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Page 1 『人類』の詩人 (西脇順三郎論) 一、死へ ああ 夏がまた来てしま

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Page 1 『人類』の詩人 (西脇順三郎論) 一、死へ ああ 夏がまた来てしま
一、死へ
ああ
﹃人 類﹄ の 詩 人
︵西脇順三郎論︶
夏がまた来てしまつた
もう何もいうことはない
野原の方へ歩きだすだけだ
︵中 略︶
いずれにしても太陽の生殖力のクライマックスの季節だ
アポローンよ・
生物にも植物にも生命を与えてくれたが
不死の神々とちがつて死をなおす
療法もなく老いを防ぐ力もない
生物は苦しむばかりだ
村 田 美 穂 子
一
一
1
︵以下、略︶
人類﹁ヒルガホ﹂
﹃人類﹄とは、昭和五四年に八五歳の西脇順三郎が、自ら最後の詩集と公言して刊行した詩集の表題である。
注1
類﹄をめぐって、当時の新聞はこう伝えている。
﹃人
こんどの詩集には最初﹁人間﹂という表題を考えたそうだが、これだと道徳が入ってきて面白くない、 ﹁人類﹂
ならば、あらゆる人間の生活を描くからよろしい、⋮⋮︵中略︶⋮⋮と詩人は語るのだ。
朝日新聞、昭和54年10月14日
﹁人間﹂でなく、 ﹁人類﹂。詩人はこのふたつのことばをどのように比較し、そして、なぜ後者を選んだのか。道
徳、ということばがこの問いを解く鍵になるだろうか。詩人は自らの詩の世界に道徳や教訓を求めてくれるな、と読
注2
者に忠告さえしていたのだから。だがもうひとつ気になることばがある。生活、ということである。道徳ぬきで生活
を描くことができれば、それが人類の詩集になる、と詩人は考えたのだ。これはむろん無法ということではない。人
人が道徳を考えずに生きられる、より普遍的な、より根源的な次元を描こうとするものである。詩人は生活というこ
とをそんなふうにとらえていた。文字どおり、それは生きることなのである。道徳以前に生物としての人があり、そ
の健全な姿をこそ、と新詩集の刊行にあたり詩人は語ったのであった。しかしそれは生活の世界そのものを描くこと
一2一
ではない。詩人が拓くのは詩の世界であって、詩人の創造力の世界であるはずだ。
ところが、先の引用に目をやれば、冒頭に﹁ああ﹂というためいきがある。 ﹁ああ﹂の用例は後期にかなりの数を
あげることができる。悩みだの苦しみだのをくどくどと述ぺることが全くなかった反面、このようなためいきを憶面
もなくくり返し使用したということは、詩人西脇順三郎を語るために重要な点といえるだろう。
西脇順三郎のためいきは老人のためいきである。というのも、日本語による処女詩集﹃﹀ヨ一︶90H︿簿=βo﹄刊行の昭和
八年にすでに詩入が三九歳であり、それ以降五十年近くも詩を発表し続けたことを思えばむしろ当然といえよう。世
に、詩は青春の文学であるという。しかし、この詩人においてはそのことが必ずしもあてはまるとはいえない。西脇
順三郎は多くの優れた詩人と同様に死を思い、死を考え続けたが、それは病的なかげりのない、健康な凡人の典型的
な姿であった。老いは容赦なく詩人をおとずれ、そして老いは詩人を成長させていった。
第三の神話﹁夏の日﹂部分
老いは肉体の衰えである。頭髪が白く薄くなること、歯が弱り、眼がかすむこと。これらの老化現象を、詩人は実
感としてつづっていった。
にわやなぎの茎に足をとられ
頭髪はすでに管にたえず
くるみをかめる入間はもう来ない
もう無限に来ない
一3一
みようがのくらがりに
眼はかすみくらくなり
失われた時皿部分
人類﹁秋の乾杯﹂部分
詩集﹃第三の神話﹄の刊行が昭和三一年、六三歳の時であるから、西脇順三郎はこの頃から実に延々三十年近くも
老いを語り続けた老年文学の担い手だったわけである。この老人は、しかしその教養の土台をヨーロッパに置いてお
り、古代ギリシ薙♂清朗な世界への憧れを忘れたことがなかった。西脇順三郎はギリシアを愛し、ギリシア語を愛し
た。作品には多くの感嘆詞が用いられ、それらのほとんどは﹁ああ﹂に代表されるためいきであるが、詩集﹃禮記﹄
︵昭和四二年︶を境にギリシア語の感嘆詞︵﹁ポポイ﹂ ﹁オイモイ﹂等︶が急増していったことからも、ギリシアへ
の愛着の念をうかがうことができる。このことは、詩人の憧れのギリシアはためいきのギリシアであったということ
も物語る。というのは、五十年に及んだ日本語の詩業の中で二百回以上も用いられたギリシア語の詩語のうち、ほぼ
半数にあたる約九十例がためいき︵あるいは悲鳴?︶の感嘆詩で占められているからである。
しかし、清朗なるギリシアとためいきのギリシアの間に矛盾はないのか。ないとはいえない。
あれだけギリシャ人は
自然科学にも哲学にも
すばらしく快活な功績をのこしたが
一4一
えらく憂愁な情緒をも
かくすことができなかつた
人生をはかなんでいた
人類﹁モヂズリ﹂部分
だがこの矛盾は、死を前提としない生があり得ないという、生物の持つ宿命的な矛盾である。これを避けることは
できず、これを乗り越えることもできない。清朗なるギリシアは、この矛盾、この事実を、ためいきを以って容認し
たのである。このギリシァの住人を、西脇順三郎は﹁夫﹂と呼ん讐これ,﹂そが天類Lの原型である・そしてこ
の、道徳以前の生活者である﹁土人﹂はギリシアに代表されはしたが、しかし結果として、作品の上では地理的にも
文化的にもギリシアに拘束されることなく詩人の世界を彩り続けた。
死とはあきらめて認めるもの、と詩人も考えたであろうが、それで死への問いが終わるわけもない。また、五十年
の詩業のすべてを懸けて死ばかりを考え続けたわけでもない。死を考える前には生があり、生を思う前には性があっ
たのである。
注5
生、生きるということは、詩人にとっては感じるということであった。哀愁︵ー淋しさ︶を感じることが、詩人の
生きていることであった。﹁存在は淋しい﹂と詩人は作品の中で語り続けだ。それは、﹃︾∋げ碧く⇔ぎ﹄以前からの西
脇詩学の命題である。西脇順三郎は生を愛した詩人である。生は詩人の存在を意味し、また孤独を意味する。
雑草に親しみ、夏の繁茂から秋の衰弱へと生命の循環をたどる土の上の移り変わりに人の一生を重ね合わせて人生
一5一
観から生物観までを語り続けた詩人には、もともと動物的な激しさを見出すことはできない。むしろ、努めて植物に
接近しようとしていたかにみえる。しかし老いに伴う孤独は確実に深まっていく。長寿であったがために多くの友人
6
注7
注
達の計報にふれ、また妻にも先立たれ、植物に代表されたかつての生物観は自分自身を見つめる人間観へと昇華され
ていった。最後の詩集の表題を﹁人間﹂にしようかと考え始めた糸口もこのあたりに見出せるかもしれない。生命は
いとおしく、生命を培う地球はなつかしく、自らの存在はかけがえがない。この傾向は詩集﹃壌歌﹄ ︵昭和四四年︶
人類﹁タンポポ﹂部分
一6一
に始まり、 ﹃人類﹄ に 至 っ て 最 高 と な る 。
人間は何を願うのか
人間でないものになりたい
そこに人間存在の哀愁が光る
生きようとする欲望は無限だ
︵中 略︶
死のないものになりたい
石 ,
スミレ
猿
西脇順三郎は作品に一入称を使用することが極めて少なかった。しかし﹁人間は﹂というとき、そこには詩人自身
も含まれているはずである。
老いて死と向き合い、くり返しめぐり来る夏に﹁ああ﹂とためいきをもらしながら、詩人は生命あるものとして歩
き続ける。西行に憧れた芭蕉のように、西脇順三郎もまた、旅を自らに課した詩人であった。哀愁を感じるために、
存在の淋しさを知るために、西脇順三郎は﹁旅﹂と称する散歩を続ける。しかし芭蕉は旅の自然を享受できたかもし
れないが、西脇順三郎は自然界においては脇役に甘んじなければならなかったのであった。それは詩人の中に常に、
男と女、性の問題があったためである。
性とは、性愛であり生殖である。
若き水鳥の飛立つ
花を求めて実を求めず
だが花は実を求める
実のための花にすぎぬ
旅人かへらず一六五後半
﹁実﹂は花の、生命の目的である。 ﹁花﹂は女である。性を考えるとき、西脇順三郎は常にその中心に女を置いて
いた。男は自然界の中心には決してなれないのである。そして幸か不幸か詩人自身が男であったために、性を思い、
一7一
れんしん
女を思うことがそのまま孤独と恋心の発露となったのであった。しかしそれは徹底した孤独の肯定に止まり、性愛に
よる合体・合歓への志向に発展することはなかった。詩人にとっては孤独は肯定されればよいのであって、解消され
るべきものではなかったのである。西脇順三郎の自然観の基本はこのような性の把握にあったわけで、このことは後
に自らの老いに直面して生や死を考える時期に入っても変わることがなかった。たとえ﹁旅﹂に死んだとしても、そ
れは芭蕉の憧れた理想の死ではなく、詩人にとっては男の必然の姿だったのである。
死が目前の問題となったのは詩集﹃禮記﹄以降であり、ギリシア語の使用が頻繁になる時期と一致する。これを詩
人のギリシア帰りということもできよう。﹃>3σβ昌︻︿拶一一鋤﹄ の前半を彩ったヨーロッパ古典の世界を再び熱烈に求め
るルネサンスである。しかし詩人の魂は、ギリシアを求め続けることでほんとうに安らぐことができたのだろうか。
ヨーロッパだけが世界と信じていればよかったヨーロッパ人とは、西脇順三郎は基本的に異なる立場にあったはずで
はなかったか。
われわれはこの辺では外人であるが
ギリシャ人でも
ユダヤ人でもバビロン人でもない
日本人であると同時に
詩人という一つの人種だ
人類﹁エロス﹂部分
一8一
西脇順三郎は西暦一八九四年生まれであるから古代人ではなく、そして詩人なのであった。だから、過去へ、古代
へ、道徳以前へと憧れ、そこに生きる基本を求めようとすれば、そして教養の土台がヨーロッパにあったのであれば
なおさら、ギリシアが最大の興味の的となるのは当然の結果であったろう。しかし、日本に生まれ日本に育ったこと
もまた、動かし難い事実として考慮に入れなければならないはずである。従って、この詩人の魂の安住のためには、
ギリシアよりも更に古く、更に広い世界が必要ではなかったか。この解決を、詩人は最後の詩集に﹃人類﹄という表
題を掲げることによって図ろうとしたのかもしれないし、また近づいてくる死に対する気がかりのあまり、そのこた
えを保留にしたまま終わったのかもしれない。
二、詩の方法
詩に方法論を導入した袋は・イギリスのT・s°、エリオ・嚇であろう・主知妻と呼ばれる,﹂の流れは・大正末
期に滞英中の西脇順三郎に多大な影響を及ぼした。
西脇順三郎が詩作において目指したことは、﹁何も表現しない﹂、あるいは﹁無を表現する﹂ことであった。そし
注9
てそのための方法を、﹁遠いものの連結﹂とか﹁超現実﹂といったことばで説明することがしばしばであった。更に
具体的な説明として、 ﹁眼の宗教﹂ということも述ぺている。
純粋に眼の宗教を求める。宗教という言葉を使つたが、それは既存の宗教の観念と異なるものであり、また何等
一9一
の関係のないことである。ただ説明が出来ないからである。
︵中 略︶
ただ色彩の世界、形像の世界、明暗の世界に生きているのである。
ることである。
その人生的な無条件の中に詩の世界を創作す
梨の女﹁詩と眼の世界﹂より
このような詩作態度であったから、読者としては詩の世界に追体験を求めることを拒まれ、また人生訓のひとかけ
らを期待することもできないことになる。西脇順三郎が学匠詩人などと呼ばれた所以である。しかしそれは、西脇順
三郎が﹁日本のエリオット﹂であったということではない。一般に詩という文学に求められている好情が、西脇順三
郎の場合には詩作の目的ではなく結果であったためなのである。性から生へ、そして死へと興味の対象こそ変われ、
生きるということを考え続けた詩人の姿が健全で積極的であったことは、五十年、二万行を越えた日本語の詩業から
だけでなく、多くのエッセイや論文からも明らかなことである。詩人というものはいかなる主義、いかなる集団から
その上に無頓着乃至冷淡な態度の笑を求める。
も自由であり得ること、詩は青春の文学のみに留まるものではないことを、西脇順三郎はその生涯を懸けて実践して
いたのである。
涙とか憂欝の中からとび出て、
剃刀と林檎﹁文学の出oぽ鱒o詳﹂2より
一10一
﹁涙﹂とか﹁憂欝﹂というのは、人が生きる上でのいわば現実であり、多くの詩人はこれらと四つに組むことで詩
の世界を築こうとした。そうして築かれた詩の世界には、読者は代弁者を求めようとすれば入りこむことができる。
しかし西脇順三郎の作品は、まずこれを拒否する。コ涙﹂とか﹁憂欝﹂は、もう改めてとりあげようとはしないの
だ。
例へば、いまこΣに憂欝の世界があるとする。その世界の価値を否定したり、攻撃したり、排斥したりすること
でなく、単にその世界からはなれて、その世界を冷淡に取扱ふことである。その時はその憂欝の世界に対して作者
はほがらかさ︵ハイタカイト︶をつくることが出来る。その場合のほがらかさといふことはその憂欝の世界自身が
ほがらかになるのでなく、その取扱ひの態度がほがらかであるといふ意味である。
剃刀と林檎﹁文学の国oぽ築①詳﹂2より
西脇順三郎は嫌⋮ったの
ただ取り扱うだけでいい、と詩人はいう。 コ涙Lや﹁憂欝﹂をきめ細かく描こうとすれば、 まず読者の同情を期待
しなければならない。同情は読者の共感をよぶための最高の方法だからである。このことを、
であった。
人間を進歩させるのは涙でなく、笑であると思ふ。
剃刀と林檎﹁文学の出①凶富昆o騨﹂ −より
一11一
﹁進歩﹂などと、ずいぶん晴れがましいことばであるが、西脇順三郎の詩にとりくむ健全さがはからずも表われた
ものともいえる。この肯定的な態度は、コ涙﹂を﹁不透明﹂、﹁弱々しい﹂ととらえ、﹁笑﹂を﹁活気﹂、﹁光線﹂
注10
ととらえる。しかし、それは﹁涙﹂や﹁憂欝﹂の否定にはならない。西脇順三郎は決して否定をせず、攻撃をせず、
排斥をしない。 ﹁涙﹂も﹁憂欝﹂も現実なのだから、それはそれとして肯定、容認しかないのである。ただ詩人とし
て、西脇順三郎はその現実から﹁とび出﹂ることを選んだのであった。
詩人は、﹁涙﹂や﹁憂欝﹂の現実そのものを明るいものに変えようなどという大胆な企てを試みたのではなかっ
た。ただ、それらの現実を﹁取扱ふ﹂態度の﹁ほがらかさ﹂を求めていただけである。取り扱う態度くらいはほがら
かでなければ、 ﹁不透明﹂で﹁弱々しい﹂現実はいよいよその度合いを増して止まることがないだろう。それでは西
脇順三郎の詩の世界は成り立たないのである。同情はいらない。ただ読みさえすればよい。それが西脇順三郎の詩の
世界である。そして、詩人の仔情が詩作の目的でなく結果であったように、読者にとっても詩人への共感は詩を読む
目的でなく結果であればよいのであろう。
西脇順三郎が﹁無﹂ということを語り続けたのは、﹁無﹂を意識しなければ詩はないと考えたためであった。この
ことは、とりもなおさず﹁無﹂の肯定である。 ﹁無﹂は存在との対照のみによって語ることができる。 ﹁無﹂はほろ
びず、西脇順三郎の詩の世界では﹁無﹂は﹁永遠﹂とも﹁神﹂とも共通性のあるものである。初め、詩人は日常的な
関係を破壊することによって意外性のおかしさを喚起し、その背後に﹁無しを感じることで詩が成立するという詩論
注2
を詩作の柱としていた。たとえば、
一12一
少年は小川でドルフィンを捉へて笑つた。
﹀ヨσ碧く9。一冨﹁太陽﹂最終行
﹁ドルフィン﹂ ︵イルカ︶という、小川には棲まない動物を少年が捉えるという意外性である。しかしここに抽象
的なものはひとつもない。﹁小川﹂と﹁ドルフィン﹂、﹁少年﹂の関係が意外なだけである。つまり西脇順三郎の詩
の素材は具体的な﹁もの﹂だけなのであり、それらの﹁もの﹂を凝視するだけが西脇詩学の基本なのであった。いわ
く、﹁眼の宗教﹂である。何も否定せず、攻撃せず、排斥せず、ただ見つめていれば、日常の意外性は発見でき、ま
た創造できるのである。この詩学を西脇順三郎は生涯貫いたが、詩人の四十歳代を被いつくした第二次世界大戦と五
一歳で迎えた終戦は詩人の詩作にも大きな影響を与え、植物、特に野の雑草への興味と共に、生命ある存在について
の思いが急速に強まっていった。詩集﹃旅入かへらず﹄はこの頃の作品で、ヨーロッパ色に彩られた﹃︾ヨげ霞く①臨畠
にはみられなかった﹁土﹂と雑草、そして生命ある存在としての自己への認識が行なわれる。しかし、﹁淋しさ﹂
﹁淋しき﹂を連発した﹃旅人かへらず﹄でありながら、なぜ淋しいか、どのように淋しいか、という記述は一切な
く、ただ、詩人が凝視した世界の羅列と﹁淋しさ﹂﹁淋しき﹂という結びのくり返しだけが淡々と一六八連続いてい
くのであった。
楢の木の青いどんぐりの淋しさ
旅人かへらず 五六
一13一
枯木の中にさまよふ時
ふれる苔の思ひ
淋しき
同 右 一五五後半
といった具合である。これ以上は必要ない。これ以上コ涙﹂や﹁憂欝﹂の現実について語ってしまったら、自らへ
の同情の念が深まる分だけその態度から﹁ほがらかさ﹂が失われていく。その結果、詩の世界は成立しなくなるから
である。
この﹁ほがらかさ﹂を守ることが西脇順三郎の詩の方法の基本であったことは、その後の一貫した詩学と共に変わ
らず、また詩人自身の生き方であったともいえよう。生きている、生命ある存在であるということは、﹁無﹂や﹁永
遠﹂からみればほとんどとるに足りない現象ではあるが、それだけにまた、 ﹁ほがらかさ﹂を持ち得ると詩人は考え
ていたのであろう。
からたちの青黒い果が
やぶがらしやへくそかずらの中から
素直な生命をあどけなくつき出す
すぺてー
一14一
のつぺらぽうの生命の茎。
︵中 略︶
人間が女と男に分裂したことはかなしい
だが﹁われあり﹂とは永劫の流れを濁らせる
︵中 略︶
こののつぺらぼうの生命のよろこびを
秋の夜を抱こうとする女のよろこび
こそ最大な生命の祭祀だ。
だが永劫はくもるのだ
こおろぎの鳴く夜に
よる
めをさます時は。
近代の寓話﹁夏から秋へ﹂後半
右の引用中に二回使用されている接続詞﹁だが﹂は、﹁永劫﹂の前での生命ある存在のわずかな主張を語ろうとし
ている。詩人は﹁生命の祭祀﹂の主役としての﹁女﹂を思う。 ﹁素直な﹂、﹁あどけない﹂生命を﹁よろこび﹂とし
てとらえる﹁女﹂というものを、詩人は果てしなく求め続けたのであった。西脇順三郎の作品には具体的な恋愛を語
ったものはひとつもないが、自然界における﹁男﹂と﹁女﹂という観点では、このようにして常に﹁女﹂を思い続け
一15一
たのである。詩人が恋愛詩を残さなかったのは、 ﹃︾日げ9﹁︿9一一9ρ﹄ の発表がすでに三九歳の時であったことも理由の
ひとつとしてあげられよう。しかし﹁眼の宗教﹂を信奉する詩人としては、具体的な恋愛を語ることは﹁涙﹂や﹁憂
欝﹂への同情としてこれを退けることが正当だったのである。恋愛を軽視していたわけではない。
こうして、仔情を目的としない客観の詩学は恋愛詩の一編すら残さなかったが、詩人の﹁男﹂としての自己認識は
戦後の作品に色濃い。﹁生命の祭祀﹂の主役になり得ない﹁男﹂、自然界の中心に落ちつくことのできない﹁男﹂で
あった詩人は、その立場ゆえに孤独であり、生命をいとおしむ思いもやがては自己にのみ向けられていくのである。
子を生み、育てる﹁女﹂ではないゆえであった。そしてあくまでも客観の態度を守り続けた詩人は、同時に生命ある
存在だったのであり、その詩人には、肉体の老いとやがて来たるぺき死に直面していよいよ確固たる詩の世界を拓く
こと以外に残されていなかった。
昭和三八年の﹃西脇順三郎全詩集﹄刊行の時詩人は六九歳であり、これ以降の作品が西脇順三郎の拓いた広大な世
界の全貌を示している。昭和四二年、七三歳の﹃禮記﹄、同四四年、七五歳の﹃壌歌﹄、翌四五年、七六歳の﹃鹿
門﹄、そして昭和五四年、八五歳の最後の詩集﹃人類﹄。これら四つの詩集からは、詩人がいかに死と向き合い、生
を愛したかをうかがうことができる。 ﹁涙﹂や﹁憂欝﹂が人が生きるうえで避けられない現実であるのは、確実に死
を迎える運命を知っているからである。そのことを身をもって知るためには詩人には老いが必要であり、この時期に
はすでに充分な年齢に達していたのであった。こうして拓かれた老詩入の世界は、 コ涙﹂や﹁憂欝﹂の現実、生と死
の現実を思うすぺての人々の共通項そのものが土台となる。初期の作品にみられたような日常の関係の破壊という方
法にこだわらなくてもよいほどに、生命ある自分自身のことが気がかりとなったためであろう。ためいきの増加もこ
一16一
のことに起因している。こうして、西脇順三郎は個性というものをはるかに越えた詩の世界を拓いた。拝情を目的と
しない詩学は、初めは読者に目をみはらせ、またつき離すことをもしたかもしれないが、最後には人類全体を包みこ
んでしまう結果を生んだのであった。
ても生きていたい
生きていなければ
哀愁が感じられない
人類﹁ドングリ﹂部分
この思いはひとり詩人の思いではなく、その詩集の表題のとおり、あまねく﹁人類﹂のものなのである。
むすび・詩集﹃人類﹄
ギリシア語に彩られた詩集﹃人類﹄は、同時にためいきの詩集でもあった。生命ある存在としての孤独は安らぎの
場所を求めさせ、詩人の﹁旅﹂は終わることがなかった。季節のめぐりはくり返し、 ﹁また﹂夏がくる。 ﹁また﹂元
旦が来る。
一17一
ああまた
野原をめぐり
ヤマゴポ!も
ヤブガラシも
へびとともに
どこかへ行つてしまつた
ただ人間は
雲のように水仙の路を
たどつて行く
︵以下、略︶
人類﹁元旦﹂
本稿冒頭の引用と合わせて見れば、副詞﹁また﹂に詩人の時間の経過への思いが表われていることがわかる。幼少
注11
時に生家の習慣で元旦に天神を祭って祝った記憶は、一年の起点を元旦に置くことを詩人に植えつけていた。それは
年のめぐりの起点であり、地球という天体のめぐりの起点であった。 ﹁また﹂ひとめぐりしてしまった、という思い
である。年齢を重ねるごとに、この思いには深いものがあったであろう。そして夏は、生い茂る雑草の﹁生殖力のク
ライマックスの季節﹂である。年毎に詩人は老いていくが、くり返しめぐる夏は変わらずに生命の季節であった。し
一18一
かしそれも秋には衰えていく。夏と秋は、
神々は苦しまないが人間は
苦しみに生きるだけだ
そして神々はその苦しみを人間に
与えてそれを人間のしるしとした
注13
注12
詩人が最も多く詩行に残した季節であった。
人類﹁ケヤキノキ﹂部分
これも夏の作品である。﹁苦しみ﹂は﹁涙﹂や﹁憂欝﹂といった漠然としたものを当然含んでいるであろうが、こ
の場合には、具体的に老いを指していると思われる。 コ涙﹂も﹁憂欝﹂も、その前提には死の予感があるからであ
る。そして、死に至るまでには老いがある。 ﹁神々﹂には死がないから﹁苦しみ﹂もない。﹁苦しみ﹂の有無は﹁人
間﹂と﹁神々﹂とを分ける﹁しるし﹂なのだと詩人はいう。そして、詩の世界を求める原動力がここにあるのだとい
えよう。ここにもギリシアは色濃い。
詩人は、老いという現実の前でしきりにためいきをつく。しかし、老いの現実が苦しいだけ、詩人の魂は解放され
ていったのではなかったか。ギリシアへの憧れは強まっていったが、それは古代人への憧れとしてギリシアよりも更
に湖り、客観の詩学は老いた眼を通すことで、見る主体の自己への思いを確認することとなったからである。
西脇順三郎の五十年に及ぶ詩人生命を支えた客観の詩学は、仔情を目的としなかったがためにともすると難解とい
一19一
われてきた。しかし、その一貫した詩人の姿勢が残した二万行を越える詩行は、詩集﹃人類﹄に至って生きることの
苦しみと安らぎを語る人類普遍のテーマに触れ続けていたことを知るのである。そこから学ぶものは何もない。た
だ、西脇順三郎という詩人がいて、その詩人は人類の共通項を信じ、その共通項を生きていたのだということだけは
記憶されてもよいであろう。
いかなる集団からもいかなる主義からも自由であった詩人は、詩集﹃人類﹄に至って自らの憧れや詩学からもはる
かに解放され、人類を語る人類の詩入となっていたのである。
一20一
注1 ﹃人類﹄は予言どおり最後の詩集となった。西脇順三郎は一八九四年︵明治二七年︶生まれで、一九八二年︵昭和五七年︶
没。享年八八歳。
注2 西脇順三郎の詩や詩作に対する考え、態度については﹃超現実主義詩論﹄をはじめとする論集、 エッセイ集に︸貫してくり
返し語られている。
以下、﹁ギリシア﹂はすぺて古代ギリシアの意。
でもすぺては古代の土人に戻ることだ 嘘紀﹁天国の夏︵ミズーリ人のために︶﹂部分
﹁田楽﹂、 ﹁田園の憂欝︵哀歌︶﹂ ︵ともに﹃禮記﹄所収︶等は追悼詩である。
拙稿﹁西脇順三郎﹂ ︵国文学解釈と鑑賞、昭和59年4月号所収︶参照。
5 4 3
6
注 注 注
注
を確立した。アメリカ生まれで、後にイギリスに帰化。
↓げoヨ9■ωω8p。ヨω邑凶9︵一八八八∼一九六五︶。一九二二年に﹁荒地﹂ 蛯ー① ぞく国もoけO︼U鋤コα︶を発表し、詩入としての地位
注7 昭和五十年、夫 人 逝 去 。 当 時 、 詩 人 は 八 一 歳 。
注8
︵本文直前の引用の続き︶ ﹁特にサティラの笑は透明な光線であって、ぐずぐずしてゐる人間の頭を刺す。少し活気のある
注9 ﹁脳髄の日記﹂ W ︵ ﹃ 剃 刀 と 林 檎 ﹄ 所 収 ︶ 参 照 。
注10
になつて弱々しいものとなる。﹂
人間はその光線をつたつて頭を延長させて魂の進歩をはかる。 クソ真面目の感傷的な涙の中では人間の魂は退歩して不透明
注1ー エッセイ﹁美しい季節﹂ ︵﹃じゅんさいとすずき﹄所収︶参照。
注12 詩集中の単語の用例数は、 ﹁春﹂七八例、 ﹁夏﹂一九七例、 ﹁秋﹂一五四例、 ﹁冬﹂三一例。
注B ﹁ケヤキノキ﹂冒頭の一八行参照。
定本西脇順三郎全詩集︵筑摩書房、昭和五六年︶
底 本
西脇順三郎全集︵筑摩書房、昭和四六∼四八年︶
一21一
(一
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