については、岡崎由夫 (1960a、 1
9
6
0
b、 1
9
7
4
) が完新世初頭から海進ピー
ク時にかけての港岸線の変化に関して、微地形や貝化石、縄文時代早・前期の貝塚の検討をも
とに復元を試みている。それによれば、 1
0,
000y
r
sB
.
P
.か ら 海 岸 線 が 内 陸 に 進 入 を は じ め 、 7,
0
0
0
0
0
0
y
r
s BPに か け て の 海 進 ピ ー ク 時 に は 「 古 釧 路 湾 j が形成されていたことから、
y
r
s BPから 6,
すくなくとも、石刃鍛石器群が当地において展開していた時期には、現在釧路低地とよばれて
いる地域のほとんどは海面下に没していたこととにるのである。当時の海域は、東は別保川に
沿ってl.lJ
I保 市 街 地 近 く ま で 、 北 は 達 古 部 沼 や 塘 路 湖 、 シ ラ ル ト ロ 湖 の 北 方 に ま で 達 し て い た と
9
7
4
) 。 岡 崎 の 復 元 を 参 考 に し て 旧 海 岸 線 の 復 元 図 を 示 す ( 図 ふ6
)
考えられる(岡崎 1
(3) I
日海岸線の位置の類型
以 上 、 北 海 道 東 部 の な か に A から D までの 4地 域 を 設 定 し て 、 旧 海 岸 線 の 位 置 の 概 観 を お こ
なってきた。北海道東部における当該期の旧海岸線の状況を、現時点の湖岸線の位置と対比さ
せて通観してみると、
類型 a
aから
C
までの 3類型を設定することができる。
現海岸線よりも内陸奥深くにまで部分的に内湾が形成されて海岸線が進入している地
域
。 A (オ ホ ー ツ ク 海 沿 岸 ) と
類型 b
o (釦iI路平野)のニ地域が該当する。
現 海 岸 線 と 旧 海 岸 線 の 位 置 が ほ と ん ど か わ っ て い な い 地 域 。 B地 域 ( 知 床 半 島 沿 岸 )
が該当する。
類型 c
現海岸線近くの大睦棚は陸地化していて、現在よりも沖合いに旧海岸線が存在してい
たと考えられている地域。 C 地域(根室海峡)が該当する。
それぞれの地境での旧樺岸線の位置は、地形観察および露頭面・ボーリング試料での層相の
検討、さらに海成沖積層から産出する員化石などの解析によって復元されたものである。ここ
で把握された地域間における!日海岸線の位置の差異がどのような理由によって生じたのかにつ
いては、地質学・地理学のあいだでもまだ詳細な解答が提出されているわけではないため、こ
こで結論づけるような説明をおこなうことは保留しておきたい。ただし、最近の海水準変動の
9
9
0、 中 田 他 1
9
9
4な ど ) 、 た と え ば ハ イ ド ロ ア イ ソ
研究状況を参照にいれるならば(太田他 1
スタシーにしたがった地殻の隆起量の差異が、それに大きくかかわっていたのではないかと予
測される。
5
0
0
y
r
s
い ず れ に し て も 、 石 刃 錬 石 器 群 が 北 海 道 東 部 に 展 開 し て い た 時 期 で あ る 7,
B
Pの 旧 海
岸線は、地域に応じてその位置に明瞭な差異が認められ、内湾が形成されるような海進状況を
みせる地域もあれば、逆に現在の沿岸の大陸棚が陸地化しているような地域もあることがわか
った o こ う し た ! 日 海 岸 線 の 状 況 は 、 当 然 な が ら 遺 跡 立 地 や 分 布 の 解 釈 に 何 ら か の 影 響 を あ た え
るものと思われる。
(4) 遺 跡 立 地 と の 関 係
-96-
ち
モ
7,
5
0
0y
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sBP
常事弘
P
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m
! 胡
図 4・5 B' C地域の海岸線
-97・
7,
5
0
0y
r
s BP
ニツ山 1
東釧路 1
o
I
図4
る
D地域の海岸線
輔
9
8-
1
0
k
m
詞
内 湾 が 形 成 さ れ て い た と 考 え ら れ る 類 型 aに該当する A 地 域 ( オ ホ ー ツ ク 海 沿 岸 の サ ロ マ 湖
か ら 網 走 湖 に か け て の 地 域 ) ・D 地域(釧│路平野)では、
I種 に ふ く め ら れ る 遺 跡 は 、 現 悲 の
海岸線に直接的に面して立地しているわけではない。しかしながら、図 4
4と図 4
6に示した
ように、
I種 に 属 す る A 地 域 の 湧 別 市 川 遺 跡 ・ ト ロ コ 員 塚 ・ 豊 里 遺 跡 、 D 地 域 の 東 釧 路 遺 跡 第
百 地 点 ・ 網 弁 遺 跡 第 2地 点 ・ ニ ッ 山 遺 跡 第 1地 点 ・ ニ ッ 山 遺 跡 第 3地 点 ら は 、 旧 海 岸 線 の 復 元
結果を参照にいれるならば、当時ひろがっていた内湾に面して立地していたと考えてよかろう。
釧 路 地 域 の 状 況 に 関 し て は 、 す で に 沢 四 郎 (1
9
7
4
:
1
7
0
) が推定している通りである。
現海岸線と!日海岸線の位置がほとんど変化していない類型 bに あ て は ま る B地 域 ( 知 床 半 島
沿岸)はょいとして、つぎに問題となるのが類型
C
に あ て は ま る C地 域 ( 根 室 海 峡 沿 岸 ) で あ
ろう。 C 地 域 で は 、 野 付 崎 か ら 国 後 島 に か け て の 浅 い 大 陸 棚 が 当 時 は 陸 地 化 し て い て 、 現 海 岸
5
) 。ここで遺跡分布に関して注
線よりも沖合いに!日海岸線があったと考えられている(図 4・
目すべき点は、 C地 域 に お い て I種 の 遺 跡 が 確 認 さ れ て い な い こ と で あ ろ う 。 当 該 地 域 の 標 津
町 の 伊 茶 仁 カ リ カ リ ウ ス 遺 跡 や 古 道 第 2竪 穴 群 遺 跡 、 根 室 市 の ト ー サ ム ポ ロ 遺 跡 で は 、 い ず れ
も石刃鏡石器群にふくめられる資料が発掘調査によって検出されているものの、すべて石刃騒
が 単 発 的 に み つ か っ て い る の み で あ り 、 石 刃 や 石 刃 核 、 奈J
l片 ・ 砕 片 が ま と ま っ て 検 出 さ れ て い
るわけではなし L し た が っ て 、 そ れ ら の 遺 跡 を I種 に ふ く め て 考 え る こ と は で き な い の で あ る 。
C地 域 に I種 の 遺 跡 が み ら れ な い の は 、 他 地 域 で I種 の 遺 跡 が 海 岸 線 に 面 し て 立 地 す る 傾 向
があることを前提とするならば、 C地 域 に お け る 当 時 の 沿 岸 域 が 水 没 し て し ま っ た た め 、 沿 岸
域 に 立 地 し て い た I種 の 遺 跡 も そ れ と と も に 水 没 し て し ま っ た 、 と い う 可 能 性 を 支 持 す る の で
はなかろうか。もちろんこれは、現時点で確認されている状況から推定したものだけに、将来
的 な 検 証 作 業 の 積 み 重 ね が 必 要 な こ と は 認 め て お か ね ば な ら な い 。 た だ し 、 比 高 差 30m 前後
の 切 り 立 っ た 崖 が 連 続 的 に 分 布 し て い る B地 域 に で は な く 、 ゆ る や か な 海 浜 が ひ ろ が っ て い た
とみられる A ' D地 域 に 多 く の I種 の 遺 跡 が 分 布 し て い る こ と か ら 考 え て 、 同 様 の 海 浜 状 況 が
形 成 さ れ て い た と 考 え ら れ る 水 没 し た C地域の大陸棚にも、
I種 の 遺 跡 が 遺 存 し て い る 可 能 性
は高いと考えられよう。
ここまでの検討結果をまとめると以下のようになる。
① A 地域と D 地 域 で は 、 当 時 海 進 の 結 果 い く つ か の 内 湾 が 形 成 さ れ て お り 、 現 在 は や や 内 陸 に
立地している遺跡でも、かつては旧海岸線に面して立地していたことがあきらかになった。
② C地 域 で は 、 野 付 崎 や 根 室 半 島 か ら 国 後 島 に か け て の 大 陸 棚 が 当 時 は 陸 地 化 し て い た が 、 そ
の後の海進の結果によって当時の沿岸域が水没してしまったため、
I種 の 遺 跡 も そ れ と と も
に水没してしまった可能性がある。 C地 域 に お い て 現 在 I種の遺跡が確認されていないのは、
このことを反映しているのかもしれない。
(5) 小 結
本 拠 地 の 性 格 を も っ て い た と 想 定 さ れ る I種 の 遺 跡 は 、 い ず れ も 旧 海 岸 線 に 面 し て 立 地 し て
い る こ と が あ き ら か に さ れ た 9) 。 と り わ け 注 目 す べ き は 、 ほ と ん ど の 遺 跡 が 海 進 に よ っ て 形 成
された内湾に面していることである。内湾での水産資源を確保することが、本拠地と想定され
る 1種 の 遺 跡 を 中 心 に な さ れ て い た で あ ろ う こ と は 想 像 に 難 く な い 。 さ き に ミ ク ロ な 立 地 状 況
・9
9・
の検討から I種 の 遺 跡 問 で の 立 地 上 の 共 通 性 を 指 摘 し た が 、 内 湾 に 面 し て 立 地 す る と い う 比 較
的マクロな立地状況に関しでも、
I種の遺跡間は強い共通性を示すことがわかったのである。
4.遺 跡 間 変 異 の 問 題 と 旧 海 岸 線
ここまで、遺跡立地の解釈に重要な関連をもつことになる自然地形、とりわけ旧海岸線の位
をめぐる問題について検討をくわえてきた。その結果、旧海岸線の位置次第では、遺跡の分
布 や 立 地 に 関 す る 解 釈 に 大 き な 異 な り が 生 じ て し ま う 可 能 性 を 指 摘 し て き た 10) 。すくなくと
も、類型
C
のような状況を示す地域においては、現時点で確認されている遺跡の範圏内だけで
集団の行動パターンを復元することは、問題が多いといわざるをえない。
このように、 i
日海岸線の位霞が考古学的な解釈に重大な影響をあたえていることが実際の検
n
t
e
r
s
i
t
e v剖 a
b
i
l
i
t
y
) を把握する方法論上の課題を
討 作 業 の 結 果 わ か っ た こ と は 、 遺 跡 間 変 異 (i
考えていくうえで、重要な意味をもつことになろう。
遺跡間変異の把握とは、仮設される一集団がどのような地理的範囲内にいかなる遺跡をのこ
し てい るの かを あ き ら か に し 、 そ の 把 握によって最終的には、集団の行動パターンの全体像を
復元することが目的になるものである。そこで問題点のひとつとしてとりあげねばならないの
は、現時点で確認されている遺跡の変異の範圏が、当時の集団の行動のバリエーションを充分
に反映しているのかどうか、という点であろう
11)
。とりわけ更新世から完新世初頭にかけて
は、自然環境を構成するさまざまな要素(自然地形もそれに当然ふくまれる)が激変する時期
であり、いま確認できる自然環境の諸条件がそのまま当時の復元に直接役立つというわけでは
ない。同時に、遺跡の分布や立地(とその解釈)にもそれが何らかの影響をおよぼしている可
能性は、充分に想定されなければならない。
第 I章 で 指 摘 し た よ う に 、 デ ン マ ー ク の マ グ レ モ ー ゼ 文 化 期 に 関 す る 研 究 で は 、 行 動 連 鎖 の
パターンを復元していくうえでの重大な障壁になる要素として、梅岸線の変化がとりあげられ
ている (
P
r
i
c
e 1
9
8
5
:
3
4
2
・3
4
5
) 。というのも、かりに当時、沿岸部を移動範囲にふくむような行
動パターンが実際に存在していたとしても、現時点でその痕跡を確認することができなければ、
復元される行動連鎖のパターンは、そうした実態から大きくかけ離れたものになってしまう恐
れが生じてくるからである。
遺跡開変異の問題を考えていくうえで、かつて存在していた遺跡が自然的要因によって消滅
もしくは確認がきわめて困難になってしまってはいないか、という可能性を吟味することは
要である。本稿中の C地 域 に 関 し て 指 摘 し て き た 、 海 面 下 の 大 陸 棚 に 遺 跡 が 遺 存 し て い る の で
はないかという可能性も、遺跡間変異とのかかわりの視点から考察される必要がある。ほかに
も、存在を確認することはきわめて困難であろうが、沖積地の厚い地層下にある遺跡の探索も、
埋没段丘の存在を考慮にいれるならば、遺跡間変異の問題を考えていくうえで今後重要な検討
課題となってこよう。
現実的に発見・調査が難しいそうした遺跡については、偶然的な発見があればよいのである
が、当分は間接的な方法によって遺跡の存在を推測していくしか議論の糸口はないと思われる。
-1
0
0-
間接的な推測としては、本稿でおこなってきたように、現・旧海岸線がそれほど変化していな
い地域での検討結果から、逆にそれが変化している地域の状況について類推をおこなう、とい
う の も ひ と つ の 方 法 で あ ろ う 。 鈴 木 忠 司 (1
9
8
5
) も同様の手続きをふんで、細石刃::r:i器群段階
では人間と海との親和的な関係が成立してはいなかったことを指摘している。これとは別に、
遺跡数の適時的な増減を検討していくことで、いまは確認できない遺跡の存在を予測すること
もできる(小杉 1
9
9
8
) 。あるいは、デンマーク中石器時代前葉のマグレモーゼ文化期の動物
遺存体に対する分析結果が示すように、遺跡の利用季節を解明することによって、現在は確認
す る こ と が で き な い 海 岸 線 沿 い の 遺 跡 の 存 在 を 予 測 す る ほo
w
l
e
y
C
o
n
w
y1
9
9
3
) こともできょう。
マグレモーゼ文化期の場合、これまで利用季節の推定が可能であった遺跡のすべてが夏季を示
すものに偏っていたため、冬季には現在海面下に水没してしまった低地帯が利用されていたの
ではないか、という推測がだされたのである。
塚や禍穴遺跡をのぞくと動物遺存体の検出がほとんど望めない日本では、遺跡の利用季節
を基軸として上記のような推定をおこなうことは不可能に近いが、利用季節以外でも遺跡;聞の
つながりを立証しうるような要素を摘出することができれば、上と同じような論理農開で、水
没してしまった地域における遺跡の存在を推測することも可能となるであろう。
吏新世終末から完新世初頭にかけての中・高緯度地帯において、低地である沿岸部で水産資
源、の利用が本格化・組織化したのは、日本列島だけにととまらない一般的な現象といっても
し支えはない。しかし、当時、活動の主舞台となっていた可能性のある沿岸部は、海水準変動
にともなって、水没してしまったり厚い地層下に埋没してしまったり、といった影響を容易に
うけやすい地域でもある。そうした状況のもとで遺跡間変異の的確な復元をめざしていくため
には、ここまで述べてきたような幾通りかの推定方法を用いることもふくめて、集団がのこし
た遺跡の変異の幅を見極めていくような議論が、今後重要な意味をもつことになろう。こうし
た方向性の研究を積極的に推進するための条件としては、考古学的な議論に地質学・地理学的
な知見を導入することが、これからますます必須になるといえよう
1 2)
5.まとめ
本章での検討結果をまとめると次のようになる。
①石刃鍛石器群が発見されている遺跡立地の傾向を、設定した遺跡種別に応じて整理していく
と
、
I種とした遺跡の立地上の特徴には遺跡間を通じて共通性が認められたのに対して、 E
とした遺跡の立地上の特徴には遺跡問で変異が大きく認められることがわかった。
② I種 の 遺 跡 が あ る 一 定 期 間 の あ い だ 居 住 活 動 が 営 ま れ る 本 拠 地 で あ っ た な ら ば 、 上 述 の 傾 向
は、本拠地となる地点が選択される際に、共通した立地状況を示す場所がとくに選ばれてい
たことを示唆していよう。逆に宜種の遺跡の場合には、さまざまな性格をもつものがふくま
れているため、結果として遺跡間でさまざまな立地上の特徴を示すことになったと考えられ
る
。
③ I藷 の 現 況 で の 遺 跡 立 地 を み る と 、 海 岸 線 沿 い に 立 地 す る 場 合 が 認 め ら れ る の と 同 時 に 、 や
噌
A
n
u
'
E
a
-F
や内陸にはいった地点、に立地している遺跡も認められる。しかしながら、!日海岸線を復元し
てみると、
I種の遺跡いずれも海岸線沿いに立地していることがあきらかとなった。
④ 根 室 海 峡 沿 い の 地 域 に は こ れ ま で I種 の 遺 跡 が 確 認 さ れ て い な か っ た が 、 旧 海 岸 線 が 現 在 よ
り も 沖 合 い に あ っ た こ と が 事 実 で あ る な ら ば 、 海 岸 線 沿 い に 立 地 し て い た で あ ろ う I種の遺
跡は、現在は海面下の大陸棚に水没してしまった可能性が大きい。
本章では、遺跡、立地に関するいくつかの検討項目を設定して、それらが遺跡間でどのような
差異と共通性を示しているのかを議論してきた。その結果、
I種の遺跡、と H種の遺跡、とでは対
照的な遺跡立地のパターンを示していることがわかった。これにより、沿岸部や内陸部での I
種と E種 の 遺 跡 そ れ ぞ れ を の こ し た 諸 活 動 の あ り 方 に つ い て 、 一 定 の 見 通 し を も つ こ と が 可 能
になったのである。ただし、遺跡立地に関する議論でとりあげた検討項目は、遺跡立地に関連
する諸属性からみればきわめてかぎられたものであるだけに、今後は他要素からの検討を積み
重ねていく必要があろう。とりわけ、個別遺跡でおこなわれていた活動を詳細にあきらかにす
るためには、微地形と周辺の地形環境とのかかわりについて、それぞれの遺跡のあり方をみて
い く こ と が 重 要 で あ る 。 第 I章 の 冒 頭 で 述 べ た 遺 跡 領 域 分 析 (
s
i
t
ec
a
t
c
l
u
n
e
n
ta
n
a
l
y
s
i
s
) の観点は、
こうした段階の分析作業にとっては有効な視座をもっているものといえよう。今後の課題とし
たい。
-1
0
2
綱
付表遺跡立地データ
N
o
.支 庁
宗谷
2 網走
3
4
5
6
7
8
9
1
0
1
1
1
2
1
3
1
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0
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2
2
2
3
2
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2
5
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3
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3
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3
3
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3
5
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6
遺跡
川尻
開生
ウブナイ
柳沢
湧別矢内
湧別市 J
I
I
湧別し探処理場
トコロ貝塚
トコロチャシ南尾根
岐 阜 第2
ST04
豊 実γ3
1
1
1東 7
1
1
1東羽田
美 里D
義盟洞穴
柏木 1
豊 地9
広郷 2
0
広郷4
3
紅葉山
常元1
境野北
天都山
ニ見岡
嘉多山
クッチャロ
向陽ケ丘
!日大曲神社
呼人湖畔荘
大曲洞穴
呼人
NM09
市町村
標高
比高
地形
1
0
1
2
段丘
8
1
1
段丘
3
5
段丘
3
5
段丘
2
4
設丘
2
5
段丘
2
5
段丘
1
1
1
2
段丘
23-26
1
7
段丘
16-22
1
6
段丘
6
1
0
段丘
8
0
5
0
段丘
15-20 丘 陵
7
0
95-103
5
0
丘陵
1
0
1
2
0
丘陵
山地
7
0
3
6
0
20-30 丘 稜
1
5
0
1
1
0 丘陵
2
4
0
20-30 設 丘
1
3
0
2
0
1
1
5
設丘
2
0
214-222
丘援
3
9
0
2
5
段丘
2
7
2
3
0
丘陵
9
0
90-100
段丘
5
3
5
0
丘陵
2
7
2
5
段丘
20-30
2
0
段丘
8
0
.
.
.
.
.
9
0 40-50 丘 陵
20-30
2
0
丘陵
3
0
30-60
段丘
8
0
1
0
0
丘陵
3
0
3
0
設丘
1
0
1
1
段丘
8
段丘
2
1
4
2
7
段丘
2
6
5
段丘
枝幸
雄武
紋別
紋見J
I
湧完J
I
湧別
湧別
常呂
常呂
常呂
常呂
端野
北見
北見
北克
北見
北見
北見
北見
北見
留辺奨
置戸
置戸
網走
網走
網走
網走
網走
網走
網走
網走
網走
網走
女満別
豊里
ピラオツマツコウマナイチャシ 奨 幌
美幌
駒生
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0
3
駒
水系 発摺│
河川
O
河川
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河川
河川
O
河川
O
河川
河川
河川
O
1
1 O
河1
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河JlI
河川
河川
O
河川
河川
O
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河川
河川
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河川
河川
河川
河川
湖沼
湖沼
j
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1
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湖沼
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O
O
O
N
o
.支 庁
3
7 網走
3
8
3
9 根室
4
0
4
1
42
4
3
4
4
4
5
4
6
4
7調
1
/
路
4
8
4
9
5
0
5
1
5
2
5
3
5
4
5
5
5
6
5
7
5
8
5
9
6
0
6
1
6
2
6
3
6
4
6
5
6
6
6
7
6
8
6
9
7
0
7
1
7
2
7
3
遺跡
市町村
神浦 8号
小清水
斜里
富士土屋
羅巴川南岸
ソスケ
トピニウス南岸
オタフク岩第 E地点
カリカリウス
吉 道2
トーサムポロL1
別当賀一番沢J11
オカレンボーシ
タワ 1
鴨沢
五十石
飯島
ニッ山第 1地点
ニッ山第 2地点
ニッ山第3地点
ニッ山第 6地点
茅沼
金子
塘路湖
斉藤1
斉 藤2
鍋井
綱井2
シラルトロ
アレキナイ川左岸
ポンタワ第 2
違古武 7
達古武 8
岩保木 1
0
遠 矢4
テンネル南
岩保木中の沢 1
北斗第 1地点
大楽毛第 4地点
羅臼
羅臼
羅臼
羅臼
標津
標津
根室
根室
厚岸
標茶
標茶
標茶
標茶
標茶
標茶
標茶
標茶
標茶
標茶
標茶
標茶
標茶
標茶
標茶
標茶
標茶
標茶
釧路(町)
認
1
1
路(町)
話1蕗(町)
調1路(町)
釧路(町)
認1路(町)
釧路(市)
釧路(市)
標高
2
0
1
3
0
1
5
4
0
3
6
4
3
1
5
10-15
1
6
7-12
7
40-50
30-40
2
5
5
0
3
0
2
0
37-45
2
0
15-19
2
0
6-10
3
0
2
0
1
0
1
2
1
3
1
5
40
10-15
10-20
40-50
10-30
20-30
50-60
17-24
10-20
-1
0
4-
比高
地形
1
0
段丘
4
0
丘陵
1
4
段丘
4
0
設丘
2
9
段丘
4
2
段丘
8
段迂
4-9 段 丘
1
5
段丘
6
段丘
6
段丘
10-20 丘 陵
2
6
丘陵
1
1
段丘
35-40 段 丘
1
2
段丘
7
段丘
3
0
段丘
1
0
段丘
4
段丘
8
段丘
0-8 段 丘
10-20 段 丘
1
2
段丘
1
0
段丘
6
段迂
4
段丘
6
段丘
1
0
段丘
5
段丘
6
設丘
4
0
段丘
2
0
段丘
1
8
段丘
4
0
段丘
6-13 段 丘
1
0
段丘
水系 発掘
i
可川
河川
海
海
海
海
河川
河川
湖沼
河川
01
O
O
O
O
O
O
海
河川
河川
河川
河川
河J
I
河J11
河川
河川
河川
j
鵠沼
湖沼
河1
1
1
河川
湖沼
湖沼
河川
河川
河川
湖沼
湖沼
河川
河川
河J11
河川
河川
河川
O
O
O
O
O
O
O
No.支芹
遺跡
7
4 調1路
7
5
7
6
東釧路第 I地点
東郵1蕗第 E地点
東郵1路第3地点
桂恋神社
桜ヶ間第2地点
下雪裡
下幌呂A
アシベツ川右岸
共栄 B
生関I
J
A
新吉野台
下大樹
下当縁
ーの橋
北町C
日の出4
7
7
7
8
7
9
8
0
8
1
82 十勝
8
3
8
4
8
5
86
8
7 上川
8
8
8
9
90
9
1
92
9
3
9
4
9
5
96
9
7
9
8
9
9
1
0
0
1
0
1
1
0
2
1
0
3
1
0
4
1
0
5
1
0
6
1
0
7
1
0
8
1
0
9
1
1
0
思根内
上士別
王郷
日進
日進3
3
自進2
朝日
江差牛
愛山渓登山道
幌倉沼
号
東神楽 1
4
千代間
オサラッペ左岸
担ケ丘
三の山
東富丘
東山
鳥沼
西違布 2
爵瀬公簡A
幾寅A
市町村
標高
劃
1
1
路(市) 15-20
1
0
~II 蕗(市)
露1路(市) 15-20
比高
1
4
8
1
4
1
9
5
0
3
地形
段丘
段丘
段丘
段丘
段丘
段丘
段丘
段丘
段丘
段丘
段丘
段丘
段丘
丘陵
丘陵
段丘
段丘
段丘
丘陵
丘陵
水系
河川
j
可川
河川
2
0
釧路(市)
海
河川
釧路(市)
5
0
2
0
河川
鶴居
7-17
鶴居
河川
10-20
2
河川
鶴居
j
南幌
1
9
8
河川
浦幌
2
0
1
0
河1
1
1
8
1
9
河川
浦幌
7
河川
7
0
大
大
樹
1
7
河川
2
5
1
9
0
2
0
河川
下川
0
河川
下川 150-200 2
2
9
0
3
0
河川
和寒
3
6
0
河川
美深
0
河川
士完I
J 170-190 2
200-225 2
5
河川
土別
2
6
河川
名寄
1
1
5
9
5
4 氾濫原 河JlI
名寄
3
9
8
段丘 河川
名寄
1
5
名寄
1
2
5
丘陵 河川
0
上川 350-400 5
丘陵 河川
6
0
上川
1
6
0
0
山地 河川
東川
2
2
4
2
段丘 河川
8
0
.
.
.
.
.
.
1
9
0 2
0
東神楽 1
段丘 河川
0
東神楽 170-195 2
段丘 河JlI
旭川
1
3
0
20-25 段丘 河川
1
2
0
2
2
旭川
段丘 河川
5
河川
3
3
0
丘陵
富良野
1
0
3
5
5
丘陵 河川
富良野
36
3
0
8
丘陵 河川
富良野
3
1
富良野 175-180
丘陵 河J
富良野 298-310 4
丘陵 河川
1
7
2
富良野
段丘 湖沼
6
3
5
0
3
6
0
設丘 河1
1
1
南富良野
-1
0
5-
発掘
O
O
O
O
O
O
O
O
O
O
O
O
01
01
おわりに
本稿におけるここまでの議論を整理すると以下のようになるであろう。
①複数の遺跡調の関係性を不可避的にとりあっかわねばならない移動・居住形態の復元的研究
にとって、本稿の第 I章で示したような、ある地理的範囲内における考古学的記録から〈集
団)の行動連鎖のパターンを反挟する傾向性を摘出することによって、移動・居住形態の仮
説モデルを構築するという分析視鹿は、北西ヨーロッパや日本における従来の移動・居住形
態研究が内包する問題点やポテンシヤノレを把握していくうえで、きわめて有効であることが
確認された。
②日本におけるこれまでの移動・居住形態研究では、複数遺跡間での類型設定、石器製作工程
もしくは石器組成からみた遺跡聞のつながりの解明、という点について一定の業績があげら
れている。しかしながら、それらの研究では、検討対象の措定、遺跡間接続の妥当性、各種
データの仮説モデルのなかでの統合化、という諸点に関して検討の余地をのこしている。そ
れらの問題点をふまえて本稿では、北海道の石刃鍛石器群を題材として、石器製作工程のつ
ながりという視鹿から遺跡間接続の妥当性をあきらかにし、なおかつ遺跡立地、遺跡分布、
遺跡種別といったさまざまな検討項目を整合的に説明しうるような仮説モデル構築をめざし
た
。
③石器製作工憩のつながりを解明するためには、複数遺跡問での詳細な石器製作技術の復元お
よびその比較が必要である。本稿の第 H章では、まずオタフク岩遺跡第 H地点出土の石器群
の分析から、これまで概要のみが知られていた石刃銭石器群の石器製作技術の全体像を復元
し、遺跡間比較の基準を提示した。そして、第 E章において、比較に耐えられるだけの一定
の出土量が認められる遺跡を対象として、遺跡関における石器製作技術の詳細な比較をおこ
なった。
④比較分析の結果では、北海道内の石刃鍛石器群が確認されている遺跡間において、きわめて
共通性の高い石器製作技術および利用石器石材がみられることが判明した。さらに、沿岸部
と内陸部とのあいだでは、実施されている石器製作作業に工程上の格差が認められ、それが
相互補完的なものであることがあきらかにされた。以上の知見から、北海道の石刃鍛石器群
をのこしたく集団〉は、沿岸部と内睦部とのあいだで移動活動をおこない、沿岸部の一部の
遺跡は本拠地として、内陸部の遺跡は野営地として利用されていたことを推定した。
⑤さらに第 N 章では、石刃鍛石器群が発見されている遺跡を北海道東部内から網羅的に集成し
岨
1
0
6-
て、遺跡立地の傾向について整理をおこない、なおかつ第臨章で設定した遺跡種別との対応
関係についても検討をおこなった。そこでは、遺跡種別として設定した I種と H種が対照的
な立地パターンを示していること、それが地理的景観内の各種の資源利用を目的とした土地
利用の結果であることを示した。
7,
5
0
0
y
r
sBP前後)
⑥最後に、遺跡間変異の把握に重大な影響をあたえると予測される当該期 (
の自然地形、とりわけ!日海岸線の位置について検討を試みた。結果的に、布刃鍛石器群の遺
跡種別として設定したうち、 I種とした本拠地と想定される遺跡の見かけ上の分布には、旧
.現海岸線の位置に関する地域的差異が影響をあたえていることをあきらかにした。
以上の議論によって、移動・居住形態の復元的研究をめぐる方法論的課題についてあらたな
視点を提示することができたとともに、北梅道の石刃犠石器群を題材とした実践作業をおこな
うなかで、当該資料に即した具体的な佼説モデルを構築し、さきに示した方法論的視座の有効
性を確認することができた。くわえて、移動・居住形態の復元的研究をより蓋然性の高いもの
とするためには、提示した仮説モデルに対していくつか補足しなければならない点が存在する
が、その一例として本稿では、遺跡立地の解釈にかかわる自然地形の変化の問題をとりあげ、
遺跡間変異の議論にそれが大きく関与するものであることをあきらかにしてきた。
移動・居住形態の復先的研究をめぐる方法論的課題に関していうならば、遺跡形成過程の分
析をめぐる問題、およびそれが移動・居住形態の仮説モデルとどのような関連をもつのかにつ
いて、論ずべきいくつかの問題点がのこされていることは指嬬しておかねばならない。たとえ
ば、ある遺跡における回帰性とその内容が、提示された仮説モデルにおけるその遺跡の位置づ
けと整合的であるのか否か、あるいは、行動連鎖のパターンを反映していると考えられる考古
学的記録の傾向性が、それぞれの遺跡の堆積環境のなかでどのような変形をうけているのか、
という点が具体的に検討されるべきであろう。あるいは、石器組成の検討から遺跡関における
機能分有の関係をとらえていくためには、器種ごとの製作・使用・麗棄の過程の差を充分に認
識した分析が必要である。それらの復元にも遺跡形成過程の研究が有効な分析視麗を提供する
ことと予測されよう。いずれも今後の課題としておきたい。
-1
0
7
刷
謝辞
本稿を執筆するにあたっては、博士論文指導委員である北海道大学文学部の林
俊彦・煎本
林
孝・小杉
康・菅
謙作・菊地
豊の諸先生から懇切かっ歳しい御指導を賜った。とりわけ、
謙作先生からは日常的に終始一貫して御指導を賜った。末筆ではあるが、ここで厚い感謝
の意を表したい。
また、赤松守雄・阿子島香・石川! 朗・出穂雅実・右代啓視・大塚達朗・大沼克彦・加藤博
文・北沢
実・木村英明・杉浦重信・仙波伸久・鶴丸俊明・西
幸隆・平川善祥・山原敏朗・
涌坂周一の諸先生・諸氏からは、資料の実見にあたっての御高配や議論に応じていただく過程
で貴重な御教示をいただいた。また、北海道大学文学部北方文化論講座の天野哲出先生をはじ
めとする大西秀之・小野裕子・高額克範・中沢祐一の諸氏からは、日常的に多々の御教示・御
配慮をいただくことができた。この場を借りて御礼申し上げたい。
-1
0
8-
第 I章 註
1) 移 動 ・ 居 住 形 態 (
R
e
s
i
d
e
n
c
e
も1
0
b
i
l
i
t
yP
a
t
t
e
r
n
) は、地点内での活動(居住活動)と地点間で
の活動(移動活動)とを包括する用語として使用する。類似した意味内容をもっ用語として
9
7
1
:
2
3
9・2
4
0
) 、居住構造(野口 1
9
9
6
:
1
1
0
) 、居住形態
は、セトルメント・システム(小林他 1
(佐藤 1
9
9
7
:
2
) があげられる。これらの用語では、移動と居住の両活動を積極的に組み込ん
だ術語設定をおこなっていないため、ここで新たな用語を用いることにした。
2) 遺跡間における石器接合資料と区別するために、
(遺跡関接続)と呼んでおく。
3)ここでの〈構造〉という用語は、あくまでも限定された対象に内在する骨組みという意味
で使用している。
4) 以後の本稿中で提示していく年代測定値は、とくに注意をくわえないかぎり、いずれも未
補正値である。
5) トナカイを主要な対象獣とした狩猟活動がおこなわれ、異なる地理的景観の相互をまたが
t
u
r
d
yらの仮説に対しては、 W
e
i
n
i
g
e
r(
1
9
8
9
:
3
5
4
3
5
るような長距離移動がなされていたという S
5
)や E
r
i
k
s
e
n(
19
9
6
:
1
1
4・1
2
2
) らの批判がある。
6) ただし、フォスナ文化期は二分すべきではないとする見解もある (
B
j
e
r
c
k1
9
8
6
)。
7
) 現在、われわれが入手している遺跡規模や遺跡分布に関するデータは、その多くが行政的
な発摺調査や偶然的な表面採集の結果によって把握されていることを官、れるべきではない。
そこには、さまざまなサンプリング・バイアスが存在している可能性が充分にある。既存の
資料を用いて分析する場合、調査面積や調査精度のばらつきが関舗となるし、拠点的な集落
は別として短期間の利用しかなされている遺跡の場合、発見自体が困難であるとともに、た
とえ発見されても往々にしてその年代的位置づけを把握することはきわめて困難なことが多
P
r
i
c
e 1
9
7
8
:
9
5・9
6
) 。こうした問麗に対処するために、北西ヨーロッパにおいては景観考
い (
n
d
s
c
a
p
ea
r
c
h
a
e
o
l
o
g
y
) と呼ばれる試みが、たとえば B
a
n
g
An
d
e
r
田 n(
19
8
7、 1
9
8
9、 1
9
9
0
)
古学(Ia
やMi
t
h
e
na
n
dL
a
k
e(
1
9
9
6
) らによって実践されている。それは、一定地域内での計麗的・組
織的調査(地表面採集や試拐の併用)によって、できるかぎり実態に近い遺跡分布や遺跡規
模のあり方を把撞しようとする試みである。
8)このような経過については、すでに詳細な学史的回顧(野口 1
9
9
6など)がある。
9) 関東地方の後期旧石器時代後半期を対象とした移動・居住形態の研究において、遺跡立地
9
9
7
:
7
) はある。
などの分析が有効であるとの指摘(佐藤 1
1
0
) 両アプローチを統合して実践している実例は、いまのところ認められない。ただし、加藤
晋平らによる常呂川流域の細石刃石器群に関する一連の研究では、遺跡聞における石器製作
9
7
1
) 。ただし、二遺
作業の工程上の差異について一定の注意がはらわれている(加藤他 1
跡(関村遺跡と吉村遺跡)を例にとりあげているだけであり、移動・居住形態の復元という
観点では、きわめて不充分なままであった。
第 H寧 註
1)石刃核の製作から石刃が剥離されるにいたるまでの手順を(石刃剥離工程〉とし、用いら
れた加撃具と打撃・加圧法の総体をここでは(石刃剥離方法〉と呼ぶ。
-1
0
9-
2) 湧 別 市 )
1
1遺 跡 の 報 告 書 ( 木 村 1
9
7
3
:
2
3) で 注 意 が は ら わ れ て い る よ う に 、 不 定 形 剥 片 を 季J
I
離する円盤状・サイコロ状の石核が石刃犠石器群には伴出する。しかしながら、現時点まで
に 不 定 形 剥 片 を 剥 離 す る 石 核 が 確 認 さ れ て い る の は 、 湧 別 市 川 遺 跡 と オ タ フ ク 岩 遺 跡 第 H地
点だけであり、個別遺跡での石器製作技術をとらえるうえでは重要であるが、遺跡間比較を
おこなううえでの共通の尺度にはならないため、検討対象としては不適切である。
3) こ う し た 形 容 は 、 あ く ま で も 研 究 者 み ず か ら の 価 値 観 を 投 影 し た も の に す ぎ ず 、 資 料 の 性
質を説明するためのタームにはならないはずである。
4)
r
縄文時代早期中
後葉相当 Jと述べたが、これはあくまでも時間的併行関係を意味して
いるだけであり、石刃鉱石器群がいわゆる(縄文時代〉の枠組みのなかに位置づけられうる
かどうかとは別問題である。後者の問題に答えるためには、石器群の検討だけでなく、浦幌
式・女満別式ら伴出する土器型式に対する評価が必要なことはいうまでもない。さらには、
われわれ研究者が一般的に共有している(縄文時代・縄文文化・縄文社会・縄文土器)の設
定原理について再吟味しなければならないはずである。
5) 経 験 的 に い っ て 打 癌 の 状 態 は 、 さ ら に 細 か く 分 け る こ と が で き る が 、 そ こ か ら ど れ ほ ど 有
意な情報が読みとれるのかは未知数である。コットレノレとカミンガの両名は、剥離力学を考
慮にいれて、ヘルツ型 (
H
e
抱 i
a
n
) ・曲げ型 (
B
e
n
d
i
n
g
) ・模型 (
W
e
d
g
i
n
g
) の三つの剥離の発
生形式を区分した (
C
o
t
t
e
r
e
l
la
n
dK
a
m
m
i
n
g
a1
9
8
7
:
6
8
56
9
1、 1
9
9
0
:
1
3
0
・
1
3
5
) 。この分類が現状では
働
も っ と も 妥 当 な も の と 考 え 、 本 章 で は そ の う ち 前 二 者 を そ れ ぞ れ I類 'II類とした。さらに、
内傾・打癌ともに観察されない平壌な状態のものも観察されたため皿類を設定した。
6) 藤 本 強 (
1
9
9
2
) は、アムーノレ川流域のノヴォベトロフカ遺跡や常呂町トコロ貝塚の事例分
析から、布刃犠とそれ以外の剥片石器の素材になった石刃は、
f
異なる技術体系に属するこ
I離 技 術 J (向上 :
1
4
9
) により黍J
I離 さ れ た も の と 考 え て い る 。 可 否 は 簡 単 に は 決
種類の石刃季J
しがたいが、立証のためには、わずかな石刃核の観察だけでなく母岩単位での石刃剥離技術
の摘出をおこなう必要がある。
7) 剥 離 方 法 の 同 定 に 関 す る 実 験 的 研 究 は 、 細 石 刃 季J
I離 技 術 の 研 究 で は 成 果 を あ げ て い る が
9
9
2
:
8・
2
0な ど ) 、 一 方 の 石 刃 剥 離 技 術 に 関 し て は 、 い く つ か の 実 験 的 分 析
(大沼・久保田 1
S
o
l
l
b
e
r
g
e
ra
n
dP
a
t
t
e
r
s
o
n1
9
7
6
:
5
2
5
・
5
3
0な ど ) 、 そ の 結 果 が 石 材 や 剥 離
が欧米でなされているが (
工程の差異を越えて一般化できるのかどうかは不明であり、今後の検討課題といわねばなる
まい。
8) 後 期 旧 石 器 時 代 の 両 面 調 整 石 器 に 関 し て 千 葉 英 一 (1
9
9
3
:註 1
0
) が間様の指摘をおこなっ
ている。
第田章註
1) こ こ で は 〈 地 理 的 景 観 〉 と い う 語 を 、 山 岳 ・ 丘 陵 ・ 台 地 ・ 河 川 ・ 海 岸 ・ 湖 沼 な ど の 地 形 を
合意するものとして使用する。生態環境的背景は当面ふくめないことにする。
2) 本 稿 で は 、 あ る 特 定 の 景 観 内 に 集 中 す る 遺 跡 の ま と ま り を ( 遺 跡 群 〉 と 呼 ぶ こ と に し て い
るが、
「 あ る 人 間 集 団 に よ っ て 残 さ れ た す べ て の 遺 跡 の 集 合J を f
遺 跡 群 J ととらえる大井
晴 男 (1
9
8
2
:
6
7
) の見解があることも付記しておきたい。
-1
1
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3) こ う し た 傾 向 は 石 刃 核 に 限 定 さ れ る も の で あ り 、 石 刃 核 以 外 で は 異 な る 傾 向 を 示 す 。 次 で
説 明 す る E類 と し た 非 石 刃 核 に は 円 磨 さ れ た 自 然 面 が よ く 観 察 で き 、 河 川 中 下 流 域 で 採 集 さ
れた転礁の黒曜石が用いられていたと考えられる。石刃核と非若刃核で石材採取ゾーンが異
なっていた可能性が高い。
4) 石 材 採 取 ゾ ー ン に 関 し て は 、 地 域 的 な 差 異 も 考 慮 し な け れ ば な ら な い 。 と り わ け 、 北 海 道
大学文学部北方文化論講鹿に保管されている浦幌町新吉野台遺跡の発掘資料を観察するかぎ
りでは、十勝地域では具なったあり方を示しているようである。
5) か つ て 加 藤 菅 平 (1
9
7
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:
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) は、石刃核の打商にみられるパンチ穫の存在から押圧剥離
による石刃剥離を想定したが、パンチ痕の成因を考えるかぎり、そうした想定は成り立たな
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6) 樋 状 意J
I離 面 の 末 端 が 石 器 の 片 側 縁 か ら 他 側 縁 へ ぬ け て し ま っ て い る 彫 器 は 、 稿 が 大 き く 減
じられていると考えられるため、計測対象からは除外した。
7) 西 達 布 2遺 跡 で は 、 一 部 に 他 時 期 の 資 料 が 検 出 さ れ て い る が 、 そ れ ら に 用 い ら れ て い る 若
材の大半は転磯の黒曜石であり、石刃鍛石器群に所属するものとは明確に分離できる。
8) 筆 者 も ま た 佐 藤 訓 敏 (1
9
8
3
:
4
7・
4
8
) のように、相対的には女満別式が検出されている遺跡
が古く、東釧路 E ・皿式を伴出している遺跡は新しいと考えている。浦幌式を細分する見解
9
91)については、なお今後の資料の蓄積が必要であるが、遺跡間の時間的関係、を
(後藤 1
知るうえで必要な観点ではないかと考えている。
9)これとは対照的なケースとして、 R
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8
) による中央テキサスの沿岸
地域における後期先史時代の遺跡群研究の例をあげておこう。彼らが検討した事例によれば、
剥片:製品の比率は、それぞれの遺跡の機能や占地の季節性の影響をうけることなく、石材
の原産地からの距離が遠くなるに比例して製品の比率が高くなるという。このケースにおい
て遺跡の性格は、利用され癌棄される石器の種類に影響をおよぼすことはあっても、遺跡内
での石器製作作業の質量に影響をおよぼすことはなかったのである。
第 N章 註
1)ここでいう f北 海 道 東 部 J とは、北海道を東西に二分した際の東側の地理的区分である。
2) こ こ で 議 論 し よ う と す る く 集 団 ) の 単 位 は 、 前 章 で 指 摘 し た よ う に 、
(技術集団)のなか
に仮設される、日常生活の基本的な単位となっていたであろう小集団のレヴェルを想定して
し、る。
3) い ず れ の 年 代 憶 も 1960年代から 1980年代にかけて計測されたものが多く、 A M S等 の 改
善された年代測定法を適用する必要が今後ある。
4) 佐藤司Ij敏(19
8
3
) の集成結果をみると、白滝町や訓子府町等で石刃鍛石器群が採集されて
いることが記載されているが、遺跡の所在を特定することができないため、ここではとりあ
げなかった。そうした遺跡が道内で数ヶ所ある。
5) 北 海 道 の 石 刃 犠 石 器 群 を 構 成 す る 石 器 の 諸 特 徴 に つ い て は 、 木 村 英 明 (
1
9
7
6
) が簡明な整
理をおこなっている。
6) 紙 数 の 関 係 、 か ら 各 遺 跡 の 出 典 は 、 本 文 中 に お い て も 示 さ な か っ た が 、 御 諒 解 を 賜 り た い 0
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7) な お 、 内 海 が 形 成 さ れ る よ う な 同 様 の 海 進 状 況 は 、 当 該 地 域 よ り 南 東 に 位 置 す る 斜 里 平 野
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8) 図 4
4か ら 図 4-6に示す!日海岸線の復元図を作成するにあたっては、地質調査所で発行さ
れ て い る 5万 分 の 1地 質 図 で 確 認 で き る 知 見 も 副 次 的 に 参 考 に し た 。
9) な お 、 こ こ ま で 十 勝 地 方 の 状 況 を ま っ た く 述 べ て こ な か っ た が 、
I種 に 属 す る と 考 え ら れ
る 共 栄 B遺 跡 と 新 吉 野 台 遺 跡 の 立 地 に つ い て は 、 と く に 言 及 し て お く 必 要 が あ る 。 両 遺 跡 が
立地する段丘の眼下には、海進によって形成されたと考えられている沖積低地がひろがって
いる(平川・小野 1
9
7
4
:
6
2
6
) 。したがって、両遺跡ともに海岸線に商していた可能性は高い
が、具体的に海進がどの時期にどの稜度進行していたのかについて議論されてきたわけでは
なく、今後の検討が必要であるといえる。
1
0
) 海岸線の位置の地域的差異を手がかりにして、考古学的に観察される事象の解釈をおこな
おうとする試みは、いまだきわめて少ない。後期旧石器時代から縄文時代草創期にかけての
九州内での遺跡立地や分布の地域的差異を、潜水準変動とのかかわりから解釈しようとした
萩原博文 (
1
9
9
7
) の着眼点は、意義あるものと思われる。
1
1
) ある時期の遺跡立地の傾向が充分な吟味を経ないで一般的に常識化されてしまうと、研究
の焦点が過度にある特定の立地を示す遺跡にあてられてしまう可能性がある。北権道の細石
刃石器群の場合、河川流域の段丘縁辺に多くの遺跡が立地するが、それ以外の立地を示す遺
跡も実際は存症する(高倉・出穂 1
9
9
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:
3
7
) 。遺跡間変異の議論は、そうした従来の遺跡立
地観を相対化するところから出発しなければならない。
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) 欧米では G
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東北地方における後期旧石器時代石器群の剥片剥離技術の研究ー接合資料
を も と に し た 剥 片 剥 離 技 術 分 析 の 試 み -J 加 藤 稔 先 生 還 暦 記 念 会 編 『 東 北 文 化 論 の た め の 先
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阿子島香
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町
ドタフォーノレ岩陰の彼方に一石器群の空間分布と人間活動ー J
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歴 史 J第
84輯 ト29頁
阿子島香
1
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マドレーヌ文化期における適応戦略と遺跡構造分析J
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古 代 J第
1
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1号
1
2
9頁
阿子島香
1
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9
7
史』第 89輯
雨宮瑞生
1
9
9
3
叢』第 30号
安蒜政雄
1
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7
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安蒜政雄
1
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続・ドワフォーノレ岩陰の彼方にー岩陰遺跡文化層の構造論的理解ーJ
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歴
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2頁
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温 帯 森 林 の 初 期 定 住 一 縄 文 時 代 初 頭 の 南 九 州 を 取 り 上 げ て -J
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古文化談
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2
5頁
遺跡の中の遺物 J
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季 刊 ど る め ん J第 1
5号
5
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先土器時代における遺跡の群集的な成り立ちと遺跡群の構造j 論集・日本
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1
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原 史 刊 行 会 縞 『 論 集 ・ 日 本 原 史 J古 川 弘 文 館
安蒜政雄
1
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景 観 1~雄山閣
r
先土器時代人の生活空間一先土器時代のムラーJ
r
日 本 村 蕗 史 講 座 第 2巻
3・2
2頁
安 蒜 政 雄 ・ 戸 沢 充 員IJ
出版
1
9
3・216頁
1
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砂川遺跡J
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日本の!日石器文化 2
遺 跡 と 遺 物 ( 上 ) ~雄山閣
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1下 流 低 地 の 沖 積 層 と そ の C 14年 代 J
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先 土 器 時 代 の 歴 史 性 と 地 域 性J r
郷土史研究講座 1 考古学と地域』朝倉
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加藤菅平
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縄文時代のたんの』端野町教育委員会
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加藤晋平・桑原
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宏明・鶴丸俊明
町 吉 田 遺 跡 の 例 ーJ
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考古学雑誌』第 5
5巻 第 3号
加藤普平・鶴丸俊明・水村孝行
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多面体影器の問題一北海道東部関村・吉村両遺跡の
調 査 か ら ー J r 考古学ジャーナル~ N
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菊池
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遺跡立地にみる先史人類の土地利用についてー縄文時代中期・下総台地東
京湾岸地域の例一一 J r 史苑~第 57 巻第 1 号
木村英明
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木村英明
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出版社
木村英明
89θ8頁
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1遺 跡 の 考 古 学 的 調 査 』 湧 別 市 )1遺 跡 調 査 団 ・ 湧 別 町 教 育 委 員 会
石刃録文化について J
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江上波夫教授古稀記念論集
考古・美術編』山川
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29頁
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北海道の石刃鍛文化と東北アジアの文化J
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季刊考古学』第
3
8号
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絹川一徳
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瀬戸内技法に関するこ、三の考察J
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岡 山 大 学 文 学 部 紀 要 J第 四 号
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科 学 朝 日 J第 5
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道 大 学 大 学 院 地 球 環 境 科 学 研 究 科 平 成 7年 度 修 士 論 文
児玉作左衛門・大場利夫
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筑波大学先史学・考古学
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先土器時代遺跡の構造論的研究序説J
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調 窟 遺 跡 と 開 地 遺 跡 の 関 係 ー 埼 玉 県 神 庭 洞 窟 を め ぐ っ て ー J麻 生
優編
『 日 本 に お け る 洞 穴 遺 跡 の 構 造 論 的 研 究 J平 成 7
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前田保夫・松田
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海 道 オ ホ ー ツ ク 海 沿 岸 の 海 面 変 化 ー 海 面 高 度 の 観 測 値 と 理 論 値 に つ い て 一J
(自然科学) ~第 13 巻第 3 号
松島義主主
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山形大学紀要
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北 海 道 ク ッ チ ャ ロ 湖 畔 の 海 成 沖 積 層 の C 14年 代 と そ れ に 関 す る 問 題 J
奈 川 県 立 博 物 館 研 究 報 告 ( 自 然 科 学 ) ~第 13 号
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大沼克彦・久保田正寿
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『ラフィダーン』第四巻
大井晴男
石 器 製 作 技 術 の 復 元 的 研 究 ー 細 石 刃 剥 離 方 法 の 同 定 研 究 ーJ
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北 海 道 考 古 学 』 第 9輯
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先土器時代石器群における型式論処理について J
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遺跡・遺跡群の型式論的処理についてーオホーツク文化の場合一J
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大井晴男
8輯
道 考 古 学 J第 1
5
5・
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1頁
大鳴和雄・池田国昭・羽坂俊一・横田節哉・松本英二・赤松守雄
新世の地形発達J
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大嶋和雄・池田国昭・羽坂俊一・横田節哉・松本英二・赤松守雄
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完新世の地形発達J
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茨城大学教養部紀要』第 3
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太田陽子・海津正倫・松島義重量
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日本における完新世相対的海面変化とそれに関する
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先土器時代集落の成り立ち J
鈴木忠司
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行会編
再論
純・出穂雅実
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器 文 化 研 究 J第 3号
田村
隆
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ダンスガード・サイクノレー突然かつ急激な気候変動と日本海洋変動 -J
1
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『科学』第 6
7巻 第 8号
高倉
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2
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8頁
日本細石刃文化の地理的背景一生業論への視点ー」論集日本原史刊
f論 集 日 本 原 史 J古 川 弘 文 館
多田隆治
r
信濃』第 4
3巻 第 4号
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7・605頁
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頓別平野および宗谷丘陵における細石刃石器群J
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北海道旧石
2
9・3
8頁
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野 見 探 遺 跡 の 先 土 器 時 代 ー コ ア ・ リ ダ ク シ ョ ン と 狩 猟 ・ 採 集 活 動 -J
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松
戸市野見塚遺跡ほかー北絵、開発鉄道文化財調査報告書盟-~財団千葉県文化財センター
2
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谷口康浩
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縄文時代早期撚糸文期における集落の類型と安定性J
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考古学ジャーナ
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埼玉県所沢市砂川先土器時代遺跡一第二
次調査の記録-~所沢市教育委員会
戸沢充員Ij・鶴丸俊明
巻 第 2号
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北海道川東羽田発見の石刃鍛とその遺跡(第二次報告) J
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戸沢充則・鶴丸俊明
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古 学 集 刊 J第 4巻 第 4号
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地 理 科 学 J第 3
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先土器時代遺跡の構造と遺跡群についての予察J
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考 古 学 研 究 J第
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3巻
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先 土 器 時 代 に お け る 『 移 動 Jに つ い て J
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二上山を中心とした石器石材の獲得J
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ヒストリア』第 1
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山口卓也
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柳田俊雄・藤原、妃敏
学』第 2
3号
柳沢和明
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額 戸 内 技 法 と 石 刃 技 法 一 調 整 技 術 の も つ 意 味 一J
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r日石器考古
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江合川流域の!日石器 J東
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額 戸 内 技 法 と そ の 時 代 J中・四国│日石器文化
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縄文時代早期の生業と集団行動j
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北 梅 道 に お け る 地 域 性J
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北歴史資料館
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瀬戸内技法とその時代
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文 学 部 論 叢 J第
1
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住吉 C 遺跡~女満別町・女満別町教育委員会
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岩波講座日本考古学 5
文 化 と 地 域 性 J岩 波 書
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涌坂周一・豊原照苛
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オ タ フ ク 岩 遺 跡 ( 第 I地 点 ・ 第 立 地 点 ・ 1
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縄 紋 時 代 後 期 初 頭 の 集 団 関 係 一 大 阪 湾 南 岸 地 域 の 状 況 ーJ
文 化 博 物 館 研 究 報 告 』 第 3集
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告 J第 2号
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東山遺跡出土の黒曜石製遺物の原材産地分析J
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富良野市郷土舘研究報
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